変動が浮き彫りにする経済のひずみ?
※以下に書いたことは一個人の妄想です。無知ゆえにトンチンカンな暴論になっている可能性があります。
基本的には「心の飢えが本当の飢えを招く」といった今まで書いてきたこととかぶる内容で、個人的に頭を整理するための覚書として書いたものです。
◆被災地の有様から連想したこと
九州の被災地では水龍(風水用語で、金運を司る龍脈に相当。金運や豊かさを運ぶ機能を持つもの。河川や橋、道路、線路など、物資を運べるもの全般が水龍となる)がまともに機能していないために物資(豊かさ)の流れが正常に機能しなくなった結果、食料が足りない避難所と食料が余って期限切れになったオニギリを捨てる避難所が出るなど「豊かさの偏り(格差)」が発生した(※)。
物資(豊かさ)は確かに十分存在するのに、必要な場所に必要な量が行き渡らない。これは現代経済のひずみの象徴に見える(幻覚)。
九州の地震でも、311の買い占めパニック(飢えの恐怖による奪い合いで本当に飢えを産む)同様、現代文明のひずみを象徴的に表す現象が発生したと言える(妄想)。
その社会や文明に大きく影響するほどの運気変動をもたらす災害時には、その社会やその文明が抱えている問題点が如実に表れやすいのかもしれない(今後もそのような現象が起きる可能性はある)。
現代文明は飢えの恐怖を原動力にした奪い合いの経済システムなので、需要(シェア)も供給も雇用も奪い合っている。奪い合って勝たないと豊かさが得られない。飢えてしまう。
飢えの恐怖を原動力にした奪い合いの経済システムは、「飢えないように行き渡らせる」という機能をまともに持つことが出来ない。奪い合うから行き渡らない。潜在的な豊かさは確かに存在するのに、必要な場所に必要な量が行き渡らない。
行き渡らせようにも、行き渡らせるための正常なシステムが存在しない。行き渡らないから、やっぱり奪い合いになってしまう悪循環。かくして世界の金運は滞りまともに機能しなくなってあちこちで飢えた避難所のような場所が生じる。
人類史がこの悪循環から抜け出せなかったのは、「奪い合いに勝つこと(奪って生き残ること)」を優先し行き渡らせるシステムを作るまでの余裕がなかったからだろうか。
「奪い合いにかまけなければ、そもそも飢えは発生しなかった」という事例、「行き渡る仕組みがあればそもそも飢えや格差や奪い合いは起こらなかった」という事例。この二つは、この国の龍脈変動が教えてくれた地母神にかかわるひずみなのかもしれない。
◆過去の習慣や固定観念から抜け出せてない?
人類が経済を推し進めてきた原動力はハングリー精神、即ち飢えだとしたら、飢えを原動力に依存したシステムは飢えを手放すことができない。結局、飢えに依存してるから飢えから離れられない。
かつて生産力の乏しかった時代は、「行き渡るほどの量が作れず結果的に行き渡らせる仕組みを作れず奪い合いになってしまった」という問題が確かに出やすくしかも乗り越えにくかったかもしれない。
だが今は、そんな問題はとうに解決できているほどの生産力を人類はとっくに手に入れているわけだ(むしろうっかり生産しすぎて売れずに飢えてしまうほど)。後は行き渡らせればいい。
何も昔みたいな生産力が低かった(行き渡らず飢えを抱えていた)頃の前提で文明や経済システムを考える(営む・作る)必要などとうにないのだ。新たに行き渡るシステムを作っていいし、作れる。
我々はいつまで自分達が無人島で遭難したようなひもじい状況にある(生産力が不十分で行き渡らない)と思い込んで生きていくのだろう? いつまで無人島で遭難していると思い込んでるんだろう? いつまで無人島で遭難してた頃の仕組みとルール(共食い的)を採用し続け縛られているのだろう?
目の前には自由に使える広大な畑も作物もキッチンも運搬機能も十分ある(飢えずに生きる自由な生産力と行き渡る力が十分ある)というのに、遭難し飢えてる前提でしか頭が働かないからそれらを有効活用できていないし有効活用できてないという自覚すらない(だから飢える)。まるで、長年塔に監禁されていた人が扉が開いたのに長年の癖と固定観念と異常環境への順応で状況変化が理解できずに外へ出ようとしない(外へ出てもどう生きればいいかわからない・自由な生き方を忘れた)まま塔の中で引きこもって暮らしているみたい。
生産力がなくいき渡らずひもじい環境を前提にした共食い型経済システムでは飢えの恐怖を原動力にしてしまうのも無理はない。生き残るために独占し争い共食いをするのも無理はない。独占ありきで行き渡らせる発想がなく生産力を生かせず飢えるのも無理はない。飢えをしのぎ奪い合いの戦いを有利にするために人々を大量消費(生産のための大量消費)へ促すのもあり得なくはない。
ひもじくなくなったことに気が付かない・封じられた自由な生産力と行き渡る力(=豊かさの力)に気づかず生かせず飢えを改善することができない現状。そこに目を付けた一部の者達が、自由な生産力と行き渡る力を人質にとって支配し人々を飢えの恐怖で縛り付け支配した結果、人々はぶら下がったニンジンを買うために働き続ける馬車馬にされてしまった。その馬車馬達も、ニンジンを求めぬロボットが大量生産されれば用済みだ。
◆封じられた豊かさの力を解放するには?
人類が己の中に秘められた「自由な生産力と行き渡る力」という豊かさの力(これも地母神)に気が付き人質から解放させれば、消費のための適度な生産だけで十分に行き渡るから環境への負荷も減る。強迫的な大量消費が必要なくなる。
「豊かさの力」さえ人質から解放されれば、地母神は蘇るかもしれない。行き渡るのだから独占することも奪い合うこともないわけだ。
ただし、それを実現するには生産と流通と消費のシステム(=経済システム)を誰にも支配・独占させたり人質にさせないようにしなくてはならない。人類の精神性がそこまで成熟できているかどうかがポイントだ。飢えの恐怖をそのまま転用・変換した欲望に取りつかれている(まだ飢えの恐怖に取りつかれている)ままだったり、(飢えをしのぐための奪い合い・共食いを起源とする?)弱肉強食発想から人々の大事な豊かさの力を人質にして(弱みを握って)征服欲や支配欲を満足させる衝動に取りつかれている者がいるうちは実現できない。
(BIにしたって美辞麗句で人々の豊かさを掌握し人質にとって全員を支配・隷属させるための道具にできる。権力に逆らえば文字通り生活できなくなる、という恐怖を植え付け飼いならすことも可能。結局はニンジンぶら下げられていいように使われる馬と変わらなくなる。)
◆やたら市場化せず可能なものは「自給自足」する世界の妄想
今はまだ夢のまた夢に過ぎないが、仮に生産力が人質から解放されたとある架空の文明社会を妄想してみる。まずその社会の半分を担う経済活動を書く。
その世界では、「生産活動(労働)」の半分は従来のようないわゆる貨幣経済や市場経済の世界でいう「労働」的な概念ではなくて、貨幣も市場も介在しない家事(料理)や家庭菜園での自給自足作業に近いものになると思う。生産するものが農作物とは限らないというだけだ。生産物が車や服やスマホやコンテンツやサービス、医療、社会保障支援、教育等になるかもしれない。生産物は「売るため(現行経済システムを用いて豊かさを得るため」ではなく、「行き渡らせるため(飢えによる奪い合いではなく充足のため)」に生産される。
要は国内生産可能なものを生産する活動(労働)に限り、裏庭で食べたいもの・好きなものを育てて(生産して)収穫して自分で食べるのと変わらない感覚になる(ただし、労働や作物を搾取する存在などすでにいないことが前提だが)。それだと基本的には売るためではなく行き渡らせる(充足させる)ための活動なので、利益目的で無理に生産や消費を増やす必要もない。自分達で消費できる分だけ作ってもれなく自分達で消費するだけ。生産と消費が直結。一人一人の労働量は大量に売るための強迫的な大量生産を目的にしない分負荷が低く、ワークシェアリングもしやすい。機械化・ロボット化できればなお楽だ。
大量消費・大量生産からの脱却は、環境にもいい。コスト節約のために粗悪な物を作ったり、安全よりも利益を優先するようなこともない。生産側の不祥事も減るかもしれない。
自分達が消費するものを自分達で生産するわけだから、より良いものを作ろう、可能な限り改良したり質を上げようとする意欲(可能性への好奇心)も保たれる。売るためだけ(=飢えをしのぐためだけ)に脅迫的な感じで無理やりニーズを作りどんどん新しいものを作ってすぐ流行が変わる(無理やり作ったニーズは寿命が短い)、なんて現象もなくなる。
従来の「作ったって売れなければ豊かになれない。売れるためには大衆心理を扇動したり流行という同調圧力をかけて強迫的にでも購買欲求を植え付けなければ。政府と癒着して利権も作らなければ。安く売るために少人数を安い給料で残業代なく超過労働させなければ」という回りくどい仕組みではなく、「社会全体で常に基本的なニーズのあるものを適度な量作れば自動的に行き渡りるシステムを作り、人々は自分達で生産した基本的な必需品が自動的に手に入るため、自分達の生産労働がそのまま自分達の豊かさに直結する」という感じ。
いわば、生産したものを市場経済に組み込むことなく行き渡らせる。行き渡らせるためには商店の一部が配給所になり、配給の管理にはマイナンバーを使うと便利かも。
こんな妄想世界のシステムは市場経済(父性的・男性的)に対して「充足経済」(母性的・女性的)とでも言えばいいだろうか。
これが妄想上の文明における経済活動の約半分。そしてもう半分は・・・
◆市場経済と充足経済の連携(妄想) 今まで「充足経済」の話をしたが、私の妄想文明では市場経済を完全撤廃するわけではない。国内での生産が不可能なもの、本当にニーズが出るかどうかも分からないもの、ニーズが社会全体にまで及ばず限られているもの、マニアックなもの、充足経済用に生産したが需要を上回る余剰が出来た分のもの、輸出メリットの高いものに関しては充足経済と併用する形で存続させた市場経済が分担してもいいかもしれない。
また、ニーズの怪しいマニアックなものでも、本当に良いものなら安定したニーズを作るだろう。社会が「基本的なニーズのあるもの」と判断し、充足経済に組み込まれ生産され行き渡るケースだってあるかもしれない。いずれにせよ、人間界で「新しく面白いものを生み出す創造的な意欲」は失われないだろう。また、充足経済で自給率を上げればその分貿易依存度は下がる。
余裕のある国なら市場経済を回す財源に「市場経済活動を維持と発展のため」に、小遣いが配られても面白い。小遣いを貯めて起業してもいいし、市場商品の消費に充ててもいいし、市場経済の世界で仕事を持ってもいい(占い師もこっちに分類される職業だろう)。
充足経済で営むと良さそうなものと、市場経済に投入して問題なさそうなものを分類し両システムを巧みに使い分け、使いこなす世界・・・そう、以前書いた記事(男性的世界と地母神の再会)の例えを使うなら、「オトウサンとオカアサンが力を合わせて子供達を健やかに養い育て成長させる」のだ。
要するに、生存に不可欠なものまで市場経済という一種のマネーゲームに投入しなくてもいいんじゃないかと思う。命綱までゲームに投入してしまうから飢えの恐怖を原動力にした経済の営みが生まれてしまうのではないだろうか? ゲームはあくまでゲーム。安定した生活手段にはなりえない。ゲームに生活を依存させた(=支配させた)世界で本当に豊かになれるのは、ゲームの主催者(=胴元)ぐらいなものだろう。彼らがゲームに生活を依存した者達の支配者になるのは必然だ。ライフラインを支配したんだから。
◆生産と消費の間の無駄を出来るだけ省けたら?
こう書くと私が共産主義思想(占いがNGな思想なので占い師には鬼門)を持っているという誤解を受けやすいのであまりロシアの事例を使うのは好きではないが、上記の妄想である「充足経済のある世界」はダーチャ(農地付きセカンドハウス)のある生活から着想を得た。ロシアの家族がダーチャで手分けして欲しい作物を生産し好きに料理して自分で食べるのと何も変わらない。生産可能なものに関しては、自分達で欲しいものを欲しい分だけ生産すればいい。役割分担は平等に(今の人類には多分ここが無理)。
ロシアでは、ダーチャのお蔭でソ連が崩壊し経済が破たんしてモノが買えなくなってもほとんど餓死者が出なかったという。食料を市場経済に(市場経済・現行の経済システムに組み込むことに)依存させる必要が無かったのだからそりゃそうだろう。生産と消費の間の無駄(ここに奪い合いの経済システムあり)が省かれている。モノが売り買いできなくてもそこまで飢える恐怖が無ければ社会に余裕が生まれ、飢えの恐怖を原動力にはしない。
ちなみに日本の場合、現在の農地法では農家でなければ農地が借りられない上に、農地に建築物を建てることができない。つまり現状の日本では、家庭菜園は可能だが、ダーチャは法律上、造ることができない。
これは、ひねくれた見方をすると「豊かさの力(充足の力)」を人質に取られた(独占された)有様を象徴的に体現しているようにも見えなくはない(幻覚)。
◆結論
肝心なことは、全てのシステムは主権者(ニーズを持つ者達=生産者にして消費者)によって人道的に作られ営まれ管理・所有される事。独裁や腐敗や利権、過重労働を作らせない仕組みにする事、システムを支配欲や征服欲に駆られた者に奪われない事、パワーゲームの道具にしないことである。
・・・よって、弱肉強食というパワーゲームを卒業できないまず今の人類には無理なんじゃないかな?
資本主義だろうが社会主義や共産主義だろうが世界政府だろうが、どんなシステムやイデオロギーも人類がパワーゲーム(=弱肉強食)の道具にしてしまう(むしろほぼそれしかできない)うちは何一つ成功例を出すまい。
余談: 私はその国や地域の水龍が事故や災害などで変動した場合、その国orその地域の金運に関する暗示と見なす癖があるのだが、神戸で建設中の橋げたが落ちた事故(※)はやはり水龍(金運)の変動を暗示する象徴的なものに思えた。建設中だった橋げたは「作成中の金運(実現に向けて進めている最中の経済計画や事業)」の象徴のように見えてしまった(幻覚)。
そういえば豊洲市場・・・
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