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2017年8月18日 (金)

「モアナと伝説の海」で妄想

もう2か月ほど前になるが、ディズニーのアニメ「モアナと伝説の海」を見た。CGによる水の表現は秀逸。ご先祖様が出てくるシーンはどれも圧巻だ。今回の妄想は、その作品における主人公の名前「モアナ」はハワイ語で海を意味する言葉だったことでふと思いついた解釈。

あの作品の本当の主人公は、「海」自身なんじゃないかってこと。
作品の設定上、生命の源は海。よって、あの作品に出てくる女神(地母神的)を含めた全ての登場キャラ(=生命)は海自身の中にある「自分の様々な側面(個性)」を象徴している気がした。
海は女神であり心を失った女神テ・カァであり心を奪ったマウイであり劣等感の裏返しに優越感を味わおうとする(優越感を自尊心の代用とする)タマトアであり海賊であり女神の心をもとに戻したモアナでありモアナに旅立ちを促したおばあちゃんでありモアナを生み育てた両親でもあり祖先達でもある。皆が海の化身なのだ
そして海にとって、「女神が心を持っていた頃に大航海を実現していたモアナのご先祖達」は女神の心を宿していた過去の自分自身(=本当の自分)の姿とその可能性を象徴している気がした。
海は女神でもありマウイでもあるので、海は自分で自分の心を奪い隠してしまったことになる。
海は集合無意識の象徴でもある。「モアナ」という作品の主人公である海とは、我々の集合無意識のことであり我々の事かもしれないと妄想した。

私はモアナの物語に、自らハートを取り外してしまいテ・カアという黒い病に陥った海が「心を取り戻してもう一度あの頃の自分に戻ろう」と意図してモアナという少女(化身)になって自らのハートを取り戻す物語を発生させたというイメージを抱いた。海が失った「ハート」は即ち自らへの(そして全生命への)愛でもあるのだろう。

次に、マウイの視点から物語を見る。
まず、「母性」というものは、その個体が「自分の生きる喜びと可能性の自覚・実現(=幸せ)」を促進・支援する機能である。哺乳類の母性本能にせよ地母神にせよそれは同じ。
そして幼少期のマウイは母親に捨てられた時、自分に注がれる母性という愛(幸せを支援・促進する力)を失ったと誤解し、同時に「自分を生かし保護する存在に愛されず廃棄された=自分は尊くない・幸せになれない(=可能性がなくて生きる価値がない)存在」と誤解し自分自身への愛(己を生きる喜びを通しての自己肯定)を見失ってしまった。その結果母性愛を感じ取れず自分を愛せなくなったのでその代償行為として「他人から愛される行為(他者を幸せにすることで利用価値を評価される行為)」にふけり、人々から「英雄マウイ」として大勢から尊敬され愛される存在になっていった。自分の持つ能力に可能性があることや愛される喜びを知ることが出来たとき、彼はうれしかった。それが彼の知る幸せだった。
しかしある日、人々の願いを叶えてあげようとして(人々からまた愛されたくて)女神のハートを岩(女神の身体の一部)から取り外して人々にプレゼントしてしまった。それがもとで女神は溶岩の魔物テ・カァになり、島々の実り(女神からの愛の贈り物)は失われていき、海は黒い病を進行させることになった。
マウイが己への愛を失ったことを動機にした=「母性機能の抑圧」を動機にした代償行為がやがて「女神のハート(=愛)を失わせてしまう」という結果を招く(しかしそれが分かるのはラスト)。

そんなある日マウイはモアナと出会い共に旅をする。そこで敵役タマトアとの戦いに苦戦する。心に自尊心不全と劣等感(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)を抱え、その裏返しに優越感(見下せる相手がいてくれることに根拠を依存した自己肯定)を味わおうとするタマトアは「他者からの評価以外に自己肯定の根拠を持てない(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)」マウイの心の闇を象徴しているようだった。
マウイはモアナと旅していたある日、航海術を教えてやっていたモアナにこう言われた。「あなたを『マウイ』にしたのはあなた自身よ」
自分の力を皆から愛され驚嘆される『英雄マウイ』になるまで磨き活用して可能性を広げ、代償行為とは言え一応は「愛される喜び」を教えてくれたのは他人の力ではなく自分自身の努力や才能である。自分の中の生命力が自分をそんなふうにしてくれたのだ。
それは、自分自身の中に失ったはずの母性的な愛(幸せと可能性を支援・促進する力)が生きていた証ではないか。母性は、失われてなどいなかった。もう代償行為は必要ない。

そこでマウイは母に捨てられた時に失ったと思い込んでいた自分の生きる喜びと可能性を自覚し、既に実現していたことに気が付いたのだ。自分は、とっくに救われていた。
マウイはモアナの言葉を聞くことで自分自身への愛(己を生きる喜びを根拠にした自己肯定・自尊心)を自覚し、また己の中に母性愛を取り戻すことが出来た。それがきっかけでマウイもまた女神のハート(=愛)をあるべき場所へ戻す決意が固まり、一度は離れたモアナの元に戻ってモアナを支援する。
この時、マウイはそれまで自分の英雄性を釣り針に投影し依存していたが、釣り針を駆使してきた自分自身の生命力(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する力)を自覚することで釣り針依存症を乗り越えた。だから釣り針が壊れても自信を完全に失うことは無くなった。そしてこの時から、見失った母性愛の代償行為(他者から愛されること)を動機にした行動ではなく、自分自身を愛する(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する)ための行動をするようになったのだ。その行動の一つが、モアナに協力して女神のハートを戻し、世界に母性愛を復活させることだ(己の中でそうしたように)。自分の能力や釣り針の使い方が、そこで根本的に変容したと言える。

一方、モアナはマウイと離れている間、おばあちゃんの霊と交信する。そしておばあちゃんの問いかけ「自分は何者か」の答えを悟った時、一度は諦めて海に捨て去った女神のハートを海底から取り戻す。そして再会したマウイと共にそのハートをテ・カァになってしまった女神に戻す。
ラストでハートが戻った女神は本来の姿に復活し、海は黒い病からかつてのような本来の姿を取り戻し、島はかつてのような実りを取り戻し、マウイはかつてのように本来の姿となった釣り針(自由自在にいくらでも変身できる)を取り戻し、モアナ達一族はかつてのように本来の姿(ご先祖のように大航海する能力と民族性)を取り戻した。海の化身でもある皆が皆、「自分は何者か」を取り戻したのだ。
ラストのそんなシーンはどれも、海(=我々の集合無意識)自身が陥った課題とその克服を象徴するシーンじゃないかと思った。 海は、自分本来の姿を取り戻したのだ。

劇中の挿入歌

♪広い海旅した 祖先が私を呼ぶの 遠くへ旅をして分かって来た 私を呼ぶ声が聞こえる 
 心の声が呼んでいるの 波のように打ち寄せては 語りかけてくるその声が 教えてくれたの

 私はモアナ

 

モアナは、自分が「海」であることを思い出した。
モアナを呼ぶ祖先の声=モアナを呼ぶ心の声=自分本来の姿(自分は何者か)とその可能性を自覚させ実現を促す命の声(力)なのだろう。そんな命の声(力)は緑に輝く女神の心(ハート)でもあり、愛でもある。
命というものは、己のあるべき姿とその可能性を実現するように自らを促す。それが命の「声」であり、命が持つ己への愛なのだろう。
愛の源=女神のハートの源=モアナに自分は何者かを自覚させる心の声の源=モアナを呼ぶ祖先の声の源=海=モアナだ。海=モアナの命(=モアナの心・魂)と言ってもいいか。モアナはそれが自分の本性だと自覚した。
それをこのブログ風に言えば「己を開運させる魂の環境インフラ(=内なる地母神)の源」と言ってもいい。そんな「命」であり「魂」であるものを、ユングは「セルフ」と呼んだ。それが命のあるべき姿(本性)だという。そしてモアナはそんな己のあるべき姿を「私はモアナ」と自覚した。

モアナ=海が取り組んだ「己のあるべき姿を取り戻す(自覚し・実現する)冒険」とは、我々一人一人が集合無意識規模で取り組んでいるテーマでもある。あの物語は我々の物語でもあるのだ。我々の中にもやはり、『モアナ』で描かれた課題と解決(=物語)を構成する全てのキャラが存在しているのだ。
集合無意識規模のテーマは、個人規模のテーマとしても(個々人の運勢の中で)現象化することがある。我々一人一人が集合無意識を構成し、我々一人一人が「海」で「モアナ」なのだから。

追記:この作品に登場するテフティは『崖の上のポニョ』のグランマンマーレと同じものだ。『ポニョ』では厳重に保管されていた命の水が海にばら撒かれた結果、海は生命本来の可能性を爆発的に実現する。グランマンマーレはその様を見て「素敵な海ね」といった。

楽園が蘇るとき:今なら解かる。女神のハート(心)は、「楽園本能」だったのだ。楽園は、甦った。

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コメント

モアナ解説、うなずける所が多いですね。
リクエストしていいですか?
この前のアメリカ横断の皆既日食の事、解説してください。
北朝鮮ネタが絡んでいるのかな~とか妄想しております。

>たゆたうさん

始めまして。ご感想ありがとうございます。

日食の件ですが、あれは南北戦争時代に形成された米国のマ(軍産複合体や人種問題とも不可分)が何らかの形で現代に再現される暗示ではないかと見ています。

まず、日食開始地点に「リンカーンビーチ」という地名があり、日食が最後に通過する都市がサウスカロライナ州チャールストンといって南北戦争で最初に砲火が発生した街です。日食ルートも米国を南北に分断するような線を描きますね。
ちょうど日食が起きる頃から米国で白人至上主義者とそれに反対する人々の溝が深まる事件が増えてきたことも印象的でした。
アメリカのカルマとも言える人種問題や軍産複合体が抱える問題の発端となった当時の空気が再現されることで人々が「同じシチュエーションでの異なる選択」を行うようになってカルマを解消していく運気が流れていけばいいなと思います。

北朝鮮の騒動は軍産複合体による冷戦型ビジネス(米を含む軍需産業利権のある各国がプロレスのような「台本のある緊張状態」を演じることで特定国の脅威を喧伝し、それを口実に税金で色々な軍需品をや防衛システムを配備・導入したり訓練をやったりカウンターミサイル実験をするなどして利権層が甘い汁を吸う)が引き起こした茶番ではないかと妄想中です。

南北戦争やWW2やアフガン、ベトナム、中東での戦争のように利権のために本当に戦争(死人出す公共事業)をやるタイプの戦争ビジネスよりは今回の方が死人出さない分マシかもしれませんが・・・;

便乗で質問していいですか。
先生は神社本庁から神社の離反が相次いでいる事についてどう思いますか?
明治維新以来の神道界再編なのでしょうか。

>だつさん

神社本庁というのは、近代日本政府が国民を心理的にも統治するために作り上げた新興宗教「国家神道」のための政治的機関であって、それよりはるか以前から存在してきた普通の神社は政治的な理由で彼らに飲み込まれ支配されてしまった形になります。
日本の伝統文化としての「神道」と近代になって西欧に習い国民統治のための疑似キリスト教として政治的に作り上げたカルト的な宗教(廃仏毀釈もそれが背景)とはもとより相容れないものでした。

近代日本政府の開運呪術装置が破たんした昨今、国家神道の運気が衰退し支配力を失っていけば神社本庁の力も衰退し、元来の伝統文化としての神社が本来のスタンスに戻る流れは自然なことだと思います。
神道界の再編というべきか復元というべきなのかと言えば、やっぱり再編なんでしょうね。神社もニーズに合わせて江戸時代とは違うことをしていくし・・・

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