「君たちはどう生きるか」~巨匠の呪術~
※ひとまず見たその日にその場で抱いた感想を走り書きしておく。公開初日は内容に対するネタバレや先入観の流布をできるだけ防ぎたいので後ほど断続的に加筆・更新予定。
→16日より断続的に内容の加筆・更新開始。「ネタバレ注意!」の警告を見落とさないように!
◆第一印象
(作品の印象を有志が一枚の絵にした)←これで内容を理解できた人は異能者w タロットの「塔」が解釈の参考になるだろう。
夢判断やユング心理学、タロットにも通じるシンボリズムや比喩・暗喩、ほのめかしに満ちた演出&表現ですぐ意味が分かる人ばかりではない(私含め)。
よく言えば「神秘的で謎めいている」だし、悪く言えば「支離滅裂・意味不明」と評する人もいるだろう。夜見る夢と同じと思えばいい。
とにかく作品に含まれている情報量が多い。ダブルミーニングやトリプルミーニング、多義的・多元的な照応すら描かれていると思う。一度見ただけでは把握し切れない。
そこで好き嫌いが分かれるかもしれないが、絵柄や風景は相変わらず美しい。
米津玄師の主題歌「地球儀」も美しくて良い。前作「風立ちぬ」を受けての歌詞と作品であることがよく分かる。
◆巨匠の仕掛けた呪術
何故こんな表現方法の作品になったのかというと、恐らくこの作品は、「見た人々の表層意識ではなく、潜在意識(無意識)に呼びかけ働きかけることを目的にした作品」だからではないかと妄想した。大勢の無意識に呼びかけ働きかけるとは即ち、人々の集合無意識に対して呼びかけ働きかけるという事でもある。それは呪術だ。宣伝を行わないことで人々は偏見や先入観や思い込み、噂などの余計な雑念・雑音抜きにひとまず見たものを見たままにいったん受け取る。すると作品から発信された情報はまず人々の表層意識(理解)を素通りし無意識下、集合無意識下にしまわれていく。そして後になって人知れず徐々に機能してくる。
「世界の宮崎監督」の新作ともなれば、そのような現象はいずれグローバルな規模に拡大していく。何とも壮大な呪術だ。
公開日が黒船来航の日(日本が帝国主義に染まるきっかけを作った日)と被ってるのは偶然か? 下の世界に浮かぶ石は、海底から見上げた黒船の船底にも似ている。
占星術的には「20世紀前半のカルマが(解消のために・かつては選べなかった別の選択をし直すために)再現されている時代」と言われている今この時代だからこそ、こういう作品が宮崎監督に降りて来たのだろうと思う。
もしも宮崎監督自身が公開初日に「カヘッカヘッカヘッ」という不可解なツイートをジブリに指示したのであれば、それも呪術の一部だろう。見た人は分かるがあの鳥はそんな鳴き声を出さない。にもかかわらず・・・
(見た当日思いつく限りだが、『カヘッ』は『貨幣』?)←詳しくは後日
宮崎監督、新作の呪術を通して人々にこのブログでもおなじみの「考える力」をつけさせたいのではないかという印象もある。自作品の解釈はもとより、1930年代に覇権主義・帝国主義・カルト的思想に染まって人々の「考える力」(近代自我発達に不可欠)が抑圧されていった時代の日本において、あえて子供達の「考える力」を養うために書かれた同名の児童文学作品にも人々の注意を向けさせているからだ。
ゆえにこの作品は、すんなり分からなくてもいい。自ら色々考えること自体に価値がある。
(理解出来なくても無意識が反応して涙が出た人や妙に昔の記憶が甦るようになる人がいるかもしれないが、心配しないで)
また、この作品の構想が練られた時期は野田サトルの「ゴールデンカムイ」が連載されていた時期と一致する。ゴールデンカムイとこの作品と元ネタの同名作品、描かれているテーマが一部だが共通するのは気のせいか?
20世紀前半の運気が焼き直されているのなら、当時の同名作品と同じ役割を持つ作品が現れてもおかしくはないし、人々の無意識が集合無意識でつながっているのなら、共通するテーマを持ったインスピレーションが同時代のクリエイター達に降りてきてもおかしなことではないのかもしれない。
以下、ネタバレ注意 ❗
◆第一解釈
ナウシカやラピュタの世界観と共通するある種の「悪意」を抱えた世界の中で母親を亡くした少年が、「君たちはどう生きるか」を通して永久に失われたと思い込んでいた母の愛に再会して癒されることで、自分の中にも(誰の中にも)存在する「悪意」を自覚し向き合い、かつて選んだ悪意とは異なる選択をし直し、世界を取り巻く悪意と共鳴することをやめて再出発する物語をミステリアスな象徴やメタファーに満ちた美しく幻想的な手法で描いた作品。
◆あくまで個人の解釈例その①:「悪意」と「石」
大叔父は現世の日本で西洋文明(当時は異世界文明に等しい)に触れて明治以降の時代運気(近代日本の世界)を作った。その象徴が(西洋文明を取り入れ、日本人だが西洋風の顔になった)彼の作った「世界」であり「塔」であろう。彼の作る世界はどれも互いに照応しているので、塔は現世にも下の世界にもある。時代運気が作られた時に下の世界も誕生し、互いが互いを象徴する照応関係になっている。つまり両者は次元が違うだけで同じものだ。次元の違いが扉で表現されている。扉の向こうは死後の世界にして命が生まれる前の世界(中間世)でもある。運気が現世の時空に現象化する前と後の世界とも言える。そういうもの自体は運気と時空が存在している頃から宇宙に存在しているが、明治維新後に大叔父が新規作成したものは、現象化させる運気に悪意があるため、良い運勢を作らなかった。
その世界(塔)の基礎たる石(=遺志)は、「物心問わず多様な飢えを動機と原動力にして育った多様な悪意(物事を力ずくで支配・所有・簒奪せんとするパワーゲームの発想を含む。一例はインコ達が象徴する帝国主義や覇権主義)」を含有し、そんな悪意を含んだ石(遺志)で作られた世界が必然的に持つアンバランスな矛盾と自己破壊性が世界(塔)を崩壊させた。なので、飢えと悪意を含有する遺志の世界(塔)を構築した大叔父がその世界(塔)の崩壊前夜に放つ「豊かな世界を作ってくれ」というメッセージは深い。
大叔父が作った世界の基礎(=積み木)の素材となった上空に浮かぶ赤黒い熾火のような石(=遺志)は、「天空の城ラピュタ」で空に浮かぶラピュタが持つ黒い基底部の材質や漫画版ナウシカの「墓」の材質と同じものだろう。そんな遺志を遺した存在が「墓の主」だ。あの墓は遺構としてのラピュタ基底部やナウシカの「墓所」と同じものを表している。墓の主は漫画版ナウシカに出てくる「墓所の主」とほぼ同じような存在だと思う。現世では明治維新に地球外から飛来して落ちてきたアレ(熾火のような赤黒い楕円形の物体?)の中にいたのだろう。残留思念か?。そして墓の主は発見者の大叔父と契約して力を与え、彼に自らの遺志を用いた新しい世界(時代運気)を構築させた。
作中でアレはいわばモノリスのような役割で、一義的には黒船の象徴でもある。黒船をきっかけに日本へ大量に入って来た西洋文明(帝国主義含む)が大叔父にとってのモノリスだったのかもしれない(作品公開日7月14日は黒船来航記念日)。だがそれは、当時から既に墓石(過去の遺物)と化していた。
さながら、自らの悪意で滅んだ異星の船が地球に漂着し、地球人に異星のカルマを帯びた文明開化を促したようなもの。
アレが落ちてから大叔父が作った明治以降の時代運気には、墓の主(アレの主)の悪意を含有する遺志(=石)が使われていた、というわけだ。だから飢えと奪い合いに起因する帝国主義の時代だった。アレは遺志の宿る墓石だったのだろう。現世で時代運気を作り終えた大叔父は現世から(死後の世界でもある)下の世界に拠点を移したわけだ。
終盤で大叔父が主人公に「私が見つけた13個の悪意に染まっていない石で平和な世界を作ってくれ」と伝えると、主人公が「悪意は自分の中にもあるからその資格はない。元の世界に戻る。」と答えるシーンは漫画版ナウシカの「墓の主との問答」を連想させる。
「飢えが育てたパワーゲーム的悪意の石(遺志)」で大叔父が作った世界の一つ「下の世界」には食べ物(魚=金運や豊穣の象徴)が少なく飢えやすい。ゆえにペリカン達はワラワラを捕食することで飢えをしのぐはめに。
主人公の母親「ヒミ」もそんな世界にいて、彼女が火を巧みに操りワラワラを捕食するペリカンと戦う様子は、彼女の一族が軍需産業で繁栄していることを示しているように見えた(恐らく父親は一族が選んだ事業に有能な入り婿)。五行思想だと火(火気)は軍事や権力、即ち「パワー」を表す。彼女の操る火も同じものと個人的に解釈した。同時に、ヒミはかの有名な邪馬台国(ヤマト国と読む説あり)の女王卑弥呼の暗喩ではなかろうか?
古今東西、パワーを用いた戦い(=パワーゲーム)は、敵を倒すだけではなく守るべき者達の命も巻き添えにしてしまう。それは大叔父の作った下の世界も同じで、彼女も火(パワー)を使ってワラワラを巻き込んで犠牲にしながら戦うことでしか(パワーゲームでしか)ワラワラを守る術を持たない。これは「ナウシカ」のクシャナや「もののけ姫」のエボシに通じる(久子も夏子も、顔がエボシそっくり)。
言い換えれば、大叔父の作った世界は下の世界も現世も「子孫を守るためには子孫を犠牲にする方法しか存在しないパワーゲームの世界」であり、そのアンバランスな矛盾と自己破壊性を抱えた世界だったというわけだ。丁度現世も帝国主義が関与した戦争中でヒミvsペリカン戦のような有様だったのは言うまでもない。現世は、下の世界の様子が反映される現世(うつしよ)なのだろう。
アンバランスな矛盾と自己破壊性を抱えたパワーゲームの頂点を目指していたインコ大王が大叔父の作った世界にとどめを刺したのは何とも皮肉な必然だ。インコ大王は帝国主義に染まった大日本帝国の象徴でもあるだろう。80年近く前、自らも帝国主義に染まった日本は(帝国主義の総本山たる大英帝国からの)インド独立を支援しつつ自らも崩壊していくことで世界的にも帝国主義が優勢だった従来の時代運気を崩壊させた。ある意味自爆テロ。
飢えと争いが基礎を形作る世界の中、時にペリカンに命奪われるワラワラ達もまた、魚の命を食べて将来の誕生力を養っている。魚(金運・豊穣)は、「生かされていない」のだ。もしも魚(金運・豊穣)を真の意味で生かすことができる世界であれば、飢えは解消されていただろうし、ワラワラは捕食されていないし、火気を使った戦い(パワーゲーム)で犠牲が生まれることもないだろう。だが大叔父が作った世界は魚を生かす仕組みを持たず、豊かな世界を作ることは出来なかった。魚は消費されるだけで生かされず、数を増やせなかった。
結局、ペリカン達の飢えは大叔父の作った「魚の少ない世界(塔)」が崩壊した時その身が現世に押し出されたことで解決したようだ。当初はワラワラを食べるペリカンを「悪」と見なしていた眞人は、ペリカン達の事情を知りペリカンの視点に立って考える経験をした後、「飢えたペリカンと捕食されるワラワラ」の双方に心痛めるようになっていた。そんな主人公は魚の少ない世界(塔)の崩壊により現世にまろび出たペリカン達を見て、「よかった」と安心している。即ち、大叔父の作った世界(塔)が崩壊して以降の現世は、「魚(金運・豊穣)が少ない世界」ではなくなる模様だ。恐らく、魚が生かされ数を増やす世界になっている。というのも、塔の崩壊した現世で大量発生する鳥のフン。あれは魚の餌にして肥料の素材でもあるのだ。魚と鳥の間に豊かさをもたらす調和した循環が生まれる暗示だ。あのフンにはその後の世界と主人公一家の行く末をほのめかした描写だと思う。そして我々の未来をも暗示している。
(魚を真に生かすのに魚のフンだけでは不十分で、魚を食べた者のフンも要る)
調和した循環(好循環)の欠乏こそが創造性を欠乏させ、飢えを招く。
※主人公の悪意と癒し
また、主人公は転校初日に地元の子供達とケンカをした時、(事業者としては有能だがデリカシーが微妙な)父親の反応と行動を全て見越した上で自ら「石」をふるいあの言動をした感。彼がふるったその石は、叔父が下の世界構築の基礎に用い、墓の主が遺した悪意と同じものだ。彼もまた、愛に飢えたことを動機と原動力に育てた悪意で自分のケガを心配し憤慨し学校に圧力をかけるであろう父親を操り、己を拒絶した小さな社会にチートなパワーゲームを仕掛けたのだ。しかしその後、下の世界で母親の愛情を象徴する滋養に満ちたパンを食べて(母の愛を自覚・
統合して)パワーゲーム(悪意)の動機と原動力だった飢えは癒された。
パンと同じ意味を持つ現世での照応アイテムは言うまでもなく母親が主人公に遺した児童文学「君たちはどう生きるか」だ。
飢えが癒えた主人公はかつて己の飢えが生んだ自分自身の悪意と向き合い、愛に飢えてパワーゲームを選んでいた時には選べなかった別の選択「友達を作ること」を選ぶ。友情は、心の飢えとは両立しなかったようだ。
ここで、彼の内なる世界において、飢えと悪意を基礎にした世界(塔)は崩壊した。永久に失ったかに思えた母の愛は主人公の中で甦り、本を通して成長という名の血肉となり、彼と共に生き続けるだろう(このブログ的解釈:地母神復活とも照応?)。
(もしこの作品が主人公を宮崎駿監督の代役とする自伝的側面があるなら、幼い頃母の愛に飢えていた彼自身にも同じ癒しが起きている可能性がある。もしその場合、母の愛に飢えた子供時代で時間を止めていた心の一部が成長を再開するのでアニマ(理想の女性像)の年齢も子供時代より上がると思う。即ち、ロリコンじゃなくなるし、彼のアニマ象は『母性を宿す少女の姿』ではなくなる)
◆あくまで個人的解釈その②:主人公と夏子
主人公がアオサギに誘われ、カエルが押し寄せてくる夢を見た時に夏子が現れて鏑矢を射る。鏑矢は「事始めの厄除けと開運」を意味する(※)。夏子はあの時点でこれから主人公の身に起きる冒険とその理由を予見し、密かに応援していたのではないだろうか。
もしその場合、彼女は出産を終えるまで下の世界から現世に帰りたくない反面、いずれ自分を連れ戻しに来る彼の冒険を予見し、その身を案じてもいた感。自分が望まぬ行動をする彼を応援するのはなぜか。産むまで帰りたくない気持ちと主人公を案じる気持ちが複雑に葛藤していたと思う。
夏子が現世に帰りたがらず下の世界で出産したがったのは、大叔父の作った世界=近代日本の時代運気(悪意を含有するがゆえに自分達の一族を有利に繁栄させてくれる運気だが、もう長くない)に依存し強く執着する思いの表れではないかと思う。彼女が下の世界の産屋に守られて出産したい理由は、不安定な情勢下で出産・育児する不安から今まで一族を下支えしてくれていた時代運気に少しでも多くすがりたい、生まれて来る子供に少しでも多く運気の恩恵を浴びさせて時代運気(=大叔父の作った世界)の後を継がせたいからか(インコ達と利害一致)。それを邪魔されたくなかったので産屋で自分を連れ戻しに来た主人公に対する拒絶と、危険な産屋からすぐに離れて欲しい気持ちの両方が「大嫌い」と言わせたか。
主人公は「大嫌い」にも引き下がらず、産屋の式神に襲われながらも引き下がらず、夏子に「帰ろう」と訴え続ける。その様子から彼は叔母の自分を「守るべき大切な家族」と認識していることに気付き、またヒミの願いが届いたことによって夏子の心はとうとう動いた。悪意を帯びた従来運気の加護よりも、自分を守る意志を持つけなげな少年の家族愛を選んだ。
本人の望みとはいえ、悪意の石(遺志)に覆われた産屋で出産しなくて良かったと思う。生まれた子が悪意に染まりやすくなるから。
(上へ飛んでいくワラワラが『これから生まれる者達』だということは一度見ただけで不思議と分かった。主人公が手で支えてあげたワラワラこそ、彼の弟になる者ではなかったか?)
夏子がつわりで寝込んでいたとき、主人公は彼女を思いやっている。つわりが酷いと聞いて彼女を見舞った時、主人公はさりげなく部屋に置いてあったタバコを持ち去っている。恐らくそのタバコは父親の忘れ物で、父が妊婦となった妻の前で無頓着にタバコを吸っていたことを表す(80年前はままあったことらしい。現代人ほどデリカシーが発達していない時代だ)。主人公だけは「タバコの煙は妊婦と胎児によくないし、ましてやつわりが重い夏子にタバコの煙とにおいは辛かろう」と無意識にでも判断したわけだ。
主人公は母親を亡くした悲しみから、初めのうちは感情を抑圧ぎみで誰に対しても心を閉ざしていて夏子にも懐かないように見えたが、あの時点で夏子を無意識に労わっている。夏子の事を「お父さんが好きな人」と一歩引いた視点で表現していたのは、本人は産屋に来るまで夏子が好きなことを自覚していなかったからかもしれない。実際は得体のしれない塔の中や「下の世界」を躊躇なく進んでいく時点で、彼はとっくに夏子を「大切な守るべき家族」と認識している。夏子は無意識のどこかでそれを知っており、そんな彼が自分のために行う冒険を予見していたからこそ、あの時鏑矢で彼の前途を祝福したようにも見えた。それは同時に、決断を下す自分と子供の未来への厄除けと開運を祈る儀式でもあっただろう。
◆あくまで個人的解釈その③:アオサギ
アオサギは「ナウシカ」のクロトワや「もののけ姫」のジコ坊と同じ意味を持つ存在に見えた。一説ではクロトワもジコ坊も宮崎監督自身の生臭く人間臭い通俗的側面を象徴しているとのこと。どのキャラも決してきれいごとだけで生きていられる存在ではなく、事情や条件次第、又は善悪基準次第で善にも悪にもなりうる清濁併せ持つ者だ。宮崎駿は「それこそが人間」と考えているのではないかという印象は漫画版ナウシカの終盤を見た時にも感じた。そこでは、自らの悪意によって滅んだ文明の残滓である墓所の主によって作られた「善意しか持たないようにプログラムされた新人類の卵」について、周辺国からは簒奪者・侵略者として恐れられ恨まれてきたヴ王は「そんなものは人間と呼べぬ」と評した。
確かに、旧人類を滅ぼしそんな新人類の世界を作る発想こそ人類が悪意を持ちうる証だし、ある意味でその発想自体が究極の悪意かもしれない。ここは「13個の悪意に染まらぬ石で新世界を~」というくだりとつながっている感。
アオサギが「養殖魚を食べてしまうペリカン目の害鳥」であることも意味深だ。あれは飢えてワラワラの捕食者(悪)になったペリカンの親戚で、「飢え」という事情・条件次第ではアオサギもペリカンと同じことをするということ。
結局、人間は誰もが事情や条件次第でなりふり構わずどんなエグいこともしうる生き物(事例:①,②)で、アオサギ含むペリカン一族も帝国主義インコ達もそんな人間が作る社会の象徴だ。逆に、人間は事情・条件次第では大変ハートフルにもなれる。同じ人間がどちらにもなりうる。どちら寄りの運勢になるかは本人が持っている因子次第だ。
飢えに起因する問題の根にあるのは人間が持つ(生存本能が大きく作用した)生まれながらの気質ではなく、人間がなりふり構わずエグいことをする事情と条件がそろってしまうこと、そうなる運勢が発生する因子を持っていることだ。ペリカン達やアオサギもその因子を持っている。
そんな因子が作る運気の流れがどれだけ飢えと不利益と損失をもたらすかは言うまでもない。飢えて奪い合うからまた飢える悪循環が起き、豊かさは「偏る」だけで循環しないから全体量を増やさない。多元的な豊穣の好循環など夢のまた夢だ。そんな条件下では誰もがなりふり構わずエグいことをするようになりうる。ならば、そんな事情や条件がそろわない方向に、即ちそんな運勢の因子を作らないように母性=創造性=豊穣性を抑圧しない方向に運気の流れを変えていくことだ。
それに寄与する全ての物事はどんな些細な事でも開運法になる(一例)。眞人が母性愛の飢え(=創造性の飢え)を癒す冒険に出たこともまた、そんな開運法の一つだ。その結果彼は悪意(パワーゲーム)ではなく友達作りを選び、さらなる開運の因子を作った。
豊穣循環を起こす運気に欠かせない「母性(創造性・豊穣性)」が抑圧され不足している社会は、母性愛に飢えていた頃の眞人が象徴している。
巨匠の呪術は、社会に対してそういう開運を願ってのことなのだろうか。
基本的に、金運(豊穣性)が最も力を発揮する条件は、「調和」だ。金運を上げたいなら、出来る限り調和した状態や方向を選ぶこと。すると自ずと金運が好循環する方向を選ぶことになる。
ゆえに母性=創造性=豊穣性(金運)を抑圧しないようにするには、調和を抑圧しないことだ。「悪意」の世界にはその要素が欠落している。
ユダヤ密教のカバラだと調和と愛は同じ「ティファレト」に分類され、ティファレトは平和や金運も司る金星と照応する。
その視点だと、母性に宿る愛情「母性愛」とは「創造性(豊穣性)に宿る調和」だ。母性に愛が不可分なように、豊かさには調和が不可分ということでもある。愛のない母性があり得ないように、調和の無い豊かさや調和の無い創造性はあり得ない。あるとすれば偽物だ。
眞人は失われたと思っていた母性愛、即ち「豊かさ(創造性)をもたらす調和」を取り戻したということになる。これが多元的豊穣循環には不可欠なのだ。作中では眞人が母性愛を取り戻して帰還した現世で鳥(人)と魚(金運・豊かさ)の間に鳥のフン(豊かさを生かす=循環させるもの)が介在する事で調和した豊かさの循環が生まれる暗示が出ている。人が魚を生かし、魚が人を生かす調和した持続可能な循環。まさに地母神からの恵み(母性愛)だ。
◆巨匠の呪術~鏑矢の祈り~
破壊と創造は陰陽のように表裏一体で、互いに調和し連携をすることで万物の生々流転と新陳代謝を引き起こしている。生と死が表裏一体なように。そんな陰陽の片方が縮小し弱まれば、もう片方が拡大し強まってしまう。そうなればバランス(調和)が崩れてもう片方が暴走する。
破壊をもたらす「悪意」は、創造性(時に母性や豊穣性となる調和と不可分のもの)の抑圧によって生まれる。抑圧してきた創造性と調和の視点を解放すること。「いかに勝ち取るか」ではなく、「いかに調和させ循環させるか」だ。眞人はそれを学んだので交流を抑圧するパワーゲーム志向から交流を調和・循環させる「友達を作る」という発想に変わった。結局、戦いや競争(調和の抑圧)は偏りと格差を生むだけで豊かさの全体量は増えず、循環もせず、創造性(豊穣性)はない。戦いや競争だけでなく、飢え自体が既に調和の抑圧を意味する現象とも言える。創造性の抑圧は、調和(愛)の抑圧だ。調和の抑圧は多面的・全体的な広い視野の抑圧による分断的・一面的な視野から生まれるのだろう(例えば、ヒトを善人/悪人で分ける分断的・一面的な視野に陥り、一人一人が条件次第でエグいこともハートフルなこともする『清濁併せ持つ存在』と見なさず、ゆえに相手の視点で考えることも無く、単純な善悪で機械的に判断するのもその一種)。分断的・一面的な視野になってしまうと多面的・全体的な視野を失い調和の道を見つけられない。それが飢えや争いや運気の低下を招く。
まとめると、【創造性(母性・豊穣性)の抑圧⇔調和(愛)の抑圧⇔全体的な広い視野とそれに基づく活動の抑圧⇔分断的・一面的な視野とそれに基づく活動】てところか。今までの人類史は右から左へと進みがちだった【】内。今度は「の抑圧」を消して、左から右へ進んでいけばいい。眞人のように。それである程度は開運因子となる。「抑圧」が「復活」に書き換わるケースも多少はあるだろう。
この物語が象徴しているものと同じことが、(大叔父も関与した)20世紀前半のカルマを再現している現代においても起きることを願う。
飢えによる「悪意」と充足による「愛(調和)」の双方を知ったからこそ主人公がやり遂げたことは、我々にも出来る事だと思う。そのためにカルマは再現されている。
(そも、人類は技術面で既に飢えを克服している。飢えを克服できていなかった頃に調和が抑圧された状態で作られた従来の経済システムがその活用を阻んでいるとも言えるし、飢えや格差のある方が有利だし人をコントロールしやすくて好都合だと考える心飢えたパワーゲーマー達もいる?)。
巨匠が最後の作品を通して仕掛けた呪術は、我々がこれから時代運気の中で取り組む事に対する「事始めの厄除けと開運」を願う鏑矢なのかもしれない。
(多分、こういう事とも関係あると妄想。いわば『鳥と魚を循環的に生かす地母神の愛と豊かさ復活』)←カヘッ
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