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2012年12月 6日 (木)

障害か多様性か

自閉症:脳内で免疫細胞活発化 抑制で治療に道

研究グループは18〜30歳の自閉症男性20人の脳の様子を観察し、自閉症でない男性20人と比べた。すると、自閉症の人では脳内の損傷修復を担う免疫細胞の「ミクログリア」が各部位で一様に多く、活発になっていた。
ミクログリアは胎児期に脳に定着すると考えられている。研究グループは、自閉症の人は複数種類の神経で情報伝達がうまくいかないことを確かめており、これにミクログリアの異常が関わっているとみている。浜松医大の森則夫教授(精神神経医学)は「症状との関係が分かれば、働きを抑える治療が可能になると思う」と話す。

人の世界じゃなく生命の世界から見て、脳にミクログリアとかいう細胞の数が多くて活発な個体(自閉症の個体?)が存在することが何を意味するのか、そういう個体が何故わざわざ存在するのか、という観点と発想も今後は必要になってくるかもしれない、と思った(妄想)。

◆ピアノの黒い鍵盤
我々の社会は、物理的・社会的な生活に不都合であったり不利であったり邪魔だったりする特性を俗に「障害」と呼ぶ。時に人々がそれを忌み嫌ったり、合理性を求めて排除したがったり、風潮次第では本人も自分の命に恥や劣等感を抱いたり、家族へ負い目を持ったりすることもある。
が、それは生命の視点ではなく、もっと狭い視点・視野での価値判断だ。
我々の世界の視点・視野に限定した判断基準で言えば無意味でマイナスで不便でしかないものでも、多様性を進化の可能性としてキープしたがる生命世界の視点(地球生命の本能?)から見ると、重要な意味があるのかもしれない。

それはさしずめ、「素人から見たピアノの黒い鍵盤」みたいなものだろうか。素人から見ればほとんど使わないし役に立たないように見えるけど、「音楽」という生き物を進化・発展させる上では欠かせない。黒い鍵盤のおかげで音楽の未来と可能性は広大に展開していけるわけだ。
「何で存在するのか分からないけどちゃんと理由があって存在するだろうな」ということは素人にも分かる。

◆多様性と進化
我々は、自分自身が属する種族の本能と希望と可能性を忘れているか、未だに理解してないのかもしれない。すごく狭い視野で独りよがりしてるのかもしれない。

確かに我々から見て「普通じゃない個体」は我々と同じような「普通の」生命活動をしないし、その能力は無いのだろう(そもそもそういう仕様じゃない)。 けれど絶滅することなく現在までその特性は受け継がれてきている。地球生命がそう望んだからだ。
それは、彼らが他と同じ能力が無くても生命活動が出来るように作られている証。地球生命の中にそういうシステムが組み込まれてるんじゃないかと思う。

例えば、群れで生活するある種の動物は障害のある個体にも餌を分けたり毛づくろいしてあげたりする習性を持っているらしい。種族の多様性を保つことが大きな目で見れば自分達にプラスとなることを本能が知っているようだ。

◆本能と余裕を組み込まないシステム?
そういう本能を忘れてたのは人間だけかもしれない。だからその本能を生かすことが出来ず、すごく視野の狭い独りよがりの価値観に基づいて「種族の多様性を保つ」などという作業をする余裕のない文明社会を作ってしまうのだろう。文明を作る段階でその本能が活用(採用)されてないから、文明の仕様自体にそんな余裕が組み込まれていないのだ。
そして人の価値観は、己の生きる世界のシステム(文明・社会)に合わせて構築され支配される(例:戦時中と現代の価値観の違い)。その結果、個体の中に時折出現する「文明に不都合な特性」は本人も周囲も不幸にする許しがたい悪(=障害)になる。
生命が本来持ちうる本能と余裕を組み込まずに作ったシステムにとって不都合なものは全て「障害」になる。そして、システムの仕様自体が「障害」を持った個体とその周囲に負担をかけ、追い詰め、不幸にする環境をつくりかねない。 彼らを本当に不幸にするのは障害なのか、それとも本能と余裕を無視して作られた環境なのか?

障害個体を「抱え込んだ負債」として扱うのではなく、他の個体同様に「多様性(可能性)の一部を担う種族の財産」として扱うことが出来るという点で、本能の発想は狭い視野で人工的に作られた合理精神(システムの基盤発想)よりもはるかに上手く出来ている気がする。

命の世界では「皆と同じ」である必要も、そのように生きる必要も全く無い。生命には規格品など存在しないし、多様性がカギとなる生命進化に(例えば中世ヨーロッパや日本人のような)同調圧力など存在しない。あるわけがない。
多様性を進化のカギにしている生命世界の発想を表現すれば、むしろ「違いこそ力」だ。 これはエニアグラムという占いの発想でもある。
障害があろうが無かろうが、その人(その個体)がたった一人存在するだけで、種族が持つ生命進化は何通りもの可能性をはじき出す(具体的に何通りあるのかはスパコンでも使わないと分からない規模では?)。個体が持っている独自の特性(=個性)同士が連携しあえば、進化の可能性はさらに何通りにも広がる。

◆まとめ
自閉症に限らず、障害を治療する研究がうまくいけば、多くの人々を救うことができるだろう。それを否定する気は無い。ただ、この手の研究が生命の多様性や生命進化の可能性を狭めるような、「世界中のピアノから黒い鍵盤を取り除いてしまう」様な方向に向かうことだけは無いように願う。
障害が人を不幸にするのか、それとも本能と余裕を無視して作られた環境が人を不幸にしうるのか・・・今回書いたことは、出産前検査が抱える課題にも言えることかもしれない。

やたらと壮大なくせに抽象的な書き方しか出来ないが、私のゴーストがそうささやいた。

畑に白いモグラ←色素の無いアルビノ(白子)は色素を持つ通常の個体より弱く不便な症状を抱えるケースが多いが、それが発生することにはそれなりに意味があるのだと思う。

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