連想と投影の魔力(恋愛編)
※あくまで個人的な意見です。全ての恋愛が以下のケースに当てはまるわけではありません。
人は、自分にとって心から本当に獲得したいもの(自分の隠れた個性や可能性、安心感、安定した自尊心など)を無意識に外部の物事(例:恋人/想い人、お金、容姿、地位など)に連想・投影し、その投影対象(投影スクリーン)になった物事に過剰(時に病的)に執着することがあるようだ。復活愛・復縁をいつまで経ってもあきらめられずにいる背景や「近づけば冷めるが離れれば恋焦がれる」タイプの恋愛にも、そんな「本当に欲しいものを別のものに投影している」というケースが一定の割合で存在するようだ(全員がそうだとは思わない)。
しかしその場合、自分が本当に欲しているのはその投影対象にした外部の物事ではなく、自分自身の内部にある。そもそも、自分の中に「欲しいもの」というフィルムがなければ「投影」という行為自体が不可能だ。スクリーンだけあってもフィルムが無ければ映画は見れない。よって投影先の「スクリーン」の方を手に入れても、本当に欲しいものを獲得したことにはならない。スクリーン自体はただの白い幕。手に入れたところであの夢のように素敵な作品を手に入れたことにはならない。あの作品が欲しいなら、「スクリーン」ではなく心のどこかに隠れている「フィルム」というものの存在に気付く必要がある。投影対象より投影元とでもいえばいいか。
上映された映画を「求めていた姿が本当にそこにある!」と思って近づけばスクリーンがただの布だと分かってしまう。「何かを期待してアプローチしたけれど、とんだ期待外れだった」という現象が起きるのはこんな理由かもしれない。恋愛に限らず、いろんな場面でよくある現象。しかも、一度近づいた時布とわかったスクリーンから一定の距離を置けば、再び求めていた夢のような映画の世界が見える。だから「近づけば冷めるが離れれば恋焦がれる。どうにも踏ん切りがつかない」なんてケースもある。
次から次へと良質なスクリーンを求めて奔放な恋の遍歴を重ねたり、浮気や不倫を繰り返す場合もありそうだ。「既婚男性」というスクリーンに幼い頃の「理想の父親象」を投影して不倫に走る女性や、恋人をスクリーンにして「理想の母親象」を投影する男性もいるみたいだ(理想の親像は、自分のなかの『遺伝子』という生命プログラムの中にあるのかもしれない。そのプログラムに直接アクセスできれば・・・)
♡あの素晴らしい上映をもう一度
心の望みを投影した相手と交際が実現した。心の望みを投影した物事を獲得した。けれど、心からの望みを手に入れたと思ったのに、相手はただの白い布。心はちっとも満たされず不満やストレスが募る。時にはその不満を相手にぶつけ、相手は離れていく。すると心から望んでいたものが逃げてしまうように感じて、失ったら二度と手に入らない気がして、もしかして絶望してしまうんじゃないかと不安で、どんなことをしてでもとりもどすか相手が自分から逃げられない方法(誰にも渡さない方法)をアレコレ考える。いつか白い布にあの夢のような作品が上映されるまで、本当に欲しいものを獲得するまで、相手(スクリーン)に執着する。なもんで、恋には「地獄の果てまであなたを追いかける」というような恐ろしげな表現すらある。時々そんな心理がこじれた結果の犯罪事件も発生する。
それとは逆に、心の望みを投影した物事をGETした最初は「心からの望みを手に入れた」と思ったのに、全然面白くない。結局すぐにやめてしまった。そんなケースもある。
心が望んでいるものが非常に切迫したものであった場合、それを投影したスクリーンに対して「これこそ本当に欲しいものの正体だ」と勘違いしていた場合、それを失ったときに非常にシリアスな事態に陥ることがあるのかもしれない。そんな勘違いの結果、ひどく絶望してしまうケースもありうるのだろう。それが怖くて投影対象(スクリーン
)に執着するよりも、本当に欲しいものの本質を(=スクリーンじゃなくてフィルム本体を)自分の内面に向かって探しに行く方が建設的かもしれない。相手をスクリーンに出来るうちはまだいいが、そんな期間が長いとは限らない。すぐに布だとわかってしまうことも。その時になって自分が欲しいのは布じゃなくて投影元のフィルム(投影元のプログラム)だと気づけるかどうか。
♡欲しいのはスクリーンの布? それとも映画のフィルム?
本当に欲しいものの「投影」ではなく「本質」を手に入れること。自分の心が本当に望んでいるものの正体を突き止めるために自分と向き合うこと。それが復活愛や復縁に執着する以上に自分の幸せへの近道かもしれない。投影対象になった外部の物事に執着したり振り回されたりするより近道かもしれない。
「何かを投影したから欲しくなった」のか否か。それが問題だ。
スクリーンとフィルムはイコールではない。心が本当に望むものと投影対象とは、イコールで結べない。だから、投影対象は「本当に欲しいもの」ではない。本当は欲しくないものが手に入らなくても、ちっとも困らない。結局、「本当は欲しくないもの」は「本当に欲しいもの」を本当の意味で手に入れる役には立たない。
恋の場合、もしも相手が単なる投影対象ではなく、「本当に欲しいものの本質」と「相手との交流」がイコールで結ばれた時、相手を愛することが「本当の心の望み」と一致した時・・・
その時は実際の恋の結末がどんなものあれ、多分悔いのない恋ができるのかもしれない。多分その恋の経験は無駄にならないのではないだろうか。
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