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2011年3月17日 (木)

心の飢えが本当の飢えを招く

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

買い占め自粛求める=燃料、日常品不足で―枝野官房長官

◆心の飢えが本当の飢えを招く
豊さが全員には行き渡らないがゆえの弱肉強食の競争社会に発想を支配された心が災害時を想定する時、助け合いでなく生存競争による物資不足をまず先に想定しちゃうことで不要な不安が生まれ、その不安が不要な買い占め衝動(独占衝動)に駆り立て、半狂乱の奪い合いをして自ら本当に物資不足を作りだす・・・
首都圏の物資不足は自然災害のせいじゃなく人災だ。
被災もしてないし、普通通りに生活すれば避けられた「買占めパニックによる物資不足」という飢えは、普段から余裕と安心に飢えた心が招いたもの。
飢えへの不安が飢えに発展し、競争への不安が競争に発展する。殺される恐怖が本当の殺し合いに発展するように。
「本来は存在していない飢え」への不安が「買占めパニック」という奪い合いの戦いを生み、その戦いが本当の飢えを生み、本当の飢えが不安による奪い合いの戦いを更に深め拡大させ、更に飢えが深まり拡大する悪循環。
それは戦争が貧困を生み、貧困が更なる戦争を生んで来た人類史の縮図。不安が貧困と戦いを深め拡大させてきたのかもしれない。
そんな歴史が積み重ねの上に出来ている現代。常日頃から生存競争の負け組になる(飢える)ことへの不安を原動力にしてきた社会が生んだ条件反射の災害。
それが首都圏の買い占めパニックによる物資不足だ。

要するに、「不安に負けて奪い合わなきゃそもそも飢えなど発生しなかった」ってことだ。 

これは買占めパニックの視点だけじゃなく、現代史の視点でも人類史の視点でも同じことが言える。飢えの恐怖が奪い合いと独占に駆り立て本当に飢えを発生させた。起きなくて済むはずの飢えが起きていた。
「豊かさを奪い合う=豊かさを独占しあう=豊かさの循環が止まって行き渡らない=金運の流れが止まる」だ。

◆競争社会の背後?
「競争に参加しないと自動的に最底辺の負け組になって飢えてしまうぞ。死んでしまうぞ。それが嫌ならいつまでも競争に参加し続ける方法しかない。出来るだけ勝利を独占せよ。人間が生き延びるには、絶対にそれしか方法が無いのだ。それ以外の方法は許されないのだ」・・・弱肉強食の競争社会が発展のために人々の心を支配し駆り立てる時に使う魔法の洗脳呪文。
負け組になる恐怖の背景が飢えの恐怖だとすれば、飢えの恐怖・負け組の恐怖は源を辿れば本能的な死の恐怖ということにもなる。我々を競争に駆り立てる強烈な鞭(原動力)は、つきつめれば死の恐怖だったのかも。
「飢えの恐怖=本能的な死の恐怖」だとすれば、競争社会が動物的な弱肉強食の様相になるのも分かる気がする。そして弱肉強食はいっそう恐怖を扇動する。
欲望渦巻く弱肉強食の競争社会。欲望の強さは恐怖の強さに比例? 
ならば怖くなければ、そこまでがっつく必要はないのかもしれない。がっつくこと(奪い合うこと)から解放されるかもしれない。

飢え(負け組)の恐怖を原動力にして繁栄を追及することで成り立つ我々の文明は、飢えを手放すことが出来ない。飢えを手放したら競争の原動力を失って成り立たなくなるから、稼動と繁栄を維持するためにはどこかで飢えを維持しておかなければならない。飢えをなくすわけには行かない。むしろ、いつも確保しておかなくては(この文明、技術的にはとっくに飢えを克服してるのに)。
飢えを確保し、それを原動力にした奪い合いをさせ、長続きするように制御する。制御を失えば大惨事。想定外の暴騰・暴落・爆発的な大戦争。最悪の場合、世界は焼け野原になるかもしれない。「奪い合い」を核分裂に置き換えれば、そのまま原発の仕組みとそっくりだ。
飢えを恐れて豊かさを追求し、豊かさを追求するために飢えとその恐怖を保ち続ける。
そういう方法でしか成り立たない文明システムを、そこまで絶対視する必要はあるんだろうか? 
(多分、飢えの恐怖を基盤にしてるという点では資本主義社会も共産主義社会も同じ所から生まれてる。どちらも豊かになるのは一部の勝ち組だけ。勝ち組の肩書きが若干違うだけ。どちらのシステムも奪い合いの道具になっただけ。)
ハングリー精神を生きる支えにしたら、ハングリーを手放せなくなってしまう。飢えから抜け出せなくなってしまう・・・そんな文明は、ニンジンを目の前にぶら下げられた空腹の馬車馬が引く馬車みたいだ。

◆「怖くない」としたら
人の心が人の運勢を作り、大衆の心が社会の運勢を作る。
負け組に堕ちることを恐れる人々が作る社会の運勢は、そこから逃れようとするあまり却ってリスキーな手段を選ばせてしまうことがある。例えば貧しさに耐えかねて犯罪に手を染めたりマフィアの世界に入るのも同じパターンだろう。戦争や冷戦もそうだろう。先進国を目指し国際競争や市場競争に勝ち続けるために一旦事故ればお手上げになることもある「原子力」に手を出し頼ったこともそうだろう。つまるところ、「死の恐怖から逃れるためなら死の危険もいとわないぞ!」と思ってるようなもの?
(怖いのか怖くないのか、どっちだよw)

では、人々がそういう恐怖感を持たなかった場合、社会の運勢はどうなるんだろう?
災害による買占めパニック(恐怖ゆえにがっつき独占する現象。恐怖に基づく欲望の強さの象徴)をきっかけに、ちょっと今後の社会の開運法をネタで考えてみた。

今までは飢えの恐怖を原動力にして「飢えの恐怖を抜け出す(=奪い合いの競争に勝つ)」ために発達させた無数の手段(戦いの手段)がたまたま結果的に社会と文明を発達させ、それが豊かさと飢え(勝者と敗者)を生んできたのだとしたら、それは、あくまで戦いの手段を発達させただけであって直接豊かさの手段を発達させたわけではない。
とすれば、これからは戦いじゃなくて直接豊かさの手段を発達させてみてはどうだろうか(技術的には可能)。「恐れ(そこから生まれる奪い合いと競争)」とは全く無関係で、戦いを前提にも目的にもしない、よりポジティブな原動力と手段が欲しい。例えば「楽しそう」とか「面白そう」とか「もっと良くなりそう」とかいったネガティブ感情に裏打ちされていない純粋な「発展性や可能性への好奇心」みたいなものを原動力と動機にした豊かさの探求をしていく発想が吉かもしれない(最近はそういう動機で発生したものが流行ったりしやすい運気だし)。

「人類は飢えの恐怖を抜けだす奪い合いの競争を通してしか豊かさも文明発達も追求できない・しない」と思い込むことはない。たまたま恐怖が文明のきっかけ(動機)になったに過ぎない。にもかかわらず、単なる「きっかけ」を必要不可欠な原動力として誤認し大切に絶やさず維持してきたかのような歴史をたどっているのは滑稽に見える。
まるで、コンプレックスをバネ(原動力)に能力を発揮して活躍し続けようとする人が「コンプレックスがないとバネを失って活躍できないから」という思い込みからコンプレックスを手放せず、解決出来ないジレンマに陥ったかのようだ。
たまたまコンプレックスがきっかけで見つけた能力は、コンプレックスが無くたって消えはしないのに。必ずしもコンプレックスと能力を結びつけず、もっと純粋に自由に能力を使っていいのに。
(上の文、コンプレックスっていう単語を飢えに置き換えてみて)

◆ポジティブな原動力
戦いじゃなくて直接豊かさの手段を発達させる。あくまでも「勝てそう(恐怖を遠ざけられそう)」という発想に基づかないポジティブさ。「恐れ」に基づかず、それとは無関係のよりポジティブな原動力に基づく動機で色んな豊かさの手段を発達させることができれば、そこには「戦い(敗者が必ず出る)」といったようなネガティブな要素や動き(やり方・手段)が入らない分、豊かさと繁栄の運気にもネガティブな副作用(勝者の裏にある敗者。豊かさの背後の貧困)が出にくいかも。
繁栄の維持に必要な原動力が「飢えと恐怖(それゆえの争い)」ではなく、それとは無縁のもっとポジティブな原動力になれば、古い原動力と手段である「飢えと恐怖(それゆえの争い)」は確保しておく必要が無くなる。「飢え」に基づく運気も発生しにくいかも。

飢えとその恐れに基づき、「がっつく(独占する)こと」を目的にしなくて済むなら、物事をよりポジティブかつ純粋な動機と動きで取り組めそう。
(例えば、ビジネスや生計のためのアートではなく、純粋に芸術的喜びを生み出すためのアートになっていくような感じで)
「恐れ」を持たないようにする時、「助け合い」は大きく役に立つ。買占めパニックからも分かるように、生産力と貯蔵力とインフラが発達した今の時代、そもそも恐怖に駆られて独占合戦=奪い合いさえしなければ飢えない。物資不足の地域に供給を優先したって飢えやしない。むしろそういう助け合い・譲り合いが物資不足(飢え)を防ぐ。飢えの恐怖による奪い合い(独占合戦)も防ぐ。
だから本当は、「恐れ」など持つ必要が無い。原動力として依存する必要もない。

「怖くない」と皆が知っている。そういう環境の中で心に余裕が出れば、今までみたいな「恐れ」とは無縁の原動力が作りやすいのでは。恐れに基づかないポジティブな能力の発揮ができるのでは。
むしろ飢えの恐怖が支配する競争原理全盛の時代が作る「豊かさ(有利さ)」とは全然違う意味の「豊かさ」が生まれていきそう。 恐れに基づかないポジティブで純粋な動機と動きで得た利益は、更に豊かな可能性をさぐるための余裕や糧になる。

「飢えの恐怖による競争」から「助け合いによる余裕と安心と豊かさ」に基づく社会へ。
「飢えの恐怖による競争」から「純粋な可能性への好奇心」に基づく社会へ・・・

原発同様、原動力の根本的な見直しをした方がいい物事は多い予感。

◆「奪い合い偏るだけの世界」から「生み出し行き渡り循環する世界」へ
私達が追求しているものは「戦い」ではなく、「豊かさ(発展と可能性)」であり繁栄だったハズ。なら「戦い」などという回りくどいことをせず、純粋にそっちへアプローチすればいい。
手段と目的を取り違えたり混同させたりしない。手段を優先するために目的を犠牲にしない。手段に縛られない。それが開運のコツかも。

競争原理時代の豊かさが「戦いによる豊かさの偏り現象」だとすれば、豊かさの偏りは貧しさの押し付け合いでもある。
本来豊かさとは、「奪い合う(偏らせる)」のではなく、「生み出す」もの。 貧しさは「押し付けあう」のではなく「豊かさを生み出して補い解消する」もの。
本当の豊かさとは、「恐怖に駆られて奪い合う必要がない状態」かもしれない。ならば、奪い合う必要がなくなるまで(怖くなくなるまで)生み出し循環させればいい。奪い合いの手間ヒマとエネルギーを、生み出し行き渡らせることに使えばいい。
奪い合いは「豊かさを生み出す」ことに比べれば、豊かさを作る手段としてはとっても効率が悪い。また、奪い合うことを前提に何かをいくら生み出しても、決して豊かにはなれない。生み出した豊かさを独占し奪い合ってしまえば、その瞬間から全体に行き渡らず循環せず偏りと貧しさが生まれてしまう。独占=奪い合いはむしろ貧しさの原因。「豊かさを生むこと」と「豊かさを沢山奪い取って独占すること」を混同してはいけない。いくら奪い合って独占しても、豊かさは増えない。偏るだけ。不足するだけ。金運は流れすことなく滞留する。
(都市から生まれた現代文明は、豊かさを奪い合う力は磨いてきたが、豊かさを生み出す力はあまり磨いてこなかったかも。文明の性格が男性的すぎるのだろうか?)

今の経済システムは富を偏らせる(奪い合う)だけで富を行き渡らせはしないから貧困が消えない。偏りは、豊かさが行き渡り適宜回遊する永久運動(=豊かさの循環)を妨げてしまう。
富の偏りは貧困(飢え・飢えの恐怖)の押し付けあいでもある。 世界が本当に富を有効活用してたら、豊かさは全体に満遍なく増えていって循環し貧困なんかとっくに消えてるはず。豊かさが行き渡った先にで新たな豊かさが生まれる。 本当に豊かさが足りないなら、奪い合わずに生めばいい。皆で足りるまで(奪い合う必要がなくなるまで)生んで、生んだものを奪い合わず独占(滞留)させず行き渡らせればいい。地球の水が減ることなく天地を循環するように。
地球の水は決して減らない。水不足は、その土地にいつも通りの安定した水循環が発生していないから起きるだけ。水を「豊かさ」に置き換えても同じだ。
富を偏らせ貧困の押し付け合いに勝てればそれでいいのか、富を(豊かさ)行き渡らせる循環運動を続けたいのか。 「経済」の意味を考え直す価値はありそう。

「生めよ増やせよ地に満ちよ」・・・これは、単に人間の個体数を増やすという話ではなく、「豊かさを生み満遍なく行き渡らせ循環させる」ということだったのかもしれない。
「衣食足りて礼節を知る」・・・「衣食足りる」とは、社会と集合無意識を支配し駆り立てる飢えの恐怖を脱却し、独占と奪い合いの発想から抜け出すことを意味していたのかもしれない。
今の我々は、奪い合いで富を偏らせた状態を「豊かになった」と誤認している。豊かさは偏るだけで、増えてない。充満も循環もしてない。滞留しているだけ。
植民地経済(飢えの恐怖が動機の欲に駆り立てられ他から富を奪う仕組み)に依存した産業革命由来の経済システムを我々の文明が採用している限り、豊かさを循環させることができない。
豊かさの循環不全が貧困や格差や飢えの恐怖と奪い合いをもたらす「欠乏の悪循環」を生む。

競争原理時代の豊かさが戦いによる「豊かさの偏り」であるのに対し、これからは豊かさを偏らせず、貧困を押し付けあわず、豊かさを生み出し満遍なく行き渡らせ、欲しい豊かさが欲しいところに適宜供給される循環運動による「本当の豊かさ」を追求できたら。
文明の原動力を飢えの恐怖ではなく豊かさの安定循環による安心感と、それに支えられた「可能性への好奇心」にシフトすればいい。
一人一人が戦い(単に寄せ集め偏らせる作業)に囚われそこにエネルギーと時間を取られることなく、それぞれが(恐れではなく)純粋な可能性への好奇心に基づいて己のなしうる豊かさ(発展や可能性)を見つけてはそれを生み出し、それらが必要としているところへおのずと行き渡り、行き渡った先で更なる新たな豊かさが生まれ、再びどこかへ行き渡る。その無限の循環を成すシステムが生まれる日はいつか来るだろうか?
豊かさが生まれては行き渡り、行き渡っては生まれ、また行き渡る。その循環が生まれるたびに世界の可能性が広がり刷新されていく日は来るだろうか?
「奪い合い」の循環から「生み出しあい(助け合い)」を循環させるシステムを基本活動にした文明は生まれるだろうか?
飢えの恐怖から逃れんとする意識を原動力にするのではなく、可能性への好奇心を抱き、可能性を支える豊かさの循環を維持しようとする意識を原動力にした文明はいつか生まれるだろうか?

※ここから先はさらに異常電波。常識的な方は回れ右
競争社会を生み、そこで人々を駆り立てる強烈な鞭になった「飢えの恐怖」と「死の恐怖」。
その源にあるのは、有史以前から多くの恐怖とトラウマと絶望と悲しみと憎しみ、その他諸々数え切れないものを生み出してきた「飢え」と「死」の記憶。飢えが解決できなければいずれ死ぬから、両者は時にイコールで結ばれるほどとても密接だ。
とりわけ「死」は恐ろしいが故に様々な宗教や文化を生んだ。精神世界やオカルトもその一つだろう。
ここで、死(転生)や原子力を意味する「冥王星」が数年前に天文学上の扱いが変わったことが、大きく意味深になってくる。冥王星が惑星の概念から「降格」された後、オバマの核廃絶演説や東日本大震災による原発事故により、大衆心理的には原子力へのイメージが変わるようなことが起きた。あれは、そんなに絶対的なものじゃなかったのだ。
なら、今後は大衆心理的に死のイメージや概念が変わる事だって起きるかもしれない。どちらも冥王星の分野だ。

今後、何らかの理由で人々の持つ「死」や「生命」の概念が変わった場合、集合無意識レベルで命や死に対する印象や認識が変わるとすれば、人々が自分の命や自己認識に大きな変化を来たすということでもある。
(オカルト的には、物質的な世界のみしか見えなくなった心が肉体の死を存在消滅と誤認するようになって死の恐怖を作り出したという説もある)
占星術で「変革・革命」を意味する天王星が12星座を一周し、震災の翌日、84年ぶりに「I am」というテーマを持つ牡羊座に戻ってきた。それもあって、人々の心のなかで「死に対する意識変化」が起きたら、などと妄想してしまう。(ちなみに天王星が牡羊座に戻ったその日、福島の原発が爆発した。天王星はウラニウムの語源。牡羊座は火の星座。二つ合わせて火とウラニウムの暗示・・・)

もしも人々の死の概念やイメージが変われば、「死の恐怖(飢えの恐怖)」にも変化が訪れ、死の恐怖に源を発する飢えや負け組になる事への恐れを原動力にした競争社会の変化の一助になるかもしれない。競争社会の運勢が原動力を失って稼動を停止し、よりポジティブなものを原動力にした社会に変化していくことだってありうる? 

・・・全ては妄想。

オマケ

↑コメントにある歌詞に注目

飢えの恐怖に抑圧され犠牲になってたもの?
経済ど素人の占い師があえて書いてみる
人の器に宿りし金運
↑たとえ財産(金運の入れ物)が死のうとも、命が「その人らしく生きるために」つむいだ運勢は死なない。運勢の実現に必要な豊かさは何らかの形で再生する。「器は死すとも中身は死せず」という点では、人間の生命と同じだ。
自分の足を食べるタコ

 

2014.11.8追記 人は死なない←こんなこと言い出す医者が出て来た。彼の著書も結構売れてるらしい。団塊の世代が自らの老いと死を見つめ始める時代になったからか?

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コメント

 一週間くらい、何も食べなくても普通に生活できるようになってきました。
 自分の周りにはいませんが、これから、食べなくても生きていける人が増えるかもしれません。

>魔世たんさん
ご無理なさらず。

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