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2013年1月 9日 (水)

自我境界が未発達な国民性3

「自分だけたたかれ、つらい」 自殺生徒、顧問あての手紙に記載 桜宮高2自殺
生徒38人が体罰目撃…でも学校側は「知らない」
顧問、別の部員21人にも体罰か 大阪の高2自殺
体罰アンケート放置、生徒聴取もなし 大阪・高校生自殺
大阪・高校生自殺 バレー部でも体罰「改善に努めなかった」
部活がらみの体罰、教職員110人処分

この事件、顧問の先生が最初から生徒を自殺に追いやる目的で体罰したとか、傷害(ないし障害)を負わせることが目的だったとか言うつもりは無い。 狙った結果ではないならなおのこと、このような結果は「明らかにやり方を間違えた(=過失)」といえる。再発防止するなら全体的に今までのやり方・考え方を根本から改めることは不可避だ。 「実績・名声さえ上がればいくら生徒を傷つけても問題視しない風潮(生徒の安全と健康より学校としての名声・実績優先)」では親御さんが安心して子供を託すことが出来ない(だから親の目をごまかすために隠蔽?)。
また、「解決よりも隠蔽が優先」という体質は、隠蔽がバレた時の破壊力が半端じゃないことはそろそろ隠蔽体質に染まった人々も理解していいと思う。ニュースタイトルの「体罰」を「いじめ」に置き換えてみよう。どこかの事件ととそっくりだ。
震災以来、隠蔽を積み重ねた末にひどいバレ方をした所がどんどん出てきている。 これはまだ、氷山の一角かも。

◆未発達な自我境界?
顧問の先生に計画的な悪意は無いとしても、体罰の目的・動機が「思い通りの成果・実績が出なくてムシャクシャしたから」とか、「生徒達が自分の要求する能力を持っていない(そこまで上達してない・個人差)ことにムシャクシャした」といった「自分に当然従うべき人間が思い通りに従わなかった(=思い通りの成果を出さなかった)」という一方的な恨みを抱き、それを晴らすための暴力であった可能性は、残念ながらかなり高い。
(余談:発達障害の生徒が『要求する能力を出さない』『ミスが多い』という理由で何度も暴行されたり、同じ理由により連帯責任で全員が罰されることを繰り返した挙句仲間内から孤立し鬱病などの二次障害を負って自殺することもある)

仮にもしそうだった場合、その体罰の動機は「指導」じゃなくて「恨み」だ。
顧問が部員の人格や個人差を認めず部員を自分の延長(自分の一部)にした挙げ句、自分に当然従うべき人間が思い通りに従わなかった(=思い通りの成果を出さなかった)恨みを晴らすための暴力に走るといった心理は、親が子供を所有物扱いして子供が思い通りに動かない(動けない)と態度が豹変するパターンにも通じる気がする。
個人的な経験を言わせてもらうと、いわゆる熱血先生・熱心な先生と呼ばれる人々の中にも無意識に「所有物扱い(自己同一化)」を前提とした自己中心的な情熱を燃やしてしまっているケースは多い。中には生徒の自己実現と自分の自己実現を混同しているケースも存在する印象。 最悪の場合、もし自分の自己実現を一方的に投影・同一視した生徒達が自分の望む成果を出さなければ、その生徒達は「自分の自己実現を損なう者」になってしまい、恨みの対象になる。すると感情的になる。暴行へのハードルが下がりやすくもなる。
日本では当事者も周囲も「所有物扱い」と「熱血教育」の区別がついていないことが多い。自我境界が未発達な国民性だからだだろうか。

◆子供達の発達と自己実現
子供達は、「ただ単に勝ちたいから」という理由でスポーツや部活動を好むわけじゃない。単に勝負事が好きなだけなら必ずしもスポーツや部活である必要は無い。その活動を用いて意義深い体験をし、その刺激によって心身の発達と自己実現が得られるから、その喜びが好きでスポーツや部活が好きなのだ。その体験は彼らが自らの未来を作る尊い糧になる。
言うまでも無く、子供達は自分の自己実現のために意欲と情熱を燃やすのであって、親や先生や学校の名声・実績のため(=親や学校の自己実現のため)に燃やすのではない。
しかしそこが巧妙にすり替えられ、子供達の命が本来持っていた自己実現の意欲と情熱と努力は別の目的(大人達の自己実現)のために利用・搾取され、そのために暴力が常用されるケースが長く続いているようだ。
その結果、今回教育界は彼に部活を通した発達と自己実現の喜びを奪い、代わりに心身の傷と深い絶望を与えてしまったようだ。教育の場が未来の糧を与える場にはならず、未来を摘み取る毒の場になってしまった。恐らく、彼のように自殺しなかっただけで彼と似たような境遇で育った人は多いと思う。それこそ、何世代も。

ただでさえ少子化で未来を担う子供達が減ってるのに、その子供達から発達と自己実現を奪い未来の糧を与えず毒を与えてしまうことが続くべきではない。それは生命を尊ばないのと同じだ。 そういう環境下では子供達が人生や生命の尊び方を学ベない(いじめや自殺防止にも悪影響)。
それらを学べなかった子供達が大人になって出来上がる未来は、質が悪くなる。国益さえ損ねるかもしれない。
大人達が子供を犠牲にしてでも自分達の自己実現を優先するのは、そんな大人達もまた子供時代に自己実現を抑圧されて育った可能性を感じる。

◆自我境界の発達を封じた教育のゆくえ?
所有物扱いとそれゆえの暴力。今までの時代はそれが日本の教育界に当たり前のように横行していた風潮だとしたら。しかも、その暴力に耐えることを義務や美徳として洗脳し、泣き寝入りを「意義ある忍耐」と混同させ泣き寝入り暗示を刷り込み、しかも子供達が暴力や恫喝で洗脳状態になって自発的に部活をやめる(または自分を守る)発想を奪われているケースが多いとしたら。 保護者の世代からそれが起きていたとしたら。
被害を受けてもめったに反抗・告発できないよう予め心を操ること。この上なく支配と隠蔽に好都合だ。

こう考えると、最近主犯格が自殺した尼崎事件とそっくりの構図が浮かび上がってくる。ぞっとするような話だが、部活と暴力の問題の中には、前書いたような尼崎事件や大津いじめ事件同様に、日本の集合無意識に伝統的に根付いた体質が潜んでいるように思える。先述した事件と今回の事件、発生現場がどれも近畿の古代結界内部だからそう見えるのだろうか(妄想だといいな)。

伝統的に忍耐と泣き寝入りの区別が付かない人材を量産した国がどうなるかというと、国際社会で格好の餌食になると思う。
「NOと言えない日本人」の国。世界一忍耐強いが、時に世界一卑屈になりうる国民性。国内のブラック企業だけは社員の使い捨てをしやすくて発展していくかもしれないが、例えば泣き寝入りする従順なポチみたいな人材ばかりが大事な外交やTPP交渉の場にいたら・・・(ノ∀`) アチャー

◆「弱いのが悪いんだ」
この手の事件が報道されると、「心の弱い生徒が悪いんだ。体罰した側は何も悪くない。自分はもっとひどいことをされた(のに)」という声が必ず上がる。これ、自分のされたこと(そして泣き寝入りしたこと)に無意識が納得していない証になっている可能性もある。
本当は自分のされたことが正当な意義あることだと思えてない。そこで、「体罰した側」を正当化(=告発した生徒側を悪者扱い)することで自分のされたことを強引に納得しようとする心理。
時には、「体罰した側」への愛着願望や崇拝からその人と対立する感情(その人から受けた暴行を納得できない心・その人が間違っていると思う心)や、その人への否定的な感情(不当なことをされた怒り)を受け入れたくないケースにも「強引な正当化」が発生しうる。
これ、虐待する親をかばう子供の心理や加害者をかばうDV被害者の心理とも一部通じる。

一般的に、「心が弱すぎて自殺した生徒が悪いのだから顧問側は何も悪くない」という言い訳で顧問側・学校側が責任逃れできることは無い。 「本人が弱いのが悪いだけ」という論理は、裏を返すと「弱い人間なら自殺させてもかまわない」になってしまい、ほぼいじめっ子の自己正当化と同じになってしまう。
その主張をして一時的に逃げ切れる相手は唯一、自分自身だけ。
既にネットでは自殺した生徒や遺族を叩く動きが少数ながら存在する。例え暴力と恫喝の嵐の中でも発達と自己実現に成功した人や自分の受けた体罰を本当に納得している人は、今回の自殺した生徒や告発した遺族をことさら叩いたり嘲る必要を感じないだろう。

◆泣き寝入り傾向からの変化
今までは告発されず「泣き寝入り」が多かった体罰問題だが、最近は暴行された時泣き寝入りしない生徒も徐々に増えてきている。体罰を法律で禁ずるようになったからというのもあるが、「暴力」というものの意味が時代と共に変わっていったからだと言う人もいる(真偽不明)。
今の子はゲーム以外で格闘技ごっことかあまりしないし、ケンカはもっぱら口げんか。殴り合いなどしようものなら退学だ。だから他人の体を積極的に損傷させるなんて非常識なことをするのは常軌を逸した人か犯罪者みたいなイメージが強くなり、「暴力=異常」という認識になっているので「暴力=正しい指導」という認識にはなりえない子が増えているという話。
もしそうなら、日常的な暴力を使った指導を正義とする先生は「ヤバい人」に見えるかも。キャプテンなどの叱られ役(スケープゴート)を見せしめに殴ってチームを発奮させるはずが全員ドン引きという結果を出しかねない。
それはそれでいいと思う。人間は「絶対正義の暴力」など使えないから。

体罰(というより暴行・傷害事件レベル)を告発するケースが増えているとはいえ、今でも「泣き寝入りせず声を上げる」という行為は、多くの泣き寝入りした生徒達よりも勇気が必要なことがある。それは単に「目立っても周囲の目を気にしない勇気」「体罰した当事者やその支持者達から敵視されたり悪者扱いされるリスクを背負う勇気」「支配的な価値観に立ち向かう勇気」だけじゃない。
時には、自分を誤魔化さずにまっすぐに自分のされたことと向き合う、(時には尊敬していた)相手のしたことと向き合う勇気が必要になるからだ。自分が納得していないことを認める勇気が必要になるからだ。
本当に相手のためを思った場合、相手が己の間違いに気付き軌道修正するきっかけを差し上げるという意味で声を上げることは効果的なことでもある。


古代から続く支配の手口?
いじめっ子を憎む心の落とし穴?

※以上に書いたことは、全て個人の妄想です。

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