漫画版ナウシカで妄想
NHKで漫画版ナウシカをもとにした歌舞伎の放送を見たけど、やっぱりナウシカ(もとい宮崎アニメ)や彼の漫画は絵の表現や映像美が魅力なのだと改めて知った。舞台化するとその要素が弱くなってしまうのは否めない。
漫画版ナウシカは小学生の時から何度も読み返している。それまで学研の教材マンガや子供向け漫画しか読んだことのなかった私が初めてそれを読んだ時、色々衝撃的すぎるわ情報処理が追い付かないわで( ゚д゚)←本当にこんな顔するしかなかった。そのショックでしばらくドはまりしていたw
歌舞伎をきっかけに改めて漫画版を思い出すと、ナウシカに出てくるいくつかの要素は別の宮崎作品にも形を変えて登場することに気が付いた。例えば崩壊した「墓」は「天空の城ラピュタ」だと「城の基底部(すごい雷兵器があって黒くて変な浮彫のある無数の巨大ブロックがいっぱい。バルスで崩壊)」として表現されてると思った。それに対し、漫画版ナウシカで崩壊しなかった「庭」はラピュタにおける「崩壊を免れた部分」に相当するか。
そして王蟲はもののけ姫だとイノシシ軍団になっている。また、もののけ姫ではシシ神が頭を失うことでやはり大海嘯みたいなことが起きる。
恐らくシシ神(命そのものとされる)はユング心理学でいうセルフのシンボルなのだろう。命が本来のあるべき自然な姿を奪われたり歪められた時に生じる大海嘯は、いわば巨大なタタリ神現象なのかもしれない。宮崎作品から影響を受けたと思しき『モアナと伝説の海』ではテ・カァと島や海を脅かす黒い影の描写がそれに当たるか。
◆漫画版ラストは本当に人類滅亡フラグ?
よくナウシカの漫画版ラストは人類滅亡フラグじゃないかと言われること多いけど、「墓」は死んでも「庭」が残ってるのでこれまでの人類が浄化された空気の中でも生きられる技術は墓崩壊後も残っている。庭のヒドラが「ナウシカが庭で吐血しないよう肺に細工した」的なことを言ってるのがヒント。つまりナウシカは、浄化が終わる前と後、両方の環境で生きられるハイブリッドになったわけだ。
この技術を(不死身のヒドラや博士達に手伝わせるなどして)腐海のタイムリミットである千年以内に人類が習得し普及させれば墓崩壊後も人類にワンチャンあると思う。 ナウシカはそのことを踏まえた上で墓と哲学問答し、ついに崩壊させていると考えれば個人的にはしっくりする。
準備されていた新人類の卵をナウシカが皆殺しにする展開が衝撃的過ぎて印象がそっちに全部持っていかれると気付きにくいチャンスでもあるw ナウシカの決断は非常に危険な賭けで、千年経っても庭の技術が全く普及しなくて人類が滅亡してしまう可能性だって十分ある。しかしナウシカは「種族が命本来の自然な姿(清濁併せ持つ姿)を捨ててしか存続できないのであれば、その時は種族に寿命が来たものとして潔く滅びを受け入れる方が自然だ(そして恐らく、種族は命本来の姿を保ったまま例え多くの犠牲を出しても浄化による環境変化に順応していく)」という考え方のようだ。それが今なお賛否両論のある過激なラストへつながる。
◆命が自然な姿を失う時
作中で登場する、「新たな人類の間に邪な心や醜い心や争いが生まれないように、脳が穏やかな感情しか持たないプログラムが施されている新人類」という概念は、もはや不自然過ぎてロボット同然だ。そこに命や魂は本当に宿るのだろうか? 人工生命の巨人兵すらそんなプログラムはされてないのに。命は、魂は、本当にそんなところに宿りたいだろうか? ヴ王曰く、「そんなものは人間と呼べぬ」。
種族の生命が本来のあるべき自然な姿を歪められ奪われてしまえば、種族そのものが巨大なタタリ神になってしまう気がする。墓所(その存在自体が旧世界文明の遺したタタリ神のようなもの)が大事に保管してきた新人類の卵の行きつく先は、無数のタタリ神だったかもしれない。
人類が繰り返す醜さも争いも凶暴さも、それが発動するには各々にそれなりの理由や原因や背景や条件がある。そこにアプローチせず一元的な狭い視野で、対症療法的な解決法を究極的に追求し続ければ確かに「予め種族そのものに細工する」という結論になるだろう。一元的な視野しか持たないそんな発想を、漫画は「一つ目がトレードマークの墓所と教団」という形で表現している。墓所や教団にサポートされて権力を成立させている土鬼王朝もまた、同じような視野だったのだろう。歴代皇帝達もまた、墓所の技術で生命本来のあるべき自然な姿を歪められ、タタリ神のようになってしまった。だから大海嘯を起こしたのかもしれない。そして最期は墓所同様、全員が自然な命とは程遠い変わり果てた姿になって死んでいる。
狭い一元的視野(一つ目)ではなく、せめて両目を使った両元的(二元対立ではなく、二元連携という意味で)な視野ぐらいは持っておきたいものだ。旧世界が滅んだのも一元的な狭い視野しか持たなかったからかもしれない(妄想)。そんな狭い視野での営みは、命本来の自然な姿を発揮できなかっただろう。
(なお、恐らく人類は三元的視野まで獲得できると思う。第三の目的な意味でw もしかするとその状態は命本来の自然な姿なのかもw)
【余談1】
今となっては、「変異した新型粘菌」による大海嘯が変異した新型ウイルスによるコロナ禍に見えてしょうがない。恐らくコロナ禍も大海嘯と似たような経緯をたどって収束するだろう。即ち、「新型の遺伝子と旧型の遺伝子の交雑による変異→弱毒化」だ。
(まさか新型コロナウイルス誕生の経緯と不自然な新型粘菌誕生の経緯まで似てないだろうな)←陰謀脳
【余談2】
オカルト脳には、漫画版に出て来る「自分達の技術を活用してくれる強い支配者と契約関係を結ぶ目がロゴになってる教団」はミニオンズっぽくもあり、宇宙人と交信して色んな技術を伝授されているとかゆう噂のある実在の「一つ目ロゴの某秘密結社」ぽいところもあるw
・・・とまれ漫画版いいよね。外伝で「その後のクロトワ」とか出ないかなw
【2021年6月追記】
余談1で書いた太字の懸念がリアリティを持ってきた; 一説によると、Covid-19は「人為的な機能獲得研究によって自然界に存在したウイルスが本来の姿とは異なる歪んだ命の姿に変えられた(ヒトに感染しやすいように改造された)」結果、それが外に漏れてパンデミックを引き起こしたと言われている・・・まさに作中にある「大海嘯の新型粘菌」そっくりだ。もともと腐海にいた粘菌を土鬼の博士達が採取・改造・培養し生物兵器として下界に解き放たれた新型粘菌だが、自然発生した腐海の生き物たちとまじりあう(交雑する)ことで暴走(タタリ)が止まった。腐海の生き物達が、助けを求める粘菌の声に呼応して自らの命を懸けて粘菌の元にやってきてその身を食べさせたから、そこから多くのDNA・RNAを吸収して自然な姿を取り戻した(自然な姿に変異した)ためだ。
繰り返されるcovid-19の変異は、自然本来の姿を封じられ歪んだ姿に改造された自分を、他の自然発生コロナウイルスと交雑することで本来の姿に戻そうと模索する本能的な活動のようにも見える。
(まさか、mRNAワクチンの影響が残り続けてしまう人の体を元に戻す場合も、同じ方法?)
コロナとインフルエンザ同時流行の謎←ヒトが持つ自然免疫のあるべき姿が歪められた?
パンデミックにまつわる奇妙な話
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以前にコメントさせて頂いたことのある者です。
この間、別記事のタロットカードNo8の力の意味を読ませて頂いてました。
命や魂が本当に宿りたいと思うか?
タロットNo8で説明されてる事だと本来のオーナー、御者、馬とが連携できれば、力づくではない本来の力(三次元的視野を含む)を発揮できるようになるのかと思いました。
投稿: サボテン | 2021年1月11日 (月) 16時20分
>サボテンさん
お久しぶりです。お元気になさっていますか?
>オーナー、御者、馬とが連携できれば、力づくではない本来の力(三次元的視野を含む)を発揮できるようになるのか
そうなんじゃないかと思います。オーナー、御者、馬の視点を併せ持つ三面的視野でその力は発揮できるかも。
一元的視野は一面的視野による二元対立を生みます。二元的視野は「両者」という異なる(相反する)視点から二面的視野で物事を見れるので相手の立場から見て考えるなど、ある程度は多角的になれます。
三面的視野はより一層多角的になり、「両者と全体(個と全)」の視点(=王蟲の視点)を併せ持ち連携させることができます。
命って、本来は視点・視野を自由自在に行き来し、水のように自由自在に姿形を変え、王蟲のように「全にして個、個にして全、時空を超えて心を伝えゆく」存在なのかもしれません。
それは「モアナと伝説の海」で描かれている事にも通じる・・・
(https://aya-uranai.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b7dd.html)
コロナ下のご時世です。ご健康でお過ごしください。
https://aya-uranai.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-65b446.html
投稿: AYA | 2021年1月14日 (木) 10時30分
お返事ありがとうございます。
個人的に色々経験しましたが、お陰さまで元気でやっています。
AYAさんもお元気でしょうか?
最近、岡本太郎の本を読んでいて、「人生、即、無条件な遊び」って書いてあり、そこに「無償の生命力の輝き」とは、何々の為に何々をする、と言ったものとは別の生命そのものを原動力とする、と言うような事が書かれていました。
>「全にして個、個にして全、時空を超えて心を伝えゆく」
と書いておられる時空を超えて伝えゆく、肝心の「心」とは、そう言う生命そのものの無条件な喜びを経験したいと言うエネルギーによって作られ、だからこそ人間の枠を超えて時空を超えていく程の力を持っているのかもしれません。
モアナと伝説の海、読ませてもらいました。
今だからこそ分かることもあり、興味深かったです。
AYAさんも、ご自愛ください。
投稿: サボテン | 2021年1月22日 (金) 17時19分
>サボテンさん
私も元気でやらせていただいております。
サボテンさんのなさったご経験がいつか糧に代わることをご健康共々勝手にお祈り申し上げます。
>「人生、即、無条件な遊び」
>生命そのものの無条件な喜びを経験したい
いいですねそれ。そういうのがクリエイティブな欲求とか創造性につながっていくんですかね。
「無条件な遊びの喜び」を動機と原動力にすれば色々楽しいアイデアも生まれそう。
そんな動機と原動力で生命活動する(=遊ぶ)生命は、この世で具体的な姿・形を持つ前から既に生命として活動してる(遊んでる)んでしょうね。無条件な遊びに創造的なアイデアが閃き、その一環で特定の姿形をとるけれど、それは一時的・便宜的なもので絶対永遠のものではない。しかしその姿形での生命活動から経験したものは姿形の寿命を終えても糧となり、無条件な遊びのアイデアの源泉を豊かにする・・・
我々は本来、生命活動という無条件な遊びを喜んでしている創造的で多次元的生命だとしたら、人生楽しくなりそうです。
またいつでも遊びに来てください。
投稿: AYA | 2021年1月24日 (日) 12時57分