目覚めよ我らが解決能力
「何もかも菅が悪いのだから菅さえやめれば解決する」と思ったら大間違い。
最近は政府機構自体、政治家自体がまともに機能してないからだ。
そして、そういう政治を選んじゃう日本人自体がまともに機能してないのかもしれない。まずそこから変わらないと(私含め)。
日本人は「長いものには巻かれろ」「忍耐は美徳」「出る杭は打たれる」という発想が長いせいか、問題解決能力が発達せず低い。
問題提起する人間がいたら本人に全部押し付けて(足を引っ張ることはあっても)協力はせず、それでうまくいかなければ批判するだけ。
日本において、批判するだけで代案も出さないし協力しあうこともないのは政治の世界だけじゃない。協力も代案もない批判だけに終始する風潮があちこちに蔓延し、建設的な意見が生まれ育つ環境を奪う。
物事の発展や問題解決に向けた協議の場が、弱肉強食の争いの場にすり替わってしまっている。「発展や解決」が「相手を引きずりおろすこと」へと目的や優先順位がすり替わってしまっている。
そういう世界では、問題提起や建設的意見を出す者は格好の標的だ。
(出る杭は打たれる)
そしてそんな世界を延々と繰り返す。解決されることも改善されることもなく。
(長いものには巻かれろ)
ゆえに問題は「解決されるもの」ではなく、「隠蔽されるもの」になっている。あるいは「押し付けるためのもの」か。
批判さえかわせれば(または相手を批判して引きずり落とせれば)問題など解決する必要がない、という感じ。
そして解決しない代わりに、生贄にした誰か(何か)を叩いて憂さ晴らしをする(あるいは保身する)。
そんな鬱屈した状況が長い間繰り返される。問題解決はそっちのけ。
(忍耐は美徳)
代案のない批判と保身(時々パフォーマンス)だけで政治家の仕事がほぼ成り立つ国というのは世界でも珍しいかもしれない。
しかし本当に問題なのは、そんな政治家達よりむしろ問題解決能力の発達を抑圧する前提で作られた日本の伝統的な体質そのものかもしれない。私達の機能を封印・抑圧しストレスを募らせる私達自身の体質だ。
多分、この体質自体は古代からずっとあると思う。それが近現代まで続き、原爆投下を数時間前には知りながらろくな手を打てず後の祭りになった話(※)も、福島の原発事故がグダグダなのも、この体質が影響してる気がする。
福島で吹き飛んだ2つの建屋とあの時核で吹き飛んだ2つの都市は時空を超えて運勢照応してるみたいだ。
恐らく、こんな体質も古代から続く「日本の個性抑圧(自己否定)」が関わっている気がする。
個性の抑圧は、潜在的な能力と視野をも抑圧する。
政治が社会の縮図になりうるならば、社会(それを構成する人間)の問題解決能力が低いと問題解決能力の低い政治を選びやすいのかも。 社会がそういう運勢を作ってるのかも。
日本人が本質的に愚かなわけじゃないとは思うが、今のところ日本の集合無意識は本来の力(機能)が抑圧される傾向になっており、時折そのフラストレーションが歪んだ形で噴出するような印象。
どの話とは言わないけど、「ブーム的な八つ当たりや憂さ晴らし(代償行為)」による流行的な社会運動と「問題提起に基づく理性的な批判」を大衆が混同しているようじゃ「まともに機能してる」とは言いがたい。
政府や政治家がまともに機能しないなら、国民自体がまともに機能できるようになって、問題解決能力を上げるしかない。封印・抑圧された私たち自身の本来の機能(能力)を解放するしかない。
(これは独裁者願望のある有能な人間につけこまれない秘訣でもある)
私たち自身が、私達の体質を癒すしかない。建設的な意見を標的にしない体質へ。解決よりも代案なき批判の応酬を優先させない体質へ。弱肉強食の争いを、なりふり構わずどこにでも持ち込まない体質へ。弱者(敗者)に転落する恐怖に取り憑かれない体質へ。買い貯めパニックを起こさない体質へ・・・
「解決」と「解決しない代わりの憂さ晴らし(代償行為)」
選ぶのはどっち?
悩める当事者達に眠った個性溢れる解決能力よ、目覚めて互いの能力と連携を成せ。満開に花開け。
関連記事:心の飢えが本当の飢えを招く
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消費税といじめ問題、印刷会社と電子書籍。報道ってなんだかなー、って思う部分もありますが、ここに書かれている事が、もっと多くの人の意識に浮上し認識となればどれだけの事が根本的に解決されていくだろうか、と思いました。
>批判するだけで代案も出さないし協力しあうこともない
>解決しない代わりに、生贄にした誰か(何か)を叩いて憂さ晴らしをする
>私達の機能を封印・抑圧しストレスを募らせる私達自身の体質
ナウシカの世界だと、人間の出した汚染物質によって腐海が生まれ、それを守るために王蟲などが現れる。人は、結果だけを見て腐海を燃やし、次から次へと湧いて出てくる王蟲を殺して解決しようとする。
ナウシカは、腐海、王蟲という結果として現れたものを叩いてもそれは際限のない戦いであり、腐海を作り出す原因、命を生みだす根本である土壌の汚染を解決しなければならない、と教えてくれていると思う訳ですが、それを置き換えれば、根本原因、いじめをはじめとする社会問題は、AYAさんが仰るように個性の抑圧、自己否定を生みだす環境にあると思うのです。これは、世代間、地域社会、国家間、ファッション、容姿、それぞれをひたすら分断し、勝ち負けを常に意識させて、競争できないものまで競争させようとする(順位を付けない徒競争など、これもただ単に運動の分野における個性を抑圧している)、その分断されたグループの物差しで測れないものを排除する行為が、固定されて逃げ場のない学校のその又クラスという狭い分断の中で縮図として繰り広げられれば、究極の個性の抑圧、自己否定=自殺という悲惨な結果が生まれてしまうのではないでしょうか。それは全体が作り出した鵺のような構造で、ドラマのように先生一人だけで解決できるのか。応急処置と並行して、根本的な処置=間違った構造の枠を取り去る事もしなければならないと思います。この問題以外でも、専門化を究めたものは、ある時期を境に(内的自己が枠組みの抑圧に耐えられなくなった時だと思うのです)統合され、次世代への種とならなければならない。
個性を認めるって、相手と自分に同じものがある、という無個性の部分を知る事で、逆に無理なく認めらるような気がします。個性、個性と言ってその部分を忘れてしまうと、個性は、協力ではなく、飲み込むか飲み込まれるかの恐怖の対象=弱肉強食となると考えます。
>悩める当事者達に眠った個性溢れる解決能力よ、目覚めて互いの能力と連携を成せ。満開に花開け。
この文章、心に沁み込みます。
もし、日本が、地球が1つの船だとしたら、そしてその船が暴走し、破たんしかけているとしたら、そこに乗っている生命は、同じ乗務員だという意識だけを無個性に捉え、それぞれの個性、得意分野の連携によって窮地を脱するのかも。だとすれば他の個性をつぶすことで、自分の存在を危うくしているかもしれない。そんな風に思います。
連携せよ、って私は宇宙の始まりから与えられた命題だと思います。剛を制する為の柔。
投稿: サボテン | 2012年7月11日 (水) 12時21分
>根本である土壌の汚染
これは私たち一人ひとりの中にあり、集合無意識の中にあるものかもしれませんね。
人間が己の命の尊さの根拠に「個性」よりも「他者にとっての利用価値」を選んでしまったことも問題でしょうね。
競争(利用価値を調べる機能テスト)の下位いる存在や競争に不向き(又は不都合)な者には「価値がない」。しかしそこで言う「価値」とは、自分自身にとっての価値ではなく、あくまで都合よく利用したい者にとっての利用価値でしかない。しかしそのことに気付かず、混同し、自分個人には全く必要のない自己否定の根拠にしてしまう悲しさ。そして他者を尊ばない根拠にしてしまう悲しさ。時には「生きる価値がない」という判断の根拠にしてしまう・・・
「順位を付けない徒競争」というのは、そんな競争の暗示に支配された心(下位であること、不向きであることを不幸だとする心)のなせる業です。競争を嫌いながら何よりも競争原理の歪んだ価値観に支配されている。
>相手と自分に同じものがある
同じメーカーの、同じ規格のパソコン(OS)だっていろんな使い道があるんですよね。同じ人類でも個性があるのはそういうことじゃないかと。
一人ひとりがユング心理学で言うセルフのレベルから「スタンドプレーから生まれるチームワーク」を発動させた場合、
それぞれの持ち味が生かされ、それらが損なわれず連携できるような配置(コンステレーション)が集合無意識規模でなされれば、それは人知を超えた
一つのオーケストラのようになると思います。
一人ひとりが楽器で、それぞれが音色(個性)を生かした思い思いのフレーズを奏で、結果としてそれらが意図せずシンフォニーになっている(それを成し遂げる指揮者は私たち集合無意識全体であり、その中心にいるオーケストラのセルフ)
・・・そんな感じがします。
http://www.nicozon.net/watch/sm18272386
宇宙は様々な個性と連携の可能性を求めてステージへ無限に楽器を増やしていこうとしているような気がします。
私たちはステージ(既に出現した楽器)しか見えないけれど、ステージの裏側には無限の楽器の可能性がひしめいて顕現を待ってるんじゃないかと。
そして、沢山の様々な楽器(個性)が生み出され存在していること自体が、「個性と連携の可能性探求」という一つの目的の中にあり、個々の違いは即ち「同じ目的の証し」かもしれません。
投稿: AYA | 2012年7月11日 (水) 22時10分