育児

2020年7月11日 (土)

スルー出来ない背景は

「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」見知らぬ男性からの暴言にママたちが大反論!
ママたちは高齢の男性が幼児連れのママに浴びせた暴言について「余計なお世話」とのコメントで反論していました。スーパーで何を買おうと、他人には何も関係のないことです。自分だけの価値観で他人をジャッジすることは、失礼のひと言ではないでしょうか。

占い師の勝手な印象だが、世の中のかなり真面目な部類のお母さん方は「母親はこうあらねば・こうありたい」という固定観念的な価値基準があり、自分がその基準を満たしていないことで自己を恥じていたり裁いていたり否定的に認識していることが多い(愛情の裏返しの場合もある)。見ず知らずの通りすがりのオッサンが自分と同じ価値基準で自分を裁く言葉を発すると、それが完全な的外れとは思えず、自分が脳内法廷で日々行っている有罪判決や自己否定をリアル社会までがやり始めたような気がしてしまい、黙っていられず過敏反応してしまいやすいかもしれない。

日本の場合、例えばポテトサラダを自作しうるぐらいの時間的・精神的・肉体的な余裕を家庭に許さない勤務状況が常態化していることが一番の問題じゃないかと思う。一個人の落ち度で片付けられない深刻な社会現象がここ数十年続いている。
料理する・しないの問題ではなく、企業や資本が労働者に対してマトモな家庭生活や家族団欒を奪ってしまう社会が出来上がっている。子供(多くが一人っ子)が親とまともに愛情交流して発達・発育していくチャンスがどんどん乏しくなっていく・・・これじゃコミュ障に育つ子が量産されてしまうのも無理はない。

愛情に飢えた子供がパパ活(援助交際)に走るケースはここ数十年続いているという。ママ活パターンもあると思う。
「ポテトサラダぐらい作ったらどうだ」と言った老人も、やや古風な視点から「母親の手料理(愛情の証)を食べられない幼児は不憫だ」と感じて背景まで考えず短絡的に発言したのだろう。殊更の悪意はなさそうだ。彼は母親の手料理から愛情を感じて育ったのかもしれない(妄想)。

料理の自作云々よりも、子供がきちんと発育できるような愛情交流の機会をきちんと確保する方がよほど子供にとっても社会にとっても重要だ。子供がまともに育たない社会ほど人材力や即戦力をもてはやしていないか?

◆スルー出来ない背景は
いわゆる「スルースキルのある人」は、通りすがりの見知らぬ人から何か的外れな批判をされてもそれほど気に病んだり長く引きずったりしない。相手については変な人だったなとか思い込み激しいなとか思うことはあっても、自分に落ち度があるとは思わないし、ましてや「その批判は的外れですよ。なぜなら~」とわざわざ相手に反論しようとも思わない。面倒だし、関わらない方がいい種類の人だと思うからだ。

けれど、自分の中に罪悪感とか恥じる気持ちとか自己否定感みたいなのがあって上手く自尊心が作れないでいると、たとえ的外れでも批判や非難や悪口が心に刺さりやすい。時には、スルー出来ずにやたらとその人に反論したくなったりことさら自己弁護しなきゃいけないような気分になってその場で知らない人と口論になりかねなかったりする。ネットでも同じ。
悪口や批判に無意識下の自己否定感を投影・同一視していると、それはもはや「単なる他人の勝手な感想や感情」ではなくなってしまう。

自分を肯定できずにいる人ほど、その代償に他人に肯定されたい・高評価されたいと思いがちだ。だから他者からの否定的な言葉は、自分自身が「自分にとっても他人にとっても(=主観的に見ても客観的に見ても)否定的な存在」であることを裏付ける証拠みたいに感じてしまうことがある。自分が否定的な存在であることが逃れられない真理であるような気がして、だから必死に否定・反論したくなってしまうのかもしれない。

 

関連記事:弁当どころの問題じゃない

2016年2月21日 (日)

出産する理由と背景についての極論

以下に書いたことは全て一個人の妄想です。問題点を見やすく抽出するためにあえて極論を用いています。

 

「子を産む責任」という女への圧力。「産まない」選択した山口智子、そして小泉今日子の言葉から考える

 

2月12日発売の雑誌「FRaU」(講談社)3月号に掲載された、山口智子(51)のロングインタビューが波紋を広げている。彼女は夫・唐沢寿明(52)とのあいだに子供をもうけなかったことについて、初めて「子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました」と能動的な選択だったことを明言。当サイトでも取り上げたが、当該記事のコメント欄だけでなく、SNS上でも議論が活発化している。これを「逆に“懺悔の念”を感じさせる。若い女性たちに自身の生き方を反面教師にして欲しいという思いが強いのかも」と分析する“芸能評論家”もいた。

 

 女性が「私は産まない」と意思表示することが、これほど関心を呼ぶのは、「女性は全員、産むべき」という抑圧がいまだ機能していることの裏返しだ。しかも一枚岩ではなく、

 

(A)「女の肉体で生まれたからには、出産の悦びを!」派
(B)「社会保障制度存続のために産むべき(=社会構成員としての義務)」派
(C)「子育ての不自由を回避して自由を謳歌するのはワガママ女」派

 

 などなど、いくつもの抑圧が重なり合っている。BとCは近い側面を持つが、理屈ぬきの主張なだけにAが一番性質が悪いようにも思える。そういえば昨年、評論家の金美齢(82)が、「子供産まない自由を強調する女性は浅くて未熟」と繰り広げたことを覚えているだろうか(「SAPIO」2015年4月号/小学館)。

 

これは、「AERA」(2015年2月16日号/朝日新聞出版)の「『子どもいらない』は人に非ずなのか」なる特集を受けての金美齢の提言だ。「AERA」特集では、世界に先がけて超少子高齢社会化する日本では昨今、出産礼賛の空気が漂い、女性が「子どもは欲しくない」とは決して口にできなくなっていることを問題視。蔓延する「出産・育児至上主義」に疑問を投げかけた。金美齢は、次のように主張。

 

『記事は、「出産礼賛な空気が行き過ぎれば、“圧力”になることも忘れてはいけない」と結ばれている。しかし、私はあえて言いたい。「子どもを産まない自由」を謳歌する女性は、それぐらいの“圧力”は受け入れなければならないと』

 

 「もちろん個人の自由は尊重する」としながらも、
『出産できる環境や状態にあるのに、「子どもいらない」と主張する女性は、人間としての責任を果たしていない」と断罪。
彼女は現代の日本社会を、『むしろ、「子どもを産まない自由」が優遇されすぎている』『出産は個人の自由な選択であり、国や他人が口出しすることをタブーとする風潮が根強い』と感じているそうで、『AERA』特集の認識とは真逆だ。彼女は、子供を産まない選択をとる女性を『自由や権利ばかりを強調する女性』と決めつけている。

 

◆人命の尊さを「利用価値」で判定?
「社会のために人間を産む義務」という発想は、行き過ぎた社会主義にも似ていて、「社会は本来人間のために発生し存在する(人間が生きていく上での利便性を追求したら社会になった)」という事実を忘れている。そして例の発想は「人間(の生命)は社会のために発生し存在する=人間は社会の道具」という妄想が支配権を持っている。社会維持の需要を満たす義務としての出産思想は生命の価値(利用価値)を当事者ではなく社会が決めており、妊娠・出産(妊婦)や生まれた命を自然現象ではなく、単に「社会のニーズを満たすための道具」としてしか見ていない。そこに母性は全く介在しておらず、発動できず、締め出されて蚊帳の外。

 

極端な妄想をすれば、件の出産発想が社会を支配していくと、社会にとってニーズがない(利用価値がない)と判断された者の命をないがしろにする風潮につながる危険がある。
もしも社会の義務を果たさんとする発想動機で生み出された命が重い障害などで社会構成員となる機能を満たさず社会のメリットにはなりえない性質を持っていたら、たちまちその赤ん坊と命がけでその子を産み落とした妊婦は社会にとって利用価値のない存在、単なる役立たずとなり、その赤ん坊は出産を社会的義務とする価値観の世界にとって「生まれながらに無価値な命」でしかなくなる。
我々が望むものは、社会のための人間か? 人間のための社会か?
(かつてナチス・ドイツがガス室送りにしたのはユダヤ人だけではない。社会にとって有害無価値とされた各種障害者達も同じ運命をたどった。ナチスドイツは非常に社会主義的とも言われている)

 

母性を原動力にするのではなく、「社会にとっての利用価値を満たさん」という価値観に基づいて妊娠と出産を促し求め望む発想は、いかにも行き過ぎた男性的発想によって構築され営まれている社会の価値観だと言える。同じくその価値観によって営まれている各業界の職場では、マタハラが横行するようになってきた。母性のないその価値観は、少子化対策として全くの逆効果だ。
同じ価値観が義務感や罪悪感を用いた妊娠・出産を促す一方で、妊婦に対する嫌悪と排除を生み出しもしているわけだ。同じ価値観なのに矛盾していると思えるが、何のことはない、どちらも「その場しのぎの狭い視野で自己中心的に妊娠・出産の利用価値(道具になるか否か)を判断している(行き過ぎた男性的発想に立っており母性が介在していない)」に過ぎないという点では全く同じだ。
目先の利益や利用価値だけをエゴイスティックに追求するだけで大きな視野に立てないばかりに自分の首を絞めていることに気づかない社会は、そんな社会を構成する人間達の短所(つまり我々の)を如実に反映しているとも言えるのだろうか。
「社会維持のために出産せよ」と人々へ圧力をかけ支配する社会が、果たして人々にとって存在メリットのある社会と言えるだろうか? 「自分達にメリットのない社会を維持するために出産する(命がけ)」という社会貢献をしたがる人間がどれぐらいいるだろうか?
しかも、目先の利益を追い過ぎて不況に陥り格差拡大を放置し子供を産み育てにくくしている社会のために?

 

◆「子供を欲せ」と気まぐれな自然の呼ぶ声がする時?
社会によって刷り込まれた表面的な価値観ではなく、本能の支援と導きを受け心の底から産みたい気持ちになるかならないか、授かるか否か・・・(恋愛の段階を含め)子孫を残す/残さないの展開など、それこそ自然界の事情で偶発的に発生する自然現象であり、自然の気まぐれであり、いわば一種の「ネイチャーコーリング」の力によるものだ。社会が自然現象(自然界)にエゴを押し付け人工的に介入し都合よくコントロールし評価したり裁いたりする(社会が自然界を従わせて都合よく使役する)ことは本質的に不可能かつナンセンスであることを忘れていないか?
社会的義務感から機械的に子供を望む心は、本能でもなければ自然現象でもない。子を望み愛する母性ですらない。男性的社会によるエゴの価値観でのみ作り上げた洗脳による偽りの欲求だ(実はこの価値観、少なくともアラサー世代の親の無意識下にも一定量刷り込まれていたりする。そのためアラサーの皆さんが親からその価値観による刷り込み支配を無意識に受け継いでいるケースも結構ある)。
この洗脳、少なくとも人類史の中で社会が男性性優位となった頃から古今東西ずっと続いている。「世継ぎを生む」とか、「長男の嫁」といったプレッシャーもこの洗脳から派生している。

 

男性的な価値観によって構築された社会が、その社会にとってのみ好都合な男性的価値観による生き方を植え付け人々を支配することこそが母性(女性性)を抑圧し、子どもを望む者を減らし、生まれた子供を愛せず(愛し方が分からず)虐待する例を増やす一因になっている。母性を抑圧し男性的な意識と原動力で子を産み育てさせようとする社会がそんな「自然の気まぐれ」を圧迫した結果が今の少子化と結びつく・・・まさに現代文明による自然破壊の一例だろう。社会はそんな自然破壊の責任を取ったことがあるだろうか? 責任を果たすべきは人か社会か?
子供は、人の命は、社会のエゴによって産み育てられるようなものじゃない。
(言うまでもなく、子を産み育て愛する母性本能は社会的義務感や洗脳によって呼び覚まされることはない。母性本能だけではなく、男女問わず生殖本能自体が社会的義務感では発動しない。両者は共に社会の都合に合わせて動くことなどない)

 

例えば、「ママ、どうして自分を産んだの?」 という子供への問いかけに対して母親が「それが社会に対する義務だからよ」と答えたら、子供はどんな気分になるだろう?  
母親の抱くその価値観が支配する世界で育った子供は、自分の中に潜在している母性を発育させていくことができるだろうか? 将来、「子供が欲しい」というネイチャーコーリングを感知した時無事に自分の母性を発揮することができるようになるだろうか? そもそもネイチャーコーリングを感知しにくくならないだろうか? その状態が世代を超えて連鎖していったら?

 

◆女性の地位を勝ち取る戦いのために邪魔な乳房を切り捨てたアマゾネス達
皮肉なことに、女性達が(男性的な価値観で営まれている)社会へと進出するにつれ、女性達も仕事のために、そして男性的な価値観で営まれる社会から評価を得る(男性的な価値観において利用価値ありと認められる)ために必死の努力と戦いをする中で、無意識に男性的な価値観の視点でものを考え言動する機会が増え、もはや習慣化している。利益、効率、能率、コスト、利用価値、シビアな弱肉強食(弱者の捕食/排除)の戦い・・・その結果、女性達は今まで以上に男性的に考え行動し戦い、女性的な(価値観の)視点に基づいた発想が抑圧され、社会は女性達が進出しても女性性と男性性のバランスを欠いたままに見える。すると男性的な視点にとっての価値を追求する社会は女性的な視点にとっての価値を生みにくくなってしまい、未だ女性にとってあまり快適とは言い難い社会のままになってしまう(仕事と育児の両立に悩むのはなぜか女性ばかり)。
男性的に偏っていた社会に女性が進出したにもかかわらず「女性にとっても快適な社会」が未だに生まれてこないのは、女性が女性として男性的社会に進出した(男性的社会に女性的要素が取り入れられた)のではなく、女性が男性化して社会進出したので社会は本質的にそれほど大きく変化せず男性性に偏った社会が相変わらず維持されただけだったようだ。
やがて、(極端なほど視野の狭い状態で男性的な価値観の視点に傾き心を支配されてしまった?)職場の女性上司が不都合に妊娠した部下(職場の業務効率を下げ足手まといになったり、職場にとって利用価値がなくなっていく者、コストの敵)に執拗なマタハラを仕掛けて部下を退職に追い込んだり、堕胎するように圧力をかけたり、時にはマタハラのストレスで部下が流産してしまうなどというケースさえ出てくるようになった。
まさに、「何で戦場に足手まといの腹ボテがいるんだ」という状態だろうか。

 

男性性に偏り過ぎた社会が母性を抑圧してしまえば「自然の気まぐれ」を抑圧し、本来なら「ネイチャーコーリング」が発動して心から本当に生みたくなる人(己に宿る自然の意思と一体化し母性の発揮を無意識に望む人)の運勢まで抑圧してしまう。本当に子供が欲しいときでも授かりにくい(母性が発揮しにくい)運勢になってしまいかねない。
逆に言えば、自分自身の価値観や思考パターン、今までの生き様が本音や本来の自分とかけ離れて必要以上に男性的な視点や価値観に偏り過ぎていなかったか、視野が狭くなっていなかったか自分と深く向き合いチェックして、もしも偏り過ぎが見つかれば修正していくことが母性(女性性)の抑圧を解きほぐし母性を発揮しやすい(そして自分の持つ女性的な個性を活かした生き方をしやすい)運勢になっていくためのささやかな開運法になるかもしれない。

 

 

「女性は2人以上子を産み大学は子育て後、産めない女性は施設に寄付を」大阪市立中学校長 ↑やはり自然と母性を原動力に介在させてない男性性に偏り過ぎた発想。これが却って少子化を悪化させる。まさか昨今の少子化は、男性性に偏り過ぎた発想と価値観で営まれる社会がこれ以上続かないように、社会を動かす燃料(人員=子供)の供給を遮断する運気の一部なのだろうか?(妄想)

 

ワーキングマザーが「私が悪い」から抜けるために、本人と周囲ができること←前編からおすすめ
戦後の男性性と女性性←この妄想の続きが今回の妄想になった
男性的世界と地母神の再会

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