自己犠牲
じこぎせい 【自己犠牲】 :
自分を犠牲にして他のために尽くすこと。
出典:大辞林(三省堂)
「自己犠牲」に本当の「犠牲者」はいるのだろうか?
「自己犠牲」とはいうけれど、それははたから見てそう見えるだけであって、外野から見て「自己犠牲」している本人にはそんな認識はないと思う。多分、「自分は犠牲になっている(=自分は犠牲者だ)」とさえ思っていないだろう。もっと高い視点から見ると、それは明らかに「そうしたい」という欲求であって、本人は単にその欲求を満たしているだけなのだろう。他人から見て「自己犠牲」を実践していると思しき本人の中では「犠牲者になった」という意識は無く、むしろ欲求を満たした満足感さえあるんじゃないかと思う。
その場合、別に本人は自己を犠牲にして他人のためだけに行動しているわけじゃないし、ましてや「全く自分のためにならないことをしている」わけでもないと思う。だって自分の意欲を満たせるわけだから、それは「自分のためにもなる」わけだ。けれどそのことが本人への感謝の気持ちを薄めることには決してならない。
多分、「○○のために私は犠牲者になろう」「私さえ犠牲者になれば」という発想をした時点で、それは「自己犠牲」じゃなくて、むしろ「やせ我慢」とか「自己否定」の方向に近いんじゃないかと感じる。
(無論、やむをえずそうなることを選択するケースもあるだろう。『やむをえないやせ我慢』を頻繁に強いられる環境にはあまり長く身を置かないほうがいい)
「尊い自己犠牲」に憧れ、「自己犠牲を実践しよう」と頭で意図した時点でそれは多分「自己犠牲」以外の何かだ。
動物にも「自己犠牲」的な行動を取るものがいるそうだ。例えば、南極の皇帝ペンギンの母親は危険を冒してまで遠く離れた場所へ子供のためのえさを探して持ち帰る。その間、父親は全く何も食べずに雛が凍えないよう己の体温で雛の体を温め続ける。これは種族に備わった本能で、彼らはその本能的な欲求を満たしているともいえる。もしもその過程で自分が死んでしまったとしても、彼らは自分のことを「犠牲者だ」とは思わないだろう。
多分、同じ自己の欲求でも「優先順位」が違うだけで他人には「自己犠牲」と写るだけなのかもしれない。だけどそこには、多分本当の意味での「犠牲者」はいないのかもしれない。それは「尊い」気がする。
マクロな視点での欲求は、優先順位が「自分だけ」とは限らない。
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