日記・コラム・つぶやき

2017年10月 3日 (火)

宇宙という生き物

※以下に書いたことは個人の妄想です。かなりイッちゃってます(いつものこと)。

人々の運勢や龍脈の動きや星々の動きというものを見ていて、ある日ふと思った。

「人間界の動き(運勢)と龍脈や星の動きが連動=龍脈や星の動きと人間界の動き(運勢)が連動している」ということは即ち、地球と人類は同じ一つの巨大な生き物である証なのかもしれない、と。
恐らくその「巨大な生き物」とは、哲学の世界で宇宙とか万物とか存在とか呼ばれてるもので、人間を含む様々な生き物に宿る魂(=生命)はその「宇宙(万物)」の一例であり、その生きざま(人生)は「宇宙(万物)」がやっている活動(取り組み)の一例なのだろう。ユングは一人一人に宿るそんな命(=宇宙)を「セルフ」と呼び、古今東西にある「神」の概念のモデルになったという。神・・・アレが「全知全能」な理由は、我々を含めこの世に存在する万物自体が神だからかもしれない。「八百万の神」って言うしw
宇宙は私の人生に取り組み、あなたの人生に取り組み、彼の人生に取り組み、彼女の人生に取り組み、あの人の人生をやっている。今この瞬間も。我々の人生というものは、もしかしたらそのどれも全てが「宇宙規模の取り組み」なのかもしれない。今この瞬間も、宇宙は一人一人になって活動(取り組み)をしてるのかもしれない。
「宇宙」とは、かように壮大で巨大なプロジェクトの名前でもあるのだろうか。
(みんな同じ一つの生き物ならば、誰かを見下しバカにするのもはナンセンス。宇宙という生き物にしてみれば、見下す側も見下される側も全て自分だ)
・・・などと思っていたら、妄想電波が止まらなくなってしまった。

◆見えているものは氷山の一角
宇宙(万物)の全てをひとつにつなげているものは、我々が「集合無意識」と呼ぶもの。しかし我々は宇宙(万物)の大部分を見ることが出来ず認識もできていない。島のようにところどころしか見えてない。
そんな、我々がたまたま今のところ「見えなくて認識できていない宇宙(万物)の大部分」のことを、ユングは便宜的に集合意識と名付けたに過ぎないのだろう。あれは、我々が見えて認識できているもの(顕在領域)と同一のものだ。万物で宇宙だ。 あれを我々が認識できるようになれば「集合意識」に変わる。
我々を含めた宇宙(万物)が巨大な一つの生き物であるなら、集合無意識が関与して発生すると言われる「シンクロニシティー」が起きるのもごく自然なことだ。 多分、量子テレポーテーションとかいう現象だって不思議じゃない(文系オカルト脳)。

宇宙は今この瞬間も新しい何かを生み出し、また生み出したもの(どれも自分)を経験している。宇宙(万物)という生き物は己の好奇心と情熱によって自ら沸き立ち泡を生じさせ波打つ水に似ている。まるで海だ。
そして「海」もまた、心理学的には集合無意識(=宇宙・万物のうち、我々には見えてない大半の領域)の象徴とされることがある。集合無意識(海)もまた宇宙であり万物である。宇宙、万物、海・・・呼び名が異なろうと見える/見えないの差があろうと3者は本質的に同一だ。
海・・・ハワイ語なら『モアナ』という。
我々は宇宙(万物・海)という巨大な一つの生き物にしてその取り組みの一環だ。しかし我々はその全体の一部分しか見えてない。自分と全体をつなげている部分(宇宙の大半の領域)を見ることが出来ずにいる。見えていないお陰で自分達が宇宙(万物・海)という巨大な一つの生き物だと気付かずにいる。
(我々が『人は体が死んだら無になる』と思い込んでいるのも宇宙の大部分が見えてないせいかもしれない。無になるんじゃなくて単に肉眼で認識できなくなるだけだったりして)

◆「モアナと伝説の海」でオカルト妄想
「宇宙の一部分しか見えていないお陰で自分達が宇宙(万物・海)という巨大な一つの生き物だと気付かずにいる」・・・けれど、とある南洋の少女は気づいたのかもしれない。 自分の住む島から見える範囲の海(サンゴ礁の内側)だけではなく、今までは見ることが出来なかったサンゴ礁の向こうに広がる海を見ようとする視点を持っていたあの少女は。サンゴ礁を「宇宙の見える範囲」に、海を「宇宙」に、「サンゴ礁の向こうに広がる海」を集合無意識(=宇宙の見える範囲より向こうに広がる宇宙)に置き換えても同じことが言える。
そしてサンゴ礁を越えて海をどこまでも自由自在にあちこち移動し見て回ることが出来れば、やがて「海は一つにつながっている」ことを知るだろう。

つまりオカルト視点だと、「モアナと伝説の海」は哲学的・形而上学的な解釈すらできそうだ。
旅とか航海は時に「経験を積んでいくこと」を象徴することがある。船はさしずめ経験を積むためのツールか。
サンゴ礁(宇宙の見える範囲)を越えて「海(=宇宙・万物))」を自在に行き来出来た「祖先」が象徴するものとは、自らの好奇心と情熱により万物を創り万物となって(時に無数の多様な生命として)経験をし、宇宙全体の視野(万物を一つの生命とする視野)を持ちながら同時に個々の万物として活動していた記憶。つまり個~宇宙全体までの視点を(見えぬ場所なく)広く自由自在に行き来し個と全の視点を両立・統合させた上で無数の経験を積み重ねていった宇宙自身の記憶であり、その記憶は宇宙が行う活動の一例であるモアナの中にもあっておかしくはない。「生生流転」こそ経験を積む航海の旅。その記憶は宇宙の記憶・・・

その記憶(=祖先)に導かれ、モアナは滝の裏に隠されていた祖先の船(サンゴ礁=見える範囲を越えて航行する能力)を発見し、それに乗ってとうとうサンゴ礁を越える。見えなかった領域が見えるようになる。
宇宙という巨大な一つの生き物にして宇宙が行っている活動(取り組み)の一例でもある我々の中にもモアナと同じ記憶はある。我々はかつて、「サンゴ礁(見える範囲)の向こう側」を知っていたし、自在に行き来出来た。そしてサンゴ礁を超える視野で「自分」という存在を認識していた。自分が宇宙だと知っていた。
モアナは祖先同様にサンゴ礁の向こうを旅するにつれ、ある日自分もまた「モアナ(宇宙)」だということに気付いた。いや、気付いたのではない。自分(宇宙)の記憶を思い出したのだ。だから霊になったおばあちゃんの問いかけ「お前は誰か?」に答えることが出来た。

♪広い海旅した 祖先が私を呼ぶの 
 遠くへ旅をして分かって来た 私を呼ぶ声が聞こえる 

 心の声が呼んでいるの 波のように打ち寄せては 
 語りかけてくるその声が 教えてくれたの

 私はモアナ

そんなモアナの気付きは、世界から失われた「テフティ女神の姿とそのハート(=地母神)」を取り戻し、世界を「黒い病」から救うカギとなった。

◆生まれながらの冒険家
自らの好奇心により自ら沸き立ち泡立ち波打って万物を生み出し万物となって経験を積む。宇宙という生命体が行っているそんな活動には、まさに冒険家が自らの好奇心を実現すべく旅する過程で味わう精神的な喜びを秘めているように妄想した。その得も言われぬ無上の「経験する喜び(=好奇心実現の喜び)」を愛し求める心こそ、旅への情熱になりテフティ女神のハート(経験のために万物を生み出し、宇宙が取り組む経験の旅路を支援する地母神の愛。時に実りや豊かさという形で支援をもたらす)になるのかもしれない。その心をスピリチュアル風に言えば、「宇宙の愛(無条件の愛)」ってやつか?
己の生命活動(人生の旅路)に取り組んでいる我々一人一人(全員宇宙)もまた、自分自身の中に宇宙が抱く冒険家のようなあの好奇心と経験への愛と情熱を宿している。それが単純に言えば「生きる喜び」ってやつなんだろう。
その心が我々の内なる地母神(その人が魂の底から望む生き方を支援するような運勢を創りだす魂の環境インフラ。過去記事参照)にもなるもので、それはまさに魂(=個々の人生に取り組む宇宙)の自己実現本能ともいえる。
宇宙(万物)の一例たる我々に宿りし魂の基本理念は、宇宙が持つ冒険家のような好奇心と経験への喜びに対する愛と情熱=生きる喜びなのかもしれない。そして喜びは愛を生む。宇宙にとって我々は「己の愛しい取り組み」というところか。魂(宇宙)が己という命(取り組み・経験・旅路)を生きる喜び・・・それは自己肯定の源。
(その取り組みの旅路全てが道中に迷いも抑圧も葛藤も困難もなく他や全体と調和してるかどうかはまた別の話。自分にとって本当に望む生き方=旅のし方を自覚し実現できてるかどうかも別の話)

宇宙が愛してやまないその旅路は、祖先の船(サンゴ礁を越える能力)を持つことで初めてできることだ。
もしも意識がサンゴ礁の内側に閉じ込められてその外を見ることが出来なくなったら、自分が何者かを見失い、かつてのようにサンゴ礁を越えて個~全を包括する視点と意識を駆使した「旅」は出来ない。新しい経験も出来なくなる。即ち「経験する喜び(生きる喜び)」が阻害されることを意味する。宇宙視点で旅(経験・取り組み)が実行出来なくなった場合、経験の旅路を支援する(喜びを促進する)地母神の愛も実行できなくなってしまう。即ちテフティ女神とそのハートは機能できなくなる。サンゴ礁の外が見えないと自分が分からず自分の心も深く把握できず本当に望む生き方(旅のし方)も見えてこない。
サンゴ礁内に監禁されて旅への愛と情熱が吐け口を失ったまま内圧を募らせることで発生する強いストレスは、やがて溶岩の魔物テ・カァとなっていつかどこかで目に見える形で噴火してしまう(封じられた情熱の炎は怒りの炎へと変質しやすい)。噴火は破壊的な結果となり、自分や周囲を傷つけることもある。旅(宇宙として万物となり経験すること)が阻害されれば、経験のために生み出した万物の存在意義がなくなる。これが世界を消滅させる「黒い病」だ。

このような状態はモアナの世界(テフティ)だけではなく日本神話の世界(イザナミ)においても同じことが起きている。モアナの世界で起きたことと全く同じ課題が日本人の集合無意識領域にも存在するのだ。いや、日本どころか全人類の集合無意識にあるだろう。
日本のイザナミの場合、古代の軍需産業を象徴する製鉄の神を産んだ時に大火傷をして死ぬわけだが、溶けた鉄は溶岩とそっくりな点に注目。彼女は最終的に怒り狂ってテ・カァになる。製鉄神が生まれた時点で、古代日本の人々はサンゴ礁の外が見えず己を見失い本当に望む生き方も見えずそれを支援する内なる地母神の発動も阻害され、運勢が落ちて飢えて奪い合い争い戦いに明け暮れるようになってしまっていたのだろう。
似たようなことは、どこの国でも起きたことだ。

サンゴ礁を超えた広い視野を持つのと持たないのとでは、自己認識も生き方も運勢も経験も全然違ってくる。
「宇宙という生き物が(冒険家の如き好奇心をもって)行う愛しい取り組みにして宇宙自身の一例」たる我々は、その身に宇宙と同じ経験への喜びと情熱と好奇心(=生きる喜び)を本能的に宿していることを意識し、宇宙という生命体を起源とするあの喜びの心を忘れたり見失なったり抑圧しないようにすることが大切だ。万一忘れたり抑圧していたら思い出すこと・意識することが大切だ。放っておけば己の中に黒い病やテ・カァが発生してしまうが、「思い出す・取り戻す」という発想を常に心にとめておけば、やがて魂が本能的に取り戻す・思い出す方向へと運勢の舵を切り動き出す。モアナの物語が始まる。それ自体が新たなる経験の旅路となる。
我々の本性である不滅の魂は、広く自由な目と心で経験への喜びと情熱をたぎらせる偉大な旅人「宇宙」だ。
(ここで宇宙からの妄想電波回線がクローズw)


【おまけ】
in deep様の記事←記事の題名は「太陽と人間と地球の間に存在する永遠のシンクロ :最近の研究でわかった『全ての人類の心臓のリズムが地球規模で同期している』と共に、『太陽と地球と全人類は常に磁場を介して同期している』こと」。
「同じ一つの生き物」という共通点のある存在同士が共鳴・共振し合うこともあるだろう。

「天空の城ラピュタ」のオカルト解釈
←ここで書いた「種族の視点」は個~宇宙全体の中間に存在するもの。シータとパズーは自分(個)と人類(全体)が同じ一つの生き物であるという視点を獲得することで死の恐怖を乗り越えた。種族の意識(視点)は我々が普段は見ることのない集合無意識領域にある。
「モアナと伝説の海」で妄想

2017年8月15日 (火)

犠牲の価値より生きた尊さ

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

池上彰、戦争を美化する動きに警鐘 「特攻」について考える特番放送
「池上彰 X 特攻」リアルタイムツイート

今年の終戦記念日シーズンは特攻についての番組が放送され、かなり反響があったようだ。
私も以前、『太平洋戦争のベルセルク悲話』というオカルト視点の記事を書いたことがあるが、今回はまた別の視点から考えてみようと思った。
まず、神風特攻隊創設者の大西瀧治郎の意図・目的について。おそらく特攻作戦は対米戦における効果を狙ったのではなく、「敗戦後を想定したレジェンドづくり」と「昭和天皇に戦争を止めてもらう」ためのデモンストレーション(直訴)という意味合いが強かったかもしれない。これは大西瀧治郎が残したコメント()から何となくそう感じた。

大西の意図した「レジェンド」は、
「戦いが日本の劣勢になり刀折れ矢尽きたその時、若者達がその忠君愛国精神ゆえに命令したわけでもないのに自ら進んで命と引き換えに次々と自爆攻撃をし始めた。
天皇陛下はこれをお聞きになると御自らの御仁心により戦を止め講和する決断をなさった。陛下も散華した若者達も、日本と国民を愛するがゆえの決断であった。
このように日本国民は散華した若者と陛下の双方からかくも深く愛された存在なのである。戦争に負けたからと言って絶望し自暴自棄になったり自己卑下したり自尊心を失わないように。」
というもの。敗戦後の民心統治(反乱防止含む)を意識して作られたっぽい(敗戦後も国家神道の価値観が続く想定で)。

上に書いた「レジェンド」を残すことに加え、「(日本側の欠陥によりだれも講和を提案できず、また天皇以外の講和の言い出しっぺになれば敗戦の全責任を押し付けられスケープゴートになることを恐れる心理もあって?)暴走機関車になった日本が女子供まで巻き込み自滅していくのを止めるための(天皇を講和へ向かって動かすための)人柱として『特攻を自ら志願して散華した』という設定の若者達を量産」というのもありそうだ。

要するに、「特攻作戦」はアメリカから国民を守るためのものではなく、(国民を道連れに自滅へ進む)日本側の暴走から(特攻を知った天皇に講和の決意を促すことで)国民を守るためのものプラス、敗戦後の人々が落ち込み過ぎないように残しておくレジェンドを作るためものではないか、と思った。
もしも「陛下は自分達の過激な行動を知れば分かって下さるに違いない」という願望回路が特攻立案の背景にも存在するとすれば、226事件の頃から全く進歩してない気がする(妄想)。

最近はネットなどで「日本はあの時特攻やったお蔭でアメリカによる滅亡から救われたからこそ今の繁栄した日本がある。特攻兵達は現代日本の立役者だ」 とか「誰だって死にたくはないし特攻兵達もみんな本当は生きたかったけれど、そこを我慢して我慢して日本のために自分の一番大事なものを捧げたところが美しくて素晴らしいんじゃないか」 「彼らは特攻による有終の美を飾ることで初めて自分だけの生きた意味を見出せたんだ」という(おそらくは軍産複合体や防衛利権と絡む右派の?)ロビー活動も散見される。
特攻兵の死をロビー活動のために当時の作戦(政策)を肯定する道具として利用するぐらいなら無駄死にと断定していいかもしれない(失策を明らかにした死としてすら評価しなくていいかも)。
およそどんな犠牲者もロビー活動の道具にしたりロビー活動の視点からその死をを評価し持てはやすことはご本人やご遺族にとって失礼にならないか。視点を変えれば、「死ななきゃ価値にならなかった命だ」と口をそろえて言ってるのと同じだ。
(この問題、PKOで亡くなった自衛官の死を当時の政策肯定のために尊ぶロビー活動とも共通点がある。どちらのロビー活動も、その作戦や政策の効果を肯定しない者=犠牲者の死を無駄死にと切り捨てる冷血漢だというレッテルを貼る。遺族達ですらその罠にハマって都合よく利用され、ロビーの主張を支持しなければ身内の死を供養できなくなってしまっているケースがある)

「その人が死んだ意味や価値」ではなく、その人が生きた意味にこそ目を向け尊ぶ(その死を尊ぶのではなく、その生きて来た人生を尊ぶ)ことが供養なんじゃないかと思った。
死をしか評価され尊ばれない命、しかも他人にとって政治的な利用価値のある死という一点でのみしか存在意義を評価され肯定されていない命というのはなんとも悲しい(遺族すらその価値観における評価に供養を依存しているならなおさらだ)。
後世の人間が「死に方こそ特殊で短命だがその生きて来た人生は無駄じゃなかった」と思うこと、本人もそう思えることが一番の供養で愛情じゃないかと思える。
特攻兵なんて平均20歳前後だから自分の人生振り返って「生まれてよかった・生きてよかった」ってしみじみ思う機会はそうそうなかったかもしれない。でも特攻兵達だってきっと自分の生きた意義は心のどこかで感じていたと思いたい。たとえ短命だったとしても、自分にしか生きられないその人生は尊い。
少なくとも彼らの魂はきっと知ってると思いたい。

「生贄」が自分個人の生きる喜び(生きがい)を組織や社会に捧げるのと引き換えに、組織や社会によって死を崇拝され高く評価される(生贄はそれを名誉や救いとして認識する)という一面が古今東西の生贄のシステムにはあるのかもしれない。
古代人じゃないんだからそろそろ生贄的なシステムから卒業してはどうだろうか?
死の価値なんかに依存しないで生きた尊さにこそ目を向けられる社会は、たぶん平和な社会だろう。

サバイバー症候群

2017年2月22日 (水)

「国民主権」て知ってる?

国有地売却「ただ同然」 土地浄化に約1億3千万円負担
「安倍昭恵総理夫人」が名誉校長を務める神道小学校の国有地不正売却問題
“国有地格安払い下げ”の森友学園 幼稚園で虐待か
森友学園の幼稚園指導法、文科相「大阪府に報告求める」

最近、「日本国に忠誠を誓うべし」と日本に対する愛国心を提唱する宗教右派やそこと癒着した政権の政策(愛国心教育など)、あるいは政権と癒着した宗教右派メンバーが経営する幼稚園や小学校の不祥事騒動が話題になっているが、日本は国民主権国家なので、「国民として忠誠なる愛国心を注ぐべき対象」に当たる国家主権は国民、即ち自分達自身ということになる。忠誠心(誠意を持って尽くし時に臆することなく諫める心)の対象は自分の外にあるのではなく、まぎれもなく自分自身だ。
要するに、日本を含め国民主権を採用してる国ならどこも「国民一人一人が自分自身に誇りと誠意と責任を持つこと」が愛国心の一つの形になりうるというわけだ。これは、日本と自己同一化し日本を持ち上げ崇拝することで自尊心(自己愛)の代償行為にする(国家に自尊心を依存する)タイプの愛国心とは正反対の形の愛国心である。

となれば、宗教右派や閣僚の全員が宗教右派(日本会議)のメンバーである現政権が提唱・推進している「日本国に忠誠を誓うべし」ということは即ち、この国の主権である我々日本国民に忠誠を誓うということになるわけだが、彼らが日本国民に対して忠誠を誓っている様子は見えにくい。また、もし(政権と癒着している方の)宗教右派団体がこの国で本当に自らの愛国心を宣言した場合、「我が教団は日本国民の皆様に忠誠を誓います」と宣言することになってしまう。どんな状況だw
何でこんなことになっているのかというと、彼らは多分、国家主権の定義が国民じゃなくて政府(税金で運営され税金が職員の給料)だと思い込んでいるからではないか(だからこそ政府と癒着したがるのではないか)と懸念する。
主権を国民から自分達のもとへ「取り戻す(というか奪い取る)」ことが目標なのだろうかと妄想した。

我々日本国主権のお財布から支出するお税金から給料を得ているものの、主権者に対する忠誠心が見えにくくて頭が高めの政治家や彼らが集まって出来た政権やそことつながって甘い汁を吸っていると噂の宗教法人・学校法人が日本国主権に向かい上から目線で愛国心(?)を啓蒙するという超常現象が今起きているわけだ。
彼らは、我々日本国主権に向けて発する自らの愛国プロパガンダ(?)を通して「私達は国民主権の概念を理解していないor国民主権など無視している・受け入れない」と大声でアピールしている自覚が無い。

日本人なら義務教育の段階で全員知っている「国民主権」の概念を無視した奇妙な愛国心(?)を主張する人々。彼らの幻想世界では、母国が国民主権じゃない。母国がリアルの日本とは別の国になってしまっている。
(まさかとは思うが、本当に国民主権を採用してない(日本の義務教育を受けてない)別の国がリアルで関わってないだろうな?)←陰謀妄想w

この騒動、ネットでは暴露された時こそ組織的な擁護書き込みが多かったのだが、ある時点から突然批判する書き込みが急増していったのでちょっと仕込み的で演出臭いと感じてしまうのだが、それはきっと私の心が汚れているからに違いない。
(前時代的すぎて仕込み臭い宗教右派やそことつながった政治家・政権だが、彼らをわざとおだてあげ調子に乗らせて利用し、用済みになったらハシゴを外し人々に叩かせて自滅させる手口を使う謎の黒幕とかがいたら長編映画が作れそうだw)

以前の記事でも似たようなことを書いた覚えがあるが、改めて書く。
この国は私達主権者が卑屈だったりバカだったりすると国がダメになって主権者を直撃する。
私達が不幸だとこの国も不幸で、私達が良くなっていくとこの国も良くなる。
私達が自分自身に責任をもって自分や自分の人生を愛せるように生きれば、この国も責任をもって愛される国になる。

2016年12月 4日 (日)

最近の暴走事故で妄想

※以下に書いたことはすべて個人の妄想です

病院350m手前から直進、最後急加速か 福岡3人死亡

最近増えてるこの手の事故だが、てんかん発作や認知症的な運転ミスの他に、「遠隔操作(ハッキング)による意図的な制御不能」という事態も普通にあり得る。最近の車はAIを搭載しているから。
先日起きた秋篠宮家が乗った車の追突事故も、宮内庁が警備の見直しや増強を否定する発表が出た時、「遠隔操作による事故じゃないか」という妄想が浮かんだ。遠隔操作で車を暴走させるんなら現場の警備を増やしたって意味はないので、宮内庁の方針は妥当な判断だ。
福岡の事故も「ブレーキを踏んだが止まらなかった。(ギアを変えて)エンジンブレーキもかけようとしたが減速しなかった」という供述や呼気からアルコールが検出されていなかったという報道、そしてドライバーは認知症だという報道がされていない点などを見てまさか・・・と妄想してしまった。
11月以降、今回の暴走事故や秋篠宮家の追突事故の他にも、いくつかの暴走事故が起きている。東京都の板橋区や立川、栃木県の病院など。これらはドライバーがてんかんや認知症だったという報道は少ないか、ない。
そして、かつての暴走事故のように現場が古代結界エリアやそれと縁深い場所に集中している印象もない。中には福岡の事故同様、「ブレーキを踏んだが止まらなかった」とドライバーが供述しているケースもある。

以下は去年の記事。車のITセキュリティがいかに無防備で穴だらけかという内容。

ハッカーは遠隔操作で車を暴走させられる
BBCは22日、英大手セキュリティ会社がノートパソコンと簡単に入手できる機器を使って、車のインフォテインメント・システムに侵入できることを実証したと伝えた。カーナビやネット接続、マルチメディア再生などを制御するインフォティンメント・システムに侵入すれば、そこからさらにハンドルやブレーキを遠隔操作することも可能だ。

しかし、もし最近の暴走事故が遠隔操作がらみだとして、誰が、何のために? 
・・・例えば、高齢者による暴走事故の多発が高齢者の運転免許返上奨励という流れを作っているが、それで得をするのはどこだ?
免許返上で「足」を失った高齢者が頼りたがるもの・・・タクシーは高い。電車やバスで済ませることも可能だろうが、公共の交通機関は自家用車とは使い勝手が雲泥の差だ。
そこで私の妄想が思いついたものが、AI自動運転(やっぱり遠隔操作しやすい)により人件費がカットされた格安の交通機関、特に格安タクシーがあれば足を失った高齢者はわりと頼るだろうか、ということ。最初はそれぐらいしか思いつかなかったw

だが次第に気になることが出てきた、11月以降急増した暴走事故は、偶然にもドナルド・トランプ氏が米大統領選に勝利した直後(TPPが頓挫する見通しになった直後)から始まっている。これは単なる偶然か? 
(ついでに言うと、そもそも車の暴走事故が頻発するようになったのはここ数年。集団的自衛権とかTPP交渉などが進められていた時期と一致する。多分偶然だろうけどw)

もし偶然じゃなかったとしたら、こんなストーリーはどうだろう? (分かる人には事前に分かっていた)トランプ氏勝利からのTPP頓挫によって日本に対する自分達の要求が実現しなくなった何者達かが皇族すら標的にした遠隔操作による交通事故を多発させて「TPPが実現しなくても要求を呑め。こっちは誰でも事故死させることが出来るぞ」と日本に圧力をかけていて、圧力をかけられた日本はなりふり構わずに急いでカジノ法案を強行採決。カジノ法案成立が本来ならTPPを通して実現するはずだった何らかの要求を代替させる効果を持つ・・・とか・・・これもなんか少年漫画みたいだw
ただ、実際に日本のTPP加入とカジノ法案はTPPの「越境サービス貿易」という分野における交渉で密接な関係があった模様(カジノ新聞より)。日本がTPPに加入すればカジノを解禁せざるを得ない状況だったというが、肝心のTPPがお流れになってしまっても、カジノ解禁をやめるわけにはいかないらしい。

妄想ストーリーその2。
米TPP推進派は米軍産複合体(対テロ戦争ビジネス実施中)とも縁深いのだそうだ。テロの手段に無差別な車ハッキングを用いれば自爆テロよりも手間暇コストを抑えて同時多発的にいつでもどこでもいくらでもテロを実行できる。今後は自爆テロといったアナログなものではなく、サイバー領域を使ったテロが主流になるのかもしれない。アノニマスのようにバーチャルな世界でのみ活動するテロ集団が出てきてもおかしくはない。ITというものはもとより軍事技術から発生したものなのだ。
昨今メジャーになってきた「ほぼ素人によるホームグロウンテロ」の実験は2013年にボストンマラソンで行われた。同様に、車のハッキングによるテロの予行練習が日本(やはり2013年ごろから政権が軍産複合体に接近)で行われている可能性はないだろうか? 高齢化社会になり認知症や高齢者の運転が問題視されるようになった現在の日本ならば、高齢者の車をハッキングしても高齢ゆえの運転ミスとして誤魔化すことが出来る。持病を持った患者の車をハッキングしてもいい。この形のテロをタロットで表現するなら「戦車の逆位置」。
いつかテロがサイバー領域で行われるようになると、対テロ戦争ビジネスも従来のようなコストや手間暇を大幅に下げることが出来る。対テロ戦争用の防衛商品に鉄も火薬も燃料も必要なくなるからだ。商品の輸送もワンタッチで済む。当然、テロリスト側とビジネス側はグルで各国の政権(日本含)と癒着しているだろう。

・・・くだらない妄想はともかく、AI搭載車や自動運転車を含め、最近作られてる車は遠隔操作リスクが高いことは確か。車どころか、船舶や旅客機さえもだ。
そこで思う。近い未来、自動運転車が普及するようになったら遠隔操作犯罪にはどう対応するんだろう?
カフェで他人の無線LANジャックしながらコーヒー片手に要人を拉致したり暗殺したり手ごろなバスやトラック乗っ取って暴走テロできる(それを圧力にして個人が国家に自分の要求を押し付けることが出来る)時代になってしまいかねない。ITセキュリティが社会の生命線を握ることになる。万が一軍艦や戦闘機や戦車やミサイルが凄腕のクラッカーになら遠隔操作できてしまうようだったら、ITセキュリティ(の業界)が世界情勢の命運すら握る。
今後はIT業界がさらに成長して一層大きな力を持つようになるのかもしれない。
世界中の情報インフラだけでなく、世界中の交通インフラ(物流)さえも支配するようになる巨大多国籍企業(ISD条項が武器)なんてものが生まれたら、果たして国家は圧力に屈したり利権癒着の誘惑に負けたりすることなく主権を保つことが出来・・・ないだろうな。
もしそういう多国籍企業が生まれたら、社員や役員が各国の官僚や政治家になって好き勝手しそうだ。かつての米軍産複合体のように(というか多分それは軍産複合体だ)。
世界中の交通インフラと情報インフラを支配・掌握できそうな巨大多国籍企業と言えば、私もよく地図検索でお世話になってるあそこが真っ先に思い浮かぶ。地図やス○リートビューをAIに覚えさせることは自動運転車開発ともつながりうるだろう。ポケモンGOはゲームに熱中するプレイヤー達によって地図のデータ精度を上げたという。
情報インフラ業界と自動運転車を開発している業界の背後関係や出資元は気になる。
もしやその背後にいる何かは、既に世界の運勢を変えつつある?
などと、妄想は尽きない。とまれ、暴走するのは他愛もない妄想だけで十分だ。
ハッキングで暴走させることが出来る最近の車とその業界。課題は多い。

地球を取り巻く龍脈の運気が従来とは異なる周波数へと変動している昨今、もしもハッキングを使った「戦車の逆位置テロビジネス」なんてものがあったら、計画そのものの運勢が「戦車の逆位置(無謀・暴走・失敗・挫折)」と化しとん挫する可能性は低くない。

実際に車をハッキング(遠隔操作)する実験動画
ハッカーがプリウスをハッキング! 遠隔操作であなたの車をジャックされる危険性も

2016年11月16日 (水)

「世界支配者」達の切り札?

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

将来、奇しくも世界は国家元首が同じ意味の名前を持つ2つの大国が強い影響力を持つ運命になったかもしれない。その2つの大国とは、ロシアと、アメリカだ。
ロシア元首の名前は「ウラジーミル・プーチン」。将来元首になるアメリカ人の名前は「ドナルド・トランプ」。
ウラジーミルは「世界の支配者」とか「平和を支配する者」という意味で、プーチンは「道」を意味する。彼の名前の意味は、「世界支配への道」ということになる。
(因みに9月2日に日米首脳会談の場として選ばれたウラジオストクは『東方を支配せよ』という意味である。『世界支配への道』という名の元首が極東の島国と首脳会談する会場としては意味深すぎておそろしあw)
一方、ドナルドは古代ケルト語を起源とする名前で、こちらも「世界の王」とか「世界の支配者」という意味を持つ。しかもトランプは英語で「切り札」という意味である。
大統領選に当選したばっかりに、現在全米を阿鼻叫喚の渦に落としている人の名前が、「世界支配者の切り札」。しかもアメリカの鬼門が出身地というオカルトw

アメリカとロシア。かつて両者は権力と軍事とイデオロギーを「対立」させることで世界のパワーバランスと秩序を作り保っていたが、それも失われた。
そして今後は、大国である両者が手を握ることで成立する秩序が生まれて行くのだろうか? 冷戦中に突然両陣営が電撃的な和解をして二人三脚とかやり始めちゃったらもはや無敵だろうが衛星国やポチ国はずっこけるしかなかっただろうな・・・
2人の「世界支配者」達。その片方は切り札(ジョーカー)・・・などと中二病的妄想すると私が個人的に楽しかったw

◆無数の世界支配者達
混迷の米大統領選が終わり、世界や未来がどう変化するのか予想がつかなくて不安に感じている人もおられるかもしれないが、変に怖がる必要はない。
一人一人の運勢は、その人の魂が作っている。そんな様々な運勢を持つ沢山の人々が集まって国家が構成されており、国民の運勢やその傾向・特徴を反映して国家の運勢が作られていく。その国の国民一人一人が少しでも開運していくと、その国の運勢も開運率がUPする。国民一人一人が幸せになっていくと、国民の集合体である国も幸せになる。運勢的な視点だと、国の幸せと国民の幸せは本質的に両立するもので、国家のために国民の幸せを犠牲にすると、国の運勢は低下してしまう(国家じゃなくて特定の政権や利権層はそうやって美味い汁を吸うかもしれないがw)。
結局、世界の運勢を支配するのは、その世界を構成する無数の人々(=私達)なのだ。私達はある意味で、「この世を司る八百万の神々」ってわけだ。

自分の人生や未来は自分の運勢が作ってるので、政治家や社会情勢・世界情勢に人生を変えてもらおうと期待することは自分や運勢の創造性・可能性を否定・抑圧してることでもある。
政治家や情勢に自分の人生や未来を期待する(=依存する)ってことは、その政治家や情勢を作り出す黒幕に未来や人生を自ら支配させるってことでもある。だからこそロックフ○ェラーとかおソーメン無料サービスとか電飾みたいな名前の秘密結社(?)が力をつける運勢になりやすいのかもしれない。
依存と支配は同じコインの裏表。自分の運勢や人生や未来というものの認識を為政者や黒幕や国家とは独立・自立した認識で生きることで、運勢や人生や心はどの国や組織の支配も受けず、己の主権を回復する(生き方をつくる発想の自由を取り戻す)ことが出来る。十二国記風に言うと「自らが王になる(王国を人生や運勢に例えた場合)」 というやつ。

「世の中を変えたければまず自分を変えろ」という言葉は一理あると思う。自分自身や自分の運勢を変えることが出来れば、世の中全体を変えよう(世の中全てが変わってくれないと自分の人生は変われないにちがいない)と思い込むことはなくなる。世の中(の運勢)を変えるよりは、自分一人分(の運勢)を変える方が手間がかからないし、「自分のために世の中を変えようとする独裁者」にならなくて済む。
世の中を変えたい人が国家元首か何かで、問題のある世の中を変える方法が思いつかなくて行き詰っている場合でも、やっぱり自分自身や自分の運勢を変える(開運する)ことが出来た方がなんかいいアイデアが湧く可能性は上がるかもしれない(妄想)。

ベーリング海峡をはさんで並び立つ「世界支配者」達。片方は「切り札」・・・彼らを器として生まれてくる世界の運勢は、我々一人一人の運勢が持ちうるどんな傾向や特徴を反映したものになるのだろう? その有様を見て、内省や反面教師として活用し自分の運勢を作っていく上で役立てることができるといいなと思う。
このブログでは、人々を開運に導く力を仮に「個人レベルの地母神(個々人の魂にある環境インフラ・開運機能)」。と呼んでいる。そのうち一人一人が開運していくことで人々の集合体である社会や国の運勢をも開運へと変えていくとしたら、まさに色んな意味でホントに「革命」。

革命と言えば、アメリカの鬼門(ドナルド・トランプの出身地)に今日も鎮座し人気の観光スポットになっている女神像がある。ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」にも描かれている母性を持ったあの女神だ。ドラクロワの絵が題材にした革命は弱肉強食で血みどろの革命(革命リーダーが『自分のために世の中を変える独裁者』になる率が高く、革命参加者の心は自分の人生や将来を革命リーダーに依存し支配されている=生き方つくる発想が自由じゃない)だが、先述のような意味での「革命」へと民衆を導く「自由の女神」がいたら、それはまさにこのブログで言うところの「地母神」だ。
ドラクロワの国から独立のプレゼントとして贈られてアメリカ鬼門に建つあの女神像は、そういう意味での「革命」を導く「地母神(一人一人に内在する)」の象徴に変身できる日は来るだろうか?



魂の環境インフラ
←人間が持っている開運機能について
運勢の神業←人間が持ってる開運機能の神業について


ウラジーミル・プーチン氏占ってみた

ドナルド・トランプ氏占ってみた

2016年11月10日 (木)

米選挙を振り返って

※以下に書いたことはすべて個人の妄想です。

トランプ支持を大っぴらに表明できなかったインテリ白人男性の現状を明かすルポを見つけた。そのルポの前半で、行き過ぎた(というよりもはや悪用された)ポリティカル・コレクトネス(一番下に解説)の風潮に対し「自分が矢面に立って差別主義者のレッテルを貼られたらこの国ではまともに就職できないよ」というセリフの下りが印象に残った。「差別主義者」の部分をイスラム過激派にしても通用するし、国を変えれば同性愛者にしても通用する。時代が違えば共産主義者でも魔女や異端者、異教徒でもいけるw そう。全部差別対象になったもの。最近では「差別主義者と見なされた人(差別主義者とは限らない)」が差別と迫害の対象になるようだ。
従来の差別と迫害を抑圧する代わりに別の形の差別と迫害で代用するかのようなポリティカル・コレクトネスの暴走(悪用?)が社会に蔓延する原因にアプローチした方がいいかもしれない。そもそも不寛容で厳格な一神教のマニュアルを土台にした思考・習慣・価値観が何世代も連鎖した歴史を持つ欧米。そんな連鎖自体が不寛容な思考パターン癖を集合無意識レベルで作ってしまっている可能性も。それが中世の異端者狩り・異教徒狩りのようなポリティカル・コレクトネスの暴走(悪用)にも反映されてる?
現在の米国の差別文化・差別欲求において、差別の対象が一神教文化圏の人々になることが多い傾向にあるのは意味深だ。同じ文化圏同士、お互いの集合無意識下にある「不寛容さ(差別の原因にもなりうる)」が合わせ鏡となって映し出され共鳴しあっているのか?
どうやらアメリカでは過剰なポリティカル・コレクトネスを使って差別の風潮(差別の欲求?)を表面上は押さえつけることに成功した反動で、差別主義者(あるいはそのレッテルを貼られたり言いがかりをつけられた誰か)を差別する代償行為的な文化が生まれているようだ。
(因みに選挙戦に勝ちたくて過激な発言をしたトランプ氏だが、個人的には本気でイスラムヘイトや移民ヘイトに基づく政策をするとは思わない。口先だけじゃないかと思う。トランプ氏が大統領となって国として人種差別を容認or推進するというデマを流しているのはリベラル寄りのマスコミの方で、それを真に受けた一部の人達がトランプ当選で差別の大義名分を得たと勘違いして移民や黒人やイスラム教徒に危害を加えるなど、トランプを自己正当化の言い訳にして暴走している印象)

以下、件のルポトランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情 より一部抜粋

ハーバードを卒業した白人男性は、「僕らは自分の意見を自由に表明することができない」という。ポリティカル・コレクトネスが行き過ぎた現在のアメリカでは、白人男性であることはむしろ「原罪」なのだ。
努力して好成績を修めても、「優遇されてるからでしょ」と批判されることもあるという。
下手に反論すれば「差別主義者」のレッテルを貼られてしまう。
ケヴィンも酔った席での戯言を除いてオフィシャルにトランプ支持を表明することはない。
ポリティカル・コレクトネスが何より重んじられるアメリカ。
インテリ層がこれを間違うと大変なことになる。信用を失い、名誉を失い、将来を失う。

為政者にとって寄り添うメリットが無いか少ないマイノリティーを犠牲にする・無視する形の政策を決めるために多数決を使うと、必然的にマジョリティーが勝つので多数決が弱肉強食の道具にしかならなくなる(為政者に好都合な結果となるだけで時に人道的ですらなくなる)。
「トランプ支持者は皆レイシスト」というレッテルを張り差別することで自分と異なる候補の支持者層をある種の被差別マイノリティー化させて多数決(投票)で勝つ作戦は失敗した。なぜなら、トランプ支持層の多くはピラミッドの下層にいるのでもともと数が多く、マイノリティーになりようがないから。実際、マイノリティーじゃなくてサイレントマジョリティーになった。

多数決ルールが整備されてなかった時代は政治の世界の弱肉強食手段がもっとえげつなくて殺し合いとか脅迫とか暗殺とか普通にあったから多数決を発明したことで政策を決める手段としては「まだマシになった」というレベルなのだろう(今でも時々死人が出るけど)。
そもそも弱肉強食発想で社会の在り方やルールや問題解決方法を決めていったらどこかが犠牲になるのは当たり前で、いつまでたっても社会に弱肉強食の争いと犠牲は減らないし無くならない。マイノリティー(社会的弱者)という存在もなくならない。
高度な政治の議論に見えたものが、フタを開けたら「どこを犠牲にするか」で利害対立し大喧嘩してるだけだったりする。
かつて(今も?)のマイノリティー側。その一部が行き過ぎたポリティカル・コレクトネスや「差別を受けた」という事実を盾にして(時に悪用して)誰かやどこかを攻撃したり、逆差別したり、差別利権作って台頭したり、対抗勢力に差別主義者のレッテルを張って差別や攻撃をすることで相手を被差別マイノリティー(かつての自分達と同じ弱い立場)にして社会の中で支配力を増していく現象がその証。

弱者はいつまでも弱者とは限らない。強者はいつまでも強者とは限らない。当たり前のことだが、弱肉強食の世界も諸行無常。差別と迫害に甘んじていた者達は、生き残るために強くなり力をつけて、いつの間にかその一部は迫害者になっていることもある。キリスト教だってそうやってのし上がった。
強者にのし上がった元弱者もまた、いつかは別の強者に負けていく。
もしかすると、「迫害してきた者にいつしか迫害される」というカルマ的な運勢ってのがあるのかもしれない。立場の弱い自分達を守るために「迫害者の側になる」というやり方も考え物だ。また迫害されかねないから。

(11.21追記『一部のポリコレ暴走現象は、リベラル叩きをしたい勢力が世間をポリコレというリベラルの作った風潮にうんざりさせる意図でわざと演出しているケースもある』という噂と、『トランプ当選に差別の大義名分を得たと勘違いしてマイノリティへの差別や危害をあからさまにやっているのはトランプをイメージダウンさせたい勢力が意図的に行っている』という噂を聞いた。真相は不明だが、いずれにせよ差別というものがパワーゲームの道具になっている面はある気がする)

ポリティカル・コレクトネスとは(ここから抜粋)

特定の言葉や所作によって差別的な意味や誤解が含まれないように、政治的に(politically)適切な(correct)用語の使用を是とする態度のこと。政治的妥当性。「PC」と略される。西洋的な白人男性中心主義とマイノリティの価値観が衝突し、さまざまな社会的問題が露呈したアメリカで前景化した概念

おまけ:TPP大筋合意占ってみた

2016年10月 9日 (日)

残酷な罠

日弁連、「死刑廃止」を宣言 賛成は7割弱、反対意見も
「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さん発言に犯罪被害者ら反発

かつて、「死は感情を満たす道具?」という記事で死刑制度と大衆心理について問題提起したことがある。
そのテーマに対し、社会はより本格的に向き合う必要に迫られていると感じる今日この頃。
失った悲しみを癒したい、前向きに生きるため区切りをつけたい、愛する被害者の恨みを晴らしたい、あまりに可哀想な愛する被害者の仇を討ってやりたい、失われた命の対価(代償)の支払い(=償い)を求めたい、犯人を同じ目に合わせたい・・・死刑を望む動機は様々だけど、多くの場合、心や感情を満たす欲求が動機になっていることが多い。
「死刑があると社会の秩序維持に便利だから」といった事務的な発想から死刑制度を支持する人は多分それより少ないだろう。

非常に酷な言い方だが、要するに、【感情を満たすために人の命を奪う手段を望む】という点で犯人の心理と被害者遺族の心理が一致してしまうケースすらありうる。場合によっては凶悪事件に感情移入して怒りのあまり犯人の死刑を感情的に望む大衆や裁判員の心理とも一致しうる(裁判員に至っては、自分の感情的動機で死刑判断をしてしまうと、後でトラウマになってしまうリスクさえある)。
だが少なくとも、被害者遺族は決して人殺しが好きな人種ではない。憂さ晴らしや感情的動機で人を殺す手段を選ぶなんて言語道断だと普段は思っている。
ただ、犯人が殺されることにしか癒しや救いを見出せない状態に追いやられ、その苦しみと悲しみのあまり、やむにやまれぬ状態になっているとは言えそうだ。

そう。刑法とは別個に、「被害者遺族をケアする仕組み」がこの国には全く存在しないのだ。
いわば被害者遺族のケアを死刑制度で代用しているようなものだ。その結果、多くの人々の頭の中で「死刑制度」と「遺族へのケア(いたわり)や救い」の2つが混同・同一視され、すり替わってしまってさえいる。何とも残酷な罠に落ちたものだ。
その現状では、死刑制度の廃止は被害者遺族への配慮や労りをやめることと同義になってしまう。これ、被害者遺族達がすごくそう感じてらっしゃるようだ。
だから「どうか見捨てないで・私たちを救って」と声を上げる。2つを混同させる罠の中から・・・

犯人逮捕から死刑判決という「ケア・救い」が実現するまで平均すると10年近くかかるという。最悪の場合、「罠」に落ちたせいで被害者遺族達は、救いが訪れるまで10年も苦しみ続けなきゃいけないことになる。

社会は愛する者を無残に殺された被害者遺族の苦しみを救うことは出来ない。でも、彼らが自ら立ち直っていく意志を持ってるとき、支援することは出来る。カウンセリング、セラピー、認知行動療法・・・死刑よりも効果のあるケアは色々ある。
個人的には、死刑制度よりもそっちの仕組みを充実させた方がいいんじゃないかと思う。例えば犯人が塀の中で働いて遺族ケアの資金を稼ぐ仕組みがあると合理的だし犯人が自分の罪(自分が傷つけた相手は被害者だけではなく遺族を含む)を自覚し反省を促す上でも多少効果はあるかもしれない。

少なくとも、死刑制度というものを「被害者遺族の救いとケア」を混同・同一視・すり替えた上で議論するのは筋違い・お門違いな気がする。
今騒動になってる死刑制度反対派も支持派も、もはや自分の感情を満たすための感情論に終始していて、もはや死刑云々・遺族の気持ち云々とかいうのはどうでもよくてただの勢力争いになってるんじゃあるまいな? などと妄想した。

似たような心理テーマ:いじめっ子を憎む心の落とし穴

2016年9月 9日 (金)

自我境界が未発達な国民性4

※以下に書かれていることはすべて個人の妄想です。

◆ライフスタイルの変化にDNAが対応しきれない?
よく「日本語は主語が曖昧だ/主語の省略が可能だ」と言われている。確かに英語や中国語の方が日本語会話ほど主語を省略するケースは少ないように見える。
日本人は異民族や異国との接触が極端に少ない上での村社会(しかも江戸時代は自由に行き来することが許されていない。特に女性)という環境下で生まれてから死ぬまで同じメンバーと共同生活するライフスタイルを何十世代も積み重ねてきたことにより、家族並みに共有事項が多い相手としか交流する機会のない人々(赤の他人や初対面の人間と会話する機会が一生無い人々)が無数にいた。しかも、つい150年ほど前まで。
そのような他国に類のない特殊な環境下で発達したのが言語とコミュニケーションのあり方が独特になるのは当たり前だ。まさにガラパゴスである。それ自体は別に悪いことじゃない。

そのような「共有事項の多い限られた相手としか交流する機会がない」特殊な環境下で気の遠くなるような歴史を生きてきた種族達(=日本人)は、自我境界(自分と他人を分けて意識すること=他人と異なる独自存在としての『自分自身』を意識すること)をしっかり強固に確立させ維持する必要はなかったはずだ。すなわち、自我境界をしっかり発達させる(自我を育てる)必要がなかったのだ。
その世界では、お互いを自我の延長にしあえる。ライフスタイルを共有している者同士は常識や価値観や意見も共有しやすい。生存に必要な物事の優先順位がほぼ同じになるからだ。お互いに自分が相手と思考や自我を共有しているように錯覚しやすくなる。この錯覚、当然同意見だと思っていた相手が実は自分と違う意見や考え方だと判明した場合、相手から自分の思考や自我を否定されたように錯覚してしまい『裏切られた』と被害妄想や逆恨みに陥ったり必死で相手に自分の意見を押し付け同意させようとする(同調圧力をかける)心理の原因にもなる。

考え方(価値観や利害や意見や常識etc)が自分と一致しない(=自分の期待や予想通りに動かない)相手を自分(が属する集団)の考え方に一致させる=自我延長にすることでコントロールし対立を解消したり自分を守るやり方、すなわち同調圧力を使った対立の解消方法は極端に自我境界の低い村社会(赤の他人が存在しない)でしか効果が見込めない。極端に閉鎖的な村社会以外の世界では、そもそも「同調圧力」というもの自体があまり効果を持たないのだ(そこでトラブル回避のために発明されたのが『契約』という概念)。

そんな背景が複合的に合わさった結果、日本のガラパゴス的村社会では皆が自然と横並びで、人々皆が平等どころか均一になり、全員が均一であることを前提にした同調圧力を用いた(依存した)社会秩序の維持が行われてきたために、「皆と(自分と)同じでない=同調圧力が効きにくい=秩序維持を妨げる因子=悪or関わりたくない」という刷り込みがDNA及び集合無意識レベルでインプットされてしまった。
(江戸や京都、大阪など人口が多い都市部は多少事情が違ったかもしれないが、つい150年ほど前まで日本人は大部分がガラパゴス的村社会で生きていた。大陸の村社会以上の閉鎖性だ)
日本人が自我境界未発達な国民性である(しかも比較的個人差が少ない)のは、ごく当たり前の、自然ななりゆきだったわけだ。「国民性がコミュ障」ともいわれているが、アレは障害ではなく単に「コミュニケーション能力を発達させたことがない(発達させるニーズが今まで存在しなかった)」だけだ。ゆえに無意識下に眠る潜在的なコミュニケーション能力の存在に無自覚でさえある。
日本人の近代自我(自我境界)の発達度合いが欧米基準で見ると12歳レベルらしい(言い出しっぺはマッカーサー)のも、そんな背景があるのだろう。

「冬に大荒れする日本海と広大な太平洋で大陸と隔てられてきた山がちな島国」という自然条件のみならず、江戸時代に入ると「幕府によって国内の自由な行き来すら制限され村の外に出る機会が少ない」という人為的な条件が加わり、ある意味では(半ば人為的に)絶海の孤島に監禁されたような状況が数百年続いたある日、「黒船」がその監禁部屋に突然乗り込んできたわけだ。まさに未知との遭遇。そして強制開国。
「開国」して以来、赤の他人や初対面の人間と一生会話しない人が大半という状態だったのにいきなり色んな異民族や異国との接触が増え、異なる地域へ自由に行き来が出来るようになって異なる出身地・異なるライフスタイル、異なる常識や習慣の人々とやり取りをするようになると当然事情は大きく変わってくる。もはやガラパゴス的村社会のやり方では社会も生活も成り立たない。初対面の人や赤の他人とのやり取りは避けて通れない。
その急激な変化に、150年経った今でも日本人はなじみ切れていない。「皆と違う=自分と同じになってくれない=悪or関わりたくない」というDNA/集合無意識レベルでの刷り込みは今なお続く呪縛となり、未だに苦労する人達がいる。村の外を知らなかったかつての村人のように、赤の他人や初対面の人間とどうコミュニケーションしていいかわからず混乱したり怯えたりして貝のようになる人、相手に対して強引に(必死に)同調圧力をかけてくる人は未だにいる(というか多分増えてる?)。
よくそんな状態で異国と戦争する気になったと思ったが、むしろ異質なものに対する拒絶反応(異質=悪)があったのかもしれない。

◆自問自答≠他人との会話
他者と会話をするとき、つい主語を省略する癖があるor主語がすぐに出てこない人は、自我(コンテキスト)を共有してない相手(=他人)に物事を伝えることが苦手で、相手と記憶や経験や(時には自我さえも)を共有している前提で会話する(自問自答に近い会話をする)癖を持っているケースがある。
ひどいと5W1H全部が省略され、すぐに出てこない場合もある。もはや単語だけ。長いこと共同生活をしていればある程度はそれでも内容が伝わり会話が成立するが、全ての人間とそのような会話が成立しうるわけじゃない。
占い師と客の関係(特に初対面)だってそうだ。だが、クライアント(相談者)側がそのことをつい忘れてしまったり、とっさに理解できなかったりする事例は占いをしている人になら多かれ少なかれ経験があると思う。

自問自答する場合、自分に対して主語を明確にして物事を説明する必要がない。自分自身とは主語も経験も記憶も(5W1Hも)共有しているので述語や単語のみで自問自答できる。
どんな時でもついうっかり自問自答に近い会話をしてしまいがちな人、主語を省略する癖が強い人は、「自問自答に近い会話でコミュニケーションが成立する環境下で生きたご先祖様が特に多い」のかもしれない。

しばしば相手が自分と自我を共有してない「他人」であることがとっさに自覚できなかったりすぐに忘れてしまう人は、会話の相手が他人であることを前提にした会話が苦手で自我境界が脆弱かつ未発達であることも多い。
主語をはじめ、様々な「他人との会話では欠かせない」前提や説明を無視したり省略した話し方をした結果、相手が自分の話を理解できなかったり主語が何なのか説明を求められたりすると「理解力がない」と不満を持ったり逆ギレするタイプは特に自分と他人(自我と自我でないもの)を識別する能力が低く、自己と非自己の識別が苦手であるケースは多い。
ということは自分自身(己の自我)を認識(自覚)することも苦手。あらゆる相手(他人)に対してそのような状態になる人もいれば、自分の子供に対してのみそうなる人もいる。自我境界が脆弱ということは自我を認識し自我を保つ力も弱いということだ。自分の個性と可能性に無自覚ともいえる。昔はそれでも全く問題がなかったから発達させる機会がなかったが、今はそうではない。自我境界を発達させる機会もニーズも沢山ある。

日本人は自分と他人の「同じ部分」に注目する傾向があるが、自分と他人の違いにあえて注目し、そこから
「他の誰とも(どれとも)同じではない独自の存在である自分」
「そんな他の誰とも(どれとも)同じではない自分独自の記憶と経験と5W1Hを世界で唯一自分だけが今日も積み重ねている」
「自分と相手が違うからこそ、相手が自分には発想できない視点や言動や話題で自分に新鮮な刺激を提供してくれる。相手にとっても同じこと。お互い『違ってくれてありがとう』と言える」
ということに意識を向けたとき、自我境界は一層発育を促されるのかもしれない。
自我境界の発育は自分を発見していくことでもある。自分という唯一無二の個性と可能性の発見は、自分にしか味わえない喜びや豊かさを人生にもたらしてくれる。
もしも日本人のレベルが12歳(小6~中1)なのだとしたら、まずは一歩進んで中2病を目指してみてはどうか?
中二病の有効活用


【余談】
日本ではよく「世間様」という概念で社会を個人よりも上位に置く伝統的傾向がある(例の自我境界を低く保つガラパゴス的村社会を支配してた時代の名残?)。己の思考や意志や価値観(=自我の動き)を、少なくとも表向きは世間様と一致させなくてはならないという強迫観念もある。しかし現代日本が採用している社会システムにおいては、社会と個人はどちらが上でどちらが下かということはなく、対等である(ここ大事)。
日本は社会=世間様が個人より上で欧米は個人と社会が対等に戦って勝敗を積み重ねている感じだ。個人側が勝つと社会から権利を勝ち取ることが出来るが、時々マイノリティ・ファシズムのような様相を呈することもある。昔は血みどろの戦いになってしまったこともある。

個人と社会の関係。肝心なことは、両者が互いに相手を対等な存在としてしっかり尊重し合えるかどうか、ではなかろうか。そういう意味では社会と個人の関係も個人と個人の関係も円満さに必要なことは本質的に変わらないのかもしれない。
互いの関係に優劣や貴賤や強弱や上下の概念を当てはめず「対等に尊重し合う」ことができるかどうかが個人も社会も円満であるためのカギ(の一つ)と言えそうだ。
(古今東西、人類はこれが苦手だ)

人々が個人間で互いに己のエゴを押し付け合う弱肉強食の戦いの関係を作りがちなら、社会と個人の関係も戦いの関係になりやすい(大規模にヒートアップするデモやストライキなど様々な闘争的社会運動、そして最近注目されているマイノリティ差別vsマイノリティファシズムの葛藤もその一例か?)。
あるいは、社会のエゴが個人を犠牲にして当然とする(ないし個人が社会のために自らを犠牲にすることが美徳であると教育し忍耐と泣き寝入りを意図的に混同させる)高圧的な社会になったりしやすいだろう(これ、「社会」を「組織」に置き換えても同じことが言えそうだ)。

人々が人間関係を作る上で、自我境界をしっかり作った上で自分とは異なる自我と人生と可能性を持つ相手を互いに認め尊重合う(可能なら活かしあう)関係を作り慣れているかいないかが社会の有り様に大きく反映しているのだろう。

自我境界が未発達な国民性3

2016年7月29日 (金)

障害者19人殺害事件で妄想

※以下に書いたことは全て一個人の妄想です

LINEで友人に“障害者は人間ではない”

植松容疑者は今年2月17日、親しい友人に対し、無料通信アプリ「LINE」を通じてあるメッセージを送っていたことが分かった。そこには「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障害者は果たして人間なのでしょうか?」「人の形をしているだけで、彼らは人間ではありません」(原文ママ)などと書かれていた。

ごく当たり前のことを言うと、障害者とその周囲やご家庭が不幸であるかどうかなどケースバイケースであって十把一からげに決めつけることなどできないし、もし不幸になってしまっているのであればそのような不幸をもたらす事情や条件や原因が必ずある。そこから目を背けて盲目的に「不幸なのは障害者というものがこの世に生まれてしまうせいだ」と決めつけヘイト・攻撃するのは問題解決よりも憂さ晴らしを優先する発想だ。メンタリティーが中世とさして変わらない。
「身内に障害者を抱えると家族や周囲が不幸になってしまうことが多い社会の仕組み」を改善するにはどうしたらいいか、どういう条件や事情が重なると不幸になりやすいか、どういう条件や事情が重なると不幸になりにくいのか、という発想を全く思いつかない視野の狭さが、問題解決能力を極端に抑圧している。

「障害者は社会の役に立たないからその命に価値が無い。生きる資格が無い。その命は存在を許されない」という論調はこの事件の犯人のみならずネットでちらほら見かけることがある。

この発想を持ってしまう人は、自分でも気づかないうちに巨大な落とし穴にハマってしまっていることに気が付いていない。彼らはいつの間にか、「人間のために社会が存在するのではなく、社会のために人間が存在する」と本末転倒、主客転倒の思考回路に囚われてしまったことで自分という生命存在さえも「社会のための道具」という扱いをしてしまい、自ら生命の尊厳を否定してしまっていることに無自覚だ。

自分の命に対して「自分自身にとっての存在価値」を感じることができなければ、代わりに社会や他者から己を評価してもらう(利用価値を認めてもらう)ことで代用する心理が生まれるかもしれない。
このような自己肯定の代償行為を社会にベッタリ依存していると、「社会の役に立つ(社会にとっての存在価値=利用価値・メリット)を認めてもらう」ということだけが自分で自分に命の価値や尊厳を認定させる根拠・条件になる。すると、必然的に「社会の役に立たない者=社会がメリットを見出さない者」は生命の価値や尊厳を認定するための根拠や条件が欠落した者(=生命の価値や尊厳が認識されない者)という発想に陥るのは簡単だ。

自分の命に対して「自分自身にとっての存在価値」を感じることができないということは、裏を返すと「自分の生きる喜びを感じることができない」ということでもある。

自分自身では命であること(生きること)に価値や意義を感じることができない。だから外部(世の中)の誰かや何かに価値や意義を認定してもらう・・・
最近はそういう人が増えていったからこそ、「社会のための自分」という外部評価依存の意識から派生した「社会に役立たない(評価されない)命は尊くない」という発想がネットに散見されるようになっていったような気がしてならない。
日本人はいつから自分(人間)の命が「社会のための存在」だと思うようになっていったのだろう?

人間自身が己の利便性のために社会を作ったということを忘れ、社会自身が己の利便性のために人間を存在させている(利便性のある命だけを容認・飼育している)という発想に逆転してしまうのは、自らを「生命の尊厳が保てないほど卑屈な奴隷」にしてしまった証かもしれない。まるっきり古典的なSFの世界観そのものだ。
もしかするとこの事件の犯人自身、「自分の生きる喜び(自分自身にとっての自分の命の価値)」を感じることが出来なかった経験を持っているのかもしれない。そして、自分と似たような心理を抱える層にとっての「英雄」になることで生きる喜びや自己肯定感に飢えた心の空虚さを埋め合わせようとした?
・・・などと妄想した。

果たして「生命」という自然界の存在が自然界の都合ではなく「社会に役立つため」に社会の都合で誕生し生命活動をすることなどありうるだろうか? 自然界が社会の都合に合わせて存在する・動くことなどあっただろうか?
そもそも、生命(=自分)というものが社会ではなく自然界に属する存在だということを一部の現代人は忘れていないか?
 「先天的障害」という自然現象に対して「社会にとって不都合だ・社会にとってメリットが無い」という理由で(社会を自然現象に対応した社会作りを一切模索することなく)激しい憎悪と恨みを抱いてしまう背景にも人間(自分)が自然界に属する存在でありその存在自体が自然現象であることをつい忘れてしまったことが関係しているかもしれない。
人間(生命)と社会の関係が主客転倒するとろくなことがない。

就活自殺の増加
出産する理由と背景についての極論

試しに中二病になってみると自分にとっての「生きる喜び」を実感しやすくなるかもしれない。
(既に中二病を持っているがゆえに犯人を支持してるんなら話は早いw ぜひ己の中二病をこじらせず有効活用してほしい)
中二病の有効活用

2016年4月22日 (金)

変動が浮き彫りにする経済のひずみ?

※以下に書いたことは一個人の妄想です。無知ゆえにトンチンカンな暴論になっている可能性があります。
基本的には「心の飢えが本当の飢えを招く」といった今まで書いてきたこととかぶる内容で、個人的に頭を整理するための覚書として書いたものです。

◆被災地の有様から連想したこと
九州の被災地では水龍(風水用語で、金運を司る龍脈に相当。金運や豊かさを運ぶ機能を持つもの。河川や橋、道路、線路など、物資を運べるもの全般が水龍となる)がまともに機能していないために物資(豊かさ)の流れが正常に機能しなくなった結果、食料が足りない避難所と食料が余って期限切れになったオニギリを捨てる避難所が出るなど「豊かさの偏り(格差)」が発生した()。
物資(豊かさ)は確かに十分存在するのに、必要な場所に必要な量が行き渡らない。これは現代経済のひずみの象徴に見える(幻覚)。

九州の地震でも、311の買い占めパニック(飢えの恐怖による奪い合いで本当に飢えを産む)同様、現代文明のひずみを象徴的に表す現象が発生したと言える(妄想)。
その社会や文明に大きく影響するほどの運気変動をもたらす災害時には、その社会やその文明が抱えている問題点が如実に表れやすいのかもしれない(今後もそのような現象が起きる可能性はある)。
現代文明は飢えの恐怖を原動力にした奪い合いの経済システムなので、需要(シェア)も供給も雇用も奪い合っている。奪い合って勝たないと豊かさが得られない。飢えてしまう。
飢えの恐怖を原動力にした奪い合いの経済システムは、「飢えないように行き渡らせる」という機能をまともに持つことが出来ない。奪い合うから行き渡らない。潜在的な豊かさは確かに存在するのに、必要な場所に必要な量が行き渡らない。
行き渡らせようにも、行き渡らせるための正常なシステムが存在しない。行き渡らないから、やっぱり奪い合いになってしまう悪循環。かくして世界の金運は滞りまともに機能しなくなってあちこちで飢えた避難所のような場所が生じる。
人類史がこの悪循環から抜け出せなかったのは、「奪い合いに勝つこと(奪って生き残ること)」を優先し行き渡らせるシステムを作るまでの余裕がなかったからだろうか。
「奪い合いにかまけなければ、そもそも飢えは発生しなかった」という事例、「行き渡る仕組みがあればそもそも飢えや格差や奪い合いは起こらなかった」という事例。この二つは、この国の龍脈変動が教えてくれた地母神にかかわるひずみなのかもしれない。

◆過去の習慣や固定観念から抜け出せてない?
人類が経済を推し進めてきた原動力はハングリー精神、即ち飢えだとしたら、飢えを原動力に依存したシステムは飢えを手放すことができない。結局、飢えに依存してるから飢えから離れられない。
かつて生産力の乏しかった時代は、「行き渡るほどの量が作れず結果的に行き渡らせる仕組みを作れず奪い合いになってしまった」という問題が確かに出やすくしかも乗り越えにくかったかもしれない。
だが今は、そんな問題はとうに解決できているほどの生産力を人類はとっくに手に入れているわけだ(むしろうっかり生産しすぎて売れずに飢えてしまうほど)。後は行き渡らせればいい。
何も昔みたいな生産力が低かった(行き渡らず飢えを抱えていた)頃の前提で文明や経済システムを考える(営む・作る)必要などとうにないのだ。新たに行き渡るシステムを作っていいし、作れる。
我々はいつまで自分達が無人島で遭難したようなひもじい状況にある(生産力が不十分で行き渡らない)と思い込んで生きていくのだろう? いつまで無人島で遭難していると思い込んでるんだろう? いつまで無人島で遭難してた頃の仕組みとルール(共食い的)を採用し続け縛られているのだろう?

目の前には自由に使える広大な畑も作物もキッチンも運搬機能も十分ある(飢えずに生きる自由な生産力と行き渡る力が十分ある)というのに、遭難し飢えてる前提でしか頭が働かないからそれらを有効活用できていないし有効活用できてないという自覚すらない(だから飢える)。まるで、長年塔に監禁されていた人が扉が開いたのに長年の癖と固定観念と異常環境への順応で状況変化が理解できずに外へ出ようとしない(外へ出てもどう生きればいいかわからない・自由な生き方を忘れた)まま塔の中で引きこもって暮らしているみたい。

生産力がなくいき渡らずひもじい環境を前提にした共食い型経済システムでは飢えの恐怖を原動力にしてしまうのも無理はない。生き残るために独占し争い共食いをするのも無理はない。独占ありきで行き渡らせる発想がなく生産力を生かせず飢えるのも無理はない。飢えをしのぎ奪い合いの戦いを有利にするために人々を大量消費(生産のための大量消費)へ促すのもあり得なくはない。
ひもじくなくなったことに気が付かない・封じられた自由な生産力と行き渡る力(=豊かさの力)に気づかず生かせず飢えを改善することができない現状。そこに目を付けた一部の者達が、自由な生産力と行き渡る力を人質にとって支配し人々を飢えの恐怖で縛り付け支配した結果、人々はぶら下がったニンジンを買うために働き続ける馬車馬にされてしまった。その馬車馬達も、ニンジンを求めぬロボットが大量生産されれば用済みだ。

◆封じられた豊かさの力を解放するには?
人類が己の中に秘められた「自由な生産力と行き渡る力」という豊かさの力(これも地母神)に気が付き人質から解放させれば、消費のための適度な生産だけで十分に行き渡るから環境への負荷も減る。強迫的な大量消費が必要なくなる。
「豊かさの力」さえ人質から解放されれば、地母神は蘇るかもしれない。行き渡るのだから独占することも奪い合うこともないわけだ。
ただし、それを実現するには生産と流通と消費のシステム(=経済システム)を誰にも支配・独占させたり人質にさせないようにしなくてはならない。人類の精神性がそこまで成熟できているかどうかがポイントだ。飢えの恐怖をそのまま転用・変換した欲望に取りつかれている(まだ飢えの恐怖に取りつかれている)ままだったり、(飢えをしのぐための奪い合い・共食いを起源とする?)弱肉強食発想から人々の大事な豊かさの力を人質にして(弱みを握って)征服欲や支配欲を満足させる衝動に取りつかれている者がいるうちは実現できない。
(BIにしたって美辞麗句で人々の豊かさを掌握し人質にとって全員を支配・隷属させるための道具にできる。権力に逆らえば文字通り生活できなくなる、という恐怖を植え付け飼いならすことも可能。結局はニンジンぶら下げられていいように使われる馬と変わらなくなる。)

◆やたら市場化せず可能なものは「自給自足」する世界の妄想
今はまだ夢のまた夢に過ぎないが、仮に生産力が人質から解放されたとある架空の文明社会を妄想してみる。まずその社会の半分を担う経済活動を書く。
その世界では、「生産活動(労働)」の半分は従来のようないわゆる貨幣経済や市場経済の世界でいう「労働」的な概念ではなくて、貨幣も市場も介在しない家事(料理)や家庭菜園での自給自足作業に近いものになると思う。生産するものが農作物とは限らないというだけだ。生産物が車や服やスマホやコンテンツやサービス、医療、社会保障支援、教育等になるかもしれない。生産物は「売るため(現行経済システムを用いて豊かさを得るため」ではなく、「行き渡らせるため(飢えによる奪い合いではなく充足のため)」に生産される。
要は国内生産可能なものを生産する活動(労働)に限り、裏庭で食べたいもの・好きなものを育てて(生産して)収穫して自分で食べるのと変わらない感覚になる(ただし、労働や作物を搾取する存在などすでにいないことが前提だが)。それだと基本的には売るためではなく行き渡らせる(充足させる)ための活動なので、利益目的で無理に生産や消費を増やす必要もない。自分達で消費できる分だけ作ってもれなく自分達で消費するだけ。生産と消費が直結。一人一人の労働量は大量に売るための強迫的な大量生産を目的にしない分負荷が低く、ワークシェアリングもしやすい。機械化・ロボット化できればなお楽だ。
大量消費・大量生産からの脱却は、環境にもいい。コスト節約のために粗悪な物を作ったり、安全よりも利益を優先するようなこともない。生産側の不祥事も減るかもしれない。
自分達が消費するものを自分達で生産するわけだから、より良いものを作ろう、可能な限り改良したり質を上げようとする意欲(可能性への好奇心)も保たれる。売るためだけ(=飢えをしのぐためだけ)に脅迫的な感じで無理やりニーズを作りどんどん新しいものを作ってすぐ流行が変わる(無理やり作ったニーズは寿命が短い)、なんて現象もなくなる。

従来の「作ったって売れなければ豊かになれない。売れるためには大衆心理を扇動したり流行という同調圧力をかけて強迫的にでも購買欲求を植え付けなければ。政府と癒着して利権も作らなければ。安く売るために少人数を安い給料で残業代なく超過労働させなければ」という回りくどい仕組みではなく、「社会全体で常に基本的なニーズのあるものを適度な量作れば自動的に行き渡りるシステムを作り、人々は自分達で生産した基本的な必需品が自動的に手に入るため、自分達の生産労働がそのまま自分達の豊かさに直結する」という感じ。
いわば、生産したものを市場経済に組み込むことなく行き渡らせる。行き渡らせるためには商店の一部が配給所になり、配給の管理にはマイナンバーを使うと便利かも。
こんな妄想世界のシステムは市場経済(父性的・男性的)に対して「充足経済」(母性的・女性的)とでも言えばいいだろうか。
これが妄想上の文明における経済活動の約半分。そしてもう半分は・・・

◆市場経済と充足経済の連携(妄想)
今まで「充足経済」の話をしたが、私の妄想文明では市場経済を完全撤廃するわけではない。国内での生産が不可能なもの、本当にニーズが出るかどうかも分からないもの、ニーズが社会全体にまで及ばず限られているもの、マニアックなもの、充足経済用に生産したが需要を上回る余剰が出来た分のもの、輸出メリットの高いものに関しては充足経済と併用する形で存続させた市場経済が分担してもいいかもしれない。
また、ニーズの怪しいマニアックなものでも、本当に良いものなら安定したニーズを作るだろう。社会が「基本的なニーズのあるもの」と判断し、充足経済に組み込まれ生産され行き渡るケースだってあるかもしれない。いずれにせよ、人間界で「新しく面白いものを生み出す創造的な意欲」は失われないだろう。また、充足経済で自給率を上げればその分貿易依存度は下がる。

余裕のある国なら市場経済を回す財源に「市場経済活動を維持と発展のため」に、小遣いが配られても面白い。小遣いを貯めて起業してもいいし、市場商品の消費に充ててもいいし、市場経済の世界で仕事を持ってもいい(占い師もこっちに分類される職業だろう)。
充足経済で営むと良さそうなものと、市場経済に投入して問題なさそうなものを分類し両システムを巧みに使い分け、使いこなす世界・・・そう、以前書いた記事(男性的世界と地母神の再会)の例えを使うなら、「オトウサンとオカアサンが力を合わせて子供達を健やかに養い育て成長させる」のだ。
要するに、生存に不可欠なものまで市場経済という一種のマネーゲームに投入しなくてもいいんじゃないかと思う。命綱までゲームに投入してしまうから飢えの恐怖を原動力にした経済の営みが生まれてしまうのではないだろうか? ゲームはあくまでゲーム。安定した生活手段にはなりえない。ゲームに生活を依存させた(=支配させた)世界で本当に豊かになれるのは、ゲームの主催者(=胴元)ぐらいなものだろう。彼らがゲームに生活を依存した者達の支配者になるのは必然だ。ライフラインを支配したんだから。

◆生産と消費の間の無駄を出来るだけ省けたら?
こう書くと私が共産主義思想(占いがNGな思想なので占い師には鬼門)を持っているという誤解を受けやすいのであまりロシアの事例を使うのは好きではないが、上記の妄想である「充足経済のある世界」はダーチャ(農地付きセカンドハウス)のある生活から着想を得た。ロシアの家族がダーチャで手分けして欲しい作物を生産し好きに料理して自分で食べるのと何も変わらない。生産可能なものに関しては、自分達で欲しいものを欲しい分だけ生産すればいい。役割分担は平等に(今の人類には多分ここが無理)。

ロシアでは、ダーチャのお蔭でソ連が崩壊し経済が破たんしてモノが買えなくなってもほとんど餓死者が出なかったという。食料を市場経済に(市場経済・現行の経済システムに組み込むことに)依存させる必要が無かったのだからそりゃそうだろう。生産と消費の間の無駄(ここに奪い合いの経済システムあり)が省かれている。モノが売り買いできなくてもそこまで飢える恐怖が無ければ社会に余裕が生まれ、飢えの恐怖を原動力にはしない。
ちなみに日本の場合、現在の農地法では農家でなければ農地が借りられない上に、農地に建築物を建てることができない。つまり現状の日本では、家庭菜園は可能だが、ダーチャは法律上、造ることができない。
これは、ひねくれた見方をすると「豊かさの力(充足の力)」を人質に取られた(独占された)有様を象徴的に体現しているようにも見えなくはない(幻覚)。

◆結論
肝心なことは、全てのシステムは主権者(ニーズを持つ者達=生産者にして消費者)によって人道的に作られ営まれ管理・所有される事。独裁や腐敗や利権、過重労働を作らせない仕組みにする事、システムを支配欲や征服欲に駆られた者に奪われない事、パワーゲームの道具にしないことである。
・・・よって、弱肉強食というパワーゲームを卒業できないまず今の人類には無理なんじゃないかな?
資本主義だろうが社会主義や共産主義だろうが世界政府だろうが、どんなシステムやイデオロギーも人類がパワーゲーム(=弱肉強食)の道具にしてしまう(むしろほぼそれしかできない)うちは何一つ成功例を出すまい。

余談:
私はその国や地域の水龍が事故や災害などで変動した場合、その国orその地域の金運に関する暗示と見なす癖があるのだが、神戸で建設中の橋げたが落ちた事故()はやはり水龍(金運)の変動を暗示する象徴的なものに思えた。建設中だった橋げたは「作成中の金運(実現に向けて進めている最中の経済計画や事業)」の象徴のように見えてしまった(幻覚)。

そういえば豊洲市場・・・

自分の足を食べるタコ

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