理想と現実
※以下は個人の仮説です。
夢や憧れが示すもの
実際に自分が目指す具体的な理想や目標を作る時。
最初から空想や憧れに基づいた理想を根拠に目標を作ってしまうと、いつまでたっても目標を実現できず、或いは努力が進まず、現実や自分に幻滅しやすくなるようだ。この手の理想は、いわゆる「現実離れした理想」というやつ。私ならタロットで女司祭の逆位置や杯の7をすぐ連想する。実際そういうカードが良く出たから。
現実世界に幻滅した結果、自分を取り巻く現実に張り合いや意欲や価値を見出せなくなってしまい、無気力や現実逃避に走る人もいる。ニートになる人もいるかもしれない。幻滅させないカリスマを求めて宗教的なものにハマる人もいるかもしれない。
「現実離れした理想」。またの名をつけるなら、「現実の自分とは無関係な理想」とでも言うべきか?
そんな理想を作る傾向を持った人は、しばしば「思い描いた通りの成果や結果が出ないなら、最初から何もしたくない」という心理になるらしい。その結果、今までの努力を全否定し落ち込んでしまう人や、最初からそう思うことで意欲を見失い何も出来なくなってしまう人、あるいは必要以上に完璧主義になってしまう人などが出てくるらしい。そして、現実離れした理想のために自分に幻滅するということを繰り返した場合、以前書いたテーマである「根拠のない劣等感」を作ってしまう人もいるようだ。「私は何一つ満足に出来ない」という気持ちになりやすいらしい。
何かを空想したり、何かに憧れている時、夢見ている時はとても楽しい。けれども、それが本当に夢や憧れの実現に向けた実行意欲や努力の意欲や充実感を与えてくれるかといえば、必ずしもそうではない。「空想」の中身が実行意欲と直接接点の無いもので、自分が本当に具体的に「やりたい」ものではなかった場合は特に。実行して楽しむものと空想で楽しむものは、違う。空想世界の自分が望むことと、現実世界の自分が望むこと。実行と空想とでは、充実感の手段がだいぶ違うようだ。例えば、自分が一流のピアニストになる様子を空想する(夢見る)ことが楽しいからといって、それが現実にピアニスト目指す意欲を示すとは必ずしも限らない。時には現実世界で意欲の持てる具体的物事は空想とは別に存在することもある。しかし、時に両者は混同されやすい。すると努力は進みにくく成果が出にくい(直接意欲がないから)。すると思い通りに行かない現実や自分自身に幻滅したり、「思い描いたとおりの結果(ピアニスト)になれないなら最初から何もしたくない」という気持ちなるなどして、最初の段に書いたような心理に陥りやすいかもしれない(習い事が続かない人のいくばくかはこういうケースもあるだろうか?)。「直接意欲がない」ということは、「実行意欲がない」ということ。それは実現可能な憧れとはいえない。
外の世界での楽しみと、内なる世界での楽しみ。2種類の要素を上手に見分けることは日々を充実させるコツの一つかもしれない。内面で空想することと、現実世界で実行することとの間には、場合によっては夢の中で人を殺すのと現実で人を殺すぐらいの違いが存在していることもある。
仮に空想だけでしか自分の現実の理想や目標が作れないとしたら、その人はまだ「空想する喜び」しか知らない。「実行する喜び」を知らない。自分のなしうるものを知らない。自分を知らない。自分の意欲や可能性を理解していない。
昔誰かが言った。「汝自身を知れ」
空想や憧れや漠然とした「夢」の内容には、自分の中に潜む実現可能な本当の意欲や可能性が象徴的に反映されていることがある。自分の抱く空想や憧れや夢が何を象徴しているのかを解き明かすことは、自分に潜む本当の「意欲」を見つける手がかりになり、その結果象徴的な憧れに基づく現実離れした理想ではなく、現実の意欲につながった実現根拠のある理想や目標作りに役立つことがある。これは後述する。
心に浮かんだ象徴的な空想や憧れを、「象徴ではなく本当の意欲だ」として混同して追い求めるだけでは、今の自分の中に本当はどんな意欲や可能性があるかが見えてこない。そういう状態になった時、人は時に自分に幻滅しやすいのかもしれない。内なる世界を象徴的に表現したものを現実と混同し現実と思い込むこと。それが「幻」だ。何かに幻滅したら、自分の理想や目標は何の象徴だったのか(幻のモトは何だったのか)をチェックしておいた方がいいのかもしれない。幻が消えたぶん、きっと分かりやすい。夢を見ている時は、それが夢という象徴的な世界だとは気付きにくいが、目が覚めれば大概は気付く。象徴的な憧れを投影した物事に幻滅する(=幻が滅ぶ)のは、一概に悪いことではないかも。
さて、心に浮かんだ空想やイメージをそのまま理想や目標にしてただ追い求め幻滅するよりも、ちょっと視点を変えて「自分がなぜそのような空想や憧れを思い浮かべたのか」「何故そういう夢を見たのか」を考えてみるのはどうだろう? その内容は自分の内なる願望や内なる可能性を間接的に象徴していることがある。まるで夜の夢のように。けれどもそれはあくまで「象徴」という間接的な表現なので、その空想やイメージが実際には何を意味しているのかを注意深く解き明かす必要がある。額面どおりには受け取れない。仮に自分の空想が内なる願望や目標を象徴している場合、空想内容をそのまま額面どおりに現実世界で追い求めるのではなく、空想内容が象徴的に表しているものを理解したうえでそれを目指す必要がある。自分の空想やイメージを外部の何かに投影して期待した場合も同じ。
例えば、「有名になることで周囲から認めてもらう」といったタイプの空想(理想・目標)の場合。実は「私は自分の持ち味を自分で認めたり理解したりすることが出来ない。自分自身に十分注目できていない。仕方がないから私の代わりに周囲にそれをやってもらいたい」という心の象徴で、それは即ち「本当は自分で自分の持ち味をしっかり認識したい。自分自身から認めてもらいたい。ちゃんと自分を見てあげたい」という内なる願いの間接的な表現(裏返し)だったりすることがある。そして自分を理解し認めることは、有名人を目指すよりっずっと現実的(な方法)で実現しうる内なる可能性ともいえる。その実現を目指すために今の自分に出来ることは、例え些細なことであってもその時の自分にとって「自分のなしうる最良のもの」かもしれない。
もし自分が象徴的な理想に秘められた己の本当の願いを実現した場合、自分はどんな人間になり、どんな生き方をするだろうか?
自分が追い求めている理想や目標。それが現実に即した意欲や欲求から来るものではなく、単なる空想から来るものだった場合、その空想は自分にとって何を意味しているだろうか? もしもその空想が自分の内なる願望や内なる可能性を象徴しているものだとすれば、その空想が本当の願いの裏返しだとすれば、その空想が象徴する本当の願いは、いつか実現するかもしれない。より現実世界に即した手段や形で・・・
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