平和教育と「考える力」
凄惨な写真、どこまで 原爆資料館に子ども向け展示新設へ 識者議論
初会合では事務局の資料館から、子どもの発達段階を踏まえて、凄惨さをどこまで伝えるか配慮すべきではないかと提案があった。それに対して、子どもらに被爆証言を続けている被爆者の内藤慎吾さん(86)は「原爆の凄惨さを伝えるものを見せることで、核兵器の悲惨さを伝えられる。(それらの展示を)省くべきではない」と強調した。
精神医学を専門とする大沢多美子医師は、その意見に賛同した上で「ショックを受ける子どももいる。見学前後で何かしらのフォローが必要だ」と語った。ほかにも、凄惨な写真などの展示をやめるのではなく、子どもが見るか見ないかを主体的に選べるようにすべき、との意見が出た。
【広島原爆】「助けてくれぇ」うめき声に猛火… 被爆者の体験をVRで映像化
「かあさん!」「熱い」。悲痛な叫び声が響く。その場を離れようとすると、背後から生徒たちが死を覚悟したかのように歌う君が代が聞こえてきた。終了後、参加者の多くがあまりの衝撃に、しばらく立ち上がれなかった。
この研究が本稿にとって示唆的なことは、平和教育によって児童・生徒にトラウマが生じる可能性があることと、衝撃や恐怖が強すぎた場合、何も感じられない、考えられないといった「感覚麻痺」に陥る可能性があるということである。児童・生徒の発達段階を無視した実践は、かえってナイーブな心に恐怖心を植えつけてしまい、人間や世界に対する不信感とニヒリスティックな感情を育てる(宗藤,1982)。
こうした感情を強烈に体験させられることは、平和教育の目的でもある「平和を希求する意欲・態度」の形成を阻害する恐れがある。
先行研究では、こうした可能性、危険性が平和教育に内在することを指摘しているものの、依然として、その実態は十分に明らかにされていない。
ひたすらグロに訴える平和教育は、被害のグロテスクさに焦点が当たり過ぎて原爆(核兵器)の本当のヤバさや本当に考えるべきテーマから焦点がズレてむしろ注意逸らしにすらなりかねない危うさを感じる。肝心なことを忘れ、グロだけを追求した演出になりかねない。
(広島の原爆資料館はショッキングになり過ぎず大勢が見やすいように展示内容を変えた)
核兵器に限らず、ミサイルなどの大量破壊兵器による攻撃は必ず現場がグロテスクな地獄絵図になるのは同じで、ガザやウクライナで今もそのようなグロテスクな虐殺が現在進行形で起きている。その衝撃的な被害は計り知れず、生還者は多くが身も心も深く傷ついている。
日本が80年前に受けた核攻撃による被害もグロテスクなのは事実であるけれど、グロよりも重点的に訴えるべき(知るべき)肝心な事実があるのでは? と思う。
原爆(核兵器)の本当の危険性や本当に考えた方がいい肝心な事の一つは、
「人類が強力な兵器を追い求め続けた結果生まれた『種族を滅ぼす力さえ持ちうる兵器』が利害対立した当事国の判断で自由に運用される(=あくまで自国ファーストで仕事している少数の人間に人類の命運が委ねられてしまう)」ことだ。
そして、軍拡競争によりそんな兵器が何度も種族を滅ぼせるほどの数量産され、今もなお増え続けていて(報道)、使われるかどうかは揺らぎやすい国際情勢の微妙な均衡の上にゆだねられており、核保有国は危険性を知りながらもその兵器が持つ力に政治・外交・軍事etcを依存し続け、唯一の被爆国である日本も自国を核攻撃した国が所有し依存するその力の傘に依存しているということ。先進国が自らを滅ぼせる力に覇権と繁栄を依存しているという事。何かに依存すればそれに支配されやすくなり、依存と支配は表裏一体であること。
これらの肝心で複雑な事実について、義務教育ではあまり触れられた記憶がない。子供達にそっちの事実について自分なりに考えさせる教育というものもあまり見たことがない。そもそも、これらの事実を子供にも分かるように話せる大人がどれだけいるか?
◆トラウマ依存からの脱却
私の記憶では、義務教育時代に行われる平和教育と言えば、ただただ悲惨さやグロテスクさを伝えることに終始していた記憶がある。稀にだが、低学年の頃に無残なご遺体写真を強制的に見せられてトラウマになった人もいる(平和教育に熱心だったりグロ耐性の高い教員の裁量次第では、今なら公共の電波に載せられないレベルの写真を子供達が凄惨な解説付きで見る羽目になったケースもあったとか)。ご遺体写真を見た一部の子が後日不調をきたして保護者から苦情が出る事もあったという(ただしご遺体写真と不調の因果関係を保護者側が証明することは必ずしも容易ではない)。
また、「そのような強烈なトラウマこそが次世代に戦争への憎しみと平和の尊さを受け継ぐために必要不可欠だ(幼い日にトラウマを植え付けられる/植えつけることは日本人の義務である)」とする考え方も一部にはある。もはや「人を傷つける事は大義のために許される」って発想に近い。皮肉にもテロとか戦争の発想に近いw ここまで来るとさすがに行き過ぎではないかと思う。
恐らく、戦争の強いトラウマを抱える人も多かった世代が初期の平和教育を担ったために、トラウマを負った当事者の視点に基づく教育(多角的視点ではない)になりがちで、その結果次世代へミーム的にトラウマが受け継がれてしまう現象が起きてるんじゃないかと思う。
その結果、平和教育の動機と原動力を当時のトラウマに依存する感情的な文化が生まれ、やがて依存するべきトラウマ(の持ち主)がこの世を去りだしたら平和教育が立ちいかなくなる懸念に直面している。・・・これも戦争の爪痕と言えるだろう。カルマと表現してもいい。
平和教育のトラウマ依存脱却こそ、社会が世代を超えた戦争の傷を癒していく過程に不可欠かもしれない。
戦争の傷は、癒えた方が平和の運気を増やす。受け継ぐべきは、傷(トラウマ・カルマ)ではない。
被爆者やその身内が想像を絶する大変な思いをしてきたのは事実だが、大変なのはそこだけじゃない。依存するがゆえに手放せず抱え込んだトラウマが視野を狭め、「伝えるべき事実」を取りこぼしている感。
感情的ともいえる「核兵器被害のグロ追及志向」は、より考えるべき肝心な事に焦点が当たっていない。それ自体が危険な事だと思う。
人は恐怖や嫌悪感などで強いショックを感じると、思考力や判断力が低下する。その後もショックを感じた物事についての思考を無意識に避ける。
即ち、「考える力」が抑制されてしまう。これはトラウマ患者にも通じる。よって行き過ぎたトラウマ型平和教育は逆効果。
もう一つ忘れてはならないのは、長年続けられてきた核兵器の悲惨でグロテスクな恐怖(のトラウマ)にのみ焦点を当てて訴える平和教育のやり方は、核兵器の力をアピールすることにもなっていることだ。そして、被爆者のトラウマを受け継がせる形で(殊更人の恐怖心や嫌悪感を刺激する手段を追求する形で)核の危険な威力をアピールする事は、「そんな恐ろしい兵器を保有している国家の力」を宣伝することにもなっている。これこそまさに当時の米国が原爆投下で狙った戦略的効果だ。「平和教育」の名目で核被害のグロテスクな恐怖を強調することで、その戦略的思惑にまんまとハマってしまっている。いい宣伝役になっている。抜け出そう。
良かれと思って行う平和教育が「核保有国の力を宣伝するためのグロテスクな見せしめ」として機能しないよう注意する必要がある。
人の手には大きすぎる力の危険な効果をアピールすることは、サウロンの指輪のようにある種の者達を惹きつけてしまう。
人は条件がそろえば、「危険なほど大きな力」に関心を抱いたり惹きつけられたりすることがある。だから核は未だ無くならない。
その条件とは? さあみんなで考えよう(←懐!w と思った人は同世代)。
◆衝撃による思考力低下を利用されるな
そのことも踏まえて昨今の流れを考えてみると、我が国長年の傾向として、核兵器被害の衝撃的なグロテスクさを訴える事(トラウマ継承)に終始して先述した肝心なことに焦点を当てず注意を向けさせず考えさせない傾向は、図らずも非常に政治的で危険な使われ方をしていく可能性を感じる。
(自国を核攻撃した国の核に依存している)日本社会が今までのようなトラウマ依存型平和教育を続けて「考える力」が抑制される傾向のまま、近年目立ち始めた右派(宗教右派含む)が日本社会に自国の核武装論を広めようとする流れ(例➀,➁)が既に存在している意味・・・
感情論ばかりで考える力が抑制されたままだと、人は簡単に流され煽動される。日本では、「戦え勝つぞ日本は正義!」と熱心に戦中プロパガンダを信奉していた人(プロパガンダによる洗脳で考える力が抑制された人)が戦後になったとたんに「あの戦争は最初から全部間違い!」とそれまでとは真逆の戦後プロパガンダをすんなり信じている事例がいくらでもあった。同じようなことが(宗教)右派の広める日本核武装論というプロパガンダでも起きない保証はない。何しろ皮肉にも平和教育で「核保有している国家の力」を無意識下に刷り込まれている可能性があるから。
例えそれが危険であっても、人々や国家が大きな力を所有したくなったり依存したくなる(ように仕向ける)のは、どんな時か・・・
先述の「肝心な事」に加え、それらについても日本人は自らの「考える力」を使って考えてみて欲しい。
そろそろ「単なるトラウマの継承」から一歩進んでいい頃だ。平和を思うなら、ショッキングな方法で「考える力」を封じる方向ではなく、活用する方向にシフトしていいはずだ。多角的に平和を考える能力をいつまでもトラウマによるショックで封じ続けない方がいい。
トラウマを負った当事者は「どんなに酷かったか後世に残したい」気持ちが強いのは分かる。どんなにつらい思いをしたのか、どんなに酷いものを見たのかを打ち明けたい被爆者達を思いやる心はあって然るべきだが、グロ耐性は個人差が大きいのでグロに訴えるやり方は逆効果な事も。
核廃絶を願うなら、「核兵器はショッキングでグロテスクな悲劇を起こすからやめましょう」以外の理由や根拠もあっていいはずだ。
2025.8.6追記
被爆80年を迎えるこの夏に広島で体感した衝撃、「核武装」を肯定する参政党候補者が参院選で25万票も集めるとは
トラウマに根拠を依存しがちな感情的な反対意見ではもはや説得力が十分に保てない。
中国脅威論を根拠にした日本核武装論の静かな広がりは、それを暗示しているように思える。
核武装論に対する反証可能な、感情論以外の説得力ある根拠が必要な時代になった。
その根拠、地政学ド素人の占い師でも少し考えれば多少は提示できるものがある。
例えば中国と日本が核を撃ち合った場合、間違いなく日本が先に滅ぶ。国土面積と人口の差を見れば歴然。しかも日中は近すぎて先方から極超音速で飛んでくるミサイルを日本側は打ち落とす時間が足りない。対して国土の広い中国側にはある。なので対中国を根拠に日本が核武装してもお税金喰うだけで強みにはならない(国内で核実験できる広大な場所もない)。核の撃ち合いで勝てる相手はせいぜい北朝鮮。
だからこそ国土が広く距離も日本より離れた米の核に依存しアメポチしてきた(そこはもっと対等になっていいと思う)。もはや対米従属利権を維持するために中国脅威論が使われるフシさえある。
日本核武装論に対しては感情的にならずこの程度の反証はして欲しい。なぜ多くの核保有国は国土が広大なのか。何で宗教右派(多極派の別動隊。一部はイスラエルとも密接)が日本を核武装させたいのか、誰得か。その背景を考えてみて欲しい。
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平和教育で抜けているのは「大きな枠組みを考える」ことだろうと思いますよね。
大きな枠組みに目を向けさせないようにする
https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2020/11/13/002402
そうなると、最終的には平和教育は破綻する。
考えて「天皇・反戦・反省」とかの矛盾に気づかれるのが、明治帝政・戦後日本の欺瞞に気づくのと同じだから。
投稿: 遍照飛龍 | 2025年8月 6日 (水) 08時49分
>遍照飛龍さん
>大きな枠組み
まさにちゃぶ台返しを辞さないその視点が必要だと思います。
大きな枠組みを考える(抽象度の高い思考をする)には、多角的・俯瞰的な広い視野が必要で、そのような視野に立つこと、その視野に立って考える(時に生徒間で意見発表や議論をする)ことを学習させなければ平和教育はいずれ機能しなくなるでしょう。
生徒達がその視野を得るには「現場にいた戦災当事者の視点」から得られる情報だけでは不十分なんですが、お題目のようにそこだけを繰り返す現状。
(激務を抱える)現場の教育者自身が大きな枠組みを意識できず(抽象度の高い思考をせず)ロボット的なお役所仕事をするだけで精一杯で自らと生徒の「考える力」を封じているに等しい有様は、もはや教育の態をなさない・・・
投稿: AYA | 2025年8月 6日 (水) 19時40分