映画・テレビ

2024年1月18日 (木)

実写版ナウシカ

数年前にブラジルのファンがファンアートとして実写版ナウシカを作っているという話は聞いていたが、昨年11月にとうとうそれが完成していたとのこと。楽しみにしていたので感無量。
ナウシカという作品、ファンアートのすそ野と可能性が半端ない。メーヴェを自作した人までいる


漫画版ナウシカで妄想
宮崎駿氏占ってみた 君たちはどう生きるか~巨匠の呪術~

2023年7月16日 (日)

「君たちはどう生きるか」~巨匠の呪術~

ひとまず見たその日にその場で抱いた感想を走り書きしておく。公開初日は内容に対するネタバレや先入観の流布をできるだけ防ぎたいので後ほど断続的に加筆・更新予定。
→16日より断続的に内容の加筆・更新開始。「ネタバレ注意!」の警告を見落とさないように!

 

◆第一印象
作品の印象を有志が一枚の絵にした)←これで内容を理解できた人は異能者w タロットの「塔」が解釈の参考になるだろう。
夢判断やユング心理学、タロットにも通じるシンボリズムや比喩・暗喩、ほのめかしに満ちた演出&表現ですぐ意味が分かる人ばかりではない(私含め)。
よく言えば「神秘的で謎めいている」だし、悪く言えば「支離滅裂・意味不明」と評する人もいるだろう。夜見る夢と同じと思えばいい。
とにかく作品に含まれている情報量が多い。ダブルミーニングやトリプルミーニング、多義的・多元的な照応すら描かれていると思う。一度見ただけでは把握し切れない。
そこで好き嫌いが分かれるかもしれないが、絵柄や風景は相変わらず美しい。
米津玄師の主題歌「地球儀」も美しくて良い。前作「風立ちぬ」を受けての歌詞と作品であることがよく分かる。


◆巨匠の仕掛けた呪術

何故こんな表現方法の作品になったのかというと、恐らくこの作品は、「見た人々の表層意識ではなく、潜在意識(無意識)に呼びかけ働きかけることを目的にした作品」だからではないかと妄想した。大勢の無意識に呼びかけ働きかけるとは即ち、人々の集合無意識に対して呼びかけ働きかけるという事でもある。それは呪術だ。宣伝を行わないことで人々は偏見や先入観や思い込み、噂などの余計な雑念・雑音抜きにひとまず見たものを見たままにいったん受け取る。すると作品から発信された情報はまず人々の表層意識(理解)を素通りし無意識下、集合無意識下にしまわれていく。そして後になって人知れず徐々に機能してくる。
「世界の宮崎監督」の新作ともなれば、そのような現象はいずれグローバルな規模に拡大していく。何とも壮大な呪術だ。
公開日が黒船来航の日(日本が帝国主義に染まるきっかけを作った日)と被ってるのは偶然か? 下の世界に浮かぶ石は、海底から見上げた黒船の船底にも似ている。
占星術的には「20世紀前半のカルマが(解消のために・かつては選べなかった別の選択をし直すために)再現されている時代」と言われている今この時代だからこそ、こういう作品が宮崎監督に降りて来たのだろうと思う。
もしも宮崎監督自身が公開初日に「カヘッカヘッカヘッ」という不可解なツイートをジブリに指示したのであれば、それも呪術の一部だろう。見た人は分かるがあの鳥はそんな鳴き声を出さない。にもかかわらず・・・
(見た当日思いつく限りだが、『カヘッ』は『貨幣』?)←詳しくは後日

宮崎監督、新作の呪術を通して人々にこのブログでもおなじみの「考える力」をつけさせたいのではないかという印象もある。自作品の解釈はもとより、1930年代に覇権主義・帝国主義・カルト的思想に染まって人々の「考える力」(近代自我発達に不可欠)が抑圧されていった時代の日本において、あえて子供達の「考える力」を養うために書かれた同名の児童文学作品にも人々の注意を向けさせているからだ。
ゆえにこの作品は、すんなり分からなくてもいい。自ら色々考えること自体に価値がある。
(理解出来なくても無意識が反応して涙が出た人や妙に昔の記憶が甦るようになる人がいるかもしれないが、心配しないで)

また、この作品の構想が練られた時期は野田サトルの「ゴールデンカムイ」が連載されていた時期と一致する。ゴールデンカムイとこの作品と元ネタの同名作品、描かれているテーマが一部だが共通するのは気のせいか? 
20世紀前半の運気が焼き直されているのなら、当時の同名作品と同じ役割を持つ作品が現れてもおかしくはないし、人々の無意識が集合無意識でつながっているのなら、共通するテーマを持ったインスピレーションが同時代のクリエイター達に降りてきてもおかしなことではないのかもしれない。



  以下、ネタバレ注意 ❗ 

 

 

◆第一解釈
ナウシカやラピュタの世界観と共通するある種の「悪意」を抱えた世界の中で母親を亡くした少年が、「君たちはどう生きるか」を通して永久に失われたと思い込んでいた母の愛に再会して癒されることで、自分の中にも(誰の中にも)存在する「悪意」を自覚し向き合い、かつて選んだ悪意とは異なる選択をし直し、世界を取り巻く悪意と共鳴することをやめて再出発する物語をミステリアスな象徴やメタファーに満ちた美しく幻想的な手法で描いた作品。


◆あくまで個人の解釈例その①:「悪意」と「石」

大叔父は現世の日本で西洋文明(当時は異世界文明に等しい)に触れて明治以降の時代運気(近代日本の世界)を作った。その象徴が(西洋文明を取り入れ、日本人だが西洋風の顔になった)彼の作った「世界」であり「塔」であろう。彼の作る世界はどれも互いに照応しているので、塔は現世にも下の世界にもある。時代運気が作られた時に下の世界も誕生し、互いが互いを象徴する照応関係になっている。つまり両者は次元が違うだけで同じものだ。次元の違いが扉で表現されている。扉の向こうは死後の世界にして命が生まれる前の世界(中間世)でもある。運気が現世の時空に現象化する前と後の世界とも言える。そういうもの自体は運気と時空が存在している頃から宇宙に存在しているが、明治維新後に大叔父が新規作成したものは、現象化させる運気に悪意があるため、良い運勢を作らなかった。
その世界(塔)の基礎たる石(=遺志)は、「物心問わず多様な飢えを動機と原動力にして育った多様な悪意(物事を力ずくで支配・所有・簒奪せんとするパワーゲームの発想を含む。一例はインコ達が象徴する帝国主義や覇権主義)」を含有し、そんな悪意を含んだ石(遺志)で作られた世界が必然的に持つアンバランスな矛盾と自己破壊性が世界(塔)を崩壊させた。なので、飢えと悪意を含有する遺志の世界(塔)を構築した大叔父がその世界(塔)の崩壊前夜に放つ「豊かな世界を作ってくれ」というメッセージは深い。
大叔父が作った世界の基礎(=積み木)の素材となった上空に浮かぶ赤黒い熾火のような石(=遺志)は、「天空の城ラピュタ」で空に浮かぶラピュタが持つ黒い基底部の材質や漫画版ナウシカの「墓」の材質と同じものだろう。そんな遺志を遺した存在が「墓の主」だ。あの墓は遺構としてのラピュタ基底部やナウシカの「墓所」と同じものを表している。墓の主は漫画版ナウシカに出てくる「墓所の主」とほぼ同じような存在だと思う。現世では明治維新に地球外から飛来して落ちてきたアレ(熾火のような赤黒い楕円形の物体?)の中にいたのだろう。残留思念か?。そして墓の主は発見者の大叔父と契約して力を与え、彼に自らの遺志を用いた新しい世界(時代運気)を構築させた。
作中でアレはいわばモノリスのような役割で、一義的には黒船の象徴でもある。黒船をきっかけに日本へ大量に入って来た西洋文明(帝国主義含む)が大叔父にとってのモノリスだったのかもしれない(作品公開日7月14日は黒船来航記念日)。だがそれは、当時から既に墓石(過去の遺物)と化していた。
さながら、自らの悪意で滅んだ異星の船が地球に漂着し、地球人に異星のカルマを帯びた文明開化を促したようなもの。

アレが落ちてから大叔父が作った明治以降の時代運気には、墓の主(アレの主)の悪意を含有する遺志(=石)が使われていた、というわけだ。だから飢えと奪い合いに起因する帝国主義の時代だった。アレは遺志の宿る墓石だったのだろう。現世で時代運気を作り終えた大叔父は現世から(死後の世界でもある)下の世界に拠点を移したわけだ。
終盤で大叔父が主人公に「私が見つけた13個の悪意に染まっていない石で平和な世界を作ってくれ」と伝えると、主人公が「悪意は自分の中にもあるからその資格はない。元の世界に戻る。」と答えるシーンは漫画版ナウシカの「墓の主との問答」を連想させる。

「飢えが育てたパワーゲーム的悪意の石(遺志)」で大叔父が作った世界の一つ「下の世界」には食べ物(魚=金運や豊穣の象徴)が少なく飢えやすい。ゆえにペリカン達はワラワラを捕食することで飢えをしのぐはめに。
主人公の母親「ヒミ」もそんな世界にいて、彼女が火を巧みに操りワラワラを捕食するペリカンと戦う様子は、彼女の一族が軍需産業で繁栄していることを示しているように見えた(恐らく父親は一族が選んだ事業に有能な入り婿)。五行思想だと火(火気)は軍事や権力、即ち「パワー」を表す。彼女の操る火も同じものと個人的に解釈した。同時に、ヒミはかの有名な邪馬台国(ヤマト国と読む説あり)の女王卑弥呼の暗喩ではなかろうか?
古今東西、パワーを用いた戦い(=パワーゲーム)は、敵を倒すだけではなく守るべき者達の命も巻き添えにしてしまう。それは大叔父の作った下の世界も同じで、彼女も火(パワー)を使ってワラワラを巻き込んで犠牲にしながら戦うことでしか(パワーゲームでしか)ワラワラを守る術を持たない。これは「ナウシカ」のクシャナや「もののけ姫」のエボシに通じる(久子も夏子も、顔がエボシそっくり)。
言い換えれば、大叔父の作った世界は下の世界も現世も「子孫を守るためには子孫を犠牲にする方法しか存在しないパワーゲームの世界」であり、そのアンバランスな矛盾と自己破壊性を抱えた世界だったというわけだ。丁度現世も帝国主義が関与した戦争中でヒミvsペリカン戦のような有様だったのは言うまでもない。現世は、下の世界の様子が反映される現世(うつしよ)なのだろう。
アンバランスな矛盾と自己破壊性を抱えたパワーゲームの頂点を目指していたインコ大王が大叔父の作った世界にとどめを刺したのは何とも皮肉な必然だ。インコ大王は帝国主義に染まった大日本帝国の象徴でもあるだろう。80年近く前、自らも帝国主義に染まった日本は(帝国主義の総本山たる大英帝国からの)インド独立を支援しつつ自らも崩壊していくことで世界的にも帝国主義が優勢だった従来の時代運気を崩壊させた。ある意味自爆テロ。

飢えと争いが基礎を形作る世界の中、時にペリカンに命奪われるワラワラ達もまた、魚の命を食べて将来の誕生力を養っている。魚(金運・豊穣)は、「生かされていない」のだ。もしも魚(金運・豊穣)を真の意味で生かすことができる世界であれば、飢えは解消されていただろうし、ワラワラは捕食されていないし、火気を使った戦い(パワーゲーム)で犠牲が生まれることもないだろう。だが大叔父が作った世界は魚を生かす仕組みを持たず、豊かな世界を作ることは出来なかった。魚は消費されるだけで生かされず、数を増やせなかった。
結局、ペリカン達の飢えは大叔父の作った「魚の少ない世界(塔)」が崩壊した時その身が現世に押し出されたことで解決したようだ。当初はワラワラを食べるペリカンを「悪」と見なしていた眞人は、ペリカン達の事情を知りペリカンの視点に立って考える経験をした後、「飢えたペリカンと捕食されるワラワラ」の双方に心痛めるようになっていた。そんな主人公は魚の少ない世界(塔)の崩壊により現世にまろび出たペリカン達を見て、「よかった」と安心している。即ち、大叔父の作った世界(塔)が崩壊して以降の現世は、「魚(金運・豊穣)が少ない世界」ではなくなる模様だ。恐らく、魚が生かされ数を増やす世界になっている。というのも、塔の崩壊した現世で大量発生する鳥のフン。あれは魚の餌にして肥料の素材でもあるのだ。魚と鳥の間に豊かさをもたらす調和した循環が生まれる暗示だ。あのフンにはその後の世界と主人公一家の行く末をほのめかした描写だと思う。そして我々の未来をも暗示している。
(魚を真に生かすのに魚のフンだけでは不十分で、魚を食べた者のフンも要る)
調和した循環(好循環)の欠乏こそが創造性を欠乏させ、飢えを招く。

 

※主人公の悪意と癒し
また、主人公は転校初日に地元の子供達とケンカをした時、(事業者としては有能だがデリカシーが微妙な)父親の反応と行動を全て見越した上で自ら「石」をふるいあの言動をした感。彼がふるったその石は、叔父が下の世界構築の基礎に用い、墓の主が遺した悪意と同じものだ。彼もまた、愛に飢えたことを動機と原動力に育てた悪意で自分のケガを心配し憤慨し学校に圧力をかけるであろう父親を操り、己を拒絶した小さな社会にチートなパワーゲームを仕掛けたのだ。しかしその後、下の世界で母親の愛情を象徴する滋養に満ちたパンを食べて(母の愛を自覚・

統合して)パワーゲーム(悪意)の動機と原動力だった飢えは癒された。
パンと同じ意味を持つ現世での照応アイテムは言うまでもなく母親が主人公に遺した児童文学「君たちはどう生きるか」だ。
飢えが癒えた主人公はかつて己の飢えが生んだ自分自身の悪意と向き合い、愛に飢えてパワーゲームを選んでいた時には選べなかった別の選択「友達を作ること」を選ぶ。友情は、心の飢えとは両立しなかったようだ。
ここで、彼の内なる世界において、飢えと悪意を基礎にした世界(塔)は崩壊した。永久に失ったかに思えた母の愛は主人公の中で甦り、本を通して成長という名の血肉となり、彼と共に生き続けるだろう(このブログ的解釈:地母神復活とも照応?)。
(もしこの作品が主人公を宮崎駿監督の代役とする自伝的側面があるなら、幼い頃母の愛に飢えていた彼自身にも同じ癒しが起きている可能性がある。もしその場合、母の愛に飢えた子供時代で時間を止めていた心の一部が成長を再開するのでアニマ(理想の女性像)の年齢も子供時代より上がると思う。即ち、ロリコンじゃなくなるし、彼のアニマ象は『母性を宿す少女の姿』ではなくなる)

◆あくまで個人的解釈その②:主人公と夏子
主人公がアオサギに誘われ、カエルが押し寄せてくる夢を見た時に夏子が現れて鏑矢を射る。鏑矢は「事始めの厄除けと開運」を意味する()。夏子はあの時点でこれから主人公の身に起きる冒険とその理由を予見し、密かに応援していたのではないだろうか。
もしその場合、彼女は出産を終えるまで下の世界から現世に帰りたくない反面、いずれ自分を連れ戻しに来る彼の冒険を予見し、その身を案じてもいた感。自分が望まぬ行動をする彼を応援するのはなぜか。産むまで帰りたくない気持ちと主人公を案じる気持ちが複雑に葛藤していたと思う。

夏子が現世に帰りたがらず下の世界で出産したがったのは、大叔父の作った世界=近代日本の時代運気(悪意を含有するがゆえに自分達の一族を有利に繁栄させてくれる運気だが、もう長くない)に依存し強く執着する思いの表れではないかと思う。彼女が下の世界の産屋に守られて出産したい理由は、不安定な情勢下で出産・育児する不安から今まで一族を下支えしてくれていた時代運気に少しでも多くすがりたい、生まれて来る子供に少しでも多く運気の恩恵を浴びさせて時代運気(=大叔父の作った世界)の後を継がせたいからか(インコ達と利害一致)。それを邪魔されたくなかったので産屋で自分を連れ戻しに来た主人公に対する拒絶と、危険な産屋からすぐに離れて欲しい気持ちの両方が「大嫌い」と言わせたか。
主人公は「大嫌い」にも引き下がらず、産屋の式神に襲われながらも引き下がらず、夏子に「帰ろう」と訴え続ける。その様子から彼は叔母の自分を「守るべき大切な家族」と認識していることに気付き、またヒミの願いが届いたことによって夏子の心はとうとう動いた。悪意を帯びた従来運気の加護よりも、自分を守る意志を持つけなげな少年の家族愛を選んだ。
本人の望みとはいえ、悪意の石(遺志)に覆われた産屋で出産しなくて良かったと思う。生まれた子が悪意に染まりやすくなるから。
(上へ飛んでいくワラワラが『これから生まれる者達』だということは一度見ただけで不思議と分かった。主人公が手で支えてあげたワラワラこそ、彼の弟になる者ではなかったか?)

夏子がつわりで寝込んでいたとき、主人公は彼女を思いやっている。つわりが酷いと聞いて彼女を見舞った時、主人公はさりげなく部屋に置いてあったタバコを持ち去っている。恐らくそのタバコは父親の忘れ物で、父が妊婦となった妻の前で無頓着にタバコを吸っていたことを表す(80年前はままあったことらしい。現代人ほどデリカシーが発達していない時代だ)。主人公だけは「タバコの煙は妊婦と胎児によくないし、ましてやつわりが重い夏子にタバコの煙とにおいは辛かろう」と無意識にでも判断したわけだ。
主人公は母親を亡くした悲しみから、初めのうちは感情を抑圧ぎみで誰に対しても心を閉ざしていて夏子にも懐かないように見えたが、あの時点で夏子を無意識に労わっている。夏子の事を「お父さんが好きな人」と一歩引いた視点で表現していたのは、本人は産屋に来るまで夏子が好きなことを自覚していなかったからかもしれない。実際は得体のしれない塔の中や「下の世界」を躊躇なく進んでいく時点で、彼はとっくに夏子を「大切な守るべき家族」と認識している。夏子は無意識のどこかでそれを知っており、そんな彼が自分のために行う冒険を予見していたからこそ、あの時鏑矢で彼の前途を祝福したようにも見えた。それは同時に、決断を下す自分と子供の未来への厄除けと開運を祈る儀式でもあっただろう。

◆あくまで個人的解釈その③:アオサギ
アオサギは「ナウシカ」のクロトワや「もののけ姫」のジコ坊と同じ意味を持つ存在に見えた。一説ではクロトワもジコ坊も宮崎監督自身の生臭く人間臭い通俗的側面を象徴しているとのこと。どのキャラも決してきれいごとだけで生きていられる存在ではなく、事情や条件次第、又は善悪基準次第で善にも悪にもなりうる清濁併せ持つ者だ。宮崎駿は「それこそが人間」と考えているのではないかという印象は漫画版ナウシカの終盤を見た時にも感じた。そこでは、自らの悪意によって滅んだ文明の残滓である墓所の主によって作られた「善意しか持たないようにプログラムされた新人類の卵」について、周辺国からは簒奪者・侵略者として恐れられ恨まれてきたヴ王は「そんなものは人間と呼べぬ」と評した。
確かに、旧人類を滅ぼしそんな新人類の世界を作る発想こそ人類が悪意を持ちうる証だし、ある意味でその発想自体が究極の悪意かもしれない。ここは「13個の悪意に染まらぬ石で新世界を~」というくだりとつながっている感。
アオサギが「養殖魚を食べてしまうペリカン目の害鳥」であることも意味深だ。あれは飢えてワラワラの捕食者(悪)になったペリカンの親戚で、「飢え」という事情・条件次第ではアオサギもペリカンと同じことをするということ。
結局、人間は誰もが事情や条件次第でなりふり構わずどんなエグいこともしうる生き物(事例:,)で、アオサギ含むペリカン一族も帝国主義インコ達もそんな人間が作る社会の象徴だ。逆に、人間は事情・条件次第では大変ハートフルにもなれる。同じ人間がどちらにもなりうる。どちら寄りの運勢になるかは本人が持っている因子次第だ。

飢えに起因する問題の根にあるのは人間が持つ(生存本能が大きく作用した)生まれながらの気質ではなく、人間がなりふり構わずエグいことをする事情と条件がそろってしまうこと、そうなる運勢が発生する因子を持っていることだ。ペリカン達やアオサギもその因子を持っている。
そんな因子が作る運気の流れがどれだけ飢えと不利益と損失をもたらすかは言うまでもない。飢えて奪い合うからまた飢える悪循環が起き、豊かさは「偏る」だけで循環しないから全体量を増やさない。多元的な豊穣の好循環など夢のまた夢だ。そんな条件下では誰もがなりふり構わずエグいことをするようになりうる。ならば、そんな事情や条件がそろわない方向に、即ちそんな運勢の因子を作らないように母性=創造性=豊穣性を抑圧しない方向に運気の流れを変えていくことだ。
それに寄与する全ての物事はどんな些細な事でも開運法になる(一例)。眞人が母性愛の飢え(=創造性の飢え)を癒す冒険に出たこともまた、そんな開運法の一つだ。その結果彼は悪意(パワーゲーム)ではなく友達作りを選び、さらなる開運の因子を作った。
豊穣循環を起こす運気に欠かせない「母性(創造性・豊穣性)」が抑圧され不足している社会は、母性愛に飢えていた頃の眞人が象徴している。
巨匠の呪術は、社会に対してそういう開運を願ってのことなのだろうか。

基本的に、金運(豊穣性)が最も力を発揮する条件は、「調和」だ。金運を上げたいなら、出来る限り調和した状態や方向を選ぶこと。すると自ずと金運が好循環する方向を選ぶことになる。
ゆえに母性=創造性=豊穣性(金運)を抑圧しないようにするには、調和を抑圧しないことだ。「悪意」の世界にはその要素が欠落している。

ユダヤ密教のカバラだと調和と愛は同じ「ティファレト」に分類され、ティファレトは平和や金運も司る金星と照応する。
その視点だと、母性に宿る愛情「母性愛」とは「創造性(豊穣性)に宿る調和」だ。母性に愛が不可分なように、豊かさには調和が不可分ということでもある。愛のない母性があり得ないように、調和の無い豊かさや調和の無い創造性はあり得ない。あるとすれば偽物だ。
眞人は失われたと思っていた母性愛、即ち「豊かさ(創造性)をもたらす調和」を取り戻したということになる。これが多元的豊穣循環には不可欠なのだ。作中では眞人が母性愛を取り戻して帰還した現世で鳥(人)と魚(金運・豊かさ)の間に鳥のフン(豊かさを生かす=循環させるもの)が介在する事で調和した豊かさの循環が生まれる暗示が出ている。人が魚を生かし、魚が人を生かす調和した持続可能な循環。まさに地母神からの恵み(母性愛)だ。


◆巨匠の呪術~鏑矢の祈り~
破壊と創造は陰陽のように表裏一体で、互いに調和し連携をすることで万物の生々流転と新陳代謝を引き起こしている。生と死が表裏一体なように。そんな陰陽の片方が縮小し弱まれば、もう片方が拡大し強まってしまう。そうなればバランス(調和)が崩れてもう片方が暴走する。
破壊をもたらす「悪意」は、創造性(時に母性や豊穣性となる調和と不可分のもの)の抑圧によって生まれる。抑圧してきた創造性と調和の視点を解放すること。「いかに勝ち取るか」ではなく、「いかに調和させ循環させるか」だ。眞人はそれを学んだので交流を抑圧するパワーゲーム志向から交流を調和・循環させる「友達を作る」という発想に変わった。結局、戦いや競争(調和の抑圧)は偏りと格差を生むだけで豊かさの全体量は増えず、循環もせず、創造性(豊穣性)はない。戦いや競争だけでなく、飢え自体が既に調和の抑圧を意味する現象とも言える。創造性の抑圧は、調和(愛)の抑圧だ。調和の抑圧は多面的・全体的な広い視野の抑圧による分断的・一面的な視野から生まれるのだろう(例えば、ヒトを善人/悪人で分ける分断的・一面的な視野に陥り、一人一人が条件次第でエグいこともハートフルなこともする『清濁併せ持つ存在』と見なさず、ゆえに相手の視点で考えることも無く、単純な善悪で機械的に判断するのもその一種)。分断的・一面的な視野になってしまうと多面的・全体的な視野を失い調和の道を見つけられない。それが飢えや争いや運気の低下を招く。
まとめると、【創造性(母性・豊穣性)の抑圧⇔調和(愛)の抑圧⇔全体的な広い視野とそれに基づく活動の抑圧⇔分断的・一面的な視野とそれに基づく活動】てところか。今までの人類史は右から左へと進みがちだった【】内。今度は「の抑圧」を消して、左から右へ進んでいけばいい。眞人のように。それである程度は開運因子となる。「抑圧」が「復活」に書き換わるケースも多少はあるだろう。

この物語が象徴しているものと同じことが、(大叔父も関与した)20世紀前半のカルマを再現している現代においても起きることを願う。
飢えによる「悪意」と充足による「愛(調和)」の双方を知ったからこそ主人公がやり遂げたことは、我々にも出来る事だと思う。そのためにカルマは再現されている。
(そも、人類は技術面で既に飢えを克服している。飢えを克服できていなかった頃に調和が抑圧された状態で作られた従来の経済システムがその活用を阻んでいるとも言えるし、飢えや格差のある方が有利だし人をコントロールしやすくて好都合だと考える心飢えたパワーゲーマー達もいる?)。
巨匠が最後の作品を通して仕掛けた呪術は、我々がこれから時代運気の中で取り組む事に対する「事始めの厄除けと開運」を願う鏑矢なのかもしれない。
(多分、こういう事とも関係あると妄想。いわば『鳥と魚を循環的に生かす地母神の愛と豊かさ復活』)←カヘッ

 

「シンギュラリティ」で妄想「カヘッ(貨幣)」やラストシーンで暗示されてる未来についての手がかり?

「天空の城ラピュタ」のオカルト解釈

漫画版ナウシカで妄想

独りぼっちの革命と独裁独裁を生む革命もまた、全体的な広い視野を持っていない証。一面的な狭い視野に基づいて活動した証。

とある東の国の物語2

霧島とレイラインとスカイツリーの奇妙な話作品と一部共通するテーマ。風を受け走り出す 瓦礫を越えていく♪

2022年6月27日 (月)

救いのためならどんな犠牲もいとわない?

以下に描いたことは全て個人の感想です。

 

人生の中で耐えられないほど苦しい事や辛いことを経験している人が世の中には沢山いる。解決方法が分からずに長く苦しんでいる人も多い。
そんな人達が心に蓄積させた「救われたい」という思いや念の強さは、時に想像を絶するレベルである。
時には救いを求める念が生存本能を上回って自ら死を選ぶ(=死を救いにする)ことさえある。
解決方法が分からず長く苦しむこと耐えかね、「これこそが救いだ」と信じる(自己暗示する)事で楽になりたいと無意識に思ってしまえば、それが出来てしまうのだ。例え救いと認識した方向や手段が筋違いだったり現実逃避的であったとしても。一種の心理的ターミナルケアみたいなものだ。

人の持つ「救いを求める念の強さ」は、時に自分が救いと認識した方向に全生命力を傾けることが出来てしまう。それこそ、なりふり構わず命がけで自らを救おうとするのだ。どんな犠牲も厭わずに。他の全てよりも優先できてしまう。理性や社会性、倫理観や生存本能を凌駕してしまうことさえある。それは、人間がいかに強い生命力を持っているかの証でもあるのだと思う。ある意味では。

そんな強い生命力に裏打ちされた救いを求める念の強さを悪用してしまえば、恐ろしい事が起きうるのも無理はない。
楽になりたくて救いと認識した(自己暗示した)信仰や信念のために(=救いのために)自分や家族や他人の人生を狂わせ、自他の全財産を捧げ、詐欺を働き、職権を乱用し、情報漏洩し、地下鉄に猛毒をまき、爆弾を仕掛け、カミカゼをを模した自爆テロで大勢殺すなど、平気で反社会的な凶悪犯罪をすることさえある。中世の魔女狩りだって似たような理由だろう。己の信ずるものこそ理性となり、救いこそ正義になることがある。
(自分や他人を犠牲にしてでも続けてきた崇高なはずの宗教活動。今更になって間違っていたなどとは思いたくない心理が一層信仰に拍車をかけることもある)

ヒトは、追い詰められたり耐えられなくなれば何をするか分からない生き物だ。それが本当の救いかどうか確認・検証することよりも、それが本当の救いだと自己暗示する方を意図せず無意識に優先することがある。本人の無意識は「ウソでもいいから救いや希望を得たと錯覚したい」からだ。そのためなら、命を懸けることさえある(後述)。その性質が「信仰(自己暗示)を辞めたくても辞められない」という事態さえ引き起こす。しかも、無意識に自己暗示をやってしまうと、本人には自己暗示した自覚がない。自己暗示をくらった本人の顕在意識はウソを「確認済みの事実」と認識してしまうので、自分の信仰(自己暗示)が異常な内容であることに気が付かない。どんな理屈もかなわない厳然たる「事実」に対して「それはおかしいよ」「錯覚だよ」と指摘する側こそが不都合な事実を歪曲・隠蔽・否定しているか、事実を理解したり受け入れる能力がないと認識することも多い。それがきっかけで「親しい人達ですら、自分を本当には理解できないのだ」とか「敵に回ったのだ」などと思い込み心を閉ざすことさえある。
これは宗教だけでなく政治的な過激派や革命家、狂信的な陰謀論者にも占い依存症にも共通する危険性だ。
中には教祖さえ自分の教義に対して同じ自己暗示をする。『自分の思想こそが世界を救うのだ』とウソでもいいから錯覚したいのなら、本当に救いたいのは世界じゃなくて、世界に投影した自分自身の問題だろう。これ、革命家にも共通する心理かも。自ら救いの代償行為にした自己暗示に大勢の人間を巻き込み人生を狂わせているとしたら・・・

人間の持つ、「理屈よりも事実を重んじる」という理性的な部分が、理屈と事実をあべこべに入力されて誤動作してるかのようだ。

そんな厄介な自己暗示も、本人が自分の苦しみを理解し、苦しみゆえに自ら望んで自己暗示してきたことを受け入れることが出来れば自己暗示(信仰)は解除できる。苦しんできた自分の心と向き合うことで、本人が辞めたいのであれば信仰は辞められる。
なので、カルトにハマった本人を助けたい場合、まず「本人が入信前から抱えて来たであろう悩み苦しみに寄り添うこと」がカギになることもある。
宗教やギャンブルや酒や占いなどを問わず、何かに依存しなければor現実逃避の自己暗示をしなければやっていけなくなるほどの事態には根本原因が一人一人に必ずあるはずなので、そこへのアプローチとケアが必要だ。ウソではない本当の解決方法も探っておきたい。その一助としてその道の専門家に相談しやすい環境づくりや、(精神疾患やトラウマなどにも対応できる)振動治療とレベルの高いカウンセリング治療に保険を効かせることが出来ればいいと思うが、日本は未だにカウンセリングが高額になりやすく、カウンセラーやその他専門家に相談するよりも占い師や宗教を選ぶ人が多い; 知らないうちに視野が狭くなっていて本来持っている解決能力が発揮できずにいるケースもある。

それほどまでに救いを求める念が強くなっているということは、それほどまでに追い詰められている、何か耐えられないほど苦しい事や辛い事や不安な事を抱えていて、解決できずにいるという事でもあるのだろう。自覚の有無を問わず。
(幸せな生命力の使い道を見つけられずにいる苦しみもその一つかもしれない)

 

余談:
人類は、人々の苦しみを悪用して、救いを求める念を好都合な方向へ誘導し操りけしかける術を知ってしまった。人々を自己暗示へと仕向ける術を知ってしまった。
時には、人々の救いを求める念を悪用するために、予め人々を苦しめ追い詰めておくことさえある。「溺れる者は藁をもつかむ」とは、よく言ったものだ。用意した「藁」を掴ませるには、予め水に放り込んで岸にたどり着けぬよう棒で叩いておけばいい。溺死寸前にしてやれば苦痛のあまり藁クズを救いの命綱と錯覚してくれる。大切なのは、溺れさせ役と藁を差し伸べる役が裏で組んでいると知られないようにすること。溺れる人々に藁を浮き輪だと自ら誤認(自己暗示)するよう仕向ける事。自己暗示なら結果がどうなろうと自己責任で済ませられる。

例えば、「あらかじめ標的に肉体的/精神的苦痛を与えておいて無意識に救いを求めさせ、頃合いを見て用意しておいたものを差し出して『これが苦痛に対する救いになるのだ』と自己暗示するように仕向ける」という方法がとられることも多い。カルトや自己啓発セミナー、ブラック企業(ブラック研修)、軍隊、テロ組織/過激な政治組織、引きこもりや不良の更生施設などでは昔からこの方法が使われてきた。 
さらには、国家や宗教や自己啓発系、ブラック研修といった大人の社会どころか学校や教育虐待の家庭や部活ですら行われている。終わりも逃げ場もない意に反する耐え難い苦行を強いられ心身がが悲鳴を上げている子供達が勝利や成果や親の誉め言葉だけを心の救いとするように(それぐらいしかすがるものが無いように)仕向けられ、時にはついていけなくなった脱落者や退部者、チームの足手まといになったケガ人や試合でミスした人間を激しく恨んで攻撃したり、本人も結果を出せなかった(救いを掴めなかった)自分自身を憎悪し自己破壊することもある。そういうのがイジメや自傷行為や不登校や精神疾患や自殺の一因にもなっている。

冗談:
今この瞬間も、世界中の人々がそんな「苦しみを悪用した手口」の標的になっているのかもしれない。丁度今、人々は新型コロナや不景気や物価高や食品値上げや増税やらで溺れつつある。接種者の免疫を抑制し疫病に弱くさせる副作用を持つワクチンなんて藁その①か?
「たっぷり溺れさせて、頃合いを見て用意した藁を投げてやれば学習しない愚民共は簡単にすがりつく。次々に藁を投げてやればさぞ滑稽だろう(黒笑)」とか言いながら豪邸でブランデー片手に高い猫なでる眼帯したオジサンが目に浮かぶ(熱中症)。

梅雨明け前なのに耐え難い猛暑の中、そんなふうに妄想すれば背筋が冷えて暑さも和らぐ(救われる)と強く信じてみたが、別にそんなことはなかったのでエアコンを使った。
2分で救われた。

追記
カルト宗教のマインドコントロールから家族を守る方法、救出法:よくある大失敗の防ぎ方

カルトにハマった人がいる場合、素人が「マインドコントロールを解こう」としてしまうと逆効果になりやすい。入信したカルトやマインドコントロールの話は直接せず、本人が入信前から抱えて来たであろう問題や悩みや苦しみについて寄り添い、それについて相談に乗ったり「何かできることある?」と解決に協力したりするだけでも入信動機の苦しみが薄れて本人の雰囲気がかなり変わることもある。
悪質なカルトによってはそれを防ぐために他者への相談を禁じたり、信者以外との交流を一切禁じることもあるので要注意。その場合は占い師ではなく、専門家へ相談した方がいい。

独りぼっちの革命と独裁←神様や教祖様ではなく、「自分の思い描く理想社会の実現」こそが救いなのだと自己暗示(信仰)してしまった場合は多分こうなる。教義を信仰するのも大儀を信仰するのも同じ事。

占い依存症防止のチェックリスト
作った当時、「占い師による占い依存症防止チェックリスト」として珍しがられ、朝日新聞の取材を受けた。宗教にお金を使いすぎるのも、占いにお金を使いすぎるのも、本質的には共通点が多いと思う。

マインドコントロールと子供達
平成12年時点でも与党とカルトは近しい関係にあったわけで、リンク先記事に載せた当時の教育改革政策の会議が少し変だったのも今なら分かる気がした。


メンタル関係のヒーリング動画集
発達障害関係のヒーリング動画
認知症関係のヒーリング動画
ガン関係のヒーリング動画

2022年5月21日 (土)

光源氏のモデルは花山天皇?

24年大河『光る君へ』主演は吉高由里子 紫式部役で“愛の物語”描く

NHKは11日、2024年に放送予定の大河ドラマ(第63作)のタイトルが『光る君へ』であると発表した。主演は吉高由里子が務め、『源氏物語』を書き上げた紫式部/まひろを演じる。脚本は大石静氏が務める。

 紫式部は、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書きあげた女性。「光源氏」の恋愛ストーリーの原動力は秘めた情熱と想像力、そしてひとりの男性への想い。その男性の名は藤原道長。変わりゆく世を自らの才能と努力で生き抜いた女性の愛の物語だ。

日本で放送されるシリーズものの時代劇で鎌倉時代以前を舞台にしているものは少ない。普通に時代考証等が難しいからというのはあるだろう。
さらに、古い時代ほど(とりわけ女性の)記録が必ずしも多く残ってないので当時の検証や時代考証が難しい分、どうしても脚本家の空想に頼る部分が多くなって視聴者の好き嫌いが分かれる(視聴率を維持しにくい)可能性はあると思う。ただ、紫式部は日記を遺しているので同時代の女性達の中では比較的記録が多い方なのかもしれない。

光源氏のモデルになった人は在原業平や源高明など複数いるとされている。個人的に、モデルの一人になった可能性が高いのは道長とかいう野望ギラギラのオッサンよりも、(藤原氏の陰謀もあって)同時代に若くして政界から引退した花山天皇(紫式部の父の教え子で大恋愛した相手と死別。後に相手の妹と交際)の方ではないかと思う。恋模様だけでなく、立場的にも「帝の息子ながら政治力を持たない」光源氏と似ている。
ただ、花山天皇をモデルにしてドラマの脚本を作った場合、野望のために天皇を利用したり引退劇を画策した藤原氏(道長含む)のイメージは良くなろうはずがないw
今でも藤原氏に至る家系の有力者が多い日本。そこら辺は忖度が働いたかもしれないと妄想するオカルト陰謀脳であった(いとおかしい)

オカルトついでに書くと、実は紫式部とか道長とかと同時代の前世記憶(道長とは面識あり)らしきものをかなり詳しく思い出しネットにまとめが作られた方がいる。その方の記憶によると、当時のご本人は身分は高かったものの若い頃は周囲への反発やストレスから奇行に走ることもあり、その高貴な境遇は決して楽ではなかったようだ。心許し合えた愛する妻を若くして失い、やがて出家したという。寂しさゆえに女好きの性格だったところとか、光源氏に似ている。
その記憶から推測するに、ご本人の前世は、まさか・・・?

2018年1月 3日 (水)

「君の名は。」で妄想

地上波で放送された「君の名は。」を鑑賞し終えた。以下は第一印象に基づく妄想。

 

まず、彗星の名前「ティアマト」はシュメール神話の混沌(破壊と創造の源泉)を司る女神から来る。
彗星が落ちたことで糸守湖はひょうたん型になった。ひょうたんは五行だと金。豊かさの象徴でもある。新クレーターに水が溜まってひょうたん型の湖になった様は五行思想で言う「金生水」か。さらにひょうたんは「貴重な種(データ)を入れる容器」として使われてきたものでもある。
また、作品で印象的に表れる「扉」。これは「新しい世界や異世界(世界線)との境界」という意味の他に、「自己発見」という心理的象徴がある。作品の扉が出てくるシーンにご注目。

ヒロインの名前「三葉」は、恐らく三つ葉のクローバーの花言葉「私を思い出して・約束」から来るのではないかと思った。主人公の名前である「瀧」は心理学的象徴として「健康的な感情の解放と表現」というのがあり、また二人が流す涙(無意識下に抑圧されてきた心の解放=心を思い出す様)でもあるだろうか。 いわば、無意識下に抑圧され無自覚な心を自覚させようとする働きの一種。

◆思い出すべきもの
次に、三葉は瀧のアニマ、瀧と三葉のアニムスという前提で解釈すると、二人は「思い出すべきもの(三葉)」と「思い出すべきものを思い出させる能力(瀧)」という対の存在になる。三葉にとっては「思い出す能力(瀧)」の存在を思い出すことが重要になる。それが彼女の中に眠っている可能性を象徴したアニムスなのだ。
(※アニマ・アニムス:理想の異性像。抑圧された自分の個性や可能性を象徴していることが多い)

では「思い出すべきもの(三葉)」とは何なのか。
それはおそらく、「日本人の集合無意識領域(=日本人のDNA=組み紐)に抑圧された精神性や感性(=形骸化し因習化した空虚で意味のない伝統ではなく、その伝統を創った意味や背景や動機に存在する心性)」じゃないかと思った。即ち、日本人がDNAの中に持つ歴史的な資産(=貴重なデータ・種)ともいえるもの。抑圧された日本人の個性であり、それを思い出すことは日本人(のDNAを持つ者)にとって「自己発見」と言える。
そんなDNAに記憶された精神的資産が「糸(個人単位のDNA)」や糸が合わさり集約された「組み紐(集団単位のDNA記憶=集合無意識の記憶)」で象徴されている気がした。作中で組み紐は時間(歴史)のシンボルとして扱われてきたが、糸をより集めたような二重らせん構造のDNAもまた命の時間と歴史を司るものだ。
「糸守」とはまさにその心性・精神性のデータが貯蔵されている場所であり、現状では外の世界から隔絶=封印・抑圧されたまま外界に広く生かされることなく、意味(及びそこに秘められた心性・精神性)を失い形骸化した因習に縛られるだけの閉塞感を抱えた状態でもある。その現状に幻滅し背を向けた結果、土建屋と癒着し腐敗した政(まつりごと)に耽る三葉の父の姿は現代日本の象徴か。

この閉塞感を打破するには、心性・精神性を「思い出す(集合無意識規模でDNA記憶がONになる)」ことが必要。その思い出す働きを担ったのが「瀧」であり「三葉」であるという・・・
そのDNAに記憶されている心性はおそらく東征時代末期の1200年前、彗星が最初に落ちた頃から既に抑圧が始まっており、江戸時代(糸守で大火のあった200年前)にも抑圧が発生した可能性がある。
そしておそらくは現代保守の祖となる近代東征時代(=明治時代)にも発生していたはずだ。我々が伝統的な文化や価値観、日本人の心性を代表するものだと思っていた物事の中には、明治時代になって人工的に作り上げられたものがかなりある()。 初詣だってその一つだし、「結婚しないことは恥」という古そうな価値観だってその一つだ(江戸時代の結婚率はそんなに高くないし人口の大多数を占める庶民の結婚は夫婦別姓・夫婦別財だったという)。

◆形ではなく中身
なお、近代東征末期に生まれたお祖母ちゃんの「一葉」という名前は一つ葉のクローバー花言葉「始まり」、
同じく二葉の花言葉は「(ヒロインを生み出すに至る)素敵な出会い」から来ているだろうか。妹の四葉は言うまでもなく「幸運・幸福」。
一葉の代から既に「思い出そうとする流れ」は始まっており(しかし1度目の挑戦は失敗)、次のチャンスは三葉の代に訪れる。いわば隔世遺伝のような感じ。
伝統の「形」を受け継ぎ保存するのではなく、形にこだわり囚われ縛られるのではなく、時代にマッチした形に魔改造されようが全然別の形になろうが決まった形が無くなろうが、そこ(=器=ひょうたん)に吹き込まれる「魂」となる精神性や心性・感性こそ大切に維持し運用・活用しうる資産であり豊かさであるということかもしれない(ひょうたんは豊かさの象徴でもある)。←江戸時代以来の生前退位を決断した今上の心にも似た要素ありそう?

伝統に秘められた動機や意味や理由の源にある(魂・心性)が失われ形骸化した因習の支配する世界(タロットなら塔)から「思い出すべき魂(ラテン語でアニマ)」を救い出す(思い出す)という側面が「君の名は。」にはあるかもしれない。
我々の中に三葉と瀧はいて、今も夢の世界(無意識~集合無意識の世界)で奔走してるかもしれない(妄想)。それがこの作品が日本でヒットした(日本人の集合無意識が反応した)一因かどうかは定かではない。
もしも我々にしか思い出す(自覚・統合する)ことができず活用できない大切な資産が自らの無意識及びDNAに眠っているのだとしたらぜひともそれを目覚めさせてみたいものだ。311という龍脈大変動を経た今、それが実現する運気の可能性は集合無意識規模で上がっているのかもしれない。
そういえば監督の名前を「新海誠」というそうだが、心理学的に「海」は集合無意識のシンボルとされている。そのため、この作品の監督の名前を心理学的にオカルト解釈すると、偶然にも『新たなる集合無意識の偽らざる心』って意味になるわけだ。

・・・などと妄想し楽しかった。

2017年11月13日 (月)

シン・ゴジラに隠された陰謀論?

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。作品の公式設定とは一切関係がありません。

 

昨日TVで「シン・ゴジラ」を見た。政府のお役所対応や手続きの回りくどさはリアリティを感じたが、ゴジラを倒す方法(在来線カミカゼ)にはリアリティを感じなかった。ゴジラによって千代田区の南部と東部は焼け野原になったが北部と西部、そして皇居が無傷なのは大人の事情によるもの。破壊活動に際してあらかじめの配慮をゴジラに根回しするのが日本国の伝統的鉄則だ。そんなことを考えていたら、またむくむくと妄想が湧いてきたので以下に記す。

◆ゴジラの背景に一極派と多極派の攻防?
ゴジラは人々に忖度して東京駅(風水的には富士龍脈終点&北龍バイパス終点)の線路上という丁度いい場所に居合わせてくれたのが良かった。お蔭でヤシオリ作戦が成功したのだから。
ゴジラを凍らせる(このブログ風に言うなら火気流失させる)のに電車(風水なら水龍=金運・経済の象徴)を活用するのはあまりリアリティを感じない作戦だが、この作品自体が陰謀論視点で見た世界情勢のメタファーになっているものとして妄想したら、結構面白いかもしれないと思った。
以下、シン・ゴジラを陰謀論の世界ではお馴染みの、「一極派と多極派」のメタファーとして妄想した結果。
まず、ゴジラが一極派(英米軍産複合体勢力。世界のパワーバランスを英と密接な米国一極覇権型に保ちたい)で、それに立ち向かう側の赤坂・里見やキヨコの上司達が多極派(英米軍産と利害対立する資本家勢力。世界のパワーバランスは米だけでなく有力な世界各国で担う方が商売上好都合)のメタファーと脳内想定した。
従来は劣勢だった多極派が強大な一極派に対してよくやる手口が「暴走させて自滅作戦」という。要するに米国を拠点とする好戦的な一極派を煽り米国を「世界の警察」にして各国のもめ事に介入させ戦争を起こし、しかも泥沼化させることで損害を生み出し癒着している政権の支持率を落として力を奪っていくというやり方である。ベトナム戦争やイラク戦争などでこの手口が使われたという噂。
作中ではその「暴走させて失敗作戦」のメタファーとして、「ゴジラ(一極派)を東京におびき寄せ大暴れさせることで邪魔者を一掃した後自滅に導く陰謀」が展開しているように見えた(幻覚)。

◆牧教授と里見・赤坂、キヨコの上司達はグル?
そもそもの話、ゴジラはわざわざ東京に現れて大暴れしなければ、倒されずに済んだのだ。あるいは自衛隊に狙われて一度海に逃げた時、それっきり戻らなければ死ななくて済んだ。けれど、まるで何かの意志によって誘導されたように東京(しかも東京駅)へ舞い戻って退治された(=自滅した)。
ゴジラ(=一極派)大暴れの仕掛人が日本の大学教授と言うところも意味深。あの教授はゴジラを意図的に暴走させ、また一方でゴジラを倒せる(火気流失させ機能停止させる効果のある)凝固剤(このブログ風に言うなら水気)づくりのヒントも残している。最終的には暴れるゴジラを倒せるように仕組んでいるのだ。
一極派(核兵器開発と日本における市街地実験の黒幕でもある)の暴挙によって被曝死した妻の仇を討つべく、牧教授は長年にわたり計画を練って一極派(=ゴジラ)を「暴走と自滅」に誘導する。その復讐心を利用し、ゴジラの上陸をあらかじめ知っていた米国内の多極派(カヨコの上司含む)や日本側の多極派(外遊で難を逃れた里見首相や赤坂)達、それに利用された主人公や巨災対の面々・・・
戦後はずっと一極派の傀儡だった日本政府もまた、「内閣総辞職ビーム」で崩壊する。

◆グレートリセットで「日本を取り戻す」?
ゴジラの大暴れが全て仕組まれたものだとすると、竹野内豊扮する赤坂秀樹(しかも元外務官僚)が主権の中枢にのし上がったラストシーンのセリフが印象的になる。
せっかく崩壊した首都と政府だ。まともに機能する形に作り変える」
「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた。今度も立ち直れる」
ゴジラが大暴れしてくれたお陰で邪魔者は全ていなくなり好都合だと言わんばかりのこのセリフ。
そう。この国のシステムは、表に現れぬ本当の「中枢」(一部の官僚はその手下)を潰さなければ真に崩壊しない。それどころか、システム中枢が利益と判断すればこの国を意のままに破壊できるし、意のままに再生させることも出来るのだろう。「邪魔者を一掃するグレートリセット」のためなら東京にゴジラを放ち壊滅させたってかまわない。土建屋とその利権層は復興利権でガッツポーズし一層の忠誠を誓うだろう。
そのシステム中枢は、かつて英国(一極派)の傀儡になるのと引き換えに江戸幕府を解体し日本を近代化させ、第一次大戦による英国の息切れと日本近代化による産業革命に乗じて一極派の傀儡脱出&主導権奪取を試みるも(中枢部が英と癒着したやはり一極派の米政権により)こっぴどく叩きのめされて以来ずっと対米(対一極派)従属を続けており、「日本を取り戻す」ことができずにいた。その時転がり込んだ「ゴジラ計画(多極派による一極派の暴走と自滅が目的)」のオファーはグレートリセット(=日本を取り戻す=再度私物化する)のまたとない機会であっただろう(妄想)。
里見のパイプを使い核兵器投下の遅延に協力したフランスも、多極派の国である。そのことを考えるとゴジラを倒すために一極派の商売道具である核兵器(牧教授の憎悪対象でもある)を何としてでも使わせたくない理由は単に「被害が甚大だから」という点だけではない気がしてきてしまう(妄想)。
そして、とうとうゴジラ打倒に成功したヤシオリ作戦は、日本がアメリカに依存せず一人で自立して成し遂げる(=対米従属から対米自立への針路変更を意味する)必要があった。

そして「中枢」にとって、千代田区の南部や東京駅はスクラップにしてもいい場所だが、千代田区中心部(皇居)と北部・西部は決して傷つけてはいけない場所である(そこに作中でちょっと出た六芒星の窓を持つ科学技術館もある)。渋谷区や新宿区も同様に、無傷であるべき場所だ。
万が一ゴジラが皇居のシャチホコをむしって食べちゃったりしたらそれこそゴジラ計画担当者の責任間で責任のなすりつけ合いになってしまうにちがいない(電波)。
なお、ゴジラ計画による一般国民の損害に関しては特に配慮されてないことは言うまでもない。作戦に犠牲はつきものぐらいにしか思ってないだろう(陰謀脳)。

◆まとめ
とまれ庵野監督は、意外と陰謀論がお好きなのかもしれない。などと妄想すると楽しかったw
いかなる形かは不明だが、この国で多極派と一極派の攻防による「ゴジラ計画(一極派を暴走と自滅に追いやる=日本を取り戻す)」が実行されるかもしれないが、それはきっと多くのビルや民家が瓦礫になる形のものではないと思う。作中のように「核が落ちる寸前」という危機感の演出はなされるかもしれないが・・・
もしもリアルでゴジラ作戦が行われた場合、崩壊するのは民家やビルではなく、経済的な何かの方かもしれない。というのも、ゴジラ打倒のカギとなった「鉄道」や「血流」というキーワードは、占いの世界だと金運(経済の流れ)の象徴になるものだからだ。わざと経済的な何かを崩壊させる作戦・・・まさに陰謀論w

陰謀論の世界では有名な一極派と多極派、どちらにしてもろくでもない似た者同士の波長を持っている。争いは同じレベルの者同士でしか発生しない(AA略)。彼らを支配し突き動かす弱肉強食とアドレナリンの鎖(敗北の恐怖・飢えの恐怖etc)から彼らが脱出し救われる日を願っている。

2020年4月追記
コロナパンデミックとロックダウン(経済ダメージと引き換えに感染拡大を先延ばしにするだけで効果の程度は不明という声も)によって想定される経済への影響は想像がつかない。アメリカの被害も甚大だ。陰謀脳ならこれがゴジラ計画なんじゃないかと妄想してしまうかもしれないw

2017年8月18日 (金)

「モアナと伝説の海」で妄想

もう2か月ほど前になるが、ディズニーのアニメ「モアナと伝説の海」を見た。CGによる水の表現は秀逸。ご先祖様が出てくるシーンはどれも圧巻だ。今回の妄想は、その作品における主人公の名前「モアナ」はハワイ語で海を意味する言葉だったことでふと思いついた解釈。

あの作品の本当の主人公は、「海」自身なんじゃないかってこと。
作品の設定上、生命の源は海。よって、あの作品に出てくる女神(地母神的)を含めた全ての登場キャラ(=生命)は海自身の中にある「自分の様々な側面(個性)」を象徴している気がした。
海は女神であり心を失った女神テ・カァであり心を奪ったマウイであり劣等感の裏返しに優越感を味わおうとする(優越感を自尊心の代用とする)タマトアであり海賊であり女神の心をもとに戻したモアナでありモアナに旅立ちを促したおばあちゃんでありモアナを生み育てた両親でもあり祖先達でもある。皆が海の化身なのだ
そして海にとって、「女神が心を持っていた頃に大航海を実現していたモアナのご先祖達」は女神の心を宿していた過去の自分自身(=本当の自分)の姿とその可能性を象徴している気がした。
海は女神でもありマウイでもあるので、海は自分で自分の心を奪い隠してしまったことになる。
海は集合無意識の象徴でもある。「モアナ」という作品の主人公である海とは、我々の集合無意識のことであり我々の事かもしれないと妄想した。

私はモアナの物語に、自らハートを取り外してしまいテ・カアという黒い病に陥った海が「心を取り戻してもう一度あの頃の自分に戻ろう」と意図してモアナという少女(化身)になって自らのハートを取り戻す物語を発生させたというイメージを抱いた。海が失った「ハート」は即ち自らへの(そして全生命への)愛でもあるのだろう。

次に、マウイの視点から物語を見る。
まず、「母性」というものは、その個体が「自分の生きる喜びと可能性の自覚・実現(=幸せ)」を促進・支援する機能である。哺乳類の母性本能にせよ地母神にせよそれは同じ。
そして幼少期のマウイは母親に捨てられた時、自分に注がれる母性という愛(幸せを支援・促進する力)を失ったと誤解し、同時に「自分を生かし保護する存在に愛されず廃棄された=自分は尊くない・幸せになれない(=可能性がなくて生きる価値がない)存在」と誤解し自分自身への愛(己を生きる喜びを通しての自己肯定)を見失ってしまった。その結果母性愛を感じ取れず自分を愛せなくなったのでその代償行為として「他人から愛される行為(他者を幸せにすることで利用価値を評価される行為)」にふけり、人々から「英雄マウイ」として大勢から尊敬され愛される存在になっていった。自分の持つ能力に可能性があることや愛される喜びを知ることが出来たとき、彼はうれしかった。それが彼の知る幸せだった。
しかしある日、人々の願いを叶えてあげようとして(人々からまた愛されたくて)女神のハートを岩(女神の身体の一部)から取り外して人々にプレゼントしてしまった。それがもとで女神は溶岩の魔物テ・カァになり、島々の実り(女神からの愛の贈り物)は失われていき、海は黒い病を進行させることになった。
マウイが己への愛を失ったことを動機にした=「母性機能の抑圧」を動機にした代償行為がやがて「女神のハート(=愛)を失わせてしまう」という結果を招く(しかしそれが分かるのはラスト)。

そんなある日マウイはモアナと出会い共に旅をする。そこで敵役タマトアとの戦いに苦戦する。心に自尊心不全と劣等感(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)を抱え、その裏返しに優越感(見下せる相手がいてくれることに根拠を依存した自己肯定)を味わおうとするタマトアは「他者からの評価以外に自己肯定の根拠を持てない(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)」マウイの心の闇を象徴しているようだった。
マウイはモアナと旅していたある日、航海術を教えてやっていたモアナにこう言われた。「あなたを『マウイ』にしたのはあなた自身よ」
自分の力を皆から愛され驚嘆される『英雄マウイ』になるまで磨き活用して可能性を広げ、代償行為とは言え一応は「愛される喜び」を教えてくれたのは他人の力ではなく自分自身の努力や才能である。自分の中の生命力が自分をそんなふうにしてくれたのだ。
それは、自分自身の中に失ったはずの母性的な愛(幸せと可能性を支援・促進する力)が生きていた証ではないか。母性は、失われてなどいなかった。もう代償行為は必要ない。

そこでマウイは母に捨てられた時に失ったと思い込んでいた自分の生きる喜びと可能性を自覚し、既に実現していたことに気が付いたのだ。自分は、とっくに救われていた。
マウイはモアナの言葉を聞くことで自分自身への愛(己を生きる喜びを根拠にした自己肯定・自尊心)を自覚し、また己の中に母性愛を取り戻すことが出来た。それがきっかけでマウイもまた女神のハート(=愛)をあるべき場所へ戻す決意が固まり、一度は離れたモアナの元に戻ってモアナを支援する。
この時、マウイはそれまで自分の英雄性を釣り針に投影し依存していたが、釣り針を駆使してきた自分自身の生命力(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する力)を自覚することで釣り針依存症を乗り越えた。だから釣り針が壊れても自信を完全に失うことは無くなった。そしてこの時から、見失った母性愛の代償行為(他者から愛されること)を動機にした行動ではなく、自分自身を愛する(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する)ための行動をするようになったのだ。その行動の一つが、モアナに協力して女神のハートを戻し、世界に母性愛を復活させることだ(己の中でそうしたように)。自分の能力や釣り針の使い方が、そこで根本的に変容したと言える。

一方、モアナはマウイと離れている間、おばあちゃんの霊と交信する。そしておばあちゃんの問いかけ「自分は何者か」の答えを悟った時、一度は諦めて海に捨て去った女神のハートを海底から取り戻す。そして再会したマウイと共にそのハートをテ・カァになってしまった女神に戻す。
ラストでハートが戻った女神は本来の姿に復活し、海は黒い病からかつてのような本来の姿を取り戻し、島はかつてのような実りを取り戻し、マウイはかつてのように本来の姿となった釣り針(自由自在にいくらでも変身できる)を取り戻し、モアナ達一族はかつてのように本来の姿(ご先祖のように大航海する能力と民族性)を取り戻した。海の化身でもある皆が皆、「自分は何者か」を取り戻したのだ。
ラストのそんなシーンはどれも、海(=我々の集合無意識)自身が陥った課題とその克服を象徴するシーンじゃないかと思った。 海は、自分本来の姿を取り戻したのだ。

劇中の挿入歌

♪広い海旅した 祖先が私を呼ぶの 遠くへ旅をして分かって来た 私を呼ぶ声が聞こえる 
 心の声が呼んでいるの 波のように打ち寄せては 語りかけてくるその声が 教えてくれたの

 私はモアナ

 

モアナは、自分が「海」であることを思い出した。
モアナを呼ぶ祖先の声=モアナを呼ぶ心の声=自分本来の姿(自分は何者か)とその可能性を自覚させ実現を促す命の声(力)なのだろう。そんな命の声(力)は緑に輝く女神の心(ハート)でもあり、愛でもある。
命というものは、己のあるべき姿とその可能性を実現するように自らを促す。それが命の「声」であり、命が持つ己への愛なのだろう。
愛の源=女神のハートの源=モアナに自分は何者かを自覚させる心の声の源=モアナを呼ぶ祖先の声の源=海=モアナだ。海=モアナの命(=モアナの心・魂)と言ってもいいか。モアナはそれが自分の本性だと自覚した。
それをこのブログ風に言えば「己を開運させる魂の環境インフラ(=内なる地母神)の源」と言ってもいい。そんな「命」であり「魂」であるものを、ユングは「セルフ」と呼んだ。それが命のあるべき姿(本性)だという。そしてモアナはそんな己のあるべき姿を「私はモアナ」と自覚した。

モアナ=海が取り組んだ「己のあるべき姿を取り戻す(自覚し・実現する)冒険」とは、我々一人一人が集合無意識規模で取り組んでいるテーマでもある。あの物語は我々の物語でもあるのだ。我々の中にもやはり、『モアナ』で描かれた課題と解決(=物語)を構成する全てのキャラが存在しているのだ。
集合無意識規模のテーマは、個人規模のテーマとしても(個々人の運勢の中で)現象化することがある。我々一人一人が集合無意識を構成し、我々一人一人が「海」で「モアナ」なのだから。

追記:この作品に登場するテフティは『崖の上のポニョ』のグランマンマーレと同じものだ。『ポニョ』では厳重に保管されていた命の水が海にばら撒かれた結果、海は生命本来の可能性を爆発的に実現する。グランマンマーレはその様を見て「素敵な海ね」といった。

楽園が蘇るとき:今なら解かる。女神のハート(心)は、「楽園本能」だったのだ。楽園は、甦った。

2017年8月15日 (火)

犠牲の価値より生きた尊さ

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

池上彰、戦争を美化する動きに警鐘 「特攻」について考える特番放送
「池上彰 X 特攻」リアルタイムツイート

今年の終戦記念日シーズンは特攻についての番組が放送され、かなり反響があったようだ。
私も以前、『太平洋戦争のベルセルク悲話』というオカルト視点の記事を書いたことがあるが、今回はまた別の視点から考えてみようと思った。
まず、神風特攻隊創設者の大西瀧治郎の意図・目的について。おそらく特攻作戦は対米戦における効果を狙ったのではなく、「敗戦後を想定したレジェンドづくり」と「昭和天皇に戦争を止めてもらう」ためのデモンストレーション(直訴)という意味合いが強かったかもしれない。これは大西瀧治郎が残したコメント()から何となくそう感じた。

大西の意図した「レジェンド」は、
「戦いが日本の劣勢になり刀折れ矢尽きたその時、若者達がその忠君愛国精神ゆえに命令したわけでもないのに自ら進んで命と引き換えに次々と自爆攻撃をし始めた。
天皇陛下はこれをお聞きになると御自らの御仁心により戦を止め講和する決断をなさった。陛下も散華した若者達も、日本と国民を愛するがゆえの決断であった。
このように日本国民は散華した若者と陛下の双方からかくも深く愛された存在なのである。戦争に負けたからと言って絶望し自暴自棄になったり自己卑下したり自尊心を失わないように。」
というもの。敗戦後の民心統治(反乱防止含む)を意識して作られたっぽい(敗戦後も国家神道の価値観が続く想定で)。

上に書いた「レジェンド」を残すことに加え、「(日本側の欠陥によりだれも講和を提案できず、また天皇以外の講和の言い出しっぺになれば敗戦の全責任を押し付けられスケープゴートになることを恐れる心理もあって?)暴走機関車になった日本が女子供まで巻き込み自滅していくのを止めるための(天皇を講和へ向かって動かすための)人柱として『特攻を自ら志願して散華した』という設定の若者達を量産」というのもありそうだ。

要するに、「特攻作戦」はアメリカから国民を守るためのものではなく、(国民を道連れに自滅へ進む)日本側の暴走から(特攻を知った天皇に講和の決意を促すことで)国民を守るためのものプラス、敗戦後の人々が落ち込み過ぎないように残しておくレジェンドを作るためものではないか、と思った。
もしも「陛下は自分達の過激な行動を知れば分かって下さるに違いない」という願望回路が特攻立案の背景にも存在するとすれば、226事件の頃から全く進歩してない気がする(妄想)。

最近はネットなどで「日本はあの時特攻やったお蔭でアメリカによる滅亡から救われたからこそ今の繁栄した日本がある。特攻兵達は現代日本の立役者だ」 とか「誰だって死にたくはないし特攻兵達もみんな本当は生きたかったけれど、そこを我慢して我慢して日本のために自分の一番大事なものを捧げたところが美しくて素晴らしいんじゃないか」 「彼らは特攻による有終の美を飾ることで初めて自分だけの生きた意味を見出せたんだ」という(おそらくは軍産複合体や防衛利権と絡む右派の?)ロビー活動も散見される。
特攻兵の死をロビー活動のために当時の作戦(政策)を肯定する道具として利用するぐらいなら無駄死にと断定していいかもしれない(失策を明らかにした死としてすら評価しなくていいかも)。
およそどんな犠牲者もロビー活動の道具にしたりロビー活動の視点からその死をを評価し持てはやすことはご本人やご遺族にとって失礼にならないか。視点を変えれば、「死ななきゃ価値にならなかった命だ」と口をそろえて言ってるのと同じだ。
(この問題、PKOで亡くなった自衛官の死を当時の政策肯定のために尊ぶロビー活動とも共通点がある。どちらのロビー活動も、その作戦や政策の効果を肯定しない者=犠牲者の死を無駄死にと切り捨てる冷血漢だというレッテルを貼る。遺族達ですらその罠にハマって都合よく利用され、ロビーの主張を支持しなければ身内の死を供養できなくなってしまっているケースがある)

「その人が死んだ意味や価値」ではなく、その人が生きた意味にこそ目を向け尊ぶ(その死を尊ぶのではなく、その生きて来た人生を尊ぶ)ことが供養なんじゃないかと思った。
死をしか評価され尊ばれない命、しかも他人にとって政治的な利用価値のある死という一点でのみしか存在意義を評価され肯定されていない命というのはなんとも悲しい(遺族すらその価値観における評価に供養を依存しているならなおさらだ)。
後世の人間が「死に方こそ特殊で短命だがその生きて来た人生は無駄じゃなかった」と思うこと、本人もそう思えることが一番の供養で愛情じゃないかと思える。
特攻兵なんて平均20歳前後だから自分の人生振り返って「生まれてよかった・生きてよかった」ってしみじみ思う機会はそうそうなかったかもしれない。でも特攻兵達だってきっと自分の生きた意義は心のどこかで感じていたと思いたい。たとえ短命だったとしても、自分にしか生きられないその人生は尊い。
少なくとも彼らの魂はきっと知ってると思いたい。

「生贄」が自分個人の生きる喜び(生きがい)を組織や社会に捧げるのと引き換えに、組織や社会によって死を崇拝され高く評価される(生贄はそれを名誉や救いとして認識する)という一面が古今東西の生贄のシステムにはあるのかもしれない。
古代人じゃないんだからそろそろ生贄的なシステムから卒業してはどうだろうか?
死の価値なんかに依存しないで生きた尊さにこそ目を向けられる社会は、たぶん平和な社会だろう。

サバイバー症候群

2013年8月 7日 (水)

「風立ちぬ」見てきた

ネタバレ注意
※以下に書いたことは全て個人の妄想です

◆第一印象
まず、あいかわらずただただ風景と情景が美しかった。冒頭の早朝に飛行機で飛ぶシーンから圧倒される美しさ。その色彩。主人公が体験する夢の世界とリアル世界のクロスオーバーや無意識の描写(象徴的な描写)にも磨きがかかっている。どちらも一人の人間の心が体験したという意味では、「同じ一つの精神世界で起きた真実」なのかもしれない。感情が表に出にくい自閉気質な主人公の精神世界を夢の描写(無意識の描写)が巧みに表現している。主人公と同じく自閉気質であろうと思われる庵野氏の声も合っていると感じた。
観客は主人公が青春のある時期に見聞きし体験した事を追体験することでその世界に引き込まれていく。

関東大震災が発生するシーンの冒頭、このブログをご覧の方には鳥肌モノのイメージ表現を見ることが出来る。まさにあれこそ目に見えない火気流失(火気流出)を視覚的に表現したものだと思った。
そして、当時の日本とドイツが劇的な歴史転換を迎える瞬間(私から見れば劇的な運気変動)を迎える様子を象徴的に表現したと思われるシーン(関東大震災&ドイツの大きくて立派な飛行機がバラバラになって焼け落ちるシーン)では、大地の唸り声というか、目に見えぬ人類の集合無意識が深淵から立ち昇らせる声なき声のような音響を聞くことが出来る。これも鳥肌モノ。特に映画館で聞けば効果抜群だ。計り知れない何か・・・いわば原始的な畏怖さえ感じるかもしれない。人間の小智才覚では決して太刀打ちすることもコントロールすることも出来ない巨大な流れ(むしろ人間の小智才覚が歴史的な規模で積み重なった末のしわ寄せ?)を表現するのにふさわしい音だ。

◆美しい夢の恋
菜穂子と主人公の恋愛は、これ自体が精神世界の象徴表現ではないかと思う。リアル世界のリアルな恋愛を描いたものではなく、夢(精神世界)の恋だ。「人間と愛し合う人間」ではなく、「アニマと愛し合う人間」を描いた感じだ。さらっと描かれる紙飛行機のやりとりが深まりゆく愛を象徴している。愛が芽生える過程の描写がさっぱりしすぎて物足りないと感じるかも知れないが、宮崎駿氏が本当に描きたかったのは両想いまでの過程ではなく「相思相愛になった後」なのだと思う。それが「ハウルの動く城」から進んでいる点か。菜穂子は「美しい飛行機」という少年の無垢な夢を擬人化したアニマなのだろう(あの子の命は飛行機雲)。
二人の美しくロマンチックな象徴描写は一部から「バカップルめ」とか「リア充爆発しろ」とかいう怨嗟が聞こえそうである。このアニメでは、一見すると家に仕事持ち込んでいちゃいちゃしつつ片手で図面引くような新婚バカップルから生まれちゃったのがあのゼロ戦てことになる。こう書くと妙に申し訳ない気分になるw

美しい悲恋モノ(ところにより難病設定)というのは、多くの人にとって伝統的にツボな話なのかもしれない。悲恋は、アニマ/アニムス(心の中の理想キャラ。しばしば抑圧された個性や可能性の象徴キャラ)を相手に投影したまま相手の現実の姿(醜さも生臭さも併せ持つ)を見ることなく美しい姿のまま恋が終わるからか。特に日本人は「結核文学」というジャンルを作るほど「儚く美しい恋」の話が好きな気がする。

例えもてなくても、アニマ・アニムスを投影・同一視した実在の相手(投影スクリーン)と結ばれることは無かったとしても、誰もが己の精神世界に住むアニマ・アニムス(投影の本体)と結ばれる体験は起こりうる。アニマ・アニムスと結ばれる=己の精神世界で個性や可能性が統合される(結ばれる)時、今までは発揮できなかった個性や可能性が現実世界で発揮できるようになる。その体験は、リアル世界の恋に劣ることなく尊い宝物になるだろう。
(主人公の場合は菜穂子と両思いになった後、今まで発揮できなかった可能性を発揮し飛行機開発のスランプから抜け出す。やがて菜穂子と結婚したこと=己の可能性を本格的に統合したことで、ゼロ戦の開発に成功した)

なお、もしこの恋物語をリアル世界のリアルな人間同士がやった恋愛として解釈すると、主人公も菜穂子も、互いに自分のアニマ・アニムス(理想像)を相手に向かって投影しあっているだけで、実際の相手自身の姿を見ることなく(故に人間扱いすることなく)単なる投影スクリーンとして利用しているに過ぎないことになる(ただし無自覚)。そして菜穂子は、自分が病で容色が衰えていき相手から見た「投影スクリーンとしての利用価値」が失われ、恋人から幻滅され愛情が冷める前に、恋人の記憶の中で「永遠に美しい自分(永遠の理想像)」となるべく自ら姿を消したことになる。
個人的に、宮崎氏はそういう類の恋愛模様をいちいち手間隙かけてアニメ作品にはしない気がするのだ。象徴的な映像や音響の様子から何となく精神世界の恋物語を思わせる匂いを感じる(妄想)。

◆儚き夢
純粋な主人公の並外れた天才ぶりは、脳の回転率と集中力が高すぎてしばしば論理的思考で到達できる次元を超えた超人的な直観レベルの感覚(感性)を発生させる。夢の世界(無意識領域)を媒介し論理的思考の過程を飛び越え直観的に真実を悟ってしまう様子の描写からもそれはうかがい知れる。たまに数百年前の日付から当時の曜日を瞬時に分かってしまう人がいるが、そのレベルかそれ以上だ。
そんな主人公だから、当然日本が戦いに勝てないことを知っていたし、ドイツは立派な飛行機を作れるけど負けることも直観したし、菜穂子の命が長くないことも、自分が少年時代から見てきた「美しい飛行機」という夢の命が長くないこともあの時悟っただろう。彼が「菜穂子喀血」の電報を聞いて居ても立ってもいられず駆けつける途中、列車内で美しい飛行機を開発するための力学計算を続けてたらノートに書いた計算式の上に涙をこぼすシーンは印象的だ。「美しい飛行機」という少年の無垢な夢を擬人化したアニマの菜穂子。その命が醜い現実によってまもなく失われることを知った涙と覚悟、決意と情熱が物語をクライマックスに導く。

近く失われることを知りつつなおも主人公が愚直なまでに飛行機開発と結婚生活に情熱と心血を注いだのは、決して「消え行く夢にしがみ付く現実逃避」ではなく、残された夢の時間が短いからこそ「僕達は一日一日を大切に生きることにした」ためだ。残された少ない時間で、ギリギリまで美しい夢を味わいつくし、やがて未来の糧にする事を情熱的に決意したとも見えた。その心に菜穂子(アニマ)も応えて遠い山奥のサナトリウムに入院したり、そこを抜け出して結婚を選んだりした。
その結果、主人公は菜穂子と真に結ばれ、ついにアニマ(己の中に秘められた可能性)を本格統合し、本格的に可能性を発揮した。それが恋のクライマックスであり、夢のクライマックスだったのだろう。それは悲劇の直前で手に入れた、かけがえのない宝物。

「この高原では嫌なこと忘れる。戦争してることも国がいつか破裂することも忘れる」・・・ハイソな保養地軽井沢(=大多数の庶民には夢の世界)で語られたカストルプのセリフも印象的だ。醜いものをいったん蚊帳の外に置き、美しいものだけを見ていられる高原の短い夏のひと時・・・
主人公が身に覚えの無い容疑で横暴な特高警察に追跡され身を隠す時に「特高は他人の郵便物を断りも無く勝手に開けて見てしまう」という話を聞いて「婚約者からの手紙を勝手に開けて見るなんて、近代国家にあるまじき冒涜です!」と怒り所が一般人と微妙にズレている所にも社会の醜さ(現実)ではなく美しい恋人(美しい夢)を見ることに集中している様子がうかがい知れる。その徹底振りを宮崎監督は「狂気」と表現したのか。

◆少年期の終わり
パイロットごと天に昇っていく無数のゼロ戦(主人公がアニマを統合した結果生まれた愛の結晶=子供)と燃え上がる町、爆撃されバラバラに焼け落ちたゼロ戦の残骸が散乱する飛行機工場の廃墟を歩く夢のシーン。主人公は美しいもの(夢)の命が醜いもの(現実)によって無残な最期を迎える時を見届ける。本人はそれを象徴した夢の世界を「地獄かと思った」と評する。多分、死にたい気分にもなったのだろう。
儚く美しい夢(菜穂子と飛行機)が醜い現実によって多くの血を流し無残に死ぬ最期。夢から覚めてその現実と向き合わされることで、しかし主人公は「夢見る少年」から「自分の経験した美しい夢を宝物(糧)にして現実の未来を生きる(=大人になる)決意」をする。夢の経験を糧に現実を生き未来の人生を創ることで、夢は「経験」に姿を代え人生の中で生かされ続ける。どんなに無残な終わりを迎えようと、自分の見てきた夢が美しかった事実は永遠に変わらない。その美しさは、生きるためにこそある。
元気な姿の菜穂子が夢の中に登場し、「あなたは生きて」と伝えて天に昇るのを見送ったあと、主人公が目を閉じ万感の思いを込めて(多分、菜穂子だけじゃなく今までの夢を追う人生自体に向かって)「ありがとう・・・!」と吐露する様子は、さながら悲喜こもごもの青春(そのどれもがかけがえのない自分だけの宝物)をくれた甲子園球場に感謝と別れを告げる3年生の高校球児にも似ていた。
この作品、青春時代に宝物となるような経験をした人々には何処かしら共感する部分がありそうだ。
人生経験が醸造した素晴らしい宝物を糧にして(生かして)創られる未来は、やはり素晴らしいものになるだろう。そこでも新たな宝が生まれるはずだ。そういう人生は、世界で唯一本人にしか創れない(他人には真似できない)芸術作品とも言える。あるいは自分だけが醸造できる「いいワイン(byカプローニおじさん)」か。
(主人公の声優をやった庵野英明氏はこの作品を見て曰く、『あ、宮さん、大人になるんだ』)

                                                  

◆オカルトな妄想(蛇足)
主人公と菜穂子が愛し合ったことで生まれた伝説の戦闘機ゼロ戦。しかしその誕生と共に菜穂子は死んでしまったことを主人公は直観的に悟る。彼の美しい夢もゼロ戦誕生をピークにして死んでゆく。
このことを後でふと思い出した時、古事記のイザナミを連想した。国生み神話で日本列島の島々を次々に生み出す地母神にして日本のアニマの彼女は、火と製鉄(古代において製鉄は軍需産業)を象徴する神カグツチを産んだ時に死んでしまう。古代日本の製鉄の発展は東征と切っても切れない密接なつながりがある。
そんな背景のあるイザナミの死が第2次東征とも言える太平洋戦争に際して日本の軍需産業が開発したゼロ戦の誕生にシンクロした菜穂子の死と重なって見えるのだ。菜穂子は主人公のアニマであると共に、日本のアニマでもあるのか?
あの頃日本の無意識が見た儚い夢。・・・それが「菜穂子」だったのか?

近現代日本は母性的な「生み出す豊かさ」ではなく、男性的な「勝ち取る豊かさ」へ依存し追求していった時代である。やはり古代東征時代も同じようなことが起きた。生み出すものが豊穣ではなく武器になってしまうとき、日本の地母神は黄泉の国に封印されてしまうのだろうか。
イザナミのお墓は出雲にある。奇しくも出雲は古代から製鉄と武器製造のメッカだった場所だ。

関東大震災から終戦までの期間に、日本各地の龍脈を用いた東征呪術(最新は靖国)が作り出していた「戦における開運をもたらす運気」は徐々に火気流失を起こしていき、やがて消えた。戦後、呪術の作る運気は戦争ではなく産業界・政財界に転用されたが、バブル崩壊から現在にかけてやはり徐々に火気流失を辿っている。そのとどめが日本中の龍脈を動かし呪術を破綻させた3.11だ。
昭和と平成にまたがる火気流失の長い時代。その火気流失の反動で引き起こされたすさまじい水気の押し寄せが、3.11の津波を皮切りに、今も日本中で渦巻いている。水気押し寄せの時代も、それなりに長いのだろうか。しかし時代の進むスピードは、試作機を牛に引かせて試験飛行場まで運んでいた昭和のあの頃とは比べ物にならないほど速まっている・・・
押し寄せる巨大な水気の奔流の中で、日本はかつて愛し合ったもののしっかり統合しないまま黄泉に封印してしまったアニマを蘇らせる(黄泉返らせる)ことが出来るだろうか?

もののけ姫を心理学的に妄想←「日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語」参照

【オマケ】ナウシカが乗ってるアレを自作した人がいる。私も子供の頃乗ってみたいと思ってたw

俗に男性は乗り物にアニマを投影することが多いと言われている。そういえばモーターショーでは車のイメージに合わせた衣装のコンパニオンが居るし、堀越二郎の時代からアメリカでは戦闘機に女性のノーズアートを描くのが流行っていた。現代の自衛隊に至っては、萌えキャラ満載の痛戦闘機なるものまで存在する。

2010年8月15日 (日)

「帰国」見たあと思いついたネタ

TBSがやってたドラマ「帰国」。太平洋戦争の戦死者が何故か部隊ごと今の日本に帰ってきて、子孫や現代の日本が抱える現実と直面する+恋愛要素的な話。基本的にお説教系。(個人的にはあの戦争で兵士がどれほど祖国のために戦死したところでその死が国の繁栄に結びつくわけじゃないと思う。国の繁栄は戦争とはまた別の要因だろう)
中身に期待してなかったけど案の定中途半端でつまらなかった。終わりの方ひどいw

英霊が現代に帰って来て繰り広げる話を作る場合、むしろこういうラノベ風脚本なら視たい。以下妄想。

・主人公は今どきの女子高生。両親が仕事で海外におり、会うのは年数回。お手伝いさんのいる家で一人暮らし。裕福だが子供の頃からさびしい思いをしている。自分の殻に閉じこもりがち。

・何か不思議な力により、ある年の夏に戦場で自決したとされる彼女のおじいちゃん(当時25歳イケメン)が孫のもとへやってくる。孫にだけ見えるおじいちゃん(最初は下着泥棒と間違われるのはお約束)。

・今の日本の様子を見たがるおじいちゃんに孫が色んな所(秋葉やメイド喫茶含む)へ連れて行く。現代の日本の様子に喜んだり驚いたり、時にはため息をや憤慨をするおじいちゃんと、発想が60年以上ズレたまま(感性は当時の若者)なおじいちゃんに呆れる孫のハチャメチャコメディや社会問題などについて考えさせられるシーン。
おじいちゃん曰く「この国は平和だしずいぶんと豊かにもなれたようだが、それを生きる幸せのために十分役立てる力がある様には見えない。そもそもお前からして(以下孫にお説教 孫逃げる)」

・おじいちゃんは長いこと現地で浮遊霊してるうちに自分の死の真相をわすれてしまっていたので成仏するためにも記憶を取り戻したい。しかし無理に思い出そうとするとなぜか苦しくなってしまう。

・その手がかりを探していくうちにおじいちゃんとの交流によって寂しさを抱えていた孫は徐々に心を癒していく。

・おじいちゃんの記憶を頼りに当時を知る人を訪ねて聞き込みをしながら死の真相を探っていると、ある点で何人かが口裏を合わせたように黙り込む。色んな人の回想シーン挿入。

・やがて孫の身の回りに不気味な現象が発生し、鏡に「詮索するな」という血文字のメッセージ。何者かの霊的な妨害にあう。 手がかりが行き詰る。

・そんな時、霊感のある占い師兼心霊カウンセラーの怪しいオカマ(美和明宏)と出会う。孫とおじいちゃんがオカマに気に入られる。

・紆余曲折の末、オカマの協力と新たに見つかった当時を知る人(おじいちゃんと同じ部隊にいたけど隊とはぐれて捕虜になり死刑を免れた戦友や死ぬ前に秘密を告白して楽になりたい人)との出会いを経て、おじいちゃんは自分の死の真相が司令部の無謀な作戦&致命的ミスの責任を隠蔽するために仕組まれたものだと知る(自決とされていたが、実は隠蔽のために作戦失敗の責任を取らされた形で、作戦任務にあたった部隊の数少ない生き残りがおじいちゃん含め全員死刑にされていた)。

・隠蔽工作に関わった者がまだ生きているため、聞き込みをした何人かはその人を庇うために口をつぐんでおり、既に霊となった隠蔽工作の責任者が生前の執着から己と関係者と司令部の名誉を守るために妨害していた。

・さらに、自分の死の辛さからあえて記憶を封印したことを思い出すおじいちゃん。

・おじいちゃんと隠蔽責任者がオカマのカウンセリングを通して生前の執着を断ち切り、心の傷を乗り越えたり己の罪と向き合い償っていく決意を得る。
孫は自分の殻に閉じこもらずに言いたいことをはっきりと相手(主に両親)に伝える意欲を持ち始める。
おじいちゃん曰く「俺の上官は口ではうまくモノが言えない憂さを溜め込み、部下に八つ当たりする人だった。・・・お前はあんなふうになるなよ」

・来年のお盆にはまた来ることを孫に約束し、現世での迷いが消えたおじいちゃんと責任者は死後の世界へ旅立つ

・不思議な夏休みを過ごした孫は、少し前向きな気持ちになれて、自分の殻の外へ一歩踏み出し成長していくのでした、で妄想終わり。


「帰国」の内容、要はお年寄りが「貧しかったあの頃にもちゃんと存在していた日本の礼節(精神性)は今やどこへ行ってしまったのか?」と嘆く気持ちを表現したものだろう。
「衣食足りて礼節を知る」・・・経済的に豊かであってこそ人々は礼儀や名誉をわきまえるようになると伝統的に思われてきた。が、実際はというと・・・
礼節(精神性)なんて生活に余裕があれば自然に発達すると思ってとにかく衣食だけ追求してたら、そうでもなかったらしい。例え目先の豊かさを工面する必要があるにしても、担保にするのは着物やかんざしまでにしといたほうが無難かもしれない。精神性や時間的余裕といった目に見えぬものまで担保にすれば、「衣食足りて礼節が質流れ」ってこともありえそうで。

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