アニメ・コミック

2024年1月18日 (木)

実写版ナウシカ

数年前にブラジルのファンがファンアートとして実写版ナウシカを作っているという話は聞いていたが、昨年11月にとうとうそれが完成していたとのこと。楽しみにしていたので感無量。
ナウシカという作品、ファンアートのすそ野と可能性が半端ない。メーヴェを自作した人までいる


漫画版ナウシカで妄想
宮崎駿氏占ってみた 君たちはどう生きるか~巨匠の呪術~

2023年10月24日 (火)

ゴールデンカムイ×タロット

ヘタリア×タロットに続き、今度は独断と偏見でゴールデンカムイのキャラをタロットカードにあてはめてみました。一部ネタバレ注意。

 

愚者:
白石(従来の秩序や力関係をひっくり返す、意表を突く、どんでん返し、といった意味もあるカードなので)

魔術師:
ウイルク(物事の始まりや才能、テクニック等も意味するカードなので)

女司祭:
日本語の本を持つソフィア(知性や『抑圧した片想い』、不妊の意味もあるカード。ソフィアという人名は知恵を意味する)

女帝:
妊娠したインカラマッ(伝統的に母性を象徴するカードでもある)

皇帝:
海賊房太郎(帝王になりたかった男。『精神的には孤独』という意味もあるカード)

司祭:
アイヌの長老(各種儀式を執り行う立場の人。伝統性も司るカード。)

恋人:
インカラマッと谷垣源次郎

戦車:
ドディオン(行動力や自立性、『自らの意志で進む』という意味もあるカード。自立した独自の原動力を持ちキャラの行動力をUPさせた乗り物)

力:
レタラをなでるアシリパ(伝統的に『猛獣を手なづける女性』が描かれるカード)

隠者(賢者):
土方歳三(高い経験値や思慮深さ、分析力も意味するカード。また、長い間世間から身を隠していた経歴から)

運命の車輪:
雌雄鑑別器と関谷(カードにはスフィンクスが描かれることも多いので、関谷をスフィンクス代わりに配置してもいいかな)

正義:
「銃を置け月島」だった時の格好をして天秤と剣を持つ目隠しした鯉登。(判断力も意味するカードで、鯉登が自分なりの正義に基づき冷静に判断を下したシーンの服装がカードとマッチしそう)

吊るし人:
頭をカードの下側にして安らかに横たわる牛山と都丹庵士(試練や自己犠牲の意味があるカード)

死神:
狙撃する尾形と倒れていく家族(決着や清算、考え方の変化という意味もあるカード)

節制:
杉元と土方の争いを調停するアシリパ(調停する、バランスをとる、という意味もあるカード)

悪魔:
第七師団の面々や江渡貝君をを人形よろしく糸(=意図)で操る鶴見(依存や支配・束縛、誘惑、心の弱さ、操るといった意味もあるカード)

塔:
砲撃される網走監獄の見張り塔と頭から血を流して倒れている杉元&のっぺら坊(崩壊、突然の悲劇や突発的事態という意味もあるカード)

星:
星形になった刺青人皮(希望、めどが立つ、という意味もあるカード)

月:
月明かりの下でいご草ちゃんの髪を見つめる月島軍曹(嘘、不明瞭、不安、うつろい等の意味もあるカード)

太陽:
最終巻で見事に成長し大出世することが判明した鯉登とそれを眩しそうに見上げる晴れやかな顔の月島(将来の発展性、出世、取り組みの成功という意味もあるカード)

審判:
心が戦場から戻って来れた杉元(回復、帰還という意味もあるカード)

世界:
みんなで手をつないでジャンプしてるアレ(大団円、という意味もあるカード)



近代日本のカルマとゴールデンカムイ
鯉登少尉を占ってみた
占い師が「現代転生した金カムキャラ」を妄想してみた
(想像図有)

2023年7月16日 (日)

「君たちはどう生きるか」~巨匠の呪術~

ひとまず見たその日にその場で抱いた感想を走り書きしておく。公開初日は内容に対するネタバレや先入観の流布をできるだけ防ぎたいので後ほど断続的に加筆・更新予定。
→16日より断続的に内容の加筆・更新開始。「ネタバレ注意!」の警告を見落とさないように!

 

◆第一印象
作品の印象を有志が一枚の絵にした)←これで内容を理解できた人は異能者w タロットの「塔」が解釈の参考になるだろう。
夢判断やユング心理学、タロットにも通じるシンボリズムや比喩・暗喩、ほのめかしに満ちた演出&表現ですぐ意味が分かる人ばかりではない(私含め)。
よく言えば「神秘的で謎めいている」だし、悪く言えば「支離滅裂・意味不明」と評する人もいるだろう。夜見る夢と同じと思えばいい。
とにかく作品に含まれている情報量が多い。ダブルミーニングやトリプルミーニング、多義的・多元的な照応すら描かれていると思う。一度見ただけでは把握し切れない。
そこで好き嫌いが分かれるかもしれないが、絵柄や風景は相変わらず美しい。
米津玄師の主題歌「地球儀」も美しくて良い。前作「風立ちぬ」を受けての歌詞と作品であることがよく分かる。


◆巨匠の仕掛けた呪術

何故こんな表現方法の作品になったのかというと、恐らくこの作品は、「見た人々の表層意識ではなく、潜在意識(無意識)に呼びかけ働きかけることを目的にした作品」だからではないかと妄想した。大勢の無意識に呼びかけ働きかけるとは即ち、人々の集合無意識に対して呼びかけ働きかけるという事でもある。それは呪術だ。宣伝を行わないことで人々は偏見や先入観や思い込み、噂などの余計な雑念・雑音抜きにひとまず見たものを見たままにいったん受け取る。すると作品から発信された情報はまず人々の表層意識(理解)を素通りし無意識下、集合無意識下にしまわれていく。そして後になって人知れず徐々に機能してくる。
「世界の宮崎監督」の新作ともなれば、そのような現象はいずれグローバルな規模に拡大していく。何とも壮大な呪術だ。
公開日が黒船来航の日(日本が帝国主義に染まるきっかけを作った日)と被ってるのは偶然か? 下の世界に浮かぶ石は、海底から見上げた黒船の船底にも似ている。
占星術的には「20世紀前半のカルマが(解消のために・かつては選べなかった別の選択をし直すために)再現されている時代」と言われている今この時代だからこそ、こういう作品が宮崎監督に降りて来たのだろうと思う。
もしも宮崎監督自身が公開初日に「カヘッカヘッカヘッ」という不可解なツイートをジブリに指示したのであれば、それも呪術の一部だろう。見た人は分かるがあの鳥はそんな鳴き声を出さない。にもかかわらず・・・
(見た当日思いつく限りだが、『カヘッ』は『貨幣』?)←詳しくは後日

宮崎監督、新作の呪術を通して人々にこのブログでもおなじみの「考える力」をつけさせたいのではないかという印象もある。自作品の解釈はもとより、1930年代に覇権主義・帝国主義・カルト的思想に染まって人々の「考える力」(近代自我発達に不可欠)が抑圧されていった時代の日本において、あえて子供達の「考える力」を養うために書かれた同名の児童文学作品にも人々の注意を向けさせているからだ。
ゆえにこの作品は、すんなり分からなくてもいい。自ら色々考えること自体に価値がある。
(理解出来なくても無意識が反応して涙が出た人や妙に昔の記憶が甦るようになる人がいるかもしれないが、心配しないで)

また、この作品の構想が練られた時期は野田サトルの「ゴールデンカムイ」が連載されていた時期と一致する。ゴールデンカムイとこの作品と元ネタの同名作品、描かれているテーマが一部だが共通するのは気のせいか? 
20世紀前半の運気が焼き直されているのなら、当時の同名作品と同じ役割を持つ作品が現れてもおかしくはないし、人々の無意識が集合無意識でつながっているのなら、共通するテーマを持ったインスピレーションが同時代のクリエイター達に降りてきてもおかしなことではないのかもしれない。



  以下、ネタバレ注意 ❗ 

 

 

◆第一解釈
ナウシカやラピュタの世界観と共通するある種の「悪意」を抱えた世界の中で母親を亡くした少年が、「君たちはどう生きるか」を通して永久に失われたと思い込んでいた母の愛に再会して癒されることで、自分の中にも(誰の中にも)存在する「悪意」を自覚し向き合い、かつて選んだ悪意とは異なる選択をし直し、世界を取り巻く悪意と共鳴することをやめて再出発する物語をミステリアスな象徴やメタファーに満ちた美しく幻想的な手法で描いた作品。


◆あくまで個人の解釈例その①:「悪意」と「石」

大叔父は現世の日本で西洋文明(当時は異世界文明に等しい)に触れて明治以降の時代運気(近代日本の世界)を作った。その象徴が(西洋文明を取り入れ、日本人だが西洋風の顔になった)彼の作った「世界」であり「塔」であろう。彼の作る世界はどれも互いに照応しているので、塔は現世にも下の世界にもある。時代運気が作られた時に下の世界も誕生し、互いが互いを象徴する照応関係になっている。つまり両者は次元が違うだけで同じものだ。次元の違いが扉で表現されている。扉の向こうは死後の世界にして命が生まれる前の世界(中間世)でもある。運気が現世の時空に現象化する前と後の世界とも言える。そういうもの自体は運気と時空が存在している頃から宇宙に存在しているが、明治維新後に大叔父が新規作成したものは、現象化させる運気に悪意があるため、良い運勢を作らなかった。
その世界(塔)の基礎たる石(=遺志)は、「物心問わず多様な飢えを動機と原動力にして育った多様な悪意(物事を力ずくで支配・所有・簒奪せんとするパワーゲームの発想を含む。一例はインコ達が象徴する帝国主義や覇権主義)」を含有し、そんな悪意を含んだ石(遺志)で作られた世界が必然的に持つアンバランスな矛盾と自己破壊性が世界(塔)を崩壊させた。なので、飢えと悪意を含有する遺志の世界(塔)を構築した大叔父がその世界(塔)の崩壊前夜に放つ「豊かな世界を作ってくれ」というメッセージは深い。
大叔父が作った世界の基礎(=積み木)の素材となった上空に浮かぶ赤黒い熾火のような石(=遺志)は、「天空の城ラピュタ」で空に浮かぶラピュタが持つ黒い基底部の材質や漫画版ナウシカの「墓」の材質と同じものだろう。そんな遺志を遺した存在が「墓の主」だ。あの墓は遺構としてのラピュタ基底部やナウシカの「墓所」と同じものを表している。墓の主は漫画版ナウシカに出てくる「墓所の主」とほぼ同じような存在だと思う。現世では明治維新に地球外から飛来して落ちてきたアレ(熾火のような赤黒い楕円形の物体?)の中にいたのだろう。残留思念か?。そして墓の主は発見者の大叔父と契約して力を与え、彼に自らの遺志を用いた新しい世界(時代運気)を構築させた。
作中でアレはいわばモノリスのような役割で、一義的には黒船の象徴でもある。黒船をきっかけに日本へ大量に入って来た西洋文明(帝国主義含む)が大叔父にとってのモノリスだったのかもしれない(作品公開日7月14日は黒船来航記念日)。だがそれは、当時から既に墓石(過去の遺物)と化していた。
さながら、自らの悪意で滅んだ異星の船が地球に漂着し、地球人に異星のカルマを帯びた文明開化を促したようなもの。

アレが落ちてから大叔父が作った明治以降の時代運気には、墓の主(アレの主)の悪意を含有する遺志(=石)が使われていた、というわけだ。だから飢えと奪い合いに起因する帝国主義の時代だった。アレは遺志の宿る墓石だったのだろう。現世で時代運気を作り終えた大叔父は現世から(死後の世界でもある)下の世界に拠点を移したわけだ。
終盤で大叔父が主人公に「私が見つけた13個の悪意に染まっていない石で平和な世界を作ってくれ」と伝えると、主人公が「悪意は自分の中にもあるからその資格はない。元の世界に戻る。」と答えるシーンは漫画版ナウシカの「墓の主との問答」を連想させる。

「飢えが育てたパワーゲーム的悪意の石(遺志)」で大叔父が作った世界の一つ「下の世界」には食べ物(魚=金運や豊穣の象徴)が少なく飢えやすい。ゆえにペリカン達はワラワラを捕食することで飢えをしのぐはめに。
主人公の母親「ヒミ」もそんな世界にいて、彼女が火を巧みに操りワラワラを捕食するペリカンと戦う様子は、彼女の一族が軍需産業で繁栄していることを示しているように見えた(恐らく父親は一族が選んだ事業に有能な入り婿)。五行思想だと火(火気)は軍事や権力、即ち「パワー」を表す。彼女の操る火も同じものと個人的に解釈した。同時に、ヒミはかの有名な邪馬台国(ヤマト国と読む説あり)の女王卑弥呼の暗喩ではなかろうか?
古今東西、パワーを用いた戦い(=パワーゲーム)は、敵を倒すだけではなく守るべき者達の命も巻き添えにしてしまう。それは大叔父の作った下の世界も同じで、彼女も火(パワー)を使ってワラワラを巻き込んで犠牲にしながら戦うことでしか(パワーゲームでしか)ワラワラを守る術を持たない。これは「ナウシカ」のクシャナや「もののけ姫」のエボシに通じる(久子も夏子も、顔がエボシそっくり)。
言い換えれば、大叔父の作った世界は下の世界も現世も「子孫を守るためには子孫を犠牲にする方法しか存在しないパワーゲームの世界」であり、そのアンバランスな矛盾と自己破壊性を抱えた世界だったというわけだ。丁度現世も帝国主義が関与した戦争中でヒミvsペリカン戦のような有様だったのは言うまでもない。現世は、下の世界の様子が反映される現世(うつしよ)なのだろう。
アンバランスな矛盾と自己破壊性を抱えたパワーゲームの頂点を目指していたインコ大王が大叔父の作った世界にとどめを刺したのは何とも皮肉な必然だ。インコ大王は帝国主義に染まった大日本帝国の象徴でもあるだろう。80年近く前、自らも帝国主義に染まった日本は(帝国主義の総本山たる大英帝国からの)インド独立を支援しつつ自らも崩壊していくことで世界的にも帝国主義が優勢だった従来の時代運気を崩壊させた。ある意味自爆テロ。

飢えと争いが基礎を形作る世界の中、時にペリカンに命奪われるワラワラ達もまた、魚の命を食べて将来の誕生力を養っている。魚(金運・豊穣)は、「生かされていない」のだ。もしも魚(金運・豊穣)を真の意味で生かすことができる世界であれば、飢えは解消されていただろうし、ワラワラは捕食されていないし、火気を使った戦い(パワーゲーム)で犠牲が生まれることもないだろう。だが大叔父が作った世界は魚を生かす仕組みを持たず、豊かな世界を作ることは出来なかった。魚は消費されるだけで生かされず、数を増やせなかった。
結局、ペリカン達の飢えは大叔父の作った「魚の少ない世界(塔)」が崩壊した時その身が現世に押し出されたことで解決したようだ。当初はワラワラを食べるペリカンを「悪」と見なしていた眞人は、ペリカン達の事情を知りペリカンの視点に立って考える経験をした後、「飢えたペリカンと捕食されるワラワラ」の双方に心痛めるようになっていた。そんな主人公は魚の少ない世界(塔)の崩壊により現世にまろび出たペリカン達を見て、「よかった」と安心している。即ち、大叔父の作った世界(塔)が崩壊して以降の現世は、「魚(金運・豊穣)が少ない世界」ではなくなる模様だ。恐らく、魚が生かされ数を増やす世界になっている。というのも、塔の崩壊した現世で大量発生する鳥のフン。あれは魚の餌にして肥料の素材でもあるのだ。魚と鳥の間に豊かさをもたらす調和した循環が生まれる暗示だ。あのフンにはその後の世界と主人公一家の行く末をほのめかした描写だと思う。そして我々の未来をも暗示している。
(魚を真に生かすのに魚のフンだけでは不十分で、魚を食べた者のフンも要る)
調和した循環(好循環)の欠乏こそが創造性を欠乏させ、飢えを招く。

 

※主人公の悪意と癒し
また、主人公は転校初日に地元の子供達とケンカをした時、(事業者としては有能だがデリカシーが微妙な)父親の反応と行動を全て見越した上で自ら「石」をふるいあの言動をした感。彼がふるったその石は、叔父が下の世界構築の基礎に用い、墓の主が遺した悪意と同じものだ。彼もまた、愛に飢えたことを動機と原動力に育てた悪意で自分のケガを心配し憤慨し学校に圧力をかけるであろう父親を操り、己を拒絶した小さな社会にチートなパワーゲームを仕掛けたのだ。しかしその後、下の世界で母親の愛情を象徴する滋養に満ちたパンを食べて(母の愛を自覚・

統合して)パワーゲーム(悪意)の動機と原動力だった飢えは癒された。
パンと同じ意味を持つ現世での照応アイテムは言うまでもなく母親が主人公に遺した児童文学「君たちはどう生きるか」だ。
飢えが癒えた主人公はかつて己の飢えが生んだ自分自身の悪意と向き合い、愛に飢えてパワーゲームを選んでいた時には選べなかった別の選択「友達を作ること」を選ぶ。友情は、心の飢えとは両立しなかったようだ。
ここで、彼の内なる世界において、飢えと悪意を基礎にした世界(塔)は崩壊した。永久に失ったかに思えた母の愛は主人公の中で甦り、本を通して成長という名の血肉となり、彼と共に生き続けるだろう(このブログ的解釈:地母神復活とも照応?)。
(もしこの作品が主人公を宮崎駿監督の代役とする自伝的側面があるなら、幼い頃母の愛に飢えていた彼自身にも同じ癒しが起きている可能性がある。もしその場合、母の愛に飢えた子供時代で時間を止めていた心の一部が成長を再開するのでアニマ(理想の女性像)の年齢も子供時代より上がると思う。即ち、ロリコンじゃなくなるし、彼のアニマ象は『母性を宿す少女の姿』ではなくなる)

◆あくまで個人的解釈その②:主人公と夏子
主人公がアオサギに誘われ、カエルが押し寄せてくる夢を見た時に夏子が現れて鏑矢を射る。鏑矢は「事始めの厄除けと開運」を意味する()。夏子はあの時点でこれから主人公の身に起きる冒険とその理由を予見し、密かに応援していたのではないだろうか。
もしその場合、彼女は出産を終えるまで下の世界から現世に帰りたくない反面、いずれ自分を連れ戻しに来る彼の冒険を予見し、その身を案じてもいた感。自分が望まぬ行動をする彼を応援するのはなぜか。産むまで帰りたくない気持ちと主人公を案じる気持ちが複雑に葛藤していたと思う。

夏子が現世に帰りたがらず下の世界で出産したがったのは、大叔父の作った世界=近代日本の時代運気(悪意を含有するがゆえに自分達の一族を有利に繁栄させてくれる運気だが、もう長くない)に依存し強く執着する思いの表れではないかと思う。彼女が下の世界の産屋に守られて出産したい理由は、不安定な情勢下で出産・育児する不安から今まで一族を下支えしてくれていた時代運気に少しでも多くすがりたい、生まれて来る子供に少しでも多く運気の恩恵を浴びさせて時代運気(=大叔父の作った世界)の後を継がせたいからか(インコ達と利害一致)。それを邪魔されたくなかったので産屋で自分を連れ戻しに来た主人公に対する拒絶と、危険な産屋からすぐに離れて欲しい気持ちの両方が「大嫌い」と言わせたか。
主人公は「大嫌い」にも引き下がらず、産屋の式神に襲われながらも引き下がらず、夏子に「帰ろう」と訴え続ける。その様子から彼は叔母の自分を「守るべき大切な家族」と認識していることに気付き、またヒミの願いが届いたことによって夏子の心はとうとう動いた。悪意を帯びた従来運気の加護よりも、自分を守る意志を持つけなげな少年の家族愛を選んだ。
本人の望みとはいえ、悪意の石(遺志)に覆われた産屋で出産しなくて良かったと思う。生まれた子が悪意に染まりやすくなるから。
(上へ飛んでいくワラワラが『これから生まれる者達』だということは一度見ただけで不思議と分かった。主人公が手で支えてあげたワラワラこそ、彼の弟になる者ではなかったか?)

夏子がつわりで寝込んでいたとき、主人公は彼女を思いやっている。つわりが酷いと聞いて彼女を見舞った時、主人公はさりげなく部屋に置いてあったタバコを持ち去っている。恐らくそのタバコは父親の忘れ物で、父が妊婦となった妻の前で無頓着にタバコを吸っていたことを表す(80年前はままあったことらしい。現代人ほどデリカシーが発達していない時代だ)。主人公だけは「タバコの煙は妊婦と胎児によくないし、ましてやつわりが重い夏子にタバコの煙とにおいは辛かろう」と無意識にでも判断したわけだ。
主人公は母親を亡くした悲しみから、初めのうちは感情を抑圧ぎみで誰に対しても心を閉ざしていて夏子にも懐かないように見えたが、あの時点で夏子を無意識に労わっている。夏子の事を「お父さんが好きな人」と一歩引いた視点で表現していたのは、本人は産屋に来るまで夏子が好きなことを自覚していなかったからかもしれない。実際は得体のしれない塔の中や「下の世界」を躊躇なく進んでいく時点で、彼はとっくに夏子を「大切な守るべき家族」と認識している。夏子は無意識のどこかでそれを知っており、そんな彼が自分のために行う冒険を予見していたからこそ、あの時鏑矢で彼の前途を祝福したようにも見えた。それは同時に、決断を下す自分と子供の未来への厄除けと開運を祈る儀式でもあっただろう。

◆あくまで個人的解釈その③:アオサギ
アオサギは「ナウシカ」のクロトワや「もののけ姫」のジコ坊と同じ意味を持つ存在に見えた。一説ではクロトワもジコ坊も宮崎監督自身の生臭く人間臭い通俗的側面を象徴しているとのこと。どのキャラも決してきれいごとだけで生きていられる存在ではなく、事情や条件次第、又は善悪基準次第で善にも悪にもなりうる清濁併せ持つ者だ。宮崎駿は「それこそが人間」と考えているのではないかという印象は漫画版ナウシカの終盤を見た時にも感じた。そこでは、自らの悪意によって滅んだ文明の残滓である墓所の主によって作られた「善意しか持たないようにプログラムされた新人類の卵」について、周辺国からは簒奪者・侵略者として恐れられ恨まれてきたヴ王は「そんなものは人間と呼べぬ」と評した。
確かに、旧人類を滅ぼしそんな新人類の世界を作る発想こそ人類が悪意を持ちうる証だし、ある意味でその発想自体が究極の悪意かもしれない。ここは「13個の悪意に染まらぬ石で新世界を~」というくだりとつながっている感。
アオサギが「養殖魚を食べてしまうペリカン目の害鳥」であることも意味深だ。あれは飢えてワラワラの捕食者(悪)になったペリカンの親戚で、「飢え」という事情・条件次第ではアオサギもペリカンと同じことをするということ。
結局、人間は誰もが事情や条件次第でなりふり構わずどんなエグいこともしうる生き物(事例:,)で、アオサギ含むペリカン一族も帝国主義インコ達もそんな人間が作る社会の象徴だ。逆に、人間は事情・条件次第では大変ハートフルにもなれる。同じ人間がどちらにもなりうる。どちら寄りの運勢になるかは本人が持っている因子次第だ。

飢えに起因する問題の根にあるのは人間が持つ(生存本能が大きく作用した)生まれながらの気質ではなく、人間がなりふり構わずエグいことをする事情と条件がそろってしまうこと、そうなる運勢が発生する因子を持っていることだ。ペリカン達やアオサギもその因子を持っている。
そんな因子が作る運気の流れがどれだけ飢えと不利益と損失をもたらすかは言うまでもない。飢えて奪い合うからまた飢える悪循環が起き、豊かさは「偏る」だけで循環しないから全体量を増やさない。多元的な豊穣の好循環など夢のまた夢だ。そんな条件下では誰もがなりふり構わずエグいことをするようになりうる。ならば、そんな事情や条件がそろわない方向に、即ちそんな運勢の因子を作らないように母性=創造性=豊穣性を抑圧しない方向に運気の流れを変えていくことだ。
それに寄与する全ての物事はどんな些細な事でも開運法になる(一例)。眞人が母性愛の飢え(=創造性の飢え)を癒す冒険に出たこともまた、そんな開運法の一つだ。その結果彼は悪意(パワーゲーム)ではなく友達作りを選び、さらなる開運の因子を作った。
豊穣循環を起こす運気に欠かせない「母性(創造性・豊穣性)」が抑圧され不足している社会は、母性愛に飢えていた頃の眞人が象徴している。
巨匠の呪術は、社会に対してそういう開運を願ってのことなのだろうか。

基本的に、金運(豊穣性)が最も力を発揮する条件は、「調和」だ。金運を上げたいなら、出来る限り調和した状態や方向を選ぶこと。すると自ずと金運が好循環する方向を選ぶことになる。
ゆえに母性=創造性=豊穣性(金運)を抑圧しないようにするには、調和を抑圧しないことだ。「悪意」の世界にはその要素が欠落している。

ユダヤ密教のカバラだと調和と愛は同じ「ティファレト」に分類され、ティファレトは平和や金運も司る金星と照応する。
その視点だと、母性に宿る愛情「母性愛」とは「創造性(豊穣性)に宿る調和」だ。母性に愛が不可分なように、豊かさには調和が不可分ということでもある。愛のない母性があり得ないように、調和の無い豊かさや調和の無い創造性はあり得ない。あるとすれば偽物だ。
眞人は失われたと思っていた母性愛、即ち「豊かさ(創造性)をもたらす調和」を取り戻したということになる。これが多元的豊穣循環には不可欠なのだ。作中では眞人が母性愛を取り戻して帰還した現世で鳥(人)と魚(金運・豊かさ)の間に鳥のフン(豊かさを生かす=循環させるもの)が介在する事で調和した豊かさの循環が生まれる暗示が出ている。人が魚を生かし、魚が人を生かす調和した持続可能な循環。まさに地母神からの恵み(母性愛)だ。


◆巨匠の呪術~鏑矢の祈り~
破壊と創造は陰陽のように表裏一体で、互いに調和し連携をすることで万物の生々流転と新陳代謝を引き起こしている。生と死が表裏一体なように。そんな陰陽の片方が縮小し弱まれば、もう片方が拡大し強まってしまう。そうなればバランス(調和)が崩れてもう片方が暴走する。
破壊をもたらす「悪意」は、創造性(時に母性や豊穣性となる調和と不可分のもの)の抑圧によって生まれる。抑圧してきた創造性と調和の視点を解放すること。「いかに勝ち取るか」ではなく、「いかに調和させ循環させるか」だ。眞人はそれを学んだので交流を抑圧するパワーゲーム志向から交流を調和・循環させる「友達を作る」という発想に変わった。結局、戦いや競争(調和の抑圧)は偏りと格差を生むだけで豊かさの全体量は増えず、循環もせず、創造性(豊穣性)はない。戦いや競争だけでなく、飢え自体が既に調和の抑圧を意味する現象とも言える。創造性の抑圧は、調和(愛)の抑圧だ。調和の抑圧は多面的・全体的な広い視野の抑圧による分断的・一面的な視野から生まれるのだろう(例えば、ヒトを善人/悪人で分ける分断的・一面的な視野に陥り、一人一人が条件次第でエグいこともハートフルなこともする『清濁併せ持つ存在』と見なさず、ゆえに相手の視点で考えることも無く、単純な善悪で機械的に判断するのもその一種)。分断的・一面的な視野になってしまうと多面的・全体的な視野を失い調和の道を見つけられない。それが飢えや争いや運気の低下を招く。
まとめると、【創造性(母性・豊穣性)の抑圧⇔調和(愛)の抑圧⇔全体的な広い視野とそれに基づく活動の抑圧⇔分断的・一面的な視野とそれに基づく活動】てところか。今までの人類史は右から左へと進みがちだった【】内。今度は「の抑圧」を消して、左から右へ進んでいけばいい。眞人のように。それである程度は開運因子となる。「抑圧」が「復活」に書き換わるケースも多少はあるだろう。

この物語が象徴しているものと同じことが、(大叔父も関与した)20世紀前半のカルマを再現している現代においても起きることを願う。
飢えによる「悪意」と充足による「愛(調和)」の双方を知ったからこそ主人公がやり遂げたことは、我々にも出来る事だと思う。そのためにカルマは再現されている。
(そも、人類は技術面で既に飢えを克服している。飢えを克服できていなかった頃に調和が抑圧された状態で作られた従来の経済システムがその活用を阻んでいるとも言えるし、飢えや格差のある方が有利だし人をコントロールしやすくて好都合だと考える心飢えたパワーゲーマー達もいる?)。
巨匠が最後の作品を通して仕掛けた呪術は、我々がこれから時代運気の中で取り組む事に対する「事始めの厄除けと開運」を願う鏑矢なのかもしれない。
(多分、こういう事とも関係あると妄想。いわば『鳥と魚を循環的に生かす地母神の愛と豊かさ復活』)←カヘッ

 

「シンギュラリティ」で妄想「カヘッ(貨幣)」やラストシーンで暗示されてる未来についての手がかり?

「天空の城ラピュタ」のオカルト解釈

漫画版ナウシカで妄想

独りぼっちの革命と独裁独裁を生む革命もまた、全体的な広い視野を持っていない証。一面的な狭い視野に基づいて活動した証。

とある東の国の物語2

霧島とレイラインとスカイツリーの奇妙な話作品と一部共通するテーマ。風を受け走り出す 瓦礫を越えていく♪

2022年12月12日 (月)

近代日本のカルマとゴールデンカムイ

※「ゴールデンカムイ」は日本政府に不都合な現代アイヌ問題は描かれておらず、ラストではあたかもアイヌ問題が既に解決し存在しなくなったかのように受け取れる表現があり、よってこの作品は国のインバウンド事業の一環に利用するための悪質なプロパガンダである」とのご意見もありますが、アイヌ当事者や権利団体の方々から作品への抗議が未だ出ておらず、また作品の中で差別問題とは無関係に個人的に興味深い箇所があったのであえてこの題材を取り上げます。アイヌ差別を助長したりアイヌ問題の存在を否定する意図はありません。

※2作中で鶴見達を支配した(現代日本にも影を残す)心理、鯉登がそれを卒業できた理由、戦場経験がない鯉登がためらいなく人を殺せた理由、鯉登の誕生日がA級戦犯の処刑と同じ12月23日な理由などを妄想してみました。ネタバレ注意。


執筆中に聴いた曲↓


ある日ネットでニュースを見ていて、この方の抱えている心理と「ゴールデンカムイ」の鶴見達が(そして近代日本の大衆が)抱えている心理がある意味とてもよく似ているんじゃないかと思った。すると突如頭が奇妙な回転をし始めたのでここに記す。

男性「左翼と戦うには統一教会しかないと思い40年献金してきました。人生を否定するのが怖くて、後悔しているとは言えません」
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)で40年以上、信仰にもとづいて献金を続けてきたという。
「人生を否定するのが怖くて、後悔しているとは言えません」
30代で会社を経営していた1980年ごろ、先に信者になっていた妻の影響で入会した。
今も、屋外での週3回のアルバイトで献金を続け、約40年間の総額は1億円近い。

信仰のきっかけは、教団や友好団体の政治姿勢への共鳴だった。当時、世界は旧ソ連や中国など共産主義勢力が拡大を続け、日本までも共産主義に乗っ取られるという危機感が男性にはあった。
そんなとき、共産主義と対峙(たいじ)するという「勝共運動」を訴えた教団日本教会の久保木修己・初代会長の演説に心打たれた。

「左翼と戦うには統一教会しかない」
教団の問題をきっかけに被害者救済新法が成立しました。今後は解散命令請求をめぐる政府の動きが注目されます。そんな中、教団の現役信者が朝日新聞の取材に応じました。


◆過ちの犠牲を無駄にしない方法
捧げて来た犠牲や努力のあまりの大きさゆえに、犠牲や努力に見合うものを得るまで諦められず、過ちを受け入れられない/路線変更出来ない/今更辞められないとか、強い期待や信念・信仰とそこに捧げた大きすぎる犠牲への執着が過ちも報われぬ現実も受け入れることを拒んで路線変更できず、現実よりも信念・信仰を選んで現実逃避するという心理は古今東西よくある。カルトにハマった人だけでなく、ギャンブルにハマったりネズミ講にハマった人。ホストや恋愛にハマって貢ぎ過ぎた人、一部の占い依存症患者にも通じるものがある。現在のウクライナ情勢でも発生しているかもしれない。
そんな気持ちは人間なら誰しも持ちうる心理で、だからこそ時に暴走したり悪用されたりするものでもある。鶴見がこの心理を扇動のために利用したのは、本人も抱える心理だったからだろう(当然、自分はサイコパスだと信じたかった尾形にも・・・)。

個人的に、報われぬ覚悟を持つ前に根拠のない期待や空想だけで何かを犠牲にしない方がいいと思う。この現実逃避的な衝動に負けると、自分自身の「考える力が抑制されて簡単に誘惑されたり騙されたり煽動・洗脳されやすくなる。

過ちや失敗の犠牲を無駄にしないためには、鶴見達のように「犠牲に見合う対価や結果」を求めて突き進んではいけない。さらなる過ちと犠牲を繰り返すだけだ。過ちで生まれた犠牲は、それに見合う対価や結果を求めることではなく、「過ちから気付く・学ぶ」ことで初めて無駄ではなくなるのだ。気付いたこと/学んだことを生かすことは、その犠牲を生かす事。
そして何より、何かを失ったことによる「犠牲の痛み」から立ち直るには、「失う前の自分には持ちえなかった全く新しい喜びや幸せや可能性・意義・意欲を得ること」が効く気がする。多分、失う前には無かった新しい何かを得ることで「失っていなかった頃に戻りたい」という気持ちが薄れて前を向きやすくなるからだ(占い師の感想)。
それが出来た時、その人は【犠牲に見合う対価や結果への執着に基づく選択】という過ち(失敗)から何かを学んでいる。大切な事は執着ではなく、「新たに得る事」だと。
「ゴールデンカムイ」のキャラ達を見ていると、それが実現できたキャラ達は比較的救われているような気がする(例:谷垣、杉元、アシリパ、鯉登、月島、門倉、夏太郎、多分土方も)。
恐らく、彼らの選んだ道こそ、「戦争の世紀」と呼ばれるあの時代が選べなかったもう一つの可能性。カルマ解消のカギ。
鶴見は、彼らのように『失う前には無かった新しいものを得て犠牲に見合う対価や結果への執着を手放し過ちから学ぶ』まで死ぬことが許されないキャラなのかもしれない。日本の国益のために身命をかけて従事する過程で愛する家族を失った彼は、作品中の誰よりも「犠牲に見合う対価」を求め、執着し、反乱を起こし、それまでの犠牲をはるかに超える犠牲を出す侵略者や独裁者になることも辞さなかった。だからこそ同じ心理を抱える者達のリーダーになれた気がする。

【】で書いた例の心理、実は先の大戦でボロ負けした大日本帝国の末期症状とも通じている(『この世界の片隅に』の主人公も、鶴見達と同じ心理に陥っていて玉音放送を聴いた時ガチギレ)。
幾多の戦争をしてきた近代日本は、明治の時点でこの心理が大衆の集合無意識下で急速に蓄積しだしたのかもしれない。
「カミカゼ作戦は間違っていなかった。あの犠牲は戦後日本の発展に必要不可欠だったのだ。カミカゼを否定することは日本に捧げられたあの尊い犠牲とそれによって成立する今の日本を否定することだ」と未だに強く信じ込んでいる人達(宗教右派の信者さんにも多い)にも多分同じことが言える。
「大義のために身命を捧げる」という武士の価値観とも共通した特徴を持つ神風思想は、いわば土方や永倉が生きていた封建時代の発想が下地になっており、その発想は鶴見達のような【心理】に陥りやすい。そのような状態が明治どころか昭和まで続いていた。
明治(近代)生まれの鯉登と天保(封建時代)生まれの土方の対決は、近代以前から日本が引きずっていたそのような状態を断ち切り、近代日本で封建時代の発想とは異なる思考を持つ近代自我の芽生えが始まることを暗示させるシーンでもある。

ある種のカルトは戦没者遺族の心理を巧みに利用して私腹を肥やす。カミカゼ含め戦没者達に対しては死ばかり尊ばないで彼らの生きた人生を尊んだ方がいい。あれじゃまるで「死ななきゃ価値を生まなかった命」みたいな扱いだ。
これと同じテーマは鶴見のために汚れ仕事役の月島が葬って来た人々の命についても言える。月島は、自分が奪ってきた一人一人の人生を尊いものと認識していたからこそ罪悪感を持ち、その罪悪感で命の犠牲に見合う対価や結果を求め駆り立てられた。月島は彼らの人生をその手で終わらせてしまったことで彼らの生きた証を背負うことになった以上、月島の過ちは彼らの生きた証の一つになった。月島が己の過ちから学ぶとき、彼らの生きた証も生かされる。そうなることは、月島の生きた証になる。

皮肉にも、現代においてそんな心理に支配されていた近代日本のカルマを再現する器となっているものの一つが今話題の統一教会(日本会議など、宗教右派の幹部関係者にも統一教会の人間が多い)である。祖父の代から統一教会と密接な安倍氏の政権以降、日本の政策は統一教会(もとい彼らが浸透している日本会議などの宗教右派)の影響が濃くなっていた。昨今話題になっている防衛費増額やそのための増税案や9条含む改憲論にしても、世論がそれを受け入れやすいようにネットなどで(統一教会の浸透した)宗教右派たちがその手のロビー活動(多くは感情論の流布)を20年以上も前からずっとやっていた。その活動の運気が潮目を迎えたのは311。311による日本列島全体の大規模龍脈変動が古代と近代に敷設された国家のための開運呪術(結界型)を破綻させ、「為政者にとって不都合なもの(鬼)を封印する力」が低下したせいで政財界の運気や統一教会の運気やそれに支えられた政権の運気が変動して、色々バレちゃっていく感じだ。もはや日本列島の龍脈が帝国(のカルマ)に利用されなくなっていった結果だろう。
下のニュースも、そんな流れの一部かもしれない。

防衛省、世論工作の研究に着手 SNSで無意識のうちに同省に有利な情報発信誘導
防衛省が人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)で国内世論を誘導する工作の研究に着手したことが9日、複数の政府関係者への取材で分かった。
インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、
有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。
防衛省による世論誘導工作のイメージ

当時の防衛大臣岸信介氏は安倍氏の弟。即ち安倍氏同様、祖父の代から統一教会と密接な人。こんな報道されたら無意識誘導の標的にされる多くのインフルエンサー達は防衛省を警戒するので「無意識に有利な情報発信を誘導」などできない。
この思惑は去年から批判されていて今回詳しいことが判明したという。去年は「岸防衛相、インフルエンサー接触計画認める 省内外から批判」という見出しで報道されている。岸氏が「国民に影響する防衛・安全保障が専門ではない学者、有識者、メディア関係者の推薦」にこだわったのは、専門家だと色々ツッコまれて「無意識のうちに防衛省に有利な情報発信」をしてくれないからだろう。今回詳しい報道が出たのと同時に岸氏が自ら政界を引退したのは奇妙な偶然に見える。そして現防衛大臣はどの程度「壺っぽい」のだろうか?
(必要なら改憲や防衛費増減の議論もあっていいとは思うが、カルト的感情論に依存したやり方では信用されない。そも、感情論で物事を決めていい分野じゃない。感情論に逃げぬ冷静な説明と議論と判断が必要なのに、感情論がそれらを遠ざけている)

今思えば、「令和」が始まった日。統一教会とズブズブだった故安倍首相が即位式に戦前・戦中のごとき「天皇陛下万歳」をシャウト(敷居踏んでて台無し)という現象が発生していたのはいくらなんでも皮肉な暗示すぎる;「ド壺にハマる」とはまさにこのことか;


◆近代日本のカルマと「ゴールデンカムイ」
カルト的な神権政治の側面があった近代日本のカルマを再現する器になっていると思しき統一教会。その運気変動が本格化していった先月、最終巻が出て話題になった「ゴールデンカムイ」という明治時代の北海道と樺太を舞台にした人気漫画にも例の心理が描かれている。「金カム」という略称でファンに親しまれているこの漫画には、カリスマ的な独裁者やカルトの教祖めいた素養を持つ「鶴見篤四郎中尉」というキャラがいる。つるみとくしろう・・・アナグラムすると「後ろと組みつる(『背後と組んだ』という意味の古語)」になる名前を持ったこのキャラ、近代日本の集合無意識に巣食っていた例の心理を利用して日露戦争で(身も心も傷ついた者、部下や仲間を失った者、殺人の罪悪感を抱える者など)大きな犠牲を払うも中央からは不当な仕打ちを受けて報われぬ気持ちを抱えた大勢の第七師団兵士達を扇動し中央への反乱と北海道での独裁国家樹立を企てる。そも、第七師団が犠牲や貢献を評価されず不当な仕打ちを受けて報われない兵士達が反発するよう裏で画策したのは鶴見自身だ。
一方、そんな鶴見に操られ心酔し、彼を大義と信じて熱狂的に付き従ってきた純粋で子供っぽい青年将校の「鯉登音之進少尉」は主人公達と行動し様々な経験を通して自我を発達させていく過程で鶴見を絶対視せず客観視できるようになり、やがて少しずつ自らの考えと意志で行動し始める。
その結果、数奇な経緯と「汚れ仕事」という自己犠牲から例の心理を抱え、自分の生き方を持てずに長い間鶴見に依存し心囚われていることを自覚しながら鶴見に利用され続けてきた部下の「月島基」を鶴見から解放し、最終的には鶴見と決別。「反逆者の上官に従ったがゆえに中央から追求を受ける際には(上官の鶴見を殺してでも)部下を守りながら全ての後始末(即ち敗戦処理)を背負う覚悟」を持って大人へと成長する。
一方、海軍で艦隊を率いていた鯉登少尉の父親は、日清戦争で「松島」が砲撃された際に乗っていた長男が戦死。日本が勝利した戦争だが「勝利で我が子の犠牲は報われた」とは思えなかったのか、例の心理を抱えたところを鶴見に利用されてしまった。そして最期は激流に飲まれる。

人々を戦いに駆り立てる準備としてよく言われているのが、杉元のように「軍に入らなければ食っていけない貧困層」を予め大勢用意しておくこととされているが、それだけではなく、予め大きな損失や損害・犠牲を味あわせて不満や恨みや危機感や喪失感や欠乏感を蓄積させ例の心理を煽動するのも効果的なのだろう。鶴見もやったそんな手口が、今も世界中で行われている。その結果、憎しみの連鎖が続いている地域も。
他方、8歳で大好きな兄を失くした鯉登少尉は恐らく「一時的な兄代わり」にもなっていた月島との交流によって無意識に喪失の傷が癒され、例の心理を抜け出すことで鶴見から卒業した。無意識に兄を投影して甘えていた月島へ投げつけられた手りゅう弾を両断する行為は、『かつて兄の艦を襲った砲弾を両断して兄を守る』という、呪術的な癒しの儀式になっていた感。その直前に月島達が負傷したことで鯉登が発した『よくも私の部下達を!』という怒りの中には『よくも私の兄を!』という過去の傷が発する声が混ざっていたと思う。癒しの儀式は、そんな過去の傷を浄化し、鯉登自身の内なる8才児に「自分は兄を失くして寂しがるだけの甘えん坊で無力な8歳児ではなくなったのだ」という自覚を促した。心の片隅にいた8歳児を「自分が兄を守った」ことで成長させ兄への依存心から自立した鯉登は変わっていった。月島に兄を投影した甘え方をしなくなっていき、月島の本当の姿を受け入れ思いやるようになる。その結果例の心理を抜け出して鶴見から卒業した。
また、月島が秘密を吐露する「あなた達は救われたじゃないですか」の場面が手りゅう弾を両断した後で幸いだ。月島に兄を投影して甘えていた状態でなかったからこそ、鯉登は衝撃から速やかに立ち直って奇抜な演技までやれたのだろう。心の傷が癒されたからか、帰りの船では心因性の船酔いをしている様子もない。鯉登は、兄を失う前には持ちえなかった成長を手に入れた。

例の心理脱却に必要なことは「犠牲に見合う結果や対価や報い(モルヒネ的な癒しの代償行為)」ではなく、「犠牲に痛む心の癒し(あるいは痛ましい犠牲を無駄にせず生かす意欲)」であることが鯉登の例からも分かる。「犠牲への悲しみや苦しみや怒り」という痛みは癒えずにいると時に人を凶暴にさせ力を渇望させる(それが憎しみの連鎖や紛争の火種を生む。軍需産業は儲かる。軍需産業と癒着した政治家達は公共事業で戦争する)
だが、痛みが癒された鯉登は例の心理を脱却し、心の中で子供時代から止まっていた時間が動き出し、鶴見(痛みに対するモルヒネ)に依存しない自立した自我を獲得。その様子はさながら「社会の思春期」や日本人の近代自我発達の過程を見ているかのようでもあった(思春期の自我発達を描いた「少女革命ウテナ」とも少し似ている。アンシーが月島でウテナが鯉登で元王子様が鶴見。胸に差すのはケシの花w)。

そんな鯉登の成長、まるで1945年に敗軍の将となる未来に備えた予習のようだ。どーりで彼の誕生日がA級戦犯の処刑と同じ12月23日なわけだ; 鶴見達の過ちとそこからの卒業を通したこの成長、きっと将来無駄にはならなかっただろう。
さらに12月23日と言えば、野田先生が金カムのキャラ設定を練っていた頃は未だ現役で日本国の象徴をやっていた方の誕生日でもある。恐らくこれはうっかりや偶然ではない。A級戦犯の処刑執行が当時皇太子だったその方の誕生日に設定されたように、鯉登はその方とあえて同じ誕生日に設定されていると考えていい。
その理由の一つが、「鯉登は日本(人)の象徴だから」であろう。鯉登音之進・・・「音」の字は「日」の上に「立つ」と書く。

さて、物語終盤で自我を発達させ自分自身の道理や価値観や正義が芽生えた鯉登少尉は、無垢ではなくなった。今までのように「純粋培養で育ったがゆえに自らは深く考えることも疑うこともないまま無条件に心酔する他人(鶴見)の正義や信念に基づいて罪悪感なく半ば反射的・機械的に人を殺す」という生き方が出来なくなっていく。純粋無垢な操り人形で居続けていれば、今後も鶴見の意のままに動くことに罪悪感を持たずに済んだはず。だが、鯉登はそれを選ばなかった。アシリパ同様、無垢な子供でいることをやめて成長を選んだ。むしろ「自ら考えず罪悪感なく殺す純粋無垢な人形」であり続けることを恐れた。
その結果が「私は鶴見中尉の本当の目的を見定めたい。その先に納得する正義が一つもないなら後悔と罪悪感にさいなまれることになるだろう」という言葉になったようだ。.
この部分は杉元の心理とも一部通じる可能性。彼もその親友の寅次も、思わず真意を問いただした勇作も、己の道理とは無関係に動員され戦場で命令のままに殺し合うだけの操り人形として扱われた大勢の兵士の一人だ。だからアシリパが他者の思惑で殺し合いの道を選ぶことは嫌った。

「無垢な人形」をやめた鯉登の成長は、物語終了後に2つの世界大戦という時代の激流が訪れた時、軍人の彼に大きな葛藤を与えること同時に、作中で終戦時には師団長にまで出世することが示されている彼を大いに鍛え上げさらに成長させることにつながっていくだろう。
彼は、鶴見が扇動に利用した例の心理がかつて鶴見に熱く心酔していた頃の自分みたいな大勢の将兵達や国民を巻き込んで各所で暴走し歯止めを失う時代の激流に、多くの部下を従える「ボス」の立場で直面することになるわけだ。しかしそれらは彼が過去に一度経験したテーマなため、「激流」に心飲み込まれず俯瞰的な視点から冷静に客観的に見つめることが出来る。その上で自らの考えと意志に基づいてどのようにどれだけ己の最善を尽くせるかがテーマとなるだろう。それは、鶴見達の(即ちそれに従ったかつての自分達の)過ちとそれが生み出した犠牲を教訓として無駄にせず生かすことでもある。
カギは「黒歴史から目を背けず生かす勇気と聡明さ」。鯉登がこのテーマに取り組むとき、彼の隣で月島も同じテーマに取り組んでいることだろう。彼もまた鶴見同様、「『犠牲に見合う対価や結果への執着を手放し過ちから学ぶことと失う前には無かった新しいものを得ること』を実現するまで死ぬことが許されないキャラ」かもしれない。鯉登中将の右腕を全うできたのも分かる気がする。
この辺りを描いた二次創作が増えると、日本の開運を促進するかもしれない。割とマジで。

このテーマはタロットカードならさしずめ「正義」と「力」。ポイントは「戦車」だ。命が自己一致した状態で出せた結論は開運しやすい。
今までしてきたことが過ちだったり結果に反映しない努力や献身だったことを受け入れることは、決してそれまでの人生や今までの犠牲を無駄にすることではない。むしろそれらを本当の意味で無駄にせず生かすための第一歩なのだろう。

作者は当然、1940年代の第七師団とその運用発想を知っている。その史実を踏まえて想像するなら、敗戦の予習を終えた鯉登少尉は将来「鯉登中将」となって北方の守りを担う「不動の師団」を率い、暴走する中央によって大勢の部下達が無駄死にする事態を極力回避する努力をしただろう。中将就任前から彼の聡明さは日本の敗戦をとっくに予想していたはずだ。それで本隊の海外派兵は避ける代わりに敵の北海道上陸に備えた演習と訓練に勤しみ、本土が空襲されるようになると各隊を北海道の複数地域に置いて師団の損害をリスク分散。トーチカの視察や増強をする。やがて南方へ派遣された支隊の壊滅を知り、師団の駐屯地を含め北海道各地も空襲され、駐機してあった軍用機も攻撃された。翌月には日本が世界初の核攻撃を受け、その3日後に北海道とは目と鼻の先に位置するソ連が日本へ宣戦布告。ソ連の満州侵攻と同日に長崎への核攻撃があり、もはや国どころか種族を滅ぼしうる力がこの世に生まれたことを知る。世界は明治生まれの自分達が知っている戦争をしなくなったことを実感しつつ8月15日で敗戦を知る(そして敗戦に心揺れる将兵達に向けて訓示だか演説だかやったり誰かの自殺を止めるような事すらあったかもしれない)。終戦と言っても対米国戦が終わっただけでソ連の件があったから気を抜けなかっただろう。結局9月にソ連が北方領土へ侵攻した対応に追われ、北海道の一部であった北方領土を失う(エノノカやチカパシ達を思い出しただろうか)。
北方領土を失えば次は北海道へ上陸しに来るソ連軍を迎え撃たなければならない。その時鯉登の内にあったのは玉砕の悲痛な覚悟か、それとも折れた刀で土方と対決した時に会得したあの境地か。
そんな事態の中で(鶴見の暗躍により)B29が北海道に飛来。あの島はソ連軍の上陸を免れた。皮肉にもかつての敵機B29の飛来に救われた北海道。その時、鯉登は鶴見の気配を感じ取っただろうか。

戦争は終わっても鯉登にはまだやることが残っている。彼なら若い頃に敗戦の予行練習で身に着けた「共に戦った者達を守りながらの敗戦処理能力」を敗戦本番でもフルに発揮するだろう。中将閣下ともなれば本人が米国側の取り調べを受けたり、戦犯達の中には同期や知り合いや戦友さえいうる。裁判で彼らのために証言をしたかもしれないし、時には助命嘆願だってしたかもしれない(なお史実の鯉登中将は戦犯として起訴されていない)。

そして1948年には自分の誕生日(=現上皇の誕生日)にA級戦犯の処刑を迎える。史実とキャラの誕生日が符合するそんな設定を仕込んでおいて最終回を読み終えた読者に色々想像させる作者の手腕は見事だと思う。ノダセンセイスゴ~イ

そして鯉登は自分の誕生日に知るだろう。A級戦犯容疑で投獄されながら何故か死刑を免れた者がいることを。そのうち一人は当然鯉登も知る東條英機内閣の閣僚、「岸信介。この人、安倍元首相や岸前防衛大臣の祖父である。
彼はやがてCIAの支援を受けて首相となり
戦後日本に統一教会を招き入れて政界と癒着させ、安倍氏銃撃~現騒動の遠因を作った人物でもある。統一教会は日本統治時代の朝鮮で生まれ育った教祖が大日本帝国に対する恨みを動機と原動力に1945年から行った布教活動が起源だという。とすれば、「大日本帝国万歳な日本会議」と政界に癒着・浸透した統一教会がらみで昨今起きている因果にはめまいがする(その因果で孫が一人死んじゃったよ;)・・・これも鶴見(=帝国のカルマ)の仕業なのかってぐらいだ;
CIAの日本における活動


◆「ゴールデンカムイ」のオカルト妄想
占星術的に見ると、現在は2つの世界大戦が起きた20世紀前半の運気の焼き直しめいた気配を帯びている時期だ(コロナ禍はさしずめスペイン風邪。既に5.15事件の再現日英同盟の再現が発生済み)。あの当時の激流が(カルマ解消のために)再現されやすい。
多分、この漫画が今この時代に発表されたことは、大正時代にファシズムで一度中断された日本人の近代自我発達が再開することも暗示していると思う。かつてマッカーサーが「日本人の精神年齢は12歳程度だ」と言ったのは近代自我発達が中断されていることにも起因しうる。中断されていた近代自我の発達が進めば、かつてよりも扇動やプロパガンダに対する強い免疫を獲得できるようになるし、自分自身の「考える力」を今まで以上に持てるようになる。鯉登のように。初登場時の鯉登の精神年齢が8~12歳程度に見えたり、彼の心の一部が子供時代のまま時間を止めていた描写もあり、あのキャラは日本人の一面を象徴しているような気がする(となれば、前途は一応有望なのか?w)。そして「鶴見」は統一教会も再現している近代日本のカルマ(=帝国のカルマ)及びそこに潜む例の心理を象徴している感じだ。これが主権者の近代自我発達を抑圧してきた一因。そして、そして、数奇な経緯や汚れ仕事という大きな自己犠牲を支払い例の心理を抱えて鶴見に心囚われていた「月島」は日本列島(及び帝国のカルマに利用されてきた日本の龍脈含む)そのものの象徴になっているかもしれない。何しろ日本、三日月の形をした月の島だ。月みたいに国土の大きさが満ち欠けしたこともある(その過程には汚れ仕事)。
それと同時に、この国は龍の形もしている(証拠画像)。月の島にして竜の島・・・この偶然は非常に暗示的に感じる。
鯉が激流を乗り越えるのは運命かもしれない(理由は後述)。
後日談で月島は鯉登の右腕として共に職務を全うしたという。さしずめ「体と心」のごとく息の合った連携だったのではと妄想した

私達と龍脈もまた、鯉登と月島の関係同様に「傷つけあったりせず連携していきたい関係」だ。

また、戦争や事件含め、己が人を殺める運気の源にある因子は、殺める前から己の中にも存在している。己のそこから目を背けず向き合うことも重要になって来る。その不調和な因子は、己の中にも以前から存在していたのだ。当然、鯉登や他の登場人物達の中にも国にも存在する。それら因子の波長が共鳴・増幅し合い組み合わさり積み重なり、それら因子が自らを現象化させる条件がそろう運勢を招けば戦争になることも。特に、プロパガンダや大衆心理その他で多面的・全体的な広い視野を抑圧し分断的・一面的な視野に基づくと争いを招きやすい(例えば、ヒトを善人/悪人で分ける分断的・一面的な視野に陥って、一人一人が条件次第でエグいこともハートフルなこともする『清濁併せ持つ存在』と見なさないのもその一種。杉元達日本兵はロシア兵を人間的な感情も感覚も乏しい悪人とする一面的な視野を植え付けられる立場にいた)。

人間は因子と条件がそろえば、誰もが人を殺しうる。特別に異常な人間だけがそうなるわけじゃない。戦争という、いわば共食いの如き現象を引き起こすに至る数々の因子。因子同士が共鳴しジェンガの様に組み合わさり積み重なり、それが現象化する条件がそろった結果「共食い」という現象(運勢)を構成している。それら因子のどれか一つでも向き合って改善・緩和出来れば、その現象(運勢)を構成する因子のジェンガがわずかにでも形を崩すことになる。その結果、共食いを引き起こす運勢の形が崩れて変化し、時には共食いという形の現象(運勢)が成立しなくなることもある。
要は、悲劇や惨事を引き起こす因子と条件を作らない・そろえないようにすればいいのだ。それを期待して実行する努力の全てが開運法となる(例えばこれも)。

金カムのキャラ達は皆清濁併せ持ち「100%清らかな存在」ではない。だが、自暴自棄にならず己の最善を尽くすことはできる(『まだ遅くないッ』)。21歳の鯉登はそんなテーマを歩みはじめた将来有望な青年だ。
鯉は清流に住めない。だが、激流を登って竜になることはできる。
程度の差こそあれ、誰もが清濁併せ持つ。その点で我々は金カムのキャラ達と何ら変わらない。因子と条件次第では我々も彼らと同じようになりえるし、逆も然り。我々は皆、鯉なのかもしれない。

個人の想像だが、戦後の鯉登は「多くの日本人が『失う前には無かった新しいものを得て犠牲に見合う対価や結果への執着を手放し過ちからも学んでいける』未来」や「日本人が自らの『考える力』を養っていける未来」を願って生きたのではないかと思う。
その様な願いを込めて、自らの経験を自伝に書き残していたりすると面白そうではある。

◆鯉はやがて竜となる
「登竜門」という言葉の元ネタは「鯉が激流(滝)を登り切れば天に昇って竜になる」という中国発祥の故事だ。鯉登も、彼が象徴している日本人の集合無意識も、激流を登っている過渡期にあると思う。激流を登った鯉は竜となり、見晴らしの良い高所から多面的・全体的な広い視野を得る。
竜たる者は一面的・分断的な視野を超えた者。
決して狭い視野の囚われて【犠牲に見合う対価や結果への執着に基づく選択】をしない者。その広い視野で「失う前には無かった新しいもの」得られる者。
日本において竜神は水を司る。そして水(水気)はしばしば民衆を象徴する。 日本人はこの国の主権者という意味で鯉登同様「ボス」の立場にある。我々一人一人が、竜を秘めた彼でもある。そして彼を支えるのは「月の島」・・・
私達もまた、鯉登と同じテーマに取り組んでいるわけだ。この国のボスとして、世界覇権が変動した過去の再現めいた時代の激流に心飲み込まれず登りきるために、それらを俯瞰的な視点から多面的・全体的な広い視野をもって冷静に客観的に見つめて己の最善を尽くせるようでありたいものだ。一人一人がそれをやれれば、鯉はやがて竜となる。
その時、月の島は竜の島にもなれるのだ。島を築くことを「築島(つきしま)」という。
すでにこの国の太平洋島しょ部で、その始まりを告げる暗示的な現象が起きている。

『ゴールデンカムイ』は日本の艮(=鬼門)の地を舞台にしている上に直訳すれば「金神」になる。まるで「艮の金神)」 だ。そんな漫画が世界的にヒットという現象は、かつて日本の鬼門に封印されたかの存在が甦る予兆ないし暗示のような幻覚が見えてきたので、もう寝る。


※艮の金神
別名を国常立尊という 。「国の大地が立ち上がる」という意味の名を持つ日本の原初神。個人的には大地を隆起させる力を持つ龍脈も象徴してるように見える。一説によると国常立尊 は 「口うるさくて不都合な存在」として鬼門の地に封印され、以来、その体は毎年お雑煮の餅として長い間日本人に食べられ続けているのという。しかし、「時が来れば甦る」とも言われている。
だとすれば、国常立尊は何世代もお雑煮を食べてきた日本人一人一人の血肉に宿り、いずれ私達の中でその力を発動させ甦ることになるだろう。この国の主権者(ボス)達の中で・・・
必要なら『口うるさい主権者』になってやればいいw)

金カムキャラ達が知っていたかは定かじゃないが、明治に流行った奇妙なオカルト理論「雛形論」が主張するところの「日本列島は世界の雛形」とかいうのがもしありうるなら、日本で「鯉が激流を乗り越える運命」が進めばやがて世界中の「自我発達を必要とする地域」に波及するかもしれないし、その逆だってあり得る。

今回扱ったテーマは、「ペプシ桃太郎」のキジの物語でも表現されている。カラスは恐らく、「犠牲への悲しみや苦しみや怒り」というトラウマが癒えず、犠牲に見合う結果や対価を求めて力を渇望し、鬼となった。キジはそんなカラスを癒した。
キジは日本を象徴する鳥(国鳥)で、キジに授けられた力(タロットならストレンス)は多分、我々の中で眠る国常立尊の力でもある。我々に眠るその力が発動する時、国の大地は立ち上がり、鯉は天に登って竜となる。
キジの物語について

救いのためならどんな犠牲もいとわない?←鶴見達もいとわなかった。政治だろうが宗教だろうが、「カルト」にハマる心理にありがち。
首里城火災に奇妙な偶然←「◆まとめ」に同じテーマを扱っている。既に2019年から今回書いたテーマの運気は動き出していたと思う。

「国民主権」て知ってる?←カルトと日本人の近代自我発達について
共同幻想から自己を取り戻せ? ←帝国のカルマについて

土方歳三占ってみたオマケの動画も必見w


2022.12.21追記
多分、日本がカルト的波長を卒業していけると、国内外のカルト的な勢力との悪縁も徐々に消えていく。共産党支配の中国、金一族の統治する北朝鮮、現ロシア(ロシア正教が国家神道めいた神権政治カルト化)、キリスト教原理主義層を票田とする米国の派閥ともいずれは・・・
どれもみな、ある意味では自我発達を必要とする(未だ自我を抑圧されている)地域だ。

2022.12.22追記
偶然か必然か、物語のカギを握る主要キャラ達の名前(日本語名のみ)をアナグラムすると、そのキャラを暗示するような鳥肌もの・爆笑ものの古語が浮かび上がるように見えたので、ここに記録しておくw

2023.1.8追記:
鯉登少尉を占ってみた
尾形を占ってみた


2023.6.22:
余談:「鶴見」という苗字設定には、鶴に例えた戦没者達に捧げる有名なロシア民謡「鶴」からインスパイアされたものかもしれない。
ロシアのウクライナ侵攻後にこの歌を投稿したリンク先のロシア人の気持ちを思うと・・・

2023.7.11:
占い師が「現代転生した金カムキャラ」を妄想してみた
各キャラ達の現代化した画像(想像図)ありw

2023.10.26:
ゴールデンカムイ×タロット

23.11.3:
またも太平洋島しょ部で国の大地が立ち上がって島が築かれた島を築くことを「築島(つきしま)」という。
ジョセフ・ナイ「対日超党派報告書」より
2023.12月追記」をご参照の事。くれぐれも世論に仕掛けられた扇動や誘導に心を流されませんように。

24.1.
ブログ記事
今年は龍の年。リンク先の記事、「◆金神」の章にてゴールデンカムイを別視点からオカルト解釈してみた。
ゴールデンカムイは今月30日まで無料で読める

24.1.24
鶴見篤四郎を占ってみた

2022年10月12日 (水)

いい話

 

こういう人生もいいな。
皆とは同じでなくても、自分には自分だけの、「自分にとっては世界一」の幸せ。

それを選べること自体、すごく幸せなことだ。

 

“JURIE-O” by Mark Summer

2021年1月 6日 (水)

漫画版ナウシカで妄想

 

NHKで漫画版ナウシカをもとにした歌舞伎の放送を見たけど、やっぱりナウシカ(もとい宮崎アニメ)や彼の漫画は絵の表現や映像美が魅力なのだと改めて知った。舞台化するとその要素が弱くなってしまうのは否めない。
漫画版ナウシカは小学生の時から何度も読み返している。それまで学研の教材マンガや子供向け漫画しか読んだことのなかった私が初めてそれを読んだ時、色々衝撃的すぎるわ情報処理が追い付かないわで( ゚д゚)←本当にこんな顔するしかなかった。そのショックでしばらくドはまりしていたw 

歌舞伎をきっかけに改めて漫画版を思い出すと、ナウシカに出てくるいくつかの要素は別の宮崎作品にも形を変えて登場することに気が付いた。例えば崩壊した「墓」は「天空の城ラピュタ」だと「城の基底部(すごい雷兵器があって黒くて変な浮彫のある無数の巨大ブロックがいっぱい。バルスで崩壊)」として表現されてると思った。それに対し、漫画版ナウシカで崩壊しなかった「庭」はラピュタにおける「崩壊を免れた部分」に相当するか。
そして王蟲はもののけ姫だとイノシシ軍団になっている。また、もののけ姫ではシシ神が頭を失うことでやはり大海嘯みたいなことが起きる。
恐らくシシ神(命そのものとされる)はユング心理学でいうセルフのシンボルなのだろう。命が本来のあるべき自然な姿を奪われたり歪められた時に生じる大海嘯は、いわば巨大なタタリ神現象なのかもしれない。宮崎作品から影響を受けたと思しき『モアナと伝説の海』ではテ・カァと島や海を脅かす黒い影の描写がそれに当たるか。

◆漫画版ラストは本当に人類滅亡フラグ?
よくナウシカの漫画版ラストは人類滅亡フラグじゃないかと言われること多いけど、「墓」は死んでも「庭」が残ってるのでこれまでの人類が浄化された空気の中でも生きられる技術は墓崩壊後も残っている。庭のヒドラが「ナウシカが庭で吐血しないよう肺に細工した」的なことを言ってるのがヒント。つまりナウシカは、浄化が終わる前と後、両方の環境で生きられるハイブリッドになったわけだ。
この技術を(不死身のヒドラや博士達に手伝わせるなどして)腐海のタイムリミットである千年以内に人類が習得し普及させれば墓崩壊後も人類にワンチャンあると思う。 ナウシカはそのことを踏まえた上で墓と哲学問答し、ついに崩壊させていると考えれば個人的にはしっくりする。
準備されていた新人類の卵をナウシカが皆殺しにする展開が衝撃的過ぎて印象がそっちに全部持っていかれると気付きにくいチャンスでもあるw ナウシカの決断は非常に危険な賭けで、千年経っても庭の技術が全く普及しなくて人類が滅亡してしまう可能性だって十分ある。しかしナウシカは「種族が命本来の自然な姿(清濁併せ持つ姿)を捨ててしか存続できないのであれば、その時は種族に寿命が来たものとして潔く滅びを受け入れる方が自然だ(そして恐らく、種族は命本来の姿を保ったまま例え多くの犠牲を出しても浄化による環境変化に順応していく)」という考え方のようだ。それが今なお賛否両論のある過激なラストへつながる。


◆命が自然な姿を失う時

作中で登場する、「新たな人類の間に邪な心や醜い心や争いが生まれないように、脳が穏やかな感情しか持たないプログラムが施されている新人類」という概念は、もはや不自然過ぎてロボット同然だ。そこに命や魂は本当に宿るのだろうか? 人工生命の巨人兵すらそんなプログラムはされてないのに。命は、魂は、本当にそんなところに宿りたいだろうか? ヴ王曰く、「そんなものは人間と呼べぬ」。
種族の生命が本来のあるべき自然な姿を歪められ奪われてしまえば、種族そのものが巨大なタタリ神になってしまう気がする。墓所(その存在自体が旧世界文明の遺したタタリ神のようなもの)が大事に保管してきた新人類の卵の行きつく先は、無数のタタリ神だったかもしれない。

人類が繰り返す醜さも争いも凶暴さも、それが発動するには各々にそれなりの理由や原因や背景や条件がある。そこにアプローチせず一元的な狭い視野で、対症療法的な解決法を究極的に追求し続ければ確かに「予め種族そのものに細工する」という結論になるだろう。一元的な視野しか持たないそんな発想を、漫画は「一つ目がトレードマークの墓所と教団」という形で表現している。墓所や教団にサポートされて権力を成立させている土鬼王朝もまた、同じような視野だったのだろう。歴代皇帝達もまた、墓所の技術で生命本来のあるべき自然な姿を歪められ、タタリ神のようになってしまった。だから大海嘯を起こしたのかもしれない。そして最期は墓所同様、全員が自然な命とは程遠い変わり果てた姿になって死んでいる。

狭い一元的視野(一つ目)ではなく、せめて両目を使った両元的(二元対立ではなく、二元連携という意味で)な視野ぐらいは持っておきたいものだ。旧世界が滅んだのも一元的な狭い視野しか持たなかったからかもしれない(妄想)。そんな狭い視野での営みは、命本来の自然な姿を発揮できなかっただろう。
(なお、恐らく人類は三元的視野まで獲得できると思う。第三の目的な意味でw もしかするとその状態は命本来の自然な姿なのかもw)


【余談1】
今となっては、「変異した新型粘菌」による大海嘯が変異した新型ウイルスによるコロナ禍に見えてしょうがない。恐らくコロナ禍も大海嘯と似たような経緯をたどって収束するだろう。即ち、「新型の遺伝子と旧型の遺伝子の交雑による変異→弱毒化」だ。
まさか新型コロナウイルス誕生の経緯と不自然な新型粘菌誕生の経緯まで似てないだろうな)←陰謀脳

【余談2】
オカルト脳には、漫画版に出て来る「自分達の技術を活用してくれる強い支配者と契約関係を結ぶ目がロゴになってる教団」はミニオンズっぽくもあり、宇宙人と交信して色んな技術を伝授されているとかゆう噂のある実在の「一つ目ロゴの某秘密結社」ぽいところもあるw 

・・・とまれ漫画版いいよね。外伝で「その後のクロトワ」とか出ないかなw

【2021年6月追記】
余談1で書いた太字の懸念がリアリティを持ってきた; 一説によると、Covid-19は「人為的な機能獲得研究によって自然界に存在したウイルスが本来の姿とは異なる歪んだ命の姿に変えられた(ヒトに感染しやすいように改造された)」結果、それが外に漏れてパンデミックを引き起こしたと言われている・・・まさに作中にある「大海嘯の新型粘菌」そっくりだ。もともと腐海にいた粘菌を土鬼の博士達が採取・改造・培養し生物兵器として下界に解き放たれた新型粘菌だが、自然発生した腐海の生き物たちとまじりあう(交雑する)ことで暴走(タタリ)が止まった。腐海の生き物達が、助けを求める粘菌の声に呼応して自らの命を懸けて粘菌の元にやってきてその身を食べさせたから、そこから多くのDNA・RNAを吸収して自然な姿を取り戻した(自然な姿に変異した)ためだ。

繰り返されるcovid-19の変異は、自然本来の姿を封じられ歪んだ姿に改造された自分を、他の自然発生コロナウイルスと交雑することで本来の姿に戻そうと模索する本能的な活動のようにも見える。
(まさか、mRNAワクチンの影響が残り続けてしまう人の体を元に戻す場合も、同じ方法?)

コロナとインフルエンザ同時流行の謎←ヒトが持つ自然免疫のあるべき姿が歪められた?
パンデミックにまつわる奇妙な話

2021年1月 4日 (月)

「天気の子」で妄想

ネットでは天気の子の結末を「ヒロインが生贄になるのを妨害した天罰で東京は水没(主人公は余計なことをした)」 と解釈する傾向がネットには多いが、作品としては「100年かそこらの気象観測データだけを基準に異常気象を定義するのは滑稽」 というメッセージが込められている(須賀圭介や気象神社神主のセリフ参照)ので、東京水没は天罰ではなくただの自然現象と解釈した方が自然かもしれない 。

ヒロインは現代人の都合に合わせて祈りの力を短期間で濫用しすぎたため、短期間で(東京を水没させる長雨が降るより
前に)能力の消費期限を迎えて人柱になる日を迎えてしまったため、どのみち「3年間の長雨による東京大洪水」を阻止するにはもう一人誰か別の能力者(=人柱)が必要だったんじゃあるまいか? と妄想した。
また、ヒロインが晴れの願いを叶えた時は少し離れた場所に「降るはずだった降水量」の水がざぶんと降り注ぐことからも分かるように、もし人柱役が東京を水没させる長雨回避の祈りを叶えた場合、別の地域が未曽有の大災害に見舞われて大変な犠牲になっていただろう。それこそ、311の津波被害レベルになる。
しかし帆高が生贄のシステムを呪術破綻させたので新しい人柱が立つことも別の地域が犠牲になることも永久になくなった。その結果東京は、人間界のものさしをはるかに上回る自然現象を平等にありのままに受け止めることとなる。

「人間界のものさしをはるかに上回る自然現象を平等にありのままに受け止める」・・・これは現在のコロナパンデミックにも当てはまる。長雨同様、3年間は続くだろう。人々は収入や社会的地位や能力とは無関係にその影響を受けている。

奇しくも占星術では疫病も洪水も同じ海王星の象意。そして海王星は、自己犠牲という意味を持つ魚座の守護星でもある。作中でも「水の魚」が印象的に現れるのは意図してか偶然か?
そこからの連想だが、魚座に土星が入ってる時代にこの作品を再度見直すと面白いかもしれない。魚座は犠牲(自己犠牲)、そして土星は抑制とか抑止、ブレーキという意味もある。魚座の土星は「自己犠牲へのブレーキ」みたいな意味になりうる。
現在水瓶座にある土星は、丁度コロナ禍から3年後にあたる2023.3.7.22:35分に魚座へ入る。実際にその時のホロスコープを見てみると案の定、サビアンが作品と共通点があって面白かった。専門用語が分かる人向け→

魚座と言えば皇室は一部の間で魚座ファミリーなどと言われることがある。今上は太陽が魚座先代夫妻は共に月が魚座。雅子様はキロンが魚座で紀子様はMCが魚座。先代と今上夫妻は共に魚座に星を持っている。しかしその次の世代である愛子様や悠仁様(お印はスカイツリーのモデルになったコウヤマキ)になると、魚座に星が無い。
皇族と言えば色々と己を犠牲にしなければならない一族だが、次の世代になると魚座(自己犠牲)は受け継がれないのかもしれない(妄想)。以前の記事の最後に「天気の子→天子の気」というアナグラム妄想をしたことを思い出すw 
吉凶両方の象徴現象が起きた即位式当時は、新型ウイルスによるパンデミックなど想像もしなかったなあ・・・


2017年8月18日 (金)

「モアナと伝説の海」で妄想

もう2か月ほど前になるが、ディズニーのアニメ「モアナと伝説の海」を見た。CGによる水の表現は秀逸。ご先祖様が出てくるシーンはどれも圧巻だ。今回の妄想は、その作品における主人公の名前「モアナ」はハワイ語で海を意味する言葉だったことでふと思いついた解釈。

あの作品の本当の主人公は、「海」自身なんじゃないかってこと。
作品の設定上、生命の源は海。よって、あの作品に出てくる女神(地母神的)を含めた全ての登場キャラ(=生命)は海自身の中にある「自分の様々な側面(個性)」を象徴している気がした。
海は女神であり心を失った女神テ・カァであり心を奪ったマウイであり劣等感の裏返しに優越感を味わおうとする(優越感を自尊心の代用とする)タマトアであり海賊であり女神の心をもとに戻したモアナでありモアナに旅立ちを促したおばあちゃんでありモアナを生み育てた両親でもあり祖先達でもある。皆が海の化身なのだ
そして海にとって、「女神が心を持っていた頃に大航海を実現していたモアナのご先祖達」は女神の心を宿していた過去の自分自身(=本当の自分)の姿とその可能性を象徴している気がした。
海は女神でもありマウイでもあるので、海は自分で自分の心を奪い隠してしまったことになる。
海は集合無意識の象徴でもある。「モアナ」という作品の主人公である海とは、我々の集合無意識のことであり我々の事かもしれないと妄想した。

私はモアナの物語に、自らハートを取り外してしまいテ・カアという黒い病に陥った海が「心を取り戻してもう一度あの頃の自分に戻ろう」と意図してモアナという少女(化身)になって自らのハートを取り戻す物語を発生させたというイメージを抱いた。海が失った「ハート」は即ち自らへの(そして全生命への)愛でもあるのだろう。

次に、マウイの視点から物語を見る。
まず、「母性」というものは、その個体が「自分の生きる喜びと可能性の自覚・実現(=幸せ)」を促進・支援する機能である。哺乳類の母性本能にせよ地母神にせよそれは同じ。
そして幼少期のマウイは母親に捨てられた時、自分に注がれる母性という愛(幸せを支援・促進する力)を失ったと誤解し、同時に「自分を生かし保護する存在に愛されず廃棄された=自分は尊くない・幸せになれない(=可能性がなくて生きる価値がない)存在」と誤解し自分自身への愛(己を生きる喜びを通しての自己肯定)を見失ってしまった。その結果母性愛を感じ取れず自分を愛せなくなったのでその代償行為として「他人から愛される行為(他者を幸せにすることで利用価値を評価される行為)」にふけり、人々から「英雄マウイ」として大勢から尊敬され愛される存在になっていった。自分の持つ能力に可能性があることや愛される喜びを知ることが出来たとき、彼はうれしかった。それが彼の知る幸せだった。
しかしある日、人々の願いを叶えてあげようとして(人々からまた愛されたくて)女神のハートを岩(女神の身体の一部)から取り外して人々にプレゼントしてしまった。それがもとで女神は溶岩の魔物テ・カァになり、島々の実り(女神からの愛の贈り物)は失われていき、海は黒い病を進行させることになった。
マウイが己への愛を失ったことを動機にした=「母性機能の抑圧」を動機にした代償行為がやがて「女神のハート(=愛)を失わせてしまう」という結果を招く(しかしそれが分かるのはラスト)。

そんなある日マウイはモアナと出会い共に旅をする。そこで敵役タマトアとの戦いに苦戦する。心に自尊心不全と劣等感(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)を抱え、その裏返しに優越感(見下せる相手がいてくれることに根拠を依存した自己肯定)を味わおうとするタマトアは「他者からの評価以外に自己肯定の根拠を持てない(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)」マウイの心の闇を象徴しているようだった。
マウイはモアナと旅していたある日、航海術を教えてやっていたモアナにこう言われた。「あなたを『マウイ』にしたのはあなた自身よ」
自分の力を皆から愛され驚嘆される『英雄マウイ』になるまで磨き活用して可能性を広げ、代償行為とは言え一応は「愛される喜び」を教えてくれたのは他人の力ではなく自分自身の努力や才能である。自分の中の生命力が自分をそんなふうにしてくれたのだ。
それは、自分自身の中に失ったはずの母性的な愛(幸せと可能性を支援・促進する力)が生きていた証ではないか。母性は、失われてなどいなかった。もう代償行為は必要ない。

そこでマウイは母に捨てられた時に失ったと思い込んでいた自分の生きる喜びと可能性を自覚し、既に実現していたことに気が付いたのだ。自分は、とっくに救われていた。
マウイはモアナの言葉を聞くことで自分自身への愛(己を生きる喜びを根拠にした自己肯定・自尊心)を自覚し、また己の中に母性愛を取り戻すことが出来た。それがきっかけでマウイもまた女神のハート(=愛)をあるべき場所へ戻す決意が固まり、一度は離れたモアナの元に戻ってモアナを支援する。
この時、マウイはそれまで自分の英雄性を釣り針に投影し依存していたが、釣り針を駆使してきた自分自身の生命力(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する力)を自覚することで釣り針依存症を乗り越えた。だから釣り針が壊れても自信を完全に失うことは無くなった。そしてこの時から、見失った母性愛の代償行為(他者から愛されること)を動機にした行動ではなく、自分自身を愛する(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する)ための行動をするようになったのだ。その行動の一つが、モアナに協力して女神のハートを戻し、世界に母性愛を復活させることだ(己の中でそうしたように)。自分の能力や釣り針の使い方が、そこで根本的に変容したと言える。

一方、モアナはマウイと離れている間、おばあちゃんの霊と交信する。そしておばあちゃんの問いかけ「自分は何者か」の答えを悟った時、一度は諦めて海に捨て去った女神のハートを海底から取り戻す。そして再会したマウイと共にそのハートをテ・カァになってしまった女神に戻す。
ラストでハートが戻った女神は本来の姿に復活し、海は黒い病からかつてのような本来の姿を取り戻し、島はかつてのような実りを取り戻し、マウイはかつてのように本来の姿となった釣り針(自由自在にいくらでも変身できる)を取り戻し、モアナ達一族はかつてのように本来の姿(ご先祖のように大航海する能力と民族性)を取り戻した。海の化身でもある皆が皆、「自分は何者か」を取り戻したのだ。
ラストのそんなシーンはどれも、海(=我々の集合無意識)自身が陥った課題とその克服を象徴するシーンじゃないかと思った。 海は、自分本来の姿を取り戻したのだ。

劇中の挿入歌

♪広い海旅した 祖先が私を呼ぶの 遠くへ旅をして分かって来た 私を呼ぶ声が聞こえる 
 心の声が呼んでいるの 波のように打ち寄せては 語りかけてくるその声が 教えてくれたの

 私はモアナ

 

モアナは、自分が「海」であることを思い出した。
モアナを呼ぶ祖先の声=モアナを呼ぶ心の声=自分本来の姿(自分は何者か)とその可能性を自覚させ実現を促す命の声(力)なのだろう。そんな命の声(力)は緑に輝く女神の心(ハート)でもあり、愛でもある。
命というものは、己のあるべき姿とその可能性を実現するように自らを促す。それが命の「声」であり、命が持つ己への愛なのだろう。
愛の源=女神のハートの源=モアナに自分は何者かを自覚させる心の声の源=モアナを呼ぶ祖先の声の源=海=モアナだ。海=モアナの命(=モアナの心・魂)と言ってもいいか。モアナはそれが自分の本性だと自覚した。
それをこのブログ風に言えば「己を開運させる魂の環境インフラ(=内なる地母神)の源」と言ってもいい。そんな「命」であり「魂」であるものを、ユングは「セルフ」と呼んだ。それが命のあるべき姿(本性)だという。そしてモアナはそんな己のあるべき姿を「私はモアナ」と自覚した。

モアナ=海が取り組んだ「己のあるべき姿を取り戻す(自覚し・実現する)冒険」とは、我々一人一人が集合無意識規模で取り組んでいるテーマでもある。あの物語は我々の物語でもあるのだ。我々の中にもやはり、『モアナ』で描かれた課題と解決(=物語)を構成する全てのキャラが存在しているのだ。
集合無意識規模のテーマは、個人規模のテーマとしても(個々人の運勢の中で)現象化することがある。我々一人一人が集合無意識を構成し、我々一人一人が「海」で「モアナ」なのだから。

追記:この作品に登場するテフティは『崖の上のポニョ』のグランマンマーレと同じものだ。『ポニョ』では厳重に保管されていた命の水が海にばら撒かれた結果、海は生命本来の可能性を爆発的に実現する。グランマンマーレはその様を見て「素敵な海ね」といった。

楽園が蘇るとき:今なら解かる。女神のハート(心)は、「楽園本能」だったのだ。楽園は、甦った。

2016年3月 6日 (日)

日常にありふれた十人十色の偉大さ

『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』が大反響 あなたはどう受け止める?

主人公の女の子は、自分の大好きなアニメが映画化決定したことを知り、友人と一緒に公開当日に見に行くことに。
そのあまりの出来栄えに感動してしまった女の子なのだが、それに対して友人は「最悪だねありゃ」と一言。
画の脚本や演出、作画についてさんざん批判された女の子は、映画を見返すごとに友人の言葉が頭をよぎり、だんだんと作品そのものに興味を示すことができなくなってしまう。

このような経験から、「一人でも多くの人に知ってほしい 批判は何も産まれない。それどころか、ファンにとって大切な思い出を、ぶち壊すということを。」(原文ママ)という作者の主張で締めくくられる。

「同じものを見ても人それぞれ感じ方が違う」という事は、一人一人に唯一無二の貴重な尊い個性が宿っている証といえる。それだけで人間は皆、尊さと貴重さを持っている。
「感性が違う」ということは、感性の源である個性や、その個性の源である魂が違う、ということであり、そんな世界で一つしかない貴重でかけがえのない自分の感性(個性)だけがなしうる世界で唯一無二の人生(人生経験)を創るということだ。なんとも貴重で尊いことだ。

他者にとっては退屈で取るに足らない作品でも、「神レベル」と感じるほど素敵な感動体験を自らの心に作り出せる。その能力(体験創造力)のなんと素晴らしく尊いこと。
他人が自分と同じ感覚を共有していなかったと落ち込むより、自分が成し遂げたそんな独自の感動体験を喜んだ方がいい。それが個性への目覚め、自我確立への目覚めでもある。
「他人からの共感や支持を受けること(=他人と同じ感じ方をしている証拠を見つけること)で初めて自分の感性に尊さを認識する。それ以外の根拠で自分の感性に価値や意義を見出すことは許されない」
いつの間にかそんな風に思い込んでしまっていなかっただろうか?

自分が友人と同じではない(友人が自分と同じではない)ことに不安や苛立ちや悲しみや疎外感を覚えるのは、友人と自分の境界があいまいで、友人を自分の延長みたいに認識していて(だからこそ脳ミソが違うのに自分と感覚を共有していると思い込むのだが)、いわゆる自我境界がしっかり出来ていないからだろう。この自我境界がしっかりできていれば、友人と自分双方の異なる貴重な感性(個性)を尊重し合える。お互いを尊重できる。
友人を自分の延長みたいなものだと感じるのは友人独自の個性や感性に気づいていない(あるいは否定している)からだし、そういう人は自分の個性(独自性)や感性にも無自覚(又は否定している状態)で、「皆と同じでなければ」という強迫観念に陥りやすい。日本人には多いタイプかもしれない。

本人にしか無い個性と感性(感じ方)により、その人生の中で世界でも自分にしか成しえない体験、感覚etcを毎日いくつも積み重ねているわけだが、これって地味にすごいことだと思う。
自分が味わったその喜びや感動や楽しみは、人類史上、いや宇宙史上、たった一人の人間にしか成しえない素晴らしい体験なわけだ。例え一冊の漫画や一杯のラーメンといった身近で些細な物事の体験であったとしても、それが持つ意味ははかり知れなく貴重で尊い。
まさに生命の尊さとは、こういうことでもあるんじゃないだろうか(壮大)。
恐らく件の友人は主人公の好むアニメをつまらない出来だと感じる一方で、主人公からすれば何がそんなに面白いのか理解できないものにハマったり妙に好んだりという本人にしか持ってない独自の(そして貴重で尊い)感性をどこかに持っているだろう。その感性で今日も本人にしか味わえない人生を創り味わっている。主人公も友人も、等しく貴重で尊いことをやってのけている。
自分独自の喜びや感動を味わえる自分の人生(そんな人生を創る自分の命)を愛し尊ぶ事が出来たら、他者との比較(優越感を含む)や他者からの評価・同意・承認等に依存しない自立した自尊心の始まりになるかもしれない。

いわゆる「中二病」という症状は、そんな唯一無二なる尊い自分の個性と人生を自覚したがっている(自覚したものを愛し尊び自立した自尊心を持ちたがっている)心の裏返しかも(過去記事参照)。

2014年1月28日 (火)

ドラえもんの思い出

人間の死よりも泣ける? フィクション史上最も心が震えるロボットの死10選

1:T-800『ターミネーター2』(1991年)
2: コンボイ『トランスフォーマー ザ・ムービー』(1986年)
3:アンドリュー『アンドリューNDR114』(1999年)
4:アイアン・ジャイアント『アイアン・ジャイアント』(1999年)
5:ウォーリーとEVE『ウォーリー 』(2008年)

 

ランキングにはないが個人的に推したいロボットの話がある。
多くの人同様、私も子供時代に「ドラえもん」を見て育った。中でも、幼稚園児の頃見た「ドラえもん のび太と鉄人兵団」という映画は幼い私に強烈な印象を残した。当時の私には物語全てを理解するのは難しかったが、無意識下では、あの作品をきっかけに「命」「魂」「自我」という概念をあやふやながら初めてイメージするようになったのではないかと思う。

この作品には「リルル」という美少女型スパイロボット(ロボット星から地球侵略を目的として派遣された)が出て来る。母星への忠誠心はあるが人間らしい心や感情を持たないこのロボットがのび太達との出会いやらしずかちゃんとのふれあいやら色々あって自分自身の意志と感情、即ち「魂(ゴースト)」を獲得する。すると、母星の地球侵略に疑問を持ち、自分の任務と友情との板ばさみで苦悩することになる。

そんな彼女の下した決断〜最期のシーンが感動的だった。
まず3万年前の母星にタイムスリップ。自分たちの先祖であるロボット「アムとイム」を作った神=科学者に出会い、年老いて体の動かない彼に代わってアムとイムの脳から争いの遠因となる競争本能を削除し、代わりに思いやりや温かい心をインプット。そのことで母星の歴史が大きく変わったために生じたタイムパラドックスにより、リルルははかなく消滅した。彼女の消滅に立ち会ったのは、しずかちゃんだけ。
彼女は自分の消滅を知りながら、自分の意志でそうすることを選んだのだ。

彼女が消滅していくシーンは、まるで霊魂となって天に召されていくように神々しい。実際、ロボットだったリルルはとうとう自分自身の「魂(ゴースト)」を獲得したのだろう。
歴史が改変されたことで消滅したリルルは、改変後の歴史を辿った3万年後の母星で再び「製造」され、物語のラストでのび太と再会(本人にとっては初対面)する。まるで輪廻転生のように。
弱肉強食の源「競争(闘争)本能」というものの成立基盤には死の恐怖がある。弱肉強食な経済の競争原理にも成立基盤には飢えの恐怖(=死の恐怖)がある。
自分自身の「魂(=不滅の生命)」を獲得したリルルは、それゆえに無意識下で「死の恐怖」というとてつもない大きな壁を越え、そのことがラストシーンにつながる・・・などと勝手に思っている。要するにアニメの攻殻機動隊でラストにゴーストを獲得したタチコマ達と同じ。

住人が皆ロボットなのに戦争や植民地支配や奴隷制度といった地球そっくりの歴史を辿るリルルの母星は、紛れも無く地球の人類史を皮肉っている。
世知辛い世界が今も続く地球。リルルの母星のように私達の歴史のパターンを大きく修正させるには、私達が自分自身の「魂(ゴースト)」を今以上に自覚し、何らかの形で死の恐怖を越える(=競争本能が成立しなくなる)か、死の恐怖(飢えの恐怖含む)を原動力にしない文明を作ることにあるのかもしれない。するとゴースト同士の連携プレーなども出来て今までに無い歴史が作られるかもしれない(そのためには必ずしも自己犠牲が不可欠とは思わないが)。
今のところ、ゴースト同士の連係プレーは人々の無意識下で局所的に発生するのだが人類全体の歴史を大きく変えるには至っていないと思う。
過去記事参照
一番大規模なのは「偉い人の言い間違いとそれを聞いた大衆と検問所の兵士の連携によってベルリンの壁が崩壊した」という事例()だろうか。

争いの人類史を変えていきたいのなら、戦争の悲惨さをひたすらグロテスクにアピールしヒステリックに戦争を憎むことで平和を訴えたり、「悪の国」としてヒステリックに特定の国を憎むことに終始する方法よりも、背後にある人間の原始的な競争・闘争本能や人間が持つ心(ゴースト)に注目する視点からのアプローチ発想がもっと広まったらいいなと妄想する。感情論で歴史は変わらない(というか憎しみは争いを生む)。 占星術ではしばしば死の象徴とされる冥王星が「格下げ」されたことは人々が己のゴーストへアプローチしやすい運気が始まる予兆にならないだろうか(妄想)。
今思えば、私はあの作品のお陰で「心(ゴースト・魂)」というものに関心を持つ素地を得たのかもしれない。

朝、自分が病室で幸せだった人生に満足しながら安らかに満ち足りた気持ちで息を引き取る夢を見た日にこの日記を書けたのも、私のゴースト(主に無意識部分)の仕業な気がする。

 

あの作品、リメイク版じゃない方もオススメ。

 

オマケ:
進撃のアドレナリン ↑闘争心についての話。「恐怖」というものに対して安易に闘争心で対処すると大変なことになりうる。それは、「飢えの恐怖(死の恐怖に直結)」に対しても言えること。飢えの恐怖にうっかり闘争心で対処したら共食い(奪い合い)の果てに絶滅の危機。それが現代?→心の飢えが本当の飢えを招く 天空の城ラピュタのオカルト解釈←リルルが無意識下でやった「魂(不滅の命)への目覚め」と「バルス」は同じものを示してる? パズーとシータは、あの時確かに死の恐怖を越えた。

 

冥王星の降格事件を勝手に解釈

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