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2022年1月20日 (木)

独りぼっちの革命と独裁

◆「私の理想こそが腐った社会を建て直すのだ!」
古今東西、世の中を憂いた多くの革命家やその支持者達の中には、「腐ったこの社会を破壊し自分の理想に基づいて再構築」することにただならぬ情熱を傾け、それこそ命さえ惜しまずに(時に過激な)活動をするケースがあった。自分の理想こそ正義だった。
「社会を自分の理想の形にする」とはすなわち、個人による社会の私物化でもある。壮大な規模のエゴイズムでもある。 革命家の多くは、パブリック(社会)とプライベート(個人)の境界 が無くなった状態で「
パブリックのプライベート化」を目指しているとも言える。「自分色に染め上げてみせる」というわけだ。社会を自我の延長とすることで自我境界が失われ、自分本来の輪郭・形を失うことにもなる。
そんな目標を掲げている以上、「多様性(自分の理想と無関係なもの、異なるものも存在する状態)」など許せるものではない。
そんなものを許せば自分の理想だけで社会を統一・構築できなくなるし、社会を自分色に染め上げられないし、社会を私物化できなくなるからだ。自分の理想だけで作られるべき社会に異分子(不純物)が混入すれば、出来上がる社会が自分の理想通りの姿にならないではないか。そんな邪魔な不純物は絶対に発生させてはいけないし、排除しなければ!

◆他人のいない世界でしか実現しない理想社会
かくして、革命家は独裁者になる。時には、外界(パブリック)とのつながりを制限したコミューンのような「狭い殻」に閉じこもる。それは、「自分の殻に閉じこもる」のと同じ現象かもしれない。
こういうのは政治団体だけでなく、ブラック企業や宗教団体にも散見される。異分子を異端者や異教徒とでも呼びかえればいい。要はカルト。)
排除することも閉じこもることも、当事者にとっては「理想の実現を守るため」に不可欠な措置だが、これで問題は解決するのかといえば、そう簡単でもない。「己の理想(だけ)で社会を構築したい(=社会を私物化したい)」という欲求は、「社会に自分由来のもの以外が存在すること(多様性)を許さない」 ので、そのような心理に激しく衝き動かされてしまうと、突き詰めれば「自分以外の存在を全て排除」するまで止まらなくなったりする。
即ち、「パブリック(自分以外のものが存在する世界)の否定」だ。それは「パブリック(社会)のプライベート(私物)化」で必然的に起きること。パブリックはパブリックではなくなり、プライベートなものになるのだから。
結局、自分の脳内理想世界を現実社会に移殖するなら自分と100%同化できない他人は邪魔者でしかない。

己の理想を共有してきたはずの仲間内で些細な認識や意見の違いから激しい粛清や内ゲバを繰り返したあげく自滅する組織や勢力はパブリックを否定してプライベート化させたい欲求が強い(そういう心理の人が多く集まった)と思っていいかもしれない。
自我や脳を共有していない他人同士が100%全く同じ理想を思い描き共有することはありえない以上、例え「己の理想に基づいた社会作り」に共感し協力し合う仲間といえども、ふとしたことで意識の違いやイメージしているものの違いが露呈した瞬間に「理想を妨げる不純物」になりえるのは必然だろう。己の理想計画から不純物を取り除き「革命の純化」を極めていった先には、仲間(=他人)がいなくなって一人ぼっちになった自分がいるだけだ。かつては信頼し合い苦楽を共にした仲間同士が互いを「理想実現に邪魔な不純物」と見なすようになれば、信頼が強かった分だけ敵意と憎しみは強まるだろう。悲しい事だ。
このようなパターンの現象は大昔からあって、古代エジプト神話「ラーの目」のモデルにもなったかもしれない(妄想)。
この神話を見て思った。パブリック(社会、客観的視点)とプライベート(個人、主観的視点)、どちらにも偏らず両方をきちんと俯瞰し、両立・連携させるには、片目ではなく両目が必要なのだろう。

◆独りぼっちの背景?
「パブリックの否定とプライベート化」という欲求が起きやすい背景としては、「他者とのつながりが乏しい環境(数少ない近しい相手と限られた時間のみ顔を合わせる生活、外界から隔絶された僻地での生活、孤立していた、自分の殻に閉じ籠っていたetc)」や、「ほぼ他人のいない世界」に長い間生きていて「パブリック(他人のいる世界)」や「自分ではない存在(他人)」というものを十分に学習しきれていないか、そこでの経験がネガティブなものに偏っていて、ゆえにパブリックを理解しきれず受け止めきれず時に否定的なものとしている(パブリックから目を背け自分の描く理想世界を選んでいる)ことに関係しているのではないかと妄想した。引きこもりが増えている昨今、こういうケースは増えるかもしれない。
「パブリックの否定とプライベート化」とは、要するに現実逃避や解離の一種のようにも見える。

己の描く理想的な美しい空想世界への逃避はやがて、現実世界を侵食していく。革命家はやがて、大勢の他人が存在する世界を自分だけの世界へと作り替えていく夢見がちな征服者にして独裁者へと変身していく・・・その作業はあくまでも孤独。
もしや、理想を実現したくて不純物を取り除き続けた挙句独りぼっちになってしまった革命家や独裁者は、最初から心が独りぼっちだったんじゃあるまいか? 
なぜ自分が救世主になりたかったのか? 作り直したかったのは、救いたかったのは、社会ではなく自分自身やその人生(プライベート)ではなかったか? 現実逃避や解離をしたくなるほどの何かから自分を救いたかったのではないか? 
革命家と独裁者と宗教家は社会に広めたい理想が政治的か宗教的かの違いだけで非常に似ているのは、彼らがそんな共通点を持ちやすいからだったりして(彼らは似ているがゆえに互いを不純物と見なして対立しやすい。同族嫌悪でもある?)

◆異質なしに社会なし
全ての人間は互いに異質。自分と同じ者は、自分しかいない。異質なものを許さず排除・攻撃するということは、自分もまた排除と攻撃の対象になりうるということだ。(それが可能だとして)自分が異質と見なしたものを延々と排除し続ければ、最後には自分一人になってしまうから「社会」は成立しなくなる。だが実際には、想像で決めつけたり予想したりすることができない程多様な異なる人間がひしめき合っているのがこの社会だ。現実的・客観的な検証なしに「これこそが社会を正しく導く唯一絶対の理想であり絶対正義だ(異論は認めない)」などと決めつけることはできない。その理想は、「あくまで自分個人にとって今最も理想的に見える」というだけの事。事情も内面も抱えてるテーマも違う他人には必ずしもそう見えない。しかしある種の革命家や独裁者や宗教家は、そのような(自分の理想に基づく社会の私物化を阻む)異論を決して認めない。
なぜなら、そもそも任意の価値観こそが「正義」と認識する側は、価値観の押し付けを躊躇う動機が無い。正義を拒んだり異論や疑問を持つ相手が悪になる。

金子みすゞの詩に、「みんな違ってみんないい」というフレーズがあるが、パブリック(社会)というものは、当然ながら「自分と違うもの(=他人)」が存在しなければ成立しえないので、社会を心地よく維持するにはできる限り多様な異質が無理なく共存/連携/調和できるようにすることが重要だ。時には、その人(達)が「何故そんな事をするように駆り立てられたのか」にアプローチして解決のために連携・協力する必要が出ることもある。
自分だって誰かから見れば「自分以外のもの(異質)」だ。にもかかわらず、存在が許されていて、今もこの社会で平穏無事に生きている。それは、この社会を私物化すべく自分以外の存在を排除/隔離したがる者が台頭していない証。多様な異質が尊重されている証。
人間は自我も
意見も価値観も主観も理想も、統一(同一化)などできない。多様な人間のいる広い社会で角が立たずに実現しうる理想があるとすれば、それは「個人の主観が打ち立てたもの」ではなく「異なる当事者全員が各々異なる理由や事情により満場一致で承認しうるもの」だろうと思う。
それは「スタンドプレーから生まれるチームワーク(和)」とつながりうるものかもしれない。

自我境界が未発達な国民性1

自我境界が未発達な国民性2

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