※非科学的なお話です。2009~2010年にだいぶリメイクした記事です。
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カタルシス:精神的なしこりを破壊したがっている心の持ち主が、その代償行為によって得られる満足
◆ジュセリーノの予言とカタルシス
「ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルース」というブラジル人の男性がいる。普段は高校で語学の先生をしているが、「予言者」もやっている。なんでも、9歳の頃から身の回りのことに関する予知夢(未来の出来事を暗示する夢)を見るようになり、それがまたよく当たっていたのだそうだ(当たったとされる予言はこちら)。現在は予知夢を通して世界中の出来事を予言しており、予言の内容は公文書に記録しているらしい。夢のお告げに従って、各国の政治家に予言の内容を記した手紙を送ることもあるそうだ。ノーベル賞を受賞した元米国副大統領のアル・ゴア氏にも、何年も前に手紙を送ったことがあるという(本人談)。そんな彼は今、ブラジルのみならず日本でも話題になっていて、たま出版から彼の「予言」をまとめた本も出た。日本のテレビでも取り上げられた。
彼が予言する出来事で印象的なのは、世界中で巻き起こるらしい終末的な自然災害だ。特に、大地震の予言が注目されている。他には事故や犯罪、そして「人類滅亡」についての予言もあり、これまた人々の注目を引いている。その様子は20世紀に流行った終末予言系のパターンやその焼き直しのマヤの予言、アセンションといったものと似ている気がする。
注目される彼の予言に大地震の予言がある、ということは、大地震の夢を見ている、ということ。夢の世界では、地震は精神的な動揺とか、現状に対する不満や現状を変えたい(破壊したい)気持ちの象徴だったりする。大地震によって立派で頑丈な多くのビルが基礎から破壊され跡形も無く瓦礫と化す夢やイメージは、壊れゆくビルに鬱屈(と、その原因)を投影出来ていかにもカタルシスの方法になりそうだ。そして、「集合無意識を覗き込む夢」ともいわれている予知夢で大地震の夢を見るということは、集合無意識規模で多くの人々が大地震のイメージを思い浮かべており、大地震のイメージを使ったカタルシス欲求を持っているのは夢を見た本人だけではないということだ。彼の夢(予言)に興味を持った多くの人々も同じく「大地震カタルシス」の欲求があるのかもしれない。大地震の予言が特に注目される理由は、日本が地震国だという理由だけだろうか?
世紀末を過ぎても予言が話題になるということは、「予言ビジネス」が儲かるということは、それだけまだ「予言」というカタルシス方法に需要があるということか。
特に、「人生に不満や鬱屈を抱えているけれど、その正体が具体的に何なのかハッキリ自覚できない」という条件下では、自分の顕在意識(我々の普段の意識)が鬱屈を解決する具体的手段を思いつけない。鬱屈を自力では解決できない行き詰った状態だと、「自分以外の力」に解決してもらわなくてはならない。よって「鬱屈破壊」の代償行為に使うイメージが人知を超えた神秘的なもの・謎めいたものになることも多いのではないか。何か人知を超えた不思議な大きい力が自分でも正体が分からずに壊せない鬱屈や行き詰まりを壊してはくれまいか(自分の現状を変えてくれまいか)と期待する心理が生まれそう・・・
鬱屈の正体がわからず、鬱屈破壊の手段もわからず、いつまでも自力の鬱屈破壊ができない。それで仕方なくいつまでも代償行為を求める。仕方なく。自分に出来るのはそれだけ・・・
終末予言にワクワクする心の裏では密かに思う。
「いつまでこんなことやってなきゃいけないんだろう?」
そして心の裏では密かに思う。
「・・・いっそ何か不思議な力が鬱屈をドンと破壊してくれないかな・・・」
21世紀初頭。そんな心理を抱えた人は一体どれだけいるんだろう?
今までの終末ブームで多くの人は鬱屈破壊の漠然とした代償体験はできたものの、ぼんやりとした代償体験(にせの体験)では不完全燃焼だったらしい。
そのせいで、ある予言でスッキリできなければ、別の予言を「はしご」する。だから終末ブームは終わらない。本当に望んでいるのは自分の奥深くの鬱屈が解決することであって、破壊的な予言が当たることじゃないと彼らが気付くまで。その日が来るまでメディアはカタルシスに使えそうな予言をセンセーショナルに盛り上げる。本も売れる。世紀末をとうに過ぎたとしても。
結局、カタルシス(代償行為による満足)なんかじゃダメなのだ。本当に壊したいものが壊れねば(本当に解決したいものが解決せねば)心の底からスッキリ出来ない。代償行為で「壊した気になって満足」なんかできなかったのだ。(それに気づけなかったオウムは教義での脳内疑似カタルシスに満足できず、とうとう暴走してハルマゲドンになぞらえたテロという大掛かりな形で終末系セルフカタルシスをやってしまった?)
前回も書いたが、人は心の中で何かを強く望むと、意識的にだろうが無意識的にだろうが、実際にそれを現実化させる(又はリアリティーを持たせる)傾向にある。人の運勢も同じ。心(無意識を含む)に強く思うものがあると、それが行動パターンや運勢(現実)に反映されると言われている。例えば「、鬱屈から己を解放する」という望みを強く願うなら、その願いを叶える力はやがて当事者の運勢に何らかの形で作用し、またもしも多くの人がカタルシスのために終末的な現象の実現を強く求めてしまえば、何らかの形で世界にそういう運勢が表面化することもありうる。
さて、予言(カタルシス)をはしごする人々は自分たちが心底強く望んでるのが鬱屈破壊の代償行為(カタルシス)なのか、それとも本当の鬱屈解決(=本当の鬱屈破壊)なのか。彼らは自分が真実どちらを望んでいるのかしっかり気づいているだろうか?
もしも予言に鬱屈解決の代償行為を求めていた人々が、実際の鬱屈解決の方を強く望むようになれば、もはやカタルシスのために予言を求める必要がなくなる。よって、予言が当たる必要も無くなる。やがて予言は当たらなくなるだろう。
また、もしも本当に予言的中を怖がっている人がいたら。その人は予言に自己の内なる不安感を投影している可能性が高い。予言が怖いのではなく、抑圧された内側の不安感を恐れている感じ。本当に恐れているものは何か、抑圧された不安感の正体は何か。それが分かれば何も怖くなくなりそう。
人の運勢は、人間ひとりひとりの顕在意識を超えた無意識領域から発する。だから、「運は自分で作る」とも言う。もしも予言を信じることに鬱屈破壊の代償行為(カタルシス)を求めているのであれば、それよりむしろ鬱屈解決を直接強く望んだ方がいいかもしれない。長い鬱屈およびそれを引き起こしている原因は、健康的な精神活動・生命活動を妨げる。健康な生命活動に関わる望みは無意識領域が強く反応するので、代償行為ではなく直接鬱屈解決の望みを自覚・意識すれば運勢に反映されて実現しやすい。人の無意識領域にはそういう生命力がある。
その力は、我々の普段の意識(顕在意識)から見れば、確かに「人知を超えた不思議な大きい力」に見える。その力が己や人生を変える働きをする様子は、予言が当たるのと同じくらい神秘的で、信じられないほど画期的な驚異のドラマに見えるだろう。
(だから神秘的な終末予言にその神秘なる力が働く願望を知らず知らずのうちに投影・同一視した結果終末願望が生まれるのは無理もない)
そして、その力は、いまだ謎に包まれた一人一人の広大な無意識領域からやって来る。自分でもよく分からない深遠なる無意識領域の中には神の力を秘めたかのような部分があるのかもしれない。
人は願いを叶えてもらおうと神に祈る時、己の深層に潜む自らの不思議な願望実現力を神に投影しているのかもしれない。願いを叶えるには、自分の願望を正確に知ること、なぜそのような願いを抱いたのかを自覚する事がコツだ。
結局、鬱屈解決の鍵は、自我の能力とは異なる無意識領域からの力(生命力)だといえるだろう。「自力では解決できない鬱屈」ということは、その鬱屈を解決するのに必要な力や手段が自我(顕在意識)の領域ではなく、普段意識することがない無意識領域に属するものだということだ。人間の持つ「自力」という概念は顕在意識の能力範囲にほぼ限定されている。要するにほぼ物理的な力だけだ。
この無意識領域の力を無視して顕在意識の力(物理的な方法)だけで無理やり鬱屈を解決させようとしてしまうと、苦し紛れにカタルシス(代償行為)を繰り返すことで己を騙すことくらいしかできないわけだ。先に書いた「自分に出来るのはそれだけ・・・」となる。
そして忘れてはいけないのは、破壊と再生は表裏一体で、鬱屈解決(=鬱屈破壊)は最終目標ではないということ。
破壊はスタートのための準備や手段。破壊されてはじめて新たなスタートが始まる。新たなスタートの邪魔をする鬱屈や古いものは一掃されてしまう。その一掃する役目を持った破壊は「始まりのための終わり」だ。始まりのための準備でしかない。
人々が終末系予言に投影する本当の願望は、「自我を超えた力が自分と生き方を変革・進歩させること」。終末願望に投影された「破壊したいもの」は、「進歩・変革できずに行き詰った自分とその生き方&そんな生き方の根底にある根本原因(=基礎から崩壊する予定のビル)」
ユング心理学の概念を借りると、行き詰りを基礎(原因)ごと壊して進歩・変革をもたらす力は一人一人の自我(顕在意識)の次元を超えた広大な無意識領域の中心に住んでいる「自己(セルフ)」と呼ばれる「おおもとの自分」の領域から来るかもしれない。「このおおもとの自分」と自我がつながって上手に連携が取れたとき、運勢が非常に良く機能する状態(=開運)になるようだ。分からなかった自分の鬱屈の正体が分かったり、手の打ちようがなかった閉塞感の打開や鬱屈浄化が実現する運勢を作ることも出来るのかもしれない。ユング心理学で「自己(セルフ)」と名付けられた「おおもとの自分」も「自我」も、同一人物、同一の生命体だ(ただし自我とセルフの役割を混同してはいけない。いわば脳と指みたいなもの)。その生命体は予想以上に深遠で広大なようだが、我々の顕在意識は外界の物事にあくせくすることで手一杯でそんなことには見向きもしない。自分で自分本来の姿を無視(抑圧)してしまえば、確かに鬱屈が生まれやすいだろう。
鬱屈解決(=鬱屈破壊)が投影された終末予言。ならば、イメージしてみよう。
予言が的中して世界が激変した未来は、どうなっていて欲しい? それは、なぜ?
その世界で、自分はどんな人生を生き、どんな人間になっているだろう?
そのイメージの中には、鬱屈が解決されて新たなスタートを切った自分のカギが隠されている。
そのカギが、終末願望に投影された本当の願望を象徴してるのかもしれない。
時には自分が予言に投影した「己の真に望む生き方」に気付きさえすれば、今この瞬間からそれを実行できるかもしれない。もはや、ハシゴした予言の的中を待つまでもない。
未曾有の刺激
終末予言の終末
※あとがき
「カタルシス願望」につながる無意識の鬱屈や閉塞感などは、以前に書いた記事の「生命力を代替する文明」と「自分の生命力が分からない・うまく引き出せない・使い道がわからない」といったこととも関係あるまいか?
終末ブーム時代に流行った漫画が、「水没するビル街(文明破壊のイメージ。水は無意識の象徴)」という絵柄を採用してるのが多いようなので、ふとそう思った。
カタストロフィを起こす終末予言のイメージだと、滅びるのは大概文明世界だけで、自然界は滅ばないようだ。
「草食化」という本能?
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