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2013年8月

2013年8月26日 (月)

テロリストの要求:自己実現

※以下に書いたことは全て個人の妄想です

地下鉄の線路に下り、ツイッターに投稿「人身事故なう」
パトカー上で騒ぐ写真、「荒らしてきた」と投稿

非常識写真、相次ぐツイッター投稿 ウケ狙い過激化 稚拙な悪ふざけ

アイスクリームの冷凍ケースに入り、ピザ生地で顔面を覆う-。コンビニエンスストアや飲食店のアルバイト従業員によるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)への非常識写真の投稿が止まらない。アルバイトに損害賠償請求を検討する動きも出てきた。投稿者自身も勤務先を解雇され、インターネット上で個人情報が丸裸に。なぜ、代償に気づかないまま「悪ふざけ」に走るのか。(松岡朋枝)

◆テロリストの要求:自己実現
自己実現を抑圧された若者が、無意識のうちにその抑圧された自己実現欲求を歪んだ形で満たそうとするタイプの「テロ」が流行している印象。
ニュースになりそうな羽目を外したテロ行為をネットで広く公開することで、つまらない平凡な人生を生きる自分が一生に一度だけ有名人になれるし内輪ではヒーロー・ヒロインになれるしウサ晴らしにもなる。
抑圧された自己実現をそんな幻想に投影・同一視してしまえば、テロ行為(=自己実現)に人生の全てを懸けても構わないと思ってしまうことさえ。

直接的な暴力で死人や怪我人を出すことがないこういうテロの手口は、いかにも日本人的だ。
日本的テロリスト達、無意識下では当然ながら自分達の行為が世間的には「怒られる行為(迷惑行為)」であることを知っている。ただし、無意識では分かってることが顕在意識では自覚していない可能性がある。だから彼らの顕在意識は「悪いことをした」という自覚があまりない。無意識が顕在意識に自覚させることを拒んでいる可能性すらある。もしも顕在意識に自覚させてしまえば、理性が働いて自己実現の代償行為(テロ)を邪魔されてしまう。
ゆえに、多くのテロは自分のした行為が何を意味するか無自覚なまま行われると見た。

自己実現が抑圧される若者の増えた時代。
高度経済成長時代とかバブル時代と違って、企業や文明社会が若者の自己実現を後押ししてくれたり、職場が自己実現の場になってくれるケースが減っているのかもしれない。せっせと働いてそこそこ稼ぎ、ささやかに生活水準を上げて小市民的な幸せを謳歌する「昭和ドリーム」の時代は既に終わった。多くの人が未来に夢を見出せたあの頃には戻れない。そもそも、日本人は自己実現の場や手段を「仕事」に限定し過ぎてきた気がする。この国にとって戦後初めての自己実現が「高度経済成長~先進国入り」という産業の分野であったせいかもしれない。
子供達が「大きくなったら何になりたい?」と将来の職業進路を大人達から事あるごとに質問される現象自体、社会が「自己実現=仕事」という固定観念を抱いている証かもしれない。

仕事が自己実現の場であり手段になりえたあの頃に育ち、大きくなったらその神話が崩壊してた若者達。「大きくなったら何になりたい?」という質問を繰り返し受けて育ってきた彼らは、しかし未だ従来型の自己実現発想(仕事で自己実現)に発想を縛られがちだ。それゆえに、自己実現の場やチャンスを与えない今の衰退しつつある文明社会に無意識下で失望したのだろうか。 だとすればそれは、無意識下で自己実現の手段(可能性)を「仕事」狭い範囲に限定したがゆえの行き詰まりだ。自らの発想を狭い視野に閉じ込めたが故の失望だ。社会のせいではなく、社会から刷り込まれた狭い暗示を解かないせいだ。でも、そのことに気付かない。
その結果、狭い発想に縛られて社会に失望し自己実現を抑圧された非ニート層の集合無意識規模の鬱積が歪んだ形で一斉に噴出しだしたのが、こういったテロの流行かもしれない。
その噴出現象が表現する叫びは「仕事でしか自己実現が出来ないなんて騙されないぞ。ほら、こ~んな方法で自己実現してやったぞ!」←安易な武勇伝作りじゃなくて、ちゃんと本当の自己実現探そうね。

タロットカードでこの手のテロリストを象徴するならまさしく「愚者」のカードだ。「愚者」のモデルは王様や世間を皮肉り誇張し茶化す宮廷道化師である。「愚者」は後にトランプのジョーカーとなり、秩序を破壊するトリックスターの代名詞になった。
この手のテロはニートになりたくてもなれない(失望した文明社会への献身を拒否できない)若者達がはけ口を失った鬱憤をどのように暴走させるかを示す一例なのだろうか。
一度そういうテロが起きると、その波紋は同じような鬱憤を抱えた若者達の衝動を刺激して大きく広がっていく。テロをする衝動(自分ならもっとうまくやってやる)、それを叩いて個人情報を暴き晒す衝動・・・いずれも刺激する。

◆道化と観客
道化役の若者がパフォーマンス型テロをすることは、同時にそれを見た人々に「個人情報を晒して叩いてウサ晴らしする格好のターゲット」を提供することになる。「道化になりたい者」と、「叩きたい・晒したい者」・・・両者は集合無意識下でつながっているコインの裏表だ。
叩き晒すことでウサ晴らしを求める鬱屈した大衆(観客)は、ネタを提供してくれる道化(テロリスト)に依存しているとさえ言える。かつてはイジメ事件の首謀者とか体罰事件の首謀者、はたまた震災時の偽善叩きに依存していたかもしれない。 テロが起きた店を叩くことに依存することもあるだろう。
集合無意識という見えない領域で需要と供給が釣り合ってるこの手のテロ、流行が変わらないうちは増加し続けるだろう。マスコミの報道が流行に一役買っているかもしれない。

もしかすると、テロリスト達は無意識下でニートに嫉妬し、テロリストを叩く者達は無意識下で羽目を外せるテロリストに依存しつつも嫉妬しているケースだってありうる。そして、テロリストを特定し晒すために個人情報を収集するという手間暇かかる仕事を担当している人々の多くがニートだったりする可能性すらある。
(自分がテロリストを個人特定出来た時は、自己実現の代償行為ができたようなもの?)
その場合、ニート達がテロリスト達に嫉妬している(要するに互いに嫉妬し合っている)ってこともありえなくはない。「嫉妬」とは、時に憧れの裏返しだったりすることもある。

(恐らく、レミ・ガイヤールはテロリスト層にもニート層にも愛されて、時には憧れの対象になってるんじゃないかと思う)

◆テロリストの人海戦術?
「やがて日本でも暴動が起きて鬱屈を抱えた若者達が暴徒化するんじゃないか」と危惧する話も出ているが、私はそういう方向にはならないと思う。
おそらく、今の日本人は暴徒化出来ない。暴動起こせたらこんな「バカツイート(テロ)」はしない。大津いじめ事件のようにネットで大衆心理が暴走することはあるが、身の危険が伴う暴動とかには興味がない。

むしろ、今の日本人は暴動より遥かに大きな破壊力で文明を脅かす。その典型例が急増するニートだ。産業活動への参加を拒否しているニート達。彼らは現代文明社会を維持するための献身を拒否した人々である。文明を維持する人数が減っていけば、自ずとその文明は滅びる。本人達は全く何もしない。ただ静かに増えていくことで、とてつもない破壊力を秘めた爆弾になる。

今、世界で一番文明を滅ぼす力を持ってるのはニートや、ニートにはならない(又はニートにはなれない)かわりに職場を破壊する形で(又はそれを叩き晒すことで)暴走する、自己実現の抑圧を抱えた日本の若者達みたいな層かもしれない。割とマジで。

◆祈り
(私を含めて)若者達が「歪んだ、形」ではなく素直に本当の意味で己の自己実現を叶えることが出来るよう切に祈っている。それも、手段に囚われず自由な形で。もてあまし暴走するほどエネルギッシュで可能性に満ちた生命力が生きる幸せのために十分に生かされず抑圧されてくすぶったままなのは忍びないからだ。
自分の自己実現を妨げているのものは何か。自分を支配し縛り付けているものは何か。安易に「全ては世間が悪い。時代が悪い」と決め付けて済ませるのではなく、自分で自分を縛ってしまっている癖や考え方のパターンを見つけていって欲しい。
案外、世間そのものが自分を縛っているのではなく、必要以上に世間の風潮や価値観を採用し、それに依存し、支配され、盲目的に順守している自己暗示こそが自分を縛っている可能性もある。
順守しなくていいものを無理に順守したばかりに、その反動で順守する必要のあるもの(人に迷惑をかけない発想など)を無視してしまうのでは本末転倒だ。

覚えておくといいのは、暴走するほど強力な生命力は、その強い力ゆえに、やがて己を縛り抑圧するものをつきとめ打ち破ってしまうということ。その力を変なウサ晴らしや歪んだ「自己実現ごっこ」に無駄遣いしない方がいい。 


就活自殺の増加に思うこと
「必要とされる」必要がない
中二病の有効活用
上手なニートの過ごし方
種族の自己実現
オマケ:
イタズラが過ぎて刑務所にまで入ったレミ・ガイヤール氏、キックコントロールの才能で独自の方向に自己実現を叶えつつあるんじゃないか? あの逃げ足の速さはサッカーで鍛えたのかも・・・
こんな才能を持っていたのか! 世界一のイタズラ者「レミ・ガイヤール」のキックコントロール力は異常レベル

2013.11.28追記
中3少女がFC2で“飛び降り自殺”を動画配信 ネットに救いを求める10代の悲痛な叫び

「自殺配信がしたい、ニュー速にスレがたったりするのかなあ」「iPhoneは手すりに置きます。私はそのカメラに映るように、ちゃんとグロくなるようにしっかり落ちてあげます。そして伝説になるんです」などと自殺をほのめかす書き込みもしていた。

とうとうここまで来ちゃったのか・・・流行しかねないからあまりセンセーショナルに報道はされない。

2013年8月23日 (金)

領空侵犯と日露戦争のオカルトな因縁?

ロシア爆撃機2機が領空侵犯 福岡県沖 2月以来

防衛省は22日、ロシアのTU95爆撃機2機が同日午後0時10分ごろ、福岡県沖ノ島付近の領空を2分近くにわたって侵犯したと発表した。航空自衛隊のF2戦闘機4機が緊急発進(スクランブル)して対応した。ロシア機による領空侵犯は今年2月以来。

※以下にに書いたことは全て個人の妄想です。

◆神の島
上記の露領空侵犯、実は結構オカルトな因縁がある。まず事件現場付近にある沖ノ島について軽く説明。
ここは島全体が女人禁制の御神体で、宗像大社の沖津宮があり、島民は宮司が1人だけ。交代で10日間勤務し、毎日神事を行っている。基本的に一般人は上陸禁止。
宗像大社は別名「裏伊勢」と呼ばれるほど格式が高い神社である。神秘性なら表伊勢(伊勢神宮)より上かもしれない。宗像大社は3つの神社(辺津宮、中津宮、沖津宮)の総称で、総社は辺津宮である。3つの社はどうやって測量したのか、海を挟んで10km以上離れているがきれいに一直線に並んで建てられている。
島内には巨石の陰に古代の祭祀跡があり(どうやったのか、巨石自体が人工的に組み合わされているという説もある)、また海底にも遺跡がある。島からは沢山の貴重な出土品が数万点発掘。
運良く島を訪問できた方の写真を見るに、観光地化されてないし自然環境が保存されててまさに「聖地」という雰囲気だ。
(こういう場所はみだりに入っちゃいけない。場が乱れると力が損なわれる)

◆奇妙な因縁
そんな神秘の沖ノ島、あの日露戦争とも縁深い。何しろこの神社の御神領となってる海域で日露戦争の日本海海戦が行われたからだ。砲声が聞こえる中で島の神官は祝詞をあげていたという。当時沖津宮の神官に仕えた下働きの少年、佐藤市五郎が木に登って日露戦争の日本海海戦を一部始終目撃している(彼はあの戦いを目撃した数少ない一般人とのこと)。目撃の詳細は沖津宮の創建以来受け継がれてきたという日誌に記録されている()。 御神領で露バルチック艦隊を破った日本側司令長官の東郷平八郎は、戦勝へのお礼として戦艦三笠の羅針儀(コンパス)を宗像大社に寄贈した(辺津宮で見学可能)。

神聖な海域でドンパチとは無粋な話だが・・・まさかオカルト要素を入れた作戦だった?w

件の日露戦争日本海戦、沖ノ島の北西方向で行われたのだが、今回のロシア機領空侵犯も沖ノ島の北西である。領空侵犯の発生時刻を見ると、丁度日本海海戦で艦隊が戦いの海域(御神領)に終結している頃に当たる。佐藤少年が木の上で固唾を飲んでいた頃かもしれない(本人が書いた日誌曰く『身がしきりに震え、無闇に涙がこぼれて、どうにもならなかった』)。
沖ノ島北西・・・日露戦争の日本海海戦・・・ロシア軍機領空侵犯・・・何か妙な偶然の一致にオカルトな因縁を感じてしまう(妄想)。

なお、今回の領空侵犯、ロシア側は「そんなことしてないよ」と主張。 (
(6月にフィンランドで同じことやらかした時にも似たようなこと言ってた)

(ロシアの)国防省は、核ミサイルを搭載可能な同爆撃機2機が「日本海と太平洋の公海上空で計画に基づいて飛行した」と日本列島に接近した事実を確認。その一方で「機内の管制機器データによると、外国の領空侵犯はなかった」と主張した。

もし本当にあの時ロシア機の計器が何故か領空侵犯のデータを出さず、そのせいでパイロット達がうっかり日本側に入ってきてしまったのだとしたら・・・

・・・・・・・まさか、あの海域に呼ばれた?

余談
沖ノ島にはたった一日だけ一般人が島への上陸を許される日がある。それが日本海海戦のあった5月27日だ。この日に島で海戦を記念した大祭がある。
事前申し込みの中から抽選で選ばれた200人の男性だけが上陸前日に宗像大社の中津宮に参拝してから翌日船で沖ノ島へ来て裸で海に入って身を清めた後、初めて上陸が許される。
そして御神水意外は島内の「一草一木」たりとも持ち帰ってはならない。

日本の北西はロシア。沖ノ島(裏伊勢の一部)の北西にはロシア艦隊。伊勢の北西には出雲大社。モスクワの北西にはフィンランド。
どれも、かつては敵対する勢力同士だった。
今後は仲良くなってください。

追記1:
日露戦争因縁の地での領空侵犯だが、その2日前には何と現ロシアのバルチック艦隊がまるで映画のようなミスをしていたw (ニュース記事)。地元のメディアからは、上陸する砂浜を間違えたのではないかという見方も出ているという。

・・・ロシアの海軍と空軍、一度コンパスをお祓いしてもらった方がいいかも?

追記2:
領空侵犯から3日後、ロシア哨戒機が佐渡付近まで南下して自衛隊がスクランブル。
佐渡は日本海海戦の際にロシア水兵の遺体が2つ流れついた場所。当時、本荘了寛という僧が漂着した遺体を弔い、佐渡には今も「ロシア兵の墓」がある。あれから3日しか経ってないこの事件も、やはり「呼ばれた」かのような妙な因縁を感じる。

一連の奇妙な現象、今後日露関係運気が変動する予兆なのだろうか?

2013年8月15日 (木)

太平洋戦争のベルセルク悲話

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

超党派議員90人が靖国参拝…自民党の参加者増
首相が玉串料「不参拝をおわび」

◆共同幻想とパフォーマンス
靖国(近代国家開運の呪術装置)をパフォーマンスの道具に使う政治家達って、結局は歴史や戦死者を個人的なメリットを目的にした小手先の演出に利用しているだけでしかない。
参拝することでパフォーマンス利用する政治家と、参拝する政治家を批判することでパフォーマンス利用する政治家は、やってることが同じだ。終戦記念日にあわせてわざわざ靖国で記者会見を開く計画していた韓国の議員達()もそういう輩のご同類だ。

「陛下への忠誠や愛国心を持ち国のために戦い散っていった勇敢で立派な人々に感謝と敬意を表す」
というよくある発想での参拝にしたところで、当時の政権と大衆心理がおびただしい人間に共同幻想を刷り込み(時にはそんな刷り込まれた幻想に依存して)、何人も死に追いやった事実を美化し陶酔し依存しているだけにも見える。(というか、靖国自体が共同幻想の産物だし、未だその陶酔に依存して商売しないとやっていけない事情もある)

当時生きた人だけでなく、今でも何かのきっかけで過去の共同幻想にハマってしまい、しがみ付いて依存したまま抜け出せなくなるケースもあるかもしれない。当時も今も、共同幻想が分泌するアドレナリンやドーパミン(=脳内麻薬)への依存症から抜け出せていないような感じがする。
特に勇ましかったりパワフルだったりカッコよかったりする「男の子の好きな分野」はアドレナリンを出しやすいとは聞く。
(不況になると過激な右派が増えるのは、勇ましい幻想で脳内麻薬を分泌し陶酔に浸ることで現実の鬱屈を紛らわせようとする大衆心理なのかもしれない。そしてそんな大衆心理を利用しのし上がる者達もいる)

◆ベルセルク呪術の暴走
共同幻想による脳内麻薬分泌で人々を鼓舞する・・・これは初歩的な呪術の一種である。この呪術で戦士達を鼓舞し「ベルセルク」にすることもある。ベルセルクというと北欧が有名だが、大昔は割とあちこちに似たようなのがあったようだ。
ベルセルクは暗示による変性意識状態(忘我の境地)になって「火事場の馬鹿力」を出し、鬼神か野獣のように暴れ、恐怖も怪我の痛みも感じない。とても強いが敵味方の見境がない危険な存在でもあった。それで普通の兵士達とは隔離して用いていたという。扱いの難しい強力な兵器だ。

で、当時の日本(同調圧力が高い上に、多分霊媒体質が多い)は度を越した割合でベルセルク化してしまった。別の意味で護国の「鬼」になっちゃったのかもしれない。それは、理性も知性もを吹き飛ばし歯止めの利かない大規模な軍組織の暴走を生み出し、身内にも多くの犠牲を出す。呪術が制御できなくなったのだ。
(そもそも呪術を利用するはずのお偉いさん達まで呪術暗示食らってたらマトモな戦略・戦術なんぞ出せやしない。政治や外交も同様)

止まらないベルセルクの暴走は、日本が追い詰められボロボロになっていくほど手負いの獣のように先鋭化していく。軍の中では絶望的な戦況を知りながら「講和」という話がタブーになり、誰にも「無理だから戦いやめて講和しよう」とは言い出せない雰囲気であったという。最悪の場合、言ったら逮捕。
この先鋭化、アドレナリン類の分泌条件が「危機に直面したとき」だから無理もない。タダでさえアドレナリン類がだだ漏れのベルセルクをさらに興奮させる流れになってしまった。そしてとうとう「カミカゼ」までやり始めた。
この「カミカゼ」、呪術に支配され止めようもなく狂奔するベルセルクにさせられた日本自身の声なき心の悲鳴を象徴的に(歪んだ形で)表現したものでもあったようだ。
神経症状で言うなら無意識下に抑圧された心の悲鳴が自傷行為という形で表面化したようなもの。
「カミカゼ」の生みの親、大西瀧治郎の裏話(後述)を読むとそんな妄想が浮かんだ。

◆呪術の暴走を止める「カミカゼ」?
多分大西瀧治郎もある程度ベルセルク化はしていたと思う。しかしその裏では、呪術の器である「帝」に日本をベルセルク状態から解放してくれと悲痛な訴えをしていた様にも見える。この訴えは、呪術に支配され抜け出すことが出来なくなった日本の集合無意識がずっと上げ続け誰にも聞き入れられることのなかった悲鳴なのだろう。カミカゼ関係者達の一部は無意識下でその声を象徴的に代弁する「器」になっていたのかもしれない。

暴走した呪術を停止することが出来るのは、呪術最大の器、「帝」しかいない。しかし帝が伝統的な「呪術器」の役目に徹しているままでは呪術を停止させることが出来ない。帝が「お神輿」を脱出し、自らの意思で器をやめて荒れ狂う呪術を停止させることが出来れば・・・大西瀧治郎はそう思ったのかもしれない。
私が見た大西瀧治郎の裏話からカミカゼについて語った彼の言葉を一部抜粋する。

『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
 一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
(中略)
陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道がほかにあるであろうか。戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。
 しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
 大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様(高松宮)と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
 もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』

・・・めまいがするような話だと思った。上奏を許されず追い詰められた民が「お上への直訴」に集団自殺するようなものだ。これも一種のパフォーマンスか。
一度集合無意識規模で暴走したベルセルク呪術を止めるのは、電源も冷却機能も失い臨界まっしぐらの原発を止めるに等しいものなのかもしれない。行きつくころまで行かないと止まらない。
とまれ、大西氏の強烈な「訴え」が届いたのか否か、68年前の今日、昭和天皇曰く「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」(wikiより)
こうしてとうとうベルセルク呪術の進行は止まった。そして、「帝」がこの先二度と危険な呪術の器をすることがないように、昭和天皇は自らの意志で「神」でいることをやめ、「人間」になった。大西瀧治郎は自決した。

◆呪術からの脱却
人間の命が尊い以上、戦死した人々の命もまちがいなく皆尊かった。そしてその命を呪術的に煽動しけしかけ無残に浪費したのは、この国だ。彼らの死をどんなに美化したところで事実は変わらない。全滅を玉砕と美しく言い換えたって事実が変わらないのと同じことだ。失われた命の尊さを共同幻想(ベルセルク呪術)の美化や政治パフォーマンスや商売に使ってしまうのは気が引ける。
「靖国」は、近代日本の開運呪術、とりわけベルセルク呪術(共同幻想)にとって重要な装置だった。そして、その呪術を止めるため(?)に行われた「カミカゼ」による戦死者達も祀られている。その靖国も、3.11を皮切りとする列島規模の龍脈変動でエネルギー供給を断たれ呪力は失われつつある。今となっては呪術装置というより歴史遺産に近い。

とはいえ、集合無意識に残されたベルセルク呪術の後遺症は今も歪んだ形で各方面に残っている気がする。病的な根性論や体罰問題を抱えた体育会系の文化にはまだベルセルク呪術の火がくすぶっているし、ブラック企業の世界にも自衛隊の世界にもそういうのがある。もっと前、6.70年代の学生運動なんかは呪術の焼けぼっくいに火がついて戦中とは違う方向に暴走し、一部のベルセルク化してしまった若者達を中心に事件が起きている。
(日本での病的な根性論蔓延には、かつて確信犯的に『根性があればカミカゼで勝てる!』と人々を鼓舞しちゃった大西氏周辺も一因を担ってた?)

共同幻想(呪術)の支配と依存に別れを告げる勇気を持つことは、確かに難しいかもしれない。
共同幻想を信じ共同幻想が分泌する脳内麻薬に支えられて(依存して)苦難や不安に耐えたり戦って死んだりすることよりも、共同幻想の支えを失い脳内麻薬の分泌を失うことの方が死ぬより恐ろしくて辛く絶望的だという心理があることは聞いているが、そろそろそんな心理の呪縛から脱出してもいい時代だ。生命の贈り物である脳内麻薬というのは、人を縛ったり傷つけたりする共同幻想(信仰・呪術)という形だけじゃなく、もっと自由な使い方をしていいはずだ。本来はもっと色んな可能性があるはずだ。

あの神社、風水やオカルトで見れば呪術的な力はどんどん消えていく一方。呪術的な力が消えゆくということは、呪力の一つ、「暗示力」も薄れていくということだ。
本当は、呪術の暗示に依存し縛られ支配される事から抜け出す勇気こそ、本当の勇気なのではなかろうか? この勇気は、ベルセルクのような呪術依存の蛮勇とは違う。アドレナリンが出ないこの勇気が当時の日本には決定的に不足していた。軍人達の中にも不足していた。
古代東征時代を起源とする国家開運呪術の呪縛と支配から、日本の龍脈と運気は抜け出しつつある。日本の精神世界もそこから抜け出していく流れに来ている。
(忍耐と泣き寝入りを識別し、いじめ問題や体罰問題、ブラック企業問題等に取り組み始めた世相はその流れの一つか)

個人的には、東征の因縁と時の政権と大衆心理がもたらした共同幻想呪術とそれが作った時代の犠牲を美化し崇拝し続けること、それを戦死者達への供養とすることには気が乗らない。犠牲を美化し崇拝することで自分達が陥った幻想を美化し正当化してしまえば、そこから学習して成長していけなくなってしまう気がする。
(なお、靖国に参拝する方々の全てが上記のような発想を持っているとか言うつもりはない。念のため)

個人的には、かつてのベルセルク呪術(共同幻想)とそれらが引きずる後遺症から日本の精神世界が脱却し成長していく発想を持つ方が犠牲者達への供養になるかもしれない。それは、あの時代と彼らを無駄にしないこと。
とはいえこればかりは個々人の信条や信仰が関わる話なので、これ以上とやかく言いたくはない。


共同幻想から自己をとりもどせ?
とある東の国の物語
進撃のアドレナリン

2013年8月 7日 (水)

「風立ちぬ」見てきた

sign01ネタバレ注意
※以下に書いたことは全て個人の妄想です

◆第一印象
まず、あいかわらずただただ風景と情景が美しかった。冒頭の早朝に飛行機で飛ぶシーンから圧倒される美しさ。その色彩。主人公が体験する夢の世界とリアル世界のクロスオーバーや無意識の描写(象徴的な描写)にも磨きがかかっている。どちらも一人の人間の心が体験したという意味では、「同じ一つの精神世界で起きた真実」なのかもしれない。感情が表に出にくい自閉気質な主人公の精神世界を夢の描写(無意識の描写)が巧みに表現している。主人公と同じく自閉気質であろうと思われる庵野氏の声も合っていると感じた。
観客は主人公が青春のある時期に見聞きし体験した事を追体験することでその世界に引き込まれていく。

関東大震災が発生するシーンの冒頭、このブログをご覧の方には鳥肌モノのイメージ表現を見ることが出来る。まさにあれこそ目に見えない火気流失(火気流出)を視覚的に表現したものだと思った。
そして、当時の日本とドイツが劇的な歴史転換を迎える瞬間(私から見れば劇的な運気変動)を迎える様子を象徴的に表現したと思われるシーン(関東大震災&ドイツの大きくて立派な飛行機がバラバラになって焼け落ちるシーン)では、大地の唸り声というか、目に見えぬ人類の集合無意識が深淵から立ち昇らせる声なき声のような音響を聞くことが出来る。これも鳥肌モノ。特に映画館で聞けば効果抜群だ。計り知れない何か・・・いわば原始的な畏怖さえ感じるかもしれない。人間の小智才覚では決して太刀打ちすることもコントロールすることも出来ない巨大な流れ(むしろ人間の小智才覚が歴史的な規模で積み重なった末のしわ寄せ?)を表現するのにふさわしい音だ。

◆美しい夢の恋
菜穂子と主人公の恋愛は、これ自体が精神世界の象徴表現ではないかと思う。リアル世界のリアルな恋愛を描いたものではなく、夢(精神世界)の恋だ。「人間と愛し合う人間」ではなく、「アニマと愛し合う人間」を描いた感じだ。さらっと描かれる紙飛行機のやりとりが深まりゆく愛を象徴している。愛が芽生える過程の描写がさっぱりしすぎて物足りないと感じるかも知れないが、宮崎駿氏が本当に描きたかったのは両想いまでの過程ではなく「相思相愛になった後」なのだと思う。それが「ハウルの動く城」から進んでいる点か。菜穂子は「美しい飛行機」という少年の無垢な夢を擬人化したアニマなのだろう(あの子の命は飛行機雲)。
二人の美しくロマンチックな象徴描写は一部から「バカップルめ」とか「リア充爆発しろ」とかいう怨嗟が聞こえそうである。このアニメでは、一見すると家に仕事持ち込んでいちゃいちゃしつつ片手で図面引くような新婚バカップルから生まれちゃったのがあのゼロ戦てことになる。こう書くと妙に申し訳ない気分になるw

美しい悲恋モノ(ところにより難病設定)というのは、多くの人にとって伝統的にツボな話なのかもしれない。悲恋は、アニマ/アニムス(心の中の理想キャラ。しばしば抑圧された個性や可能性の象徴キャラ)を相手に投影したまま相手の現実の姿(醜さも生臭さも併せ持つ)を見ることなく美しい姿のまま恋が終わるからか。特に日本人は「結核文学」というジャンルを作るほど「儚く美しい恋」の話が好きな気がする。

例えもてなくても、アニマ・アニムスを投影・同一視した実在の相手(投影スクリーン)と結ばれることは無かったとしても、誰もが己の精神世界に住むアニマ・アニムス(投影の本体)と結ばれる体験は起こりうる。アニマ・アニムスと結ばれる=己の精神世界で個性や可能性が統合される(結ばれる)時、今までは発揮できなかった個性や可能性が現実世界で発揮できるようになる。その体験は、リアル世界の恋に劣ることなく尊い宝物になるだろう。
(主人公の場合は菜穂子と両思いになった後、今まで発揮できなかった可能性を発揮し飛行機開発のスランプから抜け出す。やがて菜穂子と結婚したこと=己の可能性を本格的に統合したことで、ゼロ戦の開発に成功した)

なお、もしこの恋物語をリアル世界のリアルな人間同士がやった恋愛として解釈すると、主人公も菜穂子も、互いに自分のアニマ・アニムス(理想像)を相手に向かって投影しあっているだけで、実際の相手自身の姿を見ることなく(故に人間扱いすることなく)単なる投影スクリーンとして利用しているに過ぎないことになる(ただし無自覚)。そして菜穂子は、自分が病で容色が衰えていき相手から見た「投影スクリーンとしての利用価値」が失われ、恋人から幻滅され愛情が冷める前に、恋人の記憶の中で「永遠に美しい自分(永遠の理想像)」となるべく自ら姿を消したことになる。
個人的に、宮崎氏はそういう類の恋愛模様をいちいち手間隙かけてアニメ作品にはしない気がするのだ。象徴的な映像や音響の様子から何となく精神世界の恋物語を思わせる匂いを感じる(妄想)。

◆儚き夢
純粋な主人公の並外れた天才ぶりは、脳の回転率と集中力が高すぎてしばしば論理的思考で到達できる次元を超えた超人的な直観レベルの感覚(感性)を発生させる。夢の世界(無意識領域)を媒介し論理的思考の過程を飛び越え直観的に真実を悟ってしまう様子の描写からもそれはうかがい知れる。たまに数百年前の日付から当時の曜日を瞬時に分かってしまう人がいるが、そのレベルかそれ以上だ。
そんな主人公だから、当然日本が戦いに勝てないことを知っていたし、ドイツは立派な飛行機を作れるけど負けることも直観したし、菜穂子の命が長くないことも、自分が少年時代から見てきた「美しい飛行機」という夢の命が長くないこともあの時悟っただろう。彼が「菜穂子喀血」の電報を聞いて居ても立ってもいられず駆けつける途中、列車内で美しい飛行機を開発するための力学計算を続けてたらノートに書いた計算式の上に涙をこぼすシーンは印象的だ。「美しい飛行機」という少年の無垢な夢を擬人化したアニマの菜穂子。その命が醜い現実によってまもなく失われることを知った涙と覚悟、決意と情熱が物語をクライマックスに導く。

近く失われることを知りつつなおも主人公が愚直なまでに飛行機開発と結婚生活に情熱と心血を注いだのは、決して「消え行く夢にしがみ付く現実逃避」ではなく、残された夢の時間が短いからこそ「僕達は一日一日を大切に生きることにした」ためだ。残された少ない時間で、ギリギリまで美しい夢を味わいつくし、やがて未来の糧にする事を情熱的に決意したとも見えた。その心に菜穂子(アニマ)も応えて遠い山奥のサナトリウムに入院したり、そこを抜け出して結婚を選んだりした。
その結果、主人公は菜穂子と真に結ばれ、ついにアニマ(己の中に秘められた可能性)を本格統合し、本格的に可能性を発揮した。それが恋のクライマックスであり、夢のクライマックスだったのだろう。それは悲劇の直前で手に入れた、かけがえのない宝物。

「この高原では嫌なこと忘れる。戦争してることも国がいつか破裂することも忘れる」・・・ハイソな保養地軽井沢(=大多数の庶民には夢の世界)で語られたカストルプのセリフも印象的だ。醜いものをいったん蚊帳の外に置き、美しいものだけを見ていられる高原の短い夏のひと時・・・
主人公が身に覚えの無い容疑で横暴な特高警察に追跡され身を隠す時に「特高は他人の郵便物を断りも無く勝手に開けて見てしまう」という話を聞いて「婚約者からの手紙を勝手に開けて見るなんて、近代国家にあるまじき冒涜です!」と怒り所が一般人と微妙にズレている所にも社会の醜さ(現実)ではなく美しい恋人(美しい夢)を見ることに集中している様子がうかがい知れる。その徹底振りを宮崎監督は「狂気」と表現したのか。

◆少年期の終わり
パイロットごと天に昇っていく無数のゼロ戦(主人公がアニマを統合した結果生まれた愛の結晶=子供)と燃え上がる町、爆撃されバラバラに焼け落ちたゼロ戦の残骸が散乱する飛行機工場の廃墟を歩く夢のシーン。主人公は美しいもの(夢)の命が醜いもの(現実)によって無残な最期を迎える時を見届ける。本人はそれを象徴した夢の世界を「地獄かと思った」と評する。多分、死にたい気分にもなったのだろう。
儚く美しい夢(菜穂子と飛行機)が醜い現実によって多くの血を流し無残に死ぬ最期。夢から覚めてその現実と向き合わされることで、しかし主人公は「夢見る少年」から「自分の経験した美しい夢を宝物(糧)にして現実の未来を生きる(=大人になる)決意」をする。夢の経験を糧に現実を生き未来の人生を創ることで、夢は「経験」に姿を代え人生の中で生かされ続ける。どんなに無残な終わりを迎えようと、自分の見てきた夢が美しかった事実は永遠に変わらない。その美しさは、生きるためにこそある。
元気な姿の菜穂子が夢の中に登場し、「あなたは生きて」と伝えて天に昇るのを見送ったあと、主人公が目を閉じ万感の思いを込めて(多分、菜穂子だけじゃなく今までの夢を追う人生自体に向かって)「ありがとう・・・!」と吐露する様子は、さながら悲喜こもごもの青春(そのどれもがかけがえのない自分だけの宝物)をくれた甲子園球場に感謝と別れを告げる3年生の高校球児にも似ていた。
この作品、青春時代に宝物となるような経験をした人々には何処かしら共感する部分がありそうだ。
人生経験が醸造した素晴らしい宝物を糧にして(生かして)創られる未来は、やはり素晴らしいものになるだろう。そこでも新たな宝が生まれるはずだ。そういう人生は、世界で唯一本人にしか創れない(他人には真似できない)芸術作品とも言える。あるいは自分だけが醸造できる「いいワイン(byカプローニおじさん)」か。
(主人公の声優をやった庵野英明氏はこの作品を見て曰く、『あ、宮さん、大人になるんだ』)

                                                  

◆オカルトな妄想(蛇足)
主人公と菜穂子が愛し合ったことで生まれた伝説の戦闘機ゼロ戦。しかしその誕生と共に菜穂子は死んでしまったことを主人公は直観的に悟る。彼の美しい夢もゼロ戦誕生をピークにして死んでゆく。
このことを後でふと思い出した時、古事記のイザナミを連想した。国生み神話で日本列島の島々を次々に生み出す地母神にして日本のアニマの彼女は、火と製鉄(古代において製鉄は軍需産業)を象徴する神カグツチを産んだ時に死んでしまう。古代日本の製鉄の発展は東征と切っても切れない密接なつながりがある。
そんな背景のあるイザナミの死が第2次東征とも言える太平洋戦争に際して日本の軍需産業が開発したゼロ戦の誕生にシンクロした菜穂子の死と重なって見えるのだ。菜穂子は主人公のアニマであると共に、日本のアニマでもあるのか?
あの頃日本の無意識が見た儚い夢。・・・それが「菜穂子」だったのか?

近現代日本は母性的な「生み出す豊かさ」ではなく、男性的な「勝ち取る豊かさ」へ依存し追求していった時代である。やはり古代東征時代も同じようなことが起きた。生み出すものが豊穣ではなく武器になってしまうとき、日本の地母神は黄泉の国に封印されてしまうのだろうか。
イザナミのお墓は出雲にある。奇しくも出雲は古代から製鉄と武器製造のメッカだった場所だ。

関東大震災から終戦までの期間に、日本各地の龍脈を用いた東征呪術(最新は靖国)が作り出していた「戦における開運をもたらす運気」は徐々に火気流失を起こしていき、やがて消えた。戦後、呪術の作る運気は戦争ではなく産業界・政財界に転用されたが、バブル崩壊から現在にかけてやはり徐々に火気流失を辿っている。そのとどめが日本中の龍脈を動かし呪術を破綻させた3.11だ。
昭和と平成にまたがる火気流失の長い時代。その火気流失の反動で引き起こされたすさまじい水気の押し寄せが、3.11の津波を皮切りに、今も日本中で渦巻いている。水気押し寄せの時代も、それなりに長いのだろうか。しかし時代の進むスピードは、試作機を牛に引かせて試験飛行場まで運んでいた昭和のあの頃とは比べ物にならないほど速まっている・・・
押し寄せる巨大な水気の奔流の中で、日本はかつて愛し合ったもののしっかり統合しないまま黄泉に封印してしまったアニマを蘇らせる(黄泉返らせる)ことが出来るだろうか?

もののけ姫を心理学的に妄想←「日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語」参照

【オマケ】ナウシカが乗ってるアレを自作した人がいる。私も子供の頃乗ってみたいと思ってたw

俗に男性は乗り物にアニマを投影することが多いと言われている。そういえばモーターショーでは車のイメージに合わせた衣装のコンパニオンが居るし、堀越二郎の時代からアメリカでは戦闘機に女性のノーズアートを描くのが流行っていた。現代の自衛隊に至っては、萌えキャラ満載の痛戦闘機なるものまで存在する。

2013年8月 4日 (日)

「天空の城ラピュタ」のオカルト解釈

久しぶりにTVで「天空の城ラピュタ」を見た。私がジブリ作品の魅力を初めて理解できるようになった作品でもある。花が咲き乱れるラピュタの風景は、いつ見てもはっとする美しさだ。
スチームパンクのモデルになった時代は、科学の発展の背後で目に見えない世界(オカルト)への関心が高まった時期でもある。

※以下は個人の妄想です。

ラピュタ
人間の脳みそ・意識・精神世界の象徴。平和や愛といった穏やかな心、人知を超えた力、エゴイズム等を併せ持つ。とくに人知を超えた力の象徴として描かれている。

ラピュタの中心にある大きい飛行石
松果体(松果腺)。悟り(大きい直観)やグノーシス、アセンションといった類の象徴。ヨガでいう「第3の目(第6チャクラ)」を司る脳の部位。デカルト曰く、「魂の座」(ここがゴーストと交信する機能を持つ)。
物理科学を超えた霊感やサイキックな能力や悟りには松果体の覚醒が関係しているが、人間は松果体の機能がほとんど覚醒していないという。(霊感やサイキック能力はエゴイズム抜きの平和利用に限定しないと非常に危険なため、エゴイズムの因子があるうちは本格的な覚醒が出来ないというオカルト説もある)
ラピュタの人知を超えたテクノロジーは人知を超えた松果体の能力(テクニック)を象徴。

シータ
パズーのアニマ。パズーの無意識下に秘められた平和を愛する心と直感力(磨き積み重ねれば直観へ至る)の象徴。
人間の脳波の中には瞑想やヨガ等をしている時にしばしば発生する「覚醒θ波(かくせいしーたは)」というものがあるが、これは直感やひらめきを促進する効果がある。心を静めないとこの脳波は出ない。

シータの小さい飛行石
パズーとシータを松果体の覚醒に導く直観力や直感力の象徴。(直観と直感の違い←直観の方が第6感に近いらしい)
ムスカの手の中でシータの落とした飛行石がラピュタの位置を指し示す光線を発したシーンでは、光線がムスカの眉間(=第3の目・松果体の位置)に当たるところが印象的。

ラピュタに張り巡らされた無数の樹の根
神経(ニューロン)。脳(ラピュタ)は樹(神経)の塊でもある。

様々な役割を持つラピュタのロボット達
様々な神経伝達物質

地上に落ちてきたラピュタの戦闘ロボット
アドレナリン(攻撃や闘争、恐怖を司る神経伝達物質)。これが分泌されると覚醒θ波は出せない。スピリチュアル風に言うと「意識の次元を高く保てない」

ラピュタ下部の半球状の黒い機構
エゴイズムや自我肥大など、仏教的に言うと「悟りを妨げる煩悩」、スピリチュアル的に言うと低次元な意識状態の象徴。基本的に弱肉強食の発想で、攻撃と闘争と恐怖の力(=アドレナリンの力)を用いて周囲を支配することでエゴを満たし弱肉強食からの勝利と安心を得ようとする心の象徴でもある。人間の脳が持つ爬虫類的な部分が必要以上に肥大した状態。
これがラピュタの上昇(アセンション・グノーシス・悟り・松果体覚醒etc)を妨げ、テクノロジー(人知を超えた松果体の力・魂の力)を次元の低いエゴイスティックな目的で用いるようになってラピュタ文明は滅んだ。

ムスカ
パズーの中にあるエゴイズムや自我肥大の因子。弱肉強食を前提に「力(パワー)」を志向し、攻撃と闘争と恐怖を利用して己のエゴを満たそうとする者で、いわばラピュタの黒い機構を擬人化したもの。サイキックな力(松果体の機能)をエゴイズムの充足に悪用し、自分が人間以上の存在(世界の王)になろうとした。世界を支配する王になる=世界全体を自我の延長にする=自我肥大。
多分、かなりコンプレックスも抱えてるキャラだと思う(パズーのコンプレックスを象徴してるのだろう)。コンプレックスもまた「煩悩」の一つである。

「バルス」
ラピュタの黒い機構部とその支配範囲を崩壊させる呪文。トルコ語で「平和」という意味。自我肥大やエゴイズム、低次元な意識状態、煩悩などといったものを崩壊させる力がある。この呪文が発動した場合、ラピュタ(脳・意識)の中でも平和的な部分と飛行石だけは崩壊せずに残って上昇する。
要するに松果体の覚醒(ラピュタの上昇・アセンション・グノーシス・悟りetc)を妨げる要素を取り除き浄化する力があるようだが、その力を出すには色んな体験を積み重ねたパズーとシータ(顕在意識と平和を愛する心・直感力)が成長し、様々な執着(時には生存への執着)を乗り越え人類愛を選ぶレベル(死の恐怖を超えたレベル)に達し、心が一つになった連携が必要。
バルス直前にシータの髪が断ち切られるが、彼女の髪の毛が時に直感を鈍らせる余計な執着(=煩悩)を象徴しているのかもしれない。ムスカはシータの髪の毛を掴んで捕らえてしまった。余計な執着(煩悩)でエゴイズムに囚われるのは人の性か。そしてパズーは、シータの髪が断ち切られる頃、生への執着より人類愛を選び、命と引き換えにしてでも滅びの呪文を発動させることを決意するに至ったのだろう。それはシータも同じだった。
二人の意識は個体(自分の肉体)の視点を超えて種族レベルの視点(種族魂の視点)に意識が合一し、自分にしかできないことをすることで己自身を最大限に生かして己の属する上位の生命体である「人類という種族」が持つかけがえのない可能性を未来に生き延びさせることを喜び愛する高い視点と心を獲得した。個体(肉体)レベルの視点を超えて種族と合一した意識は種族の視点で物事を見るので本能的な種族愛(人類愛)を獲得し、それまで自分が種族の一端末として使っていた個体(肉体)の死を恐れない。
種族の本能は通常なら個体視点で個体を守ろうとするが、時に個体の意識が己の属する種族の意識と合一することで種族としての視点に基づいた判断で個体(一時的に使用する自分の端末の一つ)の維持よりも種族(=自分)そのものの未来と可能性を最大限に発揮するために特性の適した己の個体を活用し、結果的に個体維持が出来なくなっても恐れず悔いない本能も併せ持つという。これは種族自身の意思と都合でのみ発動する本能なので個体レベルで他人が他人に強要しても発動しない。

失明のムスカ
サイキック能力の覚醒や悟りを促進させるというある種のヨガテクニックの中に、「エゴイズムが残った(煩悩が残った)まま実行してはいけない」とされるものがある。エゴイズムが残ったまま(エゴイスティックな目的で)そのテクニックを松果体に対して強引に強行すると、松果体周辺の神経系統が耐えられずにショートするという。松果体のそばにある視神経もやられてしまう。人知を超えた力はエゴ(人知)の手に余る。
エゴだけでイメージした喜びや幸せの姿(世界の王として君臨すること)よりも、エゴの向こうにある高次の領域(心の底・魂)からやってくる喜びや幸せ(シータという存在)の方が勝ることをパズーが知ったことでムスカは滅びた。

【余談】
宮崎駿氏には、「人が空を飛ぶ」ということへの根源的な憧れを巧みに描く才能があると思う。今年の新作「風たちぬ」にもその才能は如何なく発揮されている。
空を飛ぶことは低い地上の束縛から解き放たれ神の視点を得ることと同じだ。即ち松果体が覚醒する=低次元の意識状態から解き放たれ高次元の境地を得ること。それは、現在の人類にとって畏怖であると共に根源的な憧れなのかもしれない。
(人類という種族の脳が進化してそれを実現したら、戦争はなくなるだろうね)

次回、「風立ちぬ」についての感想とオカルト妄想(蛇足)を書いてみようと思う。
「風立ちぬ」見てきた

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