恋愛

2024年11月 3日 (日)

情熱の矛先

不倫には「完璧な恋愛」を求めたいから…婚外恋愛を経験した女性たちが別れを決意した瞬間

「完璧な人に出会い、完璧な関係を築いていると思っていました。お互いに結婚していることだけは悲しかったけど、それもこの愛が試されているんだ、こういう状況でも私たちは愛を貫けるかどうかが重要なんだと思い込んでいた」

アユミさん(40歳)はそう言う。29歳のとき結婚し、31歳で長女を出産。ところが2年後に仕事で知り合った5歳年上の男性と恋に落ちた。出会った瞬間、お互いに体中がしびれるほど惹かれ合ったのだという。だがふたりとも立場がある。自らの恋心に負けて、互いに相手に心身を委ねたのは半年後だった。

ところが3年経ったある日、なぜか突然、「別れよう」と思った。

「わかっちゃったんですよ。お互いに完璧な愛情を保ち続けるのがつらくなっていることが。以前のような情熱の高まりは冷めてきているし、彼を崇拝するような気持ちもなくなっていた。勝手に崇拝していただけですが、彼も人間だから欠点もある。他の人の欠点は許せても、“完璧な恋人”の欠点は許せなかった。だからもういいかな、と。

占い師をやっていると、当然ながら「完璧な人・理想通りの人」との出会いについての相談を受けることがいくらでもある。時には不倫、時にはお見合い、最近はマチアプ前提でのそんな相談も増えた。
恋愛って、自分が心のどこかで抱えている願望や可能性を相手に投影して好きになることが多いので、自分が相手にどんな願望や可能性を投影しているのかに気付くことがとても重要になってくる。これはお相手が生身だろうが二次元だろうが芸能人だろうが同じ。
投影するその願望が相手とは全く無関係な願望だったり、相手ではなく自分自身こそが持ちうる可能性(自分の隠れた個性や可能性の実現など)だったり、ごく個人的な(時にコンプレックス由来の)願望だったりした場合は相手への情熱がすぐに冷めやすい。本当に好きなのは相手ではなく、願望の方だからだ。
いわば相手に対する情熱は、相手に投影した願望への情熱だったりする。相手を手に入れたいというより、願望を手に入れたい感じ。
「相手に対する情熱がとても強いのは、相手に投影した願望への情熱がとても強いから」とタロットカードが示した場合も多い。
願望の実現・・・そりゃあ魅力的に見えないわけがない。それを投影した相手は、言わずものがな。

で、その願望がそもそも相手とは全く無関係な願望だった場合、自分が情熱を寄せて恋焦がれているのは相手ではなく、相手の様子から無意識に連想した自分の個人的な願望だ。それが混同されて相手と同一視しているだけに過ぎない。
とくに、自分の願望を余すことなく象徴的に体現するような特徴を備えている(ように見える)人物=自分の願望を強く連想させる人物は、「完璧な人・理想通りの人」に見られやすい。錯覚されやすい。
いわばお相手は、自分の心が抱く願望に気付かせてくれたキーパーソンでもある。その場合、「役目が終われば縁も切れる」という運勢になることも多い。肝心なのはお相手との交際ではなく心に抱く願望の自覚や実現の方だったりすることも多いからだ。
あるいは、しばらく不倫相手と交際していたがアユミさんのように「自分の願望を強く連想させる条件からズレた動きや特徴」が相手から見えてきた結果、「幻滅」という形で情熱が冷めるケースも多い。錯覚が修正されたのだろう。
いつの間にか自分の願望が実現していたり自覚できたりしたことをきっかけに相手への情熱が急速に冷めることもある。
願望の自覚や実現により、もはや自分個人の願望を相手に投影・同一視し続ける必要が無くなったからだ。

なので、不倫に限らず恋でお悩みの場合は、まず自分と向き合い己の願望に気付く努力をすることが先決だ(その願望が何故生まれ、どう叶えればいいかを占った方が人生が開運しやすいケースもある)。願望を知るヒントは、自分がお相手に感じる魅力や期待の特徴。場合によっては、過去の恋と似てたりする。
そして、不倫の場合はお相手が自分の抱える無意識の願望に気付くキーパーソンになってくれたことに感謝しつつスッキリお別れするのが一番無難ではあると思う(そう簡単にはいかないケースも多いが)。

よく「理想の恋人像」を空想し脳内でオリジナルキャラ化して遊ぶ方は多いが、そのキャラはユング心理学で言う所の「アニムス(男性)」や「アニマ(女性)」に近い。そのキャラの特徴もまた、自分の心が抱える願望を余すことなく象徴的に表している。
例えば、無意識的にでも寂しさや愛情不足や自己否定感を感じて生きてきた人のアニマやアニムスは、「多くの仲間や味方や支持者や理解者を得ている(得ていく)」という設定になりやすい。勇者やアイドル、転校生設定になることもある。あるいは、「迫害を受けた経験がある」「不幸な過去がある」なんて設定になるケースもあるかもしれない。
そして、自分の願望を象徴的に体現した空想上のキャラを強く連想させうる誰かに出会った場合、その人が「完璧な人・理想通りの人」になることもある。

次に、相手に投影した願望が相手とは全く無関係なものではなかった場合。
その願望が、相手と楽しい時間を共有し、相手との交流や協力関係・共同作業などによってこそ実現しうるもの、お互いの経験や個性を(互いが喜べる形で)生かし合う事でこそ実現しうるものであったりすると、相手に対する好意や情熱、相手への魅力や関心は長続きしやすいかもしれない。
そして、自分だけではなく、相手も自分に対して同じような願望を持っていた場合、両想いが判明して交際が実現すると長いお付き合いになることがある。お互いに、相手と願望が無関係ではないからだ。願望と情熱の矛先が示す方向は、一致している。
お互いが個性を生かし合ったり協力し合ったりすることで得られた経験が互いの個性を成長・発達させるので、今度は互いに成長・発達した個性を生かし合ってこそ実現できる喜びがあったりすると、飽きずにお付き合いが続けやすい。互いに相手の成長・発達が良い刺激になって自分もさらに成長・発達できる発展的な関係だ。各々が相手ばかりを見ずに自分自身と向き合い内省する習慣をつけられればなおいい。
そういうのは年齢や性別に関係なく、結婚に向いた関係にもなりやすそうだ。

2022年10月12日 (水)

いい話

 

こういう人生もいいな。
皆とは同じでなくても、自分には自分だけの、「自分にとっては世界一」の幸せ。

それを選べること自体、すごく幸せなことだ。

 

“JURIE-O” by Mark Summer

2019年10月20日 (日)

どちらも自分の個性と可能性

※以下に書いたことはあくまで個人の妄想です。あくまで下記報道についての一個人の感想であり、性的マイノリティへの差別や誤解を広める意図はありません。私自身の認識が間違っている可能性を予めご了承ください。


【LGBT】性転換手術を後悔、元の性別に戻りたがる若者が続出

チャーリーさんは女性として生まれ、10年もの間、トランスジェンダーの男性として生きてきました。 しかし現在では男性ホルモンの投与も止めて、再び女性として暮らしているといいます。

昨年、自身の決断を公に発表したチャーリーさん。そんな彼女の元には、何百人ものトランスジェンダーの人々から相談の連絡が入っているとのこと。
「だいたい19~20歳くらいですね。みんな手術したことを後悔しています。性別適合手術を受けても、気分が晴れたりはしないし、自分の性への不安感や違和感が消えてなくなるようなこともないのです」
(中略)
具体的にどれほどの割合で性転換手術を受けた人々が後悔をするのか、明確なデータは挙がっていません。
イギリスで子どもたちの性同一性に関するサービスを提供しているタビストック・クリニックは「かなり珍しいことだ」ともしています。

いわゆるLBGTは、胎児期に性別を決定するホルモンシャワーの種類が何故か途中で切り替わったり、ホルモンシャワーの種類は切り替わらなかったものの何故か絶対量が不足したことが原因の一つではないかと言われている。要するに、LGBTは自然現象ということになる。
ホルモンシャワーの種類が切り替わると、「男女どちらの要素も併せ持つが男女どちらの要素も十分ではない状態」になりうる。
男女どちらのホルモン供給も中途半端で不十分で不足した状態になる。例えば心が女性的で体が男である人の場合、体の側にしてみれば「自分は男性的要素の統合が不足した男」と認識しうるし、心の側にしてみれば「自分は女性的要素の統合が不足した女」という認識になりうる。その認識は、どっちも正しいのだと思う。どっちも併せ持っていると同時に完成されてはいないのだろう。その時どっちの視点に立って恋しているかも人によってまちまち。

仮に男の身体に女性的な心のトランスジェンダーだとしても、恋愛対象が女性の人、男性の人、両性の人がいる。女の身体に男性的な心のTGでも同じことが言える。体と心の性が不一致な上での異性愛や同性愛や両性愛のカップルがいる(参照)。
またホルモンシャワーの切り替えは起きなかったが、ホルモンを浴びる絶対量が不足していたことでハッキリとした性自認を持たないXジェンダーや同性愛になることもありうる。さらにはホルモンシャワーの切り替わっていた時間が短かく、心と体の性は一致しているが感性に異性的要素が多くなり、それでゲイやバイになることもありうる?

先に引用した報道のケースように、性転換手術での葛藤や後悔が出るのは「男性的要素と女性的要素、どちらも自分の一部だから片方を切り捨てないで欲しい」 という自分の生命からのメッセージが出ている場合もあるかもしれない(全員がそうとは限らないが)。
実際、心身の性が一致した男だって女性性を持っているし、同じく心身の性が一致した女にも男性性はある。

自分の心身を「男か女か」という二者択一論で認識する発想だけではなく、男でも女でもない「あるトランスジェンダー」として認識し恋をしカップルになる発想があることは今世紀に入ると急速に広く知られるようになった。トランスジェンダーでありつつも己の内に男性性と女性性両面の要素を少なからず持つ場合、自分の性をどっ
ちか片方の枠にだけ無理して当てはめ完全に統一しようとすれば違和感が出てもおかしくはない。それならむしろ完全性よりも全体性に意識を向け、体の性にも心の性にも囚われない自由な発想があっていい。
ヘテロ(異性愛者)の場合、男女とも「自分の無意識下で眠っている統合したい可能性や個性」を無意識に異性へ連想・投影し心惹かれて恋をすると言われている。恋愛感情の裏には(相手に投影した)自分の中に眠る要素を統合したい気持ちが隠れているという。そう考えると、ヘテロは統合したい内なる要素の投影対象(スクリーン役)が異性であるのに対し、LGBTは必ずしも投影対象が異性だけとは限らないというわけか。 また、「顕在化している性の要素が不十分なので補いたい」という理由で同性愛になることだって十分あり得る。
誰が言ったか知らないが、
「恋愛は男女が互いを好きになることではなく、人が人を好きになること」とはよく言ったものだ。

人間は性を問わず、誰もが様々な要素を併せ持ち、そして完成されてはいない。自分の中に無自覚で眠っている未知の要素(時には存在しないものとされてきた要素や不足している要素)を持っていて、それらを自覚し統合していき、併せ持つ要素(統合した要素)を増やしていくことでより完成された自分に近づいていく生き物である。自分が無意識に求めている「未知なる(あるいは不足している)己の要素」を不意に連想・投影した相手に惹かれやすい。結局、人間がどんな相手に恋をするかは心身の性で決まるというより、「自分が今何を求めているか(何を統合したいか)」と、「それをどんな相手に連想・投影したか」かもしれない。
人間にとって、自分の中に眠る要素は何であれかけがえのない自分の個性と可能性であって、「自分の中ので眠っている要素を統合したい」という自然な本能的欲求に沿って恋してるだけという点で、どんな性の人もやってることは皆同じなんじゃないかと思う。

現代は少子化しているとは言うものの、20世紀以降の人類は今までにないスピードと数で人口を増やしていった。そういう背景もあるから生殖とは必ずしも直結しない様々な恋愛の形は、今後さらに増えていくのかもしれない(妄想)。

心と体の不一致はこうして起こる!!性同一性障害の原因
性同一性障害(GID)とは-原因や割合、トランスジェンダーとの違いも含めて解説
性自認とは:生まれてきた性別と反対の性別として自分をとらえる、または性別の規定自体から自由であろうとする人々はトランスジェンダーとよばれる。

2013年6月24日 (月)

本気で架空のキャラを愛する人々

ちかごろ、以前に書いたエア恋愛の意味・・・とりわけ童貞のまま30代で死んだ男の誕生日「草食化」という本能?といった一連のテーマと非常にマッチする動画を発見したのでご紹介。

 

この動画は、アニメを媒介(きっかけ)にして己の内なる「アニマ(※)」を愛してしまった男達の心と生き様が記録されている。アニマとの出会いは時に奇跡的な変化をもたらす。

 

アニマ:
心に住む理想の女性像。しばしば本人の持つ抑圧された個性や可能性や能力・欲求のシンボルになっている。この男性版を「アニムス」という。「自分」という魂の一側面ともいえる。
年齢や精神的変化に伴ってアニマ・アニムスの特徴が変化していくこともあるので、常に同じタイプの女性像・男性像を好み続けるとは限らない。

見ているものはアニマか人間か←この記事も同じテーマを扱っている。アニマの投影対象が2次元キャラかアイドルかというだけで、心の中で行われている事は同じだ。

好きになったキャラのどの部分に自分のアニマ・アニムス(抑圧された個性や可能性や欲求を象徴表現した理想の女性像・男性像)を投影しているかで、自分が無意識下でどんなことを 求めているのかがわかる。
自分の理想を投影しているのは、そのキャラのどの部分か。そのキャラの一挙手一投足、言動の全てが自分の理想(アニマ・アニムス)を体現などしていないはず。
もしもそのキャラの有様が100%自分の理想を体現しているのだとしたら、それはもはや他人ではなく、「本人(自分の脳内が現実化)」になってしまう。本当に脳内現実化現象が起きたらそれこそ超常現象だ。

無意識下で気づかずに「そのキャラの100%全てが自分のアニマ・アニムスを体現している」と勘違い・錯覚する(ほんの一部分を針小棒大に拡大解釈する)ことで他人とアニマ・アニムスの混同・同一視・すり替えが発生する。
そのキャラがそのような有様に見えるのは、自分の中にそのような理想(アニマ・アニムス)があるから。そのキャラは他のファンから見た場合と自分の目から見た場合とで全く同じ見え方はしていないはず。
「嫁」とは、そのような姿のアニマ・アニムスを持っている自分自身の中にしか存在しない。自分から見た「嫁」は最初から自分の中にしかいない。自分にとっての「嫁」は自分の中にしかいない。
そして、最初からこの世のどこにも存在しないが、自分自身の中に確かにあって、世界で唯一自分にしか体験できない(出会えない)存在でもある。嫁は誰よりも自分に近いところに存在している。最初から自分の中にしか存在していない。最初から「公式」の存在ではない。公式の中には存在していないので、公式でそのキャラが死んでも自分の嫁は独立して存在し続けることができる。嫁と恋する体験を続けられる。
自分の嫁にそんなイメージや印象を抱き、その様に愛することができるのは自分だけ。それは自分の嫁が最初から自分の中にしか存在していない証。その嫁の名は、自分だけが味わえる体験の名でもある。

2次元キャラを本気で愛してしまった皆さんへ
皆さんのその心は、決して異常なものではありません。人類がずっと長い間やってきた「恋愛」と本質的に全く同じものです。よって、自分の恋愛感情や精神性を異常視して劣等感や厭世感を持つ必要はありません。
「恋愛」というと、今まで人類の間では生身の実在する人間にアニマやアニムスを投影して交際を求め叶えようとするタイプの恋愛(ある意味互いに相手を投影スクリーンとして利用する取り引き・駆け引き・協力関係)が主流でした。ある意味、「どんなに色んな人と交際しても、そこに見ている相手は同じただひとつの者」だったりすることがままあります。

しかし最近は他人を投影スクリーンとして使わず (ゆえにそのためのかけひきや協力関係を作らず)、もっと自分のアニマ・アニムスを投影するのに適したカスタマイズが出来る別のもの(例:いわゆる『二次元嫁』やオリジナルキャラ)を利用することでより直接的に自分のアニマ・アニムスを感じとり対話することで己を理解し成長・成熟しようとする傾向が増えているようです。そのような恋愛を通してなされる成長や成熟は、従来型の「男女の駆け引き」を用いてなされる成長・成熟とは少し趣が違うかもしれませんが、 それはそれで従来時代には無い新しい可能性を生むでしょう(決してコミュニケーション能力の発達をないがしろにすべきだという意味ではなく)。
時代が進むにつれ恋愛の舞台が社会的な場所から、より個人的、精神世界的、内面的な場所にも広がっていくことで多様化し、「恋愛」の定義が多義的になっていくのかもしれません。生身の相手と実際に交流しなければ得られない気づきと成長があるように、二次元キャラに恋することで得られる気づきと成長もあるでしょう。
皆さんの中には「恋人がいない」と嘆く人もいますが、皆さんはとっくに「恋人」がいます。むしろ浮気もせずその恋人(心に決めた人)だけを見てきたと言えます。
あの天才レオナルド・ダ・ヴィンチもその様な恋をしていた可能性があります()。

animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)に由来しており、生命のないものに命を与えて動かすことを意味します。つまり、アニメの語源は理想の女性像「アニマ」とスペルが同じです。生命の無い単なる2次元画像の集合体。それが視聴者達に配布された先で視聴者本人の魂の一側面(=アニマ・アニムス)を吹き込まれることがあったとすれば、それは語源が持つ運命のようなものかもしれません。
愛するお相手の姿・形は公式作品のキャラを借用していますが、それは紛れも無く「昔から自分の中にいた存在アニマ/アニムス」です。彼らはその作品が生まれる前から存在していたので公式設定やストーリー等の制約を受けず自由に生きて動ける存在です。公式設定に縛られない二次創作の同人作品がその証。
心にいる彼らはあなたに自分が動いている様子やシチュエーション等を「ふとイメージさせる」ことであなたにメッセージを伝えてきます。心に浮かんだそのイメージが何を象徴しているのかを解き明かしてください。彼らの見た目、特徴、どこでどんな動きをしているか、それが思い浮かんだ時の自分の状態、自分が何故そのキャラに心惹かれるのか、どんなところを好きになったのか、好きになった時の自分はどんな状況や事情を持っているかを考えてみると自己発見につながり、「それらが自分にとって何を意味するか」を解き明かしてください。暗号めいたやり方ですが、それが彼ら(彼女ら)との交信手段になります。それは、「自分」という未知なる命との対話でもある。
彼らと出会えたこと、彼らを愛したことで生まれて初めて味わう心情や感覚を体験したはずです。もはやそれを体験する前の自分には戻れないでしょう。生まれて初めて自分の愛する気持ちを相手に向かって(密かに)まっすぐ表現できた人も居るでしょう(もしまだ自分の気持ちを相手に表現したことが無いのなら、恥ずかしがらずにやってみてください)。そのような唯一無二の人生経験をさせてくれることが、彼らの愛です。彼ら(=アニマ・アニムス=魂)があなたの愛に応えてくれた証です。
彼らの愛に対して喜びや感謝の気持ちを伝えるのも一興。自分の心に素直になって、相手に自分の気持ちを伝えたり愛情表現をしてみることで、その経験がその後の人生の糧になります。

皆さんの愛するお相手は確かに3次元世界には実在しない存在です。しかし皆さんの精神の世界、即ち2次元を2乗した4次元の世界において確かに存在するし、確かに皆さんの心と人生に作用しています。皆さんは2次元の存在を愛しているように見えて、実際は4次元の存在を愛しているといえるでしょう。
愛する相手は誰にも見えない場所に居ますが、誰よりも近い場所に居ます。あなたの魂が100%共に生きられる唯一の相手は、あなたしか居ません。一度共に生きることになれば、その生き方は今後実在の人物と恋愛し交際し結婚しても続く関係です。人間は誰とどんな関係になろうが何をしようが自分の魂と人生を歩んでいるからです。両者で一つの生命体。
その魂(アニマ・アニムス)は、そのニーズがあるうちは便宜上そのキャラの姿・形を借りることがあります。自由自在に姿形を変えます。

2次元(4次元)存在を愛するその体験(経験)と作用は、自分自身にしか味わえない人生の宝物となり、また自分にしか作れない未来を作る糧となるでしょう。世界で唯一、自分にしか作り出せないその人生経験を尊んで下さい。それは自分自身を理解し愛することにつながります。
自分自身を理解し愛することが出来れば、他人を理解し愛することも出来るようになっているでしょう。いずれその経験は何らかの形で生かされます。

アニマ・アニムスという、自分の中で長らく封印・抑圧されてきた個性や可能性(あるいは願望)を自覚・理解し、自分の一部として統合する事を「個性化」といます。これは誰にとっても人生の中でとても大事なテーマの一つになります。人格形成がさらに発展し、その後の運勢や人生が大きく変わることもザラにあります。そんな「個性化」という、人生でとても大切なことの協力者になってくれる相手は、その正体がコンテンツであろうが生身の人間であろうが、感謝できる大切なパートナーと言えるかもしれません。

 

中二病の有効活用


【リアル恋愛をテーマにしたお話】
人間を楽器に例えた恋の話

2013年2月 4日 (月)

見ているものはアニマか人間か

※以下に書いた内容は全て個人の妄想です。

AKB「丸刈り騒動」が世界を震撼? BBC、AFP、中韓メディアも報じる AKB峯岸みなみの丸刈り謝罪動画、YouTube公式チャンネルから削除 AKB48柏木由紀とJリーガーが合コン 「週刊文春」が報じたとネットで話題に

◆アニマ/アニムスを人質にとられた人々
アイドルは「人間」であってはいけない。己の内なるアニマ(アニムス)の投影スクリーンとして、投影・同一視の道具として機能しなくてはならない。
アニマ:心に住む理想の女性像。しばしば本人の無意識下に抑圧された個性や可能性や欲求のシンボル)
アニムス:心に住む理想の男性像。以下同文)

例えば今回のケースのように、投影道具が「人間」ぽい行動や個人の人格から来る行動等で投影をぶち壊すようなこと(例:お泊り、丸刈り、合コン)をしてしまえば、己の内なるアニマとの対話がそこで中断されてしまう。たかが道具のくせにそんな裏切りは許されない。誰が人格を持てと言った? 誰が「人間」になれと言った? 誰が勝手な動きをして良いと言った? 誰があの人(内なる理想)とのつながりを邪魔しろと言った? 自分のアニマはあんなことしない。
(↑一方的な愛情欲求の押し付け型DVや一部ストーカーにもある心理。共通点は自我境界の異常)

そんな「道具」を提供する代わりに金を貢がせるのが伝統的なアイドルビジネス。ビジネスの作戦にはまった人々は己の心に住んでいたアニマを道具に投影(時に完全同一視)させられることで、道具とアニマを混同した挙句アニマを胸の中に感じることができなくなり、アニマがあっちの業界へ人質にとられてしまった。
それ以来、わざわざ金を払わなければアニマに会えなくなった。本来なら心の中にいるからいつでもどこでも会えるし感じ取れるはずのアニマ。それが道具に投影・同一視したばっかりに金を払ってグッズやCDやイベントに出かけなければアニマを感じられなくなってしまったのだ。 アニマを胸の中に抱くことが出来なくなってしまった。
(心の中には確かに存在する自分のアニマは物理的な存在ではない。ゆえにいつでもどこでも自由に会える。けれど、物理存在と自分のアニマを同一視させてしまえば、自由に会えなくなる)

「あなたに会えなくて寂しかったわ。今度のイベントには来てくれるんでしょ?」
心にそう囁きかけて何人もの男にカネを貢がせ狂わせるファム・ファタール(魔性の女)。それがアイドルビジネスである。
要するに、キャバ嬢やホストの手口がプロデューサーとメディアの力で高度に組織的に発達しただけだw
「お前のアニマはこの子だよ。この子に会いたければ出すモン出しな」

・・・「シェアできる恋人(=アイドル)」は、どんなに足掻こうが所有も独占もできない。もしアイドル(道具)に彼氏がいるなら、そいつとシェアするしかない。他のファンとシェアしてきたように。
アイドルによる「設定の裏切り」でアニマ投影をぶち壊されて恨む人は多いが、「裏切りによる投影のぶち壊しは契約違反だ! 今までつぎ込んできた金返せ!」と訴訟を起こす人はいない。自分の要求が法的・社会的正当性を持たないことを知っているからだ。
(そういえばアイドルの恋愛禁止って法的にはどういう扱いなんだろ?)

アニマは昔から心の中に住んでいるので、それに気付けば道具は要らなくなる。自分専用の「あの子」の存在に気付けば、アイドルを他人とシェアする必要もない。アニマは今この瞬間も、心の片隅で本人が自分の存在に気付く日を待っている(この手の話はアニムスの場合に置き換えても全く同じ。アニムスを人質に取られてしまった女性達は数え切れない)。
本人がアイドル(道具)につぎ込むカネと情熱(=自分への愛情)を見つめながら。「道具」に裏切られたことを「アニマに裏切られた」と勘違いして恨みに燃える姿を見つめながら、アニマはつぶやく。

「・・・私は前からずっとあなたの中にいるじゃない」

オマケ

◆どうしてあの子が好きになったのか
好きになったアイドルのどの部分に自分のアニマ/アニムス(抑圧された個性や可能性を象徴表現した理想像)を投影しているかで、自分が無意識下でどんなことを 求めているのかがわかる。自分の理想を投影しているのは、そのアイドルのどの部分か。その子の一挙手一投足、言動の全てが自分の理想(アニマ/アニムス)を体現などしていないはず。ほんの一部分にすぎないはず。本人の特徴の中でアニマ・アニムスを連想させうる部分はほんの一部。全部じゃない。
もしもその子の有様が100%自分の理想を体現していたら、それはもはや他人ではなく、「本人(自分の脳内が物質化)」になってしまう。本当に脳内物質化現象が起きていたらそれこそ超常現象だ。

しかし、無意識下で気づかずに「その人の100%全てが自分のアニマ/アニムスを体現している」と勘違い・錯覚する(ほんの一部分を針小棒大に拡大解釈する)ことで他人とアニマの混同・同一視・すり替えが発生することがある。
そのアイドルがそのような有様に見えるのは、自分の中にそのような理想(アニマ/アニムス)があるから。その子は他のファンから見た場合と自分の目から見た場合とで全く同じ見え方はしていないはず。
自分が見た「あの子・あのひと」は、そんなアニマやアニムスを持つ自分の認識の中にしか存在しない。自分が「あの子・あのひと」を見て夢心地になれるのは、自分の方に原因があるからで、相手が原因ではない。彼や彼女が素晴らしいというよりは、彼や彼女を見た自分の脳や心の反応が素晴らしいのだ。
アイドルビジネスは、視聴者にそんな脳や心の反応を誘発し引き出すための刺激を与えて儲けている。アイドルはそのための道具だ(二次元キャラや小説のキャラでも可能)。

「あの子・あのひと」は、そのような姿のアニマ・アニムスを持っている自分自身の中にしか存在しない。
そして、最初からこの世のどこにも存在しないが、自分自身の中に確かにあって、世界で唯一自分しか体験できない(出会えない)存在でもある。あの子・あのひとは誰よりも自分に近いところに存在している。自分にしか味わえないあの子・あのひとは、最初から自分の中にしかない。
ゆえに、自分しかその存在を統合できない。自分しかその存在を娶れないのだ。他に誰が娶れるというのか?
自分にとってあの子・あのひとが象徴しているものは何か。即ち、あの子・あのひとの真の正体は何かを自覚した時、その存在を統合できる。統合が完了すれば、間違いなくそれ以前とは人生が変わっているはずだ。統合後の新しい視点に基づく思考や行動が出来るからだ。
人間は「人生の大仕事」とさえ言えるアニマ・アニムスの自覚と統合を促すためのパートナーとして、アイドルやコンテンツや生身の人間と出会う事がある。そんな人生が変わるほど大切なことの協力者になってくれる相手は、その正体がアイドルだろうがコンテンツだろうが空想上のオリジナルキャラだろうが独立した人格を持つ生身の人間であろうが、「大切なパートナー」として感謝すればいい。

◆無意識に内側を向く心
ここに書くことも、私の個人的な邪推と妄想に過ぎない。以下に書いたことは全ての人に当てはまるものではない。
アニマを投影するための偶像(=道具)を求めてさまよう彼らは、注意が心の内側を向いていることに無自覚だ。
アニマを求めアニマに興味を注いでいる以上、外界に存在する「人間(アニマとは異なる独自の人格)」になんて興味がない。人と交流するのではなく、アニマと交流したいのだから、偶像自身の人格なんて邪魔なだけ。道具にならない「独自の人格を持った人間」なんて本当は必要ない。だからもてないし、もてる必要もない。 注意が無意識に心の内側を向いた状態でいると、外界と内界を混同しやすくなる。本人は外界の物事を見ているつもりでも、そこに内なる心の世界(内界)のものを連想・投影・同一視の末に混同していることがある。
当然ながら外界は個人が内なる世界でイメージした通りの動きなどしないのだが、外界を内界と混同した状態の人が自分でイメージした通りの動きをしなかった外界(=現実)に直面した場合、自分の内なる世界が自分の心に反して勝手な動きをしだした、心の世界を勝手に損なわれたと認識し、パニックや怒り(恨み)を抱くことがある。最近はそういう事例が増えている。AKBのコアなファンがスキャンダルに衝撃を受けたり怒り狂う構図はその一例だ。逆恨みしたファンがアイドルに襲いかかる事件も多い。ストーカー犯罪でも中にはそういうケースがあるかもしれない。

何故そんな状態になりうるのか? 
もしかすると、外界で喜びを味わう体験を十分に積み重ねていないせいで外界に対する興味が乏しく、普段から外界への関心が低くて外界へ意識が向きにくいのかもしれない。外界を「魅力に乏しい世界」とか「苦痛に満ちた世界」のように認識していれば、それもありうる。 その認識のせいで外界というものへの好奇心が持ちにくいかもしれないが、「外界=苦痛に満ちている/魅力に乏しい」という認識は、様々な物事や事例が無数にある広大な外界のほんの一例(たまたまそれが苦痛で不愉快な事例だった)を経験し、それだけを根拠(口実)に強引に作り上げた視野の狭い認識(思い込み)かもしれない。
もし何らかの理由で外界への関心が低いなら、反動で内なる世界(イメージの世界)に魅力や喜びを求め見出しやすくなりそう。いわば精神的な引きこもりだ。ある種の解離かもしれない。
外界での充実体験は、外界に意識が集中することで自然にコミュニケーション能力や自我境界を発達させるが、そういう体験が乏しければ・・・
(内界と外界の混同は自分と自分でないものの境界、即ち自我境界が曖昧な状態にあるってことでもある。自分と他人を混同・同一視してるようなものだ。その状態だと、『第3者』が存在してない)

◆外界(リアル)で自分独自の充実感を得るには
「リア充」という言葉が生まれた頃から、学園生活やとりとめのない日常を描く作品(ありふれたシーンの描写が効いている)や架空のキャラとバーチャルな交流をする商品がヒットするようになったのは、ああいう作品が「外界での意義深い体験(例えば友達との意義深い交流や部活や恋等)とそれを糧にした成長」を疑似体験させてくれるからかもしれない。
「外界で意義深い体験をして、それを糧に成長すること」・・・そんな無意識の望み(憧れ)を作品に投影する人々が増えているのかもしれない。
(バーチャルな恋愛ゲームソフトや涼宮ハルヒシリーズにも作品中にその手のテーマがあるかも)
代用品による疑似体験ではなく、本物の「外界での充実体験」が彼らの人生に訪れることを祈る。

「外界での充実体験」・・・恐らくこれは、命の本能にして誕生の動機にもなりうるようなものじゃなかろうか?
外界での充実体験をする手段は何も恋愛に限ったことではない。投影や先入観、個人の内面的な期待や不安、自分個人のイメージにこだわったり押し付けたりすること等を抜きにして、そういったことは何も考えずただニュートラルに意識(注意力)を外界に向けて行う活動全般が手段だと言える。人によっては見知らぬ土地への旅行が外界での充実体験の手段になっていた、というケースもある。予想外の(時に不本意な)配置転換がそういう体験のきっかけになった人もいるだろう。想像のつかない国の食べ物を食べたことがきっかけになった人もいた。
運勢がどんなふうにそのきっかけをくれるかは、人により千差万別なのだ。その運勢は、フタを開けるまで何が出てくるか分からない、ステキなサプライズのびっくり箱だ。
「自分の脳内では予想も想像もつかなかった有意義な体験」・・・それが外界での充実体験が持つ特徴かもしれない。
そして外界への充実体験が「命の本能にして誕生の動機にもなりうるようなもの」であったとすれば、一人一人の命の中には必ずソレを実現させるための運勢が秘められている。それを発動させるか、させないかだ。
少なくとも、「外界は苦痛に満ちている/魅力に乏しい」と頑なに思い込んで外界そのものを避けている場合、例の運勢は発動しにくいかもしれない。

外界での充実体験を望んでいる人は、時が来ればそのような体験をする運勢が作られると思う。その体験は、バーチャルな世界での遊びや「自分のイメージ通り」を追い求める遊びとは異なる未曾有の刺激を得られるだろう。全く別個の味わいだ。その喜びや充実感は、世界でたった一人、自分自身にしか作れない尊い宝物。成長の糧。自分が世界で唯一無二の存在である証。

次回、峯岸みなみの騒動を当てたとされる栗原類のタロット占いを動画で見た上で妄想してみる。

本気で架空のキャラを愛する人々←アイドルもまた人の演ずる架空のキャラだろう。
峯岸みなみを占う栗原類のカードに出ていたもう一つの暗示?

余談:多くのファンによる応援で人気投票上位という「偉業」を実現するアイドルは時に、自己実現や自己肯定の代償行為願望を象徴するアニマになりうる。一部ファンの無意識下には「多くの人に愛され支えられて成長し大きな目標を実現する人生を送りたい」とか「周囲の期待に応えて評価される存在でいたい」という願望があるのかもしれない。もしそういう願望があるとすれば、その願望自体が自己肯定の代償行為になっている可能性もある。そして、その願望は「他者にとって存在価値や利用価値があるか否か」を基準にしてしか人間や自分を肯定できない証になっている可能性もある。
「高い評価」「派手な社会的成功」「派手な名声・名誉・ステイタス・人望」という手段なんかじゃなくても、ささやかな趣味の喜びなどを通して自分が生きていること(=存在していること)を自分自身が少しでも喜びに思えれば(価値を見いだせれば)それは自己肯定しているってことだ。自分がこの世に存在してないと趣味を楽しむことも出来ないので、自分にとって自分は「この世に存在していた方がいい者・存在していてくれるとうれしい者」になる。自分自身にとって価値のある存在になる。その命は、まず「自分自身にとって使う価値のある命」となる。
自分がそう思うことには誰の許可も承認も支持も要らない。そう思うことを誰も取り締まったりしない。
「他人にとって使う価値のある命」と、「自分にとって使う価値のある命」・・・どちらの命を生きることが魅力的な人生になるだろう?

 


【人間同士のリアル恋愛をテーマにしたお話】
人間を楽器に例えた恋の話

2012年10月 4日 (木)

「草食化」という本能?

人類(特に先進国)が少子化したり、男女共に草食化しつつあるのはある種の本能かもしれないと思う今日この頃(妄想)。

 

「恋愛」というと、今までは生身の人間にアニマやアニムス(※)を投影して交際を求め叶えようとするタイプの恋愛(ある意味互いに相手をスクリーンとして利用する取り引き・駆け引き・協力関係)が主流だった。しかし最近は他人をスクリーンとして使わず (ゆえにそのためのやりとりをせず)もっと自分のアニマ・アニムスに都合よくカスタマイズ出来るような別のもの(例:いわゆる『二次元嫁』やオリジナルキャラ)を利用することでより直接的に自分のアニマ・アニムスを感じとり対話し統合することで成長・成熟しようとする傾向を感じる。この成長や成熟は、従来型の「男女の駆け引き」を用いてなされる成長・成熟とは少し趣が違うかもしれないが、 それはそれで従来時代には無い新しい可能性を生む。
投影か直接対話か。本当に愛している存在がアニマやアニムスであるとすれば、その場合はどちらの手段がより本質的な恋の形と言えるか。どちらがより本質的な意味での「交際」と言えるか。
・・・それが草食化の背景にあるもの?

恋愛が社会的なものから、より個人的、精神世界的、内面的なものに変化してく感じ。そんな変化の流れ次第では、やがて恋愛の定義すら変容しうる。
でも今はまだ、従来社会、従来時代の発想や価値観をまだ引きずったまま(植え付けられたまま)抜け出せずにいることが人々の中で様々な神経症的葛藤を生んでいて、色んな社会現象にもなっている?
例えば結婚。本当は結婚なんか興味ないのに従来の価値観や発想に流され支配されて結婚に無関心なこと自体に不安感や劣等感を植え付けられ(または別の不安を結婚に関する不安にすり替えられ)、 そんな不安や劣等感から逃れるためだけに心の底ではしたくもない婚活に 駆り立てられエネルギーをすり減らして「婚活鬱」になったり、そんな不安や劣等感に駆り立てられて、不安や劣等感を原動力(動機)にした心の底では望まぬ結婚をした挙げ句に離婚する。 そんなケースも増えてる懸念。
そんな「望まぬ結婚」の末に発生する「望まぬ妊娠」や「望まぬ出産」、「望まぬ子育て」。それが堕胎率の上昇や子供の虐待(時には離婚後の片親や再婚相手からの虐待)増加に関わっているとしたら・・・

増えつつある「草食系」、ないし「草食系オタク」とか言われる人々が本当に結ばれたい相手は生身の人間ではなく、己の心の中にいるアニマやアニムス(共に人生を歩み共に生きるべきもう一人の自分)かもしれない。
アニマやアニムスと結ばれること、ともに人生を歩むこと。ともに人生を創ること。その先には従来の発想とは異なる新しい可能性があるだろう。「望まぬ結婚」の発想とは全く異なる可能性の人生が。
もしも「2次元の存在とは結ばれない」と嘆くなら、心の中で2乗すればいい。するとその存在は4次元(精神世界)のものになる。そうすれば3次元(物理世界)の制約を超えることが出来る。液晶画面だって簡単に超えられる。
どんなキャラも最初は作者の精神世界に居たんだから4次元存在である。それが作品発表によって多くの人々の精神世界へ配布され、配布された先で新たな命(=アニマ・アニムス)を吹き込まれたわけだ。
要するに、そのキャラは最初から液晶画面よりもはるかに近くはるかに自由な場所に居たのだ。自分の心の中なのだから。そしていつでもどこでも対話が出来る。

草食化は少子化を招く。それは人類という種族が、命を量産させることよりも命ひとつひとつの生き方を目に見えぬ本質的な面で充実・進化させていこうとしていることを意味するのだろうか(それで恋愛の形も本質重視?)。
量産体制を終わらせ質の向上へと種族を移行させるのに「草食化」は好都合? それは本能?  
量から質への移行。これはもしかするとこれからの大きな変化を表すキーワードの一つ?
(産業革命から作られた近現代およびその文明は量産重視。大量生産+大量消費=『使い捨て』。雇用や人材、命すらそんな発想で扱うことも。恋愛にいたっては、言うまでもない。)

出会いを探すなら、まず自分の無意識の中から探す。最も近く、最も気付きにくい場所から探す。
これからの時代、中にはそういう人が出てくるかもしれない…
オーソドックスなやり方だけが「正しき主流」とされる時代は、終わりつつある。
「草食化」という本能があえて発動して人類の数が大幅に減るのであれば、人類は絶滅しない。おそらく、適当な数に落ち着いてより質の高い充実した新たな進化と発展を遂げるだろう。それは今までの発想とは全く別の意味で「繁栄」とさえ言えそうだ。今より地球に優しい繁栄かもしれない。
「本能」とは、常に生命をより良い方向へ進めること、それを支えることが大前提なのだから。

アニマ・アニムス:理想の異性像。アニマが女性版でアニムスが男性版。その特徴やキャラデザインは本人の内部に隠された個性や意欲や可能性を象徴することが多い。「自分」という生命体の一部と言える。ユング心理学の用語。
(結婚した人もそうじゃない人も、結ばれたアニマ・アニムスを人生に生かすこと自体は可能。アニマ・アニムスとの交際と実際の恋人との交際を同時進行したって浮気になどならない。なぜなら、彼・彼女は自分の命の一部だから。何があろうと自分の命とは一生添い遂げるしかない。中には自分のアニマ・アニムスを生かし共に人生を生きた結果、『望む結婚』に至るケースもあるだろう。それが唯一の正解ではないが、人の数だけあまたある幸せの一例かも)

 

【ほぼ同じテーマを妄想した記事】
情熱の矛先

 

【余談】
量から質への移行は、産業革命を母型にした量産&使い捨て重視の従来文明を維持できなくさせていく。いわば文明のアポトーシス。アポトーシスは、「破滅すること」を目的にはしていない。「より良くなること・進化すること」を目的に行われる事を、忘れてはいけない(例:おたまじゃくしはシッポの細胞が減少するにつれ手足が生えてカエルになる)
(草食化だけじゃなくて、ニートや新型うつ(非定型うつもその一種?)←この心療内科自体が病気じゃないかと言う人もいるw

 

人間を楽器に例えた恋の話

2012年8月23日 (木)

「必要とされる」必要がない

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

 

「アダルトチルドレン」が恋愛に与える影響

世間には、女性は「愛された方が幸せ」という風潮が未だにまかり通っているようです。でも、これは心理学的にも、運命学的にも、こと恋愛に関して言えば、必ずしも正しいとは言いきれません。なぜなら、恋愛は「愛し愛されること」のバランスの上で成り立つ関係だからです。

 恋愛関係において「愛し愛され」のバランスが崩れると、決して幸せになることはできません。人が、ただひたすら愛されて幸せを感じることができるのは、唯一、赤ん坊のときだけです。
さて、恋愛においてはまず何よりも、相手を愛することが必要になりますが、そのためには「自分自身を愛する」ということが必要です。
(中略)自分自身を愛せないと、自分と同じ人間である他人を愛することができなくなります。また、自分自身を愛していないと、自尊心を保てなくなるので、いつも「誰かから必要とされている」と確認することでしか、自分の存在意義を認めることができなくなってしまいます。

◆自己愛≠代用品
男女問わず、自己愛(自尊心)のある人は、外部から「必要とされる」ことに執着し囚われない。なぜなら、「自分自身から必要とされること」「自分が自分を必要とすること」「自分を愛する(自分に喜びを見出す)こと」が自己愛だからだ。 他人からの愛で自己愛を代用しない。

自己愛の代用品になりやすいのが恋人。その恋人に対して抱く感情は、愛情ではなく、あくまで「道具(代用品)」に対する依存と執着の感情だ。どちらかといえば人としてではなく道具として「好き」だったりすることもある。それで時には「人を心から愛せない」という悩みになったりする。

他者から必要とされることを自己愛(自尊心)の代用品にしようとしてむやみやたらと愛されよう・評価されようとする。他人からの評価や愛情を擬似自尊心の根拠とすることが原因で他人の目を気にしすぎてオドオドしてしまったり、他者の目が怖くてコミュニケーションそのものを避けてしまう。コミュニケーションはしても、相手から期待されるリアクション(評価)がないと落ち込んだり、逆恨みしたりすることもある。
(一時期mixi内で足跡がついてるのにコメントがないと逆恨みする風潮が流行ったが、アレも極端な場合は自尊心を見直してみたほうが良いかも)

あるいは、他者からの評価を求める自分の心に振り回されて、望まぬ努力や望まぬ生き方を自分に強要してしまうこともある。本当にしたいことを自ら否定させてしまうこともある。 自己愛とは逆だ。
「そんなことを自分にさせた張本人」はほかでもない自分自身なのだが、評価を求めている相手を張本人として責任転嫁し逆恨みすることもある(親や恋人のケースが多い)。
その心情を言葉にするとしたら、「私がそんな生き方をするハメになったのはあなたのせいだ。私の人生を返せ!」か。

◆いつも自分を必要としたい
「外部評価至上主義」というのは誰もが陥りうるものだが、ゆえに誰もが抜け出しうる。
冗談めいた極端な話、他者からの評価や愛情に自尊心の根拠を見出していると、万が一人類が滅亡して自分だけが奇跡的に生き残ったとき、その命を尊べない。だって自分を愛し評価してくれる「人間」がいないのだから。だから種族の中でたった一人の生き残りであってもそれに価値を見出せないなんてことがあるかもしれない。
あるいは人身売買やストリートチルドレン、虐待などで「愛される」ことのない子供時代を送った人が立派に成長して自尊心を持っていた場合、「愛されたこともいないくせに一人前の自尊心を持つなんてルール違反だ。誰の許可でそんなことしたんだ! ずるい! 許せない!」と思ってしまうだろうか? 自尊心は許可制?
上に書いた2つの例え話を「ないわw」と思えたら、多分アナタは本当の外部評価至上主義者ではない。外部評価に依存しているように見えて、心のどこかでは自分の考え方を「ねーよw」と思っている証拠だ。本当は知っているのに、わざと自己暗示をかけているのかもしれない。

また、「いつも他者から必要とされたい」は、「いつも他者を必要としなければ(他者に依存しなければ)」という考え方の裏返しかもしれない。でもこれ、自分の本当の欲求を勘違いしている。
本当は「誰かに必要とされなきゃ・誰かを必要としなきゃ」という強迫観念から解放されること。すなわち、「いつも自分を必要としたい」だ。自分の人生を作るためには、「自分が存在していること」が必要不可欠だ。当たり前だけど。 自分が人生の中でささやかでも喜びや楽しみや意義深さを味わう経験をすれば、自分の人生に価値を感じるようになる。価値ある己の人生に絶対不可欠なかけがえのない存在。それは世界でたった一人、自分自身だ。
「他者からのニーズ(評価)確保」を求める欲求は、つまるところ、自己肯定するための根拠を求める欲求であり、自分の生きる喜び(どこかしら意義を感じる人生)を根拠に自己肯定さえ出来れば必ずしも他者からのニーズを根拠に利用する必要は無い。ならば、自己肯定の根拠を「楽しい自分の人生を作るのに絶対不可欠な存在だから」とした方が単純明快で簡単だ。不確定な他人のリアクションを利用するなどという非効率で回りくどい方法をとる必要もない。これは、自己肯定(私は尊い)の理由に客観的根拠(客観的証拠)を用いるか主観的根拠(主観的証拠=実感)を用いるかの違いだ。
自分という存在が尊いものであることを認識・確認するために、他者から必要とされたり高く評価されるといった「客観的な証拠」を求める動機は、自分に対して客観的証拠を提示することで自分自身が「確かに私は尊いのだ。客観的証拠もある」と納得し安心したいからかもしれない。いわば自己肯定のための理論武装。
それは結局、客観的証拠をもとに「私は尊いのだ」という主観的根拠(実感)を抱きたいからだ。
そう。自己肯定および自尊心(=私は尊い)というやつは、どんなに客観的な根拠や証拠を求めようと、最後は自分が「私は尊い」と感じることが出来るか出来ないかで決まるのだ。要するに、ソレは主観的な感覚なのだ。科学的にも物理的にも理論的にも証明しようの無いものなのだ。
「私という存在は尊い」・・・それは真実かウソか、それは正しいのか正しくないのか。誰にも判断や証明はできない。価値観というものは普遍的ではなく、当事者の主観(感覚)だから。ただ、多くの人が本能的に「自分は尊い(尊ばれたい)」と感じる主観を持つことから、「人権」という概念が生まれたようだ。以来、社会の秩序維持において人権の尊重は要になっている。
よって己の心が自分自身を尊ぶこと・肯定すること・愛することに誰かの許可は必要ない。

◆生存本能は無条件に自分の存在を肯定する
幼い頃から、両親や親しい人達から優しくされて嬉しかったり、「両親や優しい人に愛されたい(愛されたらうれしいだろうな)」と思ったりする経験が誰にもあると思う。その気持ちは、自分という命が生きる時に支援を受けられると本能的な喜びを発する心から来ている。生きる支援は嬉しいのだ。
即ち、生きる支援を喜ぶ心がある限り、あなたは自分の命を生きることが好きなわけだ。あなたは、自分という生命存在を心底愛している。自分を生きることが心底愛おしい。それゆえに、己が心底愛する「自分の命」を支援されると本能的にうれしい。愛するものを支援されれば誰だって嬉しいし、時には感謝の気持ちさえ湧くかもしれない。
(嫌いなことを支援されたってうれしくも何ともないだろう)

自分の命を肯定する根拠をそんなにも求めているという時点で、その人は自分の命を生きることが大好きなわけだ。生きることが嫌いだったらそこまで肯定したいとは思わないし、特に支援されたくもないだろう。「生きるのが大好き」なので、人生(=生きること)を楽しく発展させていくことも好きだ。そんな「好きなこと」をするのに不可欠な「自分」という存在も好きだ。自分の喜びに自分という存在は欠かせない。自分はかけがえのない存在だ。
好きなことは自由に思う存分やりたいので、好きなことをするのにいちいち他人(の評価や承認や許可)に縛られたくないかもしれない。少なくとも、人間の生命活動に他者の許可や承認など必要ない。
そういう意味で、「評価されるために自分自身や自分の好きなことを犠牲にする」のは本末転倒だと思うかもしれない。
自分の命を肯定できるような根拠を得たい心理は、心おきなく大好きな作業(=自分の命を生きる)に取り組みたいという本能的な欲求かもしれない。

私がいなければ私の人生は楽しくないし、あなたがいなければあなたの人生は楽しくない。同様に、あの人がいなければあの人の人生は楽しくないだろう。
自分の人生を愛せること、愛せるような人生を望むこともまた、自分を愛する形のひとつであるように思える。
誰よりも共に生きるべきパートナー。それは、自分自身なのかもしれない。
「相手が私を必要としてない(愛してない)のなら、私も自分を必要としてはいけない(愛してはいけない)」という変なルールを作る発想は自分と他人を同一視し混同している。自分の独立性と他人の独立性、どちらも否定することだ。両者の独自性を否定することだ。

◆アダルトチルドレンのアニムス/アニマ
アダルトチルドレンの場合、本人が持つ理想の異性像(自分の中の隠された個性や可能性、隠された欲求など諸々を象徴するキャラクターイメージ。女性版をアニマ、男性版をアニムスという)の特徴は、自尊心を満たしてくれる者であったり、自尊心がしっかりしている者であるかもしれない。誰よりも自分を愛し必要としてくれて、誰よりも共に生きるべきパートナーになってくれる存在かもしれない。自分の人生を楽しい方向へ誘ってくれる(共に生きていれば人生が楽しくなれる)存在かもしれない。 生きる喜び(=自分という生命存在を好きになること)を教えてくれる存在かもしれない。
いずれにせよ、それは結局、秘められたもう一人の自分なのだ。
(もう一人の自分は、そんなにもアナタを愛している)

【余談1】
漫画・アニメ・ラノベ等である日突然女の子がやってきて男の主人公と共同生活する展開の作品が増えてるが、あの女の子はまんまアニマだと思うw 主人公と男女が入れ替わってるケースもある。
最近噂される「日本人草食化説」は、自分のアニマ・アニムスを他者に投影せずに(他人を代用品や投影スクリーンにせずに)、彼・彼女とより内面的な方法で直接向き合い、直接感じ、直接理解したい欲求の現われなのか? と思うことがある(妄想)。
目先のことにばかり囚われがちだった人類は、今まで以上に己の内なる精神世界との距離を縮めたがっているのかもしれない。だとすれば、それはまさにスピリチュアルだ。

【余談2】
「私の生きる意味や価値は何ですか? 占いで教えてください」と占い師に鑑定依頼をしに来る人が毎年何人か現れるのだが、彼らの多くは「誰にとっての生きる価値を探しているのか」という点が自分でもよく分かっていないようだ。時には、神のような「絶対普遍の価値基準(ルール)」というものがこの世には存在していると無意識に思い込んでしまっていて、その価値基準(ルール)から見て自分は生きる価値や資格があるのか、その価値基準に自分は当てはまっているかどうかを問うてくる人々もいる。強迫的な不安感を抱えているケースもある。
だが、この世に「絶対普遍の価値基準(ルール)」というものは存在しない(存在すると思い込んだばかりに宗教紛争が今なお続いている)。
どうしてそんなものが存在すると思い込んでしまったのかを心の中をさかのぼり探し当てることが先述したような人々のお悩み解決には不可欠なカギとなる。

 

一人の女で満足出来ない男 男の愛で自分を認める女←母性に飢える心について 
就活自殺の増加に思うこと←外部評価至上主義について。
童貞のまま30代で死んだ男の誕生日←アニマについて
中二病の有効活用

2012年5月 7日 (月)

年齢と自信

若さを失ってもモテる秘訣

歳を重ねることは、経験を積むこと。それはとても素敵なことなのに、その人の魅力がそれと反比例して失っていくという考えは、上っ面しか見えていない証拠なので、なんとも残念です。そういった風潮があるため、30代以上になると自信を失う女性が少なくありません。

以下、占い師の視点から書いた個人の意見。 決して「子供おばさん」を貶すつもりはありません。むしろエールを送りたいです。

◆年齢で自信を失うのは子供おばさん?
記事は女性側の年齢による自信喪失を上っ面しか見ない男性達のせいにしてる印象だけど、そんな風潮に同調し支配され自信を失う女性達自体が上っ面しか見えていない証拠でもある。自分自身の上っ面しか見えていないってことでもある。だから、上っ面主義をふりかざして年増な己の自信を傷つける男達への恨みの半分は、上っ面主義に迎合して自らを傷つけた己に対する恨みでもあると思う。
上っ面な男達は、己を傷つけるための道具であり、傷つけた罪を着せるための道具か?

男女問わず、己の上っ面しか見えてないってことは自分のことがまだあまり分ってないということでもあるので、経験不足という点では子供に近いといえる。年齢を重ねることと経験を重ねることはイコールではない。
ある程度歳を経た大人になると、目に見える経験、目に見えない経験を含め、「どんな経験を積んできたか」がその人の個性になる。 今までの生き方(経験)が個性を作り、個性が生き方を作るのかもしれない。

ただ、それが他人から見て魅力的に映るかどうかは、「その人にとって利用価値があるかどうか」という基準での判断でしかないので、絶対的なものじゃない。他者からの評価てのは所詮そんなもので、評価者の主観によってコロコロ変わる。昨日と今日で変わっちゃうこともある。 とても自己評価の代用に出来るシロモノじゃない。
そんなものに脅迫的にすがってしまう風潮が日本人にはあるかもしれない。
モテたい心理の裏側は、特定の異性と恋し交流するチャンスを求める発想ではなく、「周囲から評価されたい」という発想とつながってる「子供おばさん(子供おじさん)」も多いのだろうか?

◆評価されることへの強迫観念?
日本の集合無意識下には「他者から評価されない=周囲に受け入れられない=村八分(まともに生きることが許されない)」というトラウマか何かが影響して作られた被害妄想でもあるんだろうか?
(仮に利用価値がないだけで村八分が起きるとしたら、村人を煽動し悪用できる立場の存在がいたということだ。それは村の有力者か、それを恐れる村人達の集合無意識下にある恐怖と不安と疑心暗鬼が作り出した実体のない精神プログラムかも)。
「自分の個性が他人から見て魅力があるかどうか(利用価値があるかどうか)」を自信の根拠にして一喜一憂すること自体が、ある意味では他者に依存しているとも言える。
精神的な他者依存は子供の心理の特徴でもある。「自分は無力で他者の庇護を必要とする=他者(周囲)に生殺与奪を握られている」という強迫観念が強いと、己の生命の尊厳(自尊心)と他者の評価を混同し同一視してしまうことがありうる。子供の本能にとって、 「愛されたい」は「生きたい」でもありそうだ。

これが大人になると、一方的な依存ではなく、助け合うとか、連携とかいった関係になっていく。恋愛も然り。若い頃は「かわいいと思われたい」という心理だったのが、徐々に「信頼しあいたい・尊重しあいたい・信頼と尊重の関係に感謝したい」に変化する人もいる。
大概大人になると外部に生殺与奪を握られているという強迫観念は徐々に薄れていくのだが、稀に子供の頃強い不安感を味わい、そのインパクトが無意識に響いてて自分がまだ子供の頃と同じぐらい無力でおびやかされていると勘違いの自己暗示がかかっているケースもある。
(子供から大人へと成長し徐々に生きる力を身につけていくことは、自分自身への愛情でもあるのだろう。強迫観念から己を救うことも出来る)

◆他者から見た利用価値 自分にとっての意義
個性は生命活動の証。他人にとって意義があるかじゃなくて、自分にとって意義があるか、が重要なわけで。(積んできた経験にも同じことが言える)
他人にとって利用価値がないこと(利用価値を失うこと)は恐れる必要がない。対人関係なら、利用価値の有無よりも、自分が迷惑を出してないか(害の有無)を脅迫的にならずスマートに考慮できるようなカッコイイ大人になりたい。 出来るだけ高潔で上品な感性を身につけ、そのように振舞えれば・・・

他者に個性的だと思われたいばかりに奇抜な格好をしたり、又は自分らしさを出すことにこだわりとらわれるのは、自分自身が自分を認めていない証かもしれない。その振る舞い方自体が自己否定を前提にしていて、本人が自己否定を抱えた証なのかもしれない。

「個性的と評価されるためには、自分を殺せ。自分の感性とは違うもっと派手で奇抜な格好をしなければ。私の無価値な感性(個性)なんかどうでもいい。私の個性なんてどうせ誰も評価しないんだから。私すら私の個性なんて評価しないんだから・・・」

評価を得るための自己否定。無理して奇抜に走る若い子達を見ると、そんな痛々しい心の声がたまに聞こえてくる。私の通ってた大学(別名変人大学)にもそういう子達がいた。
(変人大学、という世間のイメージを意識しすぎたためにその役割を背負おうとして押しつぶされたのか?)
キャンパスで占いの店を開いていた時、奇抜なファッションで闊歩し自信ありげで悩みなどなさそうな同年代の彼らの悩みを聞いて、そんな心の声を知った。
タロットカードを使って、目に見えない心の葛藤を、彼らと一緒に対話しながら探った。

そんな経験の積み重ね達が、今の私の個性を作っている。私の個性を構築している素材は、他人には利用価値も意義もない怪しく胡散臭いだけの経験かもしれないが、私にとっては充分に尊い宝物である。そんな宝物達を愛する気持ちが、己の個性や人生を愛おしくしく思わせるのかもしれない。

「宝の経験を得た」という現象には、人知を超える神がかった運の力を感じる。人間が意図して手に入る体験じゃない。そんな体験を積み重ねたせいで、私の個性はほぼ非科学的なモノで構成されている。
それはどう見てもモテやすい個性ではないが、別に後悔はしていない。
(中身は電波でも外見がよければモテる? 察してください)


「必要とされる」必要がない

2012年1月28日 (土)

エア恋愛の意味

主婦がエア恋愛にハマる理由 リンク先の記事より抜粋

有働アナウンサーと「エア恋愛」経験者の主婦2人による座談会では「なぜ主婦がエア恋愛にはまるのか」について議論され、2人の共通点として「夫に弱音を吐けない」ことと「キラキラしていたい」という願望が浮き彫りに。「エア恋愛」の相手を通じて自身を慰めているとの声も上がっていました。

(中略)

妄想の相手はハリウッドスター、韓流スター、ジャニーズタレントといった有名人から、「ブラック・ジャック先生」(妄想人生さん)、「漫画『ワンピース』のロロノア・ゾロ様」(腹巻になりたいさん)など漫画のキャラクター、「一回り下の男のコと妄想恋愛中」(ツナサンドさん)のように身近な人物まで千差万別。

日本では源氏物語の時代から行われていた「心の中で楽しむ恋(妄想)」に対して「エア恋愛」なる表現まで生まれる時代になったようだ。

◆ダヴィンチもエア恋愛?
かの有名なルネサンスの巨匠、レオナルド・ダヴィンチもエア恋愛をしていたという説がある。彼はそのお相手(多分彼のアニマ)を絵に描いて、生涯大切に持ち歩いた。フランスで生涯を終えたときも、その絵はベッドの下で大切にしまわれていた。その絵の名前はモナ・リザ。 あの絵が意外と小さい理由は、持ち歩く前提だったからかも。
(彼の自画像とモナリザを重ねると目鼻立ちが完全に一致
実は、ルーブルで展示されてるアレよりも年齢の若いモナ・リザもある(画像)。
ダヴィンチの「Monalisa」はフランス語の「Mon alisa(私のアリサ)」という意味が隠されているのだろうか(妄想)。
アリサ・・・この女性名はドイツ語やギリシャ語で「高貴な」という意味の言葉やヘブライ語の「楽しみ」という言葉に由来する。ダヴィンチのエア恋愛のお相手(アニマ)は、アリサという名前なのか?(妄想) 

エア恋愛とは、「高貴な楽しみ」なのだろうか? 場合によっちゃそうかもしれない。
「エア恋愛」という現象には、重要な意味が隠れていることがある。無意識の底に隠された「もう一人の自分(=アニマ・アニムス※)」と一つになって己の無意識に封印された新たな可能性を得ようと願っている人の場合には特に。
おそらく、震災以降日本におけるエア恋愛の傾向は加速度的に増加していくものと見られる。日本の集合無意識で、何かが起きようとしている。 「日本」という国自体すら、封印された「もう一人の自分」と向き合おうとしてる気配がある。

エア恋愛は、孤独を癒すことが出来るだろうか? 
その孤独の原因が自分自身の内なるものを見失ったり封印してしまったことであったり、「もう一人の自分」が持っている個性や可能性を求める心理(それを自覚・活用できなくて人生が物足りなく感じる心理)が作り出しているものであれば、エア恋愛はその孤独を癒す「変化の予兆」になるかもしれない。

 

↑エア恋愛の歌として歌詞(日本語訳)を読むと面白いw 歌詞に水という単語が出てくるが、心理学的に 「水」は無意識の象徴(マジ)。このPVに出てくるイケメン(あらゆるところにいるが、どこにもいない)が最後は主人公の部屋(=心の中。己に最も近い場所)にいて微笑むところが意味深。彼はアニムスだろう。
これがイケメンじゃなくて美女や美少女といったアニマに置き換えても同じことが言える。

※アニマ・アニムス:理想の異性像。アニマが女性版でアニムスが男性版。本人の隠された個性や可能性、意欲等を象徴することが多い。ユング心理学の用語)

 

【ほぼ同じテーマを考察した記事】
童貞のまま30代で死んだ男の誕生日 結婚相手より生き方を探せ?

【リアル恋愛をテーマにしたお話】
人間を楽器に例えた恋の話

2011年12月24日 (土)

童貞のまま30代で死んだ男の誕生日

「Xmasデートは恥だと思え!」カップルだらけの渋谷で"非モテ"がデモ

「リア充は爆発しろ!」
「クリスマス商業主義に踊らされるな!」
「モテないからってバカにするな!」
「モテないことは悪いことではない!」
と、訴えるデモは渋谷を行き交う若い恋人たちの注目を集め、なかにはデモの主張に大笑いする人も。

 

 デモの様子を携帯電話で撮影している人たちに話を聞くと、「超格好いい!」、「面白いからいいんじゃないですか」、「ああいうクリスマスの楽しみ方もありかな」と好意的な意見が多かった。一方で、「なんかかわいそう」、「いたたまれない・・・」と、"非モテ"たちを不憫な目で見つめる人もいた。

↑時代が新しくなったと感じたw
実は、普段から恋人がいる人やガチでモテる人は、クリスマスにそれほどこだわってないことも多い(ガチでモテるお水系は別として)。
彼らは「キリストの誕生日」が恋人のために作られた日とは特に思ってない場合もあり、その日に限って特別なデートプランを必死に計画するとも限らない。
理由は簡単。そんなことするまでもなく普段から充分楽しんでいるからだ。普段から会いたいときに会ってよろしくやっている(恋人が二次元の人なんか尚更そうしやすいと思うのだが)。
「クリスマスは混むし割高だから街でのデートは避ける」「むしろ天皇誕生日の方が都合がいい」・・・そんな人も割といる。
二人の世界に日付なんて関係ないのだろう。

クリスマスというものに無闇に固執したり特別視したりプレッシャーを抱えやすいタイプはむしろ、恋人のいない人の方が多いんじゃないかな。あるいは、体面やプライドを保つためにくっついたにわかカップルか、「こうしないと恋人の気を引くことができない・愛を確かめ合うことができない」「クリスマスにどう過ごすかで今後の評価や展開が決まる」という狭い考え方にとらわれてしまった人か、流されやすく恋愛に不慣れな人か、バブル期の感覚がどこかに残ってる人、デートを「こなすべき儀式」のように考えてしまってる人が多いかも。
恋人とのクリスマスデートを鼻にかけ、心の内では密かに「お一人様」を嘲笑し優越感に浸っている人は、自分も恋愛に不慣れで本当はあまり自分に自信がなく、異性と交流する時余計な力が入ってしまっているタイプかもしれない。要するに、他人との比較による優越感を自尊心の代用にしてる時点でドングリの背比べだ。

・・・というわけで、「クリスマス非モテコンプレックス症候群」の患者さんたちは「クリスマスは恋人たちの特別な日」と狭量な思考で短絡的に決め付け、毎年の12月24日を「キリストの誕生日=性なる夜」というレッテルを貼ることで自ら己を惨めに貶めているといえる。 己を惨めにしているのはクリスマスでも周囲のリア充でもない。己自身なのだ。

例え自分がどんな人間であろうと、心の中でいつもそばにいてくれるアニマ(理想の女性像。本人の内部に隠された個性や欲求や可能性を象徴することが多い。昔は身近な生身の女性にアニマが投影されて恋が芽生えることも多かったが、近年では必ずしもそうとは限らない。例:アイドルやアニメキャラ)。
そんなアニマの存在を全否定し、己の視界から締め出し、彼女との対話を拒み、その上で「自分はなんて惨めで孤独なんだ」と自己憐憫に浸っている者達のなんと多いことか。

愛する者=アニマは、そこにいるじゃないか。
例えアイドルやアニメキャラの姿をしていても、ひとりひとりの心の中では独自の印象と個性を持つあの子が。己の心に潜む個性や可能性を象徴した姿や言動で己を待ってるあの子が。自分にしか愛する事の出来ないあの子が。ふとした拍子にこっそり面白いイメージや空想を自分に思い浮かべさせることで心の奥から語り掛けてきてくれるあの子が。あの子を印象の似たアイドルやキャラクターに投影して恋焦がれているのは自分自身の片割れ(=あの子)。自分の目から見た(自分にとっての)アイドルやキャラクターは、自分の中にしかいない。そう。自分の中にきちんといてくれる。どこよりも近くにいるじゃないか。だからこそ、自分にしか愛せない。あなたが愛さずに誰が愛せる? 
それが生身の恋よりも劣るというのなら、それは己のみならず、彼女を馬鹿にして貶めているのと同じだ。
彼女と語り合い触れ合い愛し合える唯一の人間が、そんな状態でいるべきなんだろうか? 彼女、あなたと結ばれずに誰と結ばれろと?

粉砕すべきはクリスマスではなく、液晶画面でもなく、アニマと自分を隔てる殻かもしれない。
殻を破り彼女の手をとり、隠された彼女の秘密(=隠された己の秘密)を紐解けば・・・

 

↑夢の中で己のアニマと会った記憶がスガシカオにこの歌を作らせたのだろうか? などと空想してしまったw
この歌詞は意義深く生きられない己を卑下していた少年が、アニマと出会うことで隠された己の個性や可能性の存在を知り、それと共に生きる意義を知った物語のようにも聞こえる。日本のどこにでもいる地味で平凡な黒アゲハチョウを「誇らしい羽」と表現するのは、地味な有様の裏側で目には見えずとも自分にしか味わえず持ち得ない喜び(それは尊さにつながる)を知って「僕らしい羽」を手に入れたからであるような・・・
その羽は地味だが、飛ぶ力が確かにある。大空で自分にしか見えず味わえない喜びに誘ってくれる。

とまれ、個人的には童貞のまま30代で死んだ男の誕生日が何故か「性なる夜」にされていたり、それに対して抗議するデモを届け出て受理される日本の自由さは嫌いじゃないw

 

 

本気で架空のキャラを愛する人々
中二病の有効活用
「草食化」という本能? 見ているものはアニマか人間か 人間を楽器に例えた恋の話

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