さあいよいよ最終回。今回の旅行記の中で、一番強力な電波が出ると思います。
早朝の麗江
朝、モーニングコールよりも早く起きて麗江旧市街を散歩。夜の喧騒とは打って変わって静けさが心地よい。本日行く予定の玉龍雪山(メインストリートから見える)の周りには、雲ひとつないほどの良い天気。おや、早起き観光客に道を尋ねられた・・・と思ったら「玉龍雪山へ行きませんか?」という地元のツアー会社の営業だった(笑)。丁重にお断りをして先へ進む。旧市街中心に位置する広場、四方街に出る。昔は茶馬古道を通る物資が集まって市が開かれると、四方街は芋洗いのように人が集まっていたらしい。
麗江、朝に見れば古都の雰囲気がちゃんとある。水路には鯉。玉樹というバラ科の木の花が美しい。水汲みをする人、よれよれの犬、ナシ族のおばあさん、肉まん(?)を食べながらチャリンコを引きいて通り過ぎるお兄ちゃんetc・・・
気に入った。昼と夜の麗江は「騒がしい軽井沢」のような有様だが、朝はいい雰囲気。後に、ガイドのリンダさんも「私も麗江は朝のほうが好きです」と言っていた。麗江はここ数年で人気の観光地となり、ナシ族だけでなく漢族(いわゆる中国人の95%)の店も沢山出来た。街は急激に変わってきてしまった。昔から地元にすんでいる人、特にお年寄りはどう感じているんだろう?
散歩の帰りにナシ族のお焼きのような食べ物、「ナシバーバ」の甘い味の方を買った。5元。リンダさん曰く、ぼったくる所は8元するんだとか。だから私の買った店は「Good job」なんだとか。次の日も同じ店で塩味の方を買った。一元負けてくれた。この店の売り子の娘さんはナシ族で、彼らにとっての伝統的な「美人の条件」が見事にそろっていた。
麗江に泊まった2日間は、早起きして静かな風情を味わうことにした。町外れまで歩いた。始めて麗江の存在を知ったのはある写真集。そのときは、「何だか日本に似ている」と感じたが、現地に来て見れば街はやはり中国っぽさの方が強い。ナシ族のライフスタイルも中国人に近い。日本に似ていると思うなら、木を多用した家の色や控え目だが細やかで勤勉な性格のナシ族の皆さんの印象が合わさると日本人としては少し親近感が持てる、といった辺りか。手相も日本人と似ている。
麗江は沢山写真を撮ったので、まとめてこちらでご覧いただきたい。
玉龍雪山
朝食はコンチネンタルスタイル。久しぶりにおいしいコーヒーとサラダ、ハムエッグ、パンケーキを食べた。今日は玉龍雪山の見学スポットである「雲杉坪」と白沙村、玉泉公園へ行く予定。
天気は最高。雲杉坪のある国立公園に向けて平原を走るバスからの眺めもばっちりだ。日差しの強さでここが標高2500mの高原だと教えてくれる。国立公園入り口で電気自動車のバスに乗り換える。ここで、湖南省から観光に来たテンションの高いおじさんと仲良くなる。私が日本人と知ると始めは静かになってしまったのだが、中国語が通じると知って息を吹き返して熱心に話し始める。どうやら、湖南省の名所「月亮タワー」の良さを日本人にも知ってもらいたいと力説していた。実はこのおじさん、その「月亮タワー」に住んでいるらしい。「もしここへ旅行する時は連絡しなさい」と日記帳に住所まで書いてくれた(笑)。
バスを降りると今度はリフト。3100mまで上れば雲杉坪。すでに観光客で長蛇の列。中国人のほかに、タイ人の観光客もいた。雪の降らない国の彼らにとって、頂上に万年雪の降る玉龍雪山周辺は「寒い場所」というイメージがあるらしい。しっかりと防寒具を着込んでいた。リフト乗り場の案内板に書かれた日本語は面白かった。
雲杉坪は予想に反して寒くはなかった。民族衣装を着せて写真を撮る「コスプレ写真業者」の勧誘がしつこい。実際、繁盛しているから、商売熱心にもなる。私達はただ景色の写真(1,2,3)だけを撮って済ませた。
雲杉坪自体は少々騒がしい撮影スポットに過ぎないと感じたけれど、下りのリフトから見えた風景が良かった(小・大)。
白沙村
昼食を済ませて白沙村へ。入り口にナシ族の象形文字、トンパ文字が展示してあった。「トンパ」は「東巴」とも書く。
トンパ文字は現存する最古の象形文字で、ナシ族の中でも「トンパ」というシャーマン達に受け継がれた文字。2003年にはユネスコの「世界の記憶事業」に登録され、デジタル保存が進められている。写真はこちら。
「眠る」や「夢」という字が興味深い。「霊(霊感)」に対応する額のチャクラから何かが出てる。
なかなかカワイイ文字だが、1400種類ある上に同じ文字でも微妙な形の違いで文法が変わるなど、読み方には複雑な法則がある。トンパ達はこの字をナシ族の独特の紙に書いて様々な記録を作った。紙は漢方薬にもなる苦い木の皮で出来ていて、虫がつかず、100年はほぼそのままの状態で保存できる。現在、トンパ文字を読める人は少なく、トンパ文化の継承者もわずか。麗江市は町興しもかねてトンパ文化の復興と保存にいそしんでいる。
白沙村はその昔、麗江一体を支配したナシ族の「木氏」が麗江の街を作る前の勢力中心地だったそうだ。そのためか、古い建築や古い壁画が残っている。特に壁画が有名で、チベット仏教、ペー族の観音信仰、道教など、近隣の異なる民族が信仰する神仏の絵がまとめて壁画になっている。文革の時には白いペンキで塗りつぶされてしまったが、後で上に塗られたペンキをこそぎ落として復活させた。壁画のある寺院の建物は、見た目が少し東照宮に似ている。釘を使わず木を組み合わせて作るタイプの建築で、地震に強い。もし地震でちょっと崩れたら、また組みなおせばいいだけなのだそうだ。
白沙村は多くのツアー会社が日程に入れる場所なので、入り口には土産物屋の露天がにずらりと並んでいる。藍染屋の工房もある。それでも村の雰囲気はまだ残っているのが救いだ。子供たち、縁側でマージャンをするお年寄り、昭和みたいな風景・・・詳しくはこちらで。
白沙村の公衆トイレは超デラックス。もちろん水洗。オマケに大理石を使っていて、待合室まである。そして、自動センサーの蛇口は、水が出ない。
玉泉公園
この旅行記のクライマックスであり、この旅行記の締めくくりには、この玉泉公園での出来事がふさわしいだろう。今までにも超個人的・内面的・神秘的(?)な出来事をいくつか書いてきたが、これもその一つだ。この旅行記は、半分以上自分自身がこれらの出来事を忘れずにしっかりと覚えておくために書いているようなものだ。読者にとって必ずしも面白く、読みやすい旅行記ではないかもしれない。しかし、退かぬ媚びぬ省みぬ。
玉泉公園は麗江の水路の水源になっている泉がある場所。丁度雲が出てきてしまったが、この泉に玉龍雪山が写った写真をよく見かけた。
公園内には、「トンパ文化研究所」がある。そこで日本語がまあまあ分かるナシ族の若者(学生?)が色々レクチャーしてくれる。トンパ文化(=ナシ族の伝統文化)が廃れつつあり、それらの保存と後継者育成のため、現在現役のトンパ約8名がボランティアで「トンパ・スクール」にて教鞭をとっている。そのうちの何人かは「大トンパ」といわれており、重要文化の継承者として尊敬され、人間国宝になっている方もおられるそうだ。麗江の旧市街に「トンパ宮」というナシ族のショーを見せる場所があり、現在はそこに出演してトンパ文化を広めているトンパもその一人らしい(次の日見に行った)。
「トンパ」はナシ族の言葉で「智者」を意味する。まさしく「賢者」のような役割で、各種儀式を執り行うシャーマンであり占い師であり、医者やアーティストでもあった(トンパ文字を思いついた人は凄いアーティストだと思う)。一人前のトンパになるには文字をはじめ、様々なことに精通していなくてはならないので、修行に長い時間がかかる。基本的に世襲制で、一番優秀な子供だけがトンパになる。レクチャーしてくれる若者は、研究者にはなれてもトンパにはなれないそうだ。レクチャーの最中、沢山の雉の羽がついた帽子を被った一人の大柄な老人が、慣れた様子でしずしずと入ってきて奥の立派な席に音もなく座った。私達の方には一瞥もくれず、ただ静かに前を向いて自分の役割と来るべき時を待っていた。
最初はレクチャーに気をとられ、「観光客向けのデモンストレーションか」くらいにしか思わなかったのだが、徐々にその不思議な「静かな存在感」に私の意識のどこかが反応し始めていた。何だろうこれ? しかもその老人の不思議な顔・・・誰かに、似ている。・・・やがて、私の無意識はそこに座る存在に対して「ただのデモンストレーション役トンパ」から認識を改めた。
いや違う。これは・・・・・・・・・・・・【トンパ様】だ。・・・・・・・・・【トンパ様】がいるんだ。
いつの間にか湧いていた無意識レベルの畏敬の念により、「様」付けで認識していたのだが、不思議なことに、この時点では私はそんな自分の畏敬の念を自覚していなかった。
トンパ文化についてのレクチャーは続く。トンパ教についてのことから今度はトンパ文字の文法や読み方について。その前置きとして、後で自分の名前と好きな言葉や願い事をその場でトンパ様がトンパ文字で書いてお土産にするサービスの宣伝があった。100元。掛け軸にしたものは200元。高っ!「売り上げはボランティア運営のトンパスクールの運営費になります」ありがちなパターン。
トンパ文字の読み方(うろ覚え):
トンパ文字は漢字同様、「太陽」と「月」を表す文字がそのまま暦の「日」と「月」としても使われる。また、「あなた」という字(単語)の右手の先が上向き曲がっていると「あなたは~を願う」という文法になる。
さらに、同じ文字でも、文脈によって読み方や意味が変わり、しかもその上、「右から左に読む」などといった「読む順番」が必ずしも決まっていない。同じ意味の文字でも、異体字がある。もはや暗号だ。
さて、私はといえば、ナシ族の若者が懸命につたない日本語と英語でレクチャーしてくれているのに、途中から上の空だった。
原因は、さっきの宣伝で聞いた「掛け軸」だ。よりによって高い方の掛け軸!
200元という値段は、中国の物価から見ると決して安くなどない。中国人のビジネスマンが利用する安宿なら一泊30元。両替した元だってそれほど沢山残っていはいない。今後の日程を考えると、無駄遣いはしたくない。それに、心の片隅に住む【黒AYA】が、「そんなもん200元も出して買ったらバカな観光客」と囁いていた。しかし・・・
私は生まれてこの方、「掛け軸」なんぞに興味はなかった。今だってない。話を聞いた最初もやはり、そんなものには無関心だった。それなのに、後からだんだん、何か気になる、ムズムズするような感覚になってきた。
この時やっと、自分が【トンパ様】という奇妙な畏敬の念を持っていることを発見した。まさか・・・そんな気分になるなんてね。私は今でも信心深い人間ではない。
レクチャーが終わった時、私は掛け軸をオーダーしていた。「日本円使えますか?」・・・OKが出された。
掛け軸の言葉は、「いい占い師になりたい」。
レクチャー役の若者は私の素性を聞いてびっくりした「ヘェェ!?」。他に2人いた同年代の男女も同じ反応。
この言葉を書いてもらおうと決めた理由。それは、書き手が伝統的にスピリチュアルな役割を担っている【トンパ様】だからだ。私は机を前に静かに鎮座ましますトンパ様を見た。依然として不思議な雰囲気をまとっていた(後に、知り合いのチベット人修行者と似ているのだと判明。ナシ族とチベット族は同祖)。このトンパ様なら、(同じ分野に携わる者として)掛け軸に込められた言葉の意味を何となく分かって下さるかもしれない。
トンパ土産、普段ならばせいぜい単語(願い事なら『合格』とか)を書く程度らしいのだが、短い文でも可能だろうか? ナシ族の若者がトンパ様に事情を説明すると、快く書いていただくことになった。事情を聞いたトンパ様は、掛け軸に選んだ言葉の意味を分かってくださったようだ。静かにうなづき、親しみのある微笑みを浮かべた。
(掛け軸を書くトンパ様)
掛け軸が完成した。文字数は5。書かれたトンパ文字の説明を一つ一つ聞くと、奥が深い。中でも興味深かったのは、「占い師」に相当する文字。この文字は2つの部品(記号)から成り、それぞれ
1:「沢山の情報」と、人がその一部を手に取り2:「読む・数える・ひも解く・ピックアップする」姿が合わさって「占い師」という文字になる。・・・まるでアカシックレコードや集合無意識のデータを検索して読み取る様子を表している様だ。「巫女」という字も「占い師」と似ている。ただしこちらは文字に「沢山の情報」に相当する部品がない。その代わり、女性であることを表す帽子が頭に載っている。「お告げ」を得るタイプの女性が巫女さんということのようだ。
そして、とてもうれしかったことは、トンパ様は「いい占い師」というところを、「最高の占い師」として書いてくれちゃったことだ。英語ではっきりと「best」と説明され、中国語では「最好的」だった。もはや恐れ多い。
掛け軸の文字を直訳するとこうなる:「あなたは最高の占い師になると願う」 出来上がった掛け軸を前にしてトンパ様と記念撮影。トンパ様が「もっと近くへ」と私を引っ張って、2人して満員電車の乗客の様にぴったりくっつきながら写真に納まった。
正直、感動した。長い長い歴史の中でナシ族という一民族を導き、文化と叡智を継承して来た「トンパ」という職業は、今なお現役でその役割を担い、今でもナシ族達に尊敬されている存在で、私のような若造の占い師とは比べ物にならないほど偉大なはずだ。そんな【トンパ様】に励まされたことが分かった。こんな光栄なことはない。
私がなぜ急にトンパに畏敬の念を持ったのか。恐らくそれは、「トンパ」という職業そのものと、トンパが担って来た「歴史そのもの」に対する畏敬なのだと思う。私の遺伝子が、それを知っている。日本人にも、トンパのような役割が存在した時代があるから。
記念撮影の後、せがまれてナシ族の若者達(男2女1)の手相を見た。日本語がある程度通じるからやりやすかった。遊牧民のチベット族と違い、ナシ族は水の豊かな地に住む農耕民族。そのせいもあってか、彼らは皆日本人の手相と似ていた。生命線と知能線の始点が一致しているか、途中まで線が重なっているのだ(チベタンの場合は分離していることが多い)。3人全体の印象として、カパ系の体質(日本人に多い)で時には神経が細かく、繊細で控え目、といった感じ。日本語でレクチャーしてくれた若者はヴァータ・カパ体質で、子供の頃癇の虫が強かったようだ。トンパの仕事に「癇の虫取り」ってのはないのだろうか? 聞き忘れたのはちょっと惜しい。他には1人、3人の中で最も控え目で押しは弱いけれど、一番金運のいい手相の持ち主がいた(笑)。
「皆さんの手は日本人の手相とも似ていますね」と言ったら、「私も日本人が何となく好きです。性格に親近感を感じます」と言った若者がいた。日本語レクチャーの彼だ。これからも多くの日本人相手にがんばって欲しい。それだけでも日本語が上達するだろう。私が路上で人数をこなして占いを上達させたように。
そして、光栄にもあの掛け軸を書いて頂いたトンパ様のお手を拝見させていただくことに。先ほど手相を見た若者の一人がトンパ様に遠慮がちにだが「先生もいかがです?」と勧めたのだ。
何とも恐れ多いことだが、非常に興味を引かれたのもまた事実。わくわくして手を見せていただいた。うひゃー、凄い生命線! 手のひらを超えている。金星丘は生命力豊かに発達している。特にお腹が強いに違いない(金星丘は消化器系にも対応する部位)。3人の若者とは違って、生命線と知能線の始点は分離している。開拓運の持ち主だ。運命線も力強い。運命線を斜めに横切る障害線があるけれど、運命線はびくともせずにその先へと伸びていた。きっと長生きなさって素晴らしい人生と人々への貢献を成し遂げるお方に違いない。例え身体や運勢が瀕死になっても、不死鳥のごとく甦ることを手相が暗示していた(いや既に甦った後なのかも)。ある意味では、トンパの歴史の変遷そのものを象徴するような手相。
トンパ様は若い世代ほど中国語が達者ではないので、私とナシ族の若者皆で時折ジェスチャーを交えて鑑定結果をお伝えする。都市部のナシ族の若い世代は、もはやナシ語をしゃべれない。
「長生き」をお伝えするとうれしそうにニコニコした。「お腹が強い」と伝えると自分の太鼓腹を愛おしそうになでた。ジェスチャーで「弱った状態」と「元気に復活した状態」を示すと、うなづいた。
後でガイドのリンダ(トンパ様の生命線が手首の横まであると言ったら驚いてた)から聞いた話では、彼はもともと深い森に住んでいたところを、トンパ文化の復興と保存に協力を求められ、麗江にやって来たのだという。ふと、白水台に行く途中の広大な原生林が頭に浮かんだ。
掛け軸を買うのは正解だった。トンパ研究所での体験は時間にすると1時間ちょいでしかなかったが、今後に生かすべき非常に貴重なものになった。他にも旅行の間にはそういうことが幾つかあったのだが、あまりにも出来すぎていてちょっと信じられないくらいだ。掛け軸の入った筒を両手にしっかりと抱え、トンパ研究所の石段を下りながら私は決意した。
「私、『日本のトンパ』になる」
・・・「トンパ」と「トンパ文化」の叡智はナシ族の集合無意識が生み出した人々の「生きる力」をサポートするシステムでもあり、古今東西、様々な民族がその性質に合わせて独自のサポートシステムを作り上げてきた。健全に機能したものも、そうでないものあるが・・・
科学的先進国の日本では、現在そのようなしっかりとしたサポートシステムは存在していない。よく、「何を信じていいのかわからない時代」といわれているが、これは自分自身、ひいては「自分の生きる力(生命力)」をも信じられなくなっている結果でもある。自分がわからない。自信がない。自分の生命力(の使い方)がよく分からない・・・
ナシ族にとってのトンパやチベット族にとっての仏教のようなサポートシステムがない代わりに、日本では精神世界や占いの分野に人々の意識が向き始めている。この手の分野にナシ族にとってのトンパのような「生命力のサポートシステム」の機能を無意識に求めているように感じた。
トンパは人間が己の生きる力(生命力)を効率よくフルに発揮するための最も原始的な機能(をする人)のひとつだが、日本には日本に適した形での『トンパ』があってもいい。
それは「特別な人」がやるのではなく、先生、カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、心理学者、医者、芸術家、ミュージシャン、占い師、スピリチュアル何とかなどなど、色んな肩書きの人々が自分たちの方法でやっていけばと思う。それに、凄いものからちょっとしたものまで、色んなレベルがあっていいと思う。そのほんの末席に、私も加わることが出来たら・・・
石段を下りきるまでの間に、そんな妄想が高速回転した。この妄想は、今でも気に入っている。
日本から数千km離れた雲南にて、超個人的・内面的・神秘的(?)な体験に励まされ、電波を受信し、妄想と決意と意欲を手土産に。
占い師は、帰ってきた。
占い師の旅路~雲南省・三江併流~ 完
旅行記はひとまず終わり。それ以降の日程はごく普通の家族旅行でした(ということにしておこう)。占い師になることを許してくれた両親にプチ親孝行も出来ました。旅行の残りの写真はこちらで全部見れます。
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