太平洋戦争のベルセルク悲話
※以下に書いたことは全て個人の妄想です。
超党派議員90人が靖国参拝…自民党の参加者増 首相が玉串料「不参拝をおわび」
◆共同幻想とパフォーマンス
靖国(近代国家開運の呪術装置)をパフォーマンスの道具に使う政治家達って、結局は歴史や戦死者を個人的なメリットを目的にした小手先の演出に利用しているだけでしかない。
参拝することでパフォーマンス利用する政治家と、参拝する政治家を批判することでパフォーマンス利用する政治家は、やってることが同じだ。終戦記念日にあわせてわざわざ靖国で記者会見を開く計画していた韓国の議員達(※)もそういう輩のご同類だ。
「陛下への忠誠や愛国心を持ち国のために戦い散っていった勇敢で立派な人々に感謝と敬意を表す」
というよくある発想での参拝にしたところで、当時の政権と大衆心理がおびただしい人間に共同幻想を刷り込み(時にはそんな刷り込まれた幻想に依存して)、何人も死に追いやった事実を美化し陶酔し依存しているだけにも見える。(というか、靖国自体が共同幻想の産物だし、未だその陶酔に依存して商売しないとやっていけない事情もある)
当時生きた人だけでなく、今でも何かのきっかけで過去の共同幻想にハマってしまい、しがみ付いて依存したまま抜け出せなくなるケースもあるかもしれない。当時も今も、共同幻想が分泌するアドレナリンやドーパミン(=脳内麻薬)への依存症から抜け出せていないような感じがする。
特に勇ましかったりパワフルだったりカッコよかったりする「男の子の好きな分野」はアドレナリンを出しやすいとは聞く。
(不況になると過激な右派が増えるのは、勇ましい幻想で脳内麻薬を分泌し陶酔に浸ることで現実の鬱屈を紛らわせようとする大衆心理なのかもしれない。そしてそんな大衆心理を利用しのし上がる者達もいる)
◆ベルセルク呪術の暴走
共同幻想による脳内麻薬分泌で人々を鼓舞する・・・これは初歩的な呪術の一種である。この呪術で戦士達を鼓舞し「ベルセルク」にすることもある。ベルセルクというと北欧が有名だが、大昔は割とあちこちに似たようなのがあったようだ。
ベルセルクは暗示による変性意識状態(忘我の境地)になって「火事場の馬鹿力」を出し、鬼神か野獣のように暴れ、恐怖も怪我の痛みも感じない。とても強いが敵味方の見境がない危険な存在でもあった。それで普通の兵士達とは隔離して用いていたという。扱いの難しい強力な兵器だ。
で、当時の日本(同調圧力が高い上に、多分霊媒体質が多い)は度を越した割合でベルセルク化してしまった。別の意味で護国の「鬼」になっちゃったのかもしれない。それは、理性も知性もを吹き飛ばし歯止めの利かない大規模な軍組織の暴走を生み出し、身内にも多くの犠牲を出す。呪術が制御できなくなったのだ。
(そもそも呪術を利用するはずのお偉いさん達まで呪術暗示食らってたらマトモな戦略・戦術なんぞ出せやしない。政治や外交も同様)
止まらないベルセルクの暴走は、日本が追い詰められボロボロになっていくほど手負いの獣のように先鋭化していく。軍の中では絶望的な戦況を知りながら「講和」という話がタブーになり、誰にも「無理だから戦いやめて講和しよう」とは言い出せない雰囲気であったという。最悪の場合、言ったら逮捕。
この先鋭化、アドレナリン類の分泌条件が「危機に直面したとき」だから無理もない。タダでさえアドレナリン類がだだ漏れのベルセルクをさらに興奮させる流れになってしまった。そしてとうとう「カミカゼ」までやり始めた。
この「カミカゼ」、呪術に支配され止めようもなく狂奔するベルセルクにさせられた日本自身の声なき心の悲鳴を象徴的に(歪んだ形で)表現したものでもあったようだ。
神経症状で言うなら無意識下に抑圧された心の悲鳴が自傷行為という形で表面化したようなもの。
「カミカゼ」の生みの親、大西瀧治郎の裏話(後述)を読むとそんな妄想が浮かんだ。
◆呪術の暴走を止める「カミカゼ」?
多分大西瀧治郎もある程度ベルセルク化はしていたと思う。しかしその裏では、呪術の器である「帝」に日本をベルセルク状態から解放してくれと悲痛な訴えをしていた様にも見える。この訴えは、呪術に支配され抜け出すことが出来なくなった日本の集合無意識がずっと上げ続け誰にも聞き入れられることのなかった悲鳴なのだろう。カミカゼ関係者達の一部は無意識下でその声を象徴的に代弁する「器」になっていたのかもしれない。
暴走した呪術を停止することが出来るのは、呪術最大の器、「帝」しかいない。しかし帝が伝統的な「呪術器」の役目に徹しているままでは呪術を停止させることが出来ない。帝が「お神輿」を脱出し、自らの意思で器をやめて荒れ狂う呪術を停止させることが出来れば・・・大西瀧治郎はそう思ったのかもしれない。
私が見た大西瀧治郎の裏話からカミカゼについて語った彼の言葉を一部抜粋する。
『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
(中略)
陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道がほかにあるであろうか。戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様(高松宮)と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』
・・・めまいがするような話だと思った。上奏を許されず追い詰められた民が「お上への直訴」に集団自殺するようなものだ。これも一種のパフォーマンスか。
一度集合無意識規模で暴走したベルセルク呪術を止めるのは、電源も冷却機能も失い臨界まっしぐらの原発を止めるに等しいものなのかもしれない。行きつくころまで行かないと止まらない。
とまれ、大西氏の強烈な「訴え」が届いたのか否か、68年前の今日、昭和天皇曰く「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」(wikiより)
こうしてとうとうベルセルク呪術の進行は止まった。そして、「帝」がこの先二度と危険な呪術の器をすることがないように、昭和天皇は自らの意志で「神」でいることをやめ、「人間」になった。大西瀧治郎は自決した。
◆呪術からの脱却
人間の命が尊い以上、戦死した人々の命もまちがいなく皆尊かった。そしてその命を呪術的に煽動しけしかけ無残に浪費したのは、この国だ。彼らの死をどんなに美化したところで事実は変わらない。全滅を玉砕と美しく言い換えたって事実が変わらないのと同じことだ。失われた命の尊さを共同幻想(ベルセルク呪術)の美化や政治パフォーマンスや商売に使ってしまうのは気が引ける。
「靖国」は、近代日本の開運呪術、とりわけベルセルク呪術(共同幻想)にとって重要な装置だった。そして、その呪術を止めるため(?)に行われた「カミカゼ」による戦死者達も祀られている。その靖国も、3.11を皮切りとする列島規模の龍脈変動でエネルギー供給を断たれ呪力は失われつつある。今となっては呪術装置というより歴史遺産に近い。
とはいえ、集合無意識に残されたベルセルク呪術の後遺症は今も歪んだ形で各方面に残っている気がする。病的な根性論や体罰問題を抱えた体育会系の文化にはまだベルセルク呪術の火がくすぶっているし、ブラック企業の世界にも自衛隊の世界にもそういうのがある。もっと前、6.70年代の学生運動なんかは呪術の焼けぼっくいに火がついて戦中とは違う方向に暴走し、一部のベルセルク化してしまった若者達を中心に事件が起きている。
(日本での病的な根性論蔓延には、かつて確信犯的に『根性があればカミカゼで勝てる!』と人々を鼓舞しちゃった大西氏周辺も一因を担ってた?)
共同幻想(呪術)の支配と依存に別れを告げる勇気を持つことは、確かに難しいかもしれない。
共同幻想を信じ共同幻想が分泌する脳内麻薬に支えられて(依存して)苦難や不安に耐えたり戦って死んだりすることよりも、共同幻想の支えを失い脳内麻薬の分泌を失うことの方が死ぬより恐ろしくて辛く絶望的だという心理があることは聞いているが、そろそろそんな心理の呪縛から脱出してもいい時代だ。生命の贈り物である脳内麻薬というのは、人を縛ったり傷つけたりする共同幻想(信仰・呪術)という形だけじゃなく、もっと自由な使い方をしていいはずだ。本来はもっと色んな可能性があるはずだ。
あの神社、風水やオカルトで見れば呪術的な力はどんどん消えていく一方。呪術的な力が消えゆくということは、呪力の一つ、「暗示力」も薄れていくということだ。
本当は、呪術の暗示に依存し縛られ支配される事から抜け出す勇気こそ、本当の勇気なのではなかろうか? この勇気は、ベルセルクのような呪術依存の蛮勇とは違う。アドレナリンが出ないこの勇気が当時の日本には決定的に不足していた。軍人達の中にも不足していた。
古代東征時代を起源とする国家開運呪術の呪縛と支配から、日本の龍脈と運気は抜け出しつつある。日本の精神世界もそこから抜け出していく流れに来ている。
(忍耐と泣き寝入りを識別し、いじめ問題や体罰問題、ブラック企業問題等に取り組み始めた世相はその流れの一つか)
個人的には、東征の因縁と時の政権と大衆心理がもたらした共同幻想呪術とそれが作った時代の犠牲を美化し崇拝し続けること、それを戦死者達への供養とすることには気が乗らない。犠牲を美化し崇拝することで自分達が陥った幻想を美化し正当化してしまえば、そこから学習して成長していけなくなってしまう気がする。
(なお、靖国に参拝する方々の全てが上記のような発想を持っているとか言うつもりはない。念のため)
個人的には、かつてのベルセルク呪術(共同幻想)とそれらが引きずる後遺症から日本の精神世界が脱却し成長していく発想を持つ方が犠牲者達への供養になるかもしれない。それは、あの時代と彼らを無駄にしないこと。
とはいえこればかりは個々人の信条や信仰が関わる話なので、これ以上とやかく言いたくはない。
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