NHKで漫画版ナウシカをもとにした歌舞伎の放送を見たけど、やっぱりナウシカ(もとい宮崎アニメ)や彼の漫画は絵の表現や映像美が魅力なのだと改めて知った。舞台化するとその要素が弱くなってしまうのは否めない。
漫画版ナウシカは小学生の時から何度も読み返している。それまで学研の教材マンガや「りぼん」「なかよし」といった子供向け漫画しか読んだことのなかった私が初めてそれを読んだ時、色々衝撃的すぎるわ情報処理が追い付かないわで( ゚д゚)←本当にこんな顔するしかなかった。そのショックでしばらくドはまりしていたw
歌舞伎をきっかけに改めて漫画版を思い出すと、ナウシカに出てくるいくつかの要素は別の宮崎作品にも形を変えて登場することに気が付いた。例えば崩壊した「墓」は「天空の城ラピュタ」だと「城の基底部(すごい雷兵器があって黒くて変な浮彫のある無数の巨大ブロックがいっぱい。バルスで崩壊)」として表現されてると思った。それに対し、漫画版ナウシカで崩壊しなかった「庭」はラピュタにおける「崩壊を免れた部分」に相当するか。
そして王蟲はもののけ姫だとイノシシ軍団になっている。また、もののけ姫ではシシ神が頭を失うことでやはり大海嘯みたいなことが起きる。
恐らくシシ神(命そのものとされる)はユング心理学でいうセルフのシンボルなのだろう。命が本来のあるべき自然な姿を奪われたり歪められた時に生じる大海嘯は、いわば巨大なタタリ神現象なのかもしれない。宮崎作品から影響を受けたと思しき『モアナと伝説の海』ではテ・カァと島や海を脅かす黒い影の描写がそれに当たるか。
◆漫画版ラストは本当に人類滅亡フラグ?
よくナウシカの漫画版ラストは人類滅亡フラグじゃないかと言われること多いけど、「墓」は死んでも「庭」が残ってるのでこれまでの人類が浄化された空気の中でも生きられる技術は墓崩壊後も残っている。庭のヒドラが「ナウシカが庭で吐血しないよう肺に細工した」的なことを言ってるのがヒント。つまりナウシカは、浄化が終わる前と後、両方の環境で生きられるハイブリッドになったわけだ。
この技術を(不死身のヒドラや博士達に手伝わせるなどして)腐海のタイムリミットである千年以内に人類が習得し普及させれば墓崩壊後も人類にワンチャンあると思う。 ナウシカはそのことを踏まえた上で墓と哲学問答し、ついに崩壊させていると考えれば個人的にはしっくりする。
準備されていた新人類の卵をナウシカが皆殺しにする展開が衝撃的過ぎて印象がそっちに全部持っていかれると気付きにくいチャンスでもあるw ナウシカの決断は非常に危険な賭けで、千年経っても庭の技術が全く普及しなくて人類が滅亡してしまう可能性だって十分ある。しかしナウシカは「種族が命本来の自然な姿(清濁併せ持つ姿)を捨ててしか存続できないのであれば、その時は種族に寿命が来たものとして潔く滅びを受け入れる方が自然だ(そして恐らく、種族は命本来の姿を保ったまま例え多くの犠牲を出しても浄化による環境変化に順応していく)」という考え方のようだ。それが今なお賛否両論のある過激なラストへつながる。
◆命が自然な姿を失う時
作中で登場する、「新たな人類の間に邪な心や醜い心や争いが生まれないように、脳が穏やかな感情しか持たないプログラムが施されている新人類」という概念は、もはや不自然過ぎてロボット同然だ。そこに命や魂は本当に宿るのだろうか? 人工生命の巨人兵すらそんなプログラムはされてないのに。命は、魂は、本当にそんなところに宿りたいだろうか? ヴ王曰く、「そんなものは人間と呼べぬ」。
種族の生命が本来のあるべき自然な姿を歪められ奪われてしまえば、種族そのものが巨大なタタリ神になってしまう気がする。墓所(その存在自体が旧世界文明の遺したタタリ神のようなもの)が大事に保管してきた新人類の卵の行きつく先は、無数のタタリ神だったかもしれない。
人類が繰り返す醜さも争いも凶暴さも、それが発動するには各々にそれなりの理由や原因や背景や条件がある。そこにアプローチせず一元的な狭い視野で、対症療法的な解決法を究極的に追求し続ければ確かに「予め種族そのものに細工する」という結論になるだろう。一元的な視野しか持たないそんな発想を、漫画は「一つ目がトレードマークの墓所と教団」という形で表現している。墓所や教団にサポートされて権力を成立させている土鬼王朝もまた、同じような視野だったのだろう。歴代皇帝達もまた、墓所の技術で生命本来のあるべき自然な姿を歪められ、タタリ神のようになってしまった。だから大海嘯を起こしたのかもしれない。そして最期は墓所同様、全員が自然な命とは程遠い変わり果てた姿になって死んでいる。
狭い一元的視野(一つ目)ではなく、せめて両目を使った両元的(二元対立ではなく、二元連携という意味で)な視野ぐらいは持っておきたいものだ。旧世界が滅んだのも一元的な狭い視野しか持たなかったからかもしれない(妄想)。そんな狭い視野での営みは、命本来の自然な姿を発揮できなかっただろう。
(なお、恐らく人類は三元的視野まで獲得できると思う。第三の目的な意味でw もしかするとその状態は命本来の自然な姿なのかもw)
【余談1】
今となっては、「変異した新型粘菌」による大海嘯が変異した新型ウイルスによるコロナ禍に見えてしょうがない。恐らくコロナ禍も大海嘯と似たような経緯をたどって収束するだろう。即ち、「新型の遺伝子と旧型の遺伝子の交雑による変異→弱毒化」だ。
(まさか新型コロナウイルス誕生の経緯と不自然な新型粘菌誕生の経緯まで似てないだろうな)←陰謀脳
【余談2】
オカルト脳には自分達の技術を活用してくれる強い支配者と契約関係を結ぶ「目がロゴになってる教団」はミニオンズっぽくもあり、宇宙人と交信して色んな技術を伝授されているとかゆう噂のある「一つ目ロゴの某秘密結社」ぽいところもあるw
・・・とまれ漫画版いいよね。外伝で「その後のクロトワ」とか出ないかなw
【2021年6月追記】
余談1で書いた太字の懸念がリアリティを持ってきた; 一説によると、Covid-19は「人為的な機能獲得研究によって自然界に存在したウイルスが本来の姿とは異なる歪んだ命の姿に変えられた(ヒトに感染しやすいように改造された)」結果、それが外に漏れてパンデミックを引き起こしたと言われている・・・まさに作中にある「大海嘯の新型粘菌」そっくりだ。もともと腐海にいた粘菌を土鬼の博士達が採取・改造・培養し生物兵器として下界に解き放たれた新型粘菌だが、自然発生した腐海の生き物たちとまじりあう(交雑する)ことで暴走(タタリ)が止まった。腐海の生き物達が、助けを求める粘菌の声に呼応して自らの命を懸けて粘菌の元にやってきてその身を食べさせたから、そこから多くのDNA・RNAを吸収して自然な姿を取り戻した(自然な姿に変異した)ためだ。
繰り返されるcovid-19の変異は、自然本来の姿を封じられ歪んだ姿に改造された自分を、他のコロナウイルスと交雑することで本来の姿に戻そうと模索する本能的な活動のようにも見える。
ネットでは天気の子の結末を「ヒロインが生贄になるのを妨害した天罰で東京は水没(主人公は余計なことをした)」 と解釈する傾向がネットには多いが、作品としては「100年かそこらの気象観測データだけを基準に異常気象を定義するのは滑稽」 というメッセージが込められている(須賀圭介や気象神社神主のセリフ参照)ので、東京水没は天罰ではなくただの自然現象と解釈した方が自然かもしれない 。
ヒロインは現代人の都合に合わせて祈りの力を短期間で濫用しすぎたため、短期間で(東京を水没させる長雨が降るより前に)能力の消費期限を迎えて人柱になる日を迎えてしまったため、どのみち「3年間の長雨による東京大洪水」を阻止するにはもう一人誰か別の能力者(=人柱)が必要だったんじゃあるまいか? と妄想した。
また、ヒロインが晴れの願いを叶えた時は少し離れた場所に「降るはずだった降水量」の水がざぶんと降り注ぐことからも分かるように、もし人柱役が東京を水没させる長雨回避の祈りを叶えた場合、別の地域が未曽有の大災害に見舞われて大変な犠牲になっていただろう。それこそ、311の津波被害レベルになる。
しかし帆高が生贄のシステムを呪術破綻させたので新しい人柱が立つことも別の地域が犠牲になることも永久になくなった。その結果東京は、人間界のものさしをはるかに上回る自然現象を平等にありのままに受け止めることとなる。
「人間界のものさしをはるかに上回る自然現象を平等にありのままに受け止める」・・・これは現在のコロナパンデミックにも当てはまる。長雨同様、3年間は続くだろう。人々は収入や社会的地位や能力とは無関係にその影響を受けている。
奇しくも占星術では疫病も洪水も同じ海王星の象意。そして海王星は、自己犠牲という意味を持つ魚座の守護星でもある。作中でも「水の魚」が印象的に現れるのは意図してか偶然か?
そこからの連想だが、魚座に土星が入ってる時代にこの作品を再度見直すと面白いかもしれない。魚座は犠牲(自己犠牲)、そして土星は抑制とか抑止、ブレーキという意味もある。魚座の土星は「自己犠牲へのブレーキ」みたいな意味になりうる。
現在水瓶座にある土星は、丁度コロナ禍から3年後にあたる2023.3.7.22:35分に魚座へ入る。実際にその時のホロスコープを見てみると案の定、サビアンが作品と共通点があって面白かった。専門用語が分かる人向け→※
魚座と言えば皇室は一部の間で魚座ファミリーなどと言われることがある。今上は太陽が魚座で先代夫妻は共に月が魚座。雅子様はキロンが魚座で紀子様はMCが魚座。先代と今上夫妻は共に魚座に星を持っている。しかしその次の世代である愛子様や悠仁様(お印はスカイツリーのモデルになったコウヤマキ)になると、魚座に星が無い。
皇族と言えば色々と己を犠牲にしなければならない一族だが、次の世代になると魚座(自己犠牲)は受け継がれないのかもしれない(妄想)。以前の記事の最後に「天気の子→天子の気」というアナグラム妄想をしたことを思い出すw
吉凶両方の象徴現象が起きた即位式当時は、新型ウイルスによるパンデミックなど想像もしなかったなあ・・・
もう2か月ほど前になるが、ディズニーのアニメ「モアナと伝説の海」を見た。CGによる水の表現は秀逸。ご先祖様が出てくるシーンはどれも圧巻だ。今回の妄想は、その作品における主人公の名前「モアナ」はハワイ語で海を意味する言葉だったことでふと思いついた解釈。
あの作品の本当の主人公は、「海」自身なんじゃないかってこと。
作品の設定上、生命の源は海。よって、あの作品に出てくる女神(地母神的)を含めた全ての登場キャラ(=生命)は海自身の中にある「自分の様々な側面(個性)」を象徴している気がした。
海は女神であり心を失った女神テ・カァであり心を奪ったマウイであり劣等感の裏返しに優越感を味わおうとする(優越感を自尊心の代用とする)タマトアであり海賊であり女神の心をもとに戻したモアナでありモアナに旅立ちを促したおばあちゃんでありモアナを生み育てた両親でもあり祖先達でもある。皆が海の化身なのだ
そして海にとって、「女神が心を持っていた頃に大航海を実現していたモアナのご先祖達」は女神の心を宿していた過去の自分自身(=本当の自分)の姿とその可能性を象徴している気がした。
海は女神でもありマウイでもあるので、海は自分で自分の心を奪い隠してしまったことになる。
海は集合無意識の象徴でもある。「モアナ」という作品の主人公である海とは、我々の集合無意識のことであり我々の事かもしれないと妄想した。
私はモアナの物語に、自らハートを取り外してしまいテ・カアという黒い病に陥った海が「心を取り戻してもう一度あの頃の自分に戻ろう」と意図してモアナという少女(化身)になって自らのハートを取り戻す物語を発生させたというイメージを抱いた。海が失った「ハート」は即ち自らへの(そして全生命への)愛でもあるのだろう。
次に、マウイの視点から物語を見る。
まず、「母性」というものは、その個体が「自分の生きる喜びと可能性の自覚・実現(=幸せ)」を促進・支援する機能である。哺乳類の母性本能にせよ地母神にせよそれは同じ。
そして幼少期のマウイは母親に捨てられた時、自分に注がれる母性という愛(幸せを支援・促進する力)を失ったと誤解し、同時に「自分を生かし保護する存在に愛されず廃棄された=自分は尊くない・幸せになれない(=可能性がなくて生きる価値がない)存在」と誤解し自分自身への愛(己を生きる喜びを通しての自己肯定)を見失ってしまった。その結果母性愛を感じ取れず自分を愛せなくなったのでその代償行為として「他人から愛される行為(他者を幸せにすることで利用価値を評価される行為)」にふけり、人々から「英雄マウイ」として大勢から尊敬され愛される存在になっていった。自分の持つ能力に可能性があることや愛される喜びを知ることが出来たとき、彼はうれしかった。それが彼の知る幸せだった。
しかしある日、人々の願いを叶えてあげようとして(人々からまた愛されたくて)女神のハートを岩(女神の身体の一部)から取り外して人々にプレゼントしてしまった。それがもとで女神は溶岩の魔物テ・カァになり、島々の実り(女神からの愛の贈り物)は失われていき、海は黒い病を進行させることになった。
マウイが己への愛を失ったことを動機にした=「母性機能の抑圧」を動機にした代償行為がやがて「女神のハート(=愛)を失わせてしまう」という結果を招く(しかしそれが分かるのはラスト)。
そんなある日マウイはモアナと出会い共に旅をする。そこで敵役タマトアとの戦いに苦戦する。心に自尊心不全と劣等感(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)を抱え、その裏返しに優越感(見下せる相手がいてくれることに根拠を依存した自己肯定)を味わおうとするタマトアは「他者からの評価以外に自己肯定の根拠を持てない(=自立した自己肯定の根拠を持てず、他者に依存しないと自己肯定できない)」マウイの心の闇を象徴しているようだった。
マウイはモアナと旅していたある日、航海術を教えてやっていたモアナにこう言われた。「あなたを『マウイ』にしたのはあなた自身よ」
自分の力を皆から愛され驚嘆される『英雄マウイ』になるまで磨き活用して可能性を広げ、代償行為とは言え一応は「愛される喜び」を教えてくれたのは他人の力ではなく自分自身の努力や才能である。自分の中の生命力が自分をそんなふうにしてくれたのだ。
それは、自分自身の中に失ったはずの母性的な愛(幸せと可能性を支援・促進する力)が生きていた証ではないか。母性は、失われてなどいなかった。もう代償行為は必要ない。
そこでマウイは母に捨てられた時に失ったと思い込んでいた自分の生きる喜びと可能性を自覚し、既に実現していたことに気が付いたのだ。自分は、とっくに救われていた。
マウイはモアナの言葉を聞くことで自分自身への愛(己を生きる喜びを根拠にした自己肯定・自尊心)を自覚し、また己の中に母性愛を取り戻すことが出来た。それがきっかけでマウイもまた女神のハート(=愛)をあるべき場所へ戻す決意が固まり、一度は離れたモアナの元に戻ってモアナを支援する。
この時、マウイはそれまで自分の英雄性を釣り針に投影し依存していたが、釣り針を駆使してきた自分自身の生命力(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する力)を自覚することで釣り針依存症を乗り越えた。だから釣り針が壊れても自信を完全に失うことは無くなった。そしてこの時から、見失った母性愛の代償行為(他者から愛されること)を動機にした行動ではなく、自分自身を愛する(己を幸せにしその喜びを根拠に自己肯定する)ための行動をするようになったのだ。その行動の一つが、モアナに協力して女神のハートを戻し、世界に母性愛を復活させることだ(己の中でそうしたように)。自分の能力や釣り針の使い方が、そこで根本的に変容したと言える。
一方、モアナはマウイと離れている間、おばあちゃんの霊と交信する。そしておばあちゃんの問いかけ「自分は何者か」の答えを悟った時、一度は諦めて海に捨て去った女神のハートを海底から取り戻す。そして再会したマウイと共にそのハートをテ・カァになってしまった女神に戻す。
ラストでハートが戻った女神は本来の姿に復活し、海は黒い病からかつてのような本来の姿を取り戻し、島はかつてのような実りを取り戻し、マウイはかつてのように本来の姿となった釣り針(自由自在にいくらでも変身できる)を取り戻し、モアナ達一族はかつてのように本来の姿(ご先祖のように大航海する能力と民族性)を取り戻した。海の化身でもある皆が皆、「自分は何者か」を取り戻したのだ。
ラストのそんなシーンはどれも、海(=我々の集合無意識)自身が陥った課題とその克服を象徴するシーンじゃないかと思った。 海は、自分本来の姿を取り戻したのだ。
劇中の挿入歌
♪広い海旅した 祖先が私を呼ぶの 遠くへ旅をして分かって来た 私を呼ぶ声が聞こえる
心の声が呼んでいるの 波のように打ち寄せては 語りかけてくるその声が 教えてくれたの
私はモアナ
モアナは、自分が「海」であることを思い出した。
モアナを呼ぶ祖先の声=モアナを呼ぶ心の声=自分本来の姿(自分は何者か)とその可能性を自覚させ実現を促す命の声(力)なのだろう。そんな命の声(力)は緑に輝く女神の心(ハート)でもあり、愛でもある。
命というものは、己のあるべき姿とその可能性を実現するように自らを促す。それが命の「声」であり、命が持つ己への愛なのだろう。
愛の源=女神のハートの源=モアナに自分は何者かを自覚させる心の声の源=モアナを呼ぶ祖先の声の源=海=モアナだ。海=モアナの命(=モアナの心・魂)と言ってもいいか。モアナはそれが自分の本性だと自覚した。
それをこのブログ風に言えば「己を開運させる魂の環境インフラ(=内なる地母神)の源」と言ってもいい。そんな「命」であり「魂」であるものを、ユングは「セルフ」と呼んだ。それが命のあるべき姿(本性)だという。そしてモアナはそんな己のあるべき姿を「私はモアナ」と自覚した。
モアナ=海が取り組んだ「己のあるべき姿を取り戻す(自覚し・実現する)冒険」とは、我々一人一人が集合無意識規模で取り組んでいるテーマでもある。あの物語は我々の物語でもあるのだ。我々の中にもやはり、『モアナ』で描かれた課題と解決(=物語)を構成する全てのキャラが存在しているのだ。
集合無意識規模のテーマは、個人規模のテーマとしても(個々人の運勢の中で)現象化することがある。我々一人一人が集合無意識を構成し、我々一人一人が「海」で「モアナ」なのだから。
追記:この作品に登場するテフティは『崖の上のポニョ』のグランマンマーレと同じものだ。『ポニョ』では厳重に保管されていた命の水が海にばら撒かれた結果、海は生命本来の可能性を爆発的に実現する。グランマンマーレはその様を見て「素敵な海ね」といった。
楽園が蘇るとき:今なら解かる。女神のハート(心)は、「楽園本能」だったのだ。楽園は、甦った。
『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』が大反響 あなたはどう受け止める?主人公の女の子は、自分の大好きなアニメが映画化決定したことを知り、友人と一緒に公開当日に見に行くことに。
そのあまりの出来栄えに感動してしまった女の子なのだが、それに対して友人は「最悪だねありゃ」と一言。
画の脚本や演出、作画についてさんざん批判された女の子は、映画を見返すごとに友人の言葉が頭をよぎり、だんだんと作品そのものに興味を示すことができなくなってしまう。このような経験から、「一人でも多くの人に知ってほしい 批判は何も産まれない。それどころか、ファンにとって大切な思い出を、ぶち壊すということを。」(原文ママ)という作者の主張で締めくくられる。
「同じものを見ても人それぞれ感じ方が違う」という事は、一人一人に唯一無二の貴重な尊い個性が宿っている証といえる。それだけで人間は皆、尊さと貴重さを持っている。
「感性が違う」ということは、感性の源である個性や、その個性の源である魂が違う、ということであり、そんな世界で一つしかない貴重でかけがえのない自分の感性(個性)だけがなしうる世界で唯一無二の人生(人生経験)を創るということだ。なんとも貴重で尊いことだ。
他者にとっては退屈で取るに足らない作品でも、「神レベル」と感じるほど素敵な感動体験を自らの心に作り出せる。その能力(体験創造力)のなんと素晴らしく尊いこと。
他人が自分と同じ感覚を共有していなかったと落ち込むより、自分が成し遂げたそんな独自の感動体験を喜んだ方がいい。それが個性への目覚め、自我確立への目覚めでもある。
「他人からの共感や支持を受けること(=他人と同じ感じ方をしている証拠を見つけること)で初めて自分の感性に尊さを認識する。それ以外の根拠で自分の感性に価値や意義を見出すことは許されない」
いつの間にかそんな風に思い込んでしまっていなかっただろうか?
自分が友人と同じではない(友人が自分と同じではない)ことに不安や苛立ちや悲しみや疎外感を覚えるのは、友人と自分の境界があいまいで、友人を自分の延長みたいに認識していて(だからこそ脳ミソが違うのに自分と感覚を共有していると思い込むのだが)、いわゆる自我境界がしっかり出来ていないからだろう。この自我境界がしっかりできていれば、友人と自分双方の異なる貴重な感性(個性)を尊重し合える。お互いを尊重できる。
友人を自分の延長みたいなものだと感じるのは友人独自の個性や感性に気づいていない(あるいは否定している)からだし、そういう人は自分の個性(独自性)や感性にも無自覚(又は否定している状態)で、「皆と同じでなければ」という強迫観念に陥りやすい。日本人には多いタイプかもしれない。
本人にしか無い個性と感性(感じ方)により、その人生の中で世界でも自分にしか成しえない体験、感覚etcを毎日いくつも積み重ねているわけだが、これって地味にすごいことだと思う。
自分が味わったその喜びや感動や楽しみは、人類史上、いや宇宙史上、たった一人の人間にしか成しえない素晴らしい体験なわけだ。例え一冊の漫画や一杯のラーメンといった身近で些細な物事の体験であったとしても、それが持つ意味ははかり知れなく貴重で尊い。
まさに生命の尊さとは、こういうことでもあるんじゃないだろうか(壮大)。
恐らく件の友人は主人公の好むアニメをつまらない出来だと感じる一方で、主人公からすれば何がそんなに面白いのか理解できないものにハマったり妙に好んだりという本人にしか持ってない独自の(そして貴重で尊い)感性をどこかに持っているだろう。その感性で今日も本人にしか味わえない人生を創り味わっている。主人公も友人も、等しく貴重で尊いことをやってのけている。
自分独自の喜びや感動を味わえる自分の人生(そんな人生を創る自分の命)を愛し尊ぶ事が出来たら、他者との比較(優越感を含む)や他者からの評価・同意・承認等に依存しない自立した自尊心の始まりになるかもしれない。
いわゆる「中二病」という症状は、そんな唯一無二なる尊い自分の個性と人生を自覚したがっている(自覚したものを愛し尊び自立した自尊心を持ちたがっている)心の裏返しかも(過去記事参照)。
人間の死よりも泣ける? フィクション史上最も心が震えるロボットの死10選
1:T-800『ターミネーター2』(1991年)
2: コンボイ『トランスフォーマー ザ・ムービー』(1986年)
3:アンドリュー『アンドリューNDR114』(1999年)
4:アイアン・ジャイアント『アイアン・ジャイアント』(1999年)
5:ウォーリーとEVE『ウォーリー 』(2008年)
ランキングにはないが個人的に推したいロボットの話がある。
多くの人同様、私も子供時代に「ドラえもん」を見て育った。中でも、幼稚園児の頃見た「ドラえもん のび太と鉄人兵団」という映画は幼い私に強烈な印象を残した。当時の私には物語全てを理解するのは難しかったが、無意識下では、あの作品をきっかけに「命」「魂」「自我」という概念をあやふやながら初めてイメージするようになったのではないかと思う。
この作品には「リルル」という美少女型スパイロボット(ロボット星から地球侵略を目的として派遣された)が出て来る。母星への忠誠心はあるが人間らしい心や感情を持たないこのロボットがのび太達との出会いやらしずかちゃんとのふれあいやら色々あって自分自身の意志と感情、即ち「魂(ゴースト)」を獲得する。すると、母星の地球侵略に疑問を持ち、自分の任務と友情との板ばさみで苦悩することになる。
そんな彼女の下した決断〜最期のシーンが感動的だった。
まず3万年前の母星にタイムスリップ。自分たちの先祖であるロボット「アムとイム」を作った神=科学者に出会い、年老いて体の動かない彼に代わってアムとイムの脳から争いの遠因となる競争本能を削除し、代わりに思いやりや温かい心をインプット。そのことで母星の歴史が大きく変わったために生じたタイムパラドックスにより、リルルははかなく消滅した。彼女の消滅に立ち会ったのは、しずかちゃんだけ。
彼女は自分の消滅を知りながら、自分の意志でそうすることを選んだのだ。
彼女が消滅していくシーンは、まるで霊魂となって天に召されていくように神々しい。実際、ロボットだったリルルはとうとう自分自身の「魂(ゴースト)」を獲得したのだろう。
歴史が改変されたことで消滅したリルルは、改変後の歴史を辿った3万年後の母星で再び「製造」され、物語のラストでのび太と再会(本人にとっては初対面)する。まるで輪廻転生のように。
弱肉強食の源「競争(闘争)本能」というものの成立基盤には死の恐怖がある。弱肉強食な経済の競争原理にも成立基盤には飢えの恐怖(=死の恐怖)がある。
自分自身の「魂(=不滅の生命)」を獲得したリルルは、それゆえに無意識下で「死の恐怖」というとてつもない大きな壁を越え、そのことがラストシーンにつながる・・・などと勝手に思っている。要するにアニメの攻殻機動隊でラストにゴーストを獲得したタチコマ達と同じ。
住人が皆ロボットなのに戦争や植民地支配や奴隷制度といった地球そっくりの歴史を辿るリルルの母星は、紛れも無く地球の人類史を皮肉っている。
世知辛い世界が今も続く地球。リルルの母星のように私達の歴史のパターンを大きく修正させるには、私達が自分自身の「魂(ゴースト)」を今以上に自覚し、何らかの形で死の恐怖を越える(=競争本能が成立しなくなる)か、死の恐怖(飢えの恐怖含む)を原動力にしない文明を作ることにあるのかもしれない。するとゴースト同士の連携プレーなども出来て今までに無い歴史が作られるかもしれない(そのためには必ずしも自己犠牲が不可欠とは思わないが)。
今のところ、ゴースト同士の連係プレーは人々の無意識下で局所的に発生するのだが人類全体の歴史を大きく変えるには至っていないと思う。
(過去記事参照)
一番大規模なのは「偉い人の言い間違いとそれを聞いた大衆と検問所の兵士の連携によってベルリンの壁が崩壊した」という事例(※)だろうか。
争いの人類史を変えていきたいのなら、戦争の悲惨さをひたすらグロテスクにアピールしヒステリックに戦争を憎むことで平和を訴えたり、「悪の国」としてヒステリックに特定の国を憎むことに終始する方法よりも、背後にある人間の原始的な競争・闘争本能や人間が持つ心(ゴースト)に注目する視点からのアプローチ発想がもっと広まったらいいなと妄想する。感情論で歴史は変わらない(というか憎しみは争いを生む)。 占星術ではしばしば死の象徴とされる冥王星が「格下げ」されたことは人々が己のゴーストへアプローチしやすい運気が始まる予兆にならないだろうか(妄想)。
今思えば、私はあの作品のお陰で「心(ゴースト・魂)」というものに関心を持つ素地を得たのかもしれない。
朝、自分が病室で幸せだった人生に満足しながら安らかに満ち足りた気持ちで息を引き取る夢を見た日にこの日記を書けたのも、私のゴースト(主に無意識部分)の仕業な気がする。
あの作品、リメイク版じゃない方もオススメ。
オマケ:
進撃のアドレナリン ↑闘争心についての話。「恐怖」というものに対して安易に闘争心で対処すると大変なことになりうる。それは、「飢えの恐怖(死の恐怖に直結)」に対しても言えること。飢えの恐怖にうっかり闘争心で対処したら共食い(奪い合い)の果てに絶滅の危機。それが現代?→心の飢えが本当の飢えを招く 天空の城ラピュタのオカルト解釈←リルルが無意識下でやった「魂(不滅の命)への目覚め」と「バルス」は同じものを示してる? パズーとシータは、あの時確かに死の恐怖を越えた。
※以下は太平洋戦争のベルセルク悲話の余談です。元記事を参照した上で以下をご覧になることをオススメしますが、基本的に全部根拠の無い個人の妄想です。
◆脳内麻薬アドレナリン
私達がまだヒト型ではない小さな生き物だった頃から、危機や極限状態に直面すると自分や群れを守るために恐怖や怒り、闘争本能や逃走本能などを司る脳内麻薬「アドレナリン」を分泌するようになっていた。
最近流行の漫画に「進撃の巨人」という作品がある。あの漫画が描くテーマの一つは「アドレナリン分泌」といえるかもしれない。アドレナリンが分泌される人々とそのシチュエーションを如実に描いている。闘争・怒り・逃走・恐怖・不安(不信)・勇猛(蛮勇)、興奮、断末魔、おまけにベルセルク(火事場の馬鹿力を発揮する素養のある戦士)まで描かれている。アドレナリンが流れる場所は交感神経。ちょうど巨人の急所付近だ。
あの漫画の「巨人」は、私達が小さな生き物(よく捕食されてた)だった頃から持っていた「恐怖」の視覚化なのだろう。「壁」は無意識下に潜む恐怖が顕在意識に侵入しないように(顕在意識が恐怖を感じないように)抑圧・遮断する心理的な壁か。
恐怖というものは、理性や判断力をはじめ、人々から心の自由を奪ってしまうことも多い。非常事態に直面しパニックに陥るケースはいくらでもある。他にも、過去に発生した恐怖によって心の自由を奪われることもある。
※例えば、過去に体験した強い恐怖を無関係な物事に連想、投影、同一視し無関係な物事にまで恐怖を感じてしまい、本当に怖いものが何なのかを混同してしまう例もある。その結果変な思い込み(妄想や疑心暗鬼)に惑わされたり、本来は怖くないものを恐れてパニクったり逃げ出したりと様々な形で理性や冷静さを奪い、思考・行動を歪め失敗や判断ミスを誘発するケースは多の人が経験しているだろう。これが恐怖ではなく怒り(闘争心)を無関係な物事に連想・投影・同一視してしまえば、無関係な物事への八つ当たりやケンカにだって発展しうる。あるいは過去の恐怖を連想・投影・同一視した無関係な相手対して反射的な怒りや闘争心を持ってしまうこともある(克服すべきは過去の恐怖や怒りであって相手ではない)。
◆恐怖は「敵」じゃない
恐怖にせよ怒りや闘争心にせよ、アドレナリン分泌の作用は時に巨人のような力で私達から理性や判断力や心の自由を奪ってしまう。強い恐怖は意識から締め出そうと心理的な壁を作っても崩されてしまう事だって多い。その状態はまさしく人類にとって憎らしい「天敵」であり、それにどう打ち勝つべきか苦悩し葛藤する人々の様子をあの漫画は象徴的に描いている気がする。今のところ主人公達は「恐怖」をやっつけるのに「闘争心(怒り)」で対抗しているようだ。主人公が巨人化して巨人と戦う様子は「闘争心vs恐怖」って感じがする。
私には、「恐怖」という巨人に対して、「恐怖を上回る闘争心を出して巨人をやっつけるのだ! 闘争心が出れば勇気も出るから死だって怖くない。アイツを死んでも倒す!!」という発想には少し懸念がある。恐怖と闘争心はどちらもアドレナリンの担当なのだ。即ち闘争心は恐怖心の裏返し。恐怖(アドレナリン)に闘争心(アドレナリン)で対抗したら闘争心に力を注いだ分だけ恐怖心にも力を与えてしまうことにならないか? アドレナリン出しすぎてわけが分からなくなりそうだ。
あの作品における「巨人」がもしも恐怖の象徴であるならば、彼らは「殺すべき者」ではなく、「暴走させずにうまく付き合う者(連携すべき者)」のような気がする。暴走しないで正常に作動する「恐怖」の機能は、危険を察知し身を守るための大事な生命維持装置の一つである。過去に恐ろしい事態を引き起こした原因が未だ改善されずに自分の中で放置されていることを知らせる(ふとした時に過去の恐怖体験を連想させる)ことさえある(そんな『お知らせ』をうまく扱えずに先述の※みたいな暴走事例が起きるわけだが)。
そんな命を守るために生み出された機能(=恐怖)自体を殺してしまったら、それはそれで危険だ。恐怖が問題なのではなく、恐怖を引き起こす事態や原因の方が問題なのだ。その事態や原因から目を背け封印し押し殺そうとすると(抑圧すると)、恐怖は暴走する。正常に危険信号を出しているのに無視し抹殺しようとするからだ。
そういえばあの漫画、「巨人を絶滅させてめでたしめでたし」という展開にはなりそうにない。
また、壁を作って恐怖心を意識から締め出そうとすると、却って恐怖心を強調してしまうことがある。恐怖心(ないし他のネガティブな感情)を動機や理由にした行動や思考は、そのこと事態が恐怖心を強調するのだ。
(占い依存症にもこの仕組みが働いてるケースがある)
恐怖の強調。巨人を遮断するはずだった壁の中から巨人が生まれる描写は、そういうことが表現されている気がする。
◆「アドレナリン依存症」という巨人
私達は太古から危機に際していつもアドレナリンを分泌してきた。当初は自然な生存本能としてやっていたことだったから特に問題はなかったのだろうが、理性や知性を得る頃になっても何かあるとついつい原始的な闘争心(アドレナリン)で何でも解決しようとしてしてしまい、解決できなくて問題から目を背け無かったことにしてしまおうとする。すると今度は無意識が恐怖や不安(やはりアドレナリン)という形で信号を出すが、それに対してまた原始的な闘争心(アドレナリン)使って対応するだけ。以下無限ループ。
やがてアドレナリンが必要以上に沢山出るようになって制御しきれずに心を支配され、理性や判断力を奪われてしまうケースが発生するようになった気がする。元記事の「ベルセルク暴走」はその典型例だし、戦後の左翼紛争もベクトルは違えどその一例である。残念なことに、私達はベルセルク呪術に依存し縛られ支配されてしまった頃や左翼紛争が発生していた頃、というかある意味小さな生き物だった頃からあまり進歩しておらず、今までと同じパターンにはまる可能性はまだ残っている。
例えば、不景気になると人々の無意識下では「飢えの恐怖(死の恐怖と直結)」が音も無く頭をもたげ、やがて顕在意識領域にまでじわじわと浮上してくる(時には漠然とした不安感というあいまいな形で)。それに対処するため、人々は更なる闘争心をかき立てるべくアドレナリン分泌に依存する。結果的に、闘争心用のアドレナリン分泌を促進するような刺激をもたらす様々な娯楽や共同幻想や社会運動、政治リーダーなどが発生し人気と注目を集めることになる。そういうものから刺激を受けアドレナリンを増やした人々は恐怖や不安以上に好戦的な興奮を覚え、「弱肉強食に支配された世界の中でかっこよく勝利するファンタジー」を好む傾向になり、「弱肉強食がルールという前提からの脱出」という発想には意識が向かなくなる(闘争心が強まるため)。アドレナリンは、命が弱肉強食を前提とした世界での生き残りを求めて生み出した脳内麻薬でもある。それに依存している限り、弱肉強食がルールだとする暗示から抜け出せない。
それで結果的に、古今東西で不景気な時代には過激で好戦的な思想・主義(共同幻想・ファンタジー)やそれを吹聴する者が元気になりやすいわけだ(今もそんな時代?)。しかも、ファンタジーと現実の区別をわざとあいまいにさせる。そんなもんだから不景気と戦争は相性がいい。そしてひとたび戦争となれば現実は闘争心に負けないぐらい強い恐怖を撒き散らす。その恐怖から逃れるために更に強い闘争心をかきたて(時にそれがベルセルク現象を引き起こし)、それが更なる強い恐怖を呼び、恐怖と闘争心の間で半狂乱になる。恐怖と闘争心は同じアドレナリンの担当分野。オセロの裏表だ。アドレナリンのファンタジー(闘争心による麻酔・幻想)から現実に引き戻された時のショックは大きい。そして残るのは、「好戦的な共同幻想に逃避して感情を満たすために大きすぎる犠牲を生んだ」という傷だ。
あの漫画も、不景気にあえぐ現在の集合無意識が作者にインスピレーションを与えたのだろうか?
なお、「社会不安」という辛さにアドレナリン分泌で対抗する方法は、単なる紛らわし行為でしかなく、根本解決ではない。紛らわすだけでは社会不安の原因に光が当たっていない。
時に私達の生命維持装置は、過去に恐ろしい事態を引き起こした原因が未だ改善されずに放置されたままだと、いくら紛らわしても不安や恐怖といった警告信号を送ってくる。社会不安の原因を「アドレナリン(闘争心)不足だ」と偽りの結論を出して原因と向き合うことから逃げている限り、不安や恐怖は消えない。偽りの結論に基づいて恐怖を上回る闘争心を作らせていたアドレナリン分泌が、いつ「闘争心を上回る恐怖」へとベクトルを変えるか分からない。それはそれでコワイ。
(巨人と戦う側だったキャラが巨人化するというストーリーはそこら辺と関係してそうだ)
むやみに闘争心に依存することは、それだけ「現実と向き合う・腰を据えて根本解決を探る」ことに対して臆病な証なのかもしれない。
闘争心(戦い)の生まれる動機や原因に不安や恐怖がある。それらが無くては戦えないし、戦わない。
◆恐怖の原因と向き合い対話する
元記事にも少し書いたが、私達が本当に克服すべきものは、己の中に住む「アドレナリン依存症」という見えない巨人なのだろう。アドレナリン依存症から抜け出すのに必要な力は、何かあればむやみにアドレナリン分泌(原始的闘争心)で解決する発想(知性や理性が無かった頃の名残り。一種の先祖がえり)に依存することから卒業し、恐怖の原因(問題)から目を背けずに向き合う非アドレナリン系の冷静な勇気(闘争心には属さない勇気)なのだろう。恐らくそれは、知性や理性を知らなかった太古の祖先は持っていない力だ。アドレナリン系の「勇猛(蛮勇)」とは異なるそれこそが、今の私達に必要な真の勇気なのかもしれない。というかそれはいわゆる「勇気」とは違うものなのかもしれない。「叡智」とか「聡明さ」とか、「進化」・・・あるいは真実を突き止めようとする「探求心・好奇心」というべきかも知れない。それは恐らく、勇猛とは異なる方向で死の恐怖すら越えうる可能性秘めている。
社会不安に対して大衆がアドレナリンによる紛らわし行為をした挙句ヒステリックに暴走する有様は、社会が見えない巨人に支配された状態だ。要するに見えない巨人を作り出し大暴れさせてしまっているのは、自分達自身というわけだ。つまるところ、巨人とは私達自身なのだ。
自分達が今感じている不安や恐怖という信号の発生原因に対して、冷静に光を当て、分析し、背景や原因を探る。今何故恐怖(不安)が発生したのか、それはどんな恐怖なのか、どうしてそれが怖いのか、そうなると何が一番怖いのか・・・などなど、その恐怖が生まれる背景に何があるのか。まずは原因を探るために恐怖の特徴と恐れずに向き合い、「何故その様な特徴があるのか」を問いかける。逃げないで問題の本質と向き合い解き明かそうとする姿勢を持つこと、そこに情熱を傾けることが暴走を制御するコツの一つ。アドレナリン依存症からの卒業を目指す私達に必要なことは、そういう解決発想なのだろう。
(例:買占めパニックを引き起こした恐怖について探ってみた)
個人的には、多くの恐怖や不安が生まれる背景には「死の恐怖」があると見ている。不景気による社会不安も然り。死の恐怖に対して、アドレナリン系の原始的方法とは異なる方法で対処できるようになることがカギではないかと思っている。
余談:
原因と向き合う発想は、自分が過去に体験した不安や恐怖や怒りといったアドレナリン系の感情を無関係な物事に対して連想・投影・同一視し混同している可能性のある状態に陥った時も応用できる。コントロール困難な激しい感情を抱いた時には一応やってみるといい。
まず、不安や恐怖や怒りを感じている自分の心に対し、「かつても同じような感覚を味わったことが無かったかどうか」と問いかける。もしも身に覚えのある感覚であるならば、この感覚を味わった時の事を思い出す。昔何に対してそんな不安や怒りを感じたことがあったのか、それのどこが一番嫌だったのか、どうしてそれが一番嫌だったのかを思い出したら、何故その感覚が今になって無関係な別物に連想・投影されたのか。どこがどう似ていたのかを比較してみる。
すると、投影対象への恐怖が消えるので落ち着いて色んな事が分かってきたりする。本当は何を恐れ嫌がっているのか(何を愛するゆえなのか)とか、解決策も分かることが多い。割とマジで。
その謎解きは、怖いと思い込んでしまうことが多いのだけど、むしろ新たな発見を得る謎解きのワクワク感さえある。
万一の何かがあったとき、アドレナリンじゃなくてこっちを上手に使えるようになればとんでもない進化だと思う。そもそもこれ使えたら「万一の何か」を発生させうる運気(因子)が成立しないかも。
↓
魂の環境インフラ
運勢の神業
天空の城ラピュタのオカルト解釈
鍵を握るのは、「ゴースト」だ。
ここ数年の金曜ロードショーよりはるかにストーリーも演出もよく出来てる。予告もいい。
ジブリがルパンやってくれないかな・・・
米国デフォルトなら未曾有の大惨事-リーマン・ショック凌駕
米デフォルトに備える投資家、あの手この手でリスクヘッジ リセッション迫る米経済-財務省が国債デフォルト回避でも デフォルトの脅威にも動じないティーパーティー
※以下に書いたことは当然ながら全て個人の妄想です。
最近アメリカの議会が政策でもめてデフォルトする・しないとか言うチキンレースみたいな騒ぎが起きてるもんだから、「ドル」という連想から陰謀論めいた空想遊びをやってしまった。題材は宮崎駿監督の「ルパン三世 カリオストロの城」。伊勢の遷宮で臨時祭主をした黒田清子さん(通称サーヤ)の大好きなアニメの一つである。 今回はクラリスに自己投影したサーヤの視点ではなく、以下のようなオカルト視点を当てはめてみた。
カリオストロ公国(ゴート一族)・・・・・・アメリカ合衆国
クラリス・・・・・・・・・・・・アメリカ国民。彼らの政府には造幣権が無い。
カリオストロ伯爵・・・・・・アメリカの繁栄を陰で支えてきたもの。汚れ仕事多し。
軍産複合体や造幣権を持つ連邦準備制度(FRB)などなど・・・
ゴート札・・・・・・・・・・ドル札
以上の設定を踏まえてあの作品を見ると意味深だ。特に以下のセリフ・・・
クラリス「人殺し! あなたは人間じゃないわ」
伯爵「そうとも。俺の手は血まみれだ。が、お前もそうさ。我が伯爵家は、代々お前たち大公家の影として、謀略と暗殺を司り国を支えてきたのだ」
クラリス「放して! 汚らわしい」
伯爵「それを知らんとは言わさんぞ。お前もカリオストロの人間だ。その身体には俺と同じ古いゴートの血が流れている」
・・・思わず耳を塞ぐクラリス
伯爵「クラリス、400年の長き年月、光と影に分かれていた2つのカリオストロ家が、 今、1つになろうとしているのだよ。ご覧、我が家に伝わる金の山羊と、君の銀の山羊の指輪が1つに重なるときこそ、秘められた先祖の財宝が蘇るのだ」
暗示の力で人形のように操られ結婚式へ参加する(=伯爵の陰謀の道具にされる) クラリスのシーンなんて、上記の視点を当てはめたらそのまんま「プロパガンダの暗示によって強いアメリカを信じ煽動され利用される国民」である。まさにスケープ「ゴート」だ。
その場合、ルパンはさしずめアメリカ人の集合無意識が召喚した「秩序(暗示)をひっくり返すトリックスター(タロットの愚者・トランプのジョーカー)」か。それは必ずしも人の姿を取らない。その正体は運勢かもしれない。
デフォルトする・しないに係わらず、アメリカのチキンレースが世界に(そして集合無意識に)与える影響は既に大きい。アメリカが今まで通りの運勢を維持することも難しくなるだろう。そうなると「ルパン」が来るかもしれない。
(追記)政府閉鎖の影響で止まってしまった米議会の屋外時計なんか作品のクライマックスシーンに出てきた時計台に見えるw
伯爵が手間隙かけた陰謀をはりめぐらし必死に手に入れようとしていた「封印されし先祖の財宝」。しかし財宝の正体を早い時期に知っていれば、俗物の彼はそもそも陰謀なんか企まなかっただろう。
オカルト解釈だと財宝の正体である「遺跡」というものは、「無意識の世界に潜む叡智」だとか「高い精神性(霊性)がもたらす不変の価値」とかいったシンボルになる。その財宝を扱うには、高い精神性やスピリチュアリティが必要なわけだ。ルパンが「俺のポケットには大きすぎる」とあきらめたのも無理はないw
あの作品を作った当時の宮崎駿氏の無意識下を想像するに、ラストに出てきた「遺跡」はがやがて「天空の城ラピュタ」を生み出す源のインスピレーションへと発展していった気がする。
オカルト的に見た場合、「ラピュタ」で象徴的に描かれているテーマと「遺跡」が象徴するものは、恐らく同じだ。
(天空の城ラピュタのオカルト解釈)
サーヤがこの作品を好んだ理由についての妄想はここのラスト、「余談」参照。
鬼門のボストン 裏鬼門のテキサス←テキサスといえば共和党
日本最鬼門で起きてること←「10.4追記」参照
オバマ氏占ってみた 暴落にまつわる奇妙な話←三浦さんがエベレストに登る年は世界的に経済が荒れるジンクスw
10.11追記 米下院共和党、無条件の債務上限短期引き上げ検討=関係筋 軍産複合体をパトロンにしている保守系シンクタンク「ヘリテージ財団」が無条件の債務上限引き上げを求めていた結果の検討だという。共和党としては、政府機関の閉鎖を維持したまま債務上限だけ引き上げるとオバマケアの変更を迫る時間稼ぎになるとか。しかしホワイトハウス曰く、「政府機関が再開するまで交渉はしない」そしてこうなる→債務危機回避、合意至らず=米大統領、共和党案に難色-政府再開めぐり協議継続 ヘリテージ財団といえば、こんな陰謀論もある。「カリオストロ伯爵」っぽいw
10.12追記 米下院共和党、債務上限の短期引き上げを提案-11月22日まで
共和党が11月22日までの引き上げを提案とのこと。オバマ氏占ってみたに書いたが、オバマ氏のホロスコープ(生まれたときの天体配置)には木星と土星が合わさった「キリストの合」という星の配置が発生している。キリストが生まれた時も空では木星と土星が合わさってたという伝説に由来する。「キリストの合」が意味することは「やめるべきことをやめ、始めるべきことを始めるという重い責務」といった表現がされている。
11月22日は月日の合計が33。偶然にも、キリストの享年と同じだ。オバマ氏は重い責務を全う出来るだろうか?
10.17 米国債デフォルト回避へ、胸なでおろす株式市場 今回のチキンレースは、オバマの勝ちらしい(※)政府閉鎖の解除、上限引き上げ2月7日までに決定。
10.18 「神をたたえよ」、米下院で速記官叫ぶ 議員らあぜん “金融界のスノーデン”が内部告発 これが米ドル崩壊シナリオ
「ドル紙幣は、財務省ではなくFRBが発行している。FRBは意図的に米政府に大量の借金をさせ、その金利でうまい汁を吸ってきた。それが米財政の巨額赤字の原因になった」
「中央銀行は、対価として提供するゴールドがないにもかかわらず、ドルを売っている。これは完全に詐欺だ」
10.20 共和党、チキンレースでオバマに負けて仲間割れの模様(記事)。やはりここにも「ヘリテージ財団」の名前が。
月と水星が強いスクェア
神経質で移り気。情緒不安定。イライラしやすい。実際に感じることと表現することとのあいだにギャップがある。虚言癖、または、生まれ育った環境のせいで気持ちを素直に表現できない。行動にも気紛れで軽はずみな要素あり。知的好奇心は旺盛だが、飽きっぽく、物事を表面的にしか理解しない傾向あり。
(頭は良いけど葛藤が多いタイプの星回り、頭の回転率はとんでもない人だと思う。宮崎氏曰く『昔のインテリは内気だからではなく、頭が良すぎて言葉数が少ない』とのこと。彼自身がそういうタイプかも)
木星と冥王星がスクェア
暴走の可能性を示す世代的座相。
(生まれた頃は国が暴走してて、学生時代は学生運動全盛期)
木星と土星が合
いわゆる大合。20年に1度生じる。アクセルとブレーキの結合。表裏一体を成す権利と義務。やめるべきことをやめ、始めるべきことを始めるという重い責務が課せられた世代。この年は社会的にも重大な分岐点になりやすく、吉と出るか凶と出るか両極端。開戦に向かう 1940-41年は凶と出た例。西暦2000年に再び大合ができる。世代的な座相であるが、個人的な意味もかなり強い。この合を持つ人は、運命的に重い責務を背負う。キリストはこの大合を持つといわれる。
(常に時代の先を見通した作品を作って来ただけに、すごい意味深。オバマ氏や麻生氏と同じ星回り)
火星と海王星がセクスタイル
情熱とビジョンの調和。未来に向けて美しい夢を描き、夢の実現のために情熱を傾ける。勇気があり、勘も鋭い。直感的に大胆な選択をできる。
水星と土星がトライン
知性・表現力と抑制の調和。研ぎ澄まされた簡潔な表現をなす才能ないしは素質を持っている。勉学においては、地道で着実な努力を行い大成する。どちらかといえばやや陰気だが、控え目で魅力的な人柄。
火星と冥王星が弱いトライン
異常なまでの情熱の持ち主。揺るぎない勇気をもって、とことん頑張ることができる。肉体的な愛情関係において、官能的な強い喜びを得ることができる。
(空を飛ぶ描写に優れている宮崎氏。夢判断では、異性と一緒に飛ぶイメージはその異性と『身も心も結ばれる』ことを象徴する。彼の作品に出てくるヒロインは彼のアニマなのだろう。よく空を飛んでいる。最終作品に至っては、飛行機自体に菜緒子というアニマが投影されている)
太陽と水星が弱い合
活力と知性の結合であるが、あまり強い意味はない。一応、インテリタイプの合理主義者と解釈できる。しかし、他の配置によっては、太陽の「消耗」というマイナスの意味が出て、なまくらな知性、あるいは神経衰弱となる。
(幸いにして神経衰弱はしなかった模様)
土星と冥王星がごく弱いスクェア
信じられないような恐ろしい災難、最悪の事態、極度の試練を暗示する世代的座相。およそ10年ごとに生じる。
(そんな時代を潜り抜けてきたし、そんな事態を描く作品も多い)
太陽と月がごく弱いスクェア
半月または満月の日の生まれ。満月(衝)の場合、エネルギッシュで、鋭敏な感受性を持つが、やや浮ついている。浮き足だったり、調子に乗って浮かれ騒ぐ傾向。半月(スクェア)の場合も、内面的なエネルギーは高い。人生において、たびたび今までのやり方を見直し、反省する必要に迫られる。その努力を惜しまなければ、飛躍的な発展につながり吉。
(彼は半月生まれ。文明に対して『今までのやり方を見直せ』と促すメッセージの作品が多い)
水星と木星がごく弱いトライン
高度な知性を持つインテリ。こけおどしや表面的な雄弁ではない堂々たる表現力を持つ。生き生きとした精神の持ち主。陽気で高潔。フットワークも軽やか。さわやかな好人物。
(あんな表現力を持つ人はめったにいないかも)
天王星と海王星がごく弱いトライン
平均すると半世紀に1度ほど生じる世代的座相。美しいビジョンにもとづく変革を表す。とくに意識の変革という意味がある。
(彼の作品が人々の集合無意識に与えた影響は計り知れない)
海王星と冥王星がごく弱いセクスタイル
信じられないような夢をもたらす世代。終戦直後の1940年代後半、および1960年代にもこの角度ができている。
(本当に沢山の夢を見させていただきました)
余談:
幼児期にナウシカを見て衝撃を受け、ジブリを見ながら大人になり、小学生から読み始めたコミック版ナウシカは感性に多大なる影響を与えた。常に彼の作品から刺激を受けそれを栄養として育ってきただけに、宮崎氏の引退は非常に感慨深いものがある。
個人的な話で恐縮だが、実は彼の引退発表の日は私が幼少期から抱えてきた非常に厄介な問題に解決の糸口が見えた日でもある。この個人的なシンクロニシティー、宮崎氏の作品が問題を抱えて原因も解決法も分からずさまよっていた私に心の支えをくれていた日々を思うと、ある種の「卒業」を迎えたような気分になってしまった。
ありがとうございました。あなたに頂いた心の糧をムダにはしません。
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