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2016年9月 9日 (金)

自我境界が未発達な国民性4

※以下に書かれていることはすべて個人の妄想です。

◆ライフスタイルの変化にDNAが対応しきれない?
よく「日本語は主語が曖昧だ/主語の省略が可能だ」と言われている。確かに英語や中国語の方が日本語会話ほど主語を省略するケースは少ないように見える。
日本人は異民族や異国との接触が極端に少ない上での村社会(しかも江戸時代は自由に行き来することが許されていない。特に女性)という環境下で生まれてから死ぬまで同じメンバーと共同生活するライフスタイルを何十世代も積み重ねてきたことにより、家族並みに共有事項が多い相手としか交流する機会のない人々(赤の他人や初対面の人間と会話する機会が一生無い人々)が無数にいた。しかも、つい150年ほど前まで。
そのような他国に類のない特殊な環境下で発達したのが言語とコミュニケーションのあり方が独特になるのは当たり前だ。まさにガラパゴスである。それ自体は別に悪いことじゃない。

そのような「共有事項の多い限られた相手としか交流する機会がない」特殊な環境下で気の遠くなるような歴史を生きてきた種族達(=日本人)は、自我境界(自分と他人を分けて意識すること=他人と異なる独自存在としての『自分自身』を意識すること)をしっかり強固に確立させ維持する必要はなかったはずだ。すなわち、自我境界をしっかり発達させる(自我を育てる)必要がなかったのだ。
その世界では、お互いを自我の延長にしあえる。ライフスタイルを共有している者同士は常識や価値観や意見も共有しやすい。生存に必要な物事の優先順位がほぼ同じになるからだ。お互いに自分が相手と思考や自我を共有しているように錯覚しやすくなる。この錯覚、当然同意見だと思っていた相手が実は自分と違う意見や考え方だと判明した場合、相手から自分の思考や自我を否定されたように錯覚してしまい『裏切られた』と被害妄想や逆恨みに陥ったり必死で相手に自分の意見を押し付け同意させようとする(同調圧力をかける)心理の原因にもなる。

考え方(価値観や利害や意見や常識etc)が自分と一致しない(=自分の期待や予想通りに動かない)相手を自分(が属する集団)の考え方に一致させる=自我延長にすることでコントロールし対立を解消したり自分を守るやり方、すなわち同調圧力を使った対立の解消方法は極端に自我境界の低い村社会(赤の他人が存在しない)でしか効果が見込めない。極端に閉鎖的な村社会以外の世界では、そもそも「同調圧力」というもの自体があまり効果を持たないのだ(そこでトラブル回避のために発明されたのが『契約』という概念)。

そんな背景が複合的に合わさった結果、日本のガラパゴス的村社会では皆が自然と横並びで、人々皆が平等どころか均一になり、全員が均一であることを前提にした同調圧力を用いた(依存した)社会秩序の維持が行われてきたために、「皆と(自分と)同じでない=同調圧力が効きにくい=秩序維持を妨げる因子=悪or関わりたくない」という刷り込みがDNA及び集合無意識レベルでインプットされてしまった。
(江戸や京都、大阪など人口が多い都市部は多少事情が違ったかもしれないが、つい150年ほど前まで日本人は大部分がガラパゴス的村社会で生きていた。大陸の村社会以上の閉鎖性だ)
日本人が自我境界未発達な国民性である(しかも比較的個人差が少ない)のは、ごく当たり前の、自然ななりゆきだったわけだ。「国民性がコミュ障」ともいわれているが、アレは障害ではなく単に「コミュニケーション能力を発達させたことがない(発達させるニーズが今まで存在しなかった)」だけだ。ゆえに無意識下に眠る潜在的なコミュニケーション能力の存在に無自覚でさえある。
日本人の近代自我(自我境界)の発達度合いが欧米基準で見ると12歳レベルらしい(言い出しっぺはマッカーサー)のも、そんな背景があるのだろう。

「冬に大荒れする日本海と広大な太平洋で大陸と隔てられてきた山がちな島国」という自然条件のみならず、江戸時代に入ると「幕府によって国内の自由な行き来すら制限され村の外に出る機会が少ない」という人為的な条件が加わり、ある意味では(半ば人為的に)絶海の孤島に監禁されたような状況が数百年続いたある日、「黒船」がその監禁部屋に突然乗り込んできたわけだ。まさに未知との遭遇。そして強制開国。
「開国」して以来、赤の他人や初対面の人間と一生会話しない人が大半という状態だったのにいきなり色んな異民族や異国との接触が増え、異なる地域へ自由に行き来が出来るようになって異なる出身地・異なるライフスタイル、異なる常識や習慣の人々とやり取りをするようになると当然事情は大きく変わってくる。もはやガラパゴス的村社会のやり方では社会も生活も成り立たない。初対面の人や赤の他人とのやり取りは避けて通れない。
その急激な変化に、150年経った今でも日本人はなじみ切れていない。「皆と違う=自分と同じになってくれない=悪or関わりたくない」というDNA/集合無意識レベルでの刷り込みは今なお続く呪縛となり、未だに苦労する人達がいる。村の外を知らなかったかつての村人のように、赤の他人や初対面の人間とどうコミュニケーションしていいかわからず混乱したり怯えたりして貝のようになる人、相手に対して強引に(必死に)同調圧力をかけてくる人は未だにいる(というか多分増えてる?)。
よくそんな状態で異国と戦争する気になったと思ったが、むしろ異質なものに対する拒絶反応(異質=悪)があったのかもしれない。

◆自問自答≠他人との会話
他者と会話をするとき、つい主語を省略する癖があるor主語がすぐに出てこない人は、自我(コンテキスト)を共有してない相手(=他人)に物事を伝えることが苦手で、相手と記憶や経験や(時には自我さえも)を共有している前提で会話する(自問自答に近い会話をする)癖を持っているケースがある。
ひどいと5W1H全部が省略され、すぐに出てこない場合もある。もはや単語だけ。長いこと共同生活をしていればある程度はそれでも内容が伝わり会話が成立するが、全ての人間とそのような会話が成立しうるわけじゃない。
占い師と客の関係(特に初対面)だってそうだ。だが、クライアント(相談者)側がそのことをつい忘れてしまったり、とっさに理解できなかったりする事例は占いをしている人になら多かれ少なかれ経験があると思う。

自問自答する場合、自分に対して主語を明確にして物事を説明する必要がない。自分自身とは主語も経験も記憶も(5W1Hも)共有しているので述語や単語のみで自問自答できる。
どんな時でもついうっかり自問自答に近い会話をしてしまいがちな人、主語を省略する癖が強い人は、「自問自答に近い会話でコミュニケーションが成立する環境下で生きたご先祖様が特に多い」のかもしれない。

しばしば相手が自分と自我を共有してない「他人」であることがとっさに自覚できなかったりすぐに忘れてしまう人は、会話の相手が他人であることを前提にした会話が苦手で自我境界が脆弱かつ未発達であることも多い。
主語をはじめ、様々な「他人との会話では欠かせない」前提や説明を無視したり省略した話し方をした結果、相手が自分の話を理解できなかったり主語が何なのか説明を求められたりすると「理解力がない」と不満を持ったり逆ギレするタイプは特に自分と他人(自我と自我でないもの)を識別する能力が低く、自己と非自己の識別が苦手であるケースは多い。
ということは自分自身(己の自我)を認識(自覚)することも苦手。あらゆる相手(他人)に対してそのような状態になる人もいれば、自分の子供に対してのみそうなる人もいる。自我境界が脆弱ということは自我を認識し自我を保つ力も弱いということだ。自分の個性と可能性に無自覚ともいえる。昔はそれでも全く問題がなかったから発達させる機会がなかったが、今はそうではない。自我境界を発達させる機会もニーズも沢山ある。

日本人は自分と他人の「同じ部分」に注目する傾向があるが、自分と他人の違いにあえて注目し、そこから
「他の誰とも(どれとも)同じではない独自の存在である自分」
「そんな他の誰とも(どれとも)同じではない自分独自の記憶と経験と5W1Hを世界で唯一自分だけが今日も積み重ねている」
「自分と相手が違うからこそ、相手が自分には発想できない視点や言動や話題で自分に新鮮な刺激を提供してくれる。相手にとっても同じこと。お互い『違ってくれてありがとう』と言える」
ということに意識を向けたとき、自我境界は一層発育を促されるのかもしれない。
自我境界の発育は自分を発見していくことでもある。自分という唯一無二の個性と可能性の発見は、自分にしか味わえない喜びや豊かさを人生にもたらしてくれる。
もしも日本人のレベルが12歳(小6~中1)なのだとしたら、まずは一歩進んで中2病を目指してみてはどうか?
中二病の有効活用


【余談】
日本ではよく「世間様」という概念で社会を個人よりも上位に置く伝統的傾向がある(例の自我境界を低く保つガラパゴス的村社会を支配してた時代の名残?)。己の思考や意志や価値観(=自我の動き)を、少なくとも表向きは世間様と一致させなくてはならないという強迫観念もある。しかし現代日本が採用している社会システムにおいては、社会と個人はどちらが上でどちらが下かということはなく、対等である(ここ大事)。
日本は社会=世間様が個人より上で欧米は個人と社会が対等に戦って勝敗を積み重ねている感じだ。個人側が勝つと社会から権利を勝ち取ることが出来るが、時々マイノリティ・ファシズムのような様相を呈することもある。昔は血みどろの戦いになってしまったこともある。

個人と社会の関係。肝心なことは、両者が互いに相手を対等な存在としてしっかり尊重し合えるかどうか、ではなかろうか。そういう意味では社会と個人の関係も個人と個人の関係も円満さに必要なことは本質的に変わらないのかもしれない。
互いの関係に優劣や貴賤や強弱や上下の概念を当てはめず「対等に尊重し合う」ことができるかどうかが個人も社会も円満であるためのカギ(の一つ)と言えそうだ。
(古今東西、人類はこれが苦手だ)

人々が個人間で互いに己のエゴを押し付け合う弱肉強食の戦いの関係を作りがちなら、社会と個人の関係も戦いの関係になりやすい(大規模にヒートアップするデモやストライキなど様々な闘争的社会運動、そして最近注目されているマイノリティ差別vsマイノリティファシズムの葛藤もその一例か?)。
あるいは、社会のエゴが個人を犠牲にして当然とする(ないし個人が社会のために自らを犠牲にすることが美徳であると教育し忍耐と泣き寝入りを意図的に混同させる)高圧的な社会になったりしやすいだろう(これ、「社会」を「組織」に置き換えても同じことが言えそうだ)。

人々が人間関係を作る上で、自我境界をしっかり作った上で自分とは異なる自我と人生と可能性を持つ相手を互いに認め尊重合う(可能なら活かしあう)関係を作り慣れているかいないかが社会の有り様に大きく反映しているのだろう。

自我境界が未発達な国民性3

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