結婚

2024年11月 3日 (日)

情熱の矛先

不倫には「完璧な恋愛」を求めたいから…婚外恋愛を経験した女性たちが別れを決意した瞬間

「完璧な人に出会い、完璧な関係を築いていると思っていました。お互いに結婚していることだけは悲しかったけど、それもこの愛が試されているんだ、こういう状況でも私たちは愛を貫けるかどうかが重要なんだと思い込んでいた」

アユミさん(40歳)はそう言う。29歳のとき結婚し、31歳で長女を出産。ところが2年後に仕事で知り合った5歳年上の男性と恋に落ちた。出会った瞬間、お互いに体中がしびれるほど惹かれ合ったのだという。だがふたりとも立場がある。自らの恋心に負けて、互いに相手に心身を委ねたのは半年後だった。

ところが3年経ったある日、なぜか突然、「別れよう」と思った。

「わかっちゃったんですよ。お互いに完璧な愛情を保ち続けるのがつらくなっていることが。以前のような情熱の高まりは冷めてきているし、彼を崇拝するような気持ちもなくなっていた。勝手に崇拝していただけですが、彼も人間だから欠点もある。他の人の欠点は許せても、“完璧な恋人”の欠点は許せなかった。だからもういいかな、と。

占い師をやっていると、当然ながら「完璧な人・理想通りの人」との出会いについての相談を受けることがいくらでもある。時には不倫、時にはお見合い、最近はマチアプ前提でのそんな相談も増えた。
恋愛って、自分が心のどこかで抱えている願望や可能性を相手に投影して好きになることが多いので、自分が相手にどんな願望や可能性を投影しているのかに気付くことがとても重要になってくる。
投影するその願望が相手とは全く無関係な願望だったり、相手ではなく自分自身こそが持ちうる可能性(自分の隠れた個性や可能性の実現など)だったり、ごく個人的な(時にコンプレックス由来の)願望だったりした場合は相手への情熱がすぐに冷めやすい。本当に好きなのは相手ではなく、願望の方だからだ。
いわば相手に対する情熱は、相手に投影した願望への情熱だったりする。相手を手に入れたいというより、願望を手に入れたい感じ。
「相手に対する情熱がとても強いのは、相手に投影した願望への情熱がとても強いから」とタロットカードが示した場合も多い。
願望の実現・・・そりゃあ魅力的に見えないわけがない。

で、その願望がそもそも相手とは全く無関係な願望だった場合、自分が情熱を寄せて恋焦がれているのは相手ではなく、相手の様子から無意識に連想した自分の個人的な願望だ。それが混同されて相手と同一視しているだけに過ぎない。
とくに、自分の願望を余すことなく象徴的に体現するような特徴を備えている(ように見える)人物=自分の願望を強く連想させる人物は、「完璧な人・理想通りの人」に見られやすい。錯覚されやすい。
いわばお相手は、自分の心が抱く願望に気付かせてくれたキーパーソンでもある。その場合、「役目が終われば縁も切れる」という運勢になることも多い。肝心なのはお相手との交際ではなく心に抱く願望の自覚や実現の方だったりすることも多いからだ。
あるいは、しばらく不倫相手と交際していたがアユミさんのように「自分の願望を強く連想させる条件からズレた動きや特徴」が相手から見えてきた結果、「幻滅」という形で情熱が冷めるケースも多い。錯覚が修正されたのだろう。
いつの間にか自分の願望が実現していたり自覚できたりしたことをきっかけに相手への情熱が急速に冷めることもある。
願望の自覚や実現により、もはや自分個人の願望を相手に投影・同一視し続ける必要が無くなったからだ。
不倫でお悩みの場合は、まず自分と向き合い己の願望に気付く努力をすることが先決だ(その願望をどう叶えればいいかを占った方が人生が開運しやすいケースもある)。願望を知るヒントは、自分がお相手に感じる魅力や期待の特徴。場合によっては、過去の恋と似てたりする。
そして、相手が自分の抱える無意識の願望に気付くキーパーソンになってくれたことに感謝しつつスッキリお別れするのが一番無難ではあると思う(そう簡単にはいかないケースも多いが)。

よく「理想の恋人像」を空想し脳内でオリジナルキャラ化して遊ぶ方は多いが、そのキャラはユング心理学で言う所の「アニムス(男性)」や「アニマ(女性)」に近い。そのキャラの特徴もまた、自分の心が抱える願望を余すことなく象徴的に表している。
例えば、無意識的にでも寂しさや愛情不足や自己否定感を感じて生きてきた人のアニマやアニムスは、「多くの仲間や味方や支持者や理解者を得ている(得ていく)」という設定になりやすい。勇者やアイドル、転校生設定になることもある。あるいは、「迫害を受けた経験がある」「不幸な過去がある」なんて設定になるケースもあるかもしれない。
そして、自分の願望を象徴的に体現した空想上のキャラを強く連想させうる誰かに出会った場合、その人が「完璧な人・理想通りの人」になることもある。

次に、相手に投影した願望が相手とは全く無関係なものではなかった場合。
その願望が、相手と楽しい時間を共有し、相手との交流や協力関係・共同作業などによってこそ実現しうるもの、お互いの経験や個性を(互いが喜べる形で)生かし合う事でこそ実現しうるものであったりすると、相手に対する好意や情熱、相手への魅力や関心は長続きしやすいかもしれない。
そして、自分だけではなく、相手も自分に対して同じような願望を持っていた場合、両想いが判明して交際が実現すると長いお付き合いになることがある。お互いに、相手と願望が無関係ではないからだ。願望と情熱の矛先が示す方向は、一致している。
お互いが個性を生かし合ったり協力し合ったりすることで得られた経験が互いの個性を成長・発達させるので、今度は互いに成長・発達した個性を生かし合ってこそ実現できる喜びがあったりすると、飽きずにお付き合いが続けやすい。互いに相手の成長・発達が良い刺激になって自分もさらに成長・発達できる発展的な関係だ。各々が相手ばかりを見ずに自分自身と向き合い内省する習慣をつけられればなおいい。
そういうのは年齢や性別に関係なく、結婚に向いた関係にもなりやすそうだ。

2020年11月 3日 (火)

幸福観の貧困は幸福の手段も可能性も貧困にする?

「子どもがいたら楽しいのにね」、悪気ない言葉にモヤモヤ 不妊治療マンガ作者語る“普通”への違和感

――治療を受けた日々を振り返って、今、率直にどんなお気持ちですか?

【海原さん】後悔はまったくないとは言えません。不妊でよかったともぜんぜん思えません。世間体を気にしていなかったといえば嘘になるし、夫とだったら楽しく子育てができるんじゃないかと思って治療を受けてきましたから。あと、正直、もう少し早い段階から出産を意識して行動していたら結果は違ったのかなという心残りもあります。でも、もう言っても仕方がないことですし、子育てしない分、自分の時間をいっぱいもらったので、今の生活をとにかく楽しくしようと思うようになりました。

「結婚して子供がいる家庭作るのが人間の普遍的幸せ(そこにしか最高の喜びも幸せも存在しない)」みたいな一元化された狭いマニュアル志向やプロパガンダが不妊治療をする人を苦しめたり子供のいない人を苦しめたり人類の視野と可能性を狭めているのかもしれない。時には、その人が本当に望んでいる幸せと人生を視野の外に追いやって自覚出来なくさせているかもしれない。
20世紀中盤以降、人類は文明の力で今までになく人口を増やし死亡率を低下させ平均寿命を上げていった。人類は十分に増えたというか、増え過ぎた。だから死亡率の低い先進国を中心に出生率や繁殖本能が下がるのは自然の摂理だ。種族の視点に立てば、人口が少なくて死亡率が高かった頃のようには「繁殖本能や母性本能が出力MAXで発動する条件」がそろわなくなったんだから。それは、悲しい出来事が減ったことを意味するし、人類という種族が生存と繁殖以外の方向にも自らの可能性を広く模索し始めた(余裕が生まれてそれができるようになった)事を意味する現象でもあると思う。これは、人類史始まって以来のことだと思う。種族が今までは手が届かなかった広い可能性に、新たな自己発見に目覚め始めている・・・いいことじゃないか? 新しい進化の気配がする。

だから草食化やおひとり様増加という現象は異常事態じゃないし人類の危機でもないと思う。単に大量生産、大量消費、大量雇用に依存した産業革命由来の現代文明を維持するには人口減少が大変不都合だから必死に異常扱いしているだけで、生き物として見ればむしろ死亡率の低い国で発生する草食化・少子化はごく自然で正常な反応なんじゃないかと思う。むしろ無条件に草食化・少子化を不都合とし異常だと思わせる産業革命由来の現代文明こそが不自然なのかもしれない。
実際、現代の文明は自然破壊・環境破壊が甚大だし、食料の問題もある。それもあって死亡率が下がった現状でむやみに増えると自分達の首を絞めるから本能が増えたがらないのかもしれない。
子供を作ることが生殖能力を持つ人間としての社会的責任であるかのように錯覚させたり、子供を作らない/望まないことや子供を好まないことは利己的で人間性に欠陥があるとか幸せになれないとか異常であるかのように錯覚させる風潮は、裏側から見ると「労働者と消費者は産業文明(あるいは国力)を発展・維持させるための家畜や資源として大いに繁殖させておくべき」という思惑が透けて見える。大量生産と大量消費という目的のために、人間の生や繁殖までが生産ラインの一部に組み込まれている。家畜どころか機材や素材扱いだ。いくらでも替えが効く。

心から望んで作った子供と家庭を通して得られる体験や経験は確かに人類種族が実現しうる素晴らしい人生の宝物(幸せ)の一例になりうるだろう。だが、それだけが人類のなしうる素晴らしい幸せの形や手段ではないし、それだけが唯一の正解でも最高でもない。単に、人類が今までそういう幸せの形と手段しか知らなかった(+不都合だからそれ以外を知られたくなかったし抑圧してきた)だけだ。そしてそれらを「唯一最高のもの」と思い込んでマニュアル化し洗脳が発生していたのだろう。その幸せと同様に尊く素晴らしい未知の幸せと手段を知らないまま・・・種族に潜在する広い可能性を知らぬまま・・・時には、そんな洗脳が本心の望みを覆い隠していたかもしれない。

そういう意味でも、現代は実現できる幸せの形も手段も昔よりはるかに種類が増えている。女性の職業が限られていて多くの女性が生活のために結婚していた時代でもない。結婚しない生き方を選んでもちゃんと生きていける時代だ。だから人々の本心が望む幸せの形や手段もそれに合わせて昔より多様化している。それ自体はとても素敵な事なのに、まだ多くの人はそのことに気付かず古いマニュアルに心が縛られているような感じがする。心のOSを更新する必要がある。
心が古いマニュアルに縛られてOSを更新しないままでいると、古いマニュアルが本心で本当に望んでいる幸せと人生のあり方を無視して古いマニュアルが知ってる狭い幸福観(本心とズレている)へと無意識に己を駆り立ててしまうことがある。それは時に、靴ズレしたまま望まぬ方向へ走り続けることを強いられているかのような苦痛を伴うかもしれない。
例えば、本心では望んでいないのに婚活にいそしんだり子供を作ったり不妊治療してたり、成果が上がらずに自分や他人を責めていたりすることさえある。時には(本心では望まず)産んだ者が妬みゆえに産まない者を遠まわしに歪んだ形で非難・攻撃することもある。逆も然り・・・

幸いにして、もはや繁殖と生存に大部分の手間暇エネルギーを割かねばならなくて手に入る幸せの形・手段・可能性も限られていた時代じゃなくなった以上、人類のライフスタイルは大きく変化し多様化するのは当然だしそれに合わせて心や価値観や幸福観だって変化・多様化するのは自然の摂理。だって今まで生存と繁殖にばかり使ってた手間暇エネルギーに余裕ができた種族の可能性自体が多様に広がっているのだから。
これは種族に潜在する可能性の実現効率が上がった、即ち「進化のスピードが上がった」というやつではなかろうか?

そんな時代を生きているのなら、一人一人の本心がベストと感じる「幸せの形」ってもっと色々あっていいはず。人間は何のために生まれて生きるのだろう? 少なくとも生存と繁殖のために生まれ生きてるわけではない。そもそも自分の生まれ生きる意味を「繁殖(子孫繁栄・一族繁栄)」に見出す人が死亡率の低い先進国で今時どれだけいるだろう?
生存と繁殖・・・それらは生命活動の一手段ではあるが、生命活動の目的じゃない。
そして当たり前だけど、子供ってのは「子供がいない人生(マニュアルから外れること)への不安感」を動機と原動力にして産むものじゃない
これは占い師に結婚や出産の相談をしに来る人が陥りがちな落とし穴でもある(個人の感想)。

今はまだ、人類の多くが生存と繁殖に全集中していた頃の癖や発想が強く残っていて、種族自身に生存・繁殖以外の可能性を広く模索する経験も少なく、急激な環境と事情の変化で突然広がった自らの可能性にどうしていいか分からなくて戸惑いが残っている時代かもしれない。「皆が生存と繁殖の事で手一杯でそれだけを考えていればよかった時代」じゃなくなったのだから。
今や人々の本能は生存と繁殖だけに全集中しておらず、多様な経験値を得て種族進化の速度を上げることへ今まで以上にエネルギーを注げるようになったのだ。
ご存知だろうか? この種族は生存と繁殖以外にも、色んなことが出来る能力を持っていることに。多様な進化の可能性を持つことに。

今、種族は自らの生命活動について「量より質」へとシフトしているのかも。種族にとって「質」とは、個々が取り組む人生や経験値の質であり、質を拡充させる上で「生存と繁殖で手一杯だった従来よりずっと広がった個々人の可能性」が深く関わっているのだろう。
子供を持っていない人は不幸でも劣っているわけでもなく、繁殖とは異なる人類の新たな可能性をより多く持つ人でもあるのかもしれない。
子供を持っている人といない人、どちらが良いとか優れているとかではなく、人類の可能性としてどっちも素晴らしい。
どちらの人にも、種族を進化させる素晴らしい適性がある。

出産する理由と背景についての極論

2016年2月21日 (日)

出産する理由と背景についての極論

以下に書いたことは全て一個人の妄想です。問題点を見やすく抽出するためにあえて極論を用いています。

 

「子を産む責任」という女への圧力。「産まない」選択した山口智子、そして小泉今日子の言葉から考える
2月12日発売の雑誌「FRaU」(講談社)3月号に掲載された、山口智子(51)のロングインタビューが波紋を広げている。彼女は夫・唐沢寿明(52)とのあいだに子供をもうけなかったことについて、初めて「子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました」と能動的な選択だったことを明言。当サイトでも取り上げたが、当該記事のコメント欄だけでなく、SNS上でも議論が活発化している。これを「逆に“懺悔の念”を感じさせる。若い女性たちに自身の生き方を反面教師にして欲しいという思いが強いのかも」と分析する“芸能評論家”もいた。

 女性が「私は産まない」と意思表示することが、これほど関心を呼ぶのは、「女性は全員、産むべき」という抑圧がいまだ機能していることの裏返しだ。しかも一枚岩ではなく、

(A)「女の肉体で生まれたからには、出産の悦びを!」派
(B)「社会保障制度存続のために産むべき(=社会構成員としての義務)」派
(C)「子育ての不自由を回避して自由を謳歌するのはワガママ女」派

などなど、いくつもの抑圧が重なり合っている。BとCは近い側面を持つが、理屈ぬきの主張なだけにAが一番性質が悪いようにも思える。そういえば昨年、評論家の金美齢(82)が、「子供産まない自由を強調する女性は浅くて未熟」と繰り広げたことを覚えているだろうか(「SAPIO」2015年4月号/小学館)。

これは、「AERA」(2015年2月16日号/朝日新聞出版)の「『子どもいらない』は人に非ずなのか」なる特集を受けての金美齢の提言だ。「AERA」特集では、世界に先がけて超少子高齢社会化する日本では昨今、出産礼賛の空気が漂い、女性が「子どもは欲しくない」とは決して口にできなくなっていることを問題視。蔓延する「出産・育児至上主義」に疑問を投げかけた。金美齢は、次のように主張。

『記事は、「出産礼賛な空気が行き過ぎれば、“圧力”になることも忘れてはいけない」と結ばれている。しかし、私はあえて言いたい。「子どもを産まない自由」を謳歌する女性は、それぐらいの“圧力”は受け入れなければならないと』

 「もちろん個人の自由は尊重する」としながらも、
『出産できる環境や状態にあるのに、「子どもいらない」と主張する女性は、人間としての責任を果たしていない」と断罪。
彼女は現代の日本社会を、『むしろ、「子どもを産まない自由」が優遇されすぎている』『出産は個人の自由な選択であり、国や他人が口出しすることをタブーとする風潮が根強い』と感じているそうで、『AERA』特集の認識とは真逆だ。彼女は、子供を産まない選択をとる女性を『自由や権利ばかりを強調する女性』と決めつけている。

◆人命の尊さを「利用価値」で判定?
「社会のために人間を産む義務」という発想は、行き過ぎた社会主義にも似ていて、「社会は本来人間のために発生し存在する(人間が生きていく上での利便性を追求したら社会になった)」という事実を忘れている。そして例の発想は「人間(の生命)は社会のために発生し存在する=人間は社会の道具」という妄想が支配権を持っている。社会維持の需要を満たす義務としての出産思想は生命の価値(利用価値)を当事者ではなく社会が決めており、妊娠・出産(妊婦)や生まれた命を自然現象ではなく、単に「社会のニーズを満たすための道具」としてしか見ていない。そこに母性は全く介在しておらず、発動できず、締め出されて蚊帳の外。母親は我が子を道具と見なして出産する。

極端な妄想をすれば、件の出産発想が社会を支配していくと、社会にとってニーズがない(利用価値がない)と判断された者の命をないがしろにする風潮につながる危険がある。
もしも社会の義務を果たさんとする発想動機で生み出された命が重い障害などで社会構成員となる機能を満たさず社会のメリットにはなりえない性質を持っていたら、たちまちその赤ん坊と命がけでその子を産み落とした妊婦は社会にとって利用価値のない存在、単なる役立たずとなり、その赤ん坊は出産を社会的義務とする価値観の世界にとって「生まれながらに無価値な命」でしかなくなる。
我々が望むものは、社会のための人間か? 人間のための社会か?
(かつてナチス・ドイツがガス室送りにしたのはユダヤ人だけではない。社会にとって有害無価値とされた各種障害者達も同じ運命をたどった。ナチスドイツは非常に社会主義的とも言われている)

母性を原動力にするのではなく、「社会にとっての利用価値を満たさん」という価値観に基づいて妊娠と出産を促し求め望む発想は、いかにも行き過ぎた男性的発想によって構築され営まれている社会の価値観だと言える。同じくその価値観によって営まれている各業界の職場では、マタハラが横行するようになってきた。母性のないその価値観は、少子化対策として全くの逆効果だ。
同じ価値観が義務感や罪悪感を用いた妊娠・出産を促す一方で、妊婦に対する嫌悪と排除を生み出しもしているわけだ。同じ価値観なのに矛盾していると思えるが、何のことはない、どちらも「その場しのぎの狭い視野で自己中心的に妊娠・出産の利用価値(道具になるか否か)を判断している(行き過ぎた男性的発想に立っており母性が介在していない)」に過ぎないという点では全く同じだ。
目先の利益や利用価値だけをエゴイスティックに追求するだけで大きな視野に立てないばかりに自分の首を絞めていることに気づかない社会は、そんな社会を構成する人間達の短所(つまり我々の)を如実に反映しているとも言えるのだろうか。
「社会維持のために出産せよ」と人々へ圧力をかけ支配する社会が、果たして人々にとって存在メリットのある社会と言えるだろうか? 「自分達にメリットのない社会を維持するために出産する(命がけ)」という社会貢献をしたがる人間がどれぐらいいるだろうか?
しかも、目先の利益を追い過ぎて不況に陥り格差拡大を放置し子供を産み育てにくくしている社会のために?

◆「子供を欲せ」と気まぐれな自然の呼ぶ声がする時?
社会によって刷り込まれた表面的な価値観ではなく、本能の支援と導きを受け心の底から産みたい気持ちになるかならないか、授かるか否か・・・(恋愛の段階を含め)子孫を残す/残さないの展開など、それこそ自然界の事情で偶発的に発生する自然現象であり、自然の気まぐれであり、いわば一種の「ネイチャーコーリング」の力によるものだ。社会が自然現象(自然界)にエゴを押し付け人工的に介入し都合よくコントロールし評価したり裁いたりする(社会が自然界を従わせて都合よく使役する)ことは本質的に不可能かつナンセンスであることを忘れていないか?
社会的義務感から機械的に子供を望む心は、本能でもなければ自然現象でもない。子を望み愛する母性ですらない。男性的社会によるエゴの価値観でのみ作り上げた洗脳による偽りの欲求だ(実はこの価値観、少なくともアラサー世代の親の無意識下にも一定量刷り込まれていたりする。そのためアラサーの皆さんが親からその価値観による刷り込み支配を無意識に受け継いでいるケースも結構ある)。
この洗脳、少なくとも人類史の中で社会が男性性優位となった頃から古今東西ずっと続いている。「世継ぎを生む」とか、「長男の嫁」といったプレッシャーもこの洗脳から派生している。

男性的な価値観によって構築された社会が、その社会にとってのみ好都合な男性的価値観による生き方を植え付け人々を支配することこそが母性(女性性)を抑圧し、子どもを望む者を減らし、生まれた子供を愛せず(愛し方が分からず)虐待する例を増やす一因になっている。母性を抑圧し男性的な意識と原動力で子を産み育てさせようとする社会がそんな「自然の気まぐれ」を圧迫した結果が今の少子化と結びつく・・・まさに現代文明による自然破壊の一例だろう。社会はそんな自然破壊の責任を取ったことがあるだろうか? 責任を果たすべきは人か社会か?
子供は、人の命は、社会のエゴによって産み育てられるようなものじゃない。
(言うまでもなく、子を産み育て愛する母性本能は社会的義務感や洗脳によって呼び覚まされることはない。母性本能だけではなく、男女問わず生殖本能自体が社会的義務感では発動しない。両者は共に社会の都合に合わせて動くことなどない)

例えば、「ママ、どうして自分を産んだの?」 という子供への問いかけに対して母親が「それが社会に対する義務だからよ」と答えたら、子供はどんな気分になるだろう?  
母親の抱くその価値観が支配する世界で育った子供は、自分の中に潜在している母性を発育させていくことができるだろうか? 将来、「子供が欲しい」というネイチャーコーリングを感知した時無事に自分の母性を発揮することができるようになるだろうか? そもそもネイチャーコーリングを感知しにくくならないだろうか? その状態が世代を超えて連鎖していったら?

◆女性の地位を勝ち取る戦いのために邪魔な乳房を切り捨てたアマゾネス達
皮肉なことに、女性達が(男性的な価値観で営まれている)社会へと進出するにつれ、女性達も仕事のために、そして男性的な価値観で営まれる社会から評価を得る(男性的な価値観において利用価値ありと認められる)ために必死の努力と戦いをする中で、無意識に男性的な価値観の視点でものを考え言動する機会が増え、もはや習慣化している。利益、効率、能率、コスト、利用価値、シビアな弱肉強食(弱者の捕食/排除)の戦い・・・その結果、女性達は今まで以上に男性的に考え行動し戦い、女性的な(価値観の)視点に基づいた発想が抑圧され、社会は女性達が進出しても女性性と男性性のバランスを欠いたままに見える。すると男性的な視点にとっての価値を追求する社会は女性的な視点にとっての価値を生みにくくなってしまい、未だ女性にとってあまり快適とは言い難い社会のままになってしまう(仕事と育児の両立に悩むのはなぜか女性ばかり)。
男性的に偏っていた社会に女性が進出したにもかかわらず「女性にとっても快適な社会」が未だに生まれてこないのは、女性が女性として男性的社会に進出した(男性的社会に女性的要素が取り入れられた)のではなく、女性が男性化して社会進出したので社会は本質的にそれほど大きく変化せず男性性に偏った社会が相変わらず維持されただけだったようだ。
やがて、(極端なほど視野の狭い状態で男性的な価値観の視点に傾き心を支配されてしまった?)職場の女性上司が不都合に妊娠した部下(職場の業務効率を下げ足手まといになったり、職場にとって利用価値がなくなっていく者、コストの敵)に執拗なマタハラを仕掛けて部下を退職に追い込んだり、堕胎するように圧力をかけたり、時にはマタハラのストレスで部下が流産してしまうなどというケースさえ出てくるようになった。
まさに、「何で戦場に足手まといの腹ボテがいるんだ」という状態だろうか。

男性性に偏り過ぎた社会が母性を抑圧してしまえば「自然の気まぐれ」を抑圧し、本来なら「ネイチャーコーリング」が発動して心から本当に生みたくなる人(己に宿る自然の意思と一体化し母性の発揮を無意識に望む人)の運勢まで抑圧してしまう。本当に子供が欲しいときでも授かりにくい(母性が発揮しにくい)運勢になってしまいかねない。
逆に言えば、自分自身の価値観や思考パターン、今までの生き様が本音や本来の自分とかけ離れて必要以上に男性的な視点や価値観に偏り過ぎていなかったか、視野が狭くなっていなかったか自分と深く向き合いチェックして、もしも偏り過ぎが見つかれば修正していくことが母性(女性性)の抑圧を解きほぐし母性を発揮しやすい(そして自分の持つ女性的な個性を活かした生き方をしやすい)運勢になっていくためのささやかな開運法になるかもしれない。

 

「女性は2人以上子を産み大学は子育て後、産めない女性は施設に寄付を」大阪市立中学校長
↑やはり自然と母性を原動力に介在させてない男性性に偏り過ぎた発想。これが却って少子化を悪化させる。まさか昨今の少子化は、男性性に偏り過ぎた発想と価値観で営まれる社会がこれ以上続かないように、社会を動かす燃料(人員=子供)の供給を遮断する運気の一部なのだろうか?(妄想)


ワーキングマザーが「私が悪い」から抜けるために、本人と周囲ができること←前編からおすすめ
戦後の男性性と女性性←この妄想の続きが今回の妄想になった
男性的世界と地母神の再会

2012年10月 4日 (木)

「草食化」という本能?

人類(特に先進国)が少子化したり、男女共に草食化しつつあるのはある種の本能かもしれないと思う今日この頃(妄想)。

 

「恋愛」というと、今までは生身の人間にアニマやアニムス(※)を投影して交際を求め叶えようとするタイプの恋愛(ある意味互いに相手をスクリーンとして利用する取り引き・駆け引き・協力関係)が主流だった。しかし最近は他人をスクリーンとして使わず (ゆえにそのためのやりとりをせず)もっと自分のアニマ・アニムスに都合よくカスタマイズ出来るような別のもの(例:いわゆる『二次元嫁』やオリジナルキャラ)を利用することでより直接的に自分のアニマ・アニムスを感じとり対話し統合することで成長・成熟しようとする傾向を感じる。この成長や成熟は、従来型の「男女の駆け引き」を用いてなされる成長・成熟とは少し趣が違うかもしれないが、 それはそれで従来時代には無い新しい可能性を生む。
投影か直接対話か。本当に愛している存在がアニマやアニムスであるとすれば、その場合はどちらの手段がより本質的な恋の形と言えるか。どちらがより本質的な意味での「交際」と言えるか。
・・・それが草食化の背景にあるもの?

恋愛が社会的なものから、より個人的、精神世界的、内面的なものに変化してく感じ。そんな変化の流れ次第では、やがて恋愛の定義すら変容しうる。
でも今はまだ、従来社会、従来時代の発想や価値観をまだ引きずったまま(植え付けられたまま)抜け出せずにいることが人々の中で様々な神経症的葛藤を生んでいて、色んな社会現象にもなっている?
例えば結婚。本当は結婚なんか興味ないのに従来の価値観や発想に流され支配されて結婚に無関心なこと自体に不安感や劣等感を植え付けられ(または別の不安を結婚に関する不安にすり替えられ)、 そんな不安や劣等感から逃れるためだけに心の底ではしたくもない婚活に 駆り立てられエネルギーをすり減らして「婚活鬱」になったり、そんな不安や劣等感に駆り立てられて、不安や劣等感を原動力(動機)にした心の底では望まぬ結婚をした挙げ句に離婚する。 そんなケースも増えてる懸念。
そんな「望まぬ結婚」の末に発生する「望まぬ妊娠」や「望まぬ出産」、「望まぬ子育て」。それが堕胎率の上昇や子供の虐待(時には離婚後の片親や再婚相手からの虐待)増加に関わっているとしたら・・・

増えつつある「草食系」、ないし「草食系オタク」とか言われる人々が本当に結ばれたい相手は生身の人間ではなく、己の心の中にいるアニマやアニムス(共に人生を歩み共に生きるべきもう一人の自分)かもしれない。
アニマやアニムスと結ばれること、ともに人生を歩むこと。ともに人生を創ること。その先には従来の発想とは異なる新しい可能性があるだろう。「望まぬ結婚」の発想とは全く異なる可能性の人生が。
もしも「2次元の存在とは結ばれない」と嘆くなら、心の中で2乗すればいい。するとその存在は4次元(精神世界)のものになる。そうすれば3次元(物理世界)の制約を超えることが出来る。液晶画面だって簡単に超えられる。
どんなキャラも最初は作者の精神世界に居たんだから4次元存在である。それが作品発表によって多くの人々の精神世界へ配布され、配布された先で新たな命(=アニマ・アニムス)を吹き込まれたわけだ。
要するに、そのキャラは最初から液晶画面よりもはるかに近くはるかに自由な場所に居たのだ。自分の心の中なのだから。そしていつでもどこでも対話が出来る。

草食化は少子化を招く。それは人類という種族が、命を量産させることよりも命ひとつひとつの生き方を目に見えぬ本質的な面で充実・進化させていこうとしていることを意味するのだろうか(それで恋愛の形も本質重視?)。
量産体制を終わらせ質の向上へと種族を移行させるのに「草食化」は好都合? それは本能?  
量から質への移行。これはもしかするとこれからの大きな変化を表すキーワードの一つ?
(産業革命から作られた近現代およびその文明は量産重視。大量生産+大量消費=『使い捨て』。雇用や人材、命すらそんな発想で扱うことも。恋愛にいたっては、言うまでもない。)

出会いを探すなら、まず自分の無意識の中から探す。最も近く、最も気付きにくい場所から探す。
これからの時代、中にはそういう人が出てくるかもしれない…
オーソドックスなやり方だけが「正しき主流」とされる時代は、終わりつつある。
「草食化」という本能があえて発動して人類の数が大幅に減るのであれば、人類は絶滅しない。おそらく、適当な数に落ち着いてより質の高い充実した新たな進化と発展を遂げるだろう。それは今までの発想とは全く別の意味で「繁栄」とさえ言えそうだ。今より地球に優しい繁栄かもしれない。
「本能」とは、常に生命をより良い方向へ進めること、それを支えることが大前提なのだから。

アニマ・アニムス:理想の異性像。アニマが女性版でアニムスが男性版。その特徴やキャラデザインは本人の内部に隠された個性や意欲や可能性を象徴することが多い。「自分」という生命体の一部と言える。ユング心理学の用語。
(結婚した人もそうじゃない人も、結ばれたアニマ・アニムスを人生に生かすこと自体は可能。アニマ・アニムスとの交際と実際の恋人との交際を同時進行したって浮気になどならない。なぜなら、彼・彼女は自分の命の一部だから。何があろうと自分の命とは一生添い遂げるしかない。中には自分のアニマ・アニムスを生かし共に人生を生きた結果、『望む結婚』に至るケースもあるだろう。それが唯一の正解ではないが、人の数だけあまたある幸せの一例かも)

 

【ほぼ同じテーマを妄想した記事】
本気で架空のキャラを愛する人々 エア恋愛の意味 童貞のまま30代で死んだ男の誕生日 結婚相手より生き方をさがせ?

 

 

【余談】
量から質への移行は、産業革命を母型にした量産&使い捨て重視の従来文明を維持できなくさせていく。いわば文明のアポトーシス。アポトーシスは、「破滅すること」を目的にはしていない。「より良くなること・進化すること」を目的に行われる事を、忘れてはいけない(例:おたまじゃくしはシッポの細胞が減少するにつれ手足が生えてカエルになる)
(草食化だけじゃなくて、ニートや新型うつ(非定型うつもその一種?)←この心療内科自体が病気じゃないかと言う人もいるw

 

人間を楽器に例えた恋の話

2007年3月 5日 (月)

高望みのカタチ(結婚)

今回は「結婚相手より生き方を探せ?」の補足記事とも言えるようなお話です。
ご興味のある方は高望みのカタチもどうぞ。

 

◆結婚が怖い 理想が高い
「結婚相手が見つからない」と相談してくる人たちの中には、カードや会話を通して深層を探っていくうちに「実はまだ結婚したくなかった」ということが判明するケースもある。
本当は結婚というもの自体にピンとこない。食指も動かないし想像がつかない。むしろわけのわからないものに人生を委ねるのは怖いし不安。自信もない。だから本当はまだ結婚したくない。 けれど、将来は不安。一人でいたって自分が幸せになる方法がわからない。自分の幸せって何かわからない。 仕事も面白くないし、これといって趣味もない。休日一人でいてもつまらない。とり立てて親友と呼べる人もいない。歳もいってるし、同年代の周囲はどんどん結婚していくのに自分だけ売れ残ったままで存在価値が下がっていくように感じる。このままどうなるんだろう? 未来が想像出来なくて不安。未来を作る材料を持ち合わせてない感じ。
本当なら結婚を避けたい人が劣等感やプレッシャーや将来の不安から抜け出すために結婚する(結婚を精神安定剤にする)場合、「『この相手となら結婚しても我慢できる』と思える結婚相手の条件」は、非常に高くなることが多い。「合格ライン」に設定している条件が「やりたくないことを我慢できるほどの条件」であれば無理もない。
「結婚したい相手」を探してるんじゃなくて、「したくもない結婚を我慢できる相手」を探していれば当然理想は跳ね上がり、「結婚相手が見つからない」という現象が起きる。

その場合、結婚に求める安心感は「彼(彼女)となら我慢できる」だ。 そして、更に深層に隠れているものは、「『これからどうなるの?』という不安を解消したい」とかという気持ち。「有意義と思える生き方を見つけて人生に前向きに取り組みたい」「意義ある自分の未来を作る材料が欲しい」という気持ち。
けれどそんな自分の気持ちに気付かず、「不安から抜け出すためにはこの人で我慢しよう」といった経緯や背景から結婚を選択した場合、後で浮気に走る奥様・ご主人様もかなり多い。

「自分の未来がわからない不安」は結婚したってなくならない。自分が変わり、切り開かない限り。今まで無意識の中で抑圧されていた新しい自分の側面を知り、その性質を生かさない限り。
意欲ではなく不安によって結婚相手選ぶ場合の理想像は「完璧な相手」になりやすい。人は何かに対する依存度が高いほど、その何かに完璧さを求める傾向にある。相手に自分の生き方や人生を丸ごと依存してしまうのであれば、確かに完璧な相手じゃないと不安かも。

自分の幸せな生き方が分からない不安を動機に結婚したのではなく、自分の幸せな生き方が見えてきたからこそ結婚を選んだ場合、結婚相手の選択理由は「相手が完璧だから」ではなくて、「お互いに相手の個性が自分の幸せの可能性を格段に飛躍させると感じたから」とか、「完璧な相手よりも、互いの性質を活かし互いを補いあって一つの素晴らしい可能性が作れる相手だと感じたから」になりやすいかもしれない。
相手のために自分の個性が活かされ役立ち、自分のために相手の個性を活かし役立てる。その際どちらも犠牲(マイナス)にならず、どちらも幸せ(プラス)を得る対等な関係。結婚相手を選ぶなら不安による依存関係ではなく、そんな相互扶助や相乗効果の関係を目標にすると開運しそう。

◆「こうあるべき」から自由に
男女問わず上に書いたような人々が、結婚が怖いと感じることを「幼稚だ・子供っぽい」と恥じる必要はない。「望まない道の選択である上に想像もつかない方向(自分でも責任取れない方向)へ人生を変える」ことが怖いのは自然なこと。人は成長の仕方も順番も仕組みも速度も可能性もそれぞれなんだから。無意識に自分を偽って無理な選択をしたためにおかしな迷路にはまるくらいなら、ありのままでいた方が(ありのままを把握した上でそんな自分を認めた方が)、結婚という「手段」に頼らずプレッシャーや不安から自分を解放しやすいし、誠実でさえいられる。結婚は自分自身のペースで大人に成長してからだっていい。その方が良い結婚運になりやすい。
他人と比較して自分自身の発育ペースを恥じるのは、大げさに言うと生命の多様性を否定している。

例えどんなに「大人」のフリが上手くても、それはあくまでフリであって「大人」ではない。周囲はともかく自分は誤魔化せない。本当の大人は、自分のレベルが例え低くてもそれを誤魔化さず受け入れる(例え高くても鼻にかけない)。どんなに恥じても今出来ることは変わらないからだ。その代わり、今出来ることやしたいことに精一杯取り組んでレベルアップを図ることはある。自分の出来ることやしたいこと(今までやりたかったけど出来なかったこと)が何かを精一杯探すこともある。
肝心なのは、生涯結婚するかしないかに関わらず「それでもやがて自分は成長してゆけるだろう」ということを忘れないこと。 「変わり、切り開く」ためには、まず己を知る(発見する)ことから始まる。己を知ることと成長することは、深く密接に関わりあっている。自分が変わると、運も変わる。出会うべきはまず自分自身かもしれない。
「幼稚で子供っぽくて未熟だ」ということは、「これからいくらでも成長していける。可能性の余地はこれから」ということでもある。私を含めた全ての人達よ。Good Luck.

 

結婚相手より生き方を探せ? 「必要とされる」必要がない

2005年7月11日 (月)

無意識の検索~恋人たちの悩み~

人間、生きているうちに何かを選択する/何かを決めることがいくらでもある。ささいなものからこれからの自分を左右する大きなものまで。その際、どうしても決めかねるときに占い師に相談する人もいる。私は占い師として相談を受けると、まずのその人の話を聞き、その後で本人の無意識(或いは深層意識とか、ハイアーセルフという人もいるかもしれない)の領域から本人が本当はどちらに行きたがっているのか、何に意識を向け、どんなことを望んでいるか、といった大まかな傾向を引き出すためにタロットカードを使って検索作業のようなことをする。そしてカードに象徴的に反映された検索結果を本人に伝える。稀に「情報不足」と言う意味のカードが出ることもある。それは、本人が結論を出すには更なる情報や経験が必要であることを示す。結論を急がねばならないときは、速やかにそれを手に入れる必要がある、ということだ。
基本的に、その人が自分の中でどうあるべきかの結論を出す手伝い、というのが選択に迷った時の占いだと思って欲しい。決して占いが自分の代わりに正しい選択の答えを具体的に示してくれたり、占いをすれば自分は何もしなくても答えを保障してくれるとは思うなかれ。「どうしたいか」の真実はあなたにしかわからない。
これは結婚(恋愛)に悩む女性達にもしばしば共通する問題らしい。恋人や夫が自分の代わりに自分が満足する人生を創って欲しい。満足することをして欲しい。けれど、どんな人生なら自分が満足するのか、自分はどんな生き方がしたいのかは自分にもわからない。或いは自分が恋人とどんな付き合い方をしたいのか自分でもわからない。こんなパターンが隠されている悩みがよくある。このパターンに気付かぬまま「本当にこの人でイイのか?」という原因不明の不安を持つ男女もいる。マリッジブルーのような状態や、結婚が怖いという気持ちとも関連するかも。
自分がどうしたいのかわからないまま相手のペースに流されてしまい、不満だけが沈殿してゆく。相手は相手なりに恋人にとって良かれと思うことをしてみるけれど、それはあくまで相手が考えたことで、自分の満足とは違っている。不満が一定量に達した所で、こんな会話がなされることがある。
「どうして私をわかってくれないの?」
「君はどうしたいの?」
「何で私がいちいちそんなこと説明しなきゃいの? 私のことを愛しているなら言わなくてもそのくらいわかるでしょ?」
私以上に私のことを理解して、私の幸せを創って欲しい。幸せにすると保証して欲しい。そんな気持ちを抱えながら、自分にとっての幸せが何かわからずに焦る気持ちがカードに現れるケースもかなりある。「不満はあるけれど、どうしたいかがわからないから気がつくと文句ばかりになってしまう」「不満ばかり言うわけにもいかないからいつも我慢している」
そんな人には、まだチャンスがある。少なくとも、「これは自分の望みとは違う」ということはわかるのだから。文句や不満は裏を返すと無意識レベルではどうしたいかが漠然とでもわかっているからこその現象だ。まとまらず、自覚しにくい自分の気持ちに対しては、「好きなこと・興味のあること(したいこと)」「嫌いなこと・なりたくないこと(したくないこと)」をそれぞれ思い浮かぶままノートに書き出してみることをおすすめする。心境の変化があればその都度新たに書き出してみる。書き出されたものをその都度分析することで自分の傾向や移り変わりを知り、気持ちをまとめるのに役立つ。自分の良い面も悪い面もわかるかもしれない。

なお、上記の会話にもある「言わなくてもそのくらいわかるでしょ?」は女性が明らかに自分の答えを持っていて相手を試す時にも使われるセリフなので、男性諸氏は注意されたし。

2005年1月23日 (日)

運勢の世界と「ご縁」

※これから電波な話をします。免疫のない方はご注意下さい。
運勢の世界では、その人が自分の本質的な生き方が出来ていて、その本人が有意義な生き方をしていると感じている場合。目に見えない無意識の世界で、例えるならオーラのようなその人独自の光のようなものが放射されるらしい。「あの人は今輝いている」という言い方はここから来た、という人もいる。その放射を感知した人の中に無意識レベルで「あ、今何か光った。あの人何だろう?」とオーラの主に関心を持った人が身近にいると、オーラ(?)の主と何らかの「縁」が作られやすくなるそうだ。それが対人運全般において、大きな意味のある出会いや結婚の運につながる場合もあるらしい。

お互い自分の本質的な生き方をしっかり持った上で、互いが相手の生き方に理解を持ち、「これなら共同生活を送ることが出来る」と思える結婚を選びたいものだ。

2005年1月17日 (月)

結婚相手より生き方をさがせ?

※かつてご好評いただいた記事を再放送的に一定期間だけトップページへ載せています。
多少読みにくい文章ですが、駆け出し占い師だった当時の原文ママです。

 

私が占いをやっていると、いわゆる「負け犬(30代・未婚・子なし)」と巷で呼ばれる人たちや、もうすぐ負け犬の年齢に当てはまりそうな人からの結婚についての相談は多い(占いをしないだけで、男性にもこういう人は多そうだが)。彼女達の悩みの大半である「結婚相手が見つからない」。これ、相談者の何割かは「結婚相手が見つからない」というより「そもそも結婚への意欲が見つからない」と言う方が正確。相談者の中には混同している人もいる。結婚相談所にでも登録してお見合いをすれば結婚相手は探せるのだろうけれど、そもそもお見合いをする気が起きない。お見合いで先方が乗り気だが自分の気が進まない、という状態を繰り返す場合もある。お見合いをせずに何とか結婚相手を探そうとして果たせない場合もある。いつかは結婚したいが今の恋人とは結婚したいと思わない。じゃあ誰と結婚すれば良いのか分からない、と言う場合もある。
相談者たちの共通点としては「結婚したくないわけじゃないし、いつかは結婚したいけど、いい人(結婚の意欲と目的意識を与えてくれる人)が見つからない」ということだ。そして、家族や親戚からはいつ結婚するのかとせっつかれたり、「理想が高すぎる」と言われたり、せっつかれなくても、「このまま結婚できなかったらどうなるんだろう」という焦りや不安、プレッシャーを感じる人達が占い師に相談する。「いつごろいい人が現れますか?」「私は結婚をあきらめた方がいいのでしょうか」「どうして私はいい結婚相手とめぐり合えないのでしょうか?」

この世には、運命によって予め「結婚できない」と人生を定められている人がいるわけではない。逆も然り。
上記のような相談者達を占ったときにカードが示していたもの。それは、人生全体の一部分である「結婚」ではなく、生き方そのものにかかわることだった。
結婚を焦る彼女達の心理を占うと、「結婚そのものがしたい」「家庭を持ちたい」という思いよりも、「結婚が結末になっているシナリオの想定から外れる不安」から結婚を焦っているようだ。「このまま結婚できなかったら自分の未来はどうなるんだろう」「今後の人生がわからない」という焦りや不安、プレッシャーを早く解消したくて(それが目的で)、「結婚」がそのための単なる道具になっていることに気付かない人が結構いる。結婚が「道具」である以上、結婚相手もまた「道具」になってしまう。それはまだ、伴侶の愛し方を知らないということ?

結婚相手が現れない理由。それは、本人の本音が「将来へのプレッシャーや不安を解消したいだけ」でしかなく、実際は結婚の意欲がないから。本気で相手を探す気は無いから(そういう人達は、お見合いには消極的で合コンを繰り返すことが多い。合コンさえすればいつか運命の人と出会えるのだと無理に自分にいい聞かせるケースも)。「いい人が現れなくて結婚できない」よりは「結婚したくないのでいい人とは思わない」に近い。「結婚したいと思える人が見つからない」よりは「結婚の意欲が見つからない」に近い。

彼女達の焦り、不安、プレッシャーは、「自分がどんな生き方をしたらいいのか」というテーマにもつながっている。自分にとって有意義な人生とは? どんな生き方をしたらいいのか分からなければ、自分にどんな結婚が向くのかも分からない(結婚が向いてるのかも分からない)。どんな相手が良いかもわかりづらいだろう。自分にとってのイイ生き方がある程度分からないと、本当にイイ結婚、イイ相手を得る運勢の材料も足りない。そもそも結婚が自分の人生を有意義にする適切なものかどうかもわからない。結果的に、結婚の意欲や目的意識を自ら作れない。
「理想が高い」と見られがちな人は、「自分の生き方に合う相手がわからない」もしくは、「生き方の分からない自分の代わりに将来を背負ってもらうには、完璧な人間でなければ不安」という心理がカードに反映されるケースも多い(これだと相手に向けられる感情は愛情ではなく依存感情)。

人生をどう生きようか分からない不安やプレッシャーは、ただ結婚するだけじゃなくならない。結婚相手はその不安をぬぐえないし、背負えない。漠然とした未来への不安は結婚で誤魔化せない(誤魔化したいけど)。お見合いを含め、「結婚相手が欲しいけれど、相手を探す意欲はない」という人は、無意識にそのことを知っている。
不安を誤魔化す手段(道具)でしかない結婚をした場合、その結婚で生じる「家庭の運営」にどれほどの喜びや充実感をもたらすだろうか? 
結婚を望むのは、すなわち幸せな生き方を望んでのこと。「結婚」はその手段の一つに過ぎない。「結婚さえ出来れば幸せな生き方は出来なくてもかまわない」と考える人は今の時代、あまりいないだろう。
自分の内面の性質や傾向に適した生き方は何か。そもそも自分の性質や傾向とは? その幸せな使い道は何か。現時点で自分が知っている範囲だけが「自分」の全てなのか。「結婚」という手段に限定せず、そもそも本当の自分は今どのような生きる幸せを掴もうとしているのか・・・カードは彼女達にそんなことを問いかけていた。

人は時に「愛する者」に隠れた自分自身(隠れた希望)を投影する場合もあったりもするから、それを追い求めたが故の恋だって存在する。その恋の中に、自分の本当に望む生き方のヒントが隠されているかもしれない。それを無意識に投影したからこそ、その人を好きになったり、そういうタイプが好みのタイプになっているのかもしれない。
「どう生きればいいか分からない不安から逃れる」という願望を誰かに投影して好きになっている場合もあるだろう。「この人と結ばれれば何もかもうまくいって良い生き方が分からない不安から逃れられるかもしれない」という動機でお相手との結婚を考える人だっているかもしれない。自分の幸せがどこにあるのか分からない不安をそんな空想で誤魔化す(空想に逃げる)ことを選び、その手段としてお相手と結婚した挙句、「これは私にとって本当に良い生き方じゃない(幸せじゃない)。何が良い生き方が分からない不安は依然としてそこにある」という現実に直面して(不安から逃げるための手段では不安を誤魔化し切れなくなって)「こんなはずじゃなかった」と占い師に相談する例もある。
言うまでもなく、「生き方の分からない不安から逃げるための結婚」という選択では自分の本当の幸せを掴めない。自分と相手、双方共に本当の幸せを掴めない事になる。幸せな結婚は、片方だけの満足では成立しないからだ。

現代は「結婚こそ女が幸せを掴む唯一の手段」とか「結婚市場において25歳以上の女性は売れない(商品価値が暴落する)」「結婚こそが人生のゴール」「保守的な風潮や思想から外れた人生は不幸」と考えられていた時代とは違う。過去のプロパガンダ的な価値観に縛られていないか要チェック。
他人を変に当てにせず、他人からも左右されず、風潮や不安に縛られず、結婚うんぬんとは関係ない・限定しない・拘らないところで自分の充実感のカタチ(自分の性質)を色々知って発掘しておくのも悪くなさそうだ。因習や固定観念や狭い視野、不安や古くて狭い価値観や先入観を取っ払い、その時その時自分に本当に一番しっくりする道(もっとも意欲的になれる道)を正直に自覚し受け入れ選んでいたら、自然に調和の取れた人生になっていたり、振り返ると自分の傾向や事情がわかったり、はたまたある時は自分が本当にしっくりする道を選んでいった結果、たまたま自然に結婚する方向へ至ることもあるだろう。道を選び、それを歩んでいった経験は、必ず未来で花を咲かせる。未だ見ぬ花を。
そういう経緯での結婚なら、結婚が不安の誤魔化しではなく本当に幸せな生き方のカギになる日が来るかもしれない。
そういう経緯での結婚は、例え何歳になっていたとしても(それこそ老人になっていたとしても)、自分にとっては偽りなく本当にしっくりする道になっているかもしれない。

では、今の自分が本当に望んでいる(一番しっくりする)こととは一体何だろう? もしも結婚が単なる精神安定剤や「ごまかしの手段」であった場合、嘘やごまかしではない本当の望みは?
その時々のテーマで自分を知ったり自分に相応しい生き方が出来れば、自分の幸せに適した手段を選べていれば、結婚する人生も結婚しない人生も等しく幸せだろう。自分という楽器を理解していき、それを生かして幸せに弾きこなしていけるなら、その演奏の可能性が結婚であろうがそれ以外だろうが、演奏ジャンルを問わずそれは幸せなのだろう。
自分を知りえることがとても重要かもしれない。自分を発見していくことが、自分の可能性を発見し自分を変えていく事につながることもある。

子供や伴侶との愛を育みながら作られる豊かな家庭・・・相手も同じくその家庭に己を生かし充実感を持てる生活・・・それはさながらお互いが異なる個性と可能性を持つ楽器で、二人で合奏することでよりその楽器の可能性が広がり、楽器の持ち味を生かしあって「家庭」という曲を豊かにしていくようなイメージ、相手に完璧を求めるのではなく、二人が己を生かし連携して一つの新たな可能性を作るようなイメージだろうか。
そして、その家庭にどんな子供が生まれるか(その曲にどんな楽器が参入するか)、その結果家庭や各自の人生にどういう展開があるのかは、結婚相手のように「選ぶ」ことが出来ない。それは未知の可能性。全く新しい己の生かし方を知るチャンスにさえなるのかもしれない。無限の可能性には、結末が見えないものだ。

自分が求めている変化や可能性が、自分自身の内なる奥底で人知れず静かに発生し引き出されるような、自分ひとりのごく個人的なタイプのものなのか、それとも「相手」とのやり取りや組み合わせや連携(楽器なら合奏)によってはじめてなしえることで、自分ひとりではなしえない可能性と変化を探るものなのか。
自分ひとりでなすべきテーマか、相手も変化と可能性を得ていく相互のテーマなのか。テーマが導く新たな流れを感じ取ることは、顕在意識と無意識との間に隔たりがある分、少々難しく感じられるものかもしれない。そんなつかみどころが難しいテーマに取り組むほど人生経験を重ねてきた年齢の女性達にスピリチュアルなものが流行る理由が何となくわかる。
単なる結婚相手探しではなく、その背後にあるテーマ。そのテーマは奥深く難しい分、取り組みがいのあることなのかもしれない。そのテーマには、タイムリミットなど存在しないのだろう。そのテーマに基づいて深い領域から導き出された「結婚という結末」には、賞味期限などない。

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