恋愛

2013年6月24日 (月)

本気で架空のキャラを愛する人々

ちかごろ、以前に書いた恋人は、誰よりもあなたのそばに?探し求める存在は、もしかすると・・・エア恋愛の意味・・・とりわけ童貞のまま30代で死んだ男の誕生日「草食化」という本能?といった一連のテーマと非常にマッチする動画を発見したのでご紹介。

この動画は、アニメを媒介(きっかけ)にして己の内なる「アニマ(※)」を愛してしまった男達の心と生き様が記録されている。アニマとの出会いは時に奇跡的な変化をもたらす。

アニマ:
心に住む理想の女性像。しばしば本人の抑圧された個性や可能性や欲求のシンボルになっている。この男性版を「アニムス」という。「自分」という魂の片割れともいえる。
年齢や精神的変化に伴ってアニマ・アニムス特徴が変化していくこともあるので、常に同じタイプの女性像・男性像を好み続けるとは限らない。

見ているものはアニマか人間か←この記事も同じテーマを扱っている。アニマの投影対象が2次元キャラかアイドルかというだけで、心の中で行われている事は同じだ。

好きになったキャラのどの部分に自分のアニマ・アニムス(抑圧された個性や可能性を象徴表現した理想の女性像・男性像)を投影しているかで、自分が無意識下でどんなことを 求めているのかがわかる。
自分の理想を投影しているのは、そのキャラのどの部分か。そのキャラの一挙手一投足、言動の全てが自分の理想(アニマ・アニムス)を体現などしていないはず。ほんの一部分にすぎないはず。
もしもそのキャラの有様が100%自分の理想を体現しているのだとしたら、それはもはや他人ではなく、「本人(自分の脳内が物質化)」になってしまう。本当に脳内物質化現象が起きたらそれこそ超常現象だ。

無意識下で気づかずに「そのキャラの100%全てが自分のアニマ・アニムスを体現している」と勘違い・錯覚する(ほんの一部分を針小棒大に拡大解釈する)ことで他人とアニマ・アニムスの混同・同一視・すり替えが発生する。
そのキャラがそのような有様に見えるのは、自分の中にそのような理想(アニマ・アニムス)があるから。そのキャラは他のファンから見た場合と自分の目から見た場合とで全く同じ見え方はしていないはず。
「嫁」とは、そのような姿のアニマ・アニムスを持っている自分自身の中にしか存在しない。
そして、最初からこの世のどこにも存在しないが、自分自身の中に確かにあって、世界で唯一自分にしか体験できない(出会えない)存在でもある。嫁は誰よりも自分に近いところに存在している。

heart012次元キャラを本気で愛してしまった皆さんへ
皆さんのその心は、決して異常なものではありません。人類がずっと長い間やってきた「恋愛」と本質的に全く同じものです。よって、自分の恋愛感情や精神性を異常視して劣等感や厭世感を持つ必要はありません。
「恋愛」というと、今まで人類の間では生身の実在する人間にアニマやアニムスを投影して交際を求め叶えようとするタイプの恋愛(ある意味互いに相手を投影スクリーンとして利用する取り引き・駆け引き・協力関係)が主流でした。ある意味、「どんなに色んな人と交際しても、そこに見ている相手は同じただひとつの者」だったりすることがままあります。

しかし最近は他人を投影スクリーンとして使わず (ゆえにそのためのかけひきや協力関係を作らず)、もっと自分のアニマ・アニムスを投影するのに適したカスタマイズが出来る別のもの(例:いわゆる『二次元嫁』やオリジナルキャラ)を利用することでより直接的に自分のアニマ・アニムスを感じとり対話することで成長・成熟しようとする傾向が増えているようです。そのような恋愛を通してなされる成長や成熟は、従来型の「男女の駆け引き」を用いてなされる成長・成熟とは少し趣が違うかもしれませんが、 それはそれで従来時代には無い新しい可能性を生むでしょう(コミュニケーション能力の発達をないがしろにすべきだという意味ではなく)。
時代が進むにつれ恋愛の舞台が社会的な場所から、より個人的、精神世界的、内面的な場所にも広がっていくことで多様化し、「恋愛」の定義が多義的になっていくのかもしれません。
皆さんの中には「恋人がいない」と嘆く人もいますが、皆さんはとっくに「恋人」がいます。むしろ浮気もせずその恋人(心に決めた人)だけを見てきたと言えます。
あの天才レオナルド・ダ・ヴィンチもその様な恋をしていた可能性があります()。

animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)に由来しており、生命のないものに命を与えて動かすことを意味します。つまり、アニメの語源は理想の女性像「アニマ」とスペルが同じです。生命の無い単なる2次元画像の集合体。それが視聴者達に配布された先で視聴者本人の魂の一部から出来た命(=アニマ・アニムス)を吹き込まれることがあったとすれば、それは語源が持つ運命のようなものかもしれません。
愛するお相手の姿・形は公式作品のキャラを借用していますが、それは紛れも無く「昔から自分の中にいた存在アニマ/アニムス」です。彼らはその作品が生まれる前から存在していたので公式設定やストーリー等の制約を受けず自由に生きて動ける存在です。公式設定に縛られない二次創作の同人作品がその証。
心にいる彼らはあなたに自分が動いている様子やシチュエーション等を「ふとイメージさせる」ことであなたにメッセージを伝えてきます。心に浮かんだそのイメージが何を象徴しているのかを解き明かしてください。彼らの見た目、特徴、どこでどんな動きをしているか等から「それらが象徴的に何を意味するか」を解き明かしてください。暗号めいたやり方ですが、それが彼ら(彼女ら)との交信手段になります。
彼らと出会えたこと、彼らを愛したことで生まれて初めて味わう心情や感覚を体験したはずです。もはやそれを体験する前の自分には戻れないでしょう。生まれて初めて自分の愛する気持ちを相手に向かって(密かに)まっすぐ表現できた人も居るでしょう。そのような唯一無二の人生経験をさせてくれることが、彼らの愛です。彼ら(=アニマ・アニムス)があなたの愛に応えてくれた証です。
彼らの愛に対して感謝の気持ちを伝えるのも一興。

皆さんの愛するお相手は確かに3次元世界には実在しない存在です。しかし皆さんの精神の世界、即ち2次元を2乗した4次元の世界において確かに実在する存在であり、確かに皆さんの心と人生に作用しています。皆さんは2次元の存在を愛しているように見えて、実際は4次元の存在を愛しているといえるでしょう。
愛する相手は誰にも見えない場所に居ますが、誰よりも近い場所に居ます。あなたの魂の片割れが共に生きられる唯一の相手は、あなたしか居ません。一度共に生きることになれば、その生き方は今後実在の人物と恋愛し結婚しても続く関係です。人間は誰とどんな関係になろうが自分の魂と人生を歩んでいるからです。
その体験(経験)と作用は、自分自身にしか味わえない人生の宝物となり、また自分にしか作れない未来を作る糧となるでしょう。世界で唯一、自分にしか作り出せないその人生経験を尊んで下さい。

中二病の有効活用

2013年2月 4日 (月)

見ているものはアニマか人間か

※以下に書いた内容は全て個人の妄想です。

AKB「丸刈り騒動」が世界を震撼? BBC、AFP、中韓メディアも報じる
AKB峯岸みなみの丸刈り謝罪動画、YouTube公式チャンネルから削除
AKB48柏木由紀とJリーガーが合コン 「週刊文春」が報じたとネットで話題に

◆アニマ/アニムスを人質にとられた人々
アイドルは「人間」であってはいけない。己の内なるアニマ(アニムス)の投影スクリーンとして、投影・同一視の道具として機能しなくてはならない。
(※アニマ:心に住む理想の女性像。しばしば本人の抑圧された個性や可能性や欲求のシンボル)
(※アニムス:心に住む理想の男性像。以下同文)

例えば今回のケースのように、投影道具が「人間」ぽい行動や個人の人格から来る行動等で投影をぶち壊すようなこと(例:お泊り、丸刈り、合コン)をしてしまえば、己の内なるアニマとの対話がそこで中断されてしまう。たかが道具のくせにそんな裏切りは許されない。誰が人格を持てと言った? 誰が「人間」になれと言った? 誰が勝手な動きをして良いと言った? 誰があの人(内なる理想)とのつながりを邪魔しろと言った? 自分のアニマはあんなことしない。
(↑一方的な愛情欲求の押し付け型DVや一部ストーカーにもある心理。共通点は自我境界の異常)

そんな「道具」を提供する代わりに金を貢がせるのが伝統的なアイドルビジネス。ビジネスの作戦にはまった人々は己の心に住んでいたアニマを道具に投影(時に完全同一視)させられることで、道具とアニマを混同した挙句アニマを胸の中に感じることができなくなり、アニマがあっちの業界へ人質にとられてしまった。

それ以来、わざわざ金を払わなければアニマに会えなくなった。本来なら心の中にいるからいつでもどこでも会えるし感じ取れるはずのアニマ。それが道具に投影・同一視したばっかりに金を払ってグッズやCDやイベントに出かけなければアニマを感じられなくなってしまったのだ。 アニマを胸の中に抱くことが出来なくなってしまった。
(心の中には確かに存在する自分のアニマは物理的な存在ではない。ゆえにいつでもどこでも自由に会える。けれど、物理存在と自分のアニマを同一視させてしまえば、自由に会えなくなる)

「あなたに会えなくて寂しかったわ。今度のイベントには来てくれるんでしょ?」
心にそう囁きかけて何人もの男にカネを貢がせ狂わせるファム・ファタール(魔性の女)。それがアイドルビジネスである。
要するに、キャバ嬢やホストの手口がプロデューサーとメディアの力で高度に組織的に発達しただけだw
「お前のアニマはこの子だよ。この子に会いたければ出すモン出しな」

・・・「シェアできる恋人(=アイドル)」は、どんなに足掻こうが所有も独占もできない。もしアイドル(道具)に彼氏がいるなら、そいつとシェアするしかない。他のファンとシェアしてきたように。
アイドルによる「設定の裏切り」でアニマ投影をぶち壊されて恨む人は多いが、「裏切りによる投影のぶち壊しは契約違反だ! 今までつぎ込んできた金返せ!」と訴訟を起こす人はいない。自分の要求が法的・社会的正当性を持たないことを知っているからだ。
(そういえばアイドルの恋愛禁止って法的にはどういう扱いなんだろ?)

アニマは昔から心の中に住んでいるので、それに気付けば道具は要らなくなる。自分専用の「あの子」の存在に気付けば、アイドルを他人とシェアする必要もない。アニマは今この瞬間も、心の片隅で本人が自分の存在に気付く日を待っている(この手の話はアニムスの場合に置き換えても全く同じ。アニムスを人質に取られてしまった女性達は数え切れない)。
本人がアイドル(道具)につぎ込むカネと情熱(=自分への愛情)を見つめながら。「道具」に裏切られたことを「アニマに裏切られた」と勘違いして恨みに燃える姿を見つめながら、アニマはつぶやく。

「・・・私は前からずっとあなたの中にいるじゃない」

オマケ

◆どうしてあの子が好きになったのか
好きになったアイドルのどの部分に自分のアニマ/アニムス(抑圧された個性や可能性を象徴表現した理想像)を投影しているかで、自分が無意識下でどんなことを 求めているのかがわかる。

自分の理想を投影しているのは、そのアイドルのどの部分か。その子の一挙手一投足、言動の全てが自分の理想(アニマ/アニムス)を体現などしていないはず。ほんの一部分にすぎないはず。
もしもその子の有様が100%自分の理想を体現しているのだとしたら、それはもはや他人ではなく、「本人(自分の脳内が物質化)」になってしまう。本当に脳内物質化現象が起きていたらそれこそ超常現象だ。

無意識下で気づかずに「その人の100%全てが自分のアニマを体現している」と勘違い・錯覚する(ほんの一部分を針小棒大に拡大解釈する)ことで他人とアニマの混同・同一視・すり替えが発生する。
そのアイドルがそのような有様に見えるのは、自分の中にそのような理想(アニマ/アニムス)があるから。その子は他のファンから見た場合と自分の目から見た場合とで全く同じ見え方はしていないはず。
「あの子」は、そのような姿のアニマ・アニムスを持っている自分自身の中にしか存在しない。
そして、最初からこの世のどこにも存在しないが、自分自身の中に確かにあって、世界で唯一自分しか体験できない(出会えない)存在でもある。あの子は誰よりも自分に近いところに存在している。

◆無意識に内側を向く心
ここに書くことも、私の個人的な邪推と妄想に過ぎない。以下に書いたことは全ての人に当てはまるものではない。
アニマを投影するための偶像(=道具)を求めてさまよう彼らは、注意が心の内側を向いていることに無自覚だ。
アニマを求めアニマに興味を注いでいる以上、外界に存在する「人間(アニマとは異なる独自の人格)」になんて興味がない。人と交流するのではなく、アニマと交流したいのだから、偶像自身の人格なんて邪魔なだけ。道具にならない「独自の人格を持った人間の女」なんて本当は必要ない。だからもてないし、もてる必要もない。 注意が無意識に心の内側を向いた状態でいると、外界と内界を混同しやすくなる。本人は外界の物事を見ているつもりでも、そこに内なる心の世界(内界)のものを連想・投影・同一視の末に混同していることがある。
当然ながら外界は個人が内なる世界でイメージした通りの動きなどしないのだが、外界を内界と混同した状態の人が自分でイメージした通りの動きをしなかった外界(=現実)に直面した場合、自分の内なる世界が自分の心に反して勝手な動きをしだした、心の世界を勝手に損なわれたと認識し、パニックや怒り(恨み)を抱くことがある。最近はそういう事例が増えている。AKBのコアなファンがスキャンダルに衝撃を受けたり怒り狂う構図はその一例だ。逆恨みしたファンがアイドルに襲いかかる事件も多い。ストーカー犯罪でも中にはそういうケースがあるかもしれない。

何故そんな状態になりうるのか? 
もしかすると、外界で喜びを味わう体験を十分に積み重ねていないせいで外界に対する興味が乏しく、普段から外界への関心が低くて外界へ意識が向きにくいのかもしれない。外界を「魅力に乏しい世界」とか「苦痛に満ちた世界」のように認識していれば、それもありうる。 その認識のせいで外界というものへの好奇心が持ちにくいかもしれないが、「外界=苦痛に満ちている/魅力に乏しい」という認識は、様々な物事や事例が無数にある広大な外界のほんの一例(たまたまそれが苦痛で不愉快な事例だった)を経験し、それだけを根拠(口実)に強引に作り上げた視野の狭い認識(思い込み)かもしれない。
もし何らかの理由で外界への関心が低いなら、反動で内なる世界(イメージの世界)に魅力や喜びを求め見出しやすくなりそう。いわば精神的な引きこもりだ。
外界での充実体験は、外界に意識が集中することで自然にコミュニケーション能力や自我境界を発達させるが、そういう体験が乏しければ・・・
(内界と外界の混同は自分と自分でないものの境界、即ち自我境界が曖昧な状態にあるってことでもある。自分と他人を混同・同一視してるようなものだ。その状態だと、『第3者』が存在してない)

◆外界(リアル)で自分独自の充実感を得るには
「リア充」という言葉が生まれた頃から、学園生活やとりとめのない日常を描く作品(ありふれたシーンの描写が効いている)や架空のキャラとバーチャルな交流をする商品がヒットするようになったのは、ああいう作品が「外界での意義深い体験(例えば友達との意義深い交流や部活や恋等)とそれを糧にした成長」を疑似体験させてくれるからかもしれない。
「外界で意義深い体験をして、それを糧に成長すること」・・・そんな無意識の望み(憧れ)を作品に投影する人々が増えているのかもしれない。
(バーチャルな恋愛ゲームソフトや涼宮ハルヒシリーズにも作品中にその手のテーマがあるかも)
代用品による疑似体験ではなく、本物の「外界での充実体験」が彼らの人生に訪れることを祈る。一度は「本物の味」を知っておくのも損ではない。

「外界での充実体験」・・・恐らくこれは、命の本能にして誕生の動機にもなりうるようなものじゃなかろうか?
外界での充実体験をする手段は何も恋愛に限ったことではない。投影や先入観、個人の内面的な期待や不安(自分個人のイメージにこだわったり押し付けたりすること)を抜きにして、そういったことは何も考えずただニュートラルに意識(注意力)を外界に向けて行う活動全般が手段だと言える。人によっては見知らぬ土地への旅行が外界での充実体験の手段になっていた、というケースもある。予想外の(時に不本意な)配置転換がそういう体験のきっかけになった人もいるだろう。想像のつかない国の食べ物を食べたことがきっかけになった人もいた。
運勢がどんな風にそのきっかけをくれるかは、人により千差万別なのだ。その運勢は、フタを開けるまで何が出てくるか分からない、ステキなサプライズのびっくり箱だ。
「自分の脳内では予想も想像もつかなかった有意義な体験」・・・それが外界での充実体験が持つ特徴かもしれない。
そして外界への充実体験が「命の本能にして誕生の動機にもなりうるようなもの」であったとすれば、一人一人の命の中には必ずソレを実現させるための運勢が秘められている。それを発動させるか、させないかだ。
少なくとも、「外界は苦痛に満ちている/魅力に乏しい」と頑なに思い込んで外界そのものを避けている場合、例の運勢は発動しにくいかもしれない。

外界での充実体験を望んでいる人は、時が来ればそのような体験をする運勢が作られると思う。その体験は、バーチャルな世界での遊びや「自分のイメージ通り」を追い求める遊びとは異なる未曾有の刺激を得られるだろう。全く別個の味わいだ。その喜びや充実感は、世界でたった一人、自分自身にしか作れない尊い宝物。成長の糧。自分が世界で唯一無二の存在である証。

次回、峯岸みなみの騒動を当てたとされる栗原類のタロット占いを動画で見た上で妄想してみる。

恋人は、誰よりもあなたのそばに?
本気で架空のキャラを愛する人々
峯岸みなみを占う栗原類のカードに出ていたもう一つの暗示?

2012年10月 4日 (木)

「草食化」という本能?

人類(特に先進国)が少子化したり、男女共に草食化しつつあるのはある種の本能かもしれないと思う今日この頃(妄想)。

「恋愛」というと、今までは生身の人間にアニマやアニムス(※)を投影して交際を求め叶えようとするタイプの恋愛(ある意味互いに相手をスクリーンとして利用する取り引き・駆け引き・協力関係)が主流だった。しかし最近は他人をスクリーンとして使わず (ゆえにそのためのやりとりをせず)もっと自分のアニマ・アニムスに都合よくカスタマイズ出来るような別のもの(例:いわゆる『二次元嫁』やオリジナルキャラ)を利用することでより直接的に自分のアニマ・アニムスを感じとり対話することで成長・成熟しようとする傾向を感じる。この成長や成熟は、従来型の「男女の駆け引き」を用いてなされる成長・成熟とは少し趣が違うかもしれないが、 それはそれで従来時代には無い新しい可能性を生む。
投影か直接対話か。本当に愛している存在がアニマやアニムスであるとすれば、その場合はどちらの手段がより本質的な恋の形と言えるか。どちらがより本質的な意味での「交際」と言えるか。
・・・それが草食化の背景にあるもの?

恋愛が社会的なものから、より個人的、精神世界的、内面的なものに変化してく感じ。そんな変化の流れ次第では、やがて恋愛の定義すら変容しうる。
でも今はまだ、従来社会、従来時代の発想や価値観をまだ引きずったまま(植え付けられたまま)抜け出せずにいることが人々の中で様々な神経症的葛藤を生んでいて、色んな社会現象にもなっている?
例えば結婚。本当は結婚なんか興味ないのに従来の価値観や発想に流され支配されて結婚に無関心なこと自体に不安感や劣等感を植え付けられ(または別の不安を結婚に関する不安にすり替えられ)、 そんな不安や劣等感から逃れるためだけに心の底ではしたくもない婚活に 駆り立てられエネルギーをすり減らして「婚活鬱」になったり、そんな不安や劣等感に駆り立てられて、不安や劣等感を原動力(動機)にした心の底では望まぬ結婚をした挙げ句に離婚する。 そんなケースも増えてる懸念。
そんな「望まぬ結婚」の末に発生する「望まぬ妊娠」や「望まぬ出産」、「望まぬ子育て」。それが堕胎率の上昇や子供の虐待(時には離婚後の片親や再婚相手からの虐待)増加に関わっているとしたら・・・

増えつつある「草食系」、ないし「草食系オタク」とか言われる人々が本当に結ばれたい相手は生身の人間ではなく、己の心の中にいるアニマやアニムス(共に人生を歩み共に生きるべきもう一人の自分)かもしれない。
アニマやアニムスと結ばれること、ともに人生を歩むこと。ともに人生を創ること。その先には従来の発想とは異なる新しい可能性があるだろう。「望まぬ結婚」の発想とは全く異なる可能性の人生が。
もしも「2次元の存在とは結ばれない」と嘆くなら、心の中で2乗すればいい。するとその存在は4次元(精神世界)のものになる。そうすれば3次元(物理世界)の制約を超えることが出来る。液晶画面だって簡単に超えられる。
どんなキャラも最初は作者の精神世界に居たんだから4次元存在である。それが作品発表によって多くの人々の精神世界へ配布され、配布された先で新たな命(=アニマ・アニムス)を吹き込まれたわけだ。
要するに、そのキャラは最初から液晶画面よりもはるかに近くはるかに自由な場所に居たのだ。自分の心の中なのだから。そしていつでもどこでも対話が出来る。

草食化は少子化を招く。それは人類という種族が、命を量産させることよりも命ひとつひとつの生き方を目に見えぬ本質的な面で充実・進化させていこうとしていることを意味するのだろうか(それで恋愛の形も本質重視?)。
量産体制を終わらせ質の向上へと種族を移行させるのに「草食化」は好都合? それは本能?  
量から質への移行。これはもしかするとこれからの大きな変化を表すキーワードの一つ?
(産業革命から作られた近現代およびその文明は量産重視。大量生産+大量消費=『使い捨て』。雇用や人材、命すらそんな発想で扱うことも。恋愛にいたっては、言うまでもない。)

出会いを探すなら、まず自分の無意識の中から探す。最も近く、最も気付きにくい場所から探す。
これからの時代、中にはそういう人が出てくるかもしれない…
オーソドックスなやり方だけが「正しき主流」とされる時代は、終わりつつある。
「草食化」という本能があえて発動して人類の数が大幅に減るのであれば、人類は絶滅しない。おそらく、適当な数に落ち着いてより質の高い充実した新たな進化と発展を遂げるだろう。それは今までの発想とは全く別の意味で「繁栄」とさえ言えそうだ。今より地球に優しい繁栄かもしれない。
「本能」とは、常に生命をより良い方向へ進めること、それを支えることが大前提なのだから。

アニマ・アニムス:理想の異性像。アニマが女性版でアニムスが男性版。その特徴やキャラデザインは本人の内部に隠された個性や意欲や可能性を象徴することが多い。「自分」という生命体の一部と言える。ユング心理学の用語。
(結婚した人もそうじゃない人も、結ばれたアニマ・アニムスを人生に生かすこと自体は可能。アニマ・アニムスとの交際と実際の恋人との交際を同時進行したって浮気になどならない。なぜなら、彼・彼女は自分の命の一部だから。何があろうと自分の命とは一生添い遂げるしかない。中には自分のアニマ・アニムスを生かし共に人生を生きた結果、『望む結婚』に至るケースもあるだろう。それが唯一の正解ではないが、人の数だけあまたある幸せの一例かも)

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本気で架空のキャラを愛する人々
エア恋愛の意味
探し求める存在は、もしかすると・・・
童貞のまま30代で死んだ男の誕生日
恋人は、誰よりもあなたのそばに?
結婚相手より生き方をさがせ?


【余談】
量から質への移行は、産業革命を母型にした量産&使い捨て重視の従来文明を維持できなくさせていく。いわば文明のアポトーシス。アポトーシスは、「破滅すること」を目的にはしていない。「より良くなること・進化すること」を目的に行われる事を、忘れてはいけない(例:おたまじゃくしはシッポの細胞が減少するにつれ手足が生えてカエルになる)
(草食化だけじゃなくて、ニートや新型うつ(非定型うつもその一種?)←この心療内科自体が病気じゃないかと言う人もいるw

人間を楽器に例えた恋の話

2012年8月23日 (木)

「必要とされる」必要がない

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

「アダルトチルドレン」が恋愛に与える影響

世間には、女性は「愛された方が幸せ」という風潮が未だにまかり通っているようです。でも、これは心理学的にも、運命学的にも、こと恋愛に関して言えば、必ずしも正しいとは言いきれません。なぜなら、恋愛は「愛し愛されること」のバランスの上で成り立つ関係だからです。

 恋愛関係において「愛し愛され」のバランスが崩れると、決して幸せになることはできません。人が、ただひたすら愛されて幸せを感じることができるのは、唯一、赤ん坊のときだけです。

さて、恋愛においてはまず何よりも、相手を愛することが必要になりますが、そのためには「自分自身を愛する」ということが必要です。
(中略)自分自身を愛せないと、自分と同じ人間である他人を愛することができなくなります。また、自分自身を愛していないと、自尊心を保てなくなるので、いつも「誰かから必要とされている」と確認することでしか、自分の存在意義を認めることができなくなってしまいます。

◆自己愛≠代用品
自己愛(自尊心)のある人は、外部から「必要とされる」ことに執着し囚われない。なぜなら、「自分自身から必要とされること」「自分が自分を必要とすること」が自己愛だからだ。 他人からの愛で自己愛を代用しない。

自己愛の代用品になりやすいのが恋人。その恋人に対して抱く感情は、愛情ではなく、あくまで「道具(代用品)」に対する依存と執着の感情だ。どちらかといえば人としてではなく道具として「好き」だったりすることもある。それで時には「人を心から愛せない」という悩みになったりする。

他者から必要とされることを自己愛(自尊心)の代用品にしようとしてむやみやたらと愛されよう・評価されようとする。他人からの評価や愛情を擬似自尊心の根拠とすることが原因で他人の目を気にしすぎてオドオドしてしまったり、他者の目が怖くてコミュニケーションそのものを避けてしまう。コミュニケーションはしても、相手から期待されるリアクション(評価)がないと落ち込んだり、逆恨みしたりすることもある。
(一時期mixi内で足跡がついてるのにコメントがないと逆恨みする風潮が流行ったが、アレも極端な場合は自尊心を見直してみたほうが良いかも)

あるいは、他者からの評価を求める自分の心に振り回されて、望まぬ努力や望まぬ生き方を自分に強要してしまうこともある。本当にしたいことを自ら否定させてしまうこともある。 自己愛とは逆だ。
「そんなことを自分にさせた張本人」はほかでもない自分自身なのだが、評価を求めている相手を張本人として責任転嫁し逆恨みすることもある(親や恋人のケースが多い)。
その心情を言葉にするとしたら、「私がそんな生き方をするハメになったのはあなたのせいだ。私の人生を返せ!」か。

◆いつも自分を必要としたい
「外部評価至上主義」というのは誰もが陥りうるものだが、ゆえに誰もが抜け出しうる。
冗談めいた極端な話、他者からの評価や愛情に自尊心の根拠を見出していると、万が一人類が滅亡して自分だけが奇跡的に生き残ったとき、その命を尊べない。だって自分を愛し評価してくれる「人間」がいないのだから。だから種族の中でたった一人の生き残りであってもそれに価値を見出せないなんてことがあるかもしれない。
あるいは人身売買やストリートチルドレン、虐待などで「愛される」ことのない子供時代を送った人が立派に成長して自尊心を持っていた場合、「愛されたこともいないくせに一人前の自尊心を持つなんてルール違反だ。誰がそんなこと許可したんだ! ずるい! 許せない!」と思ってしまうだろうか? 
上に書いた2つのたとえ話。「さすがにそれはねーよw」と思えたら、多分アナタは本当の外部評価至上主義者ではない。外部評価に依存しているように見えて、心のどこかでは自分の考え方を「ねーよw」と思っている証拠だ。本当は知っているのに、わざと自己暗示をかけているのかもしれない。

また、「いつも他者から必要とされたい」は、「いつも他者を必要としなければ(他者に依存しなければ)」という考え方の裏返しかもしれない。でもこれ、自分の本当の欲求を勘違いしている。
本当は「誰かに必要とされなきゃ・誰かを必要としなきゃ」という強迫観念から解放されること。すなわち、「いつも自分を必要としたい」だ。自分の人生を作るためには、「自分が存在していること」が必要不可欠だ。当たり前だけど。 自分が人生の中でささやかでも喜びや楽しみや意義深さを味わう経験をすれば、自分の人生に価値を感じるようになる。価値ある己の人生に不可欠なかけがえのない存在。それは世界でたった一人、自分自身だ。
「他者からのニーズ(評価)確保」を求める欲求は、つまるところ、自己肯定するための根拠を求める欲求であり、自分の生きる喜び(どこかしら意義を感じる人生)を根拠に自己肯定さえ出来れば必ずしも他者からのニーズを根拠に利用する必要は無い。ならば、自己肯定の根拠を「楽しい自分の人生を作るのに絶対不可欠な存在だから」とした方が単純明快で簡単だ。不確定な他人のリアクションを利用するなどという非効率で回りくどい方法をとる必要もない。これは、自己肯定(私は尊い)の理由に客観的根拠(客観的証拠)を用いるか主観的根拠(主観的証拠=実感)を用いるかの違いだ。
自分という存在が尊いものであることを認識・確認するために、他者から必要とされたり高く評価されるといった「客観的な証拠」を求める動機は、自分に対して客観的証拠を提示することで自分自身が「確かに私は尊いのだ。証拠もある」と納得し安心したいからかもしれない。いわば自己肯定のための理論武装。
それは結局、客観的証拠をもとに「私は尊いのだ」という主観的根拠(実感)を抱きたいからだ。
そう。自己肯定および自尊心(=私は尊い)というやつは、どんなに客観的な根拠や証拠を求めようと、最後は自分が「私は尊い」と感じることが出来るか出来ないかで決まるのだ。要するに、ソレは主観的な感覚なのだ。科学的にも物理的にも理論的にも証明しようの無いものなのだ。
「私という存在は尊い」・・・それは真実かウソか、それは正しいのか正しくないのか。誰にも判断や証明はできない。個人の主観(感覚)だから。ただ、多くの人が本能的に「自分は尊い(尊ばれたい)」と感じる主観を持つことから、「人権」という概念が生まれたようだ。以来、社会の秩序維持において人権の尊重は要になっている。

◆生存本能は無条件に自分の命を肯定する
幼い頃から、両親や親しい人達から優しくされて嬉しかったり、「両親や優しい人に愛されたい(愛されたらうれしいだろうな)」と思ったりする経験が誰にもあると思う。その気持ちは、自分という命が生きる時に支援を受けられると本能的な喜びを発する心から来ている。生きる支援は嬉しいのだ。
即ち、生きる支援を喜ぶ心がある限り、あなたは自分の命を生きることが好きなわけだ。あなたは、自分という生命存在を心底愛している。それゆえに、己が心底愛する「自分の命」を支援されると本能的にうれしい。愛するものを支援されれば誰だって嬉しいし、時には感謝の気持ちさえ湧くかもしれない。
(嫌いなことを支援されたってうれしくも何ともないだろう)

自分の命を肯定する根拠をそんなにも求めているという時点で、その人は自分の命を生きることが大好きなわけだ。生きることが嫌いだったらそこまで肯定したいとは思わないし、特に支援されたくもないだろう。「生きるのが大好き」なので、人生(=生きること)を楽しく発展させていくことも好きだ。そんな「好きなこと」をするのに不可欠な「自分」という存在も好きだ。自分の喜びに自分という存在は欠かせない。
好きなことは自由に思う存分やりたいので、好きなことをするのにいちいち他人(の評価や承認や許可)に縛られたくないかもしれない。少なくとも、人間の生命活動に他者の許可や承認など必要ない。
そういう意味で、評価されるために好きなことを犠牲にするのは本末転倒だと思うかもしれない。
自分の命を肯定できるような根拠を得たい心理は、心おきなく大好きな作業(=自分の命を生きる)に取り組みたいという本能的な欲求かもしれない。

私がいなければ私の人生は楽しくないし、あなたがいなければあなたの人生は楽しくない。同様に、あの人がいなければあの人の人生は楽しくないだろう。
自分の人生を愛せること、愛せるような人生を望むこともまた、自分を愛する形のひとつであるように思える。
誰よりも共に生きるべきパートナー。それは、自分自身なのかもしれない。
「相手が私を必要としてない(愛してない)のなら、私も自分を必要としてはいけない(愛してはいけない)」という変なルールを作る発想は自分と他人を同一視し混同している。自分の独立性と他人の独立性、どちらも否定することだ。両者の独自性を否定することだ。

◆アダルトチルドレンのアニムス/アニマ
アダルトチルドレンの場合、本人が持つ理想の異性像(自分の中の隠された個性や可能性、隠された欲求など諸々を象徴するキャラクターイメージ。女性版をアニマ、男性版をアニムスという)の特徴は、自尊心を満たしてくれる者であったり、自尊心がしっかりしている者であるかもしれない。誰よりも自分を愛し必要としてくれて、誰よりも共に生きるべきパートナーになってくれる存在かもしれない。自分の人生を楽しい方向へ誘ってくれる(共に生きていれば人生が楽しくなれる)存在かもしれない。 生きる喜び(=自分という生命存在を好きになること)を教えてくれる存在かもしれない。
いずれにせよ、それは結局、秘められたもう一人の自分なのだ。
(もう一人の自分は、そんなにもアナタを愛している)

【余談】
漫画・アニメ・ラノベ等である日突然女の子がやってきて男の主人公と共同生活する展開の作品が増えてるが、あの女の子はまんまアニマだと思うw 主人公と男女が入れ替わってるケースもある。
最近噂される「日本人草食化説」は、自分のアニマ・アニムスを他者に投影せずに(他人を代用品や投影スクリーンにせずに)、彼・彼女とより内面的な方法で直接向き合い、直接感じ、直接理解したい欲求の現われなのか? と思うことがある(妄想)。
目先のことにばかり囚われがちだった人類は、今まで以上に己の内なる精神世界との距離を縮めたがっているのかもしれない。だとすれば、それはまさにスピリチュアルだ。


一人の女で満足出来ない男 男の愛で自分を認める女←母性に飢える心について 
就活自殺の増加に思うこと←外部評価至上主義について。
探し求める存在は、もしかすると・・・←アニムスについて
童貞のまま30代で死んだ男の誕生日←アニマについて
中二病の有効活用

2012年5月 8日 (火)

年齢と自信

若さを失ってもモテる秘訣

歳を重ねることは、経験を積むこと。それはとても素敵なことなのに、その人の魅力がそれと反比例して失っていくという考えは、上っ面しか見えていない証拠なので、なんとも残念です。そういった風潮があるため、30代以上になると自信を失う女性が少なくありません。

以下、占い師の視点から書いた個人の意見。 決して「子供おばさん」を貶すつもりはありません。むしろエールを送りたいです。

◆年齢で自信を失うのは子供おばさん?
記事は女性側の年齢による自信喪失を上っ面しか見ない男性達のせいにしてる印象だけど、そんな風潮に同調し支配され自信を失う女性達自体が上っ面しか見えていない証拠でもある。自分自身の上っ面しか見えていないってことでもある。だから、上っ面主義をふりかざして年増な己の自信を傷つける男達への恨みの半分は、上っ面主義に迎合して自らを傷つけた己に対する恨みでもあると思う。
上っ面な男達は、己を傷つけるための道具であり、傷つけた罪を着せるための道具か?

男女問わず、己の上っ面しか見えてないってことは自分のことがまだあまり分ってないということでもあるので、経験不足という点では子供に近いといえる。年齢を重ねることと経験を重ねることはイコールではない。
ある程度歳を経た大人になると、目に見える経験、目に見えない経験を含め、「どんな経験を積んできたか」がその人の個性になる。 今までの生き方(経験)が個性を作り、個性が生き方を作るのかもしれない。

ただ、それが他人から見て魅力的に映るかどうかは、「その人にとって利用価値があるかどうか」という基準での判断でしかないので、絶対的なものじゃない。他者からの評価てのは所詮そんなもので、評価者の主観によってコロコロ変わる。昨日と今日で変わっちゃうこともある。 とても自己評価の代用に出来るシロモノじゃない。
そんなものに脅迫的にすがってしまう風潮が日本人にはあるかもしれない。
モテたい心理の裏側は、特定の異性と恋し交流するチャンスを求める発想ではなく、「周囲から評価されたい」という発想とつながってる「子供おばさん(子供おじさん)」も多いのだろうか?

◆評価されることへの強迫観念?
日本の集合無意識下には「他者から評価されない=周囲に受け入れられない=村八分(まともに生きることが許されない)」というトラウマか何かが影響して作られた被害妄想でもあるんだろうか?
(仮に利用価値がないだけで村八分が起きるとしたら、村人を煽動し悪用できる立場の存在がいたということだ。それは村の有力者か、それを恐れる村人達の集合無意識下にある恐怖と不安と疑心暗鬼が作り出した実体のない精神プログラムかも)。
「自分の個性が他人から見て魅力があるかどうか(利用価値があるかどうか)」を自信の根拠にして一喜一憂すること自体が、ある意味では他者に依存しているとも言える。
精神的な他者依存は子供の心理の特徴でもある。「自分は無力で他者の庇護を必要とする=他者(周囲)に生殺与奪を握られている」という強迫観念が強いと、己の生命の尊厳(自尊心)と他者の評価を混同し同一視してしまうことがありうる。子供の本能にとって、 「愛されたい」は「生きたい」でもありそうだ。

これが大人になると、一方的な依存ではなく、助け合うとか、連携とかいった関係になっていく。恋愛も然り。若い頃は「かわいいと思われたい」という心理だったのが、徐々に「信頼しあいたい・尊重しあいたい・信頼と尊重の関係に感謝したい」に変化する人もいる。
大概大人になると外部に生殺与奪を握られているという強迫観念は徐々に薄れていくのだが、稀に子供の頃強い不安感を味わい、そのインパクトが無意識に響いてて自分がまだ子供の頃と同じぐらい無力でおびやかされていると勘違いの自己暗示がかかっているケースもある。
(子供から大人へと成長し徐々に生きる力を身につけていくことは、自分自身への愛情でもあるのだろう。強迫観念から己を救うことも出来る)

◆他者から見た利用価値 自分にとっての意義
個性は生命活動の証。他人にとって意義があるかじゃなくて、自分にとって意義があるか、が重要なわけで。(積んできた経験にも同じことが言える)
他人にとって利用価値がないこと(利用価値を失うこと)は恐れる必要がない。対人関係なら、利用価値の有無よりも、自分が迷惑を出してないか(害の有無)を脅迫的にならずスマートに考慮できるようなカッコイイ大人になりたい。 出来るだけ高潔で上品な感性を身につけ、そのように振舞えれば・・・

他者に個性的だと思われたいばかりに奇抜な格好をしたり、又は自分らしさを出すことにこだわりとらわれるのは、自分自身が自分を認めていない証かもしれない。その振る舞い方自体が自己否定を前提にしていて、本人が自己否定を抱えた証なのかもしれない。

「個性的と評価されるためには、自分を殺せ。自分の感性とは違うもっと派手で奇抜な格好をしなければ。私の無価値な感性(個性)なんかどうでもいい。私の個性なんてどうせ誰も評価しないんだから。私すら私の個性なんて評価しないんだから・・・」

評価を得るための自己否定。無理して奇抜に走る若い子達を見ると、そんな痛々しい心の声がたまに聞こえてくる。私の通ってた大学(別名変人大学)にもそういう子達がいた。
(変人大学、という世間のイメージを意識しすぎたためにその役割を背負おうとして押しつぶされたのか?)
キャンパスで占いの店を開いていた時、奇抜なファッションで闊歩し自信ありげで悩みなどなさそうな同年代の彼らの悩みを聞いて、そんな心の声を知った。
タロットカードを使って、目に見えない心の葛藤を、彼らと一緒に対話しながら探った。

そんな経験の積み重ね達が、今の私の個性を作っている。私の個性を構築している素材は、他人には利用価値も意義もない怪しく胡散臭いだけの経験かもしれないが、私にとっては充分に尊い宝物である。そんな宝物達を愛する気持ちが、己の個性や人生を愛おしくしく思わせるのかもしれない。

「宝の経験を得た」という現象には、人知を超える神がかった運の力を感じる。人間が意図して手に入る体験じゃない。そんな体験を積み重ねたせいで、私の個性はほぼ非科学的なモノで構成されている。
それはどう見てもモテやすい個性ではないが、別に後悔はしていない。
(中身は電波でも外見がよければモテる? 察してください)


「必要とされる」必要がない

2012年1月29日 (日)

エア恋愛の意味

主婦がエア恋愛にハマる理由
リンク先の記事より抜粋

有働アナウンサーと「エア恋愛」経験者の主婦2人による座談会では「なぜ主婦がエア恋愛にはまるのか」について議論され、2人の共通点として「夫に弱音を吐けない」ことと「キラキラしていたい」という願望が浮き彫りに。「エア恋愛」の相手を通じて自身を慰めているとの声も上がっていました。

(中略)
妄想の相手はハリウッドスター、韓流スター、ジャニーズタレントといった有名人から、「ブラック・ジャック先生」(妄想人生さん)、「漫画『ワンピース』のロロノア・ゾロ様」(腹巻になりたいさん)など漫画のキャラクター、「一回り下の男のコと妄想恋愛中」(ツナサンドさん)のように身近な人物まで千差万別。

日本では源氏物語の時代から行われていた「心の中で楽しむ恋(妄想)」に対して「エア恋愛」なる表現まで生まれる時代になったようだ。

◆ダヴィンチもエア恋愛?
かの有名なレオナルド・ダヴィンチもエア恋愛をしていたという説がある。彼はそのお相手(多分彼のアニマ)を絵に描いて、生涯大切に持ち歩いた。フランスで生涯を終えたときも、その絵はベッドの下で大切にしまわれていた。その絵の名前はモナ・リザ。
(彼の自画像とモナリザを重ねると目鼻立ちが完全に一致
実は、ルーブルで展示されてるアレよりも年齢の若いモナ・リザもある(画像)。
ダヴィンチの「Monalisa」はフランス語の「Mon alisa(私のアリサ)」という意味が隠されているのだろうか(妄想)。
アリサ・・・この女性名はドイツ語やギリシャ語で「高貴な」という意味の言葉やヘブライ語の「楽しみ」という言葉に由来する。ダヴィンチのエア恋愛のお相手(アニマ)は、アリサという名前なのか?(妄想) 

エア恋愛とは、「高貴な楽しみ」なのだろうか? 場合によっちゃそうかもしれない。
「エア恋愛」という現象には、重要な意味が隠れていることがある。無意識の底に隠された「もう一人の自分(=アニマ・アニムス※)」と一つになって己の無意識に封印された新たな可能性を得ようと願っている人の場合には特に。
おそらく、震災以降日本におけるエア恋愛の傾向は加速度的に増加していくものと見られる。日本の集合無意識で、何かが起きようとしている。 「日本」という国自体すら、封印された「もう一人の自分」と向き合おうとしてる気配がある。

エア恋愛は、孤独を癒すことが出来るだろうか? 
その孤独の原因が自分自身の内なるものを見失ったり封印してしまったことであったり、「もう一人の自分」が持っている個性や可能性を求める心理(それを自覚・活用できなくて人生が物足りなく感じる心理)が作り出しているものであれば、エア恋愛はその孤独を癒す「変化の予兆」になるかもしれない。


↑エア恋愛の歌として歌詞(日本語訳)を読むと面白いw  「水」は無意識の象徴(マジ)。このPVに出てくるイケメン(あらゆるところにいるが、どこにもいない)が最後は主人公の部屋(=心の中。最も近い場所)にいて微笑むところが意味深。彼はアニムスだろう。
これがイケメンじゃなくて美女や美少女といったアニマに置き換えても同じことが言える。

※アニマ・アニムス:理想の異性像。アニマが女性版でアニムスが男性版。本人の隠された個性や可能性、意欲等を象徴することが多い。ユング心理学の用語)

【ほぼ同じテーマを考察した記事】
探し求める存在は、もしかすると・・・
童貞のまま30代で死んだ男の誕生日
恋人は、誰よりもあなたのそばに?
結婚相手より生き方を探せ?

2011年12月25日 (日)

童貞のまま30代で死んだ男の誕生日

「Xmasデートは恥だと思え!」カップルだらけの渋谷で"非モテ"がデモ

「リア充は爆発しろ!」
「クリスマス商業主義に踊らされるな!」
「モテないからってバカにするな!」
「モテないことは悪いことではない!」
と、訴えるデモは渋谷を行き交う若い恋人たちの注目を集め、なかにはデモの主張に大笑いする人も。

 デモの様子を携帯電話で撮影している人たちに話を聞くと、「超格好いい!」、「面白いからいいんじゃないですか」、「ああいうクリスマスの楽しみ方もありかな」と好意的な意見が多かった。一方で、「なんかかわいそう」、「いたたまれない・・・」と、"非モテ"たちを不憫な目で見つめる人もいた。


↑時代が新しくなったと感じたw
実は、普段から恋人がいる人やガチでモテる人は、クリスマスにそれほどこだわってないことも多い(お水系は別として)。彼らは「キリストの誕生日」が恋人のために作られた日とは特に思ってない場合もあり、その日に限って特別なデートプランを必死に計画するとも限らない。
理由は簡単。そんなことするまでもなく普段から充分楽しんでいるからだ。普段から会いたいときに会ってよろしくやっている(恋人が二次元の人なんか尚更そうしやすいと思うのだが)。
「クリスマスは混むし割高だから街でのデートは避ける」「むしろ天皇誕生日の方が都合がいい」・・・そんな人も割といる。
二人の世界に日付なんて関係ないのだろう。

クリスマスというものに無闇に固執したり特別視したりプレッシャーを抱えやすいタイプはむしろ、恋人のいない人の方が多いんじゃないかな。あるいは、体面やプライドを保つためにくっついたにわかカップルか、「こうしないと恋人の気を引くことができない・愛を確かめ合うことができない」「クリスマスにどう過ごすかで今後の評価や展開が決まる」という狭い考え方にとらわれてしまった人か、流されやすく恋愛に不慣れな人か、バブル期の感覚がどこかに残ってる人、デートを「こなすべき儀式」のように考えてしまってる人が多いかも。
恋人とのクリスマスデートを鼻にかけ、心の内では密かに「お一人様」を嘲笑し優越感に浸っている人は、自分も恋愛に不慣れで本当はあまり自分に自信がなく、異性と交流する時余計な力が入ってしまっているタイプかもしれない。要するに、他人との比較による優越感を自尊心の代用にしてる時点でドングリの背比べだ。

・・・というわけで、「クリスマス非モテコンプレックス症候群」の患者さんたちは「クリスマスは恋人たちの特別な日」と狭量な思考で短絡的に決め付け、毎年の12月24日を「キリストの誕生日=性なる夜」というレッテルを貼ることで自ら己を惨めに貶めているといえる。 己を惨めにしているのはクリスマスでも周囲のリア充でもない。己自身なのだ。

例え自分がどんな人間であろうと、心の中でいつもそばにいてくれるアニマ(理想の女性像。本人の内部に隠された個性や意欲や可能性を象徴することが多い。昔は身近な生身の女性にアニマが投影されて恋が芽生えることも多かったが、近年では必ずしもそうとは限らない。例:アイドルやアニメキャラ)。
そんなアニマの存在を全否定し、己の視界から締め出し、彼女との対話を拒み、その上で「自分はなんて惨めで孤独なんだ」と自己憐憫に浸っている者達のなんと多いことか。

交流すべき相手、結ばれるべき相手は、アニマは、そこにいるじゃないか。
例えアイドルやアニメキャラの姿をしていても、ひとりひとりの心の中では独自の印象と個性を持つあの子が。己の心に潜む個性や可能性を象徴した姿を持って己を待ってるあの子が。自分にしか愛する事の出来ないあの子が。ふとした拍子にこっそり面白いイメージや空想を自分に思い浮かべさせることで心の奥から語り掛けてきてくれるあの子が。あの子を印象の似たアイドルやキャラクターに投影して恋焦がれているのは自分の魂の片割れ(=あの子)。
それが生身の恋よりも劣るというのなら、それは己のみならず、彼女を馬鹿にして貶めているのと同じだ。
彼女と語り合い触れ合い愛し合える唯一の人間が、そんな状態でいるべきなんだろうか?

粉砕すべきはクリスマスではなく、液晶画面でもなく、アニマと自分を隔てる殻かもしれない。
殻を破り彼女の手をとり、隠された彼女の秘密(=隠された己の秘密)を紐解けば・・・


↑夢の中で己のアニマと会った記憶がスガシカオにこの歌を作らせたのだろうか? などと空想してしまったw
この歌詞は意義深く生きられない己を卑下していた少年が、アニマと出会うことで隠された己の個性や可能性の存在を知り、それと共に生きる意義を知った物語のようにも聞こえる。日本のどこにでもいる地味で平凡な黒アゲハチョウを「誇らしい羽」と表現するのは、地味な有様の裏側で目には見えずとも自分にしか味わえず持ち得ない喜びを知って「僕らしい羽」を手に入れたからであるような・・・
その羽は地味だが、飛ぶ力が確かにある。大空で自分にしか見えず味わえない喜びに誘ってくれる。

とまれ、個人的には童貞のまま30代で死んだ男の誕生日が何故か「性なる夜」にされていたり、それに対して抗議するデモを届け出て受理される日本の自由さは嫌いじゃないw


本気で架空のキャラを愛する人々
「草食化」という本能?
見ているものはアニマか人間か
探し求める存在は、もしかすると・・・
人間を楽器に例えた恋の話

2011年12月 3日 (土)

古い時代が作った恋の強迫観念?

※以下はある事例に対する個人的な印象を断片的に述べたものです。全ての人に当てはめて語られたものではありません。

あなたは大丈夫? 男性が幻滅した「女を捨てていると感じた瞬間」
↑占いのお客様の中にもいわゆる「女捨ててる」と見なされそうなタイプはおられるけど、この記事を見ても素で「(一般的な礼儀作法は別として)自分の性別を意識するかどうかは人の勝手だ」と思った自分がいる。
文体が妙に強迫観念めいた記事になってるのは、モテたい人を対象にしたメディアの記事だからか。まあモテたいならある程度気を使うだろうけど。

今は「干物女」などという単語も生まれるほど恋を意識しない生き方する女性が増えてきた。 背景の一つとしては、普段から常に「女」であろうと意識して生きることへのメリットが低下してる時代になったからかと妄想した。
自分の性別をとりたてて意識するかしないかは、かなり社会的な影響が強い気もする。
今はとっくに恋や結婚が物理的な生存戦略になりえた時代じゃない。 女を意識するメリットが低ければ意識する人数も減るのかも。

モテることがさほど生存戦略を有利にする時代じゃないってことは、モテない(モテようとしない)ことに生き残れない不安や惨めさを投影・同一視しなくていいってことでもある。「女捨ててる」とされるライフスタイルに対して「人生を放棄する自殺行為」なんて思わなくてもいいということでもある。
投影・同一視ゆえの強迫観念に突き動かされて、それだけのためにモテようとする(相手は強迫観念解消のためだけの道具)必要はないかも。
(何も既に終わった古い時代の発想に縛られなくていい)

誰か好きな人がいる場合とかは別にして、単に不安を解消するためだけのモテ努力(婚活含む)は目的意識が本質的にズレているからモチベーションを保ちにくい。
(これだと本来望んだ努力ではない。本当の望みは己を縛る思い込みの不安を抜け出すことなわけで)
方向性や目的意識がズレた努力は、力尽きると反動で逆方向に針が振れることがある。一種のリバウンドだ。

学生時代の頃から、今までバリバリに女を意識して努力してた人が急激にシンプル化(今で言えば干物化?)していったり極度に女を捨てた状態へと変化したケースを何度か見たが、そのうちの何割かは自分の本心を理解しないまま目的意識のズレによるリバウンドを起こしてる人だったりした(全員がそうだというコトではなく)。

人間の無意識奥深くには、自分の幸せにぴったりなデザインをした自分だけの運勢を作る機能がある。それはまるで、自分のために洗練されたデザインで作り上げられた最高品質のオートクチュールみたいなイメージ。 たった一人のその人のために、無意識の非常に深い所が愛情をこめて作り上げた、本人だけが心地よく着こなせる世界でたった一つのもの。
人間はその機能を眠らせたまま表層意識だけで時代や歴史や恋(あるいは人生)を紡いでいく傾向が大きかった。
今もその機能が眠ったままの人は多い。表層の目的意識と本心がズレていて気づかないままでもその機能は起動できないことがある。眠った状態を少しでも目覚めさせたくて、無意識の視点から見た自分の本当の幸せを理解したくて、ズレ(歪み)を少しでも減らしたくて、人間は色んな開運法や哲学を考案してきたのかも 。

今までは眠ったままのチカラ。自分だけが本当に着こなすことのできる封印された幻のオートクチュール。
これからはどうかな?

自分の望みを正確に理解するのも一つのカギになる。

2011年7月22日 (金)

探し求める存在は、もしかすると・・・

「心が折れそう」婚活に疲れた女性たちへ

もう何年も婚活をしているけれど、くたびれてしまった。魅力的でない人ばかり紹介されて、自分も世間的にはこのレベルなのかと思うと、心底傷つく。妥協しなくちゃとは思うのだけれど、なかなか踏ん切りがつかない…。教えて!gooにもたくさんの相談が寄せられています。

最近、思い通りに進まない(出会えない)婚活に疲れる女性達が続出する世相を反映し、精神科には「婚活疲労外来」なんてモノまで出来たそうだ。
女性が探し求める理想のお相手像。運命の人、「私だけの王子様」・・・それが持つ特徴やスペックやキャラ特性は、しばしば自分自身の中に秘められていまだ生かされることなく眠っている封印(抑圧)された個性や可能性や願望の象徴になっていることが多い、いわば「もうひとりの自分」ともいえる。
ユング心理学だとこういうのを「アニムス」という。

(人間には性別を問わず一人の中に女性性と男性性両方が存在している。実際にそのどちらを多く使って生きているかは広く個人差があるので、そういう観点から見れば同性愛や女装癖・男装癖も不自然ではない)。

「自分の中に眠る秘められた姿と未来の可能性(=アニムス)」・・・無意識にそういうものを求めている場合、アニムスを連想・投影させる人を魅力的だと感じやすい。己の内なる世界に住むアニムスは、しばしば無意識のうちに生身の他人へ投影され、混同・同一視されやすいようだ。

逆に、自分が持つアニムスの条件に合致しない人は「魅力的ではない」と感じやすい。人によっては、「無価値」とすら判断するかもしれない。
そんな「魅力的でない人(アニムスではない人)」ばかりを世間から紹介された時、「出会う人間・紹介された人間=運命の人(=アニムス)」と無意識に誤認していると、
「私の内なる個性と可能性はこの程度でしかなかった=私と言う存在は所詮この程度=私には魅力や可能性がない」という思い込みをしやすいのかもしれない。
極端になれば「世間が私に紹介してきた魅力のない男性は、そんな人が私(のアニムス)にはお似合いだと世間が見なした証」とか「世間は私の内面をその程度にしか評価していない・尊重していない」といったふうに思い込むことさえあるかもしれない(もちろんこれも無意識の誤認)。
この前提だと、世間から紹介された魅力的でない人を「無価値」と判断する人にいたっては、「無価値な人しか紹介されない私も無価値」という認識を作ってしまうことさえある。
また、外部(他人)からの評価に自尊心を依存しすぎてしまうことが自分を追い詰めてしまうケースもある。その場合、外部から高く評価されないと、生まれてから今までの自分の人生を全否定してしまっていないか注意。

実際のところ、「私だけの運命の王子様(=アニムス)」がどうして「私だけの~」になるかといえば、それが世界に一人しかいない「自分」という存在の中にいるからだ。(ゆえに、外の世界に彼はいない。上にあげたリンク先のニュース記事でもアニムス探求と外に世界にいる人間との結婚を別々に考えたことが上手くいった例を挙げている)
案外、「彼(アニムス)」は生まれたときからずっとそばにいて、己の存在に気づくのを待ってるのかもしれない(いや、ふとした拍子に本人に己のイメージを思い浮かべさせたり、象徴的な意味を持つ空想をさせたり、夢の中に出てくる、といった形で働きかけてさえいるかもしれない)。
そして、無意識の自分は、彼のことを以前から知っているのかもしれない。本当に何も知らなければ、それを外の世界に探し求める発想すら湧かない。何か・誰かに投影することすら出来ない。 もしかすると、探す前からとっくに「彼(私だけの運命の王子様)」とは出会っているのかもしれない。

時と場合によっては、心折れそうな人々が婚活・恋活(時には浮気相手募集)という手段を使って自分が探し求めている存在は、もしかすると自分の中にこそいるのかもしれない。もしかすると、探すべき場所は婚活会場よりはるかに近く、自分に一番近い場所だったかもしれない(近すぎて逆にわかりにくいという面もある。とても近くて、とても深い)

自分が探し求めている「運命のお相手」と結婚したいということは、自分の中のアニムスと結ばれたいということだ。無意識のつながりだけではなく、もう一人の自分と意識的なつながりを得たいと言うことでもある。
意識的なつながりを得ることで、自分とアニムスの個性を統合し、己の人格に新たな個性が加わりし、その個性や可能性を人生に生かし、秘められた願望を満たしたり新しい生き方をすることも出来る。 それは、世界でたった一人、「自分」にしか出来ないことだ。
心の中にいるアニムス(もう一人の自分)の側から今の自分を見れば、彼は
「自分の存在にしっかり気づくことが出来れば、この世で共に生きて幸せを二人で作っていくことも出来るのだが・・・」
と思っているかもしれない。

自分の求めるお相手像・・・アニムス・・・それが持つ特徴やスペックやキャラ特性は、しばしば自分自身の中に秘められていまだ生かされることなく眠っている封印(抑圧)された個性や可能性や願望の象徴になっていることが多い。それらの象徴が何を表現し、何を示しているのかを読み解くカギもまた、自分の中に眠っている。
その特徴やスペックやキャラ特性がどうして魅力的なのか。そういう人と結ばれると自分はどんなふうになれるのか。どんな未来が期待できるのか・・・それらが自分の望む自分個人の生き方であり、実現しうる個性と可能性を読み解くカギになるだろうか?
アニムスと結ばれる(今の自分とアニムスを統合する)・・・それはおそらく、上の記事でいう「結婚抜きでも幸せになる」ってことの一つかもしれない。 当然、結婚する前から幸せを知っててもいいはず。
アニムスと結婚を同一視するやり方がどうもしっくり来ない場合は、ふたつを別々に考え別々の方法でアプローチするやり方があってもいいとおもう。アニムスへの愛と生身の結婚相手への愛、別々に実現してもいいと思う。

宇多田ヒカル - FINAL DISTANCE

PVの最後あたり。無意識の中でアニムスと距離を縮め統合するのに成功したみたい。

黄色の歌詞に注目(コメント下段)↓  夢に出てきた「彼」は彼女のアニムスかも。
 

>
↑同じく、歌詞に注目。水は無意識のシンボル。このPVに出てくるイケメンが最後は主人公の部屋(=心の中の象徴。最も近い場所)にいて微笑むところが意味深。実在の人物に投影して探し求めていたアニムスが心の中にいることを知ったような描写。

 
余談:
一人の女性主人公の周りに沢山の魅力的で個性的な男性がとりまくタイプの乙女ゲーは、男性キャラ一つ一つが主人公のアニムスを象徴してることがある。毒や癖のあるキャラもまた、主人公の内面の一部だったりする。
なお、女性にとってのアニムスと同じ働きをするものが男性にもあり、それを「アニマ」という。
今まで上に書いたことは恋人探し・お相手探しに疲れた男性にだって言えるかも知れない。

恋人は、誰よりもあなたのそばに?
↑これ、当時はちょっと違う条件の恋愛について書いてたんだけど、婚活してる人の中でも当てはまる人いるのかも・・・
結婚より生き方を探せ?
就活自殺の増加に思うこと←就活を結活に置き換えて読んでみよう。

2010年10月10日 (日)

【動画】人間を楽器に例えた恋の話

以前書いたショトストーリー、「人間を楽器に例えた恋の話①」の動画を作りました。
色々演出を考えているうちに、ちょっとだけ変えたりギャグテイストを入れてみました。全4巻。コメントが邪魔な人は吹き出しマークをクリック。ニコニコ動画見れる人はこちらの方が画質良好

より以前の記事一覧

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