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2015年1月 9日 (金)

偽りの個性 偽りの自尊心

信じられない。また妄想が湧いた。多分今までほど頻繁には湧かないことは確かだと思うけど。
(以下に書いてあることは全て個人の妄想です)

 

ねつ造されるから強靱な「民族の伝統」

 

「伝統の発明」はスコットランドに限った話ではなく、多くの国でみられる現象である。
フランスでのフランス革命の神話、ユダヤ人にとってのイスラエル、明治期日本における神道の普及等々、国家にとって伝統を再発見し、国民を創造するのは必要不可欠なことだった。

 

 

「江戸しぐさ」道徳教科書掲載で波紋!? 研究者「政府が嘘だと気づけない能力の可能性も」 

 

「江戸しぐさ」については、公共広告機構(現・ACジャパン)で取り上げられるなど、既に公民の教科書や道徳教材に使われていますが、「商人の秘伝のルールが一般町人までマナーとして伝播していたのか」「喫煙禁止という張り紙が江戸時代にあったのか」といったさまざまな疑問点があり、その実在を示す史料の存在が確認されていません。
『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書)の著者で文明史研究家の原田実氏は、この件について下記のようにツイートしています。
「文部科学省が教材に「江戸しぐさ」を採用している件について政府が嘘も方便と国民を騙す姿勢でいることを懼れる意見があるけどもっと恐ろしいのは政府が『江戸しぐさ』が嘘だと気づかない程度の能力だという可能性の方だと思う」

◆偽りの個性
人々に「偽の伝統」に基づくプライドと価値観を植え付ける。根拠がウソならその根拠の上に構築された信念(プライドや価値観)も本当は全部ウソである。まさに砂上の楼閣。タロットで言うなら「塔」。
これ、要するに「自己欺瞞で捏造した偽の個性やステイタス等を根拠にした偽の自尊心にすがっているだけで、本当の自分自身はちっとも愛せないし、本当の自分なんかちっとも知らない・分からない」ということと全く同じである。偽の伝統を基礎に構築された愛国心など、しょせんはご都合主義の偽物だ。
ご都合主義の愛国心は「本当の日本自身はちっとも愛せないし、本当の日本なんか知らない・分からない・興味ない」主張するのと何ら変わらない。

自己欺瞞的な根拠に依存して構築した自尊心というのは、つまり「私はコンプレックスの塊です」と周囲にアピールしているのと同じようなものだろう。例えが非常に悪いのだけど、実はヅラの人が「私はハゲてない。本当の私はフサフサなのだがそれを妬む者から標的にされぬよう、醜い仮の姿で生まれたのだ」と自己暗示にかけ、その自己欺瞞的暗示を根拠にハゲてる人に対して優越感を持つことで自尊心を保っているようなもの。
「私達だけが神から選ばれた」とか、「我が国は正義のヒーロー」「我が国だけが正当なカリフの国」「我々こそが神の教えを正しく守り実践する崇高な者」「私達が一番優れている」といった類の自己欺瞞に依存した愛国心(プライド)もまた、その構造と何一つ変わらない。
(この国は捏造などするまでもなく、独自の個性ある伝統文化を持っているはずだ。あえてそちらには目を向けさせず、捏造した伝統文化をもてはやし本当の歴史を葬るかのように上書きしようとするのはなぜ?)

一人一人の命や魂の中に、世界でたった一つの素敵な個性とそれが秘めた可能性がある。それらが集まって国や民族が出来、その個性と可能性が形成されていく。
一人一人が例えささやかでも自分にしか味わえない喜びや楽しみを持ち、そこから己の個性と可能性に目覚めていき、それを根拠に自然で健康的な自尊心を発達させていける国民の少ない国は、国家としての自尊心もどこか不自然な根拠(偽の根拠)にすがっていたりするケースが多いかもしれない(妄想)。
捏造された伝統とそれに基づくナショナリズムを刷り込まれ洗脳・強要されて行く有様は、まるで海外で発明されたフルーツ味やチーズ味の「ご当地SUSHI」を「これぞ日本の伝統食文化! これぞクールジャパン! 日本の誇り!」とか言う論調に同意しろと迫られるようなものだ。 海原雄山が発狂しかねない。
「偽の伝統」をでっち上げて政治的に利用する手口。見方によってはその国本来の文化や個性に対する侮辱になさえなりうる。

◆偽りの自尊心
偽の個性を根拠にした偽の自尊心にすがっているということは、己の持つ本当の個性と可能性を知らない(認めていない)証拠だ。
自分本来の個性と可能性(=独自性)を追いやって押し付けられた偽りの伝統(偽りの個性)を受け入れていくことは、自分の独自性から目を背け否定することでもある。即ち自己否定だ。自己否定により自分の独自性に基づく自尊心を持てない者は、無意識下の自己否定感に苛まれたり、場合によっては他者を見下すことで偽りの自尊心(=偽りの自己肯定)にすがるケースもある。
そんなとても不安定な偽りの自尊心モドキ、個性モドキは、それらへの批判、ないし侮辱や嘲笑に対して非常に弱い。すぐに無意識下の自己否定感が呼び起こされてしまうので、ちょっとしたことで自分が個人攻撃を受けたような感情的反応が起きやすい。
ユダヤの選民思想や欧米の白人至上主義、アーリア人至上主義、中東のイスラム過激思想・・・こういうのにハマってた人々の心理も上記のような特性があるかもしれない。私が勝手に「一神教性(一神教型)神経症)」と名付けたアレだ。
実は、欧米の伝統文化であり価値観の源とされているキリスト教だってその地域本来の土着の精神世界(本当の個性)を異端として抑圧し押しのけた上で構築された「偽の伝統」に過ぎない。欧米のみならず、実は中東もユダヤ人も元々は多神教だった(欧米の無神論主義は自分達の精神世界を抹殺したものへの反発=やはりキリスト教由来の価値観なのかもしれない)。
日本もまたキリスト教を模して捏造された偽の伝統「国家神道」がキリスト教と同じような影響を及ぼしている。あの症状を抱えてる地域には、歴史背景にも共通点を持っている(『◆個性の侵略と抑圧による神経症を治すとき』を参照)。
(新しく作られた偽の伝統を英訳すると、奇しくも『ネオコン』になる。いつになく日本へも影響力を及ぼしつつあるアレだ)

◆同じ苦しみを持つ者同士
あの神経症はイデオロギーや宗教という手段では解決出来ないものだ。むしろそういうのに逃げて誤魔化すと悪化する。誤魔化して一時的に苦しみを誤魔化せても原因は解決しないから、尚更救いを求めてどんどん狂信的・急進的になる。一種の中毒だ。
同じ症状を持つ者同士、即ち「本当の個性と自尊心を見失って発揮できない鬱屈」という同じ苦しみを持つ者同士が根本解決のために連携してみてはどうだろう? あの苦しみが若者達を衝動的なテロや過激派への傾倒に誘っている印象もある(一例)。
こういったタイプの連携は、文化圏を問わず潜在的に似たような問題を抱えている各地で行っていいと思う。一種のグループカウンセリング的な感じ。場合によっては、現ローマ法王が試みようとしていることも、それに近い気がしなくもない(妄想)。

◆フランスのテロから妄想
フランスで起きた新聞社襲撃テロは犯人の方に今回の記事で書いたテーマが背景になっている部分が感じられなくもないが、よく考えると問題はそれだけじゃない気がした(1.14記:これとか見るとね→)。
無神論主義の新聞社が出してた風刺画は、イスラム教に対して風刺やジョークという言い訳を使い(自分達が信念とする無神論とは異質の価値観を嫌う)新聞社側や(以前からイスラム系移民を嫌っていた)大衆の鬱憤をぶつけ見下すことで憂さ晴らしする一面も無意識下にはあった気がする()。その憂さ晴らしに対して、テロという異常手段でなくても風刺した相手側から何らかの批判や非難が起きればどのみち『言論の自由への挑戦だ!』と論点をすり替え自分だけが被害者であるかのように振舞っていた印象。
丁度、大津いじめ自殺事件で『正義の社会的制裁』」『自分は社会にはびこる悪と戦う崇高な戦士だ』と自己欺瞞的な陶酔に浸りながら事件と無関係な同姓同名の人達にまで迷惑行為や嫌がらせを繰り返していた人々とさして変わらない気がする。日本の彼ら同様、フランスの彼らもまた、『(ペンで戦う)崇高な戦士』という偽の個性に基づく偽の自尊心に酔っていたのか。だとすれば、自分達こそ崇高な聖戦士だと思ってるイスラム過激派のテロリストと同じだ。やっこさん達と部分的に波長が合ったことも事件を招いた一因では? とオカルト妄想した。

あのテロの背景にある問題は「言論の自由」ではない。恐らく、会社側とテロリスト双方に共通する「侮辱やヘイト(or憂さ晴らし)を正当化するために捏造した偽の個性とそれで作った偽の自尊心」にある。何でそこまでして侮辱やヘイト(or憂さ晴らし)をしたがるのかといえば、「世界の基準が自分と同じ価値観で統一されていない様子=自分の生きる場所が自分にとって唯一普遍の絶対真理として支持した価値観ではない異質なものに侵略されるリスクを持つ」という思考回路に陥ってしまい、「異質」が怖いのかもしれない。もしも己の価値観(信念)が自分の個性と自尊心(=アイデンティティ)の源になっている(=生き方の基盤になっている)のならなおのこと。
「異質=侵略者」という思考回路では、己の考えや意志ではない異質のものに対し自分の大事な人生とアイデンティティを侵略されるような恐怖を持つだろう(例え己の考えや意志の根拠が偽の個性と自尊心だとしても)。

そんな「被侵略恐怖症」も無理はない。だって欧州はとっくにそのような侵略をされていたのだから。大昔、欧州にとっては異民族の宗教だったキリスト教の拡大によって土着の精神世界(=本当のアイデンティティ)を侵略・抑圧された。その頃は現代の過激派にも負けない残虐行為が長い間繰り広げられていたのだ(魔女狩りとか異端審問とか)。恐らくフランス(というか欧州)の集合無意識は、その頃のトラウマと怒りを「無意識に急増を続けるイスラム移民との軋轢や狂信的な過激派」に投影・同一視し、「傷つけられた言論(自己表現)の自由」には抑圧された本当のアイデンティティを投影・同一視している?(妄想)。
土着の精神世界の抑圧。一神教が主導権を握った歴史を持つ地域ならどこでも程度の差こそあれ同じことが起きたと思う。当然、イスラム教が広まったエリアでもそれは起きていて、そういった文化圏(特に過激派の世界)ではその時から抱えた怒りとトラウマが西欧世界(特に自分達の価値観を尊重しない者達)に投影・同一視されているようだ(妄想)。

テロを受けて大規模なデモ行進をするほど強まった欧州の団結は、「抑圧された本当のアイデンティティ(=本当の個性と自尊心)を取り戻すための団結」へとシフトしていければいいのだが、いつまでも「教条的なイスラム過激派」に怒りとトラウマを投影・同一視しているだけでは単なる八つ当たり合戦になってしまう。
そんなだと、「本当の個性と自尊心を見失って発揮できない鬱屈」を抱え生き方に行き詰り救いを探している欧州や中東の若者達がイスラム過激派に引き寄せられていく有様には因果を感じてしまう。彼らの苦しみは、土着の精神世界を抑圧され偽の個性にすりかえられた集合無意識の抱える苦しみでもあると思う。同じ傷を抱える欧州とイスラム世界、八つ当たり合戦じゃなくて傷を癒すためにお互い協力してはどうだろう?

欧州vsイスラム過激派・・・どちらも一神教性神経症患者同士のケンカ(発想が十字軍の時代から変わってない)に見えるのは私の心が汚れているからか。
一神教性神経症は、宗教やイデオロギーを問わず、「自分達とは異質の価値観」を嫌う傾向がある。それらを間違ったもの・劣ったもの、潜在的侵略者候補と見なして無意識下では尊重しきれない印象。いわば「異端(異教)」に敬意し配慮することは背信行為だとか「異なる価値観(対立する敵性価値観)に屈した・しっぽを振った」と感じる(=過去のトラウマが甦る)心理が無意識下で働いてしまっている可能性も・・・?
暴力を使う狂信的なイスラム過激派は、中世の頃に異端審問や魔女狩りといった過激派も真っ青の狂信的な暴力を使って土着の個性を抹殺し勢力を拡大したキリスト教会そっくりだ。イスラム過激派見てると当時のトラウマが無意識に刺激されてつい侮辱的・感情的な形の批判をしたくなってしまうのだろうか?
また、襲われた新聞社もそれを狙ったテロリストも、「自分達の価値観(信念・信仰)を表現する=自己表現するためには何らかの攻撃対象を必要とする」という、ヘイト対象がいなければアイデンティティーが成立できない事情抱えているのかもしれない。丁度、反キリスト教を動機とする悪魔崇拝がキリスト教にある「悪魔」の概念に依存した(=ヘイトしてるはずのキリスト教に依存した)アイデンティティーを持っているのと似てる? もしそういうアイデンティティーなら、それらに基づいて作られた個性と自尊心もまた、偽りの不安定なモドキかもしれない。
なぜなら、それらは抑圧された個性を探し取り戻すことよりも、自分の個性を抑圧した者への恨みが優先されてしまっているんだもの。救いよりも復讐が優先されているのだ。

◆世界(パブリック)のなりたち
一人一人の個性を尊重する=任意の価値観や意見を押し付けることで他者やその人生を侵害しない(侵略しない)ルールが正常に機能している世界では、その世界が自分(達)の価値観や意見で統一されていなくても自分や人生が脅やかされることはない。「押し付けない(侵害・侵略しない)ルール」によって一人一人の独自性が守られているからだ。
「自分と異なる価値観の存在に自分や人生が侵害・侵略される(特定の価値観や意見を押し付けられそれに支配される)」という不安を持つ心理は、「安全のために自分の価値観によって世界を都合よく統一し支配したい(=世界を私物化したい)」という心理の裏返しだったりすることもある。(過去の被侵略トラウマなどが原因で)侵略者によって独裁的に支配・抑圧される恐怖を常に抱えている者もまた、侵略者や独裁者と同じ病を抱えていたりする。「自分にとっての異質を排除し世界を私物化しないと、世界(の中に残る異質)から侵略されてしまう」という強迫観念だ。この強迫観念により、人は自分を守ろうとして攻撃的な侵略者になるか引きこもりを選ぶ。世界を私物化するか世界ごと締め出すかだ。異質を殺すか自分が異質から逃げるか。「闘争か逃走か」の判断は紙一重で、どちらもアドレナリンという脳内物質の担当である。

多種多様な個々人(プライベート)が集まることで「世界(パブリック)」が構築され機能することを忘れてはいけない。世界(パブリック)を構築する各プライベートを尊重し合わず互いに損ない合えば、世界自体を損なってしまう。
異質への恐れと敵視が無く、異質が許され尊重される環境こそが、自分達自身を守るのだ。でなければ、皆が自分を守ろうとして世界の取り合いを始めた挙句、誰一人尊重されない危険な環境になるだけだ。
自分が尊重されてさえいれば(=抑圧されず安全で安心できていれば)、人は(自分にとっての)異質に寛容になれる。異質を尊重できる。そういう環境に生きられれば、だれも「身を守るための世界私物化」など望まない。そんな環境の世界では、「異質」は「唯一無二の個性」になる。異質を恐れ敵視するほど強いトラウマになってしまった被侵略的体験、個性を抑圧された体験・・・それが何かを突き止めた時、「異質」にトラウマを投影・同一視して恐れ敵視する症状が治まって癒しが始まる。
「世界」を創造した神は、私達だ。私達もまた、個性豊かな八百万の神々だ。

◆羊年に牡羊座の星が暗示すること?
2015年はどんな年になるだろうか。春分図というホロスコープ(占星術に用いる天体配置図)を見ると、ひつじ年の今年は何故か牡羊座に最も星が多い。中でも、ここ数年は牡羊座に居座る予定の天王星に注目した。天王星は急激な変革、革命的・先進的な有様を象徴する。今年もこの天王星が山羊座(保守・伝統・父性等を象徴)の冥王星と葛藤する角度を組んでいる。冥王星は死と再生、根源的な改革などを象徴する。
牡羊座の天王星が山羊座の冥王星と組んで暗示していることは、「捏造された伝統に基づくナショナリズムやイデオロギーが牡羊座天王星の力を発端に崩壊していき、捏造じゃなくて捏造に押しのけられてた本当の個性とその価値に目覚めていく流れ(=『伝統』の根源的改革。伝統という概念の死と再生)」じゃないかと妄想した。
「偽のアイデンティティから本当のアイデンティティへのシフトチェンジ」・・・ひつじ年の今年はそういう流れが加速しそうだ。牡羊座のテーマはずばり「I'am」だし。

実は、牡羊座が司る物事の中に「イスラエル地方(パレスチナ含む)」がある。今年はイスラエル(ここも偽の伝統にすがる国)の運気がちょっと気になる。エルサレムと長崎が「犠牲の33度」で結ばれ、なおかつ同じ神経症状を抱えた日本へも運気が飛び火する可能性がある(イスラエルは最近安倍政権と急接近中。イスラエルの現与党と安倍政権、どちらも統一教会と縁がある)。
本来の精神世界(本当の個性)から生まれた神話を抑圧し押しのけ、捏造した偽の神話を刷り込み偽のアイデンティティに洗脳する・・・そんな自己否定的、カルト的なことが牡羊座(I’am)の象徴地域では紀元前から行われていたんだろう。そしてそれは、時代と共に各地へ伝染病のように拡大していった。
そろそろ集合無意識規模でそんな慣習を変えていく時期に来ているのかもしれない。あの地で、何か新しい社会運動なり風潮なりが生まれてもおかしくはない(もしそうなったら最初は叩かれるかもしれないけど)。
偽の伝統による病を抱えたとある地域で「伝統という概念の根源的改革」という流れがもし発生したら、それはすぐに同じ神経症状を抱えた各地の運気と共鳴するだろう。その時はまた象徴的な現象が起きるのかもしれない。

 

歌詞の訳←自己肯定の手段として「周囲に認められる」ために始めた音楽。手に入った名声。しかし手に入った「周囲からの評価(外部評価)」は、しょせん周囲にとって「利用価値がある」との認識にすぎず、それは偽の個性と自尊心を作る根拠にはできても、本当の意味での自己肯定(内部評価)の代用にはならず、自分を幸せにはしなかった。即ち、その名声は、自分にとっての利用価値(生きる意義)を自分の命に見出す手段にはならなかった・・・そんなニュアンスがこの歌には微レ存? などと妄想した。

 

 

隻眼の視野 侵略者と被侵略者←抑圧された土着の精神世界と十字軍の発想について

 

フランスのテロ&デモ()と、妙に恐怖を煽るような英情報局保安部の記者会見で「過激派モンスターVS世界各国」という構図作りがさらに進んだ?

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コメント

(昔からの 心を打つ気遣いの文化)を批判する人が、とうとう出現するようになりました。
きっと、その人は戦後の誤った自虐史観教育の影響により、日本のことを卑下するほどに嫌いになっているのでしょう。

凶暴な白人の歴史、そして 嘘・偽り・騙しの中国・朝鮮の歴史を 先ずは知るべきです。
意図的に歪められた教育を丸呑みして育った人には、本当の日本人を理解することは 到底できません。
戦勝国のアメリカが、(和の心の絆社会)を壊してを日本を根本から変えてしまおうと 現憲法(占領憲法)で支配してきた結果、白人国家の価値観である個人主義が万延しました。
そのため 世代を経た今の人には、戦前までの日本人社会が(人様への心配りを大切にしてきた文化)であったことを知りません。 そんな社会は作り話しであったかのように否定してしまいます。 

聖徳太子の十七条憲法は決して古いものではありません。 昔のものだからという理由で(善し悪し)の判断をすることは間違いです。 歴史をよく学べば、日本人の社会が如何に優れた文化であったかを分かる筈です。

読みもしないで( 教育勅語 ・ 修身 )を批判するのも、野党に多いですね。
私は この秀でた美徳の教えを復活すべきだと強く思います。

>旅行けばさん

>意図的に歪められた教育を丸呑みして育った人には、本当の日本人を理解することは到底できません。

色んな意味でそう思います。
「教育制度」というものは、為政者の都合で作られてしまうのでどうしても恣意的に歪められてしまう。これはいつの時代も万国共通です。よっていつしか学校教育を軽視する風潮が生まれるのもむべなるかな。

そんな「教育制度」というものが作り上げた恣意的な「本当の日本人(皆がかくあるべきと定めた日本人像)」を絶対基準として崇拝するのもあまり日本的ではない(むしろ一神教的?)と思います。

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