心と体

2016年2月21日 (日)

出産する理由と背景についての極論

以下に書いたことは全て一個人の妄想です。問題点を見やすく抽出するためにあえて極論を用いています。

「子を産む責任」という女への圧力。「産まない」選択した山口智子、そして小泉今日子の言葉から考える

2月12日発売の雑誌「FRaU」(講談社)3月号に掲載された、山口智子(51)のロングインタビューが波紋を広げている。彼女は夫・唐沢寿明(52)とのあいだに子供をもうけなかったことについて、初めて「子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました」と能動的な選択だったことを明言。当サイトでも取り上げたが、当該記事のコメント欄だけでなく、SNS上でも議論が活発化している。これを「逆に“懺悔の念”を感じさせる。若い女性たちに自身の生き方を反面教師にして欲しいという思いが強いのかも」と分析する“芸能評論家”もいた。

 女性が「私は産まない」と意思表示することが、これほど関心を呼ぶのは、「女性は全員、産むべき」という抑圧がいまだ機能していることの裏返しだ。しかも一枚岩ではなく、

(A)「女の肉体で生まれたからには、出産の悦びを!」派
(B)「社会保障制度存続のために産むべき(=社会構成員としての義務)」派
(C)「子育ての不自由を回避して自由を謳歌するのはワガママ女」派

 などなど、いくつもの抑圧が重なり合っている。BとCは近い側面を持つが、理屈ぬきの主張なだけにAが一番性質が悪いようにも思える。そういえば昨年、評論家の金美齢(82)が、「子供産まない自由を強調する女性は浅くて未熟」と繰り広げたことを覚えているだろうか(「SAPIO」2015年4月号/小学館)。

これは、「AERA」(2015年2月16日号/朝日新聞出版)の「『子どもいらない』は人に非ずなのか」なる特集を受けての金美齢の提言だ。「AERA」特集では、世界に先がけて超少子高齢社会化する日本では昨今、出産礼賛の空気が漂い、女性が「子どもは欲しくない」とは決して口にできなくなっていることを問題視。蔓延する「出産・育児至上主義」に疑問を投げかけた。金美齢は、次のように主張。

『記事は、「出産礼賛な空気が行き過ぎれば、“圧力”になることも忘れてはいけない」と結ばれている。しかし、私はあえて言いたい。「子どもを産まない自由」を謳歌する女性は、それぐらいの“圧力”は受け入れなければならないと』

 「もちろん個人の自由は尊重する」としながらも、
『出産できる環境や状態にあるのに、「子どもいらない」と主張する女性は、人間としての責任を果たしていない」と断罪。
彼女は現代の日本社会を、『むしろ、「子どもを産まない自由」が優遇されすぎている』『出産は個人の自由な選択であり、国や他人が口出しすることをタブーとする風潮が根強い』と感じているそうで、『AERA』特集の認識とは真逆だ。彼女は、子供を産まない選択をとる女性を『自由や権利ばかりを強調する女性』と決めつけている。

◆人命の尊さを「利用価値」で判定?
「社会のために人間を産む義務」という発想は、行き過ぎた社会主義にも似ていて、「社会は本来人間のために発生し存在する(人間が生きていく上での利便性を追求したら社会になった)」という事実を忘れている。そして例の発想は「人間(の生命)は社会のために発生し存在する=人間は社会の道具」という妄想が支配権を持っている。社会維持の需要を満たす義務としての出産思想は生命の価値(利用価値)を当事者ではなく社会が決めており、妊娠・出産(妊婦)や生まれた命を自然現象ではなく、単に「社会のニーズを満たすための道具」としてしか見ていない。そこに母性は全く介在しておらず、発動できず、締め出されて蚊帳の外。

極端な妄想をすれば、件の出産発想が社会を支配していくと、社会にとってニーズがない(利用価値がない)と判断された者の命をないがしろにする風潮につながる危険がある。
もしも社会の義務を果たさんとする発想動機で生み出された命が重い障害などで社会構成員となる機能を満たさず社会のメリットにはなりえない性質を持っていたら、たちまちその赤ん坊と命がけでその子を産み落とした妊婦は社会にとって利用価値のない存在、単なる役立たずとなり、その赤ん坊は出産を社会的義務とする価値観の世界にとって「生まれながらに無価値な命」でしかなくなる。
我々が望むものは、社会のための人間か? 人間のための社会か?
(かつてナチス・ドイツがガス室送りにしたのはユダヤ人だけではない。社会にとって有害無価値とされた各種障害者達も同じ運命をたどった。ナチスドイツは非常に社会主義的とも言われている)

母性を原動力にするのではなく、「社会にとっての利用価値を満たさん」という価値観に基づいて妊娠と出産を促し求め望む発想は、いかにも行き過ぎた男性的発想によって構築され営まれている社会の価値観だと言える。同じくその価値観によって営まれている各業界の職場では、マタハラが横行するようになってきた。母性のないその価値観は、少子化対策として全くの逆効果だ。
同じ価値観が義務感や罪悪感を用いた妊娠・出産を促す一方で、妊婦に対する嫌悪と排除を生み出しもしているわけだ。同じ価値観なのに矛盾していると思えるが、何のことはない、どちらも「その場しのぎの狭い視野で自己中心的に妊娠・出産の利用価値(道具になるか否か)を判断している(行き過ぎた男性的発想に立っており母性が介在していない)」に過ぎないという点では全く同じだ。
目先の利益や利用価値だけをエゴイスティックに追求するだけで大きな視野に立てないばかりに自分の首を絞めていることに気づかない社会は、そんな社会を構成する人間達の短所(つまり我々の)を如実に反映しているとも言えるのだろうか。
「社会維持のために出産せよ」と人々へ圧力をかけ支配する社会が、果たして人々にとって存在メリットのある社会と言えるだろうか? 「自分達にメリットのない社会を維持するために出産する(命がけ)」という社会貢献をしたがる人間がどれぐらいいるだろうか?
しかも、目先の利益を追い過ぎて不況に陥り格差拡大を放置し子供を産み育てにくくしている社会のために?

◆「子供を欲せ」と気まぐれな自然の呼ぶ声がする時?
社会によって刷り込まれた表面的な価値観ではなく、本能の支援と導きを受け心の底から産みたい気持ちになるかならないか、授かるか否か・・・(恋愛の段階を含め)子孫を残す/残さないの展開など、それこそ自然界の事情で偶発的に発生する自然現象であり、自然の気まぐれであり、いわば一種の「ネイチャーコーリング」の力によるものだ。社会が自然現象(自然界)にエゴを押し付け人工的に介入し都合よくコントロールし評価したり裁いたりする(社会が自然界を従わせて都合よく使役する)ことは本質的に不可能かつナンセンスであることを忘れていないか?
社会的義務感から機械的に子供を望む心は、本能でもなければ自然現象でもない。子を望み愛する母性ですらない。男性的社会によるエゴの価値観でのみ作り上げた洗脳による偽りの欲求だ(実はこの価値観、少なくともアラサー世代の親の無意識下にも一定量刷り込まれていたりする。そのためアラサーの皆さんが親からその価値観による刷り込み支配を無意識に受け継いでいるケースも結構ある)。
この洗脳、少なくとも人類史の中で社会が男性性優位となった頃から古今東西ずっと続いている。「世継ぎを生む」とか、「長男の嫁」といったプレッシャーもこの洗脳から派生している。

男性的な価値観によって構築された社会が、その社会にとってのみ好都合な男性的価値観による生き方を植え付け人々を支配することこそが母性(女性性)を抑圧し、子どもを望む者を減らし、生まれた子供を愛せず(愛し方が分からず)虐待する例を増やす一因になっている。母性を抑圧し男性的な意識と原動力で子を産み育てさせようとする社会がそんな「自然の気まぐれ」を圧迫した結果が今の少子化と結びつく・・・まさに現代文明による自然破壊の一例だろう。社会はそんな自然破壊の責任を取ったことがあるだろうか? 責任を果たすべきは人か社会か?
子供は、人の命は、社会のエゴによって産み育てられるようなものじゃない。
(言うまでもなく、子を産み育て愛する母性本能は社会的義務感や洗脳によって呼び覚まされることはない。母性本能だけではなく、男女問わず生殖本能自体が社会的義務感では発動しない。両者は共に社会の都合に合わせて動くことなどない)

例えば、「ママ、どうして自分を産んだの?」 という子供への問いかけに対して母親が「それが社会に対する義務だからよ」と答えたら、子供はどんな気分になるだろう?  
母親の抱くその価値観が支配する世界で育った子供は、自分の中に潜在している母性を発育させていくことができるだろうか? 将来、「子供が欲しい」というネイチャーコーリングを感知した時無事に自分の母性を発揮することができるようになるだろうか? そもそもネイチャーコーリングを感知しにくくならないだろうか? その状態が世代を超えて連鎖していったら?

◆女性の地位を勝ち取る戦いのために邪魔な乳房を切り捨てたアマゾネス達
皮肉なことに、女性達が(男性的な価値観で営まれている)社会へと進出するにつれ、女性達も仕事のために、そして男性的な価値観で営まれる社会から評価を得る(男性的な価値観において利用価値ありと認められる)ために必死の努力と戦いをする中で、無意識に男性的な価値観の視点でものを考え言動する機会が増え、もはや習慣化している。利益、効率、能率、コスト、利用価値、シビアな弱肉強食(弱者の捕食/排除)の戦い・・・その結果、女性達は今まで以上に男性的に考え行動し戦い、女性的な(価値観の)視点に基づいた発想が抑圧され、社会は女性達が進出しても女性性と男性性のバランスを欠いたままに見える。すると男性的な視点にとっての価値を追求する社会は女性的な視点にとっての価値を生みにくくなってしまい、未だ女性にとってあまり快適とは言い難い社会のままになってしまう(仕事と育児の両立に悩むのはなぜか女性ばかり)。
男性的に偏っていた社会に女性が進出したにもかかわらず「女性にとっても快適な社会」が未だに生まれてこないのは、女性が女性として男性的社会に進出した(男性的社会に女性的要素が取り入れられた)のではなく、女性が男性化して社会進出したので社会は本質的にそれほど大きく変化せず男性性に偏った社会が相変わらず維持されただけだったようだ。
やがて、(極端なほど視野の狭い状態で男性的な価値観の視点に傾き心を支配されてしまった?)職場の女性上司が不都合に妊娠した部下(職場の業務効率を下げ足手まといになったり、職場にとって利用価値がなくなっていく者、コストの敵)に執拗なマタハラを仕掛けて部下を退職に追い込んだり、堕胎するように圧力をかけたり、時にはマタハラのストレスで部下が流産してしまうなどというケースさえ出てくるようになった。
まさに、「何で戦場に足手まといの腹ボテがいるんだ」という状態だろうか。

男性性に偏り過ぎた社会が母性を抑圧してしまえば「自然の気まぐれ」を抑圧し、本来なら「ネイチャーコーリング」が発動して心から本当に生みたくなる人(己に宿る自然の意思と一体化し母性の発揮を無意識に望む人)の運勢まで抑圧してしまう。本当に子供が欲しいときでも授かりにくい(母性が発揮しにくい)運勢になってしまいかねない。
逆に言えば、自分自身の価値観や思考パターン、今までの生き様が本音や本来の自分とかけ離れて必要以上に男性的な視点や価値観に偏り過ぎていなかったか、視野が狭くなっていなかったか自分と深く向き合いチェックして、もしも偏り過ぎが見つかれば修正していくことが母性(女性性)の抑圧を解きほぐし母性を発揮しやすい(そして自分の持つ女性的な個性を活かした生き方をしやすい)運勢になっていくためのささやかな開運法になるかもしれない。


「女性は2人以上子を産み大学は子育て後、産めない女性は施設に寄付を」大阪市立中学校長
↑やはり自然と母性を原動力に介在させてない男性性に偏り過ぎた発想。これが却って少子化を悪化させる。まさか昨今の少子化は、男性性に偏り過ぎた発想と価値観で営まれる社会がこれ以上続かないように、社会を動かす燃料(人員=子供)の供給を遮断する運気の一部なのだろうか?(妄想)

ワーキングマザーが「私が悪い」から抜けるために、本人と周囲ができること←前編からおすすめ
戦後の男性性と女性性←この妄想の続きが今回の妄想になった
男性的世界と地母神の再会

2014年10月10日 (金)

セカイ系の革命

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。人生や世界(社会)に不満を持つすべての人間に当てはまる話では決してありません。


「イスラム国」戦闘員事件 北大生の男「なれないなら自殺する」

シリア行きを計画していた北大生は「そこには戦場があって、全く違う文化があって。イスラムという強大な宗教によって、民衆が考えて行動している。このフィクションの中に行けば、また違う発見があるかな。それくらい」と話した。
(中略)『(北大生は)もしもシリアに行かないとしたら、ことし中か、来年にも、間違いなく自殺しているから、シリアで死ぬことになっても、全く変わりがありません』という言い方をしていた」と話した。

※彼はほかにも、「日本社会のフィクション(虚構)が嫌になった。日本では人を殺すことは悪だが、イスラム国では正義になる。戦闘に参加して人を殺してみたい」とコメント。彼を取材したジャーナリストの常岡氏は「北大生は自分の内面の問題を解決するために日本を離れたいと思ったようだが、本気でイスラム国の戦闘に加わるつもりだったかどうかは疑問を感じた」とのこと。

北大生支援の元教授インタビュー 公安の事情聴取を受けた中田考氏が語る「イスラム国」

――現地に日本人はいたか。

中田 いなかった。これから増えると思うが。

――なぜ。

中田 増えるに違いない。日本にいて何かいいことがあるだろうか。毎年3万人も死んでいくような国。自殺するよりまし。「イスラム国」へ行けば、本当に貧しいが食べてはいける。

(中略)――なぜこのタイミングでこうしたことが起こったのか。

中田 非常に簡単に言ってしまえば、世界がおかしいから。イスラムの世界もおかしいし、世界全体がおかしい。イラクとシリアはイスラムの世界においても、世界レベルでみても、ほぼ最悪の残虐な政権。イラクは単に野蛮で、シリアはもっと計算された冷酷な野蛮さ。人を殺すことも、嘘をつくことも平気な人たち。そういうところを倒すには、それに対抗できるような、ある意味での強さみたいなものがなければならない

シリア戦闘:元自衛官が参加「政治・思想的信念なし」

 
鵜沢さんによると、昨年4月にシリア国境の町、アザズに独力で入った。中学卒業後に自衛隊に入隊、その後始めた有機野菜の訪問販売で成功していた時期だった。
「生活には満足していたが、もう一歩突き抜けたいという思いがあった。政治や思想的な信条は全くなく、死と隣り合わせの戦士になれば見えるものがあると思った」と話す。
(中略)戦場を意識したきっかけは小学校のときのいじめで、自分の存在価値に悩んだ結果、
「極限状況に身を置いて生きる意味を問いたい」と考えるようになったという。
同い年の大学生がイスラム国に参加しようとしたとされ、警視庁公安部が捜査している事件については、
「生きる意味が見つからず、戦場なら何かを見いだせると思ったのでは」と推し量った。

「イスラム国」に引き寄せられる欧米の若者

欧米人がイスラム国にひかれる理由として考えられるのは、祖国での退屈な生活から抜け出し、自らのアイデンティティーを見いだしたいという願望だ。ロンドンにあるシンクタンク、英国王立統合軍防衛安全保障問題研究所(RUSI)でアナリストを務めるラファエロ・パントゥイッチ氏は「人生を退屈に感じてシリアに赴く者もいる」と言う。

兵士たちが玉突きをして遊んだり、甘いものを食べたり、プールで水遊びをしたりしている画像は、時に「ジハードは学生の休暇とさほど変わらない(酒は飲めないが)」という錯覚を引き起こす。さえない町で将来性のない職に就いている若者にとって、兄弟の絆や栄光、銃はゾクゾクするほど魅力的に映る。ベルギー出身の兵士の多くは面白みのない町から来ている。そして過激派たちはそうした場所で集中的に募集活動を行う。

◆つまらない人生の創り方
この前も書いたが、生き辛さや閉塞感を抱えた者達が
「世界(世間)が人の生き方を左右しているのだから、自分達が生きやすくなるため・人生を変えるためには世界を自分にとって都合の良い形に変えなければならない。閉塞感を解決するには自分達の事情に合わせて世界を改善することが唯一絶対の方法なのだ」
と視野狭く思い込んだ結果が古今東西の様々な過激派グループを生み出した一因な気がする(妄想)。
彼らの「革命」が万一成功してしまうと、その革命組織は非常に強い独裁性を放つ。自分と異なる意見を主張する者が出てきて自分の都合に合わない世界が出来上がりそうになるとそういう「異分子」を必死で排除しにかかるから。かくして「独裁者政権崩壊後には別の独裁政権が生まれる(=独裁者のすげ替え)」というオチに。
(無血革命などで政権が転覆した結果、独裁者のすげ替えにはならず本当に社会改革が実現したケースの場合、その革命組織は上述したような過激派的心理とは異なる原動力を持っている気がする)

イスラム国も赤軍派もオウムも、参加者や志願者たちの背後にあるのは心の中の閉塞感と、
「それを打開するためには自分達の都合に合わせて人生の源である世界(外界)や社会を(時には力ずくでも)変形させるしか方法が無い」
という短絡的で思いつめた(そして世界に対する復讐心すら秘めた)思考回路だったのかもしれない。なんと表現すればいいか・・・中二病というか、「脳内セカイ系」をこじらせた感じ。
これ、自分の人生構築を無意識に世界(外界)に依存し、自分の内面(内なる世界)から行っていない証。世界(外界)が自分の人生を創っていると思い込んでいる証だ。実際は、自分が自分の人生を創っているのに。自分達の有様に合わせて世間(社会)が出来上がっているのに。

何でそう思い込んでるかというと、彼らの人生づくりにその原因がありそう。
世界(外界)の様子(例:世間の流行・風潮・価値観・固定観念等)に己を合わせることを第一優先とし、その「レール(基準)」から外れないように、外界の有様と同調するような感性や思考・行動・感情等のパターンを構築し、それを部品として生き方や人生を創っていく方向に陥りがちかもしれない(妄想)。
すると「レール」とは必ずしも合致しない内面の要素(自分の個性・素の自分・素の自分のアイデアや望みなど)は都合の悪い異分子として人生(生き方)から排除・粛清されてしまう。そう。かつて独裁的な革命家達がよくやっていた「内ゲバ(粛清の嵐)」を、自分自身の中でやっているのだ。素の自分を粛清してしまえば、自分が本当に望む生き方も抑圧されてしまう。本当に望む生き方を実現させる運勢も抑圧されてしまう。
本当の自分・素の自分は、世間の流行や風潮や固定観念に縛られず、そんな世間から評価されることも求めておらず、いわゆる「世間的な」考え方や発想や価値観をそこまで強くは持っていないかもしれない。もっと違う感性を持っている可能性がある(世間がつまらないと感じてるわけだし)。
というか、世間と100%同じ感性を持つ人間などいない。にもかかわらず、世間(外界)の平均的思考パターンや価値観を刷り込まれそれを吟味せずつい無条件にトレースして人生構築している人は多い。他人(親や社会含む)からの評価や処世術を優先する(囚われる)あまり自分を押し殺し過ぎて却って損をしている人もいる。今一度、「世間や社会のために生まれて生きている生命など存在しない」ということを再確認した方がいいのかもしれない。
一人ひとり人格が違えば感性も違う。世界でたった一人、替えの効かない独立した人格と感性を持った自分独自の喜びの感覚やありようを、他のもの(外部の評価や風潮や流行etc)や他の人間で代替できるわけがない。

◆侵略者と被侵略者
世界(外界・世間)に依存し絶対服従して自らを支配させた挙句につまらない人生を創って生き辛さや閉塞感を抱えている人の多くは、「世界のせいで自分の人生はつまらなくなった」と思い込んでいる。一種の逆恨み。
自分の人生を創り上げたのは自分じゃなくて世界(社会)だと思い込んでいるが、自分の人生をつまらなくしたのは、つまらない世界の風潮や価値観や流れに人生の構築基準を依存・服従している自分自身だ。
つまらない世界に依存・迎合・服従した没個性的な思考パターンや行動パターン等で人生を構築したらつまらない人生が出来上がるのは当たり前だ。
そう。つまらない生き方を創り上げているのは他ならぬ自分自身なわけ。
ゆえに、自分自身を世界から自立させ、本当の自分に基づいて各種パターンを作り変えていければ例え外の世界が変わってくれなくても自分の閉塞した人生は変えられる。外の世界が変わってくれないと自分や人生は変われないと依存的に思い込むからこそ、「変われない現状を打開するためには、自分にこんな人生を歩ませた外の世界を自分の都合に合わせて変えるしかない」と思い込んでしまう。
外界から侵略されたから、復讐に外界を侵略し返す・・・自我境界不全ゆえの発想だ。

生き方の構築をつまらない世界になんか依存せず自立する事。つまらない世界の風潮に思考や行動を依存すれば生き方を支配されてしまう(依存した『つまらない世界』が横暴な封建社会や独裁政権とかだったりしたら尚更悲惨だ。きっと泣き寝入り体質が染みついてしまい、世代が変わっても似たような社会を続けてしまう)。
人間は何かを依存してる相手にしか服従心理が働かないだろう。どんなに嫌な相手だろうが、何かしら依存しているから逆らえず服従してしまうし支配されてしまう(例えば、相手から評価されること・承認されることを無意識に求めて自尊心を依存していたり)。
で、「イスラム国」という異世界の様子に人生構築の「レール(基準)」を依存して人生を再構築する場合も、自立した生き方をしていないという点では今まで書いてきた生き方と本質的に同じだ。依存対象をイスラム国に変えただけ。(本当の自分がいる)内なる世界に基づいた人生構築はしていないのだ。
それではやっぱり人生は面白くならない。となると、やはり「自分の人生をつまらなくした世界(イスラム国)」を逆恨みするかもしれない。

外の世界に人生構築を依存すれば、外の世界に基づく「レール」に自分の内なる世界(素の自分やそれが作ったアイデア、自分の個性が潜む、自立した生き方構築の源)の可能性が粛清・排除・抑圧されてしまい、人生侵略が起きる。自分を外界に侵略させたのはほかならぬ自分。侵略者と被侵略者は同一人物。
(人生侵略を抱えた人の『国を守ろう(愛国心)』という感情は、自分の内なる世界を愛し活かし大切に守り保持したい感情の裏返しだったりする。外の世界の『国家』というものに自分が今まで無視し排除・抑圧してきた己の内なる世界を投影・同一視している感じ)
革命家や宗教家にありがちな「外の世界を自分の信ずる価値観で統一しよう(=この素晴らしい理想と理念を世界中に広めよう)」とする情熱の背後には、知らないうちに自分の人生が外界の価値観から侵略を受けた経験から「外から侵略されないように自分が外を侵略しておこう(=外に自分と違う価値観があったらそいつに侵略されてしまうから)」という心理があるかもしれない。外界に人生構築をべったり依存するということは、時に外界の価値観に己を侵略させることになることも。自分の中に自分を侵略させる因子を作っていないか要チェック。

自分しか知らない己の内なる世界に基づいてレールを敷き、その上を進むのは世界で唯一自分だけ。そういう発想がベターなのかもしれない。
(なお、他人にまで自分のレールを強要したら独裁者と変わらない。それじゃ自分のために外界を変形させようとする革命家達と同じになる。『これが私の生き方なんだから周囲がその犠牲になっても我慢すべき』では結局外界に依存した生き方でしかない。周囲の我慢に依存しているのだから)

◆セカイを革命する力を
生きてるのが辛いんじゃない。そんな生き方が辛いだけ。
例え世界が変わらなくとも、自分の生き方は変えられる。
つまらない世界に依存し引きずられて自分までつまらなくなることはない。自分は世界から独立(自立)すればいい。つまらない世界なんかあてにせず置き去りにして、つまらない世界に合わせたりしないで、自分は本当の自分の楽しさを追求していけばいい。世界がいくらつまらなくても自分は独自の楽しさを創っていける。世界にたった一人、自分にしか持ちえない「自分という人間の独自視点で物事や自分の人生を味わう力」と「本当に望む生き方を実現させる運勢(魂の環境インフラ)」がそれを可能にする。
外界の様子に依存せず内なる世界に基づいて構築した生き方は時に世間の目には地味でカッコ悪いかもしれないが、見た目は重要じゃない。重要なのは自分がその生き方を喜び愛せるかどうか。
一人一人が「人生」という小さな世界の創造者で、そこから生まれる世界は唯一無二のものだ。
つまらない外の世界に依存し支配されずに自立し、内なる世界に基づく生き方を始める者達が増えていけば、外の世界もやがて変わるかもしれない。ミクロの革命がマクロを変える。マクロの変化を待つまでもなく、自分のミクロを変えていくことは可能だ。
閉塞した人生を打開するために革命すべきは外の世界じゃない。そんな人生を構築する癖のある自分自身だ。
イスラム国に志願する若者達の多くが本当に望んでいることも、そういうことじゃないかと思う。
卵の殻を破らねば、雛は生まれず死んでゆく。卵の殻を破った雛は、やがて羽ばたき壁(世界の果て)を越える。-----------------(自分の)セカイを革命する力を。

◆世界と人生に絶望や閉塞感を抱える方(それでイスラム国行きを考えている方)へ
どんなに些細なことでもいいので世界でたった一人、あなたにしか分からないし味わえなかった楽しいこと、面白いこと、嬉しいことを出来るだけ沢山思い出してみてください。外部の価値観(評価)とは無関係に体験した自分個人の喜びや幸せといった「自分だけの良い思い出」を何でもいいのでを出来るだけ思い出してみてください。趣味の楽しみ、アニメやゲーム、漫画や小説、B級グルメやちょっとした遊び、部活、恋愛(片思い・二次元含む)、ネット等々、今まで生きてきた中で、自分にしか味わえず、自分にしか創ることができない「自分だけの体験」、自分だけが知っている心の宝が必ずあるはずです(例え途中で潰えた物事だとしても、どんなに小さなことでも)。その時味わった感覚は、その時その場の自分にしか持つことが出来ない貴重なもので、あなたにしか成し遂げることのできないことです。あなたという感性にしか味わえないことです。世界で唯一、あなたにしかできないことです。あなたはあの時、世界でたった一人、自分にしかできないことをしました。
今いる世界がどんなに退屈で醜く下らないとしても、そんな素敵なことがあなたにはできます。それは本当の自分が持ってる素敵な個性の一つです。あなたにしか味わえない(ゆえに別の何かと比較できない)そういう宝物を沢山体験し積み重ねてください。例え世間や周囲の価値観がそれを理解しなかったり、快く思わず評価しなかったりこき下ろしたりしても、自分だけはそんな唯一無二の体験に誇りを持ってください。それは誰にも出来ないことです(あなたを支配・抑圧したりバカにしている人にも世界にも出来ません)。自分までそのことに罪悪感や劣等感を持ったり恥じたり禁じたりしないでください。自分の本音を正直に認めてあげてください。あなたが望めば、それらは、必ず実現します。あなたをこの世に誕生させた力が、それを実現させます。
「自分にしか味わえない自分だけの愉快な体験」を積み重ねることは今からでも間に合います。焦る必要もありません。大げさに言えば、「死ぬまでに間に合えばいい」と思ってください。
(余計なおせっかいですが、上手なニートの過ごし方中二病のススメ、あるいはこちらコレもどうぞ)

余談:
アニメ化された有名な日本のラノベ作品に「主人公の少女が世界と人生に退屈するあまり、無意識に魔法のような力を発動させて外の世界を強引に変形・改変させてしまう騒動」を描いた話がある(実は中東でも人気らしい)。
彼女がやがて、「退屈打開のために世界が荒唐無稽な変化を起こさなかったとしても、自分は十分楽しく生きられる」と知った時、物語はハッピーエンドを迎えるかもしれない。
彼女にとって本当の望みとは、(実在したら世界がひっくり返るような)宇宙人や未来人や超能力者との交流ではなく、自分(の感性)にしか味わえない素敵な友情の交流なのだろう。本当は友達に特殊能力が無くてもいいのだ。世界がマンガみたいに荒唐無稽でなくてもいいのだ。ただ、自分が出会えたかけがえのない友達が大好きで、それだけで十分幸せで満足なのだろう。それが彼女に起きた「世界の革命」。
外界の様子に人生構築を依存する癖を持った主人公の少女が抱えている退屈さ(憂鬱)は、同じ癖を持った多くの人々が人生に対して抱えるつまらなさや閉塞感に通じると思う。あの作品がファンを増やしたのは、そういうところも一因かな?

魂の環境インフラ
侵略者と被侵略者←「外の風潮に己を侵略させてしまう」現象は個人単位じゃなくて民族単位で起きることもある
大切なモノを取り戻すためのジハード←イスラム国に志願する若者と犯人、抱える閉塞感が似てる?
「必要とされる」必要が無い
就活自殺の増加について
隻眼の視野
共同幻想から自己をとりもどせ

【オマケ】
イスラム国占ってみた

2013年11月27日 (水)

チベットに(内なる)自由を

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

中国、18歳チベット族僧侶が焼身自殺 懐柔策で月給支給も
「チベットには自由がない。亡命しても自由がない」焼身未遂の若者の言葉を聞いた=チベット蜂起記念日のダラムサラにて
焼身のチベット僧侶、死亡 20歳、ダライ・ラマ14世の名、何度も叫び
ダライ・ラマ「仏教者として心が痛む」 チベット族僧侶らの焼身自殺続

来日中のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は19日、東京都港区の増上寺で若手宗教者との対話集会に出席し、中国政府のチベット政策に抗議するチベット族僧侶らの焼身自殺が同国内で続発していることに「最も大切な命を他人のために投げ出し、世の中の不条理を問いかける行為だ。一人の仏教者として心が痛む」と述べた。チベット内部で、人々が焼身自殺に追い込まれるような状況にあることをあらためて訴えた発言とみられる。

◆セルフを外部に投影・同一視しない生き方を
焼身自殺の衝動にかられているチベット人に必要なことは、政治的な「独立」もさることながら、ダライ・ラマや祖国や信仰の姿に投影・同一視してしまった自分自身のセルフ(自我や顕在意識と無意識を合わせた精神世界全体とその中心的存在。時に自我や人知を超えた理想像になったり生きがいや自己実現の象徴になったりする)を自分自身の中に引き戻す(自分と統合する)、自分のセルフを投影対象と混同することなく区別し、いわば精神的な意味で「独立(自立)」することであるのかも。即ち「independence」。
こう考えると、 チベットでは精神的な自立をしていく発達期にある若者の焼身自殺も多いというのがなお痛ましい(青少年期や思春期の心はしばしば己の無意識に秘めた未来の可能性や自己実現を外部投影することがある)。
セルフ(生きがいや自己実現)を外部に投影・同一視してしまったために投影対象の有様に縛られてしまった場合、投影対象の状況が悪ければセルフの状況が悪くなった・失われたと誤認しやすくなる。すると無意識のうちに精神的な行き詰まり感や未来(可能性)に対する絶望感がふつふつと湧き起こるかもしれない。
チベットで発生する若者の焼身自殺は、セルフを外部に投影し、いわば人質にしてしまったことによる自分の精神的な「命の可能性」が抑圧された怒りと絶望感を自分自身にぶつけるという形で表現したSOSのようにも見える。
余談だが、自分の大事なセルフを外部に投影・同一視してしまう仕組みは時に「投影対象さえ無事に残れば自分自身は死んでしまっても構わない」という心理を誘発することもある。その様な心理を誘発させ悪用することで「死を恐れない狂信的で従順な兵隊」を作る組織もあるという。
セルフを外部に投影・同一視してしまう癖や生き方は、時に人生の自由を奪ってしまう。例え、何処に住んでいようとも・・・

◆大切なものは、目に見える世界よりも近くに
今の状態だと、無意識下に発生した「中国によってチベットの自由が奪われたせいで自分のセルフも奪われてしまった(=生きるよりどころを失ったからこの先生きてても一生自己実現は出来まい)」 という勘違いの絶望感に押しつぶされかねない状態で、心を支えるはずの信仰が心を絶望に追いやり、人生の意義や生きがいのあり方を奪ってしまう懸念。祖国も信仰もダライ・ラマも、自己実現のツールにはしてきたがあくまでツール(器)でしかない。 器は死すとも中身は死せず。
もしかすると、チベットが封建社会だった頃からの伝統的な外部投影型共同幻想の作り方が実情に合わなくなって来ているのか?  あれは投影対象が無事であれば安心感を持てるやり方だが、いざそうじゃなくなった時が問題だ。生きがいの作り方を従来よりももっと自由の利く形に再創造出来るかどうかがカギ?

そろそろ外部投影型の信仰から内面重視の哲学型仏教に生き方のよりどころをシフトチェンジした方がいいのかもしれない。チベットは外部投影型の素朴な信仰のみならず、内面重視の仏教哲学も非常に詳しく保存し研鑽してきた国だ。内面重視の仏教哲学では、セルフを外部に投影させる発想を持たない。ゆえに、外部の状況には一切縛られず左右されない。
「セルフ」の概念を説いた心理学者ユングもまた、仏教哲学には大きな関心を寄せていた。セルフは古今東西の神や仏のイメージの元ネタにされたという。また、特に東洋人が見る夢の中にセルフが登場するときは神仏の姿で象徴的に現れることがあるといわれている。それこそまさに、セルフは外部の何処でもなく、自分自身の内部にこそ存在している証だ。
(そもそも、自分の内部に無いものは外部に投影できない)
セルフと縁深いという神仏のイメージ。仏教の世界でも「仏は一人一人の中にいる」という思想はある。神社にお参りすればご神体の鏡に自分が写る。人間は、かなり昔から「己の内なる深淵に潜む尊くて大切に感じるもの」を拝んできたみたいだ。一人一人に自前の神仏がいるらしい。八百万の神仏・・・

とまれ、外部の「目に見える何か」に生きがい(生きるよりどころ)や自己実現といった「目に見えない大切なモノ」を投影・同一視し過度に縛られるのは結構怖いことなのかも。目に見える世界は諸行無常。何が起きるか分からない。

◆「自己」の主権をとりもどす
セルフ、自己実現、生きがい・・・自分の魂ともいえるような大切な部分を外部投影して投影対象の様子に影響され縛られてしまう状態は、自己の命が本来持つべき独自性や主体性を自分以外の何かに明け渡してしまうのと同じこと。チベットの集合無意識は長い間そういう部分を抱えてきたのかもしれない(セルフを日本語訳すると「自己」になる)。
長年積み重ねられたその状態が、「外部(中国)に主権を明け渡す」という運勢を招いてしまったのか?
・・・仮にそうだとすれば、チベットの人々が外部に投影していた己の命の独自性と主体性を己自身のもとにとり戻す(自分自身と統合する)動きをするようになれば、チベットの集合無意識の変化がチベットの主権回復という運勢を作ってけるかもしれない(占い師的発想)。
かつてチベットを侵略した人民解放軍は「宗教はアヘンだ!」と言ってチベットの僧侶達を迫害したという。が、当時の中国共産党思想もまた、一種の新興宗教だったりする。教祖様は毛沢東だ。多分、当時僧侶達を迫害した人々(信者)もまた、己の大切なセルフを「中国共産党」に投影・同一視してしまっていたと思う。とすれば、僧侶達への迫害はある意味近親憎悪みたいなものだ。本人達の無意識からすると、「宗教はアヘンだ!」は自分自身に向かって(又は自分の属する宗教に向かって)言いたかったことかもしれない。

大切な命を投げ出し不条理を問いかけている」byダライ・ラマ
・・・チベタンが「こんなこと間違ってる!!」と最も訴えたい(不条理を問いかけたい) 相手は国際社会でも中国政府でもなく、自ら作った不自由な精神的束縛にあえぐチベタン達自身に対してなのかもしれない。
(自ら作った精神的束縛によって)大事なセルフや自己実現を抑圧され、未来や可能性が行き詰まったことへの燃えるような怒り、身を焼かれるような苦しさ。死にたくなるほどの絶望感。そんな集合無意識規模の悲鳴(訴え)が歪んだ形で象徴的に表現し訴えた結果が焼身自殺になったのか?

だとすれば、自分自身をそこまで虐げ苦しめてしまっているのは、自分自身だ。
まさか、それで自分自身にも怒りが向いて、自分の体を傷つけるようなことを?
自分を苦しみと絶望に追いやったのはチベットから自由を奪った中国だけじゃなくて、自分自身の不自由な発想もその共犯者だったと?

・・・まあ、勝手な妄想でしかないんだけど。

王力雄:焼身するべきか否かの間から考える……あるチベット人との対話
共同幻想から自己をとりもどせ?
就活自殺の増加に思うこと←自分の人生や命の価値を外部からの評価に投影・同一視して縛られてるケース
「必要とされる」必要が無い←自分の自尊心を他者からの愛情に投影・同一視して縛られてるケース
デクレア・インデペンデンス

2012年12月18日 (火)

抑圧された心の叫びと米国の集合無意識?

米小学校の銃乱射で児童ら26人死亡、オバマ大統領も涙
学校で銃乱射計画、逮捕 米オクラホマの男子高校生
カリフォルニア州のショッピングセンターで男性が銃乱射
米・銃乱射事件 ホワイトハウス前で銃規制求める人々が追悼集会
米民主党、銃規制に本腰へ…オバマ大統領「全権限を使う」
米国で銃規制のオンライン請願書に15万人、最多記録を更新

米銃乱射事件のアダム・ランザ容疑者の母親はガンマニアだった

米芸能情報サイト「TMZ」によると、母親は銃マニアで友人や近所の人にコレクションの銃を自慢していたという。さらにはアダムを射撃場に連れて行き、銃の射撃の練習をさせていたというから、銃乱射事件の一因になっていたことは間違いない。母親は3年前に離婚。自衛のために銃を購入したことがきっかけで銃マニアになったという。
この母親を良く知る近所の住人は、「ナンシーさんの銃マニアぶりはハンパではなく銃器にとりつかれていた」と話している。アダムが使用した3丁の銃は母親の名義で登録されていた。

一方、米芸能サイト「レーダーオンライン」は、アダムが最近精神的に異常に落ちこんでいいて、足か腕に自分でライターの火をつけて焼くという奇行が目撃されていたという。精神的に不安定な状態にあったようだ。

母親は「なぜだかわからないけど息子はどんどん悪くなっていて、息子を失うかもしれない」と友人に打ち明けていたという。

◆心の叫びを表現する無意識
アダム・ランザの犯行は、犯人個人の精神的葛藤が長い間解決されずにこじれた印象がある(個人の憶測)。
そんな「こじれ」は長い間抑圧されて吐き出せなかった心の叫びを歪んだ形で表現する(させる)無意識の暴走を招いたのか、最悪の結末になった。
犯人がこんなことをする前に、犯行動機の原因・背景になった心への適切なケアなりアプローチなりが出来なかったことが悔やまれてならない。こんな事しても誰一人幸せにならない。犯人すら幸せな気分にならない。
犯人は無惨に殺された子供達を通して(子供を惨殺するという方法で)己の心を表現し訴えているかのようだ。

「俺の心はこんな風に惨殺されたんだ! 俺自身がとっくの昔に惨殺されてたんだ!」

◆「銃乱射」以外の再発もありうる
乱射事件はどうしても銃規制のテーマを連想させる。人々は「銃規制さえすればこんな悲劇は起きないのに」と考えてしまいがちだ。
心を暴走させた人間が衝動にまかせて手軽に銃を使える環境を放置してるのは確かに危険だけれど、再発防止をしたいならそれ「だけ」では片手落ちだ。銃を規制したら刃物とか車とかで同じこと起きるから。秋葉原通り魔事件がいい例だ。
「銃を使った犯罪じゃなければ同じ問題が再発したとは言わない」という発想は、物事を表面的にしか見ようとしていない。
乱射犯達の動機を調べることが出来れば、秋葉原通り魔事件と精神的な共通点があることが分かると思う。長い間抑圧されて吐き出せなかった心の叫び(苦悩)を、破壊や暴力といった歪んだ形で表現させる無意識の暴走。コレが共通点だ。
控え目で内気な人だと心の内を周囲に吐き出したり伝えたりするのが一層苦手だったりする。日本でもアメリカでも、乱射や通り魔といった衝動的な殺傷事件の犯人は内気な人・おとなしい人が多い。
(この手の殺傷事件が増加すると、物事の表面しか見ない大衆心理が内気な人に対する偏見を助長する懸念さえある)

また、人間が心の抑圧を抱えた場合、内気か否かに関わらず、本人すら心が抑圧されて叫び声を挙げていることに気付かないことも多い。それもあって無意識が「心の中ではこんなひどいことが起きてるんだ!」と歪んだ形で表現する(させる)まで放置されてしまうことが多い。
限界を超えて暴走した無意識の表現方法は善悪の判断が無く、破壊や暴力といった形になったり神経症の症状や自傷行為になることもある。

乱射犯が犯行後ほとんど自殺してしまうのが悔やまれるが、秋葉原通り魔事件の犯人はまだ生きている。彼の心を調べるといい。彼自身、自らの心を自己分析することが好きなようで、犯罪心理学だけじゃなく、社会学や臨床心理の研究においても貴重な存在だと思う。
現代社会は、なぜか人の心が抑圧されやすく、しかも暴走しやすい環境になっているからだ。

◆「大切なものは目に見えないんだよ」by星の王子様
問題の物理的側面(物理次元)しか見なければ、目に見える物理的な対症療法しか思いつかないし、それで解決した気になってしまう(そんな表面的発想が心の抑圧を招くことも)。
乱射事件が増えるアメリカ。現代文明の頂点に立って繁栄してるはずの先進国アメリカという国で、心が抑圧され、しかも救いのないまま心が暴走していく人々が増えていること。コレが何を意味するのか。14日には治安のいいハイソな住宅街でそんな暴走が起きたこと。大学での乱射事件など、インテリ層からすら犯人が出うること。コレが何を意味するのか。

表面的な視点に縛られ肝心なものがおざなりの社会。心が抑圧され暴走しやすい環境・心が暴走するまで問題が放置される環境を抱えた社会を改善させていくこと。そのスタートを切ること。カウンセリングやメンタルケアが日本よりも身近で気軽に利用される国の大統領や政治家達になら、多少それが出来るかもしれない。
それとも、複雑に絡み合う利権(欲望)がそれすら許さないだろうか?

叫びを吐き出せぬまま抑圧され続けている心に対して、その叫びを破壊や暴力などの歪んだ形で表現させようと忍び寄る黒い影は、富や地位や治安や信仰など無関係だ。心の抑圧・暴走といったものは、条件や環境次第で誰にでも起こりうることだし、ゆえに「黒い影」は誰にでも忍び寄りうるのだ。
(恐らく、そんな『黒い影』が悪魔や邪悪な存在のイメージモデルになったのかも)

◆銃撃戦論と銃規制論は同じ土俵?
その「黒い影」には、鉛弾だろうが銀の弾だろうが歯が立たない。
それを踏まえると、「銃規制さえすれば」という発想と同様、ライフル協会のお偉いさん達の主張も物事を表面的にしか見ていない。
お偉いさんたちは、たびたび起きる乱射事件をきっかけとした銃規制論に対し、「乱射事件が頻繁に起きるならなおのこと銃で身を守るべきだ」という主張をする。今回もそう主張した

銃規制に対しては、銃のロビー団体「全米ライフル協会」(NRA、会員約400万人)からの反発も予想される。
NRAから強い支持を受ける共和党のゴーマート下院議員は16日、サンディフック小学校で射殺された女性校長に言及、「銃を所持していれば、校内で銃声を聞いたとき銃を取り出して反撃できた」と、銃の有用性を強調した。

・・・銃の乱射に銃で対抗したらただの銃撃戦だ。余計死人が増える。

「悪者は撃てばいい」という発想も、「銃規制さえすれば」という発想も、等しく問題の本質を見ようとしてない。乱射事件や凶悪犯罪が頻発する背景にアプローチする発想がないのか、あえてその背景から目をそむけて解決から逃げているのか・・・ などどうがった見方をしてしまう(妄想) 。
銃撃戦論も銃規制論も、問題解決を頓挫させる思考停止の落とし穴が等しく口を開いている点では、正反対の意見対立に見えるが同レベルだ。

「対立するもののどちらにも屈するな」 byC.Gユング。

◆心の叫びにアプローチしやすい社会
乱射を含め、抑圧された心の叫びが破壊と暴力につながるケースが多発する傾向はアメリカだけじゃなく、世界規模で広がっている。世界の社会環境自体が人々の心にあの黒い影を忍び寄らせている。それは即ち、抑圧されたまま手を差し伸べられることなく放置され続けてきた世界中の心が叫んでいるということか。
「心が抑圧され暴走しやすい環境」・・・この課題に文明規模・社会規模で取り組めるようになると、その文明社会は精神的に進化していけると思う。

叫びをあげる心にアプローチしやすい風潮やシステム、環境、本人が無意識下で叫びを上げる心に気付き叫びの内容を整理る力を養いやすい教育・・・そういったものがあると、日本のイジメ問題にも効果的だと思う。
いじめっ子本人が己の叫ぶ心を破壊と暴力(イジメ)につなげることなく解決し、周囲がそれをサポート出来る社会になるから。


【常識を逸脱した方法や犯罪的方法で心の叫びを表現し訴える欲求のある人へ】
周囲がそんなあなたの心の叫びを正確に理解できるためにも、犯行前に自分がその行動を考えつくに至った動機や背景をさかのぼり、よく整理してしっかり書き残しておいて欲しい。
で、それ書いたら犯行前にその内容を一番伝えたい相手(一番正確に理解して欲しい相手)全員に見せて。

犯罪とか大掛かりなことしなくても、割とそれで事足りるかもしれない。

【オマケ】
以前、オバマ大統領を占ってみたのだが、そのとき、「物事を平和的に変革してゆくことができる」という暗示が出ていた。他にも「霊媒的で集合無意識レベルでの抑圧を解放する媒体になりえる」「不安と神経症の時代における重要キャラクター?」といった解釈ができた(文章版参照)。
もしかすると、彼は銃規制に関してかなり運気の後押しをもらえる人かもしれない。それも、集合無意識規模の後押しを。

アメリカで最近多発する乱射事件。それが、抑圧され続けたアメリカの集合無意識が暴走して破壊的に表現する「抑圧されたアメリカの心の叫び」だとしたら・・・
銃規制だけでは根本解決とは言えず、治療というより麻酔のレベルに近い。しかし彼の今後の働きが徐々にアメリカの集合無意識に作用していって、少しでも問題が根本解決へと進むための媒体になることを祈ろう。

2012.12.21追記
悲しみ消えぬ町=「心の病」、対策求める声-米小学校銃乱射から1週間
事件の起きた町の人々は、この手の犯罪は心へのアプローチがカギであることに気付きつつある。この気付きが集合無意識の中に広がっていけば・・・
社会が心へアプローチする取り組みをすれば、銃を使わない犯罪にも効果的。その気があれば、銃規制を待つまでもなく始められる。


「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見て←私がまだ駆け出しの占い師だった頃書いた記事。
サウスパークで「銃の歴史背景」

急増する米兵不祥事から妄想
↑銃規制の流れが本格化した場合、それもテキサスで起きた龍脈変動の影響あり? テキサスと銃乱射現場の小学校は鬼門と裏鬼門の位置関係。この二つの位置関係は鬼門線という線が引ける。鬼門線は別名「神の通り道」と呼ばれるほど強烈な運気を発することがある。
テキサスは軍産複合体の拠点なので銃規制への流れに対する強い抵抗が発生していたが、今回はいつになく銃規制の流れが強まっているのが意味深。「強烈な運気」が発生した?

2013年4月追記
グアムの事件に続き、案の定「銃乱射」以外の再発がまた起きた→米 大学で次々刺され14人けが

2012年8月31日 (金)

感情労働と自他の境界

感情を使う仕事につく人の「心」の守り方

たとえばサービス業や営業職の人は、苦手なお客さんにも常ににこやかに対応することが求められます。苦情の対応に追われるコールセンターでは、怒鳴り声にもやさしい声で受容的に対応することが求められます。
(中略)
このように、「人相手」の仕事につく人の多くが、決められた感情の管理を求められ、こうした規範的な感情を商品価値として提供する仕事を「感情労働」といいます。
(中略)感情労働は、とてもストレスフルな仕事です。
不快なこと、失礼なことを言われたら、つい嫌な気持ちが顔に出てしまうのが人情ですが、感情労働においては、個人的な感情を仕事に反映させないように、セーブすることが求められます。
(中略)周囲も本人も、仕事の顔は実際の本人と裏表なく一致しているべきだと、考えやすいものです。
そのため、感情労働につく人は精神的に消耗しやすいのです。とくに、使命感がとても強く、ひたむきな気持ちで仕事をしている人ほど、突然ポキッと心が折れてしまうような虚無感に襲われることがあります。これを「バーンアウト」(燃えつき症候群)と言います。
(中略)「こうあらねばらない」という仕事上の「ペルソナ」(仮面)に縛られすぎてしまう人ほど、バーンアウトするリスクを抱えているのです。

(「ペルソナ」という心理学用語は、私の好きなユングの概念だ。
解説

◆ペルソナ作りは「実用重視」で?
使ってて疲れるペルソナは、実用性が無いのでやめた方がいい。また、社会はむやみに実用性の無いペルソナを求めないほうがいい。
私の職業(占い師)も感情労働なので、クライアントが誰にも言えない心の内を吐き出しやすい雰囲気(ペルソナ)を身にまとう必要がある。中には犯罪めいた過去や危険な心の闇、世間的には後ろ指を指されたり不快感を抱かれうる問題を抱えている人もいる(それを言葉にして吐き出せるうちはまだマシなのだが)。

しかし占い師側はそれに感情移入して怒ったり悲しんだり非難し反省を求めたりすることはしない。それでは「吐き出しやすい雰囲気」をまとうことが出来ない。それよりも、問題の背後を見る。

占い師の持つ「心の内を吐き出しやすい雰囲気」には二種類あると思う。一つは何でも受け入れて肯定してくれるタイプ。何を話しても決して否定はせず、同意してくれたり同情的なリアクションをしてくれるタイプ。イメージとしては「甘やかしてくれる母親」。このタイプはお世辞を言ってくれることも多い。
時には実際の占い結果よりも相手が期待し喜ぶ占い結果を言ってくれることがある。「気分が良くなるから吐き出したい」と思わせる感じ。
このタイプは典型的な感情労働者のイメージに近いかもしれない。実際、このやり方(サービス方針)は多分ペルソナに縛られてペルソナを演じることに疲れバーンアウトしやすいと思う。
(とはいえ、そのやり方を一番得意とする占い師さんもいらっしゃるので、一概には言えない)

もう一つは否定も肯定もしないが、話を良く聞いて深く理解しよう・解決の糸口を探ろうと集中するタイプ。同情的なリアクションもせずお世辞も言わず無愛想だが、「どこがどう苦しいのか」をマジメに探ろうとする医者みたいなイメージだ。母性的ではなく、男性的かも。
相談者にとっては、とりあえず否定的なリアクションはしてこないし自分を分かろうとしてる様子を見て無意識に心の吐露を促されていくような感じ。
相手のリアクションを期待して相手に意識を向ける必要がないので、相談者は話しながら意識の全てを己の内面に向けることが出来る。

私の場合は後者だ。私自身が積極的に感情を使うというよりも、クライアントの感情を客観的に冷静に観察する作業に徹することで過度の感情移入を避け、占いの作業効率と心の保護を兼ねる。
クライアントが無意識に前者のような同情的・肯定的リアクションを期待していた場合、不満を抱かれることもある。感情活性が静まっているので、思いやりの無い冷血な人間にみられることもある。
時には「あなたには優しさのかけらも無い。占い師失格だ!」「私がどんなに苦しんでるかわかりますか!? 分かりませんよね!?」とかキレる人もいる。そのリアクションすら相手の状態を知る貴重な手がかりになる。相手が不満をぶつけてくることでより一層相手の心理や問題の背後が見えてくるので、それがマズイことだとは思ってない。むしろありがたい。

◆「不快感」はあくまで相手の個人的問題
そもそも、「相手が不満を持ってはいけない」などと考えたことが無い。誰にだって不満や不快感を持つ自由ぐらいある。相手が不快感を表明したからといって私までストレスに感じることは無い。個人的な理由と原因で不愉快という感情を選択したのはあくまで相手だ。私ではない。どんな感情を選択するかは相手の自由だ。
この発想は、感情労働全般、とくにクレーム処理にもオススメ。相手が怒ってるのは自分に対してではなく、相手自身が抱える自分個人の不快感、自分自身の抱える事情に対して怒っているのだと思うこと。例え無責任に見えても、ペルソナの裏ではそう思ってるといい。実際、相手は己の怒りを投影している人間個人には何の恨みも無い。八つ当たりってのは投影相手個人への怒りや憎しみが原因ではないのだ。原因は別の方にある。ただ、その原因を目の前の人間に連想・投影・同一視してしまっており、いわば自他の境界を失った状態にある。
「自他の境界をしっかり保つこと」。感情労働だけではなく、人と接する仕事の人はここが大事だ。相手が境界を失っているからといってこちらまでそうなる必要はない。

私の場合、自他の境界を失った相手への受け答えに意識を向けるのではなく、あくまで自分の仕事に意識を向ける。そういう相手の言動を無視して仕事(占い)の本質に焦点を合わせることが、相手に巻き込まれない方法のひとつだ。
自分の中で想定していた通りの同情的なリアクションを裏切られて「私の苦しみなんかどうでもいいんだろう」「私なんかどうなってもいいと思っているんだろう」というタイプの怒りを発するお客様(電話占いの世界では珍しくなかった)には、「ココへ相談しに来る方々は皆さん相当苦しんでます。よほど悩まなければまず相談には来られませんね。」とか何とか、KYな返事をして相手を白けさせ、意識の向きを変えさせることもある。
「せっかくご相談いただいたことですし、『どんなに辛いか』を見て終わりにするよりもその辛さの背景から糸口を探らせていただいた方がお役に立てるかと思いますが、いかがでしょうか?」

相手がそういうのを求めていなければ、そこでこの占いは打ち切りだ。打ち切りになっても、それを失敗だとは思わないし、打ち切りが自分の落ち度だとも思わない。相手が「自分の求めているものはこの占いではない」と気付くことができただけでも上々だ。余計なお金は使わせなくて済む。
「ソレに金を使うべきか否か」を客に冷静に判断させてしまうのは、客の心理をおだてたり煽ったりしてでも業績や売り上げUPを優先する(それが目的になっている)商売にはタブーかもしれない。
とはいえ、こういうのだってある意味サービス精神になりえないか?

◆作業中にだけ現れる人格?
「空気読めないアスペ風キャラ」などと評されることもあるが、それがいわば占い師としての私のペルソナだ。作業効率と実用性を追求したら自然とそうなっただけなので、わざわざ意識的に「演じる」必要がない。だからこのペルソナのせいで疲れることは無い(半分素だし)。この作業をしていないとき(例えばイラストを描くとき)は、また別の性格が表に現れる。
(なお、私のペルソナをアスペルガーに例えるのはアスペルガー障害に失礼だ)
要は仕事で使う脳の作業モードをそのままペルソナのキャラベースにしてしまえばいい。実はこれを書いている今も、私の中から占い作業中に現れるKY人格のペルソナを呼び出して書いてみている。

このKY人格を指して「淡々としているけど、本当は優しい方ですね」と言われることもままあるが、それ自体、私の素顔ではなく、あくまで職業上の作られた顔(キャラ)でしかない。
「ま、そういう商売ですから」とKYに返すことすらある。

感情労働者ならしばしば経験することだが、客が感情転移を起こして自分の仕事上のペルソナに恋をしてしまうケースがある。自分自身じゃなくて、仕事上の顔(=商売道具)に恋されちゃうのだ。
(そして占い師がそんな恋の相談を受けたりする)
私にもそういう経験はある。その場合、相手が惚れたのは私じゃなく、私の商売道具だ。いわば、自分が持ってきたカードや水晶玉やテーブルに客が突然愛の告白をしたのと、あまり変わらないと思っている。だからそう伝える。感情転移で占い依存症になられるよりはマシだから。

◆「相手から感情を満たしてもらうこと」を目的にしないで
コールセンター、営業、病院、カウンセラーetc・・・さまざまな感情労働には、だいたい「相手の一時的な感情を満たすこと」以上に大事な使命がある(一部の接客業は除く)。その使命を果たすこと。客がそこへ来た本来の目的に応えること。その結果、相手が喜ぶか特に喜ばないかは相手の自由じゃないかと思っている。相手の感情を満たしてやることよりも、相手に本来の目的へ意識を向けさせることが重要だ。そうすれば、相手もそれを差し置いて八つ当たりを優先する方向には意識が向かわなくなる。
(最初から純粋に八つ当たり目的のみで来た客は除く。それはただの営業妨害であり、客とは言わない)

リンク先の記事にある「使命感がとても強く、ひたむきな気持ちで仕事をしている」という状態が「仕事をしている自分の感情を満たすために(達成感ややりがいを味わうために)相手の肯定的リアクションを求める」という発想からスタートして作られていると、特にバーンアウトしやすいかもしれない。相手の肯定的リアクションに使命感やモチベーションを依存しすぎて不安定になるからだ。
感情労働者とその相手(客)。どちらもお互いに、「相手に自分の感情を満たしてもらうこと」を目的にしてはいけない。もしそれをすれば、「自分でないもの」を自分の一部に組み込んでしまうことになる。組み込んだ他人が自分の思い通りに動かないと自分が保てない・動けないことになってしまう。自分と他人の境界を崩すことは、自分の輪郭(自分本来の姿)を失うことでもある。自分と他人、両方を否定する行為だ。
そして何より、「相手に自分の感情を満たしてもらうこと」に執着していると、類は友を呼んで同じ執着を抱えた客に出くわしやすくなる。

(なお、もしも私の占いで自分の感情が満たされてゆくのを感じたとしたら、それはあなた自身が私の占いを使って自ら己の感情を満たすことが出来た証です。自分の感情を満たす能力は、自分の中にこそ眠っています)

2012年4月20日 (金)

ヨガとタロットの「戦車」

参照元より抜粋。

■ヨーガの意味と起源

ヨーガの起源をたどりますと、紀元前二千五百年程のインダス河流域のハラッパやモヘンジョダロなどの遺跡から、ヨーガの坐像の印形が出土していることから、その頃を起源としているようですが、実際に「ヨーガ」という言葉が宗教的用語として確認されているのは紀元前五百年前後のベーダンタの時代で「ヨーガ」とは「馬を車体につなぎ、その馬車をコントロールして、道をはずさず、人生の目的地へ行くこと」を意味していたのです。

カタ・ウパニシャッドでは 「真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちはもろもろの感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる」と述べています。こ のことから「ヨーガ」とは、馬を車に「つなぐ」(yuj) が語源であり、意味するところは「結ぶ」「コントロールをする」「バランスをとる」との 意味をもってきました。


この部分に目が釘付けになった。
真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちはもろもろの感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる。

・・・これ、まるっきりタロットの「戦車」だ。インドのヨガとこんなにも照応してるとは!
真我(アートマン)はユング心理学でいえばセルフ。オカルト風にいえば魂。攻殻機動隊なら「ゴースト」。これが車のオーナー(車主)に相当。これが馬車(体)の中に宿って(乗って)いるから我々は生きている。体から魂が抜けると体は死ぬ。 ヨガの理論だと、我々の本体は体じゃなくて魂(アートマン)だ。

御者は理性、又はユング心理学でいう自我。御者(自我)はオーナーの意にあわせて手綱を操ることで、オーナーと連携して馬車を進ませる。
(御者は自我でもいいが、自我を含めた脳ミソと考えてもよさそうだ。御者が脳ミソなら手綱はさしずめ神経というところか)
御者の操る手綱の動き(意志)は、御者から生まれたものではない。自我が作った意志ではなく、魂から生まれたものだ。
自我のレベルを超えた、無意識のはるか奥深くからやってきた意志なのだ。
馬車の旅路(人生)は、決して自我の力だけで進められているものではない。魂(オーナー)があってこそ成立する。
馬が感じとる手綱の動きは即ち、魂の意志なのだ。自我の意志じゃない。
馬が感じ取って動き、車輪が回り、車体が動き、「道(現実)」が出来る。精神的か物理的かを問わず、現実の中で人生が進む。
魂の意志が手綱を伝い、馬がそれを感じて動いた結果、車輪が回り道が刻まれる。馬車の車輪(wheel)はタロットの「運命の輪」だ。Wheel of fortun。これが魂の意志にあわせて回る。魂の意志が車輪の動き(運勢)で作った現実。魂の意志で内容をデザインし作られた現実。これを(どちらかと言えばポジティブな意味で)運命と呼ぶ人もいる。シンクロニシティーを運命の一種と考える人もいる。

道。古代インドでは私たちが現実として認識しているモノは脳を含めた各種感覚器官が感じ取る情報(=感覚の対象・認識の対象)にすぎないという考え方がある。「道(現実)とは、馬が手綱に合わせて動いた(感覚器官が魂の意志に合わせて作動した)結果」という解釈だ。その場合、本来なら現実自体が魂の意志無しには作られないことになる。

だが、もしも「魂でないもの」が手綱をのっとり、馬に魂の意志とは異なる指令を伝えたら、馬は偽りの動きをして、偽りの現実が作られてしまう。私たちは偽りの世界に閉じ込められてしまう(これがマトリックスの元ネタ) 。

御者がオーナーの存在を認識できなくなったり、オーナーを無視したり、自分がオーナーに成り代わるなどして己の意志で好き勝手に手綱を操れば、馬と馬車は暴走・迷走し、本来の道を外れ(道に迷い)、人生は目的を見失う。自分(=魂)が本来何を望んでいたかを見失う。暴走する馬車の車輪は本来の魂的動きを失い、運気や運勢は不安定になる。
これはタロットなら「戦車」の逆位置になる。意味は無茶、暴走、挫折、不注意、独断、自分勝手、傍若無人、行き詰まり等。
即ち、「エゴイズム」だ(自我は英語でエゴ)。

実はタロットカード、御者だけで馬車のオーナーが描かれていないカードがとても多いのだ。手綱を操る者がオーナーを兼ねているとも言える。
最古のタロット、ヴィスコンティ・スフォルツァ版の戦車(画像)にはオーナーが描かれている作品もあるのに対し、19世紀に描かれて現在もっともポピュラーなタロットになってるウェイト版の戦車(画像)をはじめ、多くのタロットではオーナーが描かれてない。
・・・魂はどこへ行った? 御者がオーナーに成りすましてるんだとしたら、ギリシャ神話の「パエトーン」みたいなことになりかねない。
私たちは、御者という機能を持つ魂だ。車のオーナー(魂)が御者のあるじ(owner)なのだ。御者(自我)の機能は魂が馬車に乗った時点ではじめて作られるもの。自我と魂を混同・同一視すると、たちまち死の恐怖に囚われる。
脳(体)に宿る魂(ゴースト)があるからこそ、脳は動き感覚や自我が生まれ、それを使って人生を旅する。人生をつむぐ。

生きる目的や意味について悩む人々(道に悩む人々)は、御者の視点・視野で強引に考えたり解決しようとはせずに、己のオーナー(魂)と再会し、その視点・視野を乞い、それと連携しようとする発想が吉かも。道を知ってるのはオーナーだから。
(以前の記事で、『己の内面や心の動きを客観的によく観察したり己の心を探り自覚する作業』について書いたが、この作業はオーナーの視点・視野に少し近づき、より連携しやすい精神環境を作る効果があるのかも)

ヨガのポーズを色々やって馬を車につなぐだけで満足せず、御者とオーナーとのつながりと連携を意識し目指すことも大切なのだろう。
話によると、ヨガが生まれた少し後のインドでとあるセレブがそれにチャレンジしたらしいというが、もはや結果の真相は本人にしか分らない。


【余談】
手綱を持つ御者の様子からなんとなく運勢の様子(車輪の様子)を推測するのも占いと言えるだろう。魂の意志(本来の望み)に沿った運勢が作れるようにするための工夫や努力を「開運法」と呼んでもいい気がする。
このご時勢、「パエトーン」というと山岸涼子の作品を思い出す。 オーナー(魂)を無視して暴走した自我が作り上げた歴史と文明、その先端技術に開いた仇花(あだばな)・・・それが原子力技術とそれが生み出す結末の火花なわけか。去年福島でも咲いたな(遠い目)。

【注意】
なお、いろんな宗教で「エゴ(エゴの執着)を捨てなさい」と言って帰依を迫ったり洗脳したりお布施をせびるケースが多いが、その言動や発想自体がオーナーを無視してエゴイズムで生きている証だ。

人の器に宿りし金運←今の経済システムは御者がオーナーを無視して強引に金運(豊かさ)を作ってるようなものか。どおりで不安定なわけだ。

【追記】
かつてイエス・キリストが説いたという噂の「グノーシス(悟りの西洋版的なもの)を前提にした救い」。これがもしも今回書いたタロットの戦車(もといヨガ理論の馬車)で例えたような話と関わっていたら。即ち、「オーナーとのつながり(セルフとのつながり・セルフという存在)を忘れた御者 の操る迷走馬車が、オーナーを思い出して迷走から抜け出し、その人本来の命の旅路に復帰する」 ということを「救済」の前提としていたとしたら・・・
チリとNZで異端妄想

5月28日追記
もしかすると、戦車のカードから姿を消したオーナーは、「力」のカードでライオンを手なづけに行ったあの人かもしれない。
オーナーとのつながりと連携。それは、仏教で言う「弥勒」を引き起こす?
関連記事

2012年4月12日 (木)

もののけ姫を心理学的に妄想

『もののけ姫』のカヤはアシタカの妹!?

さて、その真相はというと……ズバリ……妹ではない! 公開当時、販売されていた『もののけ姫』のパンフレットには「アシタカの許嫁」と書かれており(中略)
ちなみに、カヤが渡した玉の小刀は『乙女が変わらぬ心の証に贈るもの』という設定。(中略)
アシタカは玉の小刀をもらったときに「私もだ。いつもカヤを想う」と甘い(?)返事をしておきながら、旅の途中に出会ったサン(=もののけ姫)に、サックリと小刀をあげてしまうのだ! 女性陣から大ブーイングが起こりそうなこの行動から「許嫁にもらったものを、ほかの女に簡単に渡せるわけがないからカヤは妹」と考えるファンもいる模様。しかし、あくまでも設定は「許嫁」。

以下、上の記事を読んで作った妄想。ここに登場する要素は全てアシタカという一人の主人公の中にある各側面。いわば、同一人物。「もののけ姫」は、アシタカの心の中で起きた物語。

カヤ・・・アシタカが呪いを受ける前、平穏な人生を生きていた頃に求めていたアニマ(心の中にいる理想の女性像。時に無自覚な個性の一部)
タタリ神・・・抑圧された(虐げられた)ことでアシタカ自身の無意識が発する本能的な怒りと悲鳴。呪いの源。抑圧の真相が分らないうちは八つ当たり的な暴走をしうる。
呪い・・・心が抑圧された(心理的抑圧を負った)ために発生する症状。
サン・・・呪いを受け、さまざまな体験をして人生を激変させた後のアシタカが求めるアニマ。彼の抑圧された個性。縄文的。
シシ神の森・・・サンというアニマが住んでいるアシタカの無意識世界。
森の住人達・・・アシタカの無意識世界にある個性や可能性。
シシ神・・・アシタカのセルフ(顕在意識と無意識を含めた精神世界全体の姿。精神世界全体を統括する中心的な存在)。森とそこに住む生き物と人間、という作品世界に登場する全要素を併せ持つ姿をしている。その本質は魂(=命そのもの)なので変幻自在にして不死。
エボシ御前・・・アシタカの心を抑圧する無自覚な因子を象徴するアニマ。近代的思考の持ち主。

カヤからもらったアニマと愛情のシンボルである小刀をサンに贈るということは、カヤというアニマがサンというアニマに「キャラデザ変更」されたような感じがする。
だが、アシタカはかつて求め惹かれていた「カヤ」というデザインのアニマを忘れない。それは、既に彼自身の一部なのだ。
サンもまた、彼の一部として「対立せず共に生きる」ことを誓った己の一部である。
アシタカは、既に「カヤ」という個性を統合し終え、次に「サン」という個性を統合することにしたわけだ。

愛情のシンボルである小刀は、統合のシンボルでもあるのだろう。そして「もとからアシタカのために作られていたもの」だった。
そういえば、作中でサンはアシタカの胸にあの小刀を思いっきりぶっ刺しているw そして刺されたアシタカがそのままサンを抱きしめるシーンにつながる。

とはいえ、彼女はまだ無意識界の住人である。ラストでも本格的な統合には至っていない。己が抑圧してきたものの存在をありのまま認め、しかしそれをおおっぴらには表に出せない。異なる場所で対立せずにできるだけ尊重しようとしている段階。異なる場所で「共に生きよう」だ。

もののけ姫から11年後の「ポニョ」では、主人公の宗介が海(やはり無意識のシンボル)の住人であるポニョのありのままを受け入れ、そして「同じ場所で共に生きる」ことを誓い、白昼堂々と口付けを交わす。
ここが「もののけ姫」の二人よりも進歩している。
宗介とポニョは、アシタカとサンが生まれ変わった来世の姿かもしれないw

作品の中で「虐げられていく森」は、近代思考(近代的意識)によって切り捨てられ、顧みられることなく抑圧され(虐げられ)ていく無意識の世界と、そこに潜んでいる個性や可能性のシンボルのようにも見える。
無意識を虐げそこに潜んでいる個性や可能性を抑圧する近代的思考はエボシ御前が象徴する。これが健康だった心の世界(森)を脅かし征服していく。彼女が頼り信じる「近代的思考に基づく価値観」を追求するための犠牲になって抑圧され(虐げられ)ていく森と住人たちは怒りと悲鳴を上げる。
森の住人と対立したエボシ御前が左腕(左は無意識の方角)を食いちぎられたのは、「無意識とのつながりを断ち切られた」という象徴か。近代思考を選んだ彼女は自ら無意識を切り捨てたのだ。そしてそれは、自らの半身を切り捨てたのと同じ。

アシタカが呪いを受けたのは右腕。左の無意識に対して右は顕在意識や自我の方角。不自然な生き方を突き進む近代思考に抑圧され虐げられていく無意識の怒りと悲鳴が顕在意識に神経症状として現れた様子が「呪い」という形で表現されている様子とも想像できる。
「呪い」を持った者が試みるべき救いの道は、「曇りなき眼で見定め、決める」ということ。即ち、抑圧を抱えた己の心と正直に向き合い、探り、心の中で起きている真実を見つけ、その上で今後の生き方を決めること。
その結果、サンに向けたラストの科白がその時出せたアシタカの精一杯の結論だろう。
この『救いの道』は、以前の記事で取り上げた依存症という症状を抜け出す時にも同じく使える道だ。即ちその願望やその不安がどこから来たのか、その抑圧された真実を曇りなき眼で見定め、解決策を決めるのだ。即ち、「ニセの不安や偽の願望(呪い)」に惑わされぬ曇りなき眼で己の心と正直に向き合い、願望や不安の原因となっている抑圧の正体を探り、真実を見つけ、適切な解決手段を決めること。


【ここは心理学というよりオカルト】
無意識を切り捨てたエボシ御前は無意識の奥深くにある「神秘」とのつながりを持っていない。彼女は「神殺し」と称して森の奥深くに住むシシ神を撃った。近代思考は己の本質が魂という「死なない生命」だとする認識と、それに基づく視野や発想を抑圧し否定してしまったのだ。それが「死の恐怖」という現象を引き起こす。タタリ神になってアシタカの村を襲った「ナゴの守」が死を恐れたという設定は意味深。ナゴの守もまた、もとはシシ神の森(=アシタカの無意識世界)の住人だ。彼は、「死に対する恐れ(銃弾がその象徴)」を植えつけられたことで自分自身の本来の姿(不死なる命の姿)を抑圧されてしまったためにその怒りと苦痛で祟り神になってしまったのだ。
(ナゴの守が植えつけられた不死性を抑圧=忘却した結果の『死の恐怖』は肉体の損傷に対して必要以上の余計な苦痛を増幅させてしまうのかもしれない。余計な恐怖が余計な苦痛を増幅させ、余計な苦痛は恐怖を増幅させる)

【蛇足の妄想】
アシタカの村は蝦夷がモデル。多分タタラ場のモデルは出雲だろう。
鎮西(九州)から来た人語を解するイノシシたちは熊襲や隼人達なのかもしれない。ボディペインティングが彼らの刺青っぽい。
(蝦夷は縄文系民族だといわれている。サンというアシタカのアニマが彼以上に縄文的なのは意味深?)

個人的なイメージだが、タタラ場を開きやがては「国崩し」という銃器を量産して己の国を築こうとしたエボシ御前はなんとなく卑弥呼っぽい。神秘の変わりに科学とモノづくりの力を駆使した卑弥呼。
(まあ彼女は『クシャナ』なんだけどね。共産革命起こしそうなクシャナw そしてジコ坊はクロトワw)

「もののけ姫はこうして生まれた」に収録されている宮崎駿の言葉が今となっては鳥肌モノなのでご紹介。

百億の人口がねぇ、二億になったって別に滅亡じゃないですからね。そういう意味だったら、世界中の野獣は、もう滅亡、絶滅していますよね(笑)。そうですよ。元は百匹いたのに、今は二匹しかいないなんて生きもの一杯いますからね。そういう目に、今度人類が遭うんでしょ、きっと。でもそれは滅亡と違いますね。僕等の運命ってのは、多分、チェルノブイリで、帰ってきた爺さんや婆さん達が、あそこでキノコ拾って食ったりね、その『汚染してるんだよ』って言いながら、やっぱり平気でジャガイモ食ってるようにして生きていくだんろうなっていうね…まぁ、その位のことしか言えないですよね。それでも結構楽しく生きようとするんじゃないかぁっていうね、どうも人間ってのは、その位のもんだぞって感じがね…

(´-`;)・・・チェルノブイリ、ね。 
今となっては、「強い火気」を発するタタラ場が原子力産業にみえてしょうがない。「国崩し」なんてまさに原子力兵器。それから、森(無意識)の主、シシ神に潰されたタタラ場と、海(やはり無意識のシンボル)に潰された福島のアレは、なんか似てる・・・
また、現代の「タタラ場」もやはり出雲の地に存在している。国産第一号の原発、島根原発だ。今年に入って全て停止中。

このヒトはポニョでも予言めいた描写をしてる。おそらく、アシタカとサンそして宗介とポニョの物語は、日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語。近代思考の象徴エボシ御前に傷つけられてタタリ神になったナゴがアシタカの右腕にかけた呪いを「近代思考に無意識世界が虐げられ抑圧された結果の神経症状」と解釈した場合、「ポニョ」がリリースされた当時に 宮崎氏が近代思考によって文明が成り立つ現代のことを「不安と神経症の時代」と表現していたのが意味深になってくる。

もしアシタカがサンというアニマと晴れて結ばれたなら、彼女を「わが妻」と呼ぶだろう。即ち吾妻(あづま)だ。東日本を示す古語の語源である。ここまで連想した時、 以前書いた記事を思い出した。「あづま」の語源は、ヤマトタケルの神話だっけ。神話の公式設定ではタケルの「吾妻」は自然の怒りを鎮めるための生贄になった。で、ジブリの公式設定だと生贄として森に投げ込まれた赤子がサンだ。

~日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語~
「様々な日本の神々や日本列島を生み出した夫婦神イザナギ(男)とイザナミ(女)は深く愛し合っていました。しかし出雲で製鉄産業(=軍需産業・東征の武力源)が興った頃、鍛冶と火を司る神を生んだ時にイザナミは火傷で死んでしまいました。死の恐怖を司る産業を生んだことで不死なる命(命本来の姿)を封じられたイザナミは死に、そして出雲にお墓が出来ました。
夫イザナギは亡くなった妻のイザナミが恋しくて妻に一目合おうと黄泉の国に出かけましたが、そこで全身にヘビがまとわりついたゾンビのような(タタリ神のような)本来の姿とはかけ離れた変わり果てたイザナミの姿を受け入れられず、怒り狂うイザナミから逃げ切り自ら縁を切ってしまいました。イザナギは「死の恐怖」が生まれたことと命本来の姿が失われたという事実から目を背けたのです。その事実はイザナミと共に地下へ封印されました。

そして数百年後、二人はヤマトタケル(東征のヒーロー)と弟橘姫(東日本の豪族の娘)として転生し結婚しましたが、二人で東征の旅に出かける途中、船が嵐に遭遇し弟橘姫は嵐を鎮めるために自ら生贄となり、二人は引き裂かれてしまいました。心に傷を負ったタケルはしばらく後に戦死しました。
引き裂かれた悲劇のヤマトタケルと弟橘姫(=イザナギとイザナミ)は、やがてアシタカとサンに生まれ変わりました。そこで二人は再会し、不滅なるシシ神の姿を見て命本来の姿を思い出し、お互いの愛を確認しつつも
人々の戦いが止むことはなく、晴れておおっぴらな関係にはなれませんでした。
さらに二人は現代に宗介とポニョとして転生し、そこで「命の水」が海に解き放たれたことによる大津波をきっかけに宗助はポニョの真実(イザナギがかつて目を背けイザナミと共に封印した事実)から目を背けず受け入れることを選びました。
そのことで二人は封じられた命本来の姿を取り戻し、ついに晴れておおっぴらな関係になれましたとさ」

・・・そんなシンボリックな妄想をした。


『崖の上のポニョ』とカタストロフィ

2012年3月31日 (土)

依存の増える時代?

(オセロ中島事件からの連想その③)
※以下に書いたことは全て一個人の意見にすぎません。依存症については専門のカウンセラーさんなどにご相談してください。

◆依存が増える時代の特徴?
心理的な依存症。現代社会はそういうものが増えているという。じゃあそんな社会の特徴は何だろうと考えて思い浮かぶのは、ともすれば生き馬の目を抜くような激しい競争のある環境であったり、外部から入ってくる多くの情報に意識が干渉されすぎてしまったり、同調圧力や流行に縛られて常に周囲の様子を伺うような強迫観念に縛られていたりという特徴が目に付く。
その結果生じることは、自分の内面(内界)を顧みることなく置きざりにして(状況がそんな時間や余裕を許さず)、外の世界にばかり意識を向けすぎているというアンバランス。
何というか、社会が個人に対して「自分の内面をみる」という作業を後回しにさせてしまう感じだ。意識の焦点が外の世界に固定され縛り付けられている、とでも言えばいいのか?
(同調圧力に縛られ外の目を気にしすぎる国民性もアンバランスに影響?)

そういうアンバランスなライフスタイルを作る社会環境・文化環境が「自分の本当の心に気付かない」「本当の悩みに気付かない」という現象を作りやすくし、また「意識の焦点が外の世界にだけ偏りすぎたアンバランス」は己が内面を見ないせいで自覚することなく抑圧してきたさまざまな欲求や感情や「本当の悩み」を、無関係な外部の物事に投影・同一視させやすい。時にはそこを悪どいビジネスや悪質な勧誘に利用されている印象さえある。そして、そういうビジネスをしている本人達もまた、自分の内面を振り返ったり見つめたりすることはないのだろう(多分)。
時には彼ら自身もまた、抑圧された無自覚な何かによってそういう商売に駆り立てられ、依存し縛られてしまっているのかもしれない。

せわしなく、考え事やボーっとするヒマと余裕がない(それを与えない)情況は、自分の心を観察したり自分の心と対話する(自分の内面を顧みて己の心を自覚する)ための時間を与えない。心にアプローチすることが困難な環境だとも言える。そんな風潮や環境が現代社会や急激な情報過多の環境には潜んでいるのかもしれない。最近の人は考えことやボーっとするような「内省の暇」があるなら迷わずネットで「つぶやき」のチェックを優先する(自分の時間をそれに縛られ、奪われている)人も増えている。

◆心にアプローチする習慣?
では、現代とそれ以前を比べた時、日常で己の内面を見つめる頻度に違いがあるのかというと、多分あると思う。
昔の人は己の内面や心の動きを客観的によく観察してそれらを覚えおくこと、己の心を探り自覚するといった作業の良いきっかけになる文化に親しんでいたように見えるのだ。
例えば、「禅(座禅)」や禅の精神を取り入れた文化や、ブログのような公開型ではない自分のためだけの「秘密の日記」をつけることや、短歌や俳句を書くなど、自分が感じた心の動き、「もののあはれ」を折に触れて書き記す習慣。これらをやる時、己の内面を言葉で表現できるレベルになるまで冷静に分析し観察し把握する過程が必ず入る。こういう文化、他にも探せば数多く出てくるかも。
個人的に、徒然草や日記文学として知られているような作品、または優れた心理描写が人気の源氏物語のなどは、作者が普段から己の心の動きを非常によく観察した結果の産物であるように見える。紫式部の人生には、己の中でさまざまな恋愛感情や女心が浮かんでは消えくという体験があったはず。その内なるリアルな体験を華やかに表現した結果があの物語になったのだろう。そして徒然草や各種日記文学の作者たちは、あれを人目に触れる前提で書いたのだろうか? もとは個人の覚え書きや秘密の日記な気がする。徒然草なんか執筆後百年間は誰からも注目されてなかったらしい。

とまれ、そういった文化、現代ではあまり親しまれていないものも多い。むしろ欧米でリスペクトされることが多い印象。
ただ、最近は何故か座禅(プチ座禅?)に密かな人気が出ているらしいので、人々の無意識がそのような「心の文化・習慣」の復活を求め始めているかもしれない(そしてそこに付け込む依存ビジネスには要注意)。

娯楽の少ない環境の中、内面を見ることによって生まれる豊かな文化や作品の喜びに親しんでいた昔の人は、もしかすると「喜びというものは外部からではなく、己の内面によって内側からもたらされる」ことを知っていたかもしれない。それは、ともすれば「喜び」をつい己の外に探し求めてしまう現代人と大きく違うところのように見える。
それに対し、娯楽が沢山あって外から与えられる喜びに慣れた現代人は「内側からもたらされる喜び」さえも抑圧し、それをどこか無関係な場所に投影する現象さえ引き起こしていることさえあるかもしれない。
(外から与えられる喜びに慣れてしまうということは、ともすれば創造性が発揮される機会を減らしてしまうということにつながりうるのだろうか?)

喜びというものが外部からではなく己の内側からやってくるもの、内側に存在するものだとすれば、不安や依存心もまた、外部ではなく己の内側に存在するものだろう。何でもそうだが、それが己の内側に存在しなければ、それを何かに投影したり何かと同一視することさえ不可能だ。投影や同一視が起きたということは、それは確かに己の中に、誰よりも近い場所に存在している証だ。それゆえに「悩みを作るこの不安やこの感情は己の中のどんな背景から来たものか」という発想が役に立つ。

◆まとめ
外部に投影された内なる不安は、自分の正体が暴かれることを待っている。
喜びも、幸せも、様々な素敵なものも、安心感も、依存せずに生きる前向きな力も、本当は誰よりも近い場所にあって、それに気付いて抑圧を解かれる(封印が解かれる)のを待っているのかもしれない。
そのことに気付いて欲しくて、サインを送ろうとして、我々の無意識は「投影」や「同一視」という奇妙な現象を引き起こすのかもしれない。
だとすれば、私たちはそんな無意識のサインに気付いているか? そのサインを活用できているか?

・・・てなことを、昨夜福神漬けを食べたはずみで妄想してしまった。

2012年3月25日 (日)

オセロ中島事件からの連想

※以下に書いたことは全て一個人の意見にすぎません。依存症については専門のカウンセラーさんなどご相談してください。

占い依存症は以前から少しずつ問題視されてはいた。そして最近になってとある占い師に常軌を逸した依存をしてしまったオセロ中島の事件がきっかけとなり、メディアも占いや霊能者や宗教への心理的な依存について興味を持つようになった模様。
そこで、かつて占い依存症チェックを作った私もひとりの占い師として個人的な印象をもとに再びその手の依存症について考えてみた。

◆依存者の心理(一例)
占いに依存する前、依存者は具体的な悩み事を持つ前から依存者は無意識に不安感や葛藤を抱えているケースが多い。そしてその無自覚な(あるいはモヤモヤとして漠然とした状態の)不安感や葛藤を恋愛や仕事(職場)、自分の未来、たまたま発生したトラブル、身内の不幸といった具体的な事例(=占い師への相談内容)に無意識に投影され同一視する現象が比較的多く見受けられる。

その場合、依存者はおおもとの不安感や葛藤を解決しない限り、それらを投影した具体的事例についてのアドバイスをもらうだけでは気分がすっきりしない。それだけでは根本の問題に目が向かず、問題の本質にアプローチが出来ないままになってしまう。本質へのアプローチが出来ないうちは本人に満足感が持てず、むしろ不安や葛藤の感覚が強まることさえありうる。それを占い師にイイコト言ってもらって紛らわしたい気持ちや、それを占い師が解決してくれるのを期待する気持ちが占いを何度も「はしご」させる心理と密接にかかわっている印象だ(ただし個人的印象であり、一例に過ぎない)。

例えば、本人は「これは恋の悩みだ」と思い込んでいるけれど、実際はその恋をする前からずっと抱えてきた心の葛藤(心の悩み)が恋愛をきっかけに表面化しただけ、というケースも結構ある。
例えば、片思い・両思いを問わず、その人との恋愛自体が無意識の葛藤や不安感やコンプレックスを原因・動機にして発生しており、そのことに本人が気付いた時、
「自分の中にこういう葛藤やコンプレックスを抱えていなければ、この恋に執着したり振りまわされなくて済んだかもしれない。そもそもこの恋は存在していなかった(この人を好きにならなかった)し、この悩みも存在していなかった」
というケースもある。
己の抱える本当の悩みが分らないということは、その悩みからの脱出によってなしうる「本当の望み(本当の可能性)」も分かっていないということでもある。
オセロ中島の場合も、占い師への依存に己を駆り立てる「本当の悩み」と「本当の望み」を知ることが今後重要なテーマになっていくかもしれない。依存を引き起こす原因を己の中から取り除かないと、また別の相手に依存しかねない。

◆対応(一例)
以上のことから、周囲の占い依存者への対応としては、本人の持つ「おおもとの悩み」というものが存在しうることに意識を向けさせるのが一つの方法と言えるかもしれない。本人が占い師に相談している悩みごとについて、
「その悩みから一番強く感じる不安感や嫌な気分って、どんなものなんですか?」
と尋ねて、本人が自分の抱える感覚を言葉で表現できるレベルになるまで観察し見つめてもらう。その上で、
「もしかして、その悩みで感じる不安感や嫌な気分、今回の悩み事が発生する前からずっと心の中に抱えてきたものじゃありませんか?」
と問いかけるような対応も一定の効果があるように見える。要は「本当の悩みはそれではないのかもしれない」とか、「自分は本当はそういうことに拘っている訳じゃないのかもしれない(そんなことは必要としていないのかもしれない)」という可能性を提示するということでもある。
何度も占いを繰り返しているということは、占いで問題が解決していないということなので、よりその可能性は高い。本当に相談したい悩みが分っておらず、時にはそのせいで相談すべき相手を間違えている場合も。
依存者が自分の悩みの本質をうまく把握できない(おおもとの悩みをみつけられない)ことが原因で、内面の葛藤や不安感を投影した同じタイプ(似たパターン)の悩みを繰り返したり増やしたりしてしまうことも多い。

おおもとの悩みは人それぞれの人生や個性を反映し千差万別で、それを直接解決する力は自分の中に備わっている。その力は決して占い師の力ではありえない。占い師はせいぜい本人がハッキリ気付けずにいたおおもとの悩みと向き合えるようなアドバイスが出来る程度。
占いの相談件数で最も多いのは恋愛。その人の恋愛模様には、意識せず心の様子が反映されることは多い。

以上、自発的な依存症について妄想してみました。
次は第3者がターゲットを決めて意図的に依存を促進するケースに注目。オセロ中島もハマったかは定かじゃないが、いわゆるカルトや霊感商法がよくやる「依存ビジネス」の手口を妄想してみた。 
妄想を読む

【オマケ】
震災以降は地震というものに内なる不安を投影している人も多いだろう。地震に投影した「おおもとの悩み」にアプローチしてみるいい機会だ。その不安は、その悩みは、震災が起きるよりずっと前から心の中にあったはず。

2011年3月18日 (金)

被災地を思うときの注意

無事な地域の人々が被災地を思いやるのはいいんだけど、過度の感情移入はあわてた個人が的外れな物を大量発送して生じる混乱や恐怖感による買い占めパニックを誘発したり、集団レベルでストレス度が上がってヒステリーを誘発することがあるのであまりオススメしない。デマにも振り回されやすくなる。

凄惨な犯罪被害の事情聴取を担当した人が間接的なPTSDに近い状態に陥って治療を受けるケースがあるように、あまりにも深い感情移入は心のバランスを不安定にさせ、ストレスを増やしたり判断力を鈍らせたりすることもある。

感情移入のストレスが上がることで怒りっぽくなったり、誰かのちょっとした言動や言葉尻をとらえてヒステリックに集中攻撃して憂さ晴らしするような現象も増えてしまう。ちょっとした口実で因縁をつけて不謹慎だと叩くことで感情移入のストレスを発散しようとしている時点で、その人は既に心のバランスがいつもより崩れつつある。

誰かがブログで「今日のメニューはおいしく出来た」と写真つきで呟いただけで逆上しない冷静さは欲しい。快適な生活が出来ることに罪悪感を持って自分を責め続けたところで何の役にも立たない。漫画を読んで笑っている人を見て「こんな時によく笑ってなんかいられるね?」と食って掛かってケンカになってもしょうがない。
何か月も前から準備してきた新婚旅行や結婚式をするカップルを不謹慎だと叩くのは妬みにしか見えない。

感情移入のストレスで怒りっぽくなり、義援金を送る・送らない等を巡って相手を責めたり金額で相手を責めるのはナンセンス。
感情移入のストレスを解消するために自分の価値観と正義を他人に押し付けコントロールを試み、思い通りに動かない相手を許せず攻撃する心理は、下手をすればシーシェパードみたいな方向に陥る危険がある。
(自分の思い通りに動いて感情移入によるストレス発散の道具にならない相手が許せない心理を道義的義憤にすり替えて正当化してるのがシーシェパード。彼らの掲げる絶対正義はクジラを救うことよりもクジラに己の内面を投影し感情移入した自分達を救うことに基づいている)

そういう悲痛で陰鬱な雰囲気の風潮は、後々お笑い芸人やアーティストがチャリティーイベントしようとしてもそれすら許さない空気を作ってしまう。
こういう時はむしろ心のバランスをいつも以上に気にかけておく方がいい。出来るだけストレスを溜めずリラックスすること。娯楽や食事やアロマオイルがよい効果をもたらすなら、ありがたく大いにそれを活用すればいい。とても健康的なことだと思う。

深く感情移入せず冷静に支援することも大変意義深いことだし、冷静さやリラックスを保つことは決して人でなしなどではない。 客観性を保つことは悪ではない。
例えば医者や弁護士やカウンセラーや占い師は客観的視点に基づいて相手の苦しみを冷静に把握し分析して本人が苦しみから抜け出す支援をすることはあっても、決して感情移入することがないように注意している。

大きな苦しみを抱えて冷静さが保ちにくい状況にいるときほど冷めた部分(客観性)がどこかに必要なのは、人間の心のなかでも社会のなかでも同じかもしれない。

無事な地域の皆さんは、落ち着いていつも通りの心で生活をするのが無難だと思う。

たまにはこんな動画でも見てリラックスするのはいかが?

この可愛さは不謹慎?

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