社会

2023年3月 3日 (金)

「危機」という名の口実と、考える力

※以下に書いたことはあくまでも「現時点における個人の感想と妄想」です。

昆虫食ぶっちゃけQ&A
昆虫食が地球の危機を救う!? その知られざる実態を徹底調査!
「救世主はコオロギ?」無印良品が提案するサステナブルな食生活
コオロギ食が議論 根強い抵抗と不安 専門家は安全性強調「アレルギーには注意すべき」
昆虫食は人類を救うのか? 私が「コオロギを食べるのは危険」だと思う理由
次世代フードとして注目の昆虫食 国内法整備進まず「どんな昆虫でも食品にできてしまう」現状
東京大学 大学院教授・鈴木宣弘氏「まともな食料生産を潰して武器とコオロギで飢える愚かさ」
EU で1月24日からあらゆる加工食品にコオロギ粉末の添加が許可・実施される
コオロギ食の前にフードロス対策を


◆昆虫食について
最近、食料危機や脱炭素、SDGsといった理由で急速にコオロギ食が推進されている。ダボス会議及び世界経済フォーラムでも昆虫食推進が挙げられ、既にJALの機内食材料にコオロギが導入され、大手からコオロギ入りのパンが売られ、今後は給食にも導入されるかもしれない。
コオロギ食普及にパソナや電通も乗っかっている。この急速さに違和感を感じてコオロギ昆虫食について調べてみた(上のリンク参照)。
さらに、内閣府の食品安全委員会がコオロギ食のリスク要因を研究した論文を紹介しているのを発見。
論文紹介ページはこちら

以下、内閣府食品安全委員会のサイトより一部抜粋。

リスクプロファイルにおいて以下に挙げる相当な懸念が特定された。
(1)総計して、好気性細菌数が高い。
(2)加熱処理後も芽胞形成菌の生存が確認される。
(3)昆虫及び昆虫由来製品のアレルギー源性の問題がある。
(4)重金属類(カドミウム等)が生物濃縮される問題がある。
寄生虫、カビ類、ウイルス、プリオン、抗菌剤耐性及び毒物類等の他のリスクは低いと判定された。数種のリスクに関しては、更なるエビデンスが必要であることを強調しておく。

(4)の「重金属の生物濃縮問題」は、コオロギの食べる餌に使われている農薬がコオロギの体に蓄積されるためだろう。
コオロギ含めいくつかの昆虫には甲殻類と似た成分があるので甲殻類アレルギーの人は要注意だ。虫入り食品には見やすい場所に「虫入り」と明記しないとアレルギー持つ人が知らずに食べちゃって思わぬ事故につながる恐れがある。
ただ、コオロギ含め昆虫食は中国や東南アジアでは昔から食べられてきたという。wikiによれば、伝統的な昆虫食は「あらゆる昆虫を一年を通じて食べるわけではなく、特定の昆虫が旬の時期に食べられてきた」という。コオロギなら旬は9~10月。

また、コオロギは古来より薬として用いられていた。
83年に第一刷が発行された「漢方医学大辞典1 薬物編」コオロギの項目から一部抜粋。

効能は利尿消腫。臨床応用は尿閉、水腫、気チョウ(月偏に長の字)、2~6個を煎服し、或いは1~2個を焦がし焙って粉末にして呑服する。
妊婦は禁忌

コオロギは体から水を排出させる作用(利尿作用)の薬としても用いられてきた。その場合はあくまで薬であるため、病人向けに少量を接種することが前提だ。医師がその人の体調に基づき処方を判断する必要がある。過剰に摂取したり必要でない人が摂取してしまえば、体の水分が不足する。それを知らずに日常的に長く食べ続ければ慢性的に血液がドロドロ気味になって血流悪化し、血栓ができやすくなったり、循環器系に負担が出やすくなる。水分不足は腎臓にも良くない。
コオロギ含め昆虫食というものは、人類にとって「旬の時期に期間限定で食べる経験」はあるものの、旬とは無関係に年間を通じて日常的に摂取し続けてきた経験が未だ乏しい。当然、年間を通して長期に食べ続けてきた場合のエビデンスが不足している。
もしコオロギに重金属(農薬)が生物濃縮されている場合は長期に食べていると有害な重金属が体に蓄積してしまって危険。
コオロギにはタンパク質が多いのと同時に痛風や動脈硬化の因子になるプリン体という成分も多い(米国立衛生研究所)。
⑵の芽胞形成菌と言えば食中毒で有名なボツリヌス菌やウェルシュ菌が代表格。漢方ではコオロギを処方する時焦げるほど過熱する理由はこのような菌がいるからだろう。いずれにせよ、コオロギは食べ方や調理法には要注意だ。
食品の原材料を記した欄に下の単語がどれか一つでも入っていれば、それはコオロギ入り食品である。

ドライクリケット
クリケットパウダー
グラリスパウダー
サーキュラーフード
シートリア
レオバイト

◆ワクチンと昆虫食
・・・ここまで読んで、昆虫食推進がコロナ下でのmRNAワクチン推進と似たような臭いを感じる方もおられるかもしれない。エビデンスが不足しているものを推進しているところや、循環器系や血流にリスクがあるところもそっくりだ。個人的には「危機」を口実に普及を目指し健康や安全よりも目先の利益や別の何かを優先しているかのように見えるところも似て見える。
ただでさえワクチン接種で血栓ができやすくなっている人々に対してプリン体が多く利尿作用の強いコオロギを日常的に摂取する食習慣が加わると将来的に血管や循環器系のリスクが増加しまいか。とりわけ、ワクチン接種を強引にでも普及させた西側先進国の人達ほどそのようなリスクにさらされることになるまいか(栄養不良改善のために昆虫食が奨励されているラオスは伝統的に虫を食べ慣れており、ワクチン普及率も低いのでリスクは西側より低いかも)。
しかも、必ずしもすぐに影響が出るものではないので、因果関係を証明しにくい。これもワクチン副反応と似た構図だ。

また、昆虫食推進には「畜産業は大量の水を消費し家畜のオナラやゲップは温室効果ガスを沢山出すから環境に悪い。畜産を削減し、そのかわりエコな昆虫食にしよう」「食料危機に備えて昆虫食を」というロビー活動が先進国を中心に行われている。実際は昆虫養殖に大量の電気が必要であまりエコとも言えない。昆虫食推進の結果、電気代が上がってがってしまわないか心配だ。
「環境危機(脱炭素)」「食料危機」という大義名分がつけられているが、畜産業を削減することで慢性的に食肉や乳製品が手に入りにくくなり、価格も高騰するのでかえって食料危機を誘発するんじゃないかと思う。本当に食糧危機を防ぎたいのなら、食べ物の種類や食料生産者を減らすようなことは矛盾している
先進国では米豪加NZなどが畜産を主要産業の一つにしているが、そんな各国の主要産業に昆虫食推進がどの程度影響するかも気になる。昆虫食を広め主要産業の畜産を削減するなら間違いなく食肉輸出の収入は低下する。中でも米の畜産業者は共和党(保守派)寄りになりやすいのだが、昆虫食推進派はそれと対極のリベラル寄りである。まさか昆虫食推進のついでに共和党支持者が多い畜産業界を・・・考えすぎかw

一方日本政府はというと、「コロナ下で生乳が余った」という理由で牛乳が大量に廃棄され、乳牛の殺処分(最大4万頭)に助成金を出している。自ら畜産を削減し食料危機を招くかのような事に税金を使って本末転倒を感じる(⑥のリンク記事でも指摘されている)。
生乳はチーズにすれば長期保存が可能だ(子ども食堂やフードバンクや災害時の備蓄にもいい。その気なら生乳やチーズが欲しい国との物々交換にだって使える)。鳥インフルエンザで養鶏業が大変な今のタイミングに合わせて牛まで削ることは無いような。余った生乳を生かし乳牛を守り畜産を守ることはコオロギよりも重要だと思う。現状、食料問題で一番大きいのはフードロスだから。

そもそも、人類が必死に削減している温室効果ガスなど、ひとたび火山噴火や森林火災が起きればあっけなく吹っ飛ぶ量だ。だから個人的には最近の「温暖化対策(脱炭素)」やそれらを口実にした極端な政策には違和感を感じる。そんな口実とは無関係な、本当の目的が別にあるんじゃないかと(オカルト脳)。

◆日本人は同調圧力に弱い?
環境危機や食料危機という大義名分が付いたムーブメントに疑問や異論を唱えると、しばしば「意識が低い」、「環境を考えず身勝手」というレッテルと批判が出て同調圧力がかかることがある。支持率にも差し障るから、日本含め古今東西の政治家達は有力なロビー団体(圧力団体)や政党や政権の支持母体から圧力を加えられると弱い。そのためかは不明だが、スウェーデンでは2012年から政府が菜食化や昆虫食計画を進めている(参照)。極端すぎやしないか?
日本では政府がワクチン接種を強制しなかったが、『ワクチンを接種しない人は他人のことを考えない身勝手な人』というイメージが誘発されて同調圧力が生まれたことは記憶に新しい。あれも似たような構図だ。副反応が酷くて3度目の接種をやめた人やアレルギーで接種しなかった人などが職場でワクチン差別に晒されたこともある。
いずれ「昆虫食を嫌って肉食を選ぶ人は環境意識が低く身勝手」「昆虫食推進に反対する人は変な人・遅れた人」みたいなイメージが誘発されるかもしれないw。電通が昆虫食普及に参画しているのでイメージ戦略は行われるだろう。

私は無垢な幼児だった頃に一度だけイナゴの佃煮を食べさせられたことがある。味は普通の佃煮だった。甘辛くて、硬い後ろ足が歯に挟まったり舌にめり込んだりしてちょっと痛かったw また食べたいとは思わないが、食べてみたい人は食べればいい。昆虫食も同様だ。食べたい人だけ自己責任で食べればいい。ただ、昆虫食の押し付けや同調圧力、変なレッテル貼りを誘発するイメージ戦略は懸念する。さらに昆虫食事業優先と畜産の削減の結果、多くの畜産農家が廃業し肉や乳製品の価格が上がって気軽に買えない高級食材になってしまうのは個人的に嫌だ。食文化すら破壊しうる。

◆以下妄想
エビデンスに乏しく深刻な副作用も出うるワクチン、そして「温暖化対策(脱炭素)」「食料危機」を名目にした昆虫食(畜産削減)や電気一元依存化政策(EMP攻撃や太陽フレアや災害に弱くなる。電気代高騰が産業や生活に直結)といった極端でリスキーな政策の推進・・・全てセットにして先進国にゴリ押しすれば、既に経済成長が頭打ちになっている西側先進国は(主要産業にダメージを負ったりエネルギー問題や食料問題や健康問題を抱えるなどして)国力低下しかねない。すると中国を含めた新興国(BRICSなど)が台頭しやすくなる。新たな投資先が生まれる。
そうなると誰が得をするか?
それを考えれば、世界経済フォーラム(ダボス会議)で昆虫食推進が挙げられたことや最近の脱炭素を口実にした妙に極端で国力低下リスクも感じさせる政策の推進にどんな背景があるのか、色々と妄想しやすい。

電気一元依存、ワクチン、コオロギ・・・どれも「危機を口実にした、西側先進国ほどリスクやダメージが大きい物事」が急速に推進されているかのように見える幻覚を発症したが、この国の主権者(=この国のボス)として、時代の流れから一歩引いた冷静で客観的な視点を持って、不安を煽りつけ込んで好都合な方向に大衆心理を誘導したい者に利用されたり時代に心流されたりして思考停止せず、自らの「考える力」をきちんと保ち続けたいものだ。オカルト脳だっていい。思考停止するよりはマシだから。

関連記事:
近代日本のカルマと金カム鯉達よ。清流に住めずとも、時代の激流に心流されず、己の最善を尽くして竜となれ。
多元的に豊かさを循環させる

2022年9月25日 (日)

国葬占ってみた

※以下、趣味で使ってる占星術ソフトより原文ママ

水星と冥王星が非常に強いトライン
異常なまでの情報収集能力を持つ。知的能力や表現力も高い。異常なまでのすばやさという意味もある。
(国葬は異常に素早く即決された。外交向けのイベントではあるのかも)

火星と土星が非常に強いトライン
情熱と地道な努力の調和。野心的、意欲的で勇気があり、しかも腰を据えてじっくりと努力を続ける集中力と持続力もある。人生において成功するタイプだが、雰囲気は陰気で、冷たい感じを与えやすい。

太陽と木星が非常に強い衝
無尽蔵のエネルギーあり。プライドが高く、わがまま。目立ちたいという欲求はあるが、やや自信過剰で楽観的すぎる。虚栄心あり。性格的には鷹揚で、こせこせしないが、後先のことを考えずに無駄遣いしたりする。エネルギーと地道な努力が結びつけば吉。
(国葬である以上、お税金が使われるのでそこは気になる)

土星と天王星が非常に強いスクェア
十数年に1度の世代的座相。変革の頓挫や、急激な改革ゆえの不都合を暗示。
(急に決まった国葬である)

月と土星が非常に強いトライン
感受性と抑制の調和。一時的な感情に流されることなく、また冷淡ということもなく、程よい距離を置いて物事をしっかり見つめる。冷静にして柔軟。あまり目立たないが、内面的に調和のとれた美しい人。感覚はやや古風で奥ゆかしい。
(月の位置が宗教も司る9室。政治とカルトの問題はただの流行で、国葬が終われば誰も注目しなくなるという楽観論も出ているようだが、じっくり腰を据えてしっかり問題と向き合って解決していって欲しい)

水星と金星が非常に強い合
軽快な美的センスの持ち主。若々しいファッション、ポップアートなどに適性。生き生きとして魅力的な人が多い。軽やかな恋愛を好む。浮気っぽく、次々と違う人を好きになる。この場合、太陽との三重合にならない方がかえって軽快。
(堅苦しくない自由でフランクな外交の場となりそう)

月と火星が強いトライン
感受性と情熱の調和。精神的な強さを持ち、大胆で強気。情熱は適度の柔軟さによって程よくコントロールされ、決して暴走はしない。性的な事柄に関しては発展家。感受性が鋭利に研ぎ澄まされ、物事のすみずみにまで気を配る。
(ホスト国としてそつなく振舞える模様)

金星と冥王星が強いトライン
いつくしみ深い性格。献身的な愛を限りなくそそぐ。美に関する分野で極端な才能ないし素質を持つ。
(他国と日本独特のつながりを構築できる? ODAの話が捗るかも)

海王星と冥王星がセクスタイル
信じられないような夢をもたらす世代。終戦直後の1940年代後半、および1960年代にもこの角度ができている。
(色んな意味で集合無意識が動きそうな日)

水星と海王星が衝
鋭い感覚を秘めているが、全般的に物事をしっかりと把握するのが苦手。自分で自分を理解できないことも多い。精神的に不安定で、脆さがある。想像力は豊かだが、それを間違った方向に用いてしまいやすい。嘘をついたり、つじつまのあわない非現実なことを主張する。しばしば自分だけの「お話の世界」の中に閉じこもってしまう。夢想を建設的に生かせれば吉。
(交通・通信・放送には注意。国葬関係の説明に虚偽や隠ぺいあり?)

金星と海王星が弱い衝
夢のような甘い話に弱く、結婚詐欺やインチキなセールスにひっかかりやすい。恋人を勝手に理想化して、結果的に幻滅しがち。既婚女性はよろめきやすい。将来に向けて美しい夢を思い描くが、おおかたは机上の空論。夢はあっても地道な努力が嫌い。そのため心の中に葛藤が生じやすい。快楽主義者。酒や麻薬におぼれる。夢想の能力を建設的に生かせれば吉。
(偶然だが安倍氏にもこの座相がある。宗教にハマりやすいタイプの座相でもある。国葬の演出が統一信者含めそういうタイプの方々には効きすぎる可能性。演出過多になるかもしれない)

2022年6月12日 (日)

社会の思春期

※以下に書いたことは全て個人の妄想です

ロシア外交官が抗議の辞任 「主戦的で、うそと憎悪だけ」

ロシア革命の頃は多くの人々が集合無意識レベルで強い専制君主(ツァーリ)を求めてしまっていたために革命による民主化は失敗し、独裁国誕生という運勢をたどった。そこではプロパガンダなどを使って支配層が理想的な専制君主の代用品になった。
しかし今、人々の集合無意識は違って来たようだ。100年前より近代自我の発達が進んだ。だから今はロシア革命のやり直しが実現しやすい時期に来てる。あの頃出来なかったことに再びチャレンジしやすい運気だ。

中国もまた、人民の集合無意識が「専制君主に依存すること」を求めているうちは民主化運動が成功しにくい。いわば自我発達を終えてなくて親に依存する子供のようなもので、「親」の支配を嫌がりながらも依存心を抱えているうちは、運気が人々の求める専制君主役(親役)を作ってしまいやすい。それで「理想的な君主(親)」の代用品が出来上がる。
親への反発と依存を併せ持つ今はさながら思春期。
願わくば、毒親が思春期の自我発達と親からの自立を妨げないことを・・・

理想的な専制君主を求める心理はいわば理想的な親を求める子供の心理。
親(君主)を恋しがるのは近代自我発達の過程で誰もが通る段階で、恥ではない。

やがて気がつくはず。実在しない「理想的で完璧な君主(親)」を追い求めその代用品に依存し時に裏切られる日々よりも、自分で(あるいは皆と力を合わせて)実現できたささやかながらもかけがえのない喜びや幸せや達成感を噛みしめる日々の方が嬉しいと。実在しない「完璧な理想」より、実在するそれらを大事にしたい気持ちがあるということを。完璧さは幸せにとって必ずしも重要ではないことを。
かつて「自由を尊ぶ超大国アメリカ」という理想的で完璧なリーダーに依存しすぎたために、時々かの国を傲慢な専制君主の如きふるまいへと導いてしまった我々にも同じことが言える。古今東西、リーダーを傲慢にさせるものの一つが「リーダーに対する過剰な依存心」なのかもしれない。相手への過剰な依存心は、相手を過大評価(理想化)させやすくする。時に幼い子供が親を理想化させてしまうのは、無理もないのだろう。

そして古今東西の「傲慢なリーダー」もまた、人々が自分に寄せる過剰な依存心に依存していて「共依存」の関係になっている場合もある。
そんなリーダーは依存対象である人々の離反を恐れて、時には人々が離反意識で結束せぬよう互いに疑心暗鬼へと誘導し分断統治することもある。例えば、アメとムチを使った密告制度などもそれだ。リーダーからアメをもらって味をしめた密告者達は、味をしめるほど疑心暗鬼と孤立を深めていき、ますますリーダーに依存するようになる。その様子を毒親風のセリフで表現するなら「可愛い子、誰も信じてはだめ。唯一信じられるのは私だけ。唯一あなたを守り幸せにできるのは私だけ。だから全てを私に報告しなさい。」
だが、リーダーからムチをくらったり、リーダーがちらつかせるアメに魅力を感じなかった者達は? 一部は反感や違和感で意気投合し、中にはリーダーに目を付けられる危険を防ぐために結束する者達が出るかもしれない。密告者が増えるほど、彼らも増える。やがて彼らは「リーダー(親)ではなく仲間を信頼して力を合わせて何かを実現する」という経験を学ぶ。その経験がリーダーへの過剰な依存心を卒業させる。人々の過剰な依存心に依存し支えられてきたリーダーの運気は・・・
世界各地に現存する「理想的な専制君主(の代用品)」に人々が依存し従属し支配されることで成立している物事の運勢が将来自然な形で変化していけることを願ってやまない。


オマケ:
独裁政権下での安全な社会運動危険を伴う社会運動以外に効果の期待できそうな社会的開運法を考えてみた。
ロシアの隕石で妄想ロシア革命の7年前にも隕石が空中爆発した。チェリャビンスクの隕石爆発から7年後は、今年だ。

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2022年1月20日 (木)

独りぼっちの革命と独裁

◆「私の理想こそが腐った社会を建て直すのだ!」
古今東西、世の中を憂いた多くの革命家やその支持者達の中には、「腐ったこの社会を破壊し自分の理想に基づいて再構築」することにただならぬ情熱を傾け、それこそ命さえ惜しまずに(時に過激な)活動をするケースがあった。自分の理想こそ正義だった。
「社会を自分の理想の形にする」とはすなわち、個人による社会の私物化でもある。壮大な規模のエゴイズムでもある。 革命家の多くは、パブリック(社会)とプライベート(個人)の境界 が無くなった状態で「
パブリックのプライベート化」を目指しているとも言える。「自分色に染め上げてみせる」というわけだ。社会を自我の延長とすることで自我境界が失われ、自分本来の輪郭・形を失うことにもなる。
そんな目標を掲げている以上、「多様性(自分の理想と無関係なもの、異なるものも存在する状態)」など許せるものではない。
そんなものを許せば自分の理想だけで社会を統一・構築できなくなるし、社会を自分色に染め上げられないし、社会を私物化できなくなるからだ。自分の理想だけで作られるべき社会に異分子(不純物)が混入すれば、出来上がる社会が自分の理想通りの姿にならないではないか。そんな邪魔な不純物は絶対に発生させてはいけないし、排除しなければ!

◆他人のいない世界でしか実現しない理想社会
かくして、革命家は独裁者になる。時には、外界(パブリック)とのつながりを制限したコミューンのような「狭い殻」に閉じこもる。それは、「自分の殻に閉じこもる」のと同じ現象かもしれない。
こういうのは政治団体だけでなく、ブラック企業や宗教団体にも散見される。異分子を異端者や異教徒とでも呼びかえればいい。要はカルト。)
排除することも閉じこもることも、当事者にとっては「理想の実現を守るため」に不可欠な措置だが、これで問題は解決するのかといえば、そう簡単でもない。「己の理想(だけ)で社会を構築したい(=社会を私物化したい)」という欲求は、「社会に自分由来のもの以外が存在すること(多様性)を許さない」 ので、そのような心理に激しく衝き動かされてしまうと、突き詰めれば「自分以外の存在を全て排除」するまで止まらなくなったりする。
即ち、「パブリック(自分以外のものが存在する世界)の否定」だ。それは「パブリック(社会)のプライベート(私物)化」で必然的に起きること。パブリックはパブリックではなくなり、プライベートなものになるのだから。
結局、自分の脳内理想世界を現実社会に移殖するなら自分と100%同化できない他人は邪魔者でしかない。

己の理想を共有してきたはずの仲間内で些細な認識や意見の違いから激しい粛清や内ゲバを繰り返したあげく自滅する組織や勢力はパブリックを否定してプライベート化させたい欲求が強い(そういう心理の人が多く集まった)と思っていいかもしれない。
自我や脳を共有していない他人同士が100%全く同じ理想を思い描き共有することはありえない以上、例え「己の理想に基づいた社会作り」に共感し協力し合う仲間といえども、ふとしたことで意識の違いやイメージしているものの違いが露呈した瞬間に「理想を妨げる不純物」になりえるのは必然だろう。己の理想計画から不純物を取り除き「革命の純化」を極めていった先には、仲間(=他人)がいなくなって一人ぼっちになった自分がいるだけだ。かつては信頼し合い苦楽を共にした仲間同士が互いを「理想実現に邪魔な不純物」と見なすようになれば、信頼が強かった分だけ敵意と憎しみは強まるだろう。悲しい事だ。
このようなパターンの現象は大昔からあって、古代エジプト神話「ラーの目」のモデルにもなったかもしれない(妄想)。
この神話を見て思った。パブリック(社会、客観的視点)とプライベート(個人、主観的視点)、どちらにも偏らず両方をきちんと俯瞰し、両立・連携させるには、片目ではなく両目が必要なのだろう。

◆独りぼっちの背景?
「パブリックの否定とプライベート化」という欲求が起きやすい背景としては、「他者とのつながりが乏しい環境(数少ない近しい相手と限られた時間のみ顔を合わせる生活、外界から隔絶された僻地での生活、孤立していた、自分の殻に閉じ籠っていたetc)」や、「ほぼ他人のいない世界」に長い間生きていて「パブリック(他人のいる世界)」や「自分ではない存在(他人)」というものを十分に学習しきれていないか、そこでの経験がネガティブなものに偏っていて、ゆえにパブリックを理解しきれず受け止めきれず時に否定的なものとしている(パブリックから目を背け自分の描く理想世界を選んでいる)ことに関係しているのではないかと妄想した。引きこもりが増えている昨今、こういうケースは増えるかもしれない。
「パブリックの否定とプライベート化」とは、要するに現実逃避や解離の一種のようにも見える。

己の描く理想的な美しい空想世界への逃避はやがて、現実世界を侵食していく。革命家はやがて、大勢の他人が存在する世界を自分だけの世界へと作り替えていく夢見がちな征服者にして独裁者へと変身していく・・・その作業はあくまでも孤独。
もしや、理想を実現したくて不純物を取り除き続けた挙句独りぼっちになってしまった革命家や独裁者は、最初から心が独りぼっちだったんじゃあるまいか? 
なぜ自分が救世主になりたかったのか? 作り直したかったのは、救いたかったのは、社会ではなく自分自身やその人生(プライベート)ではなかったか? 現実逃避や解離をしたくなるほどの何かから自分を救いたかったのではないか? 
革命家と独裁者と宗教家は社会に広めたい理想が政治的か宗教的かの違いだけで非常に似ているのは、彼らがそんな共通点を持ちやすいからだったりして(彼らは似ているがゆえに互いを不純物と見なして対立しやすい。同族嫌悪でもある?)

◆異質なしに社会なし
全ての人間は互いに異質。自分と同じ者は、自分しかいない。異質なものを許さず排除・攻撃するということは、自分もまた排除と攻撃の対象になりうるということだ。(それが可能だとして)自分が異質と見なしたものを延々と排除し続ければ、最後には自分一人になってしまうから「社会」は成立しなくなる。だが実際には、想像で決めつけたり予想したりすることができない程多様な異なる人間がひしめき合っているのがこの社会だ。現実的・客観的な検証なしに「これこそが社会を正しく導く唯一絶対の理想であり絶対正義だ(異論は認めない)」などと決めつけることはできない。その理想は、「あくまで自分個人にとって今最も理想的に見える」というだけの事。事情も内面も抱えてるテーマも違う他人には必ずしもそう見えない。しかしある種の革命家や独裁者や宗教家は、そのような(自分の理想に基づく社会の私物化を阻む)異論を決して認めない。
なぜなら、そもそも任意の価値観こそが「正義」と認識する側は、価値観の押し付けを躊躇う動機が無い。正義を拒んだり異論や疑問を持つ相手が悪になる。

金子みすゞの詩に、「みんな違ってみんないい」というフレーズがあるが、パブリック(社会)というものは、当然ながら「自分と違うもの(=他人)」が存在しなければ成立しえないので、社会を心地よく維持するにはできる限り多様な異質が無理なく共存/連携/調和できるようにすることが重要だ。時には、その人(達)が「何故そんな事をするように駆り立てられたのか」にアプローチして解決のために連携・協力する必要が出ることもある。
自分だって誰かから見れば「自分以外のもの(異質)」だ。にもかかわらず、存在が許されていて、今もこの社会で平穏無事に生きている。それは、この社会を私物化すべく自分以外の存在を排除/隔離したがる者が台頭していない証。多様な異質が尊重されている証。
人間は自我も
意見も価値観も主観も理想も、統一(同一化)などできない。多様な人間のいる広い社会で角が立たずに実現しうる理想があるとすれば、それは「個人の主観が打ち立てたもの」ではなく「異なる当事者全員が各々異なる理由や事情により満場一致で承認しうるもの」だろうと思う。
それは「スタンドプレーから生まれるチームワーク(和)」とつながりうるものかもしれない。

自我境界が未発達な国民性1

自我境界が未発達な国民性2

2020年11月 3日 (火)

幸福観の貧困は幸福の手段も可能性も貧困にする?

「子どもがいたら楽しいのにね」、悪気ない言葉にモヤモヤ 不妊治療マンガ作者語る“普通”への違和感

――治療を受けた日々を振り返って、今、率直にどんなお気持ちですか?

【海原さん】後悔はまったくないとは言えません。不妊でよかったともぜんぜん思えません。世間体を気にしていなかったといえば嘘になるし、夫とだったら楽しく子育てができるんじゃないかと思って治療を受けてきましたから。あと、正直、もう少し早い段階から出産を意識して行動していたら結果は違ったのかなという心残りもあります。でも、もう言っても仕方がないことですし、子育てしない分、自分の時間をいっぱいもらったので、今の生活をとにかく楽しくしようと思うようになりました。

「結婚して子供がいる家庭作るのが人間の普遍的幸せ(そこにしか最高の喜びも幸せも存在しない)」みたいな一元化された狭いマニュアル志向が不妊治療をする人を苦しめたり子供のいない人を苦しめたり人類の視野と可能性を狭めているのかもしれない。時には、その人が本当に望んでいる幸せと人生を視野の外に追いやって自覚出来なくさせているかもしれない。
20世紀中盤以降、人類は文明の力で今までになく人口を増やし死亡率を低下させ平均寿命を上げていった。人類は十分に増えたというか、増え過ぎた。だから死亡率の低い先進国を中心に出生率が下がるのは自然の摂理だ。人口が少なくて死亡率が高かった頃のようには「生殖本能や母性本能が出力MAXで発動する条件」がそろわなくなったんだから。それは、悲しい出来事が減ったことを意味するし、人類という種族が生存と繁殖以外の方向にも自らの可能性を広く模索し始めた(余裕が生まれてそれができるようになった)事を意味する現象でもあると思う。これは、人類史始まって以来のことだと思う。種族が今までは手が届かなかった広い可能性に、新たな自己発見に目覚め始めている・・・いいことじゃないか? 新しい進化の気配がする。

だから草食化やおひとり様増加という現象は異常事態じゃないし人類の危機でもないと思う。単に大量生産、大量消費、大量雇用に依存した産業革命由来の現代文明を維持するには人口減少が大変不都合だから必死に異常扱いしているだけで、生き物として見ればむしろ死亡率の低い国で発生する草食化・少子化はごく自然で正常な反応なんじゃないかと思う。むしろ無条件に草食化・少子化を不都合とし異常だと思わせる産業革命由来の現代文明こそが不自然なのかもしれない。
実際、現代の文明は自然破壊が甚大だし、食料の問題もある。それもあって死亡率が下がった現状でむやみに増えると自分達の首を絞めるから本能が増えたがらないのかもしれない。
子供を作ることが生殖能力を持つ人間としての社会的責任であるかのように錯覚させたり、子供を作らない/望まないことや子供を好まないことは利己的で人間性に欠陥があるとか幸せになれないとか異常であるかのように錯覚させる風潮は、裏側から見ると「労働者と消費者は産業文明(あるいは国力)を発展・維持させるための家畜や資源として大いに繁殖させておくべき」という思惑が透けて見える。大量生産と大量消費という目的のために、人間の生や繁殖までが生産ラインの一部に組み込まれている。家畜どころか機材や素材扱いだ。いくらでも替えが効く。

心から望んで作った子供と家庭を通して得られる体験や経験は確かに人類種族が実現しうる素晴らしい人生の宝物(幸せ)の一例になりうるだろう。だが、それだけが人類のなしうる素晴らしい幸せの形や手段ではないし、それだけが正解でも最高でもない。単に、人類が今までそういう幸せの形と手段しか知らなかった(+不都合だからそれ以外を知られたくなかったし抑圧してきた)だけだ。そしてそれらを「唯一最高のもの」と思い込んでマニュアル化し洗脳が発生していたのだろう。その幸せと同様に尊く素晴らしい未知の幸せと手段を知らないまま・・・種族に潜在する広い可能性を知らぬまま・・・時には、そんな洗脳が本心の望みを覆い隠していたかもしれない。

そういう意味でも、現代は実現できる幸せの形も手段も昔よりはるかに種類が増えている。だから人々の本心が望む幸せの形や手段もそれに合わせて昔より多様化している。それ自体はとても素敵な事なのに、まだ多くの人はそのことに気付かず古いマニュアルに心が縛られているような感じがする。心のOSを更新する必要がある。
心が古いマニュアルに縛られてOSを更新しないままでいると、古いマニュアルが本心で本当に望んでいる幸せと人生のあり方を無視して古いマニュアルが知ってる狭い幸福観(本心とズレている)へと無意識に己を駆り立ててしまうことがある。それは時に、靴ズレしたまま望まぬ方向へ走り続けることを強いられているかのような苦痛を伴うかもしれない。
例えば、本心では望んでいないのに婚活にいそしんだり子供を作ったり不妊治療してたり、成果が上がらずに自分や他人を責めていたりすることさえある。時には産んだ者が産まない者を遠まわしに歪んだ形で非難・攻撃することもある。妬みゆえに・・・

幸いにして、もはや繁殖と生存に大部分の手間暇エネルギーを割かねばならなくて手に入る幸せの形・手段・可能性も限られていた時代じゃなくなった以上、人類のライフスタイルは大きく変化し多様化するのは当然だしそれに合わせて心や価値観や幸福観だって変化・多様化するのは自然の摂理。だって今まで生存と繁殖にばかり使ってた手間暇エネルギーに余裕ができた種族の可能性自体が多様に広がっているのだから。
これは種族に潜在する可能性の実現効率が上がった、即ち「進化のスピードが上がった」というやつではなかろうか?

そんな時代を生きているのなら、一人一人の本心がベストと感じる「幸せの形」ってもっと色々あっていいはず。人間は何のために生まれて生きるのだろう? 少なくとも生存と繁殖のために生まれ生きてるわけではない。そもそも自分の生まれ生きる意味を「繁殖(子孫繁栄・一族繁栄)」に見出す人が死亡率の低い先進国で今時どれだけいるだろう?
生存と繁殖・・・それらは生命活動の一手段ではあるが、生命活動の目的じゃない。
そして当たり前だけど、子供ってのは「子供がいない人生(マニュアルから外れること)への不安感」を動機と原動力にして産むものじゃない
これは占い師に結婚や出産の相談をしに来る人が陥りがちな落とし穴でもある(個人の感想)。

今はまだ、人類の多くが生存と繁殖に全集中していた頃の癖や発想が強く残っていて、種族自身に生存・繁殖以外の可能性を広く模索する経験も少なく、急激な環境と事情の変化で突然広がった自らの可能性にどうしていいか分からなくて戸惑いが残っている時代かもしれない。「皆が生存と繁殖の事で手一杯でそれだけを考えていればよかった時代」じゃなくなったのだから。今や人々の本能は生存と繁殖だけに全集中しておらず、進化の速度を上げることへ今まで以上にエネルギーを注げるようになったのだ。
ご存知だろうか? この種族は生存と繁殖以外にも、色んなことが出来る能力を持っていることに。

今、種族は自らの生命活動について「量より質」へとシフトしているのかも。種族にとって「質」とは、個々が取り組む人生の質であり、質を拡充させる上で「生存と繁殖で手一杯だった従来よりずっと広がった個々人の可能性」が深く関わっているのだろう。
子供を持っていない人は不幸でも劣っているわけでもなく、繁殖とは異なる人類の新たな可能性をより多く持つ人でもあるのかもしれない。
子供を持っている人といない人、どちらが良いとか優れているとかではなく、人類の可能性としてどっちも素晴らしい。


出産する理由と背景についての極論

2020年7月11日 (土)

スルー出来ない背景は

「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」見知らぬ男性からの暴言にママたちが大反論!
ママたちは高齢の男性が幼児連れのママに浴びせた暴言について「余計なお世話」とのコメントで反論していました。スーパーで何を買おうと、他人には何も関係のないことです。自分だけの価値観で他人をジャッジすることは、失礼のひと言ではないでしょうか。

占い師の勝手な印象だが、世の中のかなり真面目な部類のお母さん方は「母親はこうあらねば・こうありたい」という固定観念的な価値基準があり、自分がその基準を満たしていないことで自己を恥じていたり裁いていたり否定的に認識していることが多い(愛情の裏返しの場合もある)。見ず知らずの通りすがりのオッサンが自分と同じ価値基準で自分を裁く言葉を発すると、それが完全な的外れとは思えず、自分が脳内法廷で日々行っている有罪判決や自己否定をリアル社会までがやり始めたような気がしてしまい、黙っていられず過敏反応してしまいやすいかもしれない。

日本の場合、例えばポテトサラダを自作しうるぐらいの時間的・精神的・肉体的な余裕を家庭に許さない勤務状況が常態化していることが一番の問題じゃないかと思う。一個人の落ち度で片付けられない深刻な社会現象がここ数十年続いている。
料理する・しないの問題ではなく、企業や資本が労働者に対してマトモな家庭生活や家族団欒を奪ってしまう社会が出来上がっている。子供(多くが一人っ子)が親とまともに愛情交流して発達・発育していくチャンスがどんどん乏しくなっていく・・・これじゃコミュ障に育つ子が量産されてしまうのも無理はない。

愛情に飢えた子供がパパ活(援助交際)に走るケースはここ数十年続いているという。ママ活パターンもあると思う。
「ポテトサラダぐらい作ったらどうだ」と言った老人も、やや古風な視点から「母親の手料理(愛情の証)を食べられない幼児は不憫だ」と感じて背景まで考えず短絡的に発言したのだろう。殊更の悪意はなさそうだ。彼は母親の手料理から愛情を感じて育ったのかもしれない(妄想)。

料理の自作云々よりも、子供がきちんと発育できるような愛情交流の機会をきちんと確保する方がよほど子供にとっても社会にとっても重要だ。子供がまともに育たない社会ほど人材力や即戦力をもてはやしていないか?

◆スルー出来ない背景は
いわゆる「スルースキルのある人」は、通りすがりの見知らぬ人から何か的外れな批判をされてもそれほど気に病んだり長く引きずったりしない。相手については変な人だったなとか思い込み激しいなとか思うことはあっても、自分に落ち度があるとは思わないし、ましてや「その批判は的外れですよ。なぜなら~」とわざわざ相手に反論しようとも思わない。面倒だし、関わらない方がいい種類の人だと思うからだ。

けれど、自分の中に罪悪感とか恥じる気持ちとか自己否定感みたいなのがあって上手く自尊心が作れないでいると、たとえ的外れでも批判や非難や悪口が心に刺さりやすい。時には、スルー出来ずにやたらとその人に反論したくなったりことさら自己弁護しなきゃいけないような気分になってその場で知らない人と口論になりかねなかったりする。ネットでも同じ。
悪口や批判に無意識下の自己否定感を投影・同一視していると、それはもはや「単なる他人の勝手な感想や感情」ではなくなってしまう。

自分を肯定できずにいる人ほど、その代償に他人に肯定されたい・高評価されたいと思いがちだ。だから他者からの否定的な言葉は、自分自身が「自分にとっても他人にとっても(=主観的に見ても客観的に見ても)否定的な存在」であることを裏付ける証拠みたいに感じてしまうことがある。自分が否定的な存在であることが逃れられない真理であるような気がして、だから必死に否定・反論したくなってしまうのかもしれない。

 

関連記事:弁当どころの問題じゃない

2020年5月11日 (月)

家賃の支払いや生活が心配な時は

今はコロナ対策で政府から10万円が定額給付されますが、今に限らず家賃の支払いや生活が心配な人は、「住居確保給付金」という返還不要な国の制度もあるので参考にしてみてください。この制度はリーマンショックを教訓にして平成27年から施行された「生活困窮者自立支援法」の一環として存在しています。以下に詳しい説明があります。

「新型コロナで収入減。家賃が払えるか心配…」知っておきたい返還不要の住居確保給付金って? 対象者は?


また、「生活困窮者自立支援法」は様々な経緯で経済的に困っている人を支援対象にしています。色んな人が支援対象に当てはまります。本人だけではなく、ご家族なども相談できます。

各地の窓口情報

経済的な生活不安は占い師に相談するよりもまず、お住いの都道府県や市区町村の窓口へ早めに相談してみてください。

2018年3月20日 (火)

「いいね!」依存症

※以下に書いたことはすべて個人の妄想です。

フェイスブックやインスタグラムを含むSNSが、「人間の心理学的な脆弱性を悪用する」意図で設計され、「いかに子どもの脳を破壊しているか」が元CEOより暴露されるより:

あなたがたは、もっと《いいね!ボタン》をと求める…そして、もっと好意的なコメントをと……
これは社会的検証のフィードバックループだ...。そして、これらはまさに私のようなハッカーが思いつくようなもので、なぜなら、これはあなたがた人間の心理の脆弱性を利用しているからだ
(フェイスブック現CEOの)マーク・ザッカーバーグ、あるいは、インスタグラムのケビン・シストローム(Kevin Systrom)... このすべては、意識的に、この《人間心理の脆弱性》を理解してやっていた。そして見事にやってのけてしまった

◆自尊心の代用品 ・・・
「いいね!」依存症は抑圧された自尊心(自己肯定)の代償行為に中毒した状態でもある。暴走する承認欲求の背後には、自尊心(自己肯定)の形成を抑圧しているがゆえの自己否定感(劣等感)も見え隠れしているかもしれない。
他者から否定されたりこき下ろされたり低評価されたりするのが怖いのは、代償行為が実現・成功できない事への恐怖であり、抱え込んだ自己否定感(劣等感)を紛らわせることが出来ない恐怖であり、自尊心(自己肯定)が未だ持てない(抑圧されていて自覚できない)ことへの恐怖でもある。
それは、「自分なりの生きる幸せ」が自覚出来ずにいる・作れずにいる恐怖でもある。

恐らく、「いいね!」ボタンのあるSNSで他者を攻撃したりこき下ろす習性のある人(いじめ加害者含む)の何割かは、潜在的に上記のような恐怖感を抱えており、なおかつ「代償行為(他者からの評価)」が満足できるほど成功していないor代償行為に失敗しているケースがあるかもしれない。 自分の現実や人生が「うまくいってない・幸せじゃない・自分にとっての喜び(評価点)が少ない」と無意識に感じている人である可能性も。
ある意味では、その手の攻撃やネットイジメ衝動はその人の心の悲鳴が歪んだ形で表現されてしまった結果かもしれない。ある意味で、SOSの出し方を間違えたようなもの。
(余談:世間ではいじめ被害者の相談に乗ったり支援する動きは出てきているけど、イジメ加害者側の相談に乗ったり、自分でも止め難いイジメ衝動を卒業する支援する動きは未だ出てきていない。『どうしても他人をイジメることが辞められない』という悩みは誰にも相談しづらくて、結局占い師に相談してしまうケースさえある)

◆優越感と自尊心の違い
優越感を作るには、他人に高く評価してもらうか、それが出来なければ自分よりも劣っている(と見なしたい)誰かをバカにさせてもらうしかない。どちらにせよ、他人の助けなしに優越感は作れないので、優越感に依存している状態は精神的な自立が出来ていないという事でもある。
それに対し自尊心は、趣味(中二病含む)だろうが萌えだろうがラーメンの食べ歩きだろうが、自分が人生の中で本当に好きなことや本当に喜びを感じる何か(『いいね!』をもらえるよりも楽しくうれしい)と出会うことで、そんな喜びのある自分の人生やそれに不可欠な自分という存在に対し個人的な価値や意義や喜びを自覚することで形成されていく。自分が喜びを自覚することが不可欠なだけで、他人の助けは必要ない。
その「個人的な喜び」の価値を例え他者が認めなかったとしても、全く困らない。他人が同意・評価しなかったとしても、自分にとってそれが他人の同意や承認や評価が貰えることよりも好きで喜びになっている事には変わらない。自分の好きな物事(あるいは同好の士)をこき下ろす他人に対してムキになって反論したり言い負かそうとする必要もない。そんな時間があったら自分の好きなことをするために使う。
自分が何かを好きになったり何かに喜びを感じることに誰かの承認や同意など必要ない。いちいち他人からの同意や承認をもらうメリットも無い。自分の人生で発生する喜びは、世界でたった一人、自分だけが創り味わえる喜びだからだ。自分の喜び方と100%全く同じ喜び方を持つ人間は存在しない。物事の感じ方は十人十色だからだ。「自分と全く同じ喜び方をしてくれる他人」がこの世に存在しなくても、寂しがる必要はない。むしろ、自分にしか実現できない喜びに誇りを持ち、他人の喜びを尊重し、時には互いにしか持ち得ない感性

優越感を抑圧された自尊心の代用品にしてる人達、およびその代用品でしかない優越感(他者を見下し自分よりも低く評価する心)を肥大させてる人達は、本当の幸せや真に望む生き方を見つけてないか、既に持っているのに気が付いていないという事でもありそう。

◆心を搾取させてくれる人々に依存する何者か
なお、他人に対して自分なりの幸せを見つけ実践する生き方を許さず、その代わりに用意した好都合な代償行為に依存させるよう仕向ける組織をカルトと言う。ホームグロウンテロの先駆けともなったボストンマラソン爆弾テロ事件の犯人(兄)がこの手口で洗脳されていた()。それはまさに、SNSが誘発するイイネ依存症とも共通する仕組みだ。
その仕組みを利用している何者かはこう思っているかもしれない。
「お前個人の幸せなど何の価値もない。認めない。許可しない。
我々にとって利用価値のある思考と行動をする者だけ(我々が心理搾取できる者だけ)に存在価値を認めてやる」←認めてもらうメリットが無い。
彼らもまた、「搾取させてくれる誰か」に依存しているという点では他者の評価や優越感に依存する人々とどこか似た部分があるのかもしれない。本当の幸せを見つけていない・気付いていないという点は同じか??

◆「いいね!」よりもうれしく楽しいもの
自分が真に望む生き方やライフスタイルを抑圧し目を背け無自覚なまま放置した結果、無意識下の欲求不満が歪んだ形で(代償行為を求めて)暴走した結果が「いいね!」依存症であり、自分が本当にしたいことをする代わりにインスタ映えする写真を撮る(さして食べたくもない割高パンケーキを注文する・さして関心のない場所へ行く)ことに貴重な休日を使い潰す日々だったりするんじゃないだろうか?
(ああ、イイネを餌に心理と生き方を搾取されている。イイネに釣られて本当に望むことを探す時間さえ搾取されてしまった)←「搾取で生じた人生と心の飢えはイイネ獲得で満たすしかない」と何者かは洗脳する。

本当は、自分にとって「いいね!(=他者からの評価や承認)」をもらい、「いいね!」に縛られ囚われることよりもずっと楽しい事や嬉しい事がこの世には転がっているんじゃないかってことに、うすうす気が付いてるイイネ依存症の人も多いんじゃないかと思う。
そう思えるということは、自分なりの喜びや幸せや自尊心を作れる力にうすうす気が付いているということだ。
心のどこかで、自分を開運させる本能的な命の力を感じている証だ。

選挙権が18歳に引き下がる時代。人格形成期に「いいね!」依存症となり自尊心を形成する上で大切な栄養分である「自分なりの喜びや幸せを探す心理と時間」を搾取され続ける若者(自分の幸せを知らぬがゆえに騙され扇動され利用される=利用価値のある思考と行動をする者。カルトに最適な人材)が量産されることの意味を、今一度考えてみて欲しい。
「人々が幸せになればその国も幸せになる」という開運法則から見れば、「自分の喜びや幸せへの自覚が搾取される病」が蔓延している現状は好ましくないが、人類はいつかこれを乗り越えるだろう。
自分を開運させる命の本能的な力によって。

 

 

中二病の有効活用 「必要とされる」必要がない 就活自殺の増加について 上手なニートの過ごし方

2017年8月15日 (火)

犠牲の価値より生きた尊さ

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

池上彰、戦争を美化する動きに警鐘 「特攻」について考える特番放送
「池上彰 X 特攻」リアルタイムツイート

今年の終戦記念日シーズンは特攻についての番組が放送され、かなり反響があったようだ。
私も以前、『太平洋戦争のベルセルク悲話』というオカルト視点の記事を書いたことがあるが、今回はまた別の視点から考えてみようと思った。
まず、神風特攻隊創設者の大西瀧治郎の意図・目的について。おそらく特攻作戦は対米戦における効果を狙ったのではなく、「敗戦後を想定したレジェンドづくり」と「昭和天皇に戦争を止めてもらう」ためのデモンストレーション(直訴)という意味合いが強かったかもしれない。これは大西瀧治郎が残したコメント()から何となくそう感じた。

大西の意図した「レジェンド」は、
「戦いが日本の劣勢になり刀折れ矢尽きたその時、若者達がその忠君愛国精神ゆえに命令したわけでもないのに自ら進んで命と引き換えに次々と自爆攻撃をし始めた。
天皇陛下はこれをお聞きになると御自らの御仁心により戦を止め講和する決断をなさった。陛下も散華した若者達も、日本と国民を愛するがゆえの決断であった。
このように日本国民は散華した若者と陛下の双方からかくも深く愛された存在なのである。戦争に負けたからと言って絶望し自暴自棄になったり自己卑下したり自尊心を失わないように。」
というもの。敗戦後の民心統治(反乱防止含む)を意識して作られたっぽい(敗戦後も国家神道の価値観が続く想定で)。

上に書いた「レジェンド」を残すことに加え、「(日本側の欠陥によりだれも講和を提案できず、また天皇以外の講和の言い出しっぺになれば敗戦の全責任を押し付けられスケープゴートになることを恐れる心理もあって?)暴走機関車になった日本が女子供まで巻き込み自滅していくのを止めるための(天皇を講和へ向かって動かすための)人柱として『特攻を自ら志願して散華した』という設定の若者達を量産」というのもありそうだ。

要するに、「特攻作戦」はアメリカから国民を守るためのものではなく、(国民を道連れに自滅へ進む)日本側の暴走から(特攻を知った天皇に講和の決意を促すことで)国民を守るためのものプラス、敗戦後の人々が落ち込み過ぎないように残しておくレジェンドを作るためものではないか、と思った。
もしも「陛下は自分達の過激な行動を知れば分かって下さるに違いない」という願望回路が特攻立案の背景にも存在するとすれば、226事件の頃から全く進歩してない気がする(妄想)。

最近はネットなどで「日本はあの時特攻やったお蔭でアメリカによる滅亡から救われたからこそ今の繁栄した日本がある。特攻兵達は現代日本の立役者だ」 とか「誰だって死にたくはないし特攻兵達もみんな本当は生きたかったけれど、そこを我慢して我慢して日本のために自分の一番大事なものを捧げたところが美しくて素晴らしいんじゃないか」 「彼らは特攻による有終の美を飾ることで初めて自分だけの生きた意味を見出せたんだ」という(おそらくは軍産複合体や防衛利権と絡む右派の?)ロビー活動も散見される。
特攻兵の死をロビー活動のために当時の作戦(政策)を肯定する道具として利用するぐらいなら無駄死にと断定していいかもしれない(失策を明らかにした死としてすら評価しなくていいかも)。
およそどんな犠牲者もロビー活動の道具にしたりロビー活動の視点からその死をを評価し持てはやすことはご本人やご遺族にとって失礼にならないか。視点を変えれば、「死ななきゃ価値にならなかった命だ」と口をそろえて言ってるのと同じだ。
(この問題、PKOで亡くなった自衛官の死を当時の政策肯定のために尊ぶロビー活動とも共通点がある。どちらのロビー活動も、その作戦や政策の効果を肯定しない者=犠牲者の死を無駄死にと切り捨てる冷血漢だというレッテルを貼る。遺族達ですらその罠にハマって都合よく利用され、ロビーの主張を支持しなければ身内の死を供養できなくなってしまっているケースがある)

「その人が死んだ意味や価値」ではなく、その人が生きた意味にこそ目を向け尊ぶ(その死を尊ぶのではなく、その生きて来た人生を尊ぶ)ことが供養なんじゃないかと思った。
死をしか評価され尊ばれない命、しかも他人にとって政治的な利用価値のある死という一点でのみしか存在意義を評価され肯定されていない命というのはなんとも悲しい(遺族すらその価値観における評価に供養を依存しているならなおさらだ)。
後世の人間が「死に方こそ特殊で短命だがその生きて来た人生は無駄じゃなかった」と思うこと、本人もそう思えることが一番の供養で愛情じゃないかと思える。
特攻兵なんて平均20歳前後だから自分の人生振り返って「生まれてよかった・生きてよかった」ってしみじみ思う機会はそうそうなかったかもしれない。でも特攻兵達だってきっと自分の生きた意義は心のどこかで感じていたと思いたい。たとえ短命だったとしても、自分にしか生きられないその人生は尊い。
少なくとも彼らの魂はきっと知ってると思いたい。

「生贄」が自分個人の生きる喜び(生きがい)を組織や社会に捧げるのと引き換えに、組織や社会によって死を崇拝され高く評価される(生贄はそれを名誉や救いとして認識する)という一面が古今東西の生贄のシステムにはあるのかもしれない。
古代人じゃないんだからそろそろ生贄的なシステムから卒業してはどうだろうか?
死の価値なんかに依存しないで生きた尊さにこそ目を向けられる社会は、たぶん平和な社会だろう。

サバイバー症候群

2016年11月10日 (木)

米選挙を振り返って

※以下に書いたことはすべて個人の妄想です。

 

トランプ支持を大っぴらに表明できなかったインテリ白人男性の現状を明かすルポを見つけた。
そのルポの前半で、行き過ぎた(というよりもはや悪用された)ポリティカル・コレクトネス(一番下に解説)の風潮に対し「自分が矢面に立って差別主義者のレッテルを貼られたらこの国ではまともに就職できないよ」というセリフの下りが印象に残った。「差別主義者」の部分を「イスラム過激派」にしても通用するし、国を変えれば同性愛者にしても通用する。時代が違えば共産主義者でも魔女や異端者、異教徒でもいけるw そう。全部差別対象になったもの。最近では「差別主義者と見なされた人(差別主義者とは限らない)」が差別と迫害の対象になるようだ。
従来の差別と迫害を抑圧する代わりに別の形の差別と迫害で代用するかのようなポリティカル・コレクトネスの暴走(悪用?)が社会に蔓延する原因にアプローチした方がいいかもしれない。そもそも不寛容で厳格な一神教のマニュアルを土台にした思考・習慣・価値観が何世代も連鎖した歴史を持つ欧米。そんな連鎖自体が不寛容な思考パターン癖を集合無意識レベルで作ってしまっている可能性も。それが中世の異端者狩り・異教徒狩りのようなポリティカル・コレクトネスの暴走(悪用)にも反映されてる?
現在の米国の差別文化・差別欲求において、差別の対象が一神教文化圏の人々になることが多い傾向にあるのは意味深だ。同じ文化圏同士、お互いの集合無意識下にある「不寛容さ(差別の原因にもなりうる)」が合わせ鏡となって映し出され共鳴しあっているのか?
どうやらアメリカでは過剰なポリティカル・コレクトネスを使って差別の風潮(差別の欲求?)を表面上は押さえつけることに成功した反動で、差別主義者(あるいはそのレッテルを貼られたり言いがかりをつけられた誰か)を差別する代償行為的な文化が生まれているようだ。
因みに選挙戦に勝ちたくて過激な発言をしたトランプ氏だが、個人的には本気でイスラムヘイトや移民ヘイトに基づく政策をするとは思わない。口先だけじゃないかと思う。トランプ氏が大統領となって国として人種差別を容認or推進するというデマを流しているのはリベラル寄りのマスコミの方で、それを真に受けた一部の人達がトランプ当選で差別の大義名分を得たと勘違いして移民や黒人やイスラム教徒に危害を加えるなど、トランプを自己正当化の言い訳にして暴走している印象。

以下、件のルポトランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情 より一部抜粋

ハーバードを卒業した白人男性は、「僕らは自分の意見を自由に表明することができない」という。ポリティカル・コレクトネスが行き過ぎた現在のアメリカでは、白人男性であることはむしろ「原罪」なのだ。
努力して好成績を修めても、「優遇されてるからでしょ」と批判されることもあるという。
下手に反論すれば「差別主義者」のレッテルを貼られてしまう。
ケヴィンも酔った席での戯言を除いてオフィシャルにトランプ支持を表明することはない。
ポリティカル・コレクトネスが何より重んじられるアメリカ。
インテリ層がこれを間違うと大変なことになる。信用を失い、名誉を失い、将来を失う。

為政者にとって寄り添うメリットが無いか少ないマイノリティーを犠牲にする・無視する形の政策を決めるために多数決を使うと、必然的にマジョリティーが勝つので多数決が弱肉強食の道具にしかならなくなる(為政者に好都合な結果となるだけで時に人道的ですらなくなる)。
「トランプ支持者は皆レイシスト」というレッテルを張り差別することで自分と異なる候補の支持者層をある種の被差別マイノリティー化させて多数決(投票)で勝つ作戦は失敗した。なぜなら、トランプ支持層の多くはピラミッドの下層にいるのでもともと数が多く、マイノリティーになりようがないから。実際、マイノリティーじゃなくてサイレントマジョリティーになった。

多数決ルールが整備されてなかった時代は政治の世界の弱肉強食手段がもっとえげつなくて殺し合いとか脅迫とか暗殺とか普通にあったから多数決を発明したことで政策を決める手段としては「まだマシになった」というレベルなのだろう(今でも時々死人が出るけど)。
そもそも弱肉強食発想で社会の在り方やルールや問題解決方法を決めていったらどこかが犠牲になるのは当たり前で、いつまでたっても社会に弱肉強食の争いと犠牲は減らないし無くならない。マイノリティー(社会的弱者)という存在もなくならない。
高度な政治の議論に見えたものが、フタを開けたら「どこを犠牲にするか」で利害対立し大喧嘩してるだけだったりする。
かつて(今も?)のマイノリティー側。その一部が行き過ぎたポリティカル・コレクトネスや「差別を受けた」という事実を盾にして(時に悪用して)誰かやどこかを攻撃したり、逆差別したり、差別利権作って台頭したり、対抗勢力に差別主義者のレッテルを張って差別や攻撃をすることで相手を被差別マイノリティー(かつての自分達と同じ弱い立場)にして社会の中で支配力を増していく現象がその証。

弱者はいつまでも弱者とは限らない。強者はいつまでも強者とは限らない。当たり前のことだが、弱肉強食の世界も諸行無常。差別と迫害に甘んじていた者達は、生き残るために強くなり力をつけて、いつの間にかその一部は迫害者になっていることもある。キリスト教だってそうやってのし上がった。
強者にのし上がった元弱者もまた、いつかは別の強者に負けていく。
もしかすると、「迫害してきた者にいつしか迫害される」というカルマ的な運勢ってのがあるのかもしれない。立場の弱い自分達を守るために「迫害者の側になる」というやり方も考え物だ。また迫害されかねないから。

(11.21追記『一部のポリコレ暴走現象は、リベラル叩きをしたい勢力が世間を「ポリコレというリベラルの作った変な風潮」にうんざりさせる意図でわざと演出しているケースもある』という噂と、『トランプ当選に差別の大義名分を得たと勘違いしてマイノリティへの差別や危害をあからさまにやっているのはトランプをイメージダウンさせたい勢力が意図的に行っている』という噂を聞いた。真相は不明だが、いずれにせよ差別問題というものがパワーゲームの道具になっている面はある気がする)

ポリティカル・コレクトネスとは(ここから抜粋)

特定の言葉や所作によって差別的な意味や誤解が含まれないように、政治的に(politically)適切な(correct)用語の使用を是とする態度のこと。政治的妥当性。「PC」と略される。西洋的な白人男性中心主義とマイノリティの価値観が衝突し、さまざまな社会的問題が露呈したアメリカで前景化した概念

 

おまけ:TPP大筋合意占ってみた

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