映画・テレビ

2017年8月15日 (火)

犠牲の価値より生きた尊さ

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

上彰、戦争を美化する動きに警鐘 「特攻」について考える特番放送
「池上彰 X 特攻」リアルタイムツイート

今年の終戦記念日シーズンは特攻についての番組が放送され、かなり反響があったようだ。
私も以前、『太平洋戦争のベルセルク悲話』というオカルト視点の記事を書いたことがあるが、今回はまた別の視点から考えてみようと思った。
まず、神風特攻隊創設者の大西瀧治郎の意図・目的について。おそらく特攻作戦は対米戦における効果を狙ったのではなく、「敗戦後を想定したレジェンドづくり」と「昭和天皇に戦争を止めてもらう」ためのデモンストレーション(直訴)という意味合いが強かったかもしれない。

大西の意図した「レジェンド」は、
「戦いが日本の劣勢になり刀折れ矢尽きたその時、若者達がその忠君愛国精神ゆえに命令したわけでもないのに自ら進んで命と引き換えに次々と自爆攻撃をし始めた。
天皇陛下はこれをお聞きになると御自らの御仁心により戦を止め講和する決断をなさった。陛下も散華した若者達も、日本と国民を愛するがゆえの決断であった。
このように日本国民は散華した若者と陛下の双方からかくも深く愛された存在なのである。戦争に負けたからと言って絶望し自暴自棄になったり自己卑下したり自尊心を失わないように。」
というもの。敗戦後の民心統治を意識して作られたっぽい(敗戦後も国家神道の価値観が続く想定で)。

上に書いた「レジェンド」を残すことに加え、「(日本側の欠陥によりだれも講和を提案できず)暴走機関車になった日本が女子供まで巻き込み自滅していくのを止めるための(天皇を講和へ向かって動かすための)人柱として『特攻を自ら志願して散華した』という設定の若者達を量産」というのもありそうだ。
これは大西瀧治郎が残したコメント()から何となくそう感じた。

要するに、「特攻作戦」はアメリカから国民を守るためのものではなく、(国民を道連れに自滅へ進む)日本側の暴走から(特攻を知った天皇に講和の決意を促すことで)国民を守るためのものプラス、敗戦後の人々が落ち込み過ぎないように残しておくレジェンドを作るためものではないか、と思った。
もしも「陛下は自分達の過激な行動を知れば分かって下さるに違いない」という願望回路が特攻立案の背景にも存在するとすれば、226事件の頃から全く進歩してない気がする(妄想)。

最近はネットなどで「日本はあの時特攻やったお蔭でアメリカによる滅亡から救われたからこそ今の繁栄した日本がある。特攻兵達は現代日本の立役者だ」 とか「誰だって死にたくはないし特攻兵達もみんな本当は生きたかったけれど、そこを我慢して日本のために自分の一番大事なものを捧げたところが美しくて素晴らしいんじゃないか」 という(おそらくは軍産複合体や防衛利権と絡む右派の?)ロビー活動も散見される。
特攻兵の死をロビー活動のために当時の作戦(政策)を肯定する道具として利用するぐらいなら無駄死にと断定していいかもしれない(失策を明らかにした死としてすら評価しなくていいかも)。
およそどんな犠牲者もロビー活動の道具にしたりロビー活動の視点からその死をを評価することはご本人やご遺族にとって失礼にならないか。
(この問題、PKOで亡くなった自衛官の死を当時の政策肯定のために尊ぶロビー活動とも共通点がある。どちらのロビー活動も、その作戦や政策の効果を肯定しない者=犠牲者の死を無駄死にと切り捨てる冷血漢だというレッテルを貼る。遺族達ですらその罠にハマって都合よく利用され、ロビーの主張を支持しなければ身内の死を供養できなくなってしまっているケースがある)

「その人が死んだ意味や価値」ではなく、その人が生きた意味にこそ目を向け尊ぶ(その死を尊ぶのではなく、その生きて来た人生を尊ぶ)ことが供養なんじゃないかと思った。
死をしか評価され尊ばれない命、しかも他人にとって政治的な利用価値のある死という一点でのみしか存在意義を評価され肯定されていない命というのはなんとも悲しい(遺族すらその価値観における評価に供養を依存しているならなおさらだ)。
後世の人間が「死に方こそ特殊で短命だがその生きて来た人生は無駄じゃなかった」と思うこと、本人もそう思えることが一番の供養で愛情じゃないかと思える。
特攻兵なんて平均20歳前後だから自分の人生振り返って「生まれてよかった・生きてよかった」ってしみじみ思う機会はそうそうなかったかもしれない。でも特攻兵達だってきっと自分の生きた意義は心のどこかで感じていたと思いたい。たとえ短命だったとしても、自分にしか生きられないその人生は尊い。
少なくとも彼らの魂はきっと知ってると思いたい。

「生贄」が自分個人の生きる喜び(生きがい)を組織や社会に捧げるのと引き換えに、組織や社会によって死を崇拝され高く評価される(生贄はそれを名誉や救いとして認識する)という一面が古今東西の生贄のシステムにはあるのかもしれない。
古代人じゃないんだからそろそろ生贄的なシステムから卒業してはどうだろうか?
死の価値なんかに依存しないで生きた尊さにこそ目を向けられる社会は、たぶん平和な社会だろう。

サバイバー症候群

2013年8月 7日 (水)

「風立ちぬ」見てきた

sign01ネタバレ注意
※以下に書いたことは全て個人の妄想です

◆第一印象
まず、あいかわらずただただ風景と情景が美しかった。冒頭の早朝に飛行機で飛ぶシーンから圧倒される美しさ。その色彩。主人公が体験する夢の世界とリアル世界のクロスオーバーや無意識の描写(象徴的な描写)にも磨きがかかっている。どちらも一人の人間の心が体験したという意味では、「同じ一つの精神世界で起きた真実」なのかもしれない。感情が表に出にくい自閉気質な主人公の精神世界を夢の描写(無意識の描写)が巧みに表現している。主人公と同じく自閉気質であろうと思われる庵野氏の声も合っていると感じた。
観客は主人公が青春のある時期に見聞きし体験した事を追体験することでその世界に引き込まれていく。

関東大震災が発生するシーンの冒頭、このブログをご覧の方には鳥肌モノのイメージ表現を見ることが出来る。まさにあれこそ目に見えない火気流失(火気流出)を視覚的に表現したものだと思った。
そして、当時の日本とドイツが劇的な歴史転換を迎える瞬間(私から見れば劇的な運気変動)を迎える様子を象徴的に表現したと思われるシーン(関東大震災&ドイツの大きくて立派な飛行機がバラバラになって焼け落ちるシーン)では、大地の唸り声というか、目に見えぬ人類の集合無意識が深淵から立ち昇らせる声なき声のような音響を聞くことが出来る。これも鳥肌モノ。特に映画館で聞けば効果抜群だ。計り知れない何か・・・いわば原始的な畏怖さえ感じるかもしれない。人間の小智才覚では決して太刀打ちすることもコントロールすることも出来ない巨大な流れ(むしろ人間の小智才覚が歴史的な規模で積み重なった末のしわ寄せ?)を表現するのにふさわしい音だ。

◆美しい夢の恋
菜穂子と主人公の恋愛は、これ自体が精神世界の象徴表現ではないかと思う。リアル世界のリアルな恋愛を描いたものではなく、夢(精神世界)の恋だ。「人間と愛し合う人間」ではなく、「アニマと愛し合う人間」を描いた感じだ。さらっと描かれる紙飛行機のやりとりが深まりゆく愛を象徴している。愛が芽生える過程の描写がさっぱりしすぎて物足りないと感じるかも知れないが、宮崎駿氏が本当に描きたかったのは両想いまでの過程ではなく「相思相愛になった後」なのだと思う。それが「ハウルの動く城」から進んでいる点か。菜穂子は「美しい飛行機」という少年の無垢な夢を擬人化したアニマなのだろう(あの子の命は飛行機雲)。
二人の美しくロマンチックな象徴描写は一部から「バカップルめ」とか「リア充爆発しろ」とかいう怨嗟が聞こえそうである。このアニメでは、一見すると家に仕事持ち込んでいちゃいちゃしつつ片手で図面引くような新婚バカップルから生まれちゃったのがあのゼロ戦てことになる。こう書くと妙に申し訳ない気分になるw

美しい悲恋モノ(ところにより難病設定)というのは、多くの人にとって伝統的にツボな話なのかもしれない。悲恋は、アニマ/アニムス(心の中の理想キャラ。しばしば抑圧された個性や可能性の象徴キャラ)を相手に投影したまま相手の現実の姿(醜さも生臭さも併せ持つ)を見ることなく美しい姿のまま恋が終わるからか。特に日本人は「結核文学」というジャンルを作るほど「儚く美しい恋」の話が好きな気がする。

例えもてなくても、アニマ・アニムスを投影・同一視した実在の相手(投影スクリーン)と結ばれることは無かったとしても、誰もが己の精神世界に住むアニマ・アニムス(投影の本体)と結ばれる体験は起こりうる。アニマ・アニムスと結ばれる=己の精神世界で個性や可能性が統合される(結ばれる)時、今までは発揮できなかった個性や可能性が現実世界で発揮できるようになる。その体験は、リアル世界の恋に劣ることなく尊い宝物になるだろう。
(主人公の場合は菜穂子と両思いになった後、今まで発揮できなかった可能性を発揮し飛行機開発のスランプから抜け出す。やがて菜穂子と結婚したこと=己の可能性を本格的に統合したことで、ゼロ戦の開発に成功した)

なお、もしこの恋物語をリアル世界のリアルな人間同士がやった恋愛として解釈すると、主人公も菜穂子も、互いに自分のアニマ・アニムス(理想像)を相手に向かって投影しあっているだけで、実際の相手自身の姿を見ることなく(故に人間扱いすることなく)単なる投影スクリーンとして利用しているに過ぎないことになる(ただし無自覚)。そして菜穂子は、自分が病で容色が衰えていき相手から見た「投影スクリーンとしての利用価値」が失われ、恋人から幻滅され愛情が冷める前に、恋人の記憶の中で「永遠に美しい自分(永遠の理想像)」となるべく自ら姿を消したことになる。
個人的に、宮崎氏はそういう類の恋愛模様をいちいち手間隙かけてアニメ作品にはしない気がするのだ。象徴的な映像や音響の様子から何となく精神世界の恋物語を思わせる匂いを感じる(妄想)。

◆儚き夢
純粋な主人公の並外れた天才ぶりは、脳の回転率と集中力が高すぎてしばしば論理的思考で到達できる次元を超えた超人的な直観レベルの感覚(感性)を発生させる。夢の世界(無意識領域)を媒介し論理的思考の過程を飛び越え直観的に真実を悟ってしまう様子の描写からもそれはうかがい知れる。たまに数百年前の日付から当時の曜日を瞬時に分かってしまう人がいるが、そのレベルかそれ以上だ。
そんな主人公だから、当然日本が戦いに勝てないことを知っていたし、ドイツは立派な飛行機を作れるけど負けることも直観したし、菜穂子の命が長くないことも、自分が少年時代から見てきた「美しい飛行機」という夢の命が長くないこともあの時悟っただろう。彼が「菜穂子喀血」の電報を聞いて居ても立ってもいられず駆けつける途中、列車内で美しい飛行機を開発するための力学計算を続けてたらノートに書いた計算式の上に涙をこぼすシーンは印象的だ。「美しい飛行機」という少年の無垢な夢を擬人化したアニマの菜穂子。その命が醜い現実によってまもなく失われることを知った涙と覚悟、決意と情熱が物語をクライマックスに導く。

近く失われることを知りつつなおも主人公が愚直なまでに飛行機開発と結婚生活に情熱と心血を注いだのは、決して「消え行く夢にしがみ付く現実逃避」ではなく、残された夢の時間が短いからこそ「僕達は一日一日を大切に生きることにした」ためだ。残された少ない時間で、ギリギリまで美しい夢を味わいつくし、やがて未来の糧にする事を情熱的に決意したとも見えた。その心に菜穂子(アニマ)も応えて遠い山奥のサナトリウムに入院したり、そこを抜け出して結婚を選んだりした。
その結果、主人公は菜穂子と真に結ばれ、ついにアニマ(己の中に秘められた可能性)を本格統合し、本格的に可能性を発揮した。それが恋のクライマックスであり、夢のクライマックスだったのだろう。それは悲劇の直前で手に入れた、かけがえのない宝物。

「この高原では嫌なこと忘れる。戦争してることも国がいつか破裂することも忘れる」・・・ハイソな保養地軽井沢(=大多数の庶民には夢の世界)で語られたカストルプのセリフも印象的だ。醜いものをいったん蚊帳の外に置き、美しいものだけを見ていられる高原の短い夏のひと時・・・
主人公が身に覚えの無い容疑で横暴な特高警察に追跡され身を隠す時に「特高は他人の郵便物を断りも無く勝手に開けて見てしまう」という話を聞いて「婚約者からの手紙を勝手に開けて見るなんて、近代国家にあるまじき冒涜です!」と怒り所が一般人と微妙にズレている所にも社会の醜さ(現実)ではなく美しい恋人(美しい夢)を見ることに集中している様子がうかがい知れる。その徹底振りを宮崎監督は「狂気」と表現したのか。

◆少年期の終わり
パイロットごと天に昇っていく無数のゼロ戦(主人公がアニマを統合した結果生まれた愛の結晶=子供)と燃え上がる町、爆撃されバラバラに焼け落ちたゼロ戦の残骸が散乱する飛行機工場の廃墟を歩く夢のシーン。主人公は美しいもの(夢)の命が醜いもの(現実)によって無残な最期を迎える時を見届ける。本人はそれを象徴した夢の世界を「地獄かと思った」と評する。多分、死にたい気分にもなったのだろう。
儚く美しい夢(菜穂子と飛行機)が醜い現実によって多くの血を流し無残に死ぬ最期。夢から覚めてその現実と向き合わされることで、しかし主人公は「夢見る少年」から「自分の経験した美しい夢を宝物(糧)にして現実の未来を生きる(=大人になる)決意」をする。夢の経験を糧に現実を生き未来の人生を創ることで、夢は「経験」に姿を代え人生の中で生かされ続ける。どんなに無残な終わりを迎えようと、自分の見てきた夢が美しかった事実は永遠に変わらない。その美しさは、生きるためにこそある。
元気な姿の菜穂子が夢の中に登場し、「あなたは生きて」と伝えて天に昇るのを見送ったあと、主人公が目を閉じ万感の思いを込めて(多分、菜穂子だけじゃなく今までの夢を追う人生自体に向かって)「ありがとう・・・!」と吐露する様子は、さながら悲喜こもごもの青春(そのどれもがかけがえのない自分だけの宝物)をくれた甲子園球場に感謝と別れを告げる3年生の高校球児にも似ていた。
この作品、青春時代に宝物となるような経験をした人々には何処かしら共感する部分がありそうだ。
人生経験が醸造した素晴らしい宝物を糧にして(生かして)創られる未来は、やはり素晴らしいものになるだろう。そこでも新たな宝が生まれるはずだ。そういう人生は、世界で唯一本人にしか創れない(他人には真似できない)芸術作品とも言える。あるいは自分だけが醸造できる「いいワイン(byカプローニおじさん)」か。
(主人公の声優をやった庵野英明氏はこの作品を見て曰く、『あ、宮さん、大人になるんだ』)

                                                  

◆オカルトな妄想(蛇足)
主人公と菜穂子が愛し合ったことで生まれた伝説の戦闘機ゼロ戦。しかしその誕生と共に菜穂子は死んでしまったことを主人公は直観的に悟る。彼の美しい夢もゼロ戦誕生をピークにして死んでゆく。
このことを後でふと思い出した時、古事記のイザナミを連想した。国生み神話で日本列島の島々を次々に生み出す地母神にして日本のアニマの彼女は、火と製鉄(古代において製鉄は軍需産業)を象徴する神カグツチを産んだ時に死んでしまう。古代日本の製鉄の発展は東征と切っても切れない密接なつながりがある。
そんな背景のあるイザナミの死が第2次東征とも言える太平洋戦争に際して日本の軍需産業が開発したゼロ戦の誕生にシンクロした菜穂子の死と重なって見えるのだ。菜穂子は主人公のアニマであると共に、日本のアニマでもあるのか?
あの頃日本の無意識が見た儚い夢。・・・それが「菜穂子」だったのか?

近現代日本は母性的な「生み出す豊かさ」ではなく、男性的な「勝ち取る豊かさ」へ依存し追求していった時代である。やはり古代東征時代も同じようなことが起きた。生み出すものが豊穣ではなく武器になってしまうとき、日本の地母神は黄泉の国に封印されてしまうのだろうか。
イザナミのお墓は出雲にある。奇しくも出雲は古代から製鉄と武器製造のメッカだった場所だ。

関東大震災から終戦までの期間に、日本各地の龍脈を用いた東征呪術(最新は靖国)が作り出していた「戦における開運をもたらす運気」は徐々に火気流失を起こしていき、やがて消えた。戦後、呪術の作る運気は戦争ではなく産業界・政財界に転用されたが、バブル崩壊から現在にかけてやはり徐々に火気流失を辿っている。そのとどめが日本中の龍脈を動かし呪術を破綻させた3.11だ。
昭和と平成にまたがる火気流失の長い時代。その火気流失の反動で引き起こされたすさまじい水気の押し寄せが、3.11の津波を皮切りに、今も日本中で渦巻いている。水気押し寄せの時代も、それなりに長いのだろうか。しかし時代の進むスピードは、試作機を牛に引かせて試験飛行場まで運んでいた昭和のあの頃とは比べ物にならないほど速まっている・・・
押し寄せる巨大な水気の奔流の中で、日本はかつて愛し合ったもののしっかり統合しないまま黄泉に封印してしまったアニマを蘇らせる(黄泉返らせる)ことが出来るだろうか?

もののけ姫を心理学的に妄想←「日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語」参照

【オマケ】ナウシカが乗ってるアレを自作した人がいる。私も子供の頃乗ってみたいと思ってたw

俗に男性は乗り物にアニマを投影することが多いと言われている。そういえばモーターショーでは車のイメージに合わせた衣装のコンパニオンが居るし、堀越二郎の時代からアメリカでは戦闘機に女性のノーズアートを描くのが流行っていた。現代の自衛隊に至っては、萌えキャラ満載の痛戦闘機なるものまで存在する。

2010年8月15日 (日)

「帰国」見たあと思いついたネタ

TBSがやってたドラマ「帰国」。太平洋戦争の戦死者が何故か部隊ごと今の日本に帰ってきて、子孫や現代の日本が抱える現実と直面する+恋愛要素的な話。基本的にお説教系。(個人的にはあの戦争で兵士がどれほど祖国のために戦死したところでその死が国の繁栄に結びつくわけじゃないと思う。国の繁栄は戦争とはまた別の要因だろう)
中身に期待してなかったけど案の定中途半端でつまらなかった。終わりの方ひどいw

英霊が現代に帰って来て繰り広げる話を作る場合、むしろこういうラノベ風脚本なら視たい。以下妄想。

・主人公は今どきの女子高生。両親が仕事で海外におり、会うのは年数回。お手伝いさんのいる家で一人暮らし。裕福だが子供の頃からさびしい思いをしている。自分の殻に閉じこもりがち。

・何か不思議な力により、ある年の夏に戦場で自決したとされる彼女のおじいちゃん(当時25歳イケメン)が孫のもとへやってくる。孫にだけ見えるおじいちゃん(最初は下着泥棒と間違われるのはお約束)。

・今の日本の様子を見たがるおじいちゃんに孫が色んな所(秋葉やメイド喫茶含む)へ連れて行く。現代の日本の様子に喜んだり驚いたり、時にはため息をや憤慨をするおじいちゃんと、発想が60年以上ズレたまま(感性は当時の若者)なおじいちゃんに呆れる孫のハチャメチャコメディや社会問題などについて考えさせられるシーン。
おじいちゃん曰く「この国は平和だしずいぶんと豊かにもなれたようだが、それを生きる幸せのために十分役立てる力がある様には見えない。そもそもお前からして(以下孫にお説教 孫逃げる)」

・おじいちゃんは長いこと現地で浮遊霊してるうちに自分の死の真相をわすれてしまっていたので成仏するためにも記憶を取り戻したい。しかし無理に思い出そうとするとなぜか苦しくなってしまう。

・その手がかりを探していくうちにおじいちゃんとの交流によって寂しさを抱えていた孫は徐々に心を癒していく。

・おじいちゃんの記憶を頼りに当時を知る人を訪ねて聞き込みをしながら死の真相を探っていると、ある点で何人かが口裏を合わせたように黙り込む。色んな人の回想シーン挿入。

・やがて孫の身の回りに不気味な現象が発生し、鏡に「詮索するな」という血文字のメッセージ。何者かの霊的な妨害にあう。 手がかりが行き詰る。

・そんな時、霊感のある占い師兼心霊カウンセラーの怪しいオカマ(美和明宏)と出会う。孫とおじいちゃんがオカマに気に入られる。

・紆余曲折の末、オカマの協力と新たに見つかった当時を知る人(おじいちゃんと同じ部隊にいたけど隊とはぐれて捕虜になり死刑を免れた戦友や死ぬ前に秘密を告白して楽になりたい人)との出会いを経て、おじいちゃんは自分の死の真相が司令部の無謀な作戦&致命的ミスの責任を隠蔽するために仕組まれたものだと知る(自決とされていたが、実は隠蔽のために作戦失敗の責任を取らされた形で、作戦任務にあたった部隊の数少ない生き残りがおじいちゃん含め全員死刑にされていた)。

・隠蔽工作に関わった者がまだ生きているため、聞き込みをした何人かはその人を庇うために口をつぐんでおり、既に霊となった隠蔽工作の責任者が生前の執着から己と関係者と司令部の名誉を守るために妨害していた。

・さらに、自分の死の辛さからあえて記憶を封印したことを思い出すおじいちゃん。

・おじいちゃんと隠蔽責任者がオカマのカウンセリングを通して生前の執着を断ち切り、心の傷を乗り越えたり己の罪と向き合い償っていく決意を得る。
孫は自分の殻に閉じこもらずに言いたいことをはっきりと相手(主に両親)に伝える意欲を持ち始める。
おじいちゃん曰く「俺の上官は口ではうまくモノが言えない憂さを溜め込み、部下に八つ当たりする人だった。・・・お前はあんなふうになるなよ」

・来年のお盆にはまた来ることを孫に約束し、現世での迷いが消えたおじいちゃんと責任者は死後の世界へ旅立つ

・不思議な夏休みを過ごした孫は、少し前向きな気持ちになれて、自分の殻の外へ一歩踏み出し成長していくのでした、で妄想終わり。


「帰国」の内容、要はお年寄りが「貧しかったあの頃にもちゃんと存在していた日本の礼節(精神性)は今やどこへ行ってしまったのか?」と嘆く気持ちを表現したものだろう。
「衣食足りて礼節を知る」・・・経済的に豊かであってこそ人々は礼儀や名誉をわきまえるようになると伝統的に思われてきた。が、実際はというと・・・
礼節(精神性)なんて生活に余裕があれば自然に発達すると思ってとにかく衣食だけ追求してたら、そうでもなかったらしい。例え目先の豊かさを工面する必要があるにしても、担保にするのは着物やかんざしまでにしといたほうが無難かもしれない。精神性や時間的余裕といった目に見えぬものまで担保にすれば、「衣食足りて礼節が質流れ」ってこともありえそうで。

2008年8月21日 (木)

『崖の上のポニョ』とカタストロフィ

※以下は個人の感想・解釈です。

『崖の上のポニョ』を見た。ポニョの樹木希林とトトロやメイを掛け合わせた魚顔がめちゃくちゃ可愛いと思うのは私だけだろうか? そして宗介は本当に「よく出来た子」だ。私なんか足元にも及ばない。絵は相変わらず美しい。
ストーリーやキャラクターについての感想は他のブログでいくらでも書かれているだろうから、メインは心理学的、象徴的な視点による『崖の上のポニョ』の個人的解釈にしようと思う。(読者の脱落率90%)
まず、この作品のテーマは他のいくつかの宮崎作品同様、新たな可能性の世界へ向かうための「破壊と再生」だろう。宮崎監督曰く、この作品で「初源なるものをためらいなく描いて、不安と神経症の時代に立ち向かいたい」という意図があったそうだ。

ということだから、遠慮なく心理学的なシンボルを用いてこの作品を解釈してみる。まず「水」は人の精神発達・精神活動のスタート地点である無意識の象徴。そしてそこにとけ込んだものの象徴でもある。そして水が最終的に集まる場所、「海」は集合無意識の象徴。そして「魚」は無意識の領域に住み、普段は水の外へ出ない(意識の領域へは出てこない)存在。しかし確かにそこに存在し、稀に跳ね上って一瞬水面の上(=地上)に飛び出す。そしてある特別な条件がそろった時、水の外の世界から抜け出し、一瞬ではなくずっと地上世界(顕在意識の領域)の住人になる。
無意識にいるはずのものが意識の領域に浮上し、そこにとどまり続ける。それはどんな条件の時に起きるかと言うと、

①:「意識化すべきものが何らかの理由で無意識領域に強く抑圧されていて、そのために心が緊張し可能性(先行き)が行き詰っている時」。
②:「可能性を広げるためには解放・浄化すべき問題が何らかの理由で無意識領域に閉じ込められ抑圧され、鬱屈の限界が来ている時」。

その条件下におかれた時、心は抑圧された部分を本能的に「外へ出したい(意識化したい)」とそれこそ心から切に思うようになる。そして「抑圧する側」との間に葛藤(戦い)がはじまる。本能からの・心からの思いは強いエネルギーを秘めているので、抑圧側との戦いはとても激しくなる。そして大概は抑圧側の隙を衝いて「抑圧されてきた側」が勝利する(ある宗教はそれを『ハルマゲドン』と呼んだかも)。そのエネルギーは抑圧や障害を乗り越える力になる。
①と②はそのまんま人が神経症に陥る時の心理的環境といえる。「自分の何かを必要以上に押し殺している」時、神経症は起こりやすいそうだ。そうなったら確かに不安だろう。けれどもそれは、「行き詰まりの打開」「鬱屈の浄化」「抑圧からの解放」のチャンスでもあるわけだ。不安の正体を知れば、怖くない。
重要なことは、「抑圧してきた意識化すべきものの真相と向き合い、拒絶せず受け入れること」。すると神経症は回復に向かう。その過程で、時には無意識にとけこんだものを出す機能のある「涙」があふれ出すかもしれない(あれも海水みたいなものだ)。また、「意識化すべきもの」は時にアニマ/アニムス(理想の異性像)の姿で夢の中に現れる(宮崎監督のアニマは少女の姿をしているのだろう)。

さて、以上のことを『崖の上のポニョ』に照応させると、「抑圧する側」はポニョを元の海へと一旦は連れ帰ったフジモト。無意識領域、それも集合レベルの無意識領域からの脱出を心から望んでいる「意識化すべきもの」はポニョだ。ポニョは抑圧の隙を衝いて浮上を決意。するとポニョを乗せた無意識(=水)が地上世界(顕在意識領域)に向かっていっきに膨れ上がり、溢れ出す。地上世界(街)は溢れ出した水で覆われる。
そして地上世界へ浮上してきたポニョという「意識化すべきもの」に気づき、その真の姿を知り受け入れた地上世界の住人、宗介・・・例え意識化すべきものが己の醜いとされる部分であっても、押し殺さずに受け入れ認めることは、一種の愛。
この「抑圧の隙を衝いて無意識領域から地上世界へ浮上し移住すること」は主体となるポニョ一人の力で行われたものではない。まず宗介の愛、同じ海に住む無数の妹達の協力、ポニョの母親である「海の女神」の説得と後押し、そしてとうとう納得した抑圧側のフジモトが「作戦」を実行したからこそ成功したものでもある。しかも、恐らく集合無意識の象徴である「海の女神」は最初から何が起きるか予想できていたのだろう。ポニョが地上の迷惑を考えず津波と共に猪突猛進に宗介の元を目指したのは、それがポニョのみならず集合無意識全体の意志、すなわち「破壊と再生」が不安と神経症を抱えた時代とそこに生きる者達の意志だったから。その証拠に、誰も津波を嘆かず、ポニョを恨み裁くこともなく、むしろすんなり状況を受け入れている。

この作品は、「不安と神経症の時代に立ち向う」ための「集合無意識規模での鬱屈浄化」を描いているようだ。
無意識世界を象徴的に描いたものだけに、ストーリーは睡眠時の「夢」のように論理的整合性が怪しい。だから観客の意識を通り過ぎて無意識にダイレクトに伝わるかも。「地味で分かりにくい作品なのになぜか心に残る」と言われているのはそのせいだろうか。もしそうなら、宮崎監督のやったことはある種の呪術だ。作品を通して観客に破壊と再生の疑似体験(カタルシス)がなされ、多くの観客の潜在意識に刷り込まれた「破壊と再生」のイメージが集合無意識に作用し、抑圧を抱えた不安と神経症の時代へ立ち向かう元気を促進する。
時代の抱える抑圧は、単なる個人の無意識領域にとどまらず、集合無意識にある。多くの人が意識化すべきものを無意識領域に抑圧していることで、個人の問題を越えた集合無意識レベルでの抑圧になっているのかも知れない。
彼の呪術が本格的に成功すれば、この時代の神経症と不安は癒される。
海(=生命の源)に例えられる集合無意識は、時代の特徴や時代の潮流(意識の世界における集団レベルでの生命活動)を作る源と言われている。この「不安と神経症の時代」、人々が抑圧の元から解放し意識化すべきものとは一体なんだろう? 向き合う準備は、出来ているか?

ナンバープレート「333」の意味?
実は、占い師の目から見て個人的に非常に面白いと感じた偶然(必然?)がある。劇中に出てくる宗助とポニョとリサの3人が乗る車のナンバープレートが「333」。「3」はヒンドゥー数霊術で木星の数字で、「膨張・発散・解放」と言う意味があるのだ。それが3つ並んでいる。ある意味「破壊と再生(=究極の解放)」のための三位一体。3人はそれぞれ「破壊と再生」において役割を担っている。「破壊を発生させる者(=ポニョ)」「破壊を一旦受け入れて次の段階への態勢を整える者(リサ)」「再生のために地上での居場所を引き受け破壊を終わらせる者(宗介)」。
しかもポニョがフジモトによるDNA進化逆行の抑圧を破り人間になりかけるシーンでは手足が3本指だった。もしや宮崎監督は、ヒンドゥー数霊術を知っておられるのだろうか? (数秘術の中では結構マニアックな占いなんだけどな・・・)

(もっとオカルトマニアックな解釈がお望みなら、333の車は戦後日本の開運を意識して建てられた東京タワーの暗示が隠れてるとでも言っておこうか? あの塔、いつかは呪術的にも役目を終える。だから車は乗り捨てられた)

※以下ネタバレ含む
作品の中で、フジモト自身もまた世界に行き詰まりを感じ、それを打開するために海の時代を逆行させて(進化を逆行させて)海を地上の支配者にする計画を作った。その準備として魔法の源でもある『命の水』をせっせと大事に貯蔵していた。しかし、ポニョが脱走中に全部飲んじゃった&海にばらまいちゃったということは、彼の計画では行き詰まりを打開できないのだろう。彼の「行き詰まり打開手段」は「解放」ではなく「抑圧」。破壊と再生の逆だったから。フジモトは「不治の源(不安と神経症が治らない原因)」っていう意味かも知れない。
人類が彼のように発想してしまう事こそが世界の行き詰まり(不安と神経症)の打開を、即ち「抑圧されたものを解放すること」を妨げるのかもしれない。
結局、抑圧を抜け出したポニョが世界と海を生まれ変わらせ行き詰まりの打開をやってのけた(海の女神曰く『素敵な海ね』)。そしてポニョの始めた「破壊と再生」の終了作業をしたのが、ポニョを真の姿から愛し身元引受人になった宗介。
己を抑圧し行き詰った世界に抑圧してきた「己の真の姿」を見せることで神経症の終焉と再生をもたらす。それが二人の世界の救い方。タロットなら20番の『審判』。

(より個人規模で思春期の少女達に起こりうる破壊と再生を描いた有名なアニメ作品が「少女革命ウテナ」かもしれない・・・)
(フジモトのため込んでた黒い命の水、何故か石油の暗喩にも感じる。石油は太古のプランクトンの死骸らしい)

2008年1月 8日 (火)

タモリのウソ外国語

「密室芸」と言うらしい。あくまでウソ外国語。しかしどの国の物まねも素晴らしい。
大学で中国語を習った身としては、タモリの中国語のピンイン(基礎発音)は大学の先生より上手に聞こえる。
リンクは右クリックで別窓。

各国バスガイド

納豆を初めて食べた外国人

2007年11月25日 (日)

サラリーマンNEO

25日。どこかの予言者が「25日。千葉県に地震が起きて東京がパニックになる」と言ったらしく、一部では盛り上がっていそうだが、そんなことはお構いナシに東京は天気の良いのどかな休日を過ごしている。
今日はそんな休日にぴったりのお笑い動画をご紹介。
「サラリーマンNEO」というNHKで人気を博したコント番組がある。サラリーマンをやっていると一度は遭遇しうる光景や出来事を面白おかしくコントにしている。ブラックユーモアでもある。
先日初めてそのコントを見ることが出来た。NHKで実際に放送されている番組のセットを使っているところが笑いを増幅させる。実際の番組そっくりに似せたテロップが出てくるだけで笑いそうになる。
一度お試しあれ。

テレビサラリーマン体操

Neo Express

がんばれ川上君

サラリーマン語講座

そのほか、youtubeで「会社の王国」や「セクスィー部長」と検索してみると面白いものに出会えるかもしれない。しかし出会えない可能性も高い。
私の予言だ。

職場の「困った人」

2007年9月12日 (水)

デスノート+ホットペッパー

(右クリックで別窓)

その1

その2

飲食中の閲覧はおすすめしない。多分噴くから。

2006年10月26日 (木)

攻殻機動隊とオカルトの世界

※とっても非科学的な話です。
『攻殻機動隊』。昔大学の授業でこの作品群の存在を知った。そして最近になってテレビシリーズをやっと見た。最新作ではないものの、今見ても面白かった。気に入った登場人物はトグサとバトーかな。タチコマがアニメ声というのは以外だった。
このアニメ、マトリックスの監督が影響受けたというのがよくわかった。マトリックス同様、オカルトやグノーシスなど形而上学的なテーマや、ユング心理学のような要素も ある。
この「攻殻機動隊」という作品の中にも、そのうち占い師とか霊能者みたいなキャラクターを登場させたら面白いんじゃないかと思う。占い、特に易やタロットなど偶然性に頼る占いは、見た目はアナログだが実は非常にデジタルな頭の使い方をしているからだ。
全く電脳化していないにもかかわらず、占い師達は昔から人間の集合無意識の領域(サーバーのソース領域またはデータベース)や、その人が自分の現実を作る時の運勢というデータがしまわれている領域(ネットで言えば「個人HPのソース領域」)にアクセスし、相談内容をキーワードにした検索作業をして来た。その精度は占い師の腕次第。
そして検索結果は、カードや筮竹に反映される。さらに検索結果を分析して、相談内容のアドバイスとして何がふさわしいかを、解釈する。解釈も占い師の腕次第。
はたから見れば、「偶然出た結果が的を得ている」「シンクロニシティーだ」と見える。 何のことはない、人工的にシンクロニシティーを起こしているだけ。
丁度Googleのキーワード検索で「自分の調べたいことが検索結果の上位に入っている」のと同じ。 Googleがあなたの心を読んでわざわざ気を利かせたわけでも、超能力じみた力を持っているわけでもない。システムがそういう仕組みになっているだけ。占いも同じ。運勢や無意識の深い領域が便宜上そういう仕組みになってるだけ。
生存環境が厳しかった原始の時代、人間は生存のためにデジタルな頭の使い方をよくやっていた。
「今日はあっちに行けば獲物と出会いそうだ」「このキノコはおいしそうに見えるのに不吉」「何だかこの場所は危ない気がする」「一週間以内に雨が降る(止む)」などなど、無意識の領域で場所やモノの情報を検索し、その中に有効な情報があれば予感や直感といった、個人のゴーストの中でも深部の無意識領域から来る機能で認識する。昔はそんなことが得意な人達はシャーマンになったりしもしていた。
シャーマンの中には俗に古くから「幽霊」と呼ばれる強烈な印象や感情(または強い意志?)のために、死してなお意識(=ゴースト)や、或いは意識のデータの一部だけがその場に焼き付けられて残っている/さまよっている状態の者を感じ取れる人もいただろう。ゴーストを使って他人の意識をジャックする(乗り移らせる・祟らせる)ような黒魔術師だっていたかもしれない。自分が自由に身体を抜け出してゴーストとして活動できるシャーマンだっていたんじゃないかと思う。ゴーストになれば、幽体離脱も、集合無意識へのダイブも、お手の物。大昔なら、草薙素子はアマゾネスにして部族を支えるシャーマンだ(95年の『攻殻機動隊』のエンディングは日本のシャーマニズムである神道の祝詞が含まれている)。
もう少し時代が下ると、地位も財産も全て捨てて、一歩間違えれば攻性防壁のように脳神経が焼けたり廃人になるかもしれないほど危険で難しい修行(ある種のヨガなど。)を積んでまでデジタルな能力を高めようとるする人々も出てくる。
・・・・・・しかし今は、人間が生存のためにそんな原始的な能力を使わなくて済むよう便利な科学を発達させてきた時代なので、その能力を使ってる生き物の大部分は動物達くらいなものだ。多くの人間達はその力の使い方を忘れている。だからその力でアクセスできる領域が身近じゃない。だけどやっぱり興味があるし、面白そうにも見える今日この頃・・・・・・

例え人間が電脳化された時代でも、他人の意識をジャック出来る時代でも、ゴースト深部に鎮座する個人的無意識の、そのまた向こうに鎮座まします集合無意識を検索する方法は、皆知らないままなんだろうか?

SSSのオープニング、気に入った。

2006年9月10日 (日)

ルパン三世の今と昔

よく「ルパンは昔の方がよかった」という話を聞く。
まず制作側の原因を邪推。
ルパンの根底に流れているのは「お洒落」。アクションさえもお洒落。現在のTVスペシャルは、制作側にいわゆる「アニメオタク」が増える傾向にあり、「アニメ画像」を作る技術はあるものの、他の部分は余り得意ではなく、あの「お洒落」に疎い所があるのかもしれない。アクションの見せ方や不二子のファッション、音楽の使い方があまりパッとしない。資料を集めるか、詳しい人にアドバイスを貰った方がいいかも(アクションはカウボーイビバップの方が優れている)。
また、海外旅行に憧れの強かった当時。画像や音声を含め、外国の描写には資料を用いるなどしてかなり雰囲気を出していたのもよかった。
初アニメ化の当時は、まだ「アニメオタク」というものがおらず、幅広い感性を持った人たちがアニメにも携わっていた、というような感じもするし、「ルパン」ともなるとイメージはドラマと変わらない扱いだったのではないかとも思う。

ルパンが昔の方が良かったわけ。多分それは、単に制作側だけの問題ではないと思う。
特に良かったといわれているのが1st~2ndシリーズ。ルパンが漫画として連載され、後に30分アニメになった頃の60年代後半から70年代だ。あの頃の日本はまだとてもレトロで、素朴で垢抜けていなくて、ルパン達が現実とはかけ離れて「もの凄くおしゃれ」に見えた時代でもある。一般的な生活は「神田川」とか、「ど根性ガエル」あるいは「ちびまるこちゃん」のような感じ。だからルパン達に対して、大きな夢と憧れがあった。そういうものをルパン達が背負っていたとも言える。憧れの外国を飛び回り、車やファッションその他様々な手の届きそうにないステキなアイテムが盛りだくさんだし、構成やカットはまるでハリウッド映画のような要素があり、レコードがまだ少し高かった時代にJazzyな音楽を使う・・・ Free_hands_jigen       
だから尚更面白く見えたのではないだろうか。
今の日本はあの頃と比べたら大違い。一般庶民でも海外旅行に行ける。メディアの発達で流行はすぐにわかるし、ブランド物の店もいっぱいある。テレビでも沢山ハリウッド映画を見ることが出来る。「カッコいい」が身近にあるのだ。
それに、今更外国を真似たってとくにトレンディーではない。都心に行けば海外の都市とあまり変わらない風景も広がっている。あの頃と比べて生活風景がどんどん欧米化している。コンビニに行けばハリボやスニッカーズが簡単に手に入る。子供でも買える。昔はただのコーラですら「カッコいい飲み物」だったのに。子供のおやつは1個100円もしない駄菓子だったのに。
今となっては、逆に60、70年代のレトロさに人気が出るくらいだ。
70年代を生きたことのない私ですら、あの頃のレトロさに触れると、何だかほっとする。レトロな風景が大好きだし、古い漫画やアニメも大好き。駄菓子も大好き。日本では失われつつあるレトロな風景が好きなあまり、日本以外のアジアに目を向けてしまうほど。

時代はどんどん加速している。このことをインド医学とからめれば、ヴァータ(風の要素)がどんどん増えてゆくということ。実際、ヴァータのアンバランスが裏に潜んでいると思われる問題も増えている。特に子供達。
半世紀も生きていない私が、生まれる前の時代への懐古趣味を持っている。それぐらい今のテンポはキツい時がある。もちろん、昔の生活には戻れないのだけれど(ネットで仕事してるんだから)。
もしかすると、結構多くの人にとって、テンポの速さはあの頃がちょうどいいのかもしれない。
だからこそ、あの頃ものすごくカッコ良かったものが、今でもカッコよく感じられるのかもしれない。
あるいは、夢と憧れが一杯(=可能性が一杯。目指す方向もはっきり)な「あの頃」自体が魅力的であるが故に、ルパンは昔のものの方が好まれるのかもしれない。
今は、あの頃みたいに全員が夢中になれる「憧れ」が見つかりにくいから。

余談だが、60・70年代のお洒落さが全開のおバカ映画「オースティン・パワーズ」が人気なのもそのせい? ※私も大好きです。

2006年9月 9日 (土)

ルパン三世~セブンデイズ・ラプソディ~

今年もやって来たルパンのTVスペシャル。ルパンは幼稚園の時に2ndシリーズの再放送でハマって以来のファンだ。
今回の見た感想は、最近見た作品の中ではまあまあの部類に入ると思う。前回よりは良かった。ギャグは笑えた(特に最後のブッシュを意識したやつとか、次元の“ズボンはどうした?”など)。作画もヒロインと主要キャラは○。
主要キャラを使ったギャグで笑わせるのは良いのだが、それぞれのキャラ本来の持ち味や良さが余り出ていないのは残念。彼らは本当はもっと「カッコいい」はずだから。カッコよさのなかに突如スコンとギャグが入るのが今までのルパンの醍醐味でもある(少なくとも、今までは)。メリハリが利いていないと、最後にヒロインを救い出すための連係プレーが生きてこない。流れに中途半端な感じが出てしまう。連携シーンを単独で見れば、結構カッコよく描かれてるはずだからもったいない。
そして、次元の葛藤の描写が薄い気もする。あそこをうまく描ければ、次元はもっとカッコよくなったはず。ファイヤー男(彼は悪役でなく存在そのものがギャグだったのか?)のシーンをそっちに回してもいいくらい。
また、ヒロインの父親だが、影が薄すぎる気がする。何故病気の妻をほっといてまでダイヤに打ち込んでいたのかがよくわからない。単なる悪党という扱いじゃない気がするのに、しばらく経って振り返ると、目立つ印象は「至近距離からショットガンで撃たれたのに生きてる(服の下にジャンプでも?)」という所だけだ。
悪役の描写もイマイチ足りない感じがする。
以上の理由からか、テンポが速いというよりは、「要所要所をいい加減に流してる」印象になってしまってもったいない。
とはいえ、全体的にあの独特のルパンらしさは出ているとは思う。銭型との追いかけっこやヒロインとの出会い方など。次元の過去もまあまあだった。競馬場から脱出するくだりや「氷」の使い方もいい。
最近のTVスペシャル、古くからのルパンファンには「昔の方が良かった」と言われることが多いが、そのことについても後で書くことにしよう。

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