依存ビジネスの心理的手口について
(オセロ中島事件からの連想その②)
※以下に書いたことは全て一個人の意見にすぎません。依存症については専門のカウンセラーさんなどにご相談してください。
※注:占い依存症の背後に必ず依存ビジネスが存在しているわけではありません。占い師側は何一つ狙うことなく、不安感で自ら占いを繰り返し依存してしまう自発的依存タイプが非常に多いです。よって、「全ての占い依存症の背後には必ず依存ビジネスの手口が存在してるにちがいない!」と誤認してしまうと問題の本質を捉え損ねたり解決から遠のいてしまうので注意してください。
◆依存ビジネスの手口(一例)
さて、今回は自発的な依存症とは別の話をする。第3者がターゲットを意図的に依存へ仕向けるケースの話だ。ここでは前回の心理的な話を踏まえて、いわゆるカルトや霊感商法や一部の困った占い師が行う「依存ビジネス」の手口として最も古典的で効果的と思われるやり口をご紹介。前回書いたこの部分を思い出して欲しい。
依存者は具体的な悩み事を持つ前から無意識に不安感や葛藤を抱えているケースが多い。そしてその無自覚な(あるいはモヤモヤとして漠然とした状態の)不安感や葛藤を恋愛や仕事、自分の未来、たまたま発生したトラブル、身内の不幸といった具体的な事例(=占い師への相談内容)に無意識に投影され同一視する現象が比較的多く見受けられる。
手口はまず、依存者の相談内容(依存者はこれに無意識の不安を投影している)を巧みに利用して都合のいい「シナリオ」を作って吹き込む事から始まる。
手口に使われる最も典型的なシナリオ(常套句)は、「〇〇しないと不幸になりますよ・もっと悪くなりますよ」とか「あなたの不幸や悩みは〇〇だったせい(〇〇しなかったせい)ですよ」「〇〇すれば不幸を免れるでしょう」だ。要約するとそういう感じの内容になる話をさまざまなバリエーションに変装させて相手に吹き込む。
例えば、若い身内の不幸という出来事に無意識の不安を投影して悩んでいた相談者が依存ビジネスをする者へお悩み相談をしたとする。
すると彼らは「このまま正しい先祖供養をしないでいるとこれから身内の不幸がもっと続きますよ。亡くなられた方はあの世へいけずに迷い続けますよ」などと吹き込む。「しかし正しい先祖供養として〇〇をすれば(=私の言う通りにすれば)それを食い止められるでしょう」とか言う。これが「シナリオ」だ。
それを聞いた時、すでに無意識の不安を身内の不幸に投影・同一視していた相談者の心の中で
「無意識の不安=身内の不幸=吹き込まれたシナリオ(正しくない先祖供養)」という連想・投影を連鎖させた図式が出来上がってしまえば、結果的に「不安の解決手段=シナリオに提示された解決手段(相手の言うとおりにすること)」という自己暗示が成立する。
さて、相談内容に投影した無意識の不安(本当の不安)を相手の用意したシナリオにまんまと利用された哀れな子羊は、「もし言う通りにしなければ、取り返しのつかない不幸な事態が発生するんじゃないか?」というニセの不安に心を支配される。不安で仕方がなくなって、そこから一刻も早く逃れるために相手の助言(=命令)通りに動かずにはいられない。助言を求めずにはいられない。もはや無意識の不安をニセの不安に投影・同一視している感じだ。ここで依存が出来上がる。
そして不安感に基づいた行動(=助言どおりの行動や助言を求める行動)は、気付かないうちに不安感をより深める。不安感から逃れるための行動は、それが不安に基づく行動である以上、繰り返せば繰り返すほど逆説的に不安を強調し証明させるのだ。哀れな子羊はそれに気付かず、強調された不安から逃れる行動を繰り返し悪循環に陥る。強調され続けた不安感は、もはや「今そこにある危機」に感じられることさえある。シナリオの胡散臭さよりも強い不安感が上回って芽生えかけた疑念さえ押しつぶしてしまう。
もがけばもがくほど食い込む罠。依存ビジネスをやってる側から見ればこれほどおいしい獲物はいないだろう。ニセの不安に駆られた子羊が助言を求める度に金が入り、思いのままに支配できる。
不安が深まれば深まるほど、悪循環を繰り返せば繰り返すほど、人間の頭はパニックを起こし「不安から抜け出すこと」だけで頭がいっぱいになり、それ以外のことを考えられなくなってくる。当然判断力も失われていく。時には本当の不安を身の回りのあらゆる物事に投影し、「あらゆる物事が何もかも不安だ」と感じてしまうほどニセの不安を拡大させてしまい、その結果あらゆる物事全てに助言を求めずにはいられなくなるケースも。
箸の上げ下ろしという何気ない動作さえ占い師の助言(命令)に支配されていたというオセロ中島の依存心理にも、似たような要素があったように思える。
(オセロ中島の状態を洗脳と表現するメディアも有るが、自分の意思で助言を求めてしまう以上、厳密には『洗脳』の定義から外れる)
◆説得が効かない理由
そして厄介なことがもうひとつ。依存ビジネスの魔の手によって己の中に実在する内なる不安(=本当の悩み)をニセの不安(シナリオ)に投影・同一視させられ、なおかつ先述の「悪循環」を繰り返すことでその状態が染み込んでいる本人にとって、「シナリオで作られたニセの不安=実在する不安(本当の悩み)」という図式が出来上がってしまっていると、友人や家族といった第三者が、手口に使われたシナリオ(〇〇しないと不幸になる)がいかにおかしくて非現実的でありえないことか、実在し得ない話であるかを念入りに説得しようとした時、本人から見れば「彼らは実在する自分の不安(本当の悩み)を『存在しない馬鹿げたもの』と否定してごまかそうとしている」ように映ってしまうことがあるのだ。
依存者が囚われた「内なる不安=吹き込まれたシナリオ」という設定において、依存者が心の中に不安があるのをハッキリ感じてその実在を確信するということは、それを投影・同一視したシナリオの実在を確信するのと同じ意味になってしまう。時には、依存者にとって己に忍び寄っていた危険(シナリオの中身)に警鐘を鳴らすことなく、『嘘だ』と言い張る人間は、自分の危機意識を封じ、危険から身を守るという当然の権利を何だかんだと言っては邪魔する存在、即ち「信用できない奴」で、危険を知らせてくれる人こそが、本当に信頼できる。・・・不安の投影に支配された依存者にしてみれば、そう感じてしまう恐れさえある。
実在するものを利用して作られたニセモノは、「真実を混ぜたウソ」と同じぐらい騙されやすいものかもしれない。
また、依存ビジネス側にとっても依存者が説得されるのは想定済みで、不安を投影させるシナリオの中に「周囲の妨害や無理解」という要素を予め入れた上で吹き込むことすらある。「ここでやめたら元の木阿弥ですよ? 今までの努力が水の泡になってまた不幸に逆戻りして抜け出せなくなりますよ?」「信念を貫かなければ幸せになんかなれません」なんて言うこともありえる。
◆依存ビジネスからの脱出
さて、子羊が依存という罠から脱出するには、以前から心に実在してた「本当の悩み」と、それを投影した悩み(例・身内の不幸)と、それをネタに後からシナリオの形で捏造された「ニセの不安」という投影・同一視の連鎖をしっかりと断ち切り、それぞれが別物であることに気付く必要がある。ここは前回「対応(一例)」で書いたことと同じだ。
そもそも、相談者が無意識の不安を具体的な出来事に投影・同一視していなければこういう罠にはハマりようがない。だから投影・同一視した両者をひっぺがしてしまえば、自動的に吹き込まれたシナリオに支配されることもなくなる。
「私は身内の不幸という出来事が不安なのだ。だから正しい先祖供養をしないでいるのが不安だ。だからあの人の言う通りにしないのは不安だ」という自己暗示(自己欺瞞)は、
「私が本当に不安なのは身内の不幸という出来事じゃない。だから先祖供養の話には興味がない。あれは私の不安とは無関係だ。あの人の言う通りにする必要はない」という認識に変わる。不安の正体を知ることで不安の解決手段が「あの人に従うこと」ではなくなるのだ。
要は「無意識の不安(本当の悩み)=具体的な出来事=シナリオで作られたニセの不安」という投影・同一視の図式を、「=」から「≠」に変更するのがカギ。その時、「対応」の項目に書いたことがここでも生きてくる。
「その不安感って、その出来事やそういう話(シナリオ)が発生する前から感じてたものじゃありませんか?」
要するに、本当はいつごろからどういう不安感を持っていたのか(=本当はどういう悩みを持っていたのか)に意識を向けさせることで、図式が変化し、ひっぺがすチャンスが出てくる。
頑固なプログラムをちょいと書き換え無効化するような感じだろうか?
依存ビジネスに吹き込まれたニセの不安とその解決法(=ニセの解決法)に囚われていた心は、本当の不安感に気付くことでそれにふさわしい解決手段、真の解決法を選ぶことが出来る。
「その出来事(例:身内の不幸)が起きる前の、もとから持ってた不安感が何なのか、そっちの方には興味ありますか?」
「あなたがその出来事やその話に投影していたもともとの不安感って何なのか見つめてみたいと思いますか?」
・・・投影していた不安感の正体は、本人が不安感を投影した出来事の特徴からある程度連想できる特徴を持つ可能性もある。
(震災以降は人々が地震に対して以前から抱えてた無意識の不安を投影し同一視する風潮がある。是非本当の不安を探り向き合ってみて欲しい。デマやパニックに支配されにくくもなる)
本物とニセモノの癒着をひっぺがし、そして「本物」の方に意識の焦点を向ける。そして依存者が自ら己の心や不安の正体と向き合うことが徐々に出来るようになっていけば・・・
(個人的には、そういう自分が抱えたものの正体を突き止めるために向き合う作業って、時々どんな推理小説にも負けないとても楽しい謎解きのように感じることがある)
◆依存症で悩む人をカモにする依存ビジネス!?
ここまで書いたところで大変重要な注意事項があることに気付いた。
それは、この先、「依存症で悩んでいる人をカモにして依存させる依存ビジネス」が出てくる可能性があることだ。
既にネットでは占い依存症をターゲットにしたステマ(ステルス・マーケティング)らしき書き込みを見かけることがたまにある。「私はこの占い師に出会ったことで悩みが解消し依存症からも抜け出せました!」という類のものである。
個人的には、「〇〇のお陰で依存症から脱出しました! 自分と向き合えました!」みたいなキャッチフレーズを見かけたら要注意だと思う。また、「〇〇しないと依存症から抜け出せませんよ・本当の自分を見つけられませんよ」とか「〇〇すれば抜け出せます」とか言ってくる輩にも要注意。「本当の不安の正体が何なのか知りたくないですか? 私ならそれを知っていますよ?」とか「それを教えてくれる凄腕の先生がいらっしゃいます。ご紹介しましょうか?」もアウトだろう。
そういう類の申し出を断った時、その手の輩が「いつまで自分から逃げ続けるんですか? ここで向き合わないとあなたは二度と不安からも依存症からも抜け出せませんよ?」とか言って不安を煽って来たら明らかにクロだと思っておきたい。
上に書いたことは、私が内なる不安感をネットの書き込みに投影したおかしな妄想シナリオ(ニセの不安)であればいい。
次回は、心理的な依存が増えているという現代社会と昔の違いについてを妄想する。 読む
【4.4追記】
自分の内面にあるものを外部の無関係な物事に投影し同一視することでいいように騙されたり己の真実をごまかしたり偽ってしまうという現象は、視点を変えれば自己暗示・自己欺瞞でもある。時にはそういう自己暗示や自己欺瞞をしたばっかりに依存ビジネスや詐欺の被害者になるだけではなく、共犯者にさえになってしまうこともある。結果的には無意識に自分自身を裏切ったことになるのだ。(タロットなら剣の1逆位置)
人間の心は、無意識にやってしまった誤った解釈や認識や判断によって自分自身からも裏切られたり傷つけられたような結果を招いた時、無意識の底からとても強い怒りや痛みを発するという。
恋愛、依存ビジネス、詐欺、カルト・・・心の底から燃え上がるような強い怒りの半分は、相手と一緒になって自分を裏切った自分自身への怒りかもしれない。その怒りには、多分に「悔しさ」という成分を含んでいるだろう。
その怒りや悔しさに無自覚であれば、それを外部に投影して同一視し、問題の本質を偽ったまま投影対象に恨みや憎しみをぶつけてしまうかもしれない。正気を保つことが困難なほど強すぎる復讐心などにも、背後にはそういう要素があるかもしれない。
そして忘れてはならないのが、騙されたり被害者になったりすることがなくとも、「内なる自己欺瞞」は誰もが気付かず陥りうる落とし穴だってことだ。
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こんにちは。
無意識の不安(本当の悩み)=具体的な出来事、偽の不安の同一視を止めるというの、とても納得です。
それは、エゴと本来の内的自己の望むものを見分ける、という事でもあるのかな、と思いました。
例えば、理気説というのでも、理=法則性、気=ガス状の生命で、気の現象する世界の奥にそれを秩序づける理という存在があり、それを究明することが、本来重要なのである、というような事ですが、朱子学では、気は運動性を持ち、気の運動に乗って秩序=理は与えられるという事です。
占いや、宗教の一部でも、本来は、この理=法則性の認識というのが大切なのであって、ガスのように現れては消える気=運ばかりを見てもらおうとすると(というかそれは自分自身で叶える力があると思う)、その奥の法則=当たり前の方向性から外れてしまうのかもしれませんね。
まるで、車の見かけだけを気にして、それを運転する自分の本当に望む方向性を意識できないみたいに。
前に思った事あるんですけど占いも宗教なども、本当は、それを求める人がやがては、自立していける方向性を与えるべき存在ではないかと。それが依存に向かっていくのはどこかで間違えてるからじゃないかと思うんです。
それと、集合無意識規模の抑圧、という言葉を見て、タオコードという老子思想の暗号=二重の意味について、書いてある本を思いだしました。
内容は、究極の性は、この宇宙を生みだした名前すらない本質で、通常の性とはその模倣的現れにすぎない。万物の根源なる相対作用を成り立たせるもの聖性との合一は、人を根源へと返らせる。真の調和は本源の共動からのみ生じ、それは、森羅万象を抜き超えた真の至福の領域である。
本来の性とは、道=陽、徳=陰、であり、それを商業社会において、本来の姿から、怪物へと、抑圧することによって、欲を増大させ、その欲が中心原理となって、自然なる世界を蝕む、というようなことが書かれてありました。
そして、常道を知るまで人は苦しむ、と。
今、感覚的には、人類は本源の共動にまで至る時期ではないかと思っています。
投稿: サボテン | 2012年3月30日 (金) 07時41分
>サボテンさん
>エゴと本来の内的自己の望むものを見分ける
まさしくこれ大事だと思います。「その望みやその不安がどこから来たのか」を曇りなき眼で見定めることが。
「理からそれに沿った気の動きが生まれる」というのが理気説ですね。目に見えぬ世界で作られる「原因(理)」が思考・言動のパターンや運気に繁栄すると考えると理気説もしっくり来ます。対症療法的な発想では「理」にアプローチできず、それがさまざまな抑圧(常道が認識できない状態)をつくり、「常道を知るまで人は苦しむ」という現象になる。
占いや宗教は人々が己の理の姿を悟ることが出来るようになればもはや不要なツールになります。せめて人の世に苦しみのある期間は少しでも理に近づけるようなサポートツールであればいいと思います。
そうであれば、絶対にその現場で「依存」という現象は起こりえませんから。
タオコード、内容はうろ覚えながら私も読んだことがあります。同じ作者の「ガイアの法則」は面白かったです。
なお、「理」とは「空(くう・アカーシャ)」に書き込まれた一種のプログラムみたいなもんじゃないかと思ってます。そしてそれを書いているのは、己自身なのでしょう。
投稿: AYA | 2012年3月30日 (金) 14時18分