ヨガとタロットの「戦車」
参照元より抜粋。
■ヨーガの意味と起源
ヨーガの起源をたどりますと、紀元前二千五百年程のインダス河流域のハラッパやモヘンジョダロなどの遺跡から、ヨーガの坐像の印形が出土していることから、その頃を起源としているようですが、実際に「ヨーガ」という言葉が宗教的用語として確認されているのは紀元前五百年前後のベーダンタの時代で「ヨーガ」とは「馬を車体につなぎ、その馬車をコントロールして、道をはずさず、人生の目的地へ行くこと」を意味していたのです。
カタ・ウパニシャッドでは 「真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちはもろもろの感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる」と述べています。こ のことから「ヨーガ」とは、馬を車に「つなぐ」(yuj) が語源であり、意味するところは「結ぶ」「コントロールをする」「バランスをとる」との 意味をもってきました。
この部分に目が釘付けになった。
真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちはもろもろの感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる。
・・・これ、まるっきりタロットの「戦車(chariot)」だ。インドのヨガとこんなにも戦車のカードと照応してるとは!
真我(アートマン)はユング心理学でいえばセルフ。オカルト風にいえば魂。攻殻機動隊なら「ゴースト」。これが車のオーナー(車主)に相当。これが馬車(体)の中に宿って(乗って)いるから我々は生きている。体から魂が抜けると体は死ぬ。 ヨガの理論だと、我々の本体は体じゃなくて体に乗ってる魂(アートマン)だ。
御者は理性、又はユング心理学でいう自我。御者(自我)はオーナー(魂)の意にあわせて手綱を操ることで、オーナーと連携して馬車を進ませる。 いわゆる自己一致というやつ。
御者は自我でもいいが、自我や理性を含めた脳ミソと考えてもよさそうだ。御者が脳ミソなら手綱はさしずめ神経というところか。神経がつながっている先は五感(本能的感覚含む)。
理想を言うなら、御者の操る手綱の動き(意志)は、その全てが御者から生まれたものではなく、大元は御者の背後に鎮座する魂から生まれたものだ。 その意志は自我のレベルを超えた、無意識のはるか奥深くからやってきた意志なのだ。御者(脳・自我)はその意志と共鳴して具体的に手綱を操る。これが理想。
もし御者の手綱の動きが魂と一致しない自我中心的なものであった場合、やがて馬車は暴走する。馬(感覚・本能)が反乱を起こす。馬(本能)はオーナー(魂)とつながってないと本能視点で本能のままに動き回って自我(理性)だけの力では制御し切れないからだ。
理想的な道、即ち馬車の旅路(人生・運勢)は、決して自我(御者)の力だけで進められているものではない。魂(オーナー)があってこそ成立する。 その場合、馬(運勢を創り人生を進める動力源でもある)が感じとる手綱の動きは即ち、魂からの意志なのだ。自我だけの意志じゃない。その意志を馬が感じ取って動き、車輪が回り、車体が動き、目に見える「道(現実)」が出来る。 それが理想の旅路だ。
馬車の車輪(wheel)はタロットの「運命の輪」だ。Wheel of fortun。理想的にはこれが魂や御者の意志にあわせて回る。共鳴する両者の意志が生み出す車輪の動き(運勢)で作った目に見える現実・人生。魂の意志から内容をデザインし作られた現実。これを(どちらかと言えばポジティブな意味で)運命と呼ぶ人もいる。シンクロニシティーを運命の一種と考える人もいる。
道。古代インドでは私たちが現実として認識しているモノは脳に送られる「各種感覚器官が感じ取った情報(=感覚の対象・認識の対象)」の集合にすぎないという考え方がある。「道(現実)とは、馬が御者の操る手綱に合わせて動いた(感覚器官が脳と神経を介して伝達される魂の意志に合わせて作動した)結果生じるもの」という解釈だ。映画「マトリックス」にもこの発想が取り入れられている。
もしも「魂でないもの」が手綱をのっとり、馬に魂の意志とは異なる指令を伝えたら、魂とのつながりを失った御者と馬は自我中心的な動きや本能のままの動きをして、魂とのつながりを失った人生(現実)が作られてしまう。私たちは本意でない偽りの生き方を進み、そのことに気が付かずに本意でない生き方に閉じ込められてしまう 。
御者がオーナーの存在を認識できなくなったり、オーナーを無視したり、自分がオーナーに成り代わるなどして己の意志で好き勝手に手綱を操れば、馬と馬車は制御を失い暴走・迷走し、本来の道を外れ(道に迷い)、人生は目的を見失う。自分(=魂)が本来何を望んでいたかを見失う。暴走する馬車の車輪は本来の魂的動きを失い、魂とのつながりを失った馬(本能)と手綱を操る側の間で葛藤や対立が生じた結果、運気や運勢は不安定になり、頓挫する(馬車が横転したり走行不能になる)かもしれない。
これはタロットなら「戦車」の逆位置になる。意味は無茶、暴走、挫折、不注意、独断、自分勝手、傍若無人、行き詰まり等。
即ちこれがエゴイズムを進めていった結末でもある。魂(心)を無視して頭(脳)だけの生き方を追求した結果でもある。頭が魂(心)を失ったり追い出しても同じことになるだろう。魂の宿らぬAIに人生の全てを委ねた世界でも同じことが起きるかも。
実はタロットカード、御者だけで馬車のオーナーが描かれていないカードがとても多いのだ。
最古のタロット、ヴィスコンティ・スフォルツァ版の戦車(画像)にはオーナーが描かれている作品もあるのに対し、19世紀に描かれて現在もっともポピュラーなタロットになってるウェイト版の戦車(画像)をはじめ、多くのタロットではオーナーが描かれてない。
・・・魂はどこへ行った? 御者がオーナーに成りすましてるんだとしたら、ギリシャ神話の「パエトーン」みたいなことになりかねない。
私たちは、御者という機能を持つ魂だ。車のオーナー(魂)が御者のあるじ(owner)なのだ。御者(自我)の機能は魂が馬車に乗った時点ではじめて作られ成立するもの。自我と魂を混同・同一視すると、たちまち死の恐怖に囚われる。不滅の魂を忘れるから。
脳(体)に宿る魂(ゴースト)があるからこそ、脳と体は動き感覚や自我が生まれ、それを使って人生を旅する。人生(道)をつむぐ。
生きる目的や意味について、即ち生き方について悩む人々(道に悩む人々)は、御者や馬だけの狭い視点・視野で強引に考えたり解決しようとはせずに、己のオーナー(魂)と再会し、その視点・視野を乞い、それと連携しようとする発想が吉かも。道を知ってるのはオーナーだから。
(以前の記事で、『己の内面や心の動きを客観的によく観察したり己の心を探り自覚する作業』について書いたが、この作業は午の様子を感じ取ったりオーナーの視点・視野に少し近づき、より連携しやすい精神環境を作る効果があるのかも)
ヨガのポーズを色々やって馬を車につなぐだけで満足せず、御者とオーナーとのつながりと連携を意識し目指すことも大切なのだろう。
話によると、ヨガが生まれた少し後のインドでとあるセレブがそれにチャレンジしたらしいというが、もはや結果の真相は本人にしか分らない。
【余談】
手綱を持つ御者の様子からなんとなく運勢の様子(車輪の様子)を推測するのも占いと言えるだろう。魂の意志(本来の望み)に沿った運勢が作れるようにするための工夫や努力を「開運法」と呼んでもいい気がする。
このご時勢、「パエトーン」というと山岸涼子の作品を思い出す。 オーナー(魂)を無視して暴走した自我が作り上げた歴史と文明、その先端技術に開いた仇花(あだばな)・・・それが原子力技術とそれが生み出す結末の火花なわけか。去年福島でも咲いたな(遠い目)。
【注意】
なお、いろんな宗教で「エゴ(エゴの執着)を捨てなさい」と言って帰依を迫ったり洗脳したりお布施をせびるケースが多いが、その言動や発想自体がオーナーを無視してエゴイズムや本能(物欲)だけで生きている証だ。
人の器に宿りし金運←今の経済システムは御者がオーナーを無視して強引に金運(豊かさ)を作ってるようなものか。どおりで不安定なわけだ。
【追記】
かつてイエス・キリストが説いたという噂の「グノーシス(悟りの西洋版的なもの)を前提にした救い」。これがもしも今回書いたタロットの戦車(もといヨガ理論の馬車)で例えたような話と関わっていたら。即ち、「オーナーとのつながり(セルフとのつながり・セルフという存在)を忘れた御者 の操る迷走馬車が、オーナーを思い出して迷走から抜け出し、その人本来の命の旅路に復帰する」 ということを「救済」の前提としていたとしたら・・・
5月28日追記 もしかすると、戦車のカードから姿を消したオーナーは、「力」のカードでライオンを手なづけに行ったあの人かもしれない。戦車のカードでは、スフィンクス(体がライオンで顔が人間)が車を引いている。スフィンクスが馬役なのだ。我々の生命力
オーナーとのつながりと連携。それは、仏教で言う「弥勒」を引き起こす?
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ヨーガってそういう意味があったんですか。
御者(自我)とオーナー(魂)の関係、とても分かりやすいです。
魂は、自我のレベルを超えた無意識のはるか奥深くからやって
きた意思。
本当の道を知っている存在ですよね。羅針盤みたいな。
宮沢賢治は、きっとそれを聞いていたのかもしれませんね。
AYAさんの説明は、収まるべきものが収まるべきとこへちゃんと
収まっているような、そんな説明で感動しました。
前のコメントにAYAさんが、アートマンについて書いていらっしゃった
ので、久しぶりに、異端の数ゼロという本を読んでいたのですが、
アートマン=霊魂、自己は、あらゆる存在の核心に隠れており、
どんなに小さな原子よりも小さく、広大な空間より大きい集合的意識、
この意識は無限であり無である、つまりはゼロの概念であり、幾何学
を重視する西洋哲学、宗教からは異端の烙印を押され追放されたが、
インドで受け入れられ再生したという内容でした。
歴史の中で、人類はゼロを力ずくで自らの哲学に適合させようとしたが
逆に、ゼロは宇宙に対する、そして神に対する人類の見方を形づくった
と言います。
これは、御者とオーナーの関係にも似ていると思います。
カバラは、ヒンドゥー教に似ているらしいですが、無=ayinは創造神の
一部であり、ヘブライ語で、私、という意味の、aniyという言葉のアナ
グラムで同じ数値を持つそうです。
己の内面、心を探る=私を探ることの重要性は計りしれないのかも
しれないですね。
そして、最古のタロットに書かれていたオーナーをちゃんと認識して
連携すればいいんでしょうね。
それは、何かを思いついた宮沢賢治や、ある日お風呂に入っていて
閃いたアルキメデスが裸でシラクサの町を走っていったような、とても
楽しく感動的なものを、もたらしてくれるかもしれない、と思うのです。
投稿: サボテン | 2012年4月21日 (土) 11時44分
>サボテンさん
「馬車とオーナー」に例えるヨガの理論自体がとても分りやすいものだと思います。
実は、0の概念がインドからイスラム経由でヨーロッパに伝わり、最初は無視されていたそれがようやく普及しはじめた時期と、最古のタロットカードが作られた時期が一致します。
(そのせいか、タロットには西洋では珍しい0番のカードが存在します)
最古のタロットカード製作者達のもとには、0の概念だけでなく、ヨガ由来の概念も伝わっていたのかもしれない、などと妄想しました。
>この意識は無限であり無である、つまりはゼロの概念であり
・・・無限のマーク(∞)はゼロ(0)の形をした輪ゴムで作ることが出来るんですものね。
ゼロは円の形であり、円はユング心理学だと心の全体性(馬車、御者、手綱、馬、オーナーという人間の生命を形作るパーツ一式全部)を象徴する形状です。
そんな心の全体性そのもの、または全体性の中心的存在を「セルフ」といい、セルフは神のモデルになったと言われています。
某一神教ではオーナー(がモデルになってる存在)のことを、「主」って呼んでますよね。アレは一人ひとりにいる自分のオーナーを外部へ投影・同一視させ心理的に混同させてる気がします。
>何かを思いついた宮沢賢治や、ある日お風呂に入っていて
>閃いたアルキメデスが裸でシラクサの町を走っていったような、とても
>楽しく感動的なものを、もたらしてくれるかもしれない
私もそう思います。古今の偉人達が得たものほど大掛かりなものではなくても、日常のちょっとしたひらめきや気付きにだってオーナーの息吹が吹き込まれていると思います。御者である我々の顕在意識が気付かないだけで、御者の無意識とオーナーはいつだって共にあり、一緒に旅をして体験を共有しているのでしょう。今この瞬間も。
投稿: AYA | 2012年4月23日 (月) 13時31分