悲しみだけが愛じゃなく
※あくまで第三者の身勝手な感想です。
東名はよく利用するので気になった記事。巻き込まれた車の赤ちゃんはチャイルドシートに乗っていたものの、残念な結果になってしまったとのこと。
残された者が赤ちゃんを亡くして深い悲しみや自分を責める気持ちが湧くのは無理からぬことながら、ただ、その深い悲しみや自責や後悔は全て赤ちゃんに対する深い愛と喜びの裏返しであり証であり、赤ちゃんが深く愛された証だ。
その愛を悲しみや後悔や自責といったネガティブな形に変換してばかりでは、せっかくの尊い愛がネガティブな使われ方ばかりになってしまうし、赤ちゃんと一緒に生まれて役割を果たしたかった「愛」まで死んじゃったとするのは余計悲しい気もする。「死者に愛を注ぐことは出来ない」と思い込んだり、そのようなルールがあると思い込むのも変だし不自然だ。
むしろネガティブに変換せず、そのまま引き続き赤ちゃんを愛し続ければいいのではないだろうか。
例え今は亡くなっているとしても、例え魂は今あの世だとしても、赤ちゃんが生まれた事実は消えないし、赤ちゃんへの愛が生まれた事実も消えない。
そして家族の一員となった赤ちゃんを愛し続けることは出来るし、その愛は決して無意味ではない。
赤ちゃんを赤ちゃん扱いする必要がなくなるまで、残された者に癒やしが訪れるまで(その愛が役割を終える時まで)、赤ちゃんへの愛を続ければいいのではないだろうか。
「赤ちゃん」というのは悲しみや後悔や罪悪感(愛情の裏返し)を寄せられるよりも、ただそのまま愛情を寄せられる方が基本的には好きなんじゃないかと思う。
これは赤ちゃんを失ったケースだけじゃなく、誰か愛する者を失い残された時には、その者への愛をネガティブな形に変換するだけよりも、その愛が役割を終える時までそのまま愛し続けてていいのではないだろうか。
悲しむことだけが故人への愛ではないような気がする。
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