もののけ姫を心理学的に妄想
さて、その真相はというと……ズバリ……妹ではない! 公開当時、販売されていた『もののけ姫』のパンフレットには「アシタカの許嫁」と書かれており(中略)
ちなみに、カヤが渡した玉の小刀は『乙女が変わらぬ心の証に贈るもの』という設定。(中略)
アシタカは玉の小刀をもらったときに「私もだ。いつもカヤを想う」と甘い(?)返事をしておきながら、旅の途中に出会ったサン(=もののけ姫)に、サックリと小刀をあげてしまうのだ! 女性陣から大ブーイングが起こりそうなこの行動から「許嫁にもらったものを、ほかの女に簡単に渡せるわけがないからカヤは妹」と考えるファンもいる模様。しかし、あくまでも設定は「許嫁」。
以下、上の記事を読んで作った妄想。ここに登場する要素は全てアシタカという一人の主人公の中にある各側面。いわば、同一人物。「もののけ姫」は、アシタカの心の中で起きた物語。
カヤ・・・アシタカが呪いを受ける前、平穏な人生を生きていた頃に求めていたアニマ(心の中にいる理想の女性像。時に無自覚な個性の一部)
タタリ神・・・抑圧された(虐げられた)ことでアシタカ自身の無意識が発する本能的な怒りと悲鳴。呪いの源。抑圧の真相が分らないうちは八つ当たり的な暴走をしうる。
呪い・・・心が抑圧された(心理的抑圧を負った)ために発生する症状。
サン・・・呪いを受け、さまざまな体験をして人生を激変させた後のアシタカが求めるアニマ。彼の抑圧された個性。縄文的。
シシ神の森・・・サンというアニマが住んでいるアシタカの無意識世界。
森の住人達・・・アシタカの無意識世界にある個性や可能性。
シシ神・・・アシタカのセルフ(顕在意識と無意識を含めた精神世界全体の姿。精神世界全体を統括する中心的な存在)。森とそこに住む生き物と人間、という作品世界に登場する全要素を併せ持つ姿をしている。その本質は魂(=命そのもの)なので変幻自在にして不死。
エボシ御前・・・アシタカの心を抑圧する無自覚な因子を象徴するアニマ。近代的思考の持ち主。
カヤからもらったアニマと愛情のシンボルである小刀をサンに贈るということは、カヤというアニマがサンというアニマに「キャラデザ変更」されたような感じがする。
だが、アシタカはかつて求め惹かれていた「カヤ」というデザインのアニマを忘れない。それは、既に彼自身の一部なのだ。
サンもまた、彼の一部として「対立せず共に生きる」ことを誓った己の一部である。
アシタカは、既に「カヤ」という個性を統合し終え、次に「サン」という個性を統合することにしたわけだ。
愛情のシンボルである小刀は、統合のシンボルでもあるのだろう。そして「もとからアシタカのために作られていたもの」だった。
そういえば、作中でサンはアシタカの胸にあの小刀を思いっきりぶっ刺しているw そして刺されたアシタカがそのままサンを抱きしめるシーンにつながる。
とはいえ、彼女はまだ無意識界の住人である。ラストでも本格的な統合には至っていない。己が抑圧してきたものの存在をありのまま認め、しかしそれをおおっぴらには表に出せない。異なる場所で対立せずにできるだけ尊重しようとしている段階。時々逢引きするかもしれないが基本は異なる場所で「共に生きよう」だ。
もののけ姫から11年後の「ポニョ」では、主人公の宗介が海(やはり無意識のシンボル)の住人であるポニョのありのままを受け入れ、そして「同じ場所で共に生きる」ことを誓い、白昼堂々と口付けを交わす。
ここが「もののけ姫」の二人よりも進歩している。
宗介とポニョは、アシタカとサンが生まれ変わった来世の姿かもしれないw
作品の中で「虐げられていく森」は、近代思考(近代的意識)によって切り捨てられ、顧みられることなく抑圧され(虐げられ)ていく無意識の世界と、そこに潜んでいる個性や可能性のシンボルのようにも見える。
無意識を虐げそこに潜んでいる個性や可能性を抑圧する近代的思考はエボシ御前が象徴する。これが健康だった心の世界(森)を脅かし征服していく。彼女が頼り信じる「近代的思考に基づく価値観」を追求するための犠牲になって抑圧され(虐げられ)ていく森と住人たちは怒りと悲鳴を上げる。
森の住人と対立したエボシ御前が左腕(左は無意識の方角)を食いちぎられたのは、「無意識とのつながりを断ち切られた」という象徴か。近代思考を選んだ彼女は自ら無意識を切り捨てたのだ。そしてそれは、自らの半身を切り捨てたのと同じ。
アシタカが呪いを受けたのは右腕。左の無意識に対して右は顕在意識や自我の方角。不自然な生き方を突き進む近代思考に抑圧され虐げられていく無意識の怒りと悲鳴が顕在意識に神経症状として現れた様子が「呪い」という形で表現されている様子とも想像できる。
「呪い」を持った者が試みるべき救いの道は、「曇りなき眼で見定め、決める」ということ。即ち、抑圧を抱えた己の心と正直に向き合い、探り、心の中で起きている真実を見つけ、その上で今後の生き方を決めること。
その結果、サンに向けたラストの科白がその時出せたアシタカの精一杯の結論だろう。
この『救いの道』は、以前の記事で取り上げた依存症という症状を抜け出す時にも同じく使える道だ。即ちその願望やその不安がどこから来たのか、その抑圧された真実を曇りなき眼で見定め、解決策を決めるのだ。即ち、「ニセの不安や偽の願望(呪い)」に惑わされぬ曇りなき眼で己の心と正直に向き合い、願望や不安の原因となっている抑圧の正体を探り、真実を見つけ、適切な解決手段を決めること。
【ここは心理学というよりオカルト】
無意識を切り捨てたエボシ御前は無意識の奥深くにある「神秘」とのつながりを持っていない。彼女は「神殺し」と称して森の奥深くに住むシシ神を撃った。近代思考は己の本質が魂という「死なない生命」だとする認識と、それに基づく視野や発想を抑圧し否定してしまったのだ。それが「死の恐怖」という現象を引き起こす。タタリ神になってアシタカの村を襲った「ナゴの守」が死を恐れたという設定は意味深。ナゴの守もまた、もとはシシ神の森(=アシタカの無意識世界)の住人だ。彼は、「死に対する恐れ(銃弾がその象徴)」を植えつけられたことで自分自身の本来の姿(不死なる命の姿)を抑圧されてしまったためにその怒りと苦痛で祟り神になってしまったのだ。
(ナゴの守が植えつけられた、不死性を抑圧=忘却した結果の『死の恐怖』は肉体の損傷に対して必要以上の余計な苦痛を増幅させるのかもしれない。余計な恐怖が余計な苦痛を増幅させ、余計な苦痛は恐怖を増幅させる)
【蛇足の妄想】
アシタカの村は蝦夷がモデル。多分タタラ場のモデルは出雲だろう。
鎮西(九州)から来た人語を解するイノシシたちは熊襲や隼人達なのかもしれない。ボディペインティングが彼らの刺青っぽい。
(蝦夷は縄文系民族だといわれている。サンというアシタカのアニマが彼以上に縄文的なのは意味深?)
個人的なイメージだが、タタラ場を開きやがては「国崩し」という銃器を量産して己の国を築こうとしたエボシ御前はなんとなく卑弥呼っぽい。神秘の変わりに科学とモノづくりの力を駆使した卑弥呼。
(まあ彼女は『クシャナ』なんだけどね。共産革命起こしそうなクシャナw そしてジコ坊はクロトワw)
「もののけ姫はこうして生まれた」に収録されている宮崎駿の言葉が今となっては鳥肌モノなのでご紹介。
百億の人口がねぇ、二億になったって別に滅亡じゃないですからね。そういう意味だったら、世界中の野獣は、もう滅亡、絶滅していますよね(笑)。そうですよ。元は百匹いたのに、今は二匹しかいないなんて生きもの一杯いますからね。そういう目に、今度人類が遭うんでしょ、きっと。でもそれは滅亡と違いますね。僕等の運命ってのは、多分、チェルノブイリで、帰ってきた爺さんや婆さん達が、あそこでキノコ拾って食ったりね、その『汚染してるんだよ』って言いながら、やっぱり平気でジャガイモ食ってるようにして生きていくだんろうなっていうね…まぁ、その位のことしか言えないですよね。それでも結構楽しく生きようとするんじゃないかぁっていうね、どうも人間ってのは、その位のもんだぞって感じがね…
(´-`;)・・・チェルノブイリ、ね。
今となっては、「強い火気」を発するタタラ場が原子力産業にみえてしょうがない。「国崩し」なんてまさに原子力兵器。それから、森(無意識)の主、シシ神に潰されたタタラ場と、海(やはり無意識のシンボル)に潰された福島のアレは、なんか似てる・・・
また、現代の「タタラ場」もやはり出雲の地に存在している。国産第一号の原発、島根原発だ。今年に入って全て停止中。
このヒトはポニョでも予言めいた描写をしてる。おそらく、アシタカとサンそして宗介とポニョの物語は、日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語。近代思考の象徴エボシ御前に傷つけられてタタリ神になったナゴがアシタカの右腕にかけた呪いを「近代思考に無意識世界が虐げられ抑圧された結果の神経症状」と解釈した場合、「ポニョ」がリリースされた当時に 宮崎氏が近代思考によって文明が成り立つ現代のことを「不安と神経症の時代」と表現していたのが意味深になってくる。
もしアシタカがサンというアニマと晴れて結ばれたなら、彼女を「わが妻」と呼ぶだろう。即ち吾妻(あづま)だ。東日本を示す古語の語源である。ここまで連想した時、 以前書いた記事を思い出した。「あづま」の語源は、ヤマトタケルの神話だっけ。神話の公式設定ではタケルの「吾妻」は自然の怒りを鎮めるための生贄になった。で、ジブリの公式設定だと生贄として森に投げ込まれた赤子がサンだ。
~日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語~
「様々な日本の神々や日本列島を生み出した夫婦神イザナギ(男)とイザナミ(女)は深く愛し合っていました。しかし出雲で製鉄産業(=軍需産業・東征の武力源)が興った頃、鍛冶と火を司る神を生んだ時にイザナミは火傷で死んでしまいました。死の恐怖を司る産業を生んだことで不死なる命(命本来の姿)を封じられたイザナミは死に、そして出雲にお墓が出来ました。
夫イザナギは亡くなった妻のイザナミが恋しくて妻に一目合おうと黄泉の国に出かけましたが、そこで全身にヘビがまとわりついたゾンビのような(タタリ神のような)本来の姿とはかけ離れた変わり果てたイザナミの姿を受け入れられず、怒り狂うイザナミから逃げ切り自ら縁を切ってしまいました。イザナギは「死の恐怖」が生まれたことと命本来の姿が失われたという事実から目を背けたのです。その事実はイザナミと共に地下へ封印されました。
そして数百年後、二人はヤマトタケル(東征のヒーロー)と弟橘姫(東日本の豪族の娘)として転生し結婚しましたが、二人で東征の旅に出かける途中、船が嵐に遭遇し弟橘姫は嵐を鎮めるために自ら生贄となり、二人は引き裂かれてしまいました。心に傷を負ったタケルはしばらく後に戦死しました。
引き裂かれた悲劇のヤマトタケルと弟橘姫(=イザナギとイザナミ)は、やがてアシタカとサンに生まれ変わりました。そこで二人は再会し、不滅なるシシ神の姿を見て命本来の姿を思い出し、お互いの愛を確認しつつも人々の戦いが止むことはなく、晴れておおっぴらな関係にはなれませんでした。
さらに二人は現代に宗介とポニョとして転生し、そこで「命の水」が海に解き放たれたことによる大津波をきっかけに宗助はポニョの真実(イザナギがかつて目を背けイザナミと共に封印した事実)から目を背けず受け入れることを選びました。
そのことで二人は封じられた命本来の姿を取り戻し、ついに晴れておおっぴらな関係になれましたとさ」
・・・そんなシンボリックな妄想をした。
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曇りなき眼で見定め決める、というのを読んで宮沢賢治の、眼にて言う、という詩の一文を思い出しました。
↓
あなたの方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです
という詩の一文なんですけど、病床でそんな詩を書ける状態ではない宮沢賢治の「眼」には、惨憺たる状態での自分から見た視点と、それを手当する偉い医者から見た視点と、その対比が可能になる公平な第3の視点とが同時にあって、それは詩人でもある宮沢賢治が、前の記事でAYAさんが書かれている、心との対話と観察の積み重ねを大事にしていたから生まれた曇りのない眼なのかな、と思ったんです。
きっと、徒然草とか源氏物語とか、後、浮世絵なんかも、昔は、今みたいに早い安い不味いじゃなくて、ちゃんと肝心な部分に至るまでじっくりと時間をかけていたんでしょうね。そういうのは時代や流行りで色あせないですよね。
宮崎駿さんのアニメって、きっとそういう本質的なものを知ってて、なおかつ、人間っていうのはその位のものだぞ、っていう地に足のついた現実的な認識とか、そういうのの兼ね合いみたいなのを感じます。
アニマの統合というのは興味深いです。
先日このようなニュースも見て、これもそのサインかなって思いました。
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120411/CK2012041102000015.html
13というのは、オバマ大統領の娘さんも13だったと思いますが、とても意味を持つ数字だと思うんですよね。
アニマは、きっと初めに分かれたから終わりに戻るようになってるんだと思うんですけど。∞の真ん中のクロスする所みたいな。電子の磁気モーメントみたいな、美しい無限大の中心かと(妄想です)。
投稿: サボテン | 2012年4月13日 (金) 11時56分
>サボテンさん
宮沢賢治も宮崎駿も、ともに「心との対話と観察の積み重ね」に非常に長けた人物だと思います。視野が狭くて心の客観的な観察が出来なければ「曇りなき眼」は作れません。視野が狭すぎれば視界の曇りにすらにすら気付かないでしょうから。
一説によると、宮沢賢治は己の感性が何かを感じた時、その喜びと興奮に「ほほー」と言いながら宙を舞うことがあったそうです。例え仕事中であっても。
そんな境地に至れるほど豊かな心の世界が作れる人は、例え病気で早死にしたとしても、、沢山の幸せ(人生の収穫)を得られる濃い人生を生きられたのではないかと思います。それは若死にしたとしても決して不幸とはいえない人生かもしれません。
・・・昼過ぎに宮沢賢治についてそんなことを考えていた後で、サボテンさんが宮沢賢治についてコメント下さったのを知って軽いシンクロニシティーを感じてしまいましたw
P.S
夫婦岩の全体露出現象については、「異なる二つがもともとはひとつだった」という真実の姿があらわになるというシンボルに感じます。あの岩は水面下でつながってますから。
自分とそのアニマ。異なる二つは、もともとひとつです。
クロスの中心には、二つのものをひとつに統括し、意識と無意識(アニマ含む)を共に併せ持つ「セルフ(ユング心理学における心の全体性と中心。アートマン)」がいるのかもしれません。
キリスト教以前から十字は特別な意味がありました。時に横線が地上世界への導線、縦線は霊性的世界への導線を表し、円形は永遠性や「統合・全体性」を示すシンボルと解釈することも出来ます。
「ひとときを地上にて生きる永遠の生命」とでも言えばいいでしょうか。
投稿: AYA | 2012年4月14日 (土) 18時09分