旅行記

2007年6月14日 (木)

旅の後で描いた絵

女の子バージョンと男の子バージョン。別々に書いたものをわざとつなげてみた。幅が微妙に足りないので別窓で。

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BGMはこれ

チベット、今回も色々ありがとう。

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その10

さあいよいよ最終回。今回の旅行記の中で、一番強力な電波が出ると思います。

早朝の麗江
朝、モーニングコールよりも早く起きて麗江旧市街を散歩。夜の喧騒とは打って変わって静けさが心地よい。本日行く予定の玉龍雪山(メインストリートから見える)の周りには、雲ひとつないほどの良い天気。おや、早起き観光客に道を尋ねられた・・・と思ったら「玉龍雪山へ行きませんか?」という地元のツアー会社の営業だった(笑)。丁重にお断りをして先へ進む。旧市街中心に位置する広場、四方街に出る。昔は茶馬古道を通る物資が集まって市が開かれると、四方街は芋洗いのように人が集まっていたらしい。
麗江、朝に見れば古都の雰囲気がちゃんとある。水路には鯉。玉樹というバラ科の木の花が美しい。水汲みをする人、よれよれの犬、ナシ族のおばあさん、肉まん(?)を食べながらチャリンコを引きいて通り過ぎるお兄ちゃんetc・・・
気に入った。昼と夜の麗江は「騒がしい軽井沢」のような有様だが、朝はいい雰囲気。後に、ガイドのリンダさんも「私も麗江は朝のほうが好きです」と言っていた。麗江はここ数年で人気の観光地となり、ナシ族だけでなく漢族(いわゆる中国人の95%)の店も沢山出来た。街は急激に変わってきてしまった。昔から地元にすんでいる人、特にお年寄りはどう感じているんだろう?
散歩の帰りにナシ族のお焼きのような食べ物、「ナシバーバ」の甘い味の方を買った。5元。リンダさん曰く、ぼったくる所は8元するんだとか。だから私の買った店は「Good job」なんだとか。次の日も同じ店で塩味の方を買った。一元負けてくれた。この店の売り子の娘さんはナシ族で、彼らにとっての伝統的な「美人の条件」が見事にそろっていた。
麗江に泊まった2日間は、早起きして静かな風情を味わうことにした。町外れまで歩いた。始めて麗江の存在を知ったのはある写真集。そのときは、「何だか日本に似ている」と感じたが、現地に来て見れば街はやはり中国っぽさの方が強い。ナシ族のライフスタイルも中国人に近い。日本に似ていると思うなら、木を多用した家の色や控え目だが細やかで勤勉な性格のナシ族の皆さんの印象が合わさると日本人としては少し親近感が持てる、といった辺りか。
麗江は沢山写真を撮ったので、まとめてこちらでご覧いただきたい。

玉龍雪山
朝食はコンチネンタルスタイル。久しぶりにおいしいコーヒーとサラダ、ハムエッグ、パンケーキを食べた。今日は玉龍雪山の見学スポットである「雲杉坪」と白沙村、玉泉公園へ行く予定。
天気は最高。雲杉坪のある国立公園に向けて平原を走るバスからの眺めもばっちりだ。日差しの強さでここが標高2500mの高原だと教えてくれる。国立公園入り口で電気自動車のバスに乗り換える。ここで、湖南省から観光に来たテンションの高いおじさんと仲良くなる。私が日本人と知ると始めは静かになってしまったのだが、中国語が通じると知って息を吹き返して熱心に話し始める。どうやら、湖南省の名所「月亮タワー」の良さを日本人にも知ってもらいたいと力説していた。実はこのおじさん、その「月亮タワー」に住んでいるらしい。「もしここへ旅行する時は連絡しなさい」と日記帳に住所まで書いてくれた(笑)。
バスを降りると今度はリフト。3100mまで上れば雲杉坪。すでに観光客で長蛇の列。中国人のほかに、タイ人の観光客もいた。雪の降らない国の彼らにとって、頂上に万年雪の降る玉龍雪山周辺は「寒い場所」というイメージがあるらしい。しっかりと防寒具を着込んでいた。リフト乗り場の案内板に書かれた日本語は面白かった

雲杉坪は予想に反して寒くはなかった。民族衣装を着せて写真を撮る「コスプレ写真業者」の勧誘がしつこい。実際、繁盛しているから、商売熱心にもなる。私達はただ景色の写真()だけを撮って済ませた。
雲杉坪自体は少々騒がしい撮影スポットに過ぎないと感じたけれど、下りのリフトから見えた風景が良かった()。

白沙村
昼食を済ませて白沙村へ。入り口にナシ族の象形文字、トンパ文字が展示してあった。「トンパ」は「東巴」とも書く。
トンパ文字は現存する最古の象形文字で、ナシ族の中でも「トンパ」というシャーマン達に受け継がれた文字。2003年にはユネスコの「世界の記憶事業」に登録され、デジタル保存が進められている。写真はこちら
「眠る」や「夢」という字が興味深い。「霊(霊感)」に対応する額のチャクラから何かが出てる
なかなかカワイイ文字だが、1400種類ある上に同じ文字でも微妙な形の違いで文法が変わるなど、読み方には複雑な法則がある。トンパ達はこの字をナシ族の独特の紙に書いて様々な記録を作った。紙は漢方薬にもなる苦い木の皮で出来ていて、虫がつかず、100年はほぼそのままの状態で保存できる。現在、トンパ文字を読める人は少なく、トンパ文化の継承者もわずか。麗江市は町興しもかねてトンパ文化の復興と保存にいそしんでいる。
白沙村はその昔、麗江一体を支配したナシ族の「木氏」が麗江の街を作る前の勢力中心地だったそうだ。そのためか、古い建築や古い壁画が残っている。特に壁画が有名で、チベット仏教、ペー族の観音信仰、道教など、近隣の異なる民族が信仰する神仏の絵がまとめて壁画になっている。文革の時には白いペンキで塗りつぶされてしまったが、後で上に塗られたペンキをこそぎ落として復活させた。壁画のある寺院の建物は、見た目が少し東照宮に似ている。釘を使わず木を組み合わせて作るタイプの建築で、地震に強い。もし地震でちょっと崩れたら、また組みなおせばいいだけなのだそうだ。
白沙村は多くのツアー会社が日程に入れる場所なので、入り口には土産物屋の露天がにずらりと並んでいる。藍染屋の工房もある。それでも村の雰囲気はまだ残っているのが救いだ。子供たち、縁側でマージャンをするお年寄り、昭和みたいな風景・・・詳しくはこちらで。
白沙村の公衆トイレは超デラックス。もちろん水洗。オマケに大理石を使っていて、待合室まである。そして、自動センサーの蛇口は、水が出ない。

玉泉公園
この旅行記のクライマックスであり、この旅行記の締めくくりには、この玉泉公園での出来事がふさわしいだろう。今までにも超個人的・内面的・神秘的(?)な出来事をいくつか書いてきたが、これもその一つだ。この旅行記は、半分以上自分自身がこれらの出来事を忘れずにしっかりと覚えておくために書いているようなものだ。読者にとって必ずしも面白く、読みやすい旅行記ではないかもしれない。しかし、退かぬ媚びぬ省みぬ。

玉泉公園は麗江の水路の水源になっている泉がある場所。丁度雲が出てきてしまったが、この泉に玉龍雪山が写った写真をよく見かけた。
公園内には、「トンパ文化研究所」がある。そこで日本語がまあまあ分かるナシ族の若者(学生?)が色々レクチャーしてくれる。トンパ文化(=ナシ族の伝統文化)が廃れつつあり、それらの保存と後継者育成のため、現在現役のトンパ約8名がボランティアで「トンパ・スクール」にて教鞭をとっている。そのうちの何人かは「大トンパ」といわれており、重要文化の継承者として尊敬され、人間国宝になっている方もおられるそうだ。麗江の旧市街に「トンパ宮」というナシ族のショーを見せる場所があり、現在はそこに出演してトンパ文化を広めているトンパもその一人らしい(次の日見に行った)。
「トンパ」はナシ族の言葉で「智者」を意味する。まさしく「賢者」のような役割で、各種儀式を執り行うシャーマンであり占い師であり、医者やアーティストでもあった(トンパ文字を思いついた人は凄いアーティストだと思う)。一人前のトンパになるには文字をはじめ、様々なことに精通していなくてはならないので、修行に長い時間がかかる。基本的に世襲制で、一番優秀な子供だけがトンパになる。レクチャーしてくれる若者は、研究者にはなれてもトンパにはなれないそうだ。レクチャーの最中、沢山の雉の羽がついた帽子を被った一人の大柄な老人が、慣れた様子でしずしずと入ってきて奥の立派な席に音もなく座った。私達の方には一瞥もくれず、ただ静かに前を向いて自分の役割と来るべき時を待っていた。
最初はレクチャーに気をとられ、「観光客向けのデモンストレーションか」くらいにしか思わなかったのだが、徐々にその不思議な「静かな存在感」に私の意識のどこかが反応し始めていた。何だろうこれ? しかもその老人の不思議な顔・・・誰かに、似ている。・・・やがて、私の無意識はそこに座る存在に対して「ただのデモンストレーション役トンパ」から認識を改めた。
いや違う。これは・・・・・・・・・・・・【トンパ様】だ。・・・・・・・・・【トンパ様】がいるんだ。
いつの間にか湧いていた無意識レベルの畏敬の念により、「様」付けで認識していたのだが、不思議なことに、この時点では私はそんな自分の畏敬の念を自覚していなかった。
トンパ文化についてのレクチャーは続く。トンパ教についてのことから今度はトンパ文字の文法や読み方について。その前置きとして、後で自分の名前と好きな言葉や願い事をその場でトンパ様がトンパ文字で書いてお土産にするサービスの宣伝があった。100元。掛け軸にしたものは200元。高っ!「売り上げはボランティア運営のトンパスクールの運営費になります」ありがちなパターン。
トンパ文字の読み方(うろ覚え):
トンパ文字は漢字同様、「太陽」と「」を表す文字がそのまま暦の「日」と「月」としても使われる。また、「あなた」という字(単語)の右手の先が上向き曲がっていると「あなたは~を願う」という文法になる。
さらに、同じ文字でも、文脈によって読み方や意味が変わり、しかもその上、「右から左に読む」などといった「読む順番」が必ずしも決まっていない。同じ意味の文字でも、異体字がある。もはや暗号だ。

さて、私はといえば、ナシ族の若者が懸命につたない日本語と英語でレクチャーしてくれているのに、途中から上の空だった。
原因は、さっきの宣伝で聞いた「掛け軸」だ。よりによって高い方の掛け軸!
200元という値段は、中国の物価から見ると決して安くなどない。中国人のビジネスマンが利用する安宿なら一泊30元。両替した元だってそれほど沢山残っていはいない。今後の日程を考えると、無駄遣いはしたくない。それに、心の片隅に住む【黒AYA】が、「そんなもん200元も出して買ったらバカな観光客」と囁いていた。しかし・・・
私は生まれてこの方、「掛け軸」なんぞに興味はなかった。今だってない。話を聞いた最初もやはり、そんなものには無関心だった。それなのに、後からだんだん、何か気になる、ムズムズするような感覚になってきた。
この時やっと、自分が【トンパ様】という奇妙な畏敬の念を持っていることを発見した。まさか・・・そんな気分になるなんてね。私は今でも信心深い人間ではない。
レクチャーが終わった時、私は掛け軸をオーダーしていた。「日本円使えますか?」・・・OKが出された。
掛け軸の言葉は、「いい占い師になりたい」。
レクチャー役の若者は私の素性を聞いてびっくりした「ヘェェ!?」。他に2人いた同年代の男女も同じ反応。
この言葉を書いてもらおうと決めた理由。それは、書き手が伝統的にスピリチュアルな役割を担っている【トンパ様】だからだ。私は机を前に静かに鎮座ましますトンパ様を見た。依然として不思議な雰囲気をまとっていた(後に、知り合いのチベット人修行者と似ているのだと判明。ナシ族とチベット族は同祖)。このトンパ様なら、(同じ分野に携わる者として)掛け軸に込められた言葉の意味を何となく分かって下さるかもしれない。
トンパ土産、普段ならばせいぜい単語(願い事なら『合格』とか)を書く程度らしいのだが、短い文でも可能だろうか? ナシ族の若者がトンパ様に事情を説明すると、快く書いていただくことになった。事情を聞いたトンパ様は、掛け軸に選んだ言葉の意味を分かってくださったようだ。静かにうなづき、親しみのある微笑みを浮かべた。
掛け軸を書くトンパ様
掛け軸が完成した。文字数は5。書かれたトンパ文字の説明を一つ一つ聞くと、奥が深い。中でも興味深かったのは、「占い師」に相当する文字。この文字は2つの部品(記号)から成り、それぞれ
1:「沢山の情報」と、人がその一部を手に取り2:「読む・数える・ひも解く・ピックアップする」姿が合わさって「占い師」という文字になる。・・・まるでアカシックレコードや集合無意識のデータを検索して読み取る様子を表している様だ。「巫女」という字も「占い師」と似ている。ただしこちらは文字に「沢山の情報」に相当する部品がない。その代わり、女性であることを表す帽子が頭に載っている。「お告げ」を得るタイプの女性が巫女さんということのようだ。
そして、とてもうれしかったことは、トンパ様は「いい占い師」というところを、「最高の占い師」として書いてくれちゃったことだ。英語ではっきりと「best」と説明され、中国語では「最好的」だった。もはや恐れ多い。
掛け軸の文字を直訳するとこうなる:「あなたは最高の占い師になると願う」
出来上がった掛け軸を前にしてトンパ様と記念撮影。トンパ様が「もっと近くへ」と私を引っ張って、2人して満員電車の乗客の様にぴったりくっつきながら写真に納まった。
正直、感動した。長い長い歴史の中でナシ族という一民族を導き、文化と叡智を継承して来た「トンパ」という職業は、今なお現役でその役割を担い、今でもナシ族達に尊敬されている存在で、私のような若造の占い師とは比べ物にならないほど偉大なはずだ。そんな【トンパ様】に励まされたことが分かった。こんな光栄なことはない。
私がなぜ急にトンパに畏敬の念を持ったのか。恐らくそれは、「トンパ」という職業そのものと、トンパが担って来た「歴史そのもの」に対する畏敬なのだと思う。私の遺伝子が、それを知っている。日本人にも、トンパのような役割が存在した時代があるから。

記念撮影の後、せがまれてナシ族の若者達(男2女1)の手相を見た。日本語がある程度通じるからやりやすかった。遊牧民のチベット族と違い、ナシ族は水の豊かな地に住む農耕民族。そのせいもあってか、彼らは皆日本人の手相と似ていた。生命線と知能線の始点が一致しているか、途中まで線が重なっているのだ(チベタンの場合は分離していることが多い)。3人全体の印象として、カパ系の体質(日本人に多い)で時には神経が細かく、繊細で控え目、といった感じ。日本語でレクチャーしてくれた若者はヴァータ・カパ体質で、子供の頃癇の虫が強かったようだ。トンパの仕事に「癇の虫取り」ってのはないのだろうか? 聞き忘れたのはちょっと惜しい。他には1人、3人の中で最も控え目で押しは弱いけれど、一番金運のいい手相の持ち主がいた(笑)。
「皆さんの手は日本人の手相とも似ていますね」と言ったら、「私も日本人が何となく好きです。性格に親近感を感じます」と言った若者がいた。日本語レクチャーの彼だ。これからも多くの日本人相手にがんばって欲しい。それだけでも日本語が上達するだろう。私が路上で人数をこなして占いを上達させたように。
そして、光栄にもあの掛け軸を書いて頂いたトンパ様のお手を拝見させていただくことに。先ほど手相を見た若者の一人がトンパ様に遠慮がちにだが「先生もいかがです?」と勧めたのだ。
何とも恐れ多いことだが、非常に興味を引かれたのもまた事実。わくわくして手を見せていただいた。うひゃー、凄い生命線! 手のひらを超えている。金星丘は生命力豊かに発達している。特にお腹が強いに違いない(金星丘は消化器系にも対応する部位)。3人の若者とは違って、生命線と知能線の始点は分離している。開拓運の持ち主だ。運命線も力強い。運命線を斜めに横切る障害線があるけれど、運命線はびくともせずにその先へと伸びていた。きっと長生きなさって素晴らしい人生と人々への貢献を成し遂げるお方に違いない。例え身体や運勢が瀕死になっても、不死鳥のごとく甦ることを手相が暗示していた(いや既に甦った後なのかも)。ある意味では、トンパの歴史の変遷そのものを象徴するような手相。
トンパ様は若い世代ほど中国語が達者ではないので、私とナシ族の若者皆で時折ジェスチャーを交えて鑑定結果をお伝えする。都市部のナシ族の若い世代は、もはやナシ語をしゃべれない。
「長生き」をお伝えするとうれしそうにニコニコした。「お腹が強い」と伝えると自分の太鼓腹を愛おしそうになでた。ジェスチャーで「弱った状態」と「元気に復活した状態」を示すと、うなづいた。
後でガイドのリンダ(トンパ様の生命線が手首の横まであると言ったら驚いてた)から聞いた話では、彼はもともと深い森に住んでいたところを、トンパ文化の復興と保存に協力を求められ、麗江にやって来たのだという。ふと、白水台に行く途中の広大な原生林が頭に浮かんだ。

掛け軸を買うのは正解だった。トンパ研究所での体験は時間にすると1時間ちょいでしかなかったが、今後に生かすべき非常に貴重なものになった。他にも旅行の間にはそういうことが幾つかあったのだが、あまりにも出来すぎていてちょっと信じられないくらいだ。掛け軸の入った筒を両手にしっかりと抱え、トンパ研究所の石段を下りながら私は決意した。
「私、『日本のトンパ』になる」
・・・「トンパ」と「トンパ文化」の叡智はナシ族の集合無意識が生み出した人々の「生きる力」をサポートするシステムでもあり、古今東西、様々な民族がその性質に合わせて独自のサポートシステムを作り上げてきた。健全に機能したものも、そうでないものあるが・・・
科学的先進国の日本では、現在そのようなしっかりとしたサポートシステムは存在していない。よく、「何を信じていいのかわからない時代」といわれているが、これは自分自身、ひいては「自分の生きる力(生命力)」をも信じられなくなっている結果でもある。自分がわからない。自信がない。自分の生命力(の使い方)がよく分からない・・・
ナシ族にとってのトンパやチベット族にとっての仏教のようなサポートシステムがない代わりに、日本では精神世界や占いの分野に人々の意識が向き始めている。この手の分野にナシ族にとってのトンパのような「生命力のサポートシステム」の機能を無意識に求めているように感じた。
トンパは人間が己の生きる力(生命力)を効率よくフルに発揮するための最も原始的な機能(をする人)のひとつだが、日本には日本に適した形での『トンパ』があってもいい。
それは「特別な人」がやるのではなく、先生、カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、心理学者、医者、芸術家、ミュージシャン、占い師、スピリチュアル何とかなどなど、色んな肩書きの人々が自分たちの方法でやっていけばと思う。それに、凄いものからちょっとしたものまで、色んなレベルがあっていいと思う。そのほんの末席に、私も加わることが出来たら・・・
石段を下りきるまでの間に、そんな妄想が高速回転した。この妄想は、今でも気に入っている。

日本から数千km離れた雲南にて、超個人的・内面的・神秘的(?)な体験に励まされ、電波を受信し、妄想と決意と意欲を手土産に。
占い師は、帰ってきた。

占い師の旅路~雲南省・三江併流~ 


旅行記はひとまず終わり。それ以降の日程はごく普通の家族旅行でした(ということにしておこう)。占い師になることを許してくれた両親にプチ親孝行も出来ました。旅行の残りの写真はこちらで全部見れます。

2007年6月 5日 (火)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その9

次回でひとまず旅行記を終わらせます。雲南は他にも色んな場所に行きましたが、だらだらと全てを書いていたらきりがないので。いつか機会があれば(ネタ切れになったら)また書くかも知れません。
今回と最終回は、電波が垂れ流しです。何卒ご注意下さい。

徳欽~香格里拉
北京時間の7:00起床。北京よりずっと西の徳欽ではまだ薄暗い。部屋から金星が見えた。
ホテル前の路上に出る。誰もいない。寒い。空には月と金星だけが見えた。少し歩いてみると、犬の散歩をしている人と早起きのお年寄りが小さなマニ車を回しつつもにょもにょ言いながら通り過ぎていった。坂を下りてカーブを少し曲がったところで何気なく振り向くと、今まで雲に隠れて見えたことのなかった見事な雪山が見えた。これはホテルの非常階段で写真を撮ると丁度いいかもしれない。すぐにホテルに戻ってすでに起きていた両親にも知らせた。父がばっちり写真を撮った。私の携帯は高地の低い気圧のため、液晶画面に黒い点が日に日に増えていった。携帯の写真に黒い点が写ってしまわないか心配だったが、それでも撮り続けた(携帯で撮った雪山@ホテルの非常階段)。結局、この日低地に降りたら画面は元通りに戻った。
今日は2日前に来た峠を通って香格里拉に戻り、更にその先の虎跳峡を経て標高2500mの麗江に行く。チャオシンにはこれからも引き続き運転してもらうが、今日で現地ガイドのソナムともお別れ。前日の夜、ソナムは私の旅日記のノートにきれいなチベット文字で文章を書いてくれた。後に日本でチベット語と仏教哲学に詳しい知り合いにその意味を尋ねたところ、昔のチベットの偉大な仏教学者が残した言葉だった。「あ、深いな」と思った。何て書いてあったかは、秘密。正直に白状すると、難しすぎて理解し切れていない。
朝食は昨日と同じメニュー。お茶はガラスのコップに注いでくれる。今日、私のコップには茶柱が2つも立っていた。何かいいことが起きるかもしれない。
・・・そして本当に起きた。場所は、行きに雲で梅里雪山が見えなかった展望台(大きいバージョン)(携帯版)(おまけ)。
美しさで寒さを忘れた。ずっと天候が悪くて山の顔が見えなと思っていたら、雪化粧を念入りにしていたようだ。最後の最後にばっちり見させてもらった。日本人で短い期間内に梅里雪山を全部見れたケースは珍しいとのこと(そもそも日本人観光客が珍しい)。撮影地点と手前の集落の間には、1000m近い谷底がぽっかりと口をあけている。ソナムは全ての山が顔を出した梅里雪山を前にして、短くお経を唱えた。聖山カワクボに限らず、チベットエリアで高い山は神様や仏様だ。
このとき、チベット人は基本的に、「生命力」を崇拝しているような気がした。厳しい環境の中、暮らしに必要な雪解け水(水が貴重なので、まさに命の水でもある)をもたらす山は、生命力の象徴ではないだろうか? 文殊菩薩が象徴する「占いの力」や「知恵」もまた、生きることを手助けする力(能力)だから一種の生命力だ。「悟り」なんて生命力がなしうる究極の技なのかもしれない(※)。
「生命力」を偉大なもの、神聖なもの、有難いものとして崇拝することは、自分の中にある生命力をも鼓舞することになるのではないか。それどころか、「生命力を持っているものは何であれ神聖さを備えている」とさえ思うようになるかもしれない。 チベットには、「(自分を含めた)全ての生き物に幸あれ」という有名な祈りの言葉がある。チベット人が持つ古くからの信仰は、無意識のうちに自分達の生命力を鼓舞し尊ぶ手法でもあったのだろうか。多分、チベットだけじゃなく、色んな地域の伝統的な信仰は皆、最初はそういうものから始まったのかもしれない。もしそうだとすれば、自分たちが崇めているものが本当は何なのかをわかってさえいれば、ドグマチックな状態に陥ることが原因の様々な問題(今なお続く問題)は起きなかったのだろうか? 薄い酸素の中で、そんなありがちな妄想をした。
そんな時、また昨日の山で来たようなインスピレーション(他人が見れば電波)が来た。
「占いの力は一種の生命力」「生命力を活かし、発揮できることを本能は『幸せ』と認識する」「皆が生命力を活かせる様に私の生命力を活かせたらいいな」「私が自分の生命力を活かした時、他の誰かの生命力が活きやすくなれば」「そうすると、他人も私も一挙両得」・・・言葉にすると順番に言うしかないが、実際は同時にデータが来た。
山を撮影後、私はご機嫌のあまりスキップで車(ワゴン)に飛び乗り、入り口の天井部分に前頭葉の辺りを強打した。確か学生時代にネパールを旅したときも、これと全く同じ事をした記憶がある。
行きに通った峠のがたがた道も一面の銀世界だった。そして2本目の茶柱が暗示していた(?)もう一つのラッキー。それは、そんな峠の道が、昨日の夕方見た白茫雪山の真っ只中を通っていたことがわかったこと。行きは霧で全く何も見えなかったが、実はとんでもなくいい所を走っていたのだ(写真
ここで、私達は今までの生涯で最も高い地点(標高4000m以上)での「ナチュラルトイレット」を経験した。いい経験だった。旅行記の最初の方で載せたソナムとチャオシンのツーショットは、ここで父が撮ったものだ。
狭いがたがた道、走っているのは私達だけかと思いきや、観光バスと派手なトラックに出くわす。こんな場所だからすれ違うのも一苦労()。
峠を越えれば後は下っていくだけ。雲海の波打ち際を潜り抜け、山里に出る。常世離れした清冽な銀世界から、色のついた人間界の景色になる。気温も上がる。やがて香格里拉に到着。街の写真()を撮り、地元で大流行りのパン屋兼カフェ(ベーカリーカフェじゃなくて、串揚げも売ってる)で休憩する。オレンジ味の生地に安い菓子パンに入っているようなフラワーペーストのチョコクリームのついたケーキが懐かしくておいしかった。串揚げ は砂肝や餅を素揚げにしてもらい、辛い粉をつけて食べる。これもいけた。

虎跳峡~麗江
ガソリン補給とタイヤ交換を済ませてシャングリラを発つ。しばらく走ると長い下り坂。風景がチベット族の家からナシ族の家に変化する。ナシ族の家の特徴は魚型の板が屋根から下がり、壁には波やカエルなどの水にちなんだペイントが描かれていることもある。風景がそうなって来るとハパ雪山が見えてくる。木も沢山生えている。とても暖かい。朝凍えていたのが嘘みたいだ。更に下って虎跳峡についた頃にはとっくに防寒具とセーターを脱いで長袖のTシャツ一枚になっていた。
厳しい寒さには強いチベット人、暑さには弱い。運転席で直射日光を浴びるソナムはため息をつく。
ソナム「Today is very hot・・・」
・・・その登山用フリースを脱げば少しは涼しくなると思うよ。

虎跳峡はハパ雪山と玉龍雪山との間にある峡谷で、世界一深い谷だと言われている。名前の由来はこの写真の真ん中の大岩を飛び石にして虎が川を跳び渡った、という言い伝えから。切り立った崖が首が痛くなるほど上まで続いている。ソナムの説明では、高低差は最大のところで2000mにもなると言う。川の流れは凄まじい激流。中国の川は半端じゃない。幾つかの大岩の上を怒涛のごとく流れ、「水ってこんな動きするんだ」と感心するような複雑な流れが川の中にいくつも出来ている。落ちたら溺死する前に水流で岩に叩きつけられて死ぬタイプの川。日本の海岸の岩場でもたまに見られる「潮吹き」のような現象が、真ん中の大岩の近く、流れが別の流れの下に一旦深くもぐりこむ境目の辺りから吹き上がっている。吹上げが速すぎてあまり「撮影できた」とはいえないが・・・
虎跳峡の見学を終えると、ソナムとお別れ。虎跳峡から路線バスに乗り7時間以上もかけて香格里拉に帰る(路線バスだとんでもない大回り)。彼には濃い体験が出来たことをとても感謝している。面白いところも個人的に気に入った。彼が写っている写真はあとでメールで送ってあげよう。ソナムはみんなと短く握手して背を向け、振り向かずに手をひらひらさせて私達の視界から消えていった。
「おおざっぱで飾り気のない自由な風」。今まで私が現地のチベット人達からよく感じとるイメージを、彼も持っていた。

車は幹線道路を進む。雪山は見えても、もうチベットのような「高山地帯」ではない。ハパ雪山を通り過ぎ玉龍雪山の麓に入り、農村抜け、車は夕方に麗江に到着した。ここで、麗江の英語ガイド、ナシ族のリンダさん(外国人が名前を覚えやすいようにガイド名としてそう名乗っている)と合流。英語の発音もきれいで、しっかり者の美人さんだ。お顔を撮るのを忘れていたことが悔やまれる。
麗江古城の入り口はものすごく騒がしくて、古い建物が容赦なくネオンまみれになっていた。あちこちのバーからカラオケが鳴り響き、遅くまでやってる土産物屋からも大音量の音楽が流れてくる。
・・・これがナシ族の古都? ああイメージが「古都」から「バカ殿様のセット」に変化してゆく・・・大丈夫だろうか?「観光シーズンの麗江は毎日こうなんです」とリンダさん。日本で春の観光シーズンといえばゴールデンウイーク(だからこそシーズンを避けて早めに旅行したつもりなのだが)、しかし中国では、ゴールデンウイークの前に遊んでお土産を買って実家に里帰りをする習慣があるそうだ。なんたること! わざわざ一番混む時期に来ちゃった!
 
夕食後に古城(旧市外)をほんの少しだけ散歩すると、うるさいながらも何となく情緒は残っていた()。これは早朝に期待しよう。
この日は早めに帰って日記をつけて寝た。

次回、最終回の予定。

※妄想の補足(物好きな人向け):
チベットだと生命は輪廻するとされている。だから身体は死んでも生命は死なないし、受精卵が細胞分裂を開始する前から生命は存在している。輪廻自体が生命活動だから。そしてその活動を司る力もまた生命力。そして、チベットでは「輪廻の繰り返しを通して修行が進むと、そのうち悟れるかもしれない」という。一般的に仏教では「輪廻しない方が(生命活動しない方が)良い」というイメージがあるが、「悟り」を「生命が輪廻(=生命活動)を繰り返すにつれてレベルUPすることで可能なこと」とすると、悟りを開くことで輪廻転生をしなくなる「解脱」という生命の最終形態に至る(生命力の役割が終わる)その時までは、生命活動とその源である「生命力」はとても大切なものでもありそうだ。平たく言うと、
「自分が修行して悟るのに必要な分の輪廻(=生命活動)を終えるまでは、生命力にがんばってもらわないと」

2007年5月30日 (水)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その8

朝。曇り。町の周囲の山を覆っていた雪雲が、やがて私たちのいる徳欽の谷もを覆い始めた。今日は移動距離が少ない近場に行くとのことなので、朝はゆっくりマッタリできた。
朝食は昆明の空港で食べたのと同じ米線。それに、昨日リクエストしておいたコーヒー(インスタント)が出た。
砂糖がないので頼んだら、使い走りの少年(小学生位)が小皿に砂糖(ザラメ)を持って来た。地元の人はあまりコーヒー飲まないだろうなとは思っていたのだが、昨日スーパーでインスタントコーヒーが売られているのを見て、
「ホテルならコーヒー置いてあるかも」という期待が当たった。
食べ終えてふと見ると、、コックさんと従業員たちが食堂の隅っこで中国のアイドル歌手に見入っている。私もお邪魔して見物する。さっき砂糖を持ってきた少年と目が合う。笑いかけると、それはそれはかわいい笑顔を見せてくれた。

徳欽~明永
今日は梅里雪山から流れ出す明永氷河(「明永」という村から車の入れない道が氷河まで続いている)を見に行く。スケジュール表によると、本当は今日東竹林寺と梅里雪山を見る展望台へ行くはずだったのだ。しかし展望台は曇ってる時に行ってもしょうがない。寺は昨日行った。それで行き先を山の麓の氷河にチェンジ。
雪雲にすっぽり覆われた町を出発。チャオシンは五里霧中でも危なげなく運転する。山に沿ってしばらく進むと、雪雲を抜け出した。更に進んで少し高度を下げる。暖かい。トイレ休憩をして、ついでに写真を撮った。チベット、いや中国の田舎のトイレはお世辞にもきれいとは言えない。建物の下の地面に「ぼっとん」するだけ。仕切りはあっても扉はない。どのトイレも臭い。でも、周りに建物がないことが多いので、案外眺めが良かったりもする。
車はチャオシンのかけるポップスに乗って更に進む。途中、道路標識が地面に落ちて逆向きになっていたから道を間違えた。舗装もされていない道なき道を進み、途中ですれ違ったおじさんに道を聞いて引き返した。しかしお陰でいい写真が撮れた()と思う。
正しい道を明永に向かって急ぐ途中、急にソナムがチャオシンに向かって「あ、ちょっと止めてくれ」と言って車を急停止させ、急いで目の前の真新しい仏塔(チョルテン)に駆け寄る。お坊さんが数人、シンバルを鳴らしお経となえて儀式をしている。すぐに戻って来たソナムが「新しい仏塔が立ったので、お布施してきた」と言う。どうやら仏塔の落成式のようだ。彼は信心深いチベタンで、ここはチベットエリア。・・・そうだったんだ。じゃあ急停止してもしょうがないよね。
お昼には無事明永に到着。明永村は比較的暖かい谷底にある。荒涼とした景色が続いていたので、緑が非常に美しく映る。裸麦の畑とぶどう畑があった。
明永村で昼食(やっぱり炒め物)をとったら氷河までプチトレッキング。「歩いて2時間ぐらいで着くけど、馬に乗りますか?」とソナム。借り馬(馬引き)賃は120元と結構高い。しかも、値切れない。最初は歩いていこうと思ったが、山を歩き慣れたソナムの足で2時間ってことは、私達は倍以上かかるだろう。結局馬にした。値切れるシステムでない理由は、馬代+トレッキングエリアの管理費用が合わさってるからのようだ。

明永氷河
ホーストレッキング。最初のうち()は道のヘリを石で補強したり、道端に花を植えたりといったことがなされていたが、村を抜ければすぐに原生林に覆われた原始的な山道を行く。あちこちぬかるんでいて、馬もそこを避ける。馬の首につけられた鈴の音が何とも言えない良い音を出す。一回目にチベットへ行った時から、この音が好きになった。馬引きさんは時々馬を引っ張る以外は馬任せ。これも以前のチベット旅行と同じだ。私は7年前の感覚を思い出して、馬が道草を食いそうになると「チョ!」と掛け声をかけたりわき腹を軽く締めたり蹴ったりして先を促した。
ソナムは馬引きさん達と世間話をしながらさくさく歩いているが、どんどん標高が上がっていく険しい道だ。げんなりした顔で引き返す徒歩の観光客何人かとすれ違った。
・・・馬でよかった。
途中で一たん休憩を挟む。リスが2匹、木の幹を駆け去って行った。ここで、馬引きさんの手のひらを拝見することに。しかし、手のひらから読み取った情報を中国語に変換するのは極めて難しい。普段占いで何気なく使っている抽象的な概念や感覚的な説明が意外と複雑なのだと改めて感じた。そこで、英語でしゃべってソナムにチベット語で通訳してもらうことにした。それでもやっぱり難しかったのだが・・・
今回手を見る馬引きさんは女性と男性の2人。差し支えない部分を書くと、女性の方は機転が利いて頭が良くてガンコ。少し気を使いすぎる傾向もあるようだ。「頭いいですね」と言ったら「アラヤダうそぉ」と手をひらひらさせる様子がかわいかった(笑)。男性の方は、頭を使うことは苦手なようだが、感覚的な集中力が鋭い。そしてシャイ。
いよいよ香格里拉のホテルで言ってたことを実行。ソナムとお互いの手相を見せっこする。ソナムの手相は線がハッキリしていて読みやすい。これも彼の性格か。実はとてもガンコ(保守的)でシャイな手相をしていた(踊りの時は例外)。欧米化した新しいライフスタイルより伝統的な生き方が向いているのかもしれない。知能線と感情線を見ると、普段は静かだが一度キレるとえらいことになるタイプ。思い立ったら即行動。一度動き始めたら絶対に意志を変えない。そんな生き方をしているからか、いざって時はなかなか肝が据わっているみたいだ(実際、肝臓も強い)。
そんなことを彼に伝えると、彼は照れながらも、こっそりと「(子供の頃)キレるとえらいことになった」や「肝が据わっている」時のとてつもない「武勇伝」を聞かせてくれた。ソナムそれ、「テヘ☆」なんてかわいく笑いながら話す内容じゃないwww。オリエンタルラジオも真っ青。このブログにはとても書けない凄い話(笑)。とてつもない生命力の持ち主だ。日本人は真似出来ない。というかマネをしてはいけない。
次に、彼が私の手相を見る。私が知っている手相の読み方とは違う独特(多分自己流)のやり方だ。今まで一度も手相の読み方なんて習ってはいないのだが、人の手のひらを見るとその人のことがわかるのだと言ったのは、本当だった。驚いた。本当に良く当たる。恐らく、彼が自分の見事な生命力を「シックスセンス」と言う形にしてめいっぱい使っているのかもしれない。
休憩を挟んで更に山道を登る。標高が上がって寒くなってくると、タルチョが沢山張り巡らされた場所に出た。梅里雪山、中でもカワクボ峰は昔から神聖な山とされていて、麓には山をぐるっと回る巡礼路がある。そこと私たちの道が重なったようだ。その少し先で馬を下りる。3世代の1家族とお坊さんがいた(写真)。
展望台に向かって遊歩道を歩く。やがて氷河が見えてくる表面は砂礫に覆われているが、割れたところがアイスブルーなのでそれと分かる。実はこの氷河、91年に京都大学の山岳会と中国の登山隊の混合チームが梅里雪山 で全員消息を絶った7年後に遺品が見つかった場所。記念碑も建っている。大きな岩が氷河の割れ目に絶妙なバランスで乗っかっていた拡大)。
きつめの階段を上って展望台に到着。えらいこっちゃ!といいたくなるような眺めが広がっていた()。展望台に着いて最初のうちはうす曇りで、チベタンにとっての聖なる山、カワクボが見えない。気がつくと、何故か山に向かって手で雲を払いのけるしぐさや暖かい吐息をふうふう吹きかけるしぐさをしていた。証人は両親とソナム。すると・・・・→
写真を撮りまくった後、今後の展望を山に向かって叫ぶ。
「いい占い師になりたい!!」
山の両側から声が反響した。「幸せ!」片側からだけ声が響いた。
「展望台」とは良く言ったものだ。文字通り、「希望を展開する台」に私は立っていた。
ハイテンションになって、ミネラルウォーターで乾杯した。「ありがとう!!」山の両側から、わずかに響いた。

※ここから電波入ります。ご注意下さい。
ソナムが、チベットでは智恵の神様にして占いの神様でもある文殊菩薩のシンボルになっている山もここから見えるのだと言った。ソナムの指差したその山は、雲にほとんど隠れていた。で、やっぱり息を吹きかけたり払いのけるしぐさをしてみる。都合の良い展開を期待。ソナムが後ろで「ブフ」と吹き出した。最もな反応だ。雲は動かなかった。
展望台の帰り道。ふと振り返ると、雲が。どいてくれていた
これにはソナムも「グレイト」と言った。彼は小声で何かを唱えた。チベット人が昔から山を「ありがたや」と崇める理由が、何となくわかった気がした。
私も山に向かって正確に覚えたばかりの文殊菩薩のマントラを唱えてみると、何だか山の中腹にぽっかり洞穴が開いて、その中にすうっと入り込んでいくようなイメージが浮かぶ。こんな感覚は生まれて初めて。酸素が薄いせいだろうか? 
しかもその時、とても良いインスピレーションを感じ取ってしまった。
インスピレーション曰く「占いの際には、その人の深層(真相)にもぐり、その人の生命力を生かすための(その人が自ら生命力を生かして解決・発展するための)情報を読み取ることに集中すべし。それ以外の目的や意図は占いとは関係のないこと。ある人がそれ以外のことを読み手に望むなら、それは占いを望んでいるわけではない、ということ」
・・・このインスピレーションが迷いを晴らし、占い師としてのポリシーの再確認を助けてくれた。
本当は、この出来事をブログに書く予定はなかった。非常に個人的かつ異様に電波な体験だから。今でもまだこの箇所を消そうか消すまいか迷っている。もしかすると、UPした後である日突然消えているかもしれない。以前書いた占い依存症についての2つの記事は、このときのインスピレーションが元になっている。
もと来た道を馬に乗って帰る。馬の揺れにもなじんだため、片手で写真を撮るのが楽になった()。
馬を下りるとチャオシンが車をまわしてくれていた。母が山道を歩きどおしのソナムに「疲れた?」と聞くと、「全然(何で?)。」と言う答えが返って来たそうだ。
帰りの車窓、最後に再び山が ちょろっと顔を出してくれた

夕暮れが近づく頃、その日最後のサプライズ。行きは真っ白な霧と雪雲で何も見えなかった道が晴れていて、白茫雪山が姿を現してくれた。実は凄い眺めの道を走っていたということらしい。撮影スポットの小さなお寺、飛来寺で写真を撮った()。毎日こんな眺めの中で生活するのはどんな気分だろう?

徳欽
晩ごはんは火鍋。毎日「野菜炒めとご飯」だったので、たまには違うものが食べたかった。ホテルの食堂には鍋料理用のコンロが各テーブルについていたのに目をつけ、昨日リクエストしておいたのだ。火鍋はお隣四川省の名物料理だが、雲南でも人気メニューの一つ。本場では、お鍋に仕切りをつけて、辛いスープとそうでないスープの2つが1つの鍋で作れるようになっている。今回は辛いスープは遠慮して優しい味のチキンスープのみのお鍋にしてもらった。骨ごとブツ切りにした鶏肉がいいお出汁になっている。そこに野菜や春雨を入れて頂く。幸せ。
ここでチャオシンがやたらと張り切って鍋奉行になる(笑)。スペアリブの時といい、妙に世話焼き。多分年下の兄弟を世話したことがあるんじゃないかと思って兄弟の有無を尋ねたら、妹が一人いるとのこと。中国は「一人っ子政策」をしているが、少数民族は2人まで子供を持てる。
突然、大合唱が始まった。パーティーションで区切られた食堂の向こう側で宴会をやっているようだ。間違いなくチベタン。一人ずつお酒を一気飲みし、その度に歌うのだ。「イッキ」が一回りし終える頃には大半の人間に酔いが回って歌声は更に大きくなっている。7年前経験済みだ。私の時はビールだったが、普通は裸麦で作った数十度の焼酎でそれをやる。それも、標高4000m前後の場所で。
「チベット式イッキ」。盛り上がっているようだが、良く通る歌声のせいか、まるですぐそばで歌われているみたいでそろそろうるさくなってきた。こっちの話し声が聞き取りづらい。無理かもしれないが、ソナムかホテルの人に何とか言ってもらえないだろうかとソナムの方を向く・・・お前も歌っていたのか。

本日も素晴らしい一日でした。

2007年5月24日 (木)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その7

昨夜のチベタン野外ディスコが心地よい疲れを生んで快眠した朝。朝食までまだ少し時間があるので、雨が降っていたけれど香格里拉の通りを散歩する。朝食を出す屋台はすでに開いていて、油の匂いが漂っていた。チベット族、白(ペー)族、回族(イスラム教徒)の屋台の前を通り過ぎ、チベットの薬草を扱う店を通過し、雑貨屋で小さなポテチを購入し、昨日行った旧市街とを撮影してホテルに戻ると丁度ご飯。
朝ごはんはバイキング方式。主食はパン、お粥、炒麺、米線などなど。ホテルお手製のゴマ入りクッキーと、魚のデンブ(?)と卵が入ったフレンチトーストみたいなパンがとてもおいしかった。
出発は9時。今日は香格里拉郊外の松賛林寺(ソンツェリン・ゴンパ) を見学した後、徳欽という街で泊まる。徳欽へ行く途中に4700mの峠があるので、「念のため」とソナムが酸素を売る店に連れてってくれた。(むしろ昨日連れてってくれ)。

松賛林寺
松賛林寺は、今から約320年前にダライ・ラマ5世が立てた雲南省で一番大きなチベット仏教のお寺。約500人のお坊さんがここで修行している。お坊さんたちの年齢は小さなかわいい小坊主から年老いた僧侶まで様々。本堂へ行き着くには、結構長い階段を上らないといけない。父はこの階段を見たとたんに息が苦しくなって来たと言う。
しかしそれでも皆何とかがんばって無事本堂に到達。写真を撮っていたら丁度お勤めの時間になったらしく、沢山のえび茶色の僧衣をまとったお坊さんたちが入り口に入ってゆく様は圧巻。私たちも帽子をとって中に入る。遅れ気味の小坊主たちが小走りに入ってくる。お目付け役の僧侶がちょっと怖い顔をして急かしている。
中では、観光客と参拝者がひしめき合い、お勤めの僧侶が勢ぞろいする前を2人のまだ若いチベタンが神妙な顔で素早く五体投地をしていった。ソナムもやっていた。チベットエリアは観光開発されても、まだまだ信仰が根強く生きている。ほとんど生活の一部。生きることの一部。私たちもそのことに敬意を表して日本式に手を合わせてみる。お寺の中は撮影禁止。
チベット独自デザインのご本尊や仏画や六道輪廻図を見学した後、私はここで5元ほどお賽銭を出してお坊さんからモニョモニョと「ご祈祷」を受け、小さなお数珠を貰った。旅のことと今までのこととこれからのことをよろしく頼んどいた。
数珠やマニ車(中にお経が入っていて、一回まわすと一回お経を読んだことになる仏具。)などが置いてあるお土産売り場で、小さなマニ車のストラップを発見。すごくかわいいのと、ちゃんと回るのに感動して思わず衝動買い。早速携帯に取り付けた。

香格里拉~徳欽
一路徳欽へ。原生林の残る山道を行く。やはり山襞をなぞるように進むからカーブが多い。念のため酔い止めも飲んでおいたし、高地順応が進んでいたし、今日は昨日同程度の高さの峠なら苦しくないみたいだ。今日も運転手のチャオシンがポップスをかけてご機嫌な運転。ノッてくると時々歌う。ソナムも歌う。二人で見事にハモる。
やがて雪が消えて晴れて来ると、原生林から背の低い潅木だけの荒涼とした風景になってくる。そこに白いチョルテン(仏塔)が立っているのが印象的
ぽつぽつと現れる集落(最近はテレビ用パラボラアンテナが設置されていることも)や段々畑には緑が映えているから、ほっとする。ここら辺は山がちなので、遊牧民はいない。農業がメインになる。やがて長江の上流である金沙江に出くわす。ここが上海上空辺りで見た向こう岸が見えないくらい大きなあの河の・・・
お昼頃になると高度が下がり、谷あいの小さな町、奔子欄(ベンツラン)に出た。ここでランチだ。観光客がここでランチをとることが多いようで、土産物屋やレストランが軒を並べる。それでも日本と比べればあまり車も通らずのどか。カムパ(東チベットの男。いかつく・熱く・勇敢。昔からイケメン率が高いとの噂)のトラックヤロー、お坊さん、小学生などが通り過ぎる。ランチを取るレストランがかわいくて良かった。味もなかなか。そこらへんを歩いていた(とソナムがわざわざ報告)豚の料理がおいしい。こちらの野菜炒めは日本と違って野菜が一種類ずつで、それが幾つか出てくる。瓜の炒め物も出た。それと、ソナムがリクエストした麻辣豆腐。7年前四川省の成都で食べたものほど辛くはないが、山椒が効いててむせた。
昼食後、さらに渓谷沿いを行く・・・スイスイ進むから気分がいい。
実は、昨日見る予定だった金沙江月亮湾 (写真)と東竹林寺を今日見物出来てしまった。月亮湾でやっと日本人(プラス日本語ガイドのチベタン)と出会う。私たちがこれから行く徳欽にて梅里雪山がばっちり見えたとのこと。これは期待できるかな?
東竹林寺は雲南のチベットエリアではやはり重要なお寺。現在増築中だった。本堂中庭で写真撮影のためにちょっと別行動をとって合流する時に、一人のお坊さんが親切にも誘導してくれた。それを見た増築のための大工(お調子者)がチベット語で冷やかす。お坊さんの反応を見るに、多分「坊主が女連れてるw」みたいなことを言ってるみたいだ。
(東竹林寺の写真
東竹林寺を後にして、道は高度を上げ、雨雲に入っていった。真っ白で何も見えない。けれども、寒さから高いところを走っているのが分かる。酸素を買ったが、苦しくなくてよかった。とちゅうから舗装されていないがたがた道に。どうも石畳らしい。途中から空気の薄さも手伝って、私たち3人は眠ってしまった。それでド派手なデコトラを撮るチャンスを逃がしたのが悔やまれる。ボディーに独特のペイントと五色のタルチョが屋根から両側のミラーに張られていた。
眠っているうちに徳欽すぐ近くの梅里雪山が見える展望台に到着。しかし今日は雲で山が隠れている。明日に期待しよう。祈りをこめてルンタをばら撒いておく。

徳欽
徳欽着。ホテルは彩虹大酒店。こっちではかなりいいホテル。私たちの部屋はメインストリートに面していて、向かいのCD屋からチベット語の歌が流れていた。ここで、昨日立てた「チベット人の遺伝子には音楽に脊髄反射するプログラムがある?」と言う仮説を更に強める出来事が。電源兼用のカードキーの説明をしに来たチベタンの従業員(もしかして10代?)がなぜか途中からそわそわし始め、カードキーの説明を終えて「それじゃ」と部屋のドアを閉めた瞬間、
「○×△□☆ー♪♪!!」
向かいのCD屋から流れる歌に合わせ、廊下中に響く声量で気持ち良さそうに歌いながら去っていった。母と2人で爆笑した。チベット人のこういうところが、7年前から大好きだ。
屋に荷物を置いたら早速街を徘徊。徳欽。谷に広がる小さな町。昔は茶馬古道の要衝。現在は観光地へ行く中継地点。小さな町だが、大きいスーパーマーケット(中国語:超市)があり、品揃えも充実している。
徘徊していると、チベットの楽器「ダムニェン」を引っさげて、身一つで勝手に食堂などへ入り込み、ベンベケ弾いておひねりGETを狙う2人組みを発見。通行人も足を止めて(おひねりをせびられないように)こっそり聞いている。私もこっそり聞いている。目が合ってニヤリと共犯者の笑い。
(徳欽で撮った写真
夕食はやっぱり野菜炒めと肉料理(スペアリブ)が一品。それにチベットチーズの包み揚げが出た。なぜかチャオシンがスペアリブの料理に興奮している。「食え食え」とばかりに、しきりに私たちのお椀によそってくれる。「わんこスペアリブ」。そんなに凄いの? この料理。 それとも、個人的に物凄く好きなの? 多分その両方。確かに味は良かった。
今日のスケジュールでパンフレットに載っていた明日の分の観光を済ませてしまった。明日はどうなるかな?

つづく

2007年5月15日 (火)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その6

※写真・補足はリンクをクリック。 雲南の地図はこちら

香格里拉
夕食は豪華なものだった。野菜炒めが数種類、ご飯、マントウ、チベット風ジャガイモと肉のカレー炒め、そして尾頭付きの川魚の黒酢風味まで出た。レートの違いのお陰で、日本人は安いツアーでも良いホテルに泊まれる(7年前は質素な招待所のドミトリーだった)。おいしかった料理はキャベツと大根と鶏肉の入った炒め物、チベット風カレー炒め、お魚。ご飯はやっぱりまずいw
中国では、客が食べきれないほど食事を出すのがおもてなしの礼儀。毎回量が多すぎて私達は必ず残してしまう。実際、残すのがこちら側の礼儀。日本人から見ると勿体無い。本当なら夜はガイドと運転手は帰ってしまう予定だったが、ソナムには食後にチベタンカフェのある場所を案内してもらうため、一緒にご飯を食べてもらうことになった。これで残してしまう食事の量をいくらか減らせる。
食事の最中、面白いことを聞いた。何とソナムは、占いが出来るのだという。しかも、誰に習ったわけでもないのに、人の手相が何となく分かるのだそうだ。実は私も占い師だと白状した。その時に、ソナムから知恵の神様にして占いの守護神でもある文殊菩薩(チベット名:ジャンペーヤン)のマントラ(真言)を正確に教えてもらうことができた。これを唱えると集中力が上がるそうだ。勉強前にこれを唱えるチベタンもいるらしい。実際に唱えてみると・・・うん。いい感じ。
ホテルの食堂は薄暗かったため、明日手相を占いっこしようか、という話になった。
食事の途中でバター茶が出てきた。あれ。チベタンカフェに行く口実がなくなっちゃうぞ? ホテルのバター茶は観光客向けに飲みやすくしてあった。しかし、ギトギトの中華料理と同時に飲みたくないお茶№1だ。
食後、ソナムがまだチベタンカフェに行きたいかと聞いてきたので、現地の人と交流する機会の欲しい私は「Yes」と答えた。両親は疲れているのでパスするとのこと。

ホテルを出たソナムと私は、旧市街に向かって歩いた。「Do you like tibetan dance?」とソナムが聞くので、よく分からないまま好きだと答えておいた。そのままもくもくと歩く。やがて旧市街に到着。どこからか音楽が流れており、夜もにぎわっている。建物は茶馬古道全盛期からやり取りされていた商品である刀剣、薬草、銀製品を扱う店のほか、おみやげ物や民族衣装の店、バー、レストラン、宿屋などがひしめき合っている。(朝の写真
そのままソナムの後をついて行くと、街に流れる音楽がだんだん大きくなってゆき、やがて旧市街の広場に出た。
そして目の前に広がる光景・・・・・・こういうの待ってました。
そこでは、沢山のチベタンやナシ族の老若男女が、輪になって盆踊りをしていた。
あれ? ガイドのソナムがいない。・・・と思ったら、ソナムはとっくに踊りの輪の中に入って楽しそうに踊っていた。みんな、本当に楽しそう。盆踊り(盆じゃないけど)は観光客も自由に参加できる。私も輪の中に加わってみた。ステップは簡単そうに見えて結構覚えずらい。何故か他の人と左右逆に動いてしまう。踊りの向きが方向転換すると、何故か後ろの人と向かい合わせになって目が合ってしまう。そういえば私は子供の頃からダンス音痴だった。今まで唯一マトモに覚えた振り付けは、遠い記憶のお遊戯会で踊った「糸まきまき」くらいなものだ。
曲が変わり、民族衣装のおばあちゃんと手をつないで大人数の「花いちもんめ」とフォークダンスを足して2で割ったような踊りをやっていると、高地のためにもう息があがってきた。きりのいいところで踊りの輪を抜けようかと思っていたら、曲がやみ、この広場での「盆踊り」はお開きとなった。(会場の朝の写真
いつの間にか近くにいたソナムと、彼の友人でやはりガイドをしている女の子二人と合流し、次のダンス会場へ行くことになった。そこにあるインターネットカフェ(中国では個人でパソコンが持てる人はまだ少ないが、みなネットカフェを利用している。1時間で2元=30円)でトイレを借りて、レッツダンス!
次の会場(後に地元の会社が敷地を貸していると知る)には観光客は余りいなかったが、ライトも点いていて、もっと広く、もっと沢山の数え切れないほどの人々が踊っていた。民族衣装を着たおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、非番の兵士(踊る時も動きがシュピーンとしていた)、仕事帰りの警察官、小学生くらいの子供、日本の若者とほぼ同じファッションに身を包んだ若い女の子、男の子、80年代に流行った某ジャ○ーズ系アイドルグループのようなローラースケートで華麗に走る少年たち、革ジャンでバリバリにキメたお兄ちゃん・・・
そんな人達が、ひとたびチベットのダンスミュージックが流れれば本当にのびのびとしたいい表情で踊る。少なくとも、その瞬間だけはいやなことを忘れて底抜けの明るさを見せているんじゃないかと思う。なんというか、生命力を感じる。
ソナム、いよいよエキサイト。やはりいつの間にか消えていたのだが、興奮した掛け声ですぐに見つけることが出来た。よっぽど踊りたかったんだろうなあ。やがてソナム同様に興奮した男たちの掛け声が聞こえ始めた。馬の鳴き声に似た声が広場でちらほら上がる。気持ちの良い歌声が聞こえる。ステキな笑顔が見える。
私自身は、踊るよりそれを見ているだけですごく楽しくて幸せな気分になれた。7年前同様、彼らの表情に癒される。チベタン達の遺伝子には、歌や踊りに対してほぼ脊髄反射するようなプログラムが何世代もかけて組み込まれてきたんじゃないかと思う。多分。
(後にこの仮説が本当ではないかと思える出来事に遭遇する)
踊りが終わった後は、ソナムの友達の女の子二人とおしゃべりしつつ、ダンス音楽のCDを探したり(VCDしかなかったので結局買うの辞めたのだが、後にyoutubeで発見)、ソナムの帽子選びを手伝ったりしながらぶらぶらとホテルに帰った。みんな、ありがとう! 大冒険でファンタスティックな1日でした。

※資料
一つ目の会場(旧市街)での踊りの様子(明るいけれど北京時間の夜7時か8時 去年のもの)
2つ目の会場での踊りの様子(去年)

旅行記はちょいとここで一区切り。次回は一たん別の話題を書きます。出来るだけ早めに書いた方が良い気がするものがあるので・・・

2007年5月 8日 (火)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その5

※写真・補足はリンクをクリック。 雲南の地図はこちら

白水台
車酔いをしている間の記憶は、あまり残っていない。ただ、ゼーゼー言いながら薬を飲んだことだけは覚えている。母が言うには、「白目を剥きながら異常な呼吸をしていた」そうだ。それはさぞかし不気味だっただろう。1時間半ぐらいはそんな有様で、そのうち薬と下り坂のお陰か少しずつ楽になっていった。
やがて車は目的地付近のゆるやかな谷あいの集落に出た。ここで昼食。よろよろと車を降りて、食堂に入る。客は私たちだけのようだ。おかみさんと娘さんが人数を確認して中華鍋を振るい始める。中国のガスコンロはゴウゴウと強力な火の音が聞こえる。食堂に暖房は効いてない。気温は多分10度位。
裏手のトイレへ行くと、チベット族(チベタン)ではなくナシ族の服が干してあった。ここら辺はナシ族が多いってソナムが言ってたっけ。ぼーっとした頭で思い出す。それもそのはず、白水台はナシ族のシャーマニズム【トンパ教】の発祥地。年に一度、ナシ族のシャーマン【トンパ】が白水台の周りで神聖な儀式の踊りを奉納をする聖地なのだ。
食堂でやかんに入ったお茶を何杯か飲むと、とても楽になってゆくのがうれしかった。じっとしている分には平気になったので、料理が来る前に車に積まれた大きなトランクをチャオシンに出してもらい、そこから衣類を引っ張り出し、男性陣には席を外して頂いて、母と食堂の隅っこでトランクを衝立に防寒強化。ももひき万歳。はしたない? それより命の方が大切。
今回私に高山病の症状が出たのはこれっきり。前回は3日間ほとんど死んでいたが、今回は90分程度半殺しになるだけで済んで本当に良かった。
着替えが終わってトランクを再び積みこんだ頃、丁度料理が運ばれてきた。メニューはジャガイモを細く切って多めの油で焼いたもの、トマトと卵の炒め物、豚肉ときくらげとねぎのピリ辛炒め、えんどう豆の葉っぱの炒め物、鶏肉と豆の炒め物、豆腐入りのスープ、ご飯。どれも味の素なんて使っていない。野菜は無農薬。「この肉はついさっきまでそこらへん歩いてましたよー」とインド訛りの英語で笑いながら朗らかに言うソナム。そう。ここはそういうエリア。日本とは違う。〆たばかりの鶏は、きっとおいしいだろう。実際、おいしかった。
私はさっきまで白目をむいていたとは思えないほどもりもり食べた。トマトと卵の炒め物、通称「トマト卵」は以前のチベット旅行でも良く出された一品。懐かしい。チベットエリアは標高が高く沸点が低いので、米を炊くと日本の倍近く時間がかかる。そしてまずい。それがチベットに来た実感を持たせてくれてとてもうれしい。もりもり食べつつまずいまずいと言いながらニヤニヤしている私はきっと気持ちが悪かっただろう。
母はご飯が食べられなかった。父はご飯を1杯、私とチャオシンは2杯、大柄なソナムは3杯食べた。

食後はお待ちかね。4km走って白水台に到着。山の斜面のそこだけ木が生えずに白い石灰岩の地形が露出している。遠目にも不思議な光景。入り口にはナシ族の皆さんがたむろしている。遊んでいる子供、毛糸つむぎをしているおばあさん、おじさん、子守をしているおばさん・・・彼らを見ながらまず階段を上る。空気が薄いのでちょっときつい。階段を上って後ろを振り返ると、美しい村の風景が目に飛び込んできた。ナシ族の村だ。ハアハア言いながら写真を撮る。観光客は来るけど、観光開発まではされてない。そんな過渡期にある村なんだろう。のどかな光景も、いつか変わっていってしまうのだろうか?
入り口の階段から白水台の見どころまでは、更に緩やかな上り坂が1km近く続いている。ちょっとげんなりしているところへ、ナシ族のオヤジがやってきて私に声をかけた「馬乗らないか?」
たむろしているナシ族の皆さんの多くは、観光客相手の馬引きさんだった。病み上がりの私と、同じく息切れが激しい母は大事をとって乗ることにした。多分観光地値段だろうけど。
オヤジ「1人20元だ。2人なら40元」
私「・・・2人で35元なら乗っt」
オヤジ「よし!」
即交渉成立。オヤジ、こっちが値切る額を見越していた。さすがだ。
馬に乗るのは久しぶり。チベットでの記憶を手繰り寄せ、何とか一人で乗ることが出来た。オヤジに褒められた。馬はさすがに楽チンだ。人が身体を動かすと、どれほど酸素を消費しているかが良くわかる。私は馬の首につけられた鈴の澄んだ音が大好きで、だから余計に気分が良かった。母もリラックスしている。一番高山病を心配していた父が一番元気で、今まで何の異常も訴えず、普通に坂を歩いている。
見どころのすぐ手前で馬と馬引きは帰っていった。上り坂だけのビジネスらしい。
まずは水に溶けた白い石灰岩が水が流れるうちに長い間堆積して作られた白い岩の塊(小山)を根元から見上げる。塊のてっぺん部分は水による侵食で池になっている。塊の中腹部分は棚田のようなプールになっていて、そこから少しずつ水がこぼれていた。私たちがいる根元の部分には、祠があった。すると、どこからか一人のおじさんが出てきて、ソナムにうれしそうに声をかけた。ソナムも親しげにチベット語で応える。知り合いらしい。このおじさん、祠にお参りする観光客へお線香を売って御祓いをするビジネスをやっているらしい。白水台に観光客が訪れだしたのはここ2,3年だから、おじさんはそこに目をつけてベンチャーを立ち上げたのだろう。祠もおじさんお手製か? ちゃっかりとたくましい。路上やキャンパスでおもむろに店を広げていた頃を思い出した。最近は余りやらなくなったが、地元のお花見シーズンだけは今年も店を出していた。親近感を感じて、私も2元でお線香を買い、お参りと御祓いをしてもらう。心の中で誰にともなくチベットに行ってから今までの報告と、お礼を言った。飛行機の待ち時間に色々思い起こさなければ心の中でもここまでスムーズには出来なかったと思う。偶然にもチベタンの御祓いなので、丁度良い。
遊歩道を上へ登る。登り終えると、確かに聖地と呼ぶのにふさわしい光景が広がっていた(写真)。
徐々に晴れてきて、水の色がどんどんきれいになってゆく。この光景はケータイのカメラだけでは画面が小さくて勿体無いので、父のデジカメを借りてソナムも入れて記念撮影した。
この時は私たちのほかに、中国人のカップルが一組見物しに来ていた。中国人・台湾人は共に、写真を撮る時はばっちり演技派のポーズをとる。そのカップルも例外に漏れず、両手を大きく広げてポーズを決めていた。日本人はどこに行ってもほとんど直立不動なので、彼らからするとつまらなく見えるようだ。ソナムにカメラを渡して撮ってもらったら、細かくポーズを指示されたw しかし自分が写真に写る時はいつも恥ずかしがってポーズをとらないw

帰りはゆるい下り坂なので、とても楽だった。景色も楽しむことが出来た。谷の畑では裸麦が育ち始め、山の上の方にある畑はもう少し温かくなったら耕す。斜面の段々畑やパッチワークのような畑が美しい。天気が晴れてくると、かなり温かい。売店でペットボトルのアイスティーを買った。すると、胡桃売りのおばさんがやってきた。確か行きにも売りにやってきた2人組みのうちの1人だ。今度は私たちが日本人と知って日本語で挑戦してきた。「カルミ、カルミ」と言ってるから正しい発音を教えてあげた。かなりしつこく営業してきたが(恐らくそうすると買ってくれる日本人が多かったのだろう)、私達はさっき食事をしてお腹がいっぱいだったので、買わなかった。・・・今度から正しく発音すると、もっと売れるよ。

帰りもまた、とぐろを巻いたりのたうっている蛇のような山道を進む。途中のトイレ休憩は雪の峠の「ナチュラルトイレット(byソナム)」(写真の雲に隠れている辺りにて)。さらに、少数民族の一つであるイ族の人々ともすれ違った。彼らは地域によって民族衣装が少しずつ違うが、私たちがすれ違った女性はエリマキトカゲのような黒地の巨大な頭飾りをつけていた。※資料(電網写真館より)
恐らく黒イ族。イ族の中でも支配階級の人々の末裔だろう。大学時代に受けた講義を思い出して血が騒ぐ。
シャングリラ郊外に戻った時、父が少し気分が悪いというので、一旦トイレ休憩。「車酔いだと思ったら高山病みたいだ」とのこと。標高が下がってから気が付いたらしい。薬を飲んでもらう。トイレ休憩の途中、路上に見事なヤク(毛の長いウシ科の生き物。高地にしか生息しない希少動物で、チベット人たちの家畜)が悠然と歩いてきたので、高山病が治りたてなのに思わず駆け寄る。ヤクは「も?」と振り返る。素晴らしいショットが撮れた。ひざに手を当てて呼吸を整えていると、向こうから少年達3人が歌いながらやって来る。様子を見るに、どうも彼らがこのヤクの飼い主らしい。仕事を終えておうちへ帰るところのようだ。コンクリートの道に昔ながらの光景が残っていた。

そんなこんなで6時にシャングリラの街に着きホテルにチェックイン。普通ならここで今日の観光は終わりだが、私はどうも現地の人とのふれあいが物足りないと感じていた。夕食まで1時間半あるため、近くにバター茶を飲ませるチベタンカフェがないかとソナムに相談した。ソナムは、「夕食後なら案内できる」と言った。
それならと夕食まではホテル向かいの市場でトホホな犬を撮ったり部屋でおとなしく旅日記をつけることにした。
実は夕食後、チベタンカフェよりも面白いところに連れて行ってもらえたのだ。

続く

2007年5月 7日 (月)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その4

香格里拉
雲海を抜けると、そこは雪だった。
見渡す限りの黒い山襞に、粉砂糖のような雪化粧。ああ、あの山には人が住んでいる。チベットの家だ!
飛行機が旋回してやや横に傾くと、視界にそれらの光景が迫ってくる。黒い森に包まれた山の波が気の遠くなるような向こうまで続いている。そして幾つかの襞では、人が大昔から暮らしている。鳥肌が立ってきた。あの光景は決して忘れられないだろう。本当に圧倒されるような景色を前にすると、素人はカメラの存在を忘れるものらしい。無意識に窓におでこをくっつけて「うわー」とか「ひゃー」とか「すごいすごい雪!」とかうるさく声を上げてしまった。後ろに座っていたチベタンが目を覚ました。
「なんだなんだ?」「何が見えるんだ?」と通路をはさんで中央列の乗客(中国人観光客)達は窓の外が気になって、既にシートベルト着用サインが出ているにもかかわらず、つい立ち上がって窓を覗き込もうとする。そして客室乗務員に怒られる。

やがて山々が途切れ、平野と田畑と集落が見えてきた。空港は本当に真っ白だった。香格里拉(シャングリラ)空港到着。今度こそ現地ガイドが待っているはずだ。
防寒具をしっかり着てタラップを降りると、ちらほら粉雪が飛んでくる。寒い。素早く写真を撮ったら、さあ暖房が効いた暖かい空港の建物に入ろう。
空港の建物の中は、寒かった。トイレはそれ以上に寒かった。暖房が効いていなかった。理由は、「現地の人は寒いと思ってないから」
出口に出ると、ガイドはすぐに見つかった。外見でチベタンだとすぐに分かる。ガイドの名前は「四郎」と書いてソナム。インド訛りの英語を話す。私と同い年だ。体が大きくてぼさぼさの髪が、ムックを連想させる。これから車で一つ目の観光地、白水台へ(空港から100km)。運転手はナシ族の青年チャオシン(21)。若いけどドライビングテクニックは「さすが!」。チベットの山道(数百~千mの断崖でもガードレールは無い)を、雪だろうが霧だろうが夜だろうがそつなくこなす。これから二人には、チベットエリアの観光全てをお世話になる。(右がソナムで左がチャオシン

白水台道中
車は一路白水台へ。最近整備されたばかりの観光道路を行く。
チャオシンはお気に入りのポップスをかけて運転する。私たちはソナムと談笑する。「昨日まではひどい天気だった。あなた達は今日来れてラッキーですよ」とのこと。シャングリラの街中に入ると雪も解けていて、あちこちの看板にチベット語が書いてあった。イスラム教徒の回族の店もある。民族衣装の人が自転車に乗っている。エキゾチックだ。あちこちで工事や取り壊しをしている。「政府が観光開発に力を入れているので、古い建物はどんどん壊して新しくしてる」
やがて山道に入ると、再び雪景色。アップダウンが激しくなり始め、山を回りこんで高度を上げていく。平地にあるシャングリラの街が標高3300m。幾つかの峠は富士山より高いだろう。それでもチベットエリアの平均標高よりは低い。
「チベット」と聞くと荒涼とした大地や木があまり生えない岩肌の山々を連想しがちだが、雲南のチベットエリアは原生林が存在している。そんな原生林の中を車は進む。雪が積もっているというのに、八重桜のような花が咲いていた。
しかし、寒い。平地はそれほどでもなかったが、山に入るとものすごく寒い。「今、チベットは冬と春の間。冬は終わったけど、本格的な春じゃない」とソナム。車の外と中の温度差が大きいとフロントガラスが曇ってしまうため、車内は余り暖房が効いていない。しかも運転席(左ハンドル)の窓ガラスがいつも3/1ほどあいている。チャオシンは薄手のブレザー1枚で風に吹かれながら平気な顔をして鼻歌交じりに運転している。そんな状態で峠と谷をいくつも越える。
峠と谷の標高差は日本では考えられないほどだ。峠は真冬谷の集落は初春
くねくねくねくね・・・・・・急カーブやアップダウンを繰り返すうちに、恐れていたことが起きた。車酔いだ。うぷ。車に酔うと、呼吸が荒くなる。普段より酸素消費率が上がるようだ。標高の高い場所で酔って酸素消費率が上がるということ。それは、例のアレ、高山病になりやすいということだ。以前チベットに行ったとき、私は風邪を引いたことがきっかけで高山病になり、風邪の症状と共にリンク先の四角く囲った部分の症状が全部出た。小さな診療所で点滴(備品不足のため、女医さんがそこらの石で壁に釘を打って点滴を吊るした)を受け、何とか回復した。「山の上でじわじわ溺れていく気分」といえば分かるだろうか? 高山病の3日間は死んでいる気分だった。
現在はダイアモックスという薬や、現地で手に入る紅景天というチベットの薬草を使った薬が高山病対策として使われることもある。私たちも今回はダイアモックスと以前現地で手に入れた紅景天を持っていった。

私の呼吸はどんどん荒くなる。気持ちが悪いわ目まいはするわ息苦しいわでわけがわからない。出来るだけ一呼吸で沢山の酸素を吸い込むと、その分疲れてきつくなる。しかし沢山酸素を吸わないと高山病に。だがいつかは力尽きてあまり息を吸い込めなくなるのは時間の問題。これ・・・は・・・高山病・・・確・・・定・・・・  ・・・

続く

2007年5月 5日 (土)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その3

※写真・補足はリンクをクリック。 雲南の地図はこちら

昆明空港
2時間近く待っても、飛行機は飛ばなかった。待ちぼうけ。確か昨日も似たようなことが・・・嫌な予感がする。だめだめ。余計な想像はすまい。
待っている間、学生時代にチベットへ行った時のこととその後のことが色々思い起こされる。
英語を勉強中だった成都の大学生、車窓の風景、馬しか通れない道、夏の雪山、山から落ちてきた冷たい空気、風邪、高山病、よれよれになった時に優しくしてくれて、後でゲームや冗談で一緒に盛り上がった素朴な馬引きさん達(うるさすぎて山小屋管理のお坊さんに怒られたw)、小さな診療所での点滴、競馬祭、草原に広がる無数の白いテント、男たちの勇姿、そこらへんに座っているとガイドブックを興味深げに覗いたり(載ってたカイラス山の写真を拝んだり)、「どこから来たの?」と話しかけて来る人懐こい通りすがりのチベタン達、突然私の年齢を尋ね、答えると満足して道の向こうに去っていった謎のおじいさん、私の水筒を酒瓶と勘違いして取り囲んだいかつい酔っ払い達(腰には短刀)、二胡の録音を快く許してくれた名前も知らないおじさん、「俺達を撮れ」と豪快に、或いはシブくポーズを決めた男達、「店仕舞いするから良ければ残ったヤツ食べちゃって」と言って激辛の串焼きをくれた屋台のお姉さん、お寺のお坊さんと小坊主達、滞在中、凄く良くしてくれた友人とその親戚の皆さん・・・
数え上げたらきりがない。みんな今の私を作った愛すべき宝の思い出。暗い発想や引っ込み思案が治り、人と交流する楽しさを知り、直感力が上がり、人を恐れず、自分のやりたいことをするのにためらわなくなった。それで自信が付いた。それがなければ占いなんて始めなかったし、占い師になるなんてまともに考えもしなかっただろう。
今私が当たり前のようにやっていることは、あの頃収得したものばかり。今や完全に私の一部になっていてうっかり忘れていたが、思い出すことが出来た。これからもあの頃得たことは決してムダにはしない。
飛行機を待つ間の時間は、とても意味のある時間になった。色々思い返す時間が出来てよかったくらいだ。
一人で胸が熱くなっていると、お待ちかね!何とか向こうを飛び立てた飛行機が到着した!
皆続々と乗り込む。と、そこでまたトラブル発生。うーん、なかなか行かせてくれないなチベット。ある家族のチケットに不具合があり、彼らと係員との間で押し問答が続く。そのうち家族の中の小学生位の女の子が泣き出した。その後も長い間押し問答が続き、係員達はあちこちに連絡をとり、駆けずり回る。私はまたもや今までのことを思い返す。チベット旅行での体験が占いのアイデアと実行の勇気を生み出す素地になり、まずキャンパスで占いをはじめ、チベットへ行った翌年のインド・ネパール旅行でさらにその路線に磨きがかかり、タロットと出会った。
インド・ネパールでの思い出(チベット難民との交流含む)。そしてタロット占いを始めた頃の思い出、プロになってから今までの思い出。・・・それが終わるころ、チケットの問題は何とか一件落着。みんな乗り込んできた。よかったね。
飛行機が滑走路をぐんぐん走り出す。スピードが上がるにつれ、何とも言えない感謝の気持ちがこみ上げてきた。風圧が窓に付いた雨粒を吹き飛ばすと、私の目からも涙が2粒こぼれた。
やった! 飛んだぁ! 会いに行くよ。会いに行くからね。私の恩人。

続く

競馬祭の動画を発見

2007年4月30日 (月)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その2

※写真・補足はリンクをクリック。 雲南の地図はこちら

昆明
いよいよチベットエリアへ行く日。私は高鳴る胸と悲しげに鳴くお腹を押さえていた。高鳴る胸は雲南チベットエリアにして着陸地の新興観光都市「香格里拉(シャングリラ:旧中甸。中国政府が名前を変えた)」に向かって既に羽ばたいていたのが、お腹の方は「お腹がすいてもう飛べないよ」と言っていた。このままでは墜落してしまう。
早朝の空港。外はまだ薄暗い。ゲート手前の売店はどこも開いてない。ゲートの向こうで何か食べ物を入手できないものかと徘徊する。売店は無人・・・お! あっちで娘さんたちが鍋をかき回したり、ザルを用意している。机と椅子が置いてあり、メニューには「米粥、マントウ(蒸しパン)、水餃子、米線(お米のヌードル)」と書いてあった。すばらしい! 皆さん朝早くからご苦労様です! 「もう開店してますか?」「開いてるよ」
ってことで、米線を3人分注文
一人28元というのは現地の物価と照らし合わせると非常に高い(安宿なら一人30元で泊まれる)けど、温かい食事にホッとする。 さっぱりとしたスープとピリ辛の挽肉に、香菜やニラ、モヤシなどが良く合う。麺はお米で出来ているので、消化が良い。米線は雲南省の代表的な朝食のようだ。この先どこに泊まっても(バイキング形式であっても)必ず用意されていた。
お腹も満足したところでゲートでまったりと待機する。人が増えてきたなと思ったら搭乗時刻。全員バッジと赤い帽子をかぶった団体様ご一行とタラップまでのシャトルバスに乗り込む。『おおお7年ぶりのチベットエリア! 』と一人防寒具を握り締めて興奮していると、あ、あれ?・・・シャトルバスは空港を一周して帰って来てしまった。団体様のチケットを見せてもらうと、やはり同じ便名。何があったのだろう?
再びゲートで待機。団体様ご一行は空港常設のお湯サービス(赤い蛇口をひねるとお湯の出るタンクが紙コップと共に部屋の隅に設置してある)を使ってカップ麺を食べ始めた。館内放送では、天候が悪いと繰り返し言っていた。念のために詳細を筆談で係員に問い合わせる。こうすれば万が一飛行機が飛べなくて複雑な手続きが必要になった時に、やり取りがそのままメモ代わりになるから、確実だ。
私(日記帳をかざして)『5929便はまだ飛びませんか?』
係員「(中国語を)聞いても分からないのに読めるの?」
私「・・・読めるんです」
係員「(隣の同僚に)あら。聞き取れないけど読めるんだって」
外国語を勉強する場合、日本人はヒアリングよりリーディングが得意な傾向にあるようだ。特に漢字を使う中国語は、その傾向が強い。筆談の結果、『現地の天候不順で50分遅れる予定です。このままお待ち下さい』とのこと。昆明~香格里拉間は飛行機で40分。陸路ならくねくねした山道が丸一日続く。チベットエリアの天気は基本的に山の天気。スケジュールにはこういうことも想定して朝一の便が選ばれている。
フライトを待つ間、私たちもお湯サービスを利用してホテルから持ってきたティーパックの紅茶を飲みながら、「向こうは猛吹雪だったりして(笑)」などと冗談を言い合っていた。
・・・が、冗談では済まなかった。

次号、果たして私は無事チベットエリアに飛べるのか?

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