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2017年2月22日 (水)

「国民主権」て知ってる?

国有地売却「ただ同然」 土地浄化に約1億3千万円負担
「安倍昭恵総理夫人」が名誉校長を務める神道小学校の国有地不正売却問題
“国有地格安払い下げ”の森友学園 幼稚園で虐待か
森友学園の幼稚園指導法、文科相「大阪府に報告求める」

最近、「日本国に忠誠を誓うべし」と日本に対する愛国心を提唱する宗教右派やそこと癒着した政権の政策(愛国心教育など)、あるいは政権と癒着した宗教右派メンバーが経営する幼稚園や小学校の不祥事騒動が話題になっているが、日本は国民主権国家なので、「国民として忠誠なる愛国心を注ぐべき対象」に当たる国家主権は国民、即ち自分達自身ということになる。忠誠心(誠意を持って尽くし時に臆することなく諫める心)の対象は自分の外にあるのではなく、まぎれもなく自分自身だ。
要するに、日本を含め国民主権を採用してる国ならどこも「国民一人一人が自分自身に誇りと誠意と責任を持つこと」が愛国心の一つの形になりうるというわけだ。これは、日本と自己同一化し日本を持ち上げ崇拝することで自尊心(自己愛)の代償行為にする(国家に自尊心を依存する)タイプの愛国心とは正反対の形の愛国心である。

となれば、宗教右派や閣僚の全員が宗教右派(日本会議)のメンバーである現政権が提唱・推進している「日本国に忠誠を誓うべし」ということは即ち、この国の主権である我々日本国民に忠誠を誓うということになるわけだが、彼らが日本国民に対して忠誠を誓っている様子は見えにくい。また、もし(政権と癒着している方の)宗教右派団体がこの国で本当に自らの愛国心を宣言した場合、「我が教団は日本国民の皆様に忠誠を誓います」と宣言することになってしまう。どんな状況だw
何でこんなことになっているのかというと、彼らは多分、国家主権の定義が国民じゃなくて政府(税金で運営され税金が職員の給料)だと思い込んでいるからではないか(だからこそ政府と癒着したがるのではないか)と懸念する。
主権を国民から自分達のもとへ「取り戻す(というか奪い取る)」ことが目標なのだろうかと妄想した。

我々日本国主権のお財布から支出するお税金から給料を得ているものの、主権者に対する忠誠心が見えにくくて頭が高めの政治家や彼らが集まって出来た政権やそことつながって甘い汁を吸っていると噂の宗教法人・学校法人が日本国主権に向かい上から目線で愛国心(?)を啓蒙するという超常現象が今起きているわけだ。
彼らは、我々日本国主権に向けて発する自らの愛国プロパガンダ(?)を通して「私達は国民主権の概念を理解していないor国民主権など無視している・受け入れない」と大声でアピールしている自覚が無い。

日本人なら義務教育の段階で全員知っている「国民主権」の概念を無視した奇妙な愛国心(?)を主張する人々。彼らの幻想世界では、母国が国民主権じゃない。母国がリアルの日本とは別の国になってしまっている。
(まさかとは思うが、本当に国民主権を採用してない(日本の義務教育を受けてない)別の国がリアルで関わってないだろうな?)←陰謀妄想w

この騒動、ネットでは暴露された時こそ組織的な擁護書き込みが多かったのだが、ある時点から突然批判する書き込みが急増していったのでちょっと仕込み的で演出臭いと感じてしまうのだが、それはきっと私の心が汚れているからに違いない。
(前時代的すぎて仕込み臭い宗教右派やそことつながった政治家・政権だが、彼らをわざとおだてあげ調子に乗らせて利用し、用済みになったらハシゴを外し人々に叩かせて自滅させる手口を使う謎の黒幕とかがいたら長編映画が作れそうだw)

以前の記事でも似たようなことを書いた覚えがあるが、改めて書く。
この国は私達主権者が卑屈だったりバカだったりすると国がダメになって主権者を直撃する。
私達が不幸だとこの国も不幸で、私達が良くなっていくとこの国も良くなる。
私達が自分自身に責任をもって自分や自分の人生を愛せるように生きれば、この国も責任をもって愛される国になる。

2016年12月 5日 (月)

最近の暴走事故で妄想

※以下に書いたことはすべて個人の妄想です

病院350m手前から直進、最後急加速か 福岡3人死亡

最近増えてるこの手の事故だが、てんかん発作や認知症的な運転ミスの他に、「遠隔操作(ハッキング)による意図的な制御不能」という事態も普通にあり得る。最近の車はAIを搭載しているから。
先日起きた秋篠宮家が乗った車の追突事故も、宮内庁が警備の見直しや増強を否定する発表が出た時、「遠隔操作による事故じゃないか」という妄想が浮かんだ。遠隔操作で車を暴走させるんなら現場の警備を増やしたって意味はないので、宮内庁の方針は妥当な判断だ。
福岡の事故も「ブレーキを踏んだが止まらなかった。(ギアを変えて)エンジンブレーキもかけようとしたが減速しなかった」という供述や呼気からアルコールが検出されていなかったという報道、そしてドライバーは認知症だという報道がされていない点などを見てまさか・・・と妄想してしまった。
11月以降、今回の暴走事故や秋篠宮家の追突事故の他にも、いくつかの暴走事故が起きている。東京都の板橋区や立川、栃木県の病院など。これらはドライバーがてんかんや認知症だったという報道は少ないか、ない。
そして、かつての暴走事故のように現場が古代結界エリアやそれと縁深い場所に集中している印象もない。中には福岡の事故同様、「ブレーキを踏んだが止まらなかった」とドライバーが供述しているケースもある。

以下は去年の記事。車のITセキュリティがいかに無防備で穴だらけかという内容。

ハッカーは遠隔操作で車を暴走させられる
BBCは22日、英大手セキュリティ会社がノートパソコンと簡単に入手できる機器を使って、車のインフォテインメント・システムに侵入できることを実証したと伝えた。カーナビやネット接続、マルチメディア再生などを制御するインフォティンメント・システムに侵入すれば、そこからさらにハンドルやブレーキを遠隔操作することも可能だ。

しかし、もし最近の暴走事故が遠隔操作がらみだとして、誰が、何のために? 
・・・例えば、高齢者による暴走事故の多発が高齢者の運転免許返上奨励という流れを作っているが、それで得をするのはどこだ?
免許返上で「足」を失った高齢者が頼りたがるもの・・・タクシーは高い。電車やバスで済ませることも可能だろうが、公共の交通機関は自家用車とは使い勝手が雲泥の差だ。
そこで私の妄想が思いついたものが、AI自動運転(やっぱり遠隔操作しやすい)により人件費がカットされた格安の交通機関、特に格安タクシーがあれば足を失った高齢者はわりと頼るだろうか、ということ。最初はそれぐらいしか思いつかなかったw

だが次第に気になることが出てきた、11月以降急増した暴走事故は、偶然にもドナルド・トランプ氏が米大統領選に勝利した直後(TPPが頓挫する見通しになった直後)から始まっている。これは単なる偶然か? 
(ついでに言うと、そもそも車の暴走事故が頻発するようになったのはここ数年。TPP交渉などが進められていた時期と一致する。多分偶然だろうけどw)

もし偶然じゃなかったとしたら、こんなストーリーはどうだろう? (分かる人には事前に分かっていた)トランプ氏勝利からのTPP頓挫によって日本に対する自分達の要求が実現しなくなった何者達かが皇族すら標的にした遠隔操作による交通事故を多発させて「TPPが実現しなくても要求を呑め。こっちは誰でも事故死させることが出来るぞ」と日本に圧力をかけていて、圧力をかけられた日本はなりふり構わずに急いでカジノ法案を強行採決。カジノ法案成立が本来ならTPPを通して実現するはずだった何らかの要求を代替させる効果を持つ・・・とか・・・これもなんか少年漫画みたいだw
ただ、実際に日本のTPP加入とカジノ法案はTPPの「越境サービス貿易」という分野における交渉で密接な関係があった模様(カジノ新聞より)。日本がTPPに加入すればカジノを解禁せざるを得ない状況だったというが、肝心のTPPがお流れになってしまっても、カジノ解禁をやめるわけにはいかないらしい。

・・・くだらない妄想はともかく、AI搭載車や自動運転車を含め、最近作られてる車は遠隔操作リスクが高いことは確か。車どころか、船舶や旅客機さえもだ。
そこで思う。近い未来、自動運転車が普及するようになったら遠隔操作犯罪にはどう対応するんだろう?
カフェで他人の無線LANジャックしながらコーヒー片手に要人を拉致したり暗殺したり手ごろなバスやトラック乗っ取って暴走テロできる(それを圧力にして個人が国家に自分の要求を押し付けることが出来る)時代になってしまいかねない。ITセキュリティが社会の生命線を握ることになる。万が一軍艦や戦闘機や戦車やミサイルが凄腕のクラッカーになら遠隔操作できてしまうようだったら、ITセキュリティ(の業界)が世界情勢の命運すら握る。
今後はIT業界がさらに成長して一層大きな力を持つようになるのかもしれない。
世界中の情報インフラだけでなく、世界中の交通インフラ(物流)さえも支配するようになる巨大多国籍企業(ISD条項が武器)なんてものが生まれたら、果たして国家は圧力に屈したり利権癒着の誘惑に負けたりすることなく主権を保つことが出来・・・ないだろうな。
もしそういう多国籍企業が生まれたら、社員や役員が各国の官僚や政治家になって好き勝手しそうだ。かつての米軍産複合体のように。
世界中の交通インフラと情報インフラを支配・掌握できそうな巨大多国籍企業と言えば、私もよく地図検索でお世話になってるあそこが真っ先に思い浮かぶ。地図やス○リートビューをAIに覚えさせることは自動運転車開発ともつながりうるだろう。
情報インフラ業界と自動運転車を開発している業界の背後関係や出資元は気になる。
もしやその背後にいる何かは、既に世界の運勢を変えつつある?
などと、妄想は尽きない。とまれ、暴走するのは他愛もない妄想だけで十分だ。
ハッキングで暴走させることが出来る最近の車とその業界。課題は多い。

実際に車をハッキング(遠隔操作)する実験動画
ハッカーがプリウスをハッキング! 遠隔操作であなたの車をジャックされる危険性も

2016年11月11日 (金)

米選挙を振り返って

※以下に書いたことはすべて個人の妄想です。

トランプ支持を大っぴらに表明できなかったインテリ白人男性の現状を明かすルポを見つけた。そのルポの前半で、行き過ぎた(というよりもはや悪用された)ポリティカル・コレクトネス(一番下に解説)の風潮に対し「自分が矢面に立って差別主義者のレッテルを貼られたらこの国ではまともに就職できないよ」というセリフの下りが印象に残った。「差別主義者」の部分をイスラム過激派にしても通用するし、国を変えれば同性愛者にしても通用する。時代が違えば共産主義者でも魔女や異端者、異教徒でもいけるw そう。全部差別対象になったもの。最近では「差別主義者と見なされた人(差別主義者とは限らない)」が差別と迫害の対象になるようだ。
従来の差別と迫害を抑圧する代わりに別の形の差別と迫害で代用するかのようなポリティカル・コレクトネスの暴走(悪用?)が社会に蔓延する原因にアプローチした方がいいかもしれない。そもそも不寛容で厳格な一神教のマニュアルを土台にした思考・習慣・価値観が何世代も連鎖した歴史を持つ欧米。そんな連鎖自体が不寛容な思考パターン癖を集合無意識レベルで作ってしまっている可能性も。それが中世の異端者狩り・異教徒狩りのようなポリティカル・コレクトネスの暴走(悪用)にも反映されてる?
現在の米国の差別文化・差別欲求において、差別の対象が一神教文化圏の人々になることが多い傾向にあるのは意味深だ。同じ文化圏同士、お互いの集合無意識下にある「不寛容さ(差別の原因にもなりうる)」が合わせ鏡となって映し出され共鳴しあっているのか?
どうやらアメリカでは過剰なポリティカル・コレクトネスを使って差別の風潮(差別の欲求?)を表面上は押さえつけることに成功した反動で、差別主義者(あるいはそのレッテルを貼られたり言いがかりをつけられた誰か)を差別する代償行為的な文化が生まれているようだ。
(因みに選挙戦に勝ちたくて過激な発言をしたトランプ氏だが、個人的には本気でイスラムヘイトや移民ヘイトに基づく政策をするとは思わない。口先だけじゃないかと思う。トランプ氏が大統領となって国として人種差別を容認or推進するというデマを流しているのはリベラル寄りのマスコミの方で、それを真に受けた一部の人達がトランプ当選で差別の大義名分を得たと勘違いして移民や黒人やイスラム教徒に危害を加えるなど、トランプを自己正当化の言い訳にして暴走している印象)

以下、件のルポトランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情 より一部抜粋

ハーバードを卒業した白人男性は、「僕らは自分の意見を自由に表明することができない」という。ポリティカル・コレクトネスが行き過ぎた現在のアメリカでは、白人男性であることはむしろ「原罪」なのだ。
努力して好成績を修めても、「優遇されてるからでしょ」と批判されることもあるという。
下手に反論すれば「差別主義者」のレッテルを貼られてしまう。
ケヴィンも酔った席での戯言を除いてオフィシャルにトランプ支持を表明することはない。
ポリティカル・コレクトネスが何より重んじられるアメリカ。
インテリ層がこれを間違うと大変なことになる。信用を失い、名誉を失い、将来を失う。

為政者にとって寄り添うメリットが無いか少ないマイノリティーを犠牲にする・無視する形の政策を決めるために多数決を使うと、必然的にマジョリティーが勝つので多数決が弱肉強食の道具にしかならなくなる(為政者に好都合な結果となるだけで時に人道的ですらなくなる)。
「トランプ支持者は皆レイシスト」というレッテルを張り差別することで自分と異なる候補の支持者層をある種の被差別マイノリティー化させて多数決(投票)で勝つ作戦は失敗した。なぜなら、トランプ支持層の多くはピラミッドの下層にいるのでもともと数が多く、マイノリティーになりようがないから。実際、マイノリティーじゃなくてサイレントマジョリティーになった。

多数決ルールが整備されてなかった時代は政治の世界の弱肉強食手段がもっとえげつなくて殺し合いとか脅迫とか暗殺とか普通にあったから多数決を発明したことで政策を決める手段としては「まだマシになった」というレベルなのだろう(今でも時々死人が出るけど)。
そもそも弱肉強食発想で社会の在り方やルールや問題解決方法を決めていったらどこかが犠牲になるのは当たり前で、いつまでたっても社会に弱肉強食の争いと犠牲は減らないし無くならない。マイノリティー(社会的弱者)という存在もなくならない。
高度な政治の議論に見えたものが、フタを開けたら「どこを犠牲にするか」で利害対立し大喧嘩してるだけだったりする。
かつて(今も?)のマイノリティー側。その一部が行き過ぎたポリティカル・コレクトネスや「差別を受けた」という事実を盾にして(時に悪用して)誰かやどこかを攻撃したり、逆差別したり、差別利権作って台頭したり、対抗勢力に差別主義者のレッテルを張って差別や攻撃をすることで相手を被差別マイノリティー(かつての自分達と同じ弱い立場)にして社会の中で支配力を増していく現象がその証。

弱者はいつまでも弱者とは限らない。強者はいつまでも強者とは限らない。当たり前のことだが、弱肉強食の世界も諸行無常。差別と迫害に甘んじていた者達は、生き残るために強くなり力をつけて、いつの間にかその一部は迫害者になっていることもある。キリスト教だってそうやってのし上がった。
強者にのし上がった元弱者もまた、いつかは別の強者に負けていく。
もしかすると、「迫害してきた者にいつしか迫害される」というカルマ的な運勢ってのがあるのかもしれない。立場の弱い自分達を守るために「迫害者の側になる」というやり方も考え物だ。また迫害されかねないから。

(11.21追記『一部のポリコレ暴走現象は、リベラル叩きをしたい勢力が世間をポリコレというリベラルの作った風潮にうんざりさせる意図でわざと演出しているケースもある』という噂と、『トランプ当選に差別の大義名分を得たと勘違いしてマイノリティへの差別や危害をあからさまにやっているのはトランプをイメージダウンさせたい勢力が意図的に行っている』という噂を聞いた。真相は不明だが、いずれにせよ差別というものがパワーゲームの道具になっている面はある気がする)

ポリティカル・コレクトネスとは(ここから抜粋)

特定の言葉や所作によって差別的な意味や誤解が含まれないように、政治的に(politically)適切な(correct)用語の使用を是とする態度のこと。政治的妥当性。「PC」と略される。西洋的な白人男性中心主義とマイノリティの価値観が衝突し、さまざまな社会的問題が露呈したアメリカで前景化した概念

おまけ:TPP大筋合意占ってみた

2016年10月 9日 (日)

残酷な罠

日弁連、「死刑廃止」を宣言 賛成は7割弱、反対意見も
「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さん発言に犯罪被害者ら反発

かつて、「死は感情を満たす道具?」という記事で死刑制度と大衆心理について問題提起したことがある。
そのテーマに対し、社会はより本格的に向き合う必要に迫られていると感じる今日この頃。
失った悲しみを癒したい、前向きに生きるため区切りをつけたい、愛する被害者の恨みを晴らしたい、あまりに可哀想な愛する被害者の仇を討ってやりたい、失われた命の対価(代償)の支払い(=償い)を求めたい、犯人を同じ目に合わせたい・・・死刑を望む動機は様々だけど、多くの場合、心や感情を満たす欲求が動機になっていることが多い。
「死刑があると社会の秩序維持に便利だから」といった事務的な発想から死刑制度を支持する人は多分それより少ないだろう。

非常に酷な言い方だが、要するに、【感情を満たすために人の命を奪う手段を望む】という点で犯人の心理と被害者遺族の心理が一致してしまうケースすらありうる。場合によっては凶悪事件に感情移入して怒りのあまり犯人の死刑を感情的に望む大衆や裁判員の心理とも一致しうる(裁判員に至っては、自分の感情的動機で死刑判断をしてしまうと、後でトラウマになってしまうリスクさえある)。
だが少なくとも、被害者遺族は決して人殺しが好きな人種ではない。憂さ晴らしや感情的動機で人を殺す手段を選ぶなんて言語道断だと普段は思っている。
ただ、犯人が殺されることにしか癒しや救いを見出せない状態に追いやられ、その苦しみと悲しみのあまり、やむにやまれぬ状態になっているとは言えそうだ。

そう。刑法とは別個に、「被害者遺族をケアする仕組み」がこの国には全く存在しないのだ。
いわば被害者遺族のケアを死刑制度で代用しているようなものだ。その結果、多くの人々の頭の中で「死刑制度」と「遺族へのケア(いたわり)や救い」の2つが混同・同一視され、すり替わってしまってさえいる。何とも残酷な罠に落ちたものだ。
その現状では、死刑制度の廃止は被害者遺族への配慮や労りをやめることと同義になってしまう。これ、被害者遺族達がすごくそう感じてらっしゃるようだ。
だから「どうか見捨てないで・私たちを救って」と声を上げる。2つを混同させる罠の中から・・・

犯人逮捕から死刑判決という「ケア・救い」が実現するまで平均すると10年近くかかるという。最悪の場合、「罠」に落ちたせいで被害者遺族達は、救いが訪れるまで10年も苦しみ続けなきゃいけないことになる。

社会は愛する者を無残に殺された被害者遺族の苦しみを救うことは出来ない。でも、彼らが自ら立ち直っていく意志を持ってるとき、支援することは出来る。カウンセリング、セラピー、認知行動療法・・・死刑よりも効果のあるケアは色々ある。
個人的には、死刑制度よりもそっちの仕組みを充実させた方がいいんじゃないかと思う。例えば犯人が塀の中で働いて遺族ケアの資金を稼ぐ仕組みがあると合理的だし犯人が自分の罪(自分が傷つけた相手は被害者だけではなく遺族を含む)を自覚し反省を促す上でも多少効果はあるかもしれない。

少なくとも、死刑制度というものを「被害者遺族の救いとケア」を混同・同一視・すり替えた上で議論するのは筋違い・お門違いな気がする。
今騒動になってる死刑制度反対派も支持派も、もはや自分の感情を満たすための感情論に終始していて、もはや死刑云々・遺族の気持ち云々とかいうのはどうでもよくてただの勢力争いになってるんじゃあるまいな? などと妄想した。

似たような心理テーマ:いじめっ子を憎む心の落とし穴

2016年7月29日 (金)

障害者19人殺害事件で妄想

※以下に書いたことは全て一個人の妄想です

LINEで友人に“障害者は人間ではない”

植松容疑者は今年2月17日、親しい友人に対し、無料通信アプリ「LINE」を通じてあるメッセージを送っていたことが分かった。そこには「産まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障害者は果たして人間なのでしょうか?」「人の形をしているだけで、彼らは人間ではありません」(原文ママ)などと書かれていた。

ごく当たり前のことを言うと、障害者とその周囲やご家庭が不幸であるかどうかなどケースバイケースであって十把一からげに決めつけることなどできないし、もし不幸になってしまっているのであればそのような不幸をもたらす事情や条件や原因が必ずある。そこから目を背けて盲目的に「不幸なのは障害者というものがこの世に生まれてしまうせいだ」と決めつけヘイト・攻撃するのは問題解決よりも憂さ晴らしを優先する発想だ。メンタリティーが中世とさして変わらない。
「身内に障害者を抱えると家族や周囲が不幸になってしまうことが多い社会の仕組み」を改善するにはどうしたらいいか、どういう条件や事情が重なると不幸になりやすいか、どういう条件や事情が重なると不幸になりにくいのか、という発想を全く思いつかない視野の狭さが、問題解決能力を極端に抑圧している。

「障害者は社会の役に立たないからその命に価値が無い。生きる資格が無い。その命は存在を許されない」という論調はこの事件の犯人のみならずネットでちらほら見かけることがある。

この発想を持ってしまう人は、自分でも気づかないうちに巨大な落とし穴にハマってしまっていることに気が付いていない。彼らはいつの間にか、「人間のために社会が存在するのではなく、社会のために人間が存在する」と本末転倒、主客転倒の思考回路に囚われてしまったことで自分という生命存在さえも「社会のための道具」という扱いをしてしまい、自ら生命の尊厳を否定してしまっていることに無自覚だ。

自分の命に対して「自分自身にとっての存在価値」を感じることができなければ、代わりに社会や他者から己を評価してもらう(利用価値を認めてもらう)ことで代用する心理が生まれるかもしれない。
このような自己肯定の代償行為を社会にベッタリ依存していると、「社会の役に立つ(社会にとっての存在価値=利用価値・メリット)を認めてもらう」ということだけが自分で自分に命の価値や尊厳を認定させる根拠・条件になる。すると、必然的に「社会の役に立たない者=社会がメリットを見出さない者」は生命の価値や尊厳を認定するための根拠や条件が欠落した者(=生命の価値や尊厳が認識されない者)という発想に陥るのは簡単だ。

自分の命に対して「自分自身にとっての存在価値」を感じることができないということは、裏を返すと「自分の生きる喜びを感じることができない」ということでもある。

自分自身では命であること(生きること)に価値や意義を感じることができない。だから外部(世の中)の誰かや何かに価値や意義を認定してもらう・・・
最近はそういう人が増えていったからこそ、「社会のための自分」という外部評価依存の意識から派生した「社会に役立たない(評価されない)命は尊くない」という発想がネットに散見されるようになっていったような気がしてならない。
日本人はいつから自分(人間)の命が「社会のための存在」だと思うようになっていったのだろう?

人間自身が己の利便性のために社会を作ったということを忘れ、社会自身が己の利便性のために人間を存在させている(利便性のある命だけを容認・飼育している)という発想に逆転してしまうのは、自らを「生命の尊厳が保てないほど卑屈な奴隷」にしてしまった証かもしれない。まるっきり古典的なSFの世界観そのものだ。
もしかするとこの事件の犯人自身、「自分の生きる喜び(自分自身にとっての自分の命の価値)」を感じることが出来なかった経験を持っているのかもしれない。そして、自分と似たような心理を抱える層にとっての「英雄」になることで生きる喜びや自己肯定感に飢えた心の空虚さを埋め合わせようとした?
・・・などと妄想した。

果たして「生命」という自然界の存在が自然界の都合ではなく「社会に役立つため」に社会の都合で誕生し生命活動をすることなどありうるだろうか? 自然界が社会の都合に合わせて存在する・動くことなどあっただろうか?
そもそも、生命(=自分)というものが社会ではなく自然界に属する存在だということを一部の現代人は忘れていないか?
 「先天的障害」という自然現象に対して「社会にとって不都合だ・社会にとってメリットが無い」という理由で(社会を自然現象に対応した社会作りを一切模索することなく)激しい憎悪と恨みを抱いてしまう背景にも人間(自分)が自然界に属する存在でありその存在自体が自然現象であることをつい忘れてしまったことが関係しているかもしれない。
人間(生命)と社会の関係が主客転倒するとろくなことがない。

就活自殺の増加
出産する理由と背景についての極論

試しに中二病になってみると自分にとっての「生きる喜び」を実感しやすくなるかもしれない。
(既に中二病を持っているがゆえに犯人を支持してるんなら話は早いw ぜひ己の中二病をこじらせず有効活用してほしい)
中二病の有効活用

2016年6月18日 (土)

イギリスEU離脱騒動で妄想

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

EU離脱か残留か、イギリスはどうなる? 日本への影響は

イギリスがEUを離脱するとかしないとかで市場を巻き込んだ騒ぎになっている。今回は趣味でやってる占星術、それもサビアン占星術(ホロスコープの位置1度ごとに360通りの運勢を暗示するための象徴表現(『チェスをする2人の男』とか『表現の機会を待つ人間の魂』)が割り振られ、その暗示表現を鑑定の参考に用いる占星術)を使って妄想してみた。

まず、イギリスの一年を占うためにイギリスの春分図をみる。

2016英国春分図 by かるか on pixiv

春分図ではEU離脱なら何かしら暗示が出そうなはずの場所(11室と3室))に星がない。そして気になるのが山羊座にある冥王星のサビアンシンボル。冥王星の位置に対応するサビアンシンボルは偶然にも「イギリスの国旗」。

冥王星(イギリス国旗)と吉の角度関係な魚座にあるキロンのサビアンシンボルは「新しい法を携えてシナイ山を降りる予言者」。イギリスにもたらされるのは旧約聖書でモーゼが始めた「新しい秩序に基づく新時代の夜明け」という感。そんなキロンと強く対立する位置にある乙女座ドラゴンヘッドのサビアンシンボルが何と「王家の紋章」。
驚いたことに、エリザベス女王がEU離脱を支持してると報道されたことが以前にあったのだ(報道記事)。「王家の紋章」だなんてまんまこれを暗示しているように見える。即ちEU残留はイギリスに「新しい秩序に基づく新時代の夜明け」といった事態をもたらす可能性。それに異論を持つのがエリザベス女王というわけか。

春分図でさらに注目したのは射手座に位置する土星のサビアンシンボル。これが「復活祭の日の出の礼拝が多くの人々を集める」・・・イギリスの明日を決める投票に世界中の(経済市場含む)が注目する様子をイメージした。
そしてこの土星は投票日に「旗が鷲に変わる。鷲は夜明けを告げる雄鳥になる」というサビアンシンボルが割り当てられた位置へと移動する。これ見て鳥肌が立った。鷲はEUのリーダーであるドイツの国章デザインだからだ。
ドイツの国章
EUからの栄光ある孤立(イギリスの国旗)よりも、EUに残留し(ドイツをリーダーと認めて)EU内の1地域になる(旗の意匠をユニオンジャックから鷲に変える)方が良いと思う人が多くて選挙結果が「残留」だった場合、しかしイギリスもまたEU内で隠然たる発言力を維持しそうではある。
ざっくりまとめると、サビアン占星術に出た暗示は「イギリスの旗→ドイツ(EU)の旗」という暗示。英はEUに残留するかもしれない。今回の件で経済を心配していた人々(日の出礼拝に集まった人々)は「夜明けを伝える鷲」のお蔭で一安心するだろう(それまでが大惨事っぽいが)。

イギリス春分図では短期金融市場なども司る2室に突発的な変化を意味する天王星がある。今回の騒動、市場心理の不安ゆえに株価や国債の値が急に変な動きをすれば、それを利用して儲ける人もいるだろう。この選挙、EU離脱の可能性をさも恐ろし気に宣伝することで市場を慌てさせてボロ儲けすることも目的の一つだったりして(陰謀脳)。

2016.6.24追記
選挙結果はまさかの「離脱」になり、キャメロン首相は辞意を表明。今後イギリスにもたらされるのが「新しい秩序に基づく新時代の夜明け」であることは確かだが、選挙では英国旗が鷲に変化しなかったので予想と反対の意味になった。
しかし、実は選挙結果が「離脱」でも国民投票には法的拘束力が無く、EUとの交渉や英国議会(国会議員の過半数が残留派)次第で覆る可能性があるという(報道記事)。まだ目が離せない。
もしこのままイギリスがEUを離脱すると、英はEU内でのイニシアチブは持てなくなる。その分ドイツのイニシアチブはより強まるかもしれないが、「(EU内で)旗が鷲に変わった」としても各国のEU離脱ドミノも懸念されている(報道記事)。

2016年5月30日 (月)

オバマ氏広島訪問で妄想

※以下に書いたことは全て一個人の妄想です。

オバマ大統領が広島訪問「魂が語りかけている」原爆慰霊碑の前でスピーチ
オバマ大統領の広島スピーチ全文

私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

◆「冷戦」という名の世界秩序に捧げられたもの?
「8月9日、日本軍上層部は長崎へ接近する原爆機の情報を5時間前に傍受。
しかしその情報は生かされることなく無視され、長崎には空襲警報すら鳴らなかった」

・・・NHKが作ったそんなドキュメンタリー動画が鳥肌モノだ。
原爆投下を空から目撃した日本の元戦闘機パイロットがインタビューを経て上記の事実を知った瞬間のリアクションも切ない。

実は長崎だけじゃなく広島も、軍は数時間前に敵機接近を知りながら、何故か空襲警報が鳴らなかったというのは一部で割と有名な話。そのため、広島と長崎の原爆投下に関しては、日本はどちらも「あえて」空襲警報を鳴らさなかったのではないか、などと一部では噂されている。

以下は私の邪推だが、原爆投下前に市民が避難してしまえば兵器の正確な実用データは取れないし戦いが終わった後に始める 「核の抑止力およびそれを使った世界秩序」という時代を創設するためには、人類滅亡さえ連想させる恐ろしい見せしめが必要だったのではないだろうか。そしておそらく、当時の日本はその世界秩序創設の手伝いを自ら引き受け、戦後はそれに見合う対価を得たのではないか(要するに陰謀論でありがちな日米グル説)。
当時の日本のプロパガンダ「お国のために命を捧げることは当然」・・・これ、もし新兵器デモと実験データの生贄になることをも意味していたのだとすれば、狂信的なフリして確信的だ(妄想)。

一方、当時日本と同盟関係だったナチスは原爆開発にほとんど関心が無く、ドイツでの原爆開発は失敗に終わったが、日本はナチスよりも多少原爆に関心を持ち、基礎的な開発もしていた。湯川秀樹なども開発チームに参加している。
米は自国における原爆開発の口実として、「ナチスは原爆を開発している。米国がナチスより先に原爆を実用化しなければ大惨事になる」というウソを使い、オッペンハイマーをはじめとする原爆開発チームの科学者達(ナチスから亡命した人多数)はその嘘を信じた。後にその情報が事実ではないことが判明し、チームのメンバーは開発の意義について葛藤し、意見が分かれていく。

◆ロバート・オッペンハイマーで妄想
個人的には、少なくとも「原爆の父」オッペンハイマーは嘘と知りながらあえて口を閉じ、悪者になることも覚悟の上で原爆開発プロジェクトのリーダーを務めていたんじゃないかと思った。
それは、戦争(および核兵器開発)が終わった後に始まる新しい世界秩序の姿を彼なりにある程度予想しており、その秩序のあり方に一定の価値を見出していたためではないか? などと妄想した。
以下、Wikiにあるロバート・オッペンハイマーのページより:

弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語ったところでは、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうだが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。
また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。

そんな経緯からは、彼は後に核兵器の国際的管理を呼びかけたり水爆反対活動をやったりしている。

市街地で核兵器を使った惨状を世界に見せつければ、核兵器を「使うことのできない兵器」と世界に認識させることが出来る。オッペンハイマーはそう思ったのかもしれない。
実際、戦後に始まった「冷戦」という名の世界秩序は、核の恐怖(核の抑止力)と仮想敵(および核保有国同士の対立と緊張が臨界に達さないように制御する形での代理戦争)というアイテムを使ってパワーバランスを保ち一定の秩序を図っていた。
「核(保有国)を分裂はさせるが、その(東西)分裂が臨界に達さないよう注意深く制御することで程よい規模の分裂(=代理戦争)を生み、そこからエネルギービジネスを立ち上げ儲ける」
・・・そう。あの時代、あの世界秩序はまるっきり原子力発電と同じ仕組みだったのだ。
「核(保有国)の分裂」の危うい制御バランスが最も危うくなった時がかの有名なキューバ危機ということだろう。

◆「ウォッチメン」が暗示していたもの?
戦後に始める世界秩序「冷戦」を始めるには、「核の抑止力(核の恐怖)」という概念の創設が不可欠。そのためには、市街地でのデモンストレーション(見せしめ的な意味も込めた大規模な生贄の儀式)が不可欠だったとすれば、戦時中の日本は、そんな新時代の立役者になった(不可抗力的になったのか意図的になったのかは不明)ということになる。そして冷戦が続く間、日本は支払った犠牲(生贄)に見合うだけの利益を得たのかもしれない。
生贄達は、新しい時代の幕開けと繁栄を推進させるための「燃料」にされた形になる。
「燃え尽きるまで燃やされていった生贄達」・・・最初は物理的に、そしてその後は精神的な形で(燃え尽き症候群・過労死等)。燃やされたのが体か心かの違いにすぎない。

「恐怖で制御される世界秩序のために捧げられた無数の生贄」・・・我ながら悪趣味なオカルトホラー妄想だと思うが、実は似たような発想でストーリーが展開するSFコミック作品がなんとアメリカにあった。しかも、冷戦末期に描かれた作品だ。作品名を「ウォッチメン」という。2009年には映画化もされているのでご存じの方もいるだろう。
この作品には「大量の犠牲を出す謎の巨大殺戮兵器への恐怖と仮想敵創設によって世界の安定と平和を図った黒幕(実は元ヒーロー)」という衝撃的なキャラクターが登場する。そのキャラクターが秘密裏に実行した異常な世界秩序に他のヒーロー達は憤慨するが、同時に真実を世間へ公表し既にその方法で達成されてしまった世界の平和と安定を壊すことへの躊躇も抱えることになる。元科学者のヒーロー「Dr.マンハッタン」もその一人で、「あんなことはどうあっても許せない。例え平和と安定が失われようと世間に真実を暴露してやる!」とする仲間を自らの手で葬るシーンがある。おそらくDr.マンハッタンのモデルはオッペンハイマーだろうと思った。

教訓:力ずくで達成する平和はより多くの犠牲を伴う。
    (ここら辺は『ヨルムンガンド』ラストにも通じる)

生贄に支えられた恐怖で制御される世界秩序。それが本格的に終わりを迎える時期が、今やってきたってことなんだろうか? 恐怖に依存するシステムの世界は、恐怖を捨てられない。
オバマ氏のスピーチにある通り、「恐怖に依存せず世界の秩序を保つ」という試みは、人類にとって勇気のいることなのかもしれない。その勇気とは、課題から目を背けずに向き合う非アドレナリン系の冷静な勇気(闘争心には属さない勇気)だ。
関連記事)。

余談:
占星術において、冥王星は原子力や死を象徴する星だ。その冥王星が2006年に惑星降格になった時を思い出す(過去記事)。
あの時は冥王星の惑星降格が何を暗示するのかハッキリわからなかったが、ここ最近の流れを見ると何となく見えてくるものがある。

2016年4月 5日 (火)

共通点は「現実逃避」

※以下に書かれていることは全て一個人の妄想です。

<「ひきこもり」で迂闊な放送?>精神科医・斎藤環氏が「TVタックル」をBPOに審査要請呼びかけ

「ビートたけしのTVタックル 3月21日放映 23:15~24:15同番組で『ワンステップスクール伊藤学校』による『ひきこもり支援現場』が放映されました。
彼ら(伊藤学校の職員)は両親の依頼を受け、事前にひきこもり当事者の十分な許諾を得ることなく、当事者の部屋に土足であがりこみ、長時間の説得、恫喝、怒鳴り上げ、ドアを蹴り破るなどの暴力的な手法で当事者を部屋から連れ出し、共同生活の寮に連れて行き作業をさせるという『支援』を行う事業所です。
10年ほど前にほぼ同様の手法で支援活動をしていた「長田塾」を持ち上げたのもテレビ朝日ですが、長田塾はその強引な手法を塾生から訴えられて敗訴、関連機関のアイメンタルスクールの経営者は塾生を監禁して死亡させ逮捕という事件を起こしています。
まともな専門家や支援者には一切取材せず、こうした暴力的な手法を採る業者だけを肯定的に取り上げる報道姿勢には、世間への目配りと迎合はあっても、適切な人権意識が欠けています。ぜひとも審査対象としていただきたいと思います」

◆「原因」というものが存在するわけで
困ったことに、引きこもりの相談を精神科やカウンセラーじゃなくて占い師にしちゃう人がたまにいる。何故か精神科よりも占い師に相談する方が抵抗感が少ないという人が未だにいる。当事者が精神科や資格を持ったカウンセラーへの相談に抵抗感を持ちすぎていることも問題を複雑化してると思う。
引きこもりの何割かは神経症や精神障害、発達障害、人格障害といった何らかの病気や障害を患っていることに本人も周囲も気付いてないケースがある。また、精神科の受診を薦めても親御さんや本人が拒否するケースもある。
引きこもりの支援活動をするなら多種多様な「引きこもった原因・きっかけ」にまずアプローチしてみないと始まらないだろう。引きこもった本人が自分の抱える原因やきっかけにアプローチする意欲や好奇心を持たないと始まらない。場合によっては本人と親御さん、両方がカウンセリングを受ける必要があったりもしうる。

引きこもった原因にアプローチせず障害の有無を確認することもなく、ひたすら勧善懲悪の心地よい構図を使った自己正当化に基づいて引きこもりを裁き、物理的に部屋の外へ引っ張り出す(引きこもった原因にアプローチする姿勢が全く無い)という行動をTVカメラの前でやっちゃってる時点で「引きこもりを力ずくで思い通りに動かし自己満足に浸りたいだけで問題解決なんか最初から考えてない」と全国のお茶の間に向かってアピールしちゃったようなものだ。まっとうな引きこもり支援をなさってる専門家の方が見ればすぐにわかることだ。というか非科学的な占い師が見ても何となく分かる。

相手が引きこもりだろうとそうでなかろうと、人間を力ずくで思い通りに動かすことはある程度可能だろうが、それは問題解決とは言わない。問題は全く解決していない。戸塚ヨットスクールの創始者、戸塚宏氏もそこら辺を混同している。症状や障害や問題を抱えた人を力ずくで治ったかのように振舞わせたり従順にさせることは一時的に可能だろうが、それは治療でも回復でもない。
一時的には力ずくで思い通りにできたとしても、原因を放置したままなのですぐにボロが出るし限界が来る。障害や症状を力ずくで100%思い通りに制御することなどできはしない。戸塚宏氏はそれがよくわからなくて「もっと殴れば思い通りになるに違いない。おかしいな? じゃあもっと殴ろう」と思い込んで殴り続けていたら預かったお子さんを殺害してしまった。実はこういう結末は戸塚ヨットスクールだけではなく、他の支援団体でも起きている( )。
占い師もびっくりな中世のペスト治療並にズレた手法では、治るものも治らない。そんなズレた手法に依存している支援者も親御さんもその事に気づかないか、あえて目を背けている。

◆全員が現実逃避
こういうズレた支援団体の手口は悩み救いを求めている(辛い現実から逃げたいタイプの)人を標的にしたカルトの勧誘に似てる。勧誘された側は、相手の手口や様子に違和感を感じても、その事実から目を背け「おかしくなんかない。きっとこれで救われるんだ。これが正しいんだ」と期待を盲信に変えていくのは一種の現実逃避。そう。ズレた支援団体を盲信し同じ心理に陥った引きこもりの親御さん(リンク①参照)もまた、「現実から逃げる」ことを選択したという点では引きこもりの子供と同じものを持っている。
そして、ズレた手法に依存している支援者(違和感を感じても見ぬふりのスタッフ含む。リンク②参照)もまた、「自分達はズレている」という現実と向き合わないという点で引きこもりと同じものを持っている。みんなどこか似ている。
親御さんも支援者も本人も現実に存在する「引きこもった原因・背景・きっかけ」というものには全くアプローチする発想が無い。これが3者に共通する「現実を見ようとしない」という問題点であり、3者の問題点が共鳴し合い3倍に増幅されて最悪の結果を招くのかもしれない。
まさに、「類は友を呼ぶ」だ。「子は親の鏡」とか「同族嫌悪」も含まれている?

己を現実逃避に駆り立てる自己暗示はこんなことを言うかもしれない。
「現実はどこにも救いが無いんだ。解決などないんだ。絶望しか無いんだ。だから現実を見てはいけない。現実という絶望から自分を守るためには現実から逃げて幻想に避難するしかない。それ以外の救いは許されない。」
このセリフを疑い、現実に起きている問題(目に見える部分や心理的な部分含め)をよく観察し、その中から手がかりを得て実在する問題発生の原因や背景やきっかけを突き止める。突き止めることが出来て、自覚することが出来れば、心理面はそれだけで大きく変化する。
(例えば、引きこもりの原因が『親やその親から刷り込みで代々受け継がれた狭い価値観への信仰が無意識下で自分のしたいことや望む方向をことごとく否定し禁じてしまい、その結果人生に意欲を見いだせなくなり無気力になっていた』ということが突き止められれば、その人は狭い視野や狭い視野に基づく価値観が万能ではなく、それを万能として盲目的に信仰し従うことは危険であることに気付いて違う視野・違う考え方に基づく生き方を探っていけるようになる。そうなれたらもはや以前ほど無気力ではなくなっている)

◆解決か自己満足か
引きこもる人を裁くのは容易だが、裁くことで解決する問題ではない。裁くのではなく、問題をよく観察して問題の原因や背景やきっかけ(=問題の本質)を突き止めること、本人にや支援者にその意欲や好奇心が芽生えていることが重要ではないかと思う。当然、言うのは簡単だが実行するのは難しく時間がかるのが現実だ。その面倒な現実を受け入れられず「ズレた手口による自己満足」という現実逃避を選んでしまう支援者と親・・・
まっとうな支援をするなら、裁かず自分の考えを押し付けず本人の話をただ聞くこと。本人が話したくなるような信頼関係を作ること。本人が信頼できる聞き役がいてくれることで誰にも打ち明けたことのない深い部分まで話しているうちに自分でも話すまで気づかなかった多くの事に気が付いていく(自覚力が発動し始める)、その過程を通して問題の本質が自覚的に突き止められていき、変化が起こり始める。
そのような静かで劇的な展開を、多少の経験を積んだだけの非科学的な占い師ですら知っている。いわんや専門家ならなおさらよく知っていることだ。よって、そのような経験を持つ専門家が一人もいない引きこもり支援団体は「裁くだけの自己満足」に陥るリスクが比較的高いと思う。
問題の本質を自覚することが効果を出す。これは引きこもりに限ったことではなく、多くの悩み事に共通するのではないかと占い師の経験からは思っている(ま、これも幻想かもしれないが)。
大事なことなのでもう一度書くが、引きこもりの相談は占い師じゃなくて専門家にして下さい。それはちっとも恥ずかしいことじゃありません。

2016年3月12日 (土)

正義の仮面 悪のレッテル

※以下に書いてあることは全て個人の妄想です。

広島中3自殺、生徒はなぜ「万引き」否定できなかったのか ネットでは「事実上の殺人」と批判殺到

ネット上では、学校に対する批判が殺到。一部の掲示板では、自殺した生徒に進路指導を行った女性担任の「特定作業」が進んでおり、すでに本人とみられる人物の顔や氏名が拡散される事態となっている。

中3自殺の学校、卒業式に脅迫

7日に男子生徒の自殺が明らかになって以降、同校や町教委には全国からの批判の電話が殺到。職員が対応に追われていた。
脅迫電話は9日午後、町教委に2回寄せられた。「卒業式をダメにしてやる」「卒業式をぶっ殺す。町教委も来るからちょうどいい」との内容だったという。

どこぞの掲示板では今回も「抗議電話で学校側の回線をパンクさせてやろう運動」「女性教師の個人を特定し個人情報を晒そう運動」が起きてるが、前者は学校側の業務が滞るだけでなく、保護者や生徒に適切な対応や説明をする妨げにしかならない。正義の社会運動でも何でもなく、ただの迷惑行為だ。それこそしばき隊と在特会(多分プロレス)やシーシェパード、赤軍派などと同レベルの心理に陥っている。
後者の女性教師の個人情報を公表し、社会的制裁と称して待ち伏せや無言電話や自宅への落書きetcをけしかける(迷惑行為が行われることを期待・想定した上で個人情報を晒す)行為は嫌がらせの実行犯同様、バレればお巡りさんに怒られるレベルの迷惑行為であることは変わらない。しかも、デマを鵜呑みにし番号違いや人違いで別人の被害を多発させる。
そして迷惑行為がバレて警察に調書取られる時、自分の行動が正義であることをを正々堂々と主張できるほどしっかりと確立された信念なんか誰も持ってはいない。
今回の事件でも、大津いじめ自殺事件や川崎中1殺害事件などの時に問題になった現象(一例)が相変わらず発生している。
その中でも、【事実確認すらせず無関係な別人を一方的に悪人扱いし追いつめる】ところなんか例の女性教師と全く同じだ。
そう。今回の事件でドヤ顔しながら「ネットで社会正義(デマは鵜呑み)」を続けている人々は、鏡に映った自分自身を攻撃していることに気が付いていない。一方的に悪人扱いされて自殺した男子中学生は、自分達が「正義の鉄槌」を下すために濡れ衣を着せて追いつめた同姓同名の被害者達と同じだ。

最近は学校で生徒が自殺する事件などが起きると毎回正義の味方気取りの迷惑行為が氾濫するようになった。大津いじめ自殺事件の時から顕著だ。あの時は積極的な動きをする人々の間に学校への抗議電話や関係者(人違い含む)への嫌がらせや教育長の頭蓋骨を金槌で骨折させるという暴行に走った人達と、文科省にいじめ調査の抜本改革を求める声をこぞって届け文科省を動かした人達の2通りがいて対照的だった。
自分達が税金(=給料)を払って運営されている関連部署(文科省)に状況改善や再発防止を求める行動と、自分とは直接関係のない学校や関係者(人違い含む)の職場や自宅に嫌がらせして憂さ晴らしするだけで問題を解決・改善・再発防止するための発想(能力)が皆無の行動。この対照的な2通りの動きが未来の分かれ道だなと感じた。
後者の行動パターンを持つ国民(愚民型)が増えると、国民が扇動されやすくなったり、社会や国民が抱える不満の矛先がしかるべきところ(例えば問題を起こした組織や関連部署、あるいは問題を起こした政策担当部署)に向かわず巧妙に逸らされ誤魔化されてしまい、肝心なところに抗議の矛先が向かずに別の場所(スケープゴート役)に八つ当たりしてすっきりしてしまうだけで問題が何一つ解決しないまま放置される社会運勢を発生させかねない(そうなると誰が得をするだろう?)。
正義の仮面と悪のレッテル・・・まるっきり古典的なプロパガンダの基礎手法と同じ。
オカルト脳の持ち主としては、最近繰り返し発生する似たパターンの大衆心理暴走を見るにつけ、「大衆心理を操って何かの実験をやってるのか?」などと下らない陰謀妄想をしてしまう。

いや、愚民化傾向はもっと前からかもしれない。丁度5年前の今頃、原発事故への社会的制裁としてフクイチ原発の回線を抗議電話でパンクさせてやろうとけしかける書き込みを某掲示板で見たことがあるが、あれこそ現場の迅速な対応処理を妨げる迷惑行為にしかならなかったと思う。最悪の場合、回線パンクで各方面への連絡が遅れた結果被害の拡大さえありえた。
そういう意味でも、やはり311は日本の集合無意識が長年抱えて来た問題がやっと表面化し始めるきっかけとなった気がする。

いじめっ子を憎む心の落とし穴

2016年2月21日 (日)

出産する理由と背景についての極論

以下に書いたことは全て一個人の妄想です。問題点を見やすく抽出するためにあえて極論を用いています。

「子を産む責任」という女への圧力。「産まない」選択した山口智子、そして小泉今日子の言葉から考える

2月12日発売の雑誌「FRaU」(講談社)3月号に掲載された、山口智子(51)のロングインタビューが波紋を広げている。彼女は夫・唐沢寿明(52)とのあいだに子供をもうけなかったことについて、初めて「子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を望んでいました」と能動的な選択だったことを明言。当サイトでも取り上げたが、当該記事のコメント欄だけでなく、SNS上でも議論が活発化している。これを「逆に“懺悔の念”を感じさせる。若い女性たちに自身の生き方を反面教師にして欲しいという思いが強いのかも」と分析する“芸能評論家”もいた。

 女性が「私は産まない」と意思表示することが、これほど関心を呼ぶのは、「女性は全員、産むべき」という抑圧がいまだ機能していることの裏返しだ。しかも一枚岩ではなく、

(A)「女の肉体で生まれたからには、出産の悦びを!」派
(B)「社会保障制度存続のために産むべき(=社会構成員としての義務)」派
(C)「子育ての不自由を回避して自由を謳歌するのはワガママ女」派

 などなど、いくつもの抑圧が重なり合っている。BとCは近い側面を持つが、理屈ぬきの主張なだけにAが一番性質が悪いようにも思える。そういえば昨年、評論家の金美齢(82)が、「子供産まない自由を強調する女性は浅くて未熟」と繰り広げたことを覚えているだろうか(「SAPIO」2015年4月号/小学館)。

これは、「AERA」(2015年2月16日号/朝日新聞出版)の「『子どもいらない』は人に非ずなのか」なる特集を受けての金美齢の提言だ。「AERA」特集では、世界に先がけて超少子高齢社会化する日本では昨今、出産礼賛の空気が漂い、女性が「子どもは欲しくない」とは決して口にできなくなっていることを問題視。蔓延する「出産・育児至上主義」に疑問を投げかけた。金美齢は、次のように主張。

『記事は、「出産礼賛な空気が行き過ぎれば、“圧力”になることも忘れてはいけない」と結ばれている。しかし、私はあえて言いたい。「子どもを産まない自由」を謳歌する女性は、それぐらいの“圧力”は受け入れなければならないと』

 「もちろん個人の自由は尊重する」としながらも、
『出産できる環境や状態にあるのに、「子どもいらない」と主張する女性は、人間としての責任を果たしていない」と断罪。
彼女は現代の日本社会を、『むしろ、「子どもを産まない自由」が優遇されすぎている』『出産は個人の自由な選択であり、国や他人が口出しすることをタブーとする風潮が根強い』と感じているそうで、『AERA』特集の認識とは真逆だ。彼女は、子供を産まない選択をとる女性を『自由や権利ばかりを強調する女性』と決めつけている。

◆人命の尊さを「利用価値」で判定?
「社会のために人間を産む義務」という発想は、行き過ぎた社会主義にも似ていて、「社会は本来人間のために発生し存在する(人間が生きていく上での利便性を追求したら社会になった)」という事実を忘れている。そして例の発想は「人間(の生命)は社会のために発生し存在する=人間は社会の道具」という妄想が支配権を持っている。社会維持の需要を満たす義務としての出産思想は生命の価値(利用価値)を当事者ではなく社会が決めており、妊娠・出産(妊婦)や生まれた命を自然現象ではなく、単に「社会のニーズを満たすための道具」としてしか見ていない。そこに母性は全く介在しておらず、発動できず、締め出されて蚊帳の外。

極端な妄想をすれば、件の出産発想が社会を支配していくと、社会にとってニーズがない(利用価値がない)と判断された者の命をないがしろにする風潮につながる危険がある。
もしも社会の義務を果たさんとする発想動機で生み出された命が重い障害などで社会構成員となる機能を満たさず社会のメリットにはなりえない性質を持っていたら、たちまちその赤ん坊と命がけでその子を産み落とした妊婦は社会にとって利用価値のない存在、単なる役立たずとなり、その赤ん坊は出産を社会的義務とする価値観の世界にとって「生まれながらに無価値な命」でしかなくなる。
我々が望むものは、社会のための人間か? 人間のための社会か?
(かつてナチス・ドイツがガス室送りにしたのはユダヤ人だけではない。社会にとって有害無価値とされた各種障害者達も同じ運命をたどった。ナチスドイツは非常に社会主義的とも言われている)

母性を原動力にするのではなく、「社会にとっての利用価値を満たさん」という価値観に基づいて妊娠と出産を促し求め望む発想は、いかにも行き過ぎた男性的発想によって構築され営まれている社会の価値観だと言える。同じくその価値観によって営まれている各業界の職場では、マタハラが横行するようになってきた。母性のないその価値観は、少子化対策として全くの逆効果だ。
同じ価値観が義務感や罪悪感を用いた妊娠・出産を促す一方で、妊婦に対する嫌悪と排除を生み出しもしているわけだ。同じ価値観なのに矛盾していると思えるが、何のことはない、どちらも「その場しのぎの狭い視野で自己中心的に妊娠・出産の利用価値(道具になるか否か)を判断している(行き過ぎた男性的発想に立っており母性が介在していない)」に過ぎないという点では全く同じだ。
目先の利益や利用価値だけをエゴイスティックに追求するだけで大きな視野に立てないばかりに自分の首を絞めていることに気づかない社会は、そんな社会を構成する人間達の短所(つまり我々の)を如実に反映しているとも言えるのだろうか。
「社会維持のために出産せよ」と人々へ圧力をかけ支配する社会が、果たして人々にとって存在メリットのある社会と言えるだろうか? 「自分達にメリットのない社会を維持するために出産する(命がけ)」という社会貢献をしたがる人間がどれぐらいいるだろうか?
しかも、目先の利益を追い過ぎて不況に陥り格差拡大を放置し子供を産み育てにくくしている社会のために?

◆「子供を欲せ」と気まぐれな自然の呼ぶ声がする時?
社会によって刷り込まれた表面的な価値観ではなく、本能の支援と導きを受け心の底から産みたい気持ちになるかならないか、授かるか否か・・・(恋愛の段階を含め)子孫を残す/残さないの展開など、それこそ自然界の事情で偶発的に発生する自然現象であり、自然の気まぐれであり、いわば一種の「ネイチャーコーリング」の力によるものだ。社会が自然現象(自然界)にエゴを押し付け人工的に介入し都合よくコントロールし評価したり裁いたりする(社会が自然界を従わせて都合よく使役する)ことは本質的に不可能かつナンセンスであることを忘れていないか?
社会的義務感から機械的に子供を望む心は、本能でもなければ自然現象でもない。子を望み愛する母性ですらない。男性的社会によるエゴの価値観でのみ作り上げた洗脳による偽りの欲求だ(実はこの価値観、少なくともアラサー世代の親の無意識下にも一定量刷り込まれていたりする。そのためアラサーの皆さんが親からその価値観による刷り込み支配を無意識に受け継いでいるケースも結構ある)。
この洗脳、少なくとも人類史の中で社会が男性性優位となった頃から古今東西ずっと続いている。「世継ぎを生む」とか、「長男の嫁」といったプレッシャーもこの洗脳から派生している。

男性的な価値観によって構築された社会が、その社会にとってのみ好都合な男性的価値観による生き方を植え付け人々を支配することこそが母性(女性性)を抑圧し、子どもを望む者を減らし、生まれた子供を愛せず(愛し方が分からず)虐待する例を増やす一因になっている。母性を抑圧し男性的な意識と原動力で子を産み育てさせようとする社会がそんな「自然の気まぐれ」を圧迫した結果が今の少子化と結びつく・・・まさに現代文明による自然破壊の一例だろう。社会はそんな自然破壊の責任を取ったことがあるだろうか? 責任を果たすべきは人か社会か?
子供は、人の命は、社会のエゴによって産み育てられるようなものじゃない。
(言うまでもなく、子を産み育て愛する母性本能は社会的義務感や洗脳によって呼び覚まされることはない。母性本能だけではなく、男女問わず生殖本能自体が社会的義務感では発動しない。両者は共に社会の都合に合わせて動くことなどない)

例えば、「ママ、どうして自分を産んだの?」 という子供への問いかけに対して母親が「それが社会に対する義務だからよ」と答えたら、子供はどんな気分になるだろう?  
母親の抱くその価値観が支配する世界で育った子供は、自分の中に潜在している母性を発育させていくことができるだろうか? 将来、「子供が欲しい」というネイチャーコーリングを感知した時無事に自分の母性を発揮することができるようになるだろうか? そもそもネイチャーコーリングを感知しにくくならないだろうか? その状態が世代を超えて連鎖していったら?

◆女性の地位を勝ち取る戦いのために邪魔な乳房を切り捨てたアマゾネス達
皮肉なことに、女性達が(男性的な価値観で営まれている)社会へと進出するにつれ、女性達も仕事のために、そして男性的な価値観で営まれる社会から評価を得る(男性的な価値観において利用価値ありと認められる)ために必死の努力と戦いをする中で、無意識に男性的な価値観の視点でものを考え言動する機会が増え、もはや習慣化している。利益、効率、能率、コスト、利用価値、シビアな弱肉強食(弱者の捕食/排除)の戦い・・・その結果、女性達は今まで以上に男性的に考え行動し戦い、女性的な(価値観の)視点に基づいた発想が抑圧され、社会は女性達が進出しても女性性と男性性のバランスを欠いたままに見える。すると男性的な視点にとっての価値を追求する社会は女性的な視点にとっての価値を生みにくくなってしまい、未だ女性にとってあまり快適とは言い難い社会のままになってしまう(仕事と育児の両立に悩むのはなぜか女性ばかり)。
男性的に偏っていた社会に女性が進出したにもかかわらず「女性にとっても快適な社会」が未だに生まれてこないのは、女性が女性として男性的社会に進出した(男性的社会に女性的要素が取り入れられた)のではなく、女性が男性化して社会進出したので社会は本質的にそれほど大きく変化せず男性性に偏った社会が相変わらず維持されただけだったようだ。
やがて、(極端なほど視野の狭い状態で男性的な価値観の視点に傾き心を支配されてしまった?)職場の女性上司が不都合に妊娠した部下(職場の業務効率を下げ足手まといになったり、職場にとって利用価値がなくなっていく者、コストの敵)に執拗なマタハラを仕掛けて部下を退職に追い込んだり、堕胎するように圧力をかけたり、時にはマタハラのストレスで部下が流産してしまうなどというケースさえ出てくるようになった。
まさに、「何で戦場に足手まといの腹ボテがいるんだ」という状態だろうか。

男性性に偏り過ぎた社会が母性を抑圧してしまえば「自然の気まぐれ」を抑圧し、本来なら「ネイチャーコーリング」が発動して心から本当に生みたくなる人(己に宿る自然の意思と一体化し母性の発揮を無意識に望む人)の運勢まで抑圧してしまう。本当に子供が欲しいときでも授かりにくい(母性が発揮しにくい)運勢になってしまいかねない。
逆に言えば、自分自身の価値観や思考パターン、今までの生き様が本音や本来の自分とかけ離れて必要以上に男性的な視点や価値観に偏り過ぎていなかったか、視野が狭くなっていなかったか自分と深く向き合いチェックして、もしも偏り過ぎが見つかれば修正していくことが母性(女性性)の抑圧を解きほぐし母性を発揮しやすい(そして自分の持つ女性的な個性を活かした生き方をしやすい)運勢になっていくためのささやかな開運法になるかもしれない。


「女性は2人以上子を産み大学は子育て後、産めない女性は施設に寄付を」大阪市立中学校長
↑やはり自然と母性を原動力に介在させてない男性性に偏り過ぎた発想。これが却って少子化を悪化させる。まさか昨今の少子化は、男性性に偏り過ぎた発想と価値観で営まれる社会がこれ以上続かないように、社会を動かす燃料(人員=子供)の供給を遮断する運気の一部なのだろうか?(妄想)

ワーキングマザーが「私が悪い」から抜けるために、本人と周囲ができること←前編からおすすめ
戦後の男性性と女性性←この妄想の続きが今回の妄想になった
男性的世界と地母神の再会

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