アダムとイブの物語が象徴するもの?
マニアック注意
ついでなので、アダムとイブの物語そのものでオカルトなトンデモ説を捏造してみた。あくまで無名の占い師が捏造したフィクション(二次創作?)であることを忘れてはいけない。
アダムとイブの物語は前記事参照←右クリックで別窓
オカルトマニアの個人的な願望妄想だが、聖書を含め、その土地の大昔からの神話や伝説というのは、その土地の人々のDNAに刻み込まれた強烈な体験の記憶が象徴的に表現されたものではないかと空想している。DNAを通して人々の無意識に刻まれ受け継がれてきた歴史・・・良い記憶も、嫌な記憶も含めた歴史・・・それが象徴的な物語として信仰される。大昔に一体何があったんだろう? とか色々妄想するとちょっとロマンを感じる。思わず顔がにやけてしまう。
神話や伝説とDNAの記憶----以前もそのような感じの妄想記事(下のリンク参照)を載せたことがあるが、今回もそんな感じで寄り道しまくりの気ままな妄想の旅に出ようと思う(多分ほとんどの人は脱落するほどマニアックになると思う)。この旅は、あくまで無名の占い師が捏造したフィクション(二次創作?)であることを忘れてはいけない(大事なことなんで2回言いました)。
アダムとイブの話はイスラムの聖典コーランにも載っている。そこでは、先に禁断の知恵の実に手を出したのは、イブではなくアダムという事になっている。そして、聖書でもコーランでも、アダムは知恵の実を食べたことを最初は誤魔化そうとしたらしい(コーラン版のアダムはそのことを後に反省している)。聖書の方では、神に「知恵の実を食べたのか?」と尋ねられたアダムが「イブだけが食べた」と神に答えている。これがアダムの行った最初の罪とされている。アダムは、人類最初のウソをついたのだ。
知恵の実を食べたことを誤魔化そうとするアダム・・・何かを誤魔化せる程度の知恵がついたということか。聖書とコーラン、どちらの言い伝えでも、知恵の実を食べて自我と知性を得たアダムは「悪知恵」が働いている。知恵の実の効果はてきめんだ。「誤魔化す」という行為も鍵。人間は、自我にとって都合の悪い事や受け入れがたいことを無意識の領域に追いやり「なかったこと」にして自分自身をを誤魔化す能力がある。つらい記憶やつらい事実を自我の意識領域からすっかり欠落させたり、犯罪者が自分の犯行の記憶を失っていたり。もっと身近な例では「自分は何も悪くない」と思い込むために事実を都合よく捻じ曲げたり、自分を被害者にする(または他人のせいにする)といった能力だ。この真実を封印するかのような機能は心理学的には抑圧とか抑制という。それは自我をもった者(すなわち人間)にしか出来ない。ゆえに、自我は人間のシンボルとも言える。知恵の実を食べて知恵と自我に目覚めたということは、同時に自我(顕在意識)に対する「無意識」という領域が生まれたということでもある。自我と知恵をつけたアダムは知恵の実を食べたことを早速無意識領域に追いやり、「なかったこと」にしちゃったらしい。
向き合わず受け入れずに無意識領域に葬り去られたままの真実は時に心のわだかまりとなり、やがて神経症の原因になることもあるそうだ。言い伝えの世界では、向き合い受け入れその原因を改善(治療)することが必要な真実(宗教的に言うなら悔い改めるべき真実?)を「嫌なものだから都合が悪い。受け入れたくない。なかったことにしよう」と無意識領域に隠蔽し葬り去ったまま放置することに対して、「それは心の健康を妨げること」という本能の視点から『罪』と表現しているのかもしれない。精神衛生上「悪い」ってことで。それなら『罰』はさしずめ神経症の症状だろうか? 人類で最初に自我と知性に目覚めた二人は、人類最初の罪(原罪)を背負うことになる。そして罰も受ける。彼らが食べた「知恵の実」のもう一つの呼び名は、「善悪の知識の木の実」。「罪」の概念もこの実を食べたとき生まれたのだろう。
アダムとイブの物語は、動物のような意識だった人類が始めて自我と知性に目覚め、同時に無意識への心理的抑圧(抑制)のやり方を覚えた時に人類のDNAに刻まれた記憶(知性の使い方と悪用法?を覚えた時の記憶)を象徴的に表現する物語だったのかもしれない。知恵の獲得と同時にその悪用法を得てしまえば、「知恵→悪」と連想する感覚も分からないではない。ギリシャ神話の「人類に火の使い方を教えてゼウスから罰を受けたプロメテウス」の物語も同じ事を語っているのかもしれない。現代風に例えれば、どちらの話も「原子力の使い方覚えると同時にその悪用法(核戦争)を覚えちゃった」ようなものか?
知恵の実を「食べると死ぬから食べるな」と神から言われたのに食べちゃったアダムは930歳で死んだと記録されている。しかしイブがどうなったのかは記録がない。これがまたなんともロマンを感じる。
そのロマンが電波に引火してオカルトマニアの妄想が再び炸裂。もしかすると、イブは「食べると死ぬ」はずの知恵の実を食べていなかったから死の記録が無いのかもしれない、と。知恵の実を食べたアダムが自分と神を「誤魔化した」ためにイブも食べたかのような話になっているが、本当は食べていなかったためにアダムのように死ぬことはないとしたら。
アダムはかつて自分が付いたウソという罪(心理的抑圧)と向き合い受け入れ反省した証に、楽園を追放された後で彼女に「イブ(生命・生きる者)」という名前をつけた?
仮説その2
アダムとイブが人間を象徴する存在であれば、アダムは人間の持つ「都合の悪いこと(神に背いて知恵の実を食べたこと)」を無意識領域に放り込んで「なかったこと」にする能力のある自我(顕在意識)の象徴キャラクターで、イブはそんな自我から「都合の悪いこと」を押し付けられた無意識領域の象徴キャラクターかもしれない。無意識は善悪の判断をしない。だからイブが善悪の知識の木の実(知恵の実)を食べていない(=善悪の判断能力がない)とする話を作った場合でも、つじつまだけは合う。
もしそういう見方をすると、イブはアダムという自我にとってのアニマ(男性にとって自分の中の女性的要素や抑圧されたまま無自覚でいる個性や可能性を象徴し、知られざるもう一つの自分の姿を意味する。しばしば本人が理想とする女性像の形をとる)ということにもなる。
(※ウエイト版タロットの「恋人」のカードには、アダムとイブが描かれている。男性の恋愛感情は自分のアニマを異性に投影することで発生するという説がある)
仮説その3
もっとオカルトなことを書くと(これが本命だけど)アダムの名は「土・人間」という意味があり、イブの名は「生きる者・生命」という意味がある。これをオカルト的に解釈して、アダムは自我や知性といった肉体(脳)の領域を。イブは肉体に宿ることでその体を生命たらしめるもの、自我が認識できない生命の働きや無意識とその領域を司る、いわば魂(心・精神性)という不滅の生命体だとすると、二人合わせて「土(地上)に生まれた体とそこに吹き込まれた魂」。やっぱりイブは死なない。いつまでも「生きる者」だ。楽園を追放された後、アダムは己の心に生まれた罪と向き合った時に己の無意識部分であるイブの特性(自分の魂や生命の特性)を知り、それを表現する「イブ」という名をつけたのかもしれない。イブはアダムという寿命ある生命の、知られざるもう一つの姿(=アニマ)か。
そして何を隠そう、「アニマ」はラテン語で魂を意味する言葉でもあるのだ。魂即ち、肉体に宿る不滅の生命だ。
(オカルト的に見ると、現代人の自我は己の心への理解は乏しく、ましてや魂なんて非科学的なものは『なかったこと』にされている)」
神は「知恵の樹の実を食べた人間達(=アダムとイブ)が生命の樹の実までも食べ永遠に生き神と等しい者になる恐れがある」としでアダムとイブを楽園から追放したというが、イブが不滅の生命(魂)のシンボルだった場合、少なくともイブは、食べると永遠に生きるという生命の樹の実を既に食べている。
イブに死の記録がないのは、果たして知恵の実(食べると死ぬ)を食べなかったせいなのか、それとも生命の実(食べると永遠に生きる)を食べたせいなのか。そして生命の実を食べていた場合、彼女は知恵の実も食べていた(=神と等しい存在になった)のだろうか? というのも、アダムとイブが知恵の実を食べる前なら生命の実を食べることは禁じられていないのだ。
私は多分、イブ(不滅の生命=魂)という存在は「神と等しい存在」なんじゃないかと思った。そう、一人一人の魂は、「八百万の神」なのではないだろうか、と。
イブ(生命)がアダム(人間)のアニマなら、彼女は全ての人類が持っている「隠されたもう一つの姿(=抑圧され無自覚なままでいる個性や可能性)」、すなわち魂という不滅の生命(神と等しい存在)だ。
それは昔から(神同様に)生命を生み出す機能を持つ女性達に神秘と恐れの気持ちを込めて投影されて来たかもしれない。時には「恐れ」の気持ちが優勢になってしまい、投影された側の女性達までが恐れられた挙句、「恐れが自我によって抑圧される」かのように歴史のなかで女性が抑圧されたこともあったろうか(魔女狩りとか、ある種の男尊女卑とか?)。
まとめ
アダムは死に、イブの死は記録されず。多分それが原因でジッダにイブのお墓伝説が生まれ、21世紀初頭に至ってそのジッダで未曾有の洪水が発生。宗教上の事情でコンクリートにがっちり封印されたイブのお墓(これもある意味都合が悪いから抑圧されたもの)とされる墳墓も水の中に沈んだのだろうか?
「水」は無意識のシンボルだ。そして「洪水」は抑圧という心の堤防を上回る力を秘めた無意識の作用によって、かつて自我に「なかったこと」として水の中に沈められたものが堤防をこえて再び自我領域にどんぶらことやって来る現象のシンボルだったりする。その現象の一つが、神経症だ。
(※旧約聖書には、罪深い人間への罰として神が洪水を起こすという『ノアの洪水伝説』が存在する)
そして、「お墓」は故人の記憶を想い起こさせる場、すなわち「過去の記憶が甦る場所」でもある。
歴史の水底に葬られ、その記録は「なかったこと」にされているイブの秘密の手がかりが、やがて抑圧を越えて水面上に現れる日は来るだろうか?
自分の都合の悪いもの(時には『罪』)を長い間無意識領域に押し付け、「なかったこと」にしてきた人ほど無意識領域と向き合うことを恐れる(そしてその恐れさえ抑圧する)。だからそういう人の自我は必死に堤防を作って無意識の作用を抑圧(封印)することがある。コンクリがあったら使いたいかもしれない(この文章の『無意識領域』を『女性』に置き換えると・・・?)。
私達は、いつか謎というコンクリートに包まれたイブの秘密に出会えるだろうか? 謎のまま無意識の水底に沈められ、抑圧されてきた私達の生命のもう一つの姿(イブ)と私達が出会う日は来るのだろうか?
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