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2013年11月20日 (水)

進撃のアドレナリン

※以下は太平洋戦争のベルセルク悲話の余談です。元記事を参照した上で以下をご覧になることをオススメしますが、基本的に全部根拠の無い個人の妄想です。

◆脳内麻薬アドレナリン
私達がまだヒト型ではない小さな生き物だった頃から、危機や極限状態に直面すると自分や群れを守るために恐怖や怒り、闘争本能や逃走本能などを司る脳内麻薬「アドレナリン」を分泌するようになっていた。
最近流行の漫画に「進撃の巨人」という作品がある。あの漫画が描くテーマの一つは「アドレナリン分泌」といえるかもしれない。アドレナリンが分泌される人々とそのシチュエーションを如実に描いている。闘争・怒り・逃走・恐怖・不安(不信)・勇猛(蛮勇)、興奮、断末魔、おまけにベルセルク(火事場の馬鹿力を発揮する素養のある戦士)まで描かれている。アドレナリンが流れる場所は交感神経。ちょうど巨人の急所付近だ。

あの漫画の「巨人」は、私達が小さな生き物(よく捕食されてた)だった頃から持っていた「恐怖」の視覚化なのだろう。「壁」は無意識下に潜む恐怖が顕在意識に侵入しないように(顕在意識が恐怖を感じないように)抑圧・遮断する心理的な壁か。
恐怖というものは、理性や判断力をはじめ、人々から心の自由を奪ってしまうことも多い。非常事態に直面しパニックに陥るケースはいくらでもある。他にも、過去に発生した恐怖によって心の自由を奪われることもある。

※例えば、過去に体験した強い恐怖を無関係な物事に連想、投影、同一視し無関係な物事にまで恐怖を感じてしまい、本当に怖いものが何なのかを混同してしまう例もある。その結果変な思い込み(妄想や疑心暗鬼)に惑わされたり、本来は怖くないものを恐れてパニクったり逃げ出したりと様々な形で理性や冷静さを奪い、思考・行動を歪め失敗や判断ミスを誘発するケースは多の人が経験しているだろう。これが恐怖ではなく怒り(闘争心)を無関係な物事に連想・投影・同一視してしまえば、無関係な物事への八つ当たりやケンカにだって発展しうる。あるいは過去の恐怖を連想・投影・同一視した無関係な相手対して反射的な怒りや闘争心を持ってしまうこともある(克服すべきは過去の恐怖や怒りであって相手ではない)。

◆恐怖は「敵」じゃない
恐怖にせよ怒りや闘争心にせよ、アドレナリン分泌の作用は時に巨人のような力で私達から理性や判断力や心の自由を奪ってしまう。強い恐怖は意識から締め出そうと心理的な壁を作っても崩されてしまう事だって多い。その状態はまさしく人類にとって憎らしい「天敵」であり、それにどう打ち勝つべきか苦悩し葛藤する人々の様子をあの漫画は象徴的に描いている気がする。今のところ主人公達は「恐怖」をやっつけるのに「闘争心(怒り)」で対抗しているようだ。主人公が巨人化して巨人と戦う様子は「闘争心vs恐怖」って感じがする。
私には、「恐怖」という巨人に対して、「恐怖を上回る闘争心を出して巨人をやっつけるのだ! 闘争心が出れば勇気も出るから死だって怖くない。アイツを死んでも倒す!!」という発想には少し懸念がある。恐怖と闘争心はどちらもアドレナリンの担当なのだ。即ち闘争心は恐怖心の裏返し。恐怖(アドレナリン)に闘争心(アドレナリン)で対抗したら闘争心に力を注いだ分だけ恐怖心にも力を与えてしまうことにならないか? アドレナリン出しすぎてわけが分からなくなりそうだ。

あの作品における「巨人」がもしも恐怖の象徴であるならば、彼らは「殺すべき者」ではなく、「暴走させずにうまく付き合う者(連携すべき者)」のような気がする。暴走しないで正常に作動する「恐怖」の機能は、危険を察知し身を守るための大事な生命維持装置の一つである。過去に恐ろしい事態を引き起こした原因が未だ改善されずに自分の中で放置されていることを知らせる(ふとした時に過去の恐怖体験を連想させる)ことさえある(そんな『お知らせ』をうまく扱えずに先述の※みたいな暴走事例が起きるわけだが)。
そんな命を守るために生み出された機能(=恐怖)自体を殺してしまったら、それはそれで危険だ。恐怖が問題なのではなく、恐怖を引き起こす事態や原因の方が問題なのだ。その事態や原因から目を背け封印し押し殺そうとすると(抑圧すると)、恐怖は暴走する。正常に危険信号を出しているのに無視し抹殺しようとするからだ。
そういえばあの漫画、「巨人を絶滅させてめでたしめでたし」という展開にはなりそうにない。

また、壁を作って恐怖心を意識から締め出そうとすると、却って恐怖心を強調してしまうことがある。恐怖心(ないし他のネガティブな感情)を動機や理由にした行動や思考は、そのこと事態が恐怖心を強調するのだ。
(占い依存症にもこの仕組みが働いてるケースがある)
恐怖の強調。巨人を遮断するはずだった壁の中から巨人が生まれる描写は、そういうことが表現されている気がする。

◆「アドレナリン依存症」という巨人
私達は太古から危機に際していつもアドレナリンを分泌してきた。当初は自然な生存本能としてやっていたことだったから特に問題はなかったのだろうが、理性や知性を得る頃になっても何かあるとついつい原始的な闘争心(アドレナリン)で何でも解決しようとしてしてしまい、解決できなくて問題から目を背け無かったことにしてしまおうとする。すると今度は無意識が恐怖や不安(やはりアドレナリン)という形で信号を出すが、それに対してまた原始的な闘争心(アドレナリン)使って対応するだけ。以下無限ループ。
やがてアドレナリンが必要以上に沢山出るようになって制御しきれずに心を支配され、理性や判断力を奪われてしまうケースが発生するようになった気がする。元記事の「ベルセルク暴走」はその典型例だし、戦後の左翼紛争もベクトルは違えどその一例である。残念なことに、私達はベルセルク呪術に依存し縛られ支配されてしまった頃や左翼紛争が発生していた頃、というかある意味小さな生き物だった頃からあまり進歩しておらず、今までと同じパターンにはまる可能性はまだ残っている。

例えば、不景気になると人々の無意識下では「飢えの恐怖(死の恐怖と直結)」が音も無く頭をもたげ、やがて顕在意識領域にまでじわじわと浮上してくる(時には漠然とした不安感というあいまいな形で)。それに対処するため、人々は更なる闘争心をかき立てるべくアドレナリン分泌に依存する。結果的に、闘争心用のアドレナリン分泌を促進するような刺激をもたらす様々な娯楽や共同幻想や社会運動、政治リーダーなどが発生し人気と注目を集めることになる。そういうものから刺激を受けアドレナリンを増やした人々は恐怖や不安以上に好戦的な興奮を覚え、「弱肉強食に支配された世界の中でかっこよく勝利するファンタジー」を好む傾向になり、「弱肉強食がルールという前提からの脱出」という発想には意識が向かなくなる(闘争心が強まるため)。アドレナリンは、命が弱肉強食を前提とした世界での生き残りを求めて生み出した脳内麻薬でもある。それに依存している限り、弱肉強食がルールだとする暗示から抜け出せない。

それで結果的に、古今東西で不景気な時代には過激で好戦的な思想・主義(共同幻想・ファンタジー)やそれを吹聴する者が元気になりやすいわけだ(今もそんな時代?)。しかも、ファンタジーと現実の区別をわざとあいまいにさせる。そんなもんだから不景気と戦争は相性がいい。そしてひとたび戦争となれば現実は闘争心に負けないぐらい強い恐怖を撒き散らす。その恐怖から逃れるために更に強い闘争心をかきたて(時にそれがベルセルク現象を引き起こし)、それが更なる強い恐怖を呼び、恐怖と闘争心の間で半狂乱になる。恐怖と闘争心は同じアドレナリンの担当分野。オセロの裏表だ。アドレナリンのファンタジー(闘争心による麻酔・幻想)から現実に引き戻された時のショックは大きい。そして残るのは、「好戦的な共同幻想に逃避して感情を満たすために大きすぎる犠牲を生んだ」という傷だ。
あの漫画も、不景気にあえぐ現在の集合無意識が作者にインスピレーションを与えたのだろうか?

なお、「社会不安」という辛さにアドレナリン分泌で対抗する方法は、単なる紛らわし行為でしかなく、根本解決ではない。紛らわすだけでは社会不安の原因に光が当たっていない。
時に私達の生命維持装置は、過去に恐ろしい事態を引き起こした原因が未だ改善されずに放置されたままだと、いくら紛らわしても不安や恐怖といった警告信号を送ってくる。社会不安の原因を「アドレナリン(闘争心)不足だ」と偽りの結論を出して原因と向き合うことから逃げている限り、不安や恐怖は消えない。偽りの結論に基づいて恐怖を上回る闘争心を作らせていたアドレナリン分泌が、いつ「闘争心を上回る恐怖」へとベクトルを変えるか分からない。それはそれでコワイ。
(巨人と戦う側だったキャラが巨人化するというストーリーはそこら辺と関係してそうだ)
むやみに闘争心に依存することは、それだけ「現実と向き合う・腰を据えて根本解決を探る」ことに対して臆病な証なのかもしれない。
闘争心(戦い)の生まれる動機や原因に不安や恐怖がある。それらが無くては戦えないし、戦わない。

◆恐怖の原因と向き合い対話する
元記事にも少し書いたが、私達が本当に克服すべきものは、己の中に住む「アドレナリン依存症」という見えない巨人なのだろう。アドレナリン依存症から抜け出すのに必要な力は、何かあればむやみにアドレナリン分泌(原始的闘争心)で解決する発想(知性や理性が無かった頃の名残り。一種の先祖がえり)に依存することから卒業し、恐怖の原因(問題)から目を背けずに向き合う非アドレナリン系の冷静な勇気(闘争心には属さない勇気)なのだろう。恐らくそれは、知性や理性を知らなかった太古の祖先は持っていない力だ。アドレナリン系の「勇猛(蛮勇)」とは異なるそれこそが、今の私達に必要な真の勇気なのかもしれない。というかそれはいわゆる「勇気」とは違うものなのかもしれない。「叡智」とか「聡明さ」とか、「進化」・・・あるいは真実を突き止めようとする「探求心・好奇心」というべきかも知れない。それは恐らく、勇猛とは異なる方向で死の恐怖すら越えうる可能性秘めている。

社会不安に対して大衆がアドレナリンによる紛らわし行為をした挙句ヒステリックに暴走する有様は、社会が見えない巨人に支配された状態だ。要するに見えない巨人を作り出し大暴れさせてしまっているのは、自分達自身というわけだ。つまるところ、巨人とは私達自身なのだ。
自分達が今感じている不安や恐怖という信号の発生原因に対して、冷静に光を当て、分析し、背景や原因を探る。今何故恐怖(不安)が発生したのか、それはどんな恐怖なのか、どうしてそれが怖いのか、そうなると何が一番怖いのか・・・などなど、その恐怖が生まれる背景に何があるのか。まずは原因を探るために恐怖の特徴と恐れずに向き合い、「何故その様な特徴があるのか」を問いかける。逃げないで問題の本質と向き合い解き明かそうとする姿勢を持つこと、そこに情熱を傾けることが暴走を制御するコツの一つ。アドレナリン依存症からの卒業を目指す私達に必要なことは、そういう解決発想なのだろう。
(例:買占めパニックを引き起こした恐怖について探ってみた
個人的には、多くの恐怖や不安が生まれる背景には「死の恐怖」があると見ている。不景気による社会不安も然り。死の恐怖に対して、アドレナリン系の原始的方法とは異なる方法で対処できるようになることがカギではないかと思っている。

余談:
原因と向き合う発想は、自分が過去に体験した不安や恐怖や怒りといったアドレナリン系の感情を無関係な物事に対して連想・投影・同一視し混同している可能性のある状態に陥った時も応用できる。コントロール困難な激しい感情を抱いた時には一応やってみるといい。
まず、不安や恐怖や怒りを感じている自分の心に対し、「かつても同じような感覚を味わったことが無かったかどうか」と問いかける。もしも身に覚えのある感覚であるならば、この感覚を味わった時の事を思い出す。昔何に対してそんな不安や怒りを感じたことがあったのか、それのどこが一番嫌だったのか、どうしてそれが一番嫌だったのかを思い出したら、何故その感覚が今になって無関係な別物に連想・投影されたのか。どこがどう似ていたのかを比較してみる。
すると、投影対象への恐怖が消えるので落ち着いて色んな事が分かってきたりする。本当は何を恐れ嫌がっているのか(何を愛するゆえなのか)とか、解決策も分かることが多い。割とマジで。
その謎解きは、怖いと思い込んでしまうことが多いのだけど、むしろ新たな発見を得る謎解きのワクワク感さえある。

万一の何かがあったとき、アドレナリンじゃなくてこっちを上手に使えるようになればとんでもない進化だと思う。そもそもこれ使えたら「万一の何か」を発生させうる運気(因子)が成立しないかも。

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