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2012年8月

2012年8月31日 (金)

感情労働と自他の境界

感情を使う仕事につく人の「心」の守り方

たとえばサービス業や営業職の人は、苦手なお客さんにも常ににこやかに対応することが求められます。苦情の対応に追われるコールセンターでは、怒鳴り声にもやさしい声で受容的に対応することが求められます。
(中略)
このように、「人相手」の仕事につく人の多くが、決められた感情の管理を求められ、こうした規範的な感情を商品価値として提供する仕事を「感情労働」といいます。
(中略)感情労働は、とてもストレスフルな仕事です。
不快なこと、失礼なことを言われたら、つい嫌な気持ちが顔に出てしまうのが人情ですが、感情労働においては、個人的な感情を仕事に反映させないように、セーブすることが求められます。
(中略)周囲も本人も、仕事の顔は実際の本人と裏表なく一致しているべきだと、考えやすいものです。
そのため、感情労働につく人は精神的に消耗しやすいのです。とくに、使命感がとても強く、ひたむきな気持ちで仕事をしている人ほど、突然ポキッと心が折れてしまうような虚無感に襲われることがあります。これを「バーンアウト」(燃えつき症候群)と言います。
(中略)「こうあらねばらない」という仕事上の「ペルソナ」(仮面)に縛られすぎてしまう人ほど、バーンアウトするリスクを抱えているのです。

(「ペルソナ」という心理学用語は、私の好きなユングの概念だ。
解説

◆ペルソナ作りは「実用重視」で?
使ってて疲れるペルソナは、実用性が無いのでやめた方がいい。また、社会はむやみに実用性の無いペルソナを求めないほうがいい。
私の職業(占い師)も感情労働なので、クライアントが誰にも言えない心の内を吐き出しやすい雰囲気(ペルソナ)を身にまとう必要がある。中には犯罪めいた過去や危険な心の闇、世間的には後ろ指を指されたり不快感を抱かれうる問題を抱えている人もいる(それを言葉にして吐き出せるうちはまだマシなのだが)。

しかし占い師側はそれに感情移入して怒ったり悲しんだり非難し反省を求めたりすることはしない。それでは「吐き出しやすい雰囲気」をまとうことが出来ない。それよりも、問題の背後を見る。

占い師の持つ「心の内を吐き出しやすい雰囲気」には二種類あると思う。一つは何でも受け入れて肯定してくれるタイプ。何を話しても決して否定はせず、同意してくれたり同情的なリアクションをしてくれるタイプ。イメージとしては「甘やかしてくれる母親」。このタイプはお世辞を言ってくれることも多い。
時には実際の占い結果よりも相手が期待し喜ぶ占い結果を言ってくれることがある。「気分が良くなるから吐き出したい」と思わせる感じ。
このタイプは典型的な感情労働者のイメージに近いかもしれない。実際、このやり方(サービス方針)は多分ペルソナに縛られてペルソナを演じることに疲れバーンアウトしやすいと思う。
(とはいえ、そのやり方を一番得意とする占い師さんもいらっしゃるので、一概には言えない)

もう一つは否定も肯定もしないが、話を良く聞いて深く理解しよう・解決の糸口を探ろうと集中するタイプ。同情的なリアクションもせずお世辞も言わず無愛想だが、「どこがどう苦しいのか」をマジメに探ろうとする医者みたいなイメージだ。母性的ではなく、男性的かも。
相談者にとっては、とりあえず否定的なリアクションはしてこないし自分を分かろうとしてる様子を見て無意識に心の吐露を促されていくような感じ。
相手のリアクションを期待して相手に意識を向ける必要がないので、相談者は話しながら意識の全てを己の内面に向けることが出来る。

私の場合は後者だ。私自身が積極的に感情を使うというよりも、クライアントの感情を客観的に冷静に観察する作業に徹することで過度の感情移入を避け、占いの作業効率と心の保護を兼ねる。
クライアントが無意識に前者のような同情的・肯定的リアクションを期待していた場合、不満を抱かれることもある。感情活性が静まっているので、思いやりの無い冷血な人間にみられることもある。
時には「あなたには優しさのかけらも無い。占い師失格だ!」「私がどんなに苦しんでるかわかりますか!? 分かりませんよね!?」とかキレる人もいる。そのリアクションすら相手の状態を知る貴重な手がかりになる。相手が不満をぶつけてくることでより一層相手の心理や問題の背後が見えてくるので、それがマズイことだとは思ってない。むしろありがたい。

◆「不快感」はあくまで相手の個人的問題
そもそも、「相手が不満を持ってはいけない」などと考えたことが無い。誰にだって不満や不快感を持つ自由ぐらいある。相手が不快感を表明したからといって私までストレスに感じることは無い。個人的な理由と原因で不愉快という感情を選択したのはあくまで相手だ。私ではない。どんな感情を選択するかは相手の自由だ。
この発想は、感情労働全般、とくにクレーム処理にもオススメ。相手が怒ってるのは自分に対してではなく、相手自身が抱える自分個人の不快感、自分自身の抱える事情に対して怒っているのだと思うこと。例え無責任に見えても、ペルソナの裏ではそう思ってるといい。実際、相手は己の怒りを投影している人間個人には何の恨みも無い。八つ当たりってのは投影相手個人への怒りや憎しみが原因ではないのだ。原因は別の方にある。ただ、その原因を目の前の人間に連想・投影・同一視してしまっており、いわば自他の境界を失った状態にある。
「自他の境界をしっかり保つこと」。感情労働だけではなく、人と接する仕事の人はここが大事だ。相手が境界を失っているからといってこちらまでそうなる必要はない。

私の場合、自他の境界を失った相手への受け答えに意識を向けるのではなく、あくまで自分の仕事に意識を向ける。そういう相手の言動を無視して仕事(占い)の本質に焦点を合わせることが、相手に巻き込まれない方法のひとつだ。
自分の中で想定していた通りの同情的なリアクションを裏切られて「私の苦しみなんかどうでもいいんだろう」「私なんかどうなってもいいと思っているんだろう」というタイプの怒りを発するお客様(電話占いの世界では珍しくなかった)には、「ココへ相談しに来る方々は皆さん相当苦しんでます。よほど悩まなければまず相談には来られませんね。」とか何とか、KYな返事をして相手を白けさせ、意識の向きを変えさせることもある。
「せっかくご相談いただいたことですし、『どんなに辛いか』を見て終わりにするよりもその辛さの背景から糸口を探らせていただいた方がお役に立てるかと思いますが、いかがでしょうか?」

相手がそういうのを求めていなければ、そこでこの占いは打ち切りだ。打ち切りになっても、それを失敗だとは思わないし、打ち切りが自分の落ち度だとも思わない。相手が「自分の求めているものはこの占いではない」と気付くことができただけでも上々だ。余計なお金は使わせなくて済む。
「ソレに金を使うべきか否か」を客に冷静に判断させてしまうのは、客の心理をおだてたり煽ったりしてでも業績や売り上げUPを優先する(それが目的になっている)商売にはタブーかもしれない。
とはいえ、こういうのだってある意味サービス精神になりえないか?

◆作業中にだけ現れる人格?
「空気読めないアスペ風キャラ」などと評されることもあるが、それがいわば占い師としての私のペルソナだ。作業効率と実用性を追求したら自然とそうなっただけなので、わざわざ意識的に「演じる」必要がない。だからこのペルソナのせいで疲れることは無い(半分素だし)。この作業をしていないとき(例えばイラストを描くとき)は、また別の性格が表に現れる。
(なお、私のペルソナをアスペルガーに例えるのはアスペルガー障害に失礼だ)
要は仕事で使う脳の作業モードをそのままペルソナのキャラベースにしてしまえばいい。実はこれを書いている今も、私の中から占い作業中に現れるKY人格のペルソナを呼び出して書いてみている。

このKY人格を指して「淡々としているけど、本当は優しい方ですね」と言われることもままあるが、それ自体、私の素顔ではなく、あくまで職業上の作られた顔(キャラ)でしかない。
「ま、そういう商売ですから」とKYに返すことすらある。

感情労働者ならしばしば経験することだが、客が感情転移を起こして自分の仕事上のペルソナに恋をしてしまうケースがある。自分自身じゃなくて、仕事上の顔(=商売道具)に恋されちゃうのだ。
(そして占い師がそんな恋の相談を受けたりする)
私にもそういう経験はある。その場合、相手が惚れたのは私じゃなく、私の商売道具だ。いわば、自分が持ってきたカードや水晶玉やテーブルに客が突然愛の告白をしたのと、あまり変わらないと思っている。だからそう伝える。感情転移で占い依存症になられるよりはマシだから。

◆「相手から感情を満たしてもらうこと」を目的にしないで
コールセンター、営業、病院、カウンセラーetc・・・さまざまな感情労働には、だいたい「相手の一時的な感情を満たすこと」以上に大事な使命がある(一部の接客業は除く)。その使命を果たすこと。客がそこへ来た本来の目的に応えること。その結果、相手が喜ぶか特に喜ばないかは相手の自由じゃないかと思っている。相手の感情を満たしてやることよりも、相手に本来の目的へ意識を向けさせることが重要だ。そうすれば、相手もそれを差し置いて八つ当たりを優先する方向には意識が向かわなくなる。
(最初から純粋に八つ当たり目的のみで来た客は除く。それはただの営業妨害であり、客とは言わない)

リンク先の記事にある「使命感がとても強く、ひたむきな気持ちで仕事をしている」という状態が「仕事をしている自分の感情を満たすために(達成感ややりがいを味わうために)相手の肯定的リアクションを求める」という発想からスタートして作られていると、特にバーンアウトしやすいかもしれない。相手の肯定的リアクションにモチベーションを依存しすぎて不安定になるからだ。
感情労働者とその相手(客)。どちらもお互いに、「相手に自分の感情を満たしてもらう」ことを目的にしてはいけない。
もしそれをすれば、「自分でないもの」を自分の一部に組み込んでしまうことになる。組み込んだ他人が自分の思い通りに動かないと自分が保てない・動けないことになってしまう。自分と他人の境界を崩すことは、自分の輪郭(自分本来の姿)を失うことでもある。自分と他人、両方を否定する行為だ。

(なお、もしも私の占いで自分の感情が満たされてゆくのを感じたとしたら、それはあなた自身が私の占いを使って自ら己の感情を満たすことが出来た証です。自分の感情を満たす能力は、自分の中にこそ眠っています)

2012年8月23日 (木)

「必要とされる」必要がない

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

「アダルトチルドレン」が恋愛に与える影響

世間には、女性は「愛された方が幸せ」という風潮が未だにまかり通っているようです。でも、これは心理学的にも、運命学的にも、こと恋愛に関して言えば、必ずしも正しいとは言いきれません。なぜなら、恋愛は「愛し愛されること」のバランスの上で成り立つ関係だからです。

 恋愛関係において「愛し愛され」のバランスが崩れると、決して幸せになることはできません。人が、ただひたすら愛されて幸せを感じることができるのは、唯一、赤ん坊のときだけです。

さて、恋愛においてはまず何よりも、相手を愛することが必要になりますが、そのためには「自分自身を愛する」ということが必要です。
(中略)自分自身を愛せないと、自分と同じ人間である他人を愛することができなくなります。また、自分自身を愛していないと、自尊心を保てなくなるので、いつも「誰かから必要とされている」と確認することでしか、自分の存在意義を認めることができなくなってしまいます。

◆自己愛≠代用品
自己愛(自尊心)のある人は、外部から「必要とされる」ことに執着し囚われない。なぜなら、「自分自身から必要とされること」「自分が自分を必要とすること」が自己愛だからだ。 他人からの愛で自己愛を代用しない。

自己愛の代用品になりやすいのが恋人。その恋人に対して抱く感情は、愛情ではなく、あくまで「道具(代用品)」に対する依存と執着の感情だ。どちらかといえば人としてではなく道具として「好き」だったりすることもある。それで時には「人を心から愛せない」という悩みになったりする。

他者から必要とされることを自己愛(自尊心)の代用品にしようとしてむやみやたらと愛されよう・評価されようとする。他人からの評価や愛情を擬似自尊心の根拠とすることが原因で他人の目を気にしすぎてオドオドしてしまったり、他者の目が怖くてコミュニケーションそのものを避けてしまう。コミュニケーションはしても、相手から期待されるリアクション(評価)がないと落ち込んだり、逆恨みしたりすることもある。
(一時期mixi内で足跡がついてるのにコメントがないと逆恨みする風潮が流行ったが、アレも極端な場合は自尊心を見直してみたほうが良いかも)

あるいは、他者からの評価を求める自分の心に振り回されて、望まぬ努力や望まぬ生き方を自分に強要してしまうこともある。本当にしたいことを自ら否定させてしまうこともある。 自己愛とは逆だ。
「そんなことを自分にさせた張本人」はほかでもない自分自身なのだが、評価を求めている相手を張本人として責任転嫁し逆恨みすることもある(親や恋人のケースが多い)。
その心情を言葉にするとしたら、「私がそんな生き方をするハメになったのはあなたのせいだ。私の人生を返せ!」か。

◆いつも自分を必要としたい
「外部評価至上主義」というのは誰もが陥りうるものだが、ゆえに誰もが抜け出しうる。
冗談めいた極端な話、他者からの評価や愛情に自尊心の根拠を見出していると、万が一人類が滅亡して自分だけが奇跡的に生き残ったとき、その命を尊べない。だって自分を愛し評価してくれる「人間」がいないのだから。だから種族の中でたった一人の生き残りであってもそれに価値を見出せないなんてことがあるかもしれない。
あるいは人身売買やストリートチルドレン、虐待などで「愛される」ことのない子供時代を送った人が立派に成長して自尊心を持っていた場合、「愛されたこともいないくせに一人前の自尊心を持つなんてルール違反だ。誰がそんなこと許可したんだ! ずるい! 許せない!」と思ってしまうだろうか? 
上に書いた2つのたとえ話。「さすがにそれはねーよw」と思えたら、多分アナタは本当の外部評価至上主義者ではない。外部評価に依存しているように見えて、心のどこかでは自分の考え方を「ねーよw」と思っている証拠だ。本当は知っているのに、わざと自己暗示をかけているのかもしれない。

また、「いつも他者から必要とされたい」は、「いつも他者を必要としなければ(他者に依存しなければ)」という考え方の裏返しかもしれない。でもこれ、自分の本当の欲求を勘違いしている。
本当は「誰かに必要とされなきゃ・誰かを必要としなきゃ」という強迫観念から解放されること。すなわち、「いつも自分を必要としたい」だ。自分の人生を作るためには、「自分が存在していること」が必要不可欠だ。当たり前だけど。 自分が人生の中でささやかでも喜びや楽しみや意義深さを味わう経験をすれば、自分の人生に価値を感じるようになる。価値ある己の人生に不可欠なかけがえのない存在。それは世界でたった一人、自分自身だ。
「他者からのニーズ(評価)確保」を求める欲求は、つまるところ、自己肯定するための根拠を求める欲求であり、自分の生きる喜び(どこかしら意義を感じる人生)を根拠に自己肯定さえ出来れば必ずしも他者からのニーズを根拠に利用する必要は無い。ならば、自己肯定の根拠を「楽しい自分の人生を作るのに絶対不可欠な存在だから」とした方が単純明快で簡単だ。不確定な他人のリアクションを利用するなどという非効率で回りくどい方法をとる必要もない。これは、自己肯定(私は尊い)の理由に客観的根拠(客観的証拠)を用いるか主観的根拠(主観的証拠=実感)を用いるかの違いだ。
自分という存在が尊いものであることを認識・確認するために、他者から必要とされたり高く評価されるといった「客観的な証拠」を求める動機は、自分に対して客観的証拠を提示することで自分自身が「確かに私は尊いのだ。証拠もある」と納得し安心したいからかもしれない。いわば自己肯定のための理論武装。
それは結局、客観的証拠をもとに「私は尊いのだ」という主観的根拠(実感)を抱きたいからだ。
そう。自己肯定および自尊心(=私は尊い)というやつは、どんなに客観的な根拠や証拠を求めようと、最後は自分が「私は尊い」と感じることが出来るか出来ないかで決まるのだ。要するに、ソレは主観的な感覚なのだ。科学的にも物理的にも理論的にも証明しようの無いものなのだ。
「私という存在は尊い」・・・それは真実かウソか、それは正しいのか正しくないのか。誰にも判断や証明はできない。個人の主観(感覚)だから。ただ、多くの人が本能的に「自分は尊い(尊ばれたい)」と感じる主観を持つことから、「人権」という概念が生まれたようだ。以来、社会の秩序維持において人権の尊重は要になっている。

◆生存本能は無条件に自分の命を肯定する
幼い頃から、両親や親しい人達から優しくされて嬉しかったり、「両親や優しい人に愛されたい(愛されたらうれしいだろうな)」と思ったりする経験が誰にもあると思う。その気持ちは、自分という命が生きる時に支援を受けられると本能的な喜びを発する心から来ている。生きる支援は嬉しいのだ。
即ち、生きる支援を喜ぶ心がある限り、あなたは自分の命を生きることが好きなわけだ。あなたは、自分という生命存在を心底愛している。それゆえに、己が心底愛する「自分の命」を支援されると本能的にうれしい。愛するものを支援されれば誰だって嬉しいし、時には感謝の気持ちさえ湧くかもしれない。
(嫌いなことを支援されたってうれしくも何ともないだろう)

自分の命を肯定する根拠をそんなにも求めているという時点で、その人は自分の命を生きることが大好きなわけだ。生きることが嫌いだったらそこまで肯定したいとは思わないし、特に支援されたくもないだろう。「生きるのが大好き」なので、人生(=生きること)を楽しく発展させていくことも好きだ。そんな「好きなこと」をするのに不可欠な「自分」という存在も好きだ。自分の喜びに自分という存在は欠かせない。
好きなことは自由に思う存分やりたいので、好きなことをするのにいちいち他人(の評価や承認や許可)に縛られたくないかもしれない。少なくとも、人間の生命活動に他者の許可や承認など必要ない。
そういう意味で、評価されるために好きなことを犠牲にするのは本末転倒だと思うかもしれない。
自分の命を肯定できるような根拠を得たい心理は、心おきなく大好きな作業(=自分の命を生きる)に取り組みたいという本能的な欲求かもしれない。

私がいなければ私の人生は楽しくないし、あなたがいなければあなたの人生は楽しくない。同様に、あの人がいなければあの人の人生は楽しくないだろう。
自分の人生を愛せること、愛せるような人生を望むこともまた、自分を愛する形のひとつであるように思える。
誰よりも共に生きるべきパートナー。それは、自分自身なのかもしれない。
「相手が私を必要としてない(愛してない)のなら、私も自分を必要としてはいけない(愛してはいけない)」という変なルールを作る発想は自分と他人を同一視し混同している。自分の独立性と他人の独立性、どちらも否定することだ。両者の独自性を否定することだ。

◆アダルトチルドレンのアニムス/アニマ
アダルトチルドレンの場合、本人が持つ理想の異性像(自分の中の隠された個性や可能性、隠された欲求など諸々を象徴するキャラクターイメージ。女性版をアニマ、男性版をアニムスという)の特徴は、自尊心を満たしてくれる者であったり、自尊心がしっかりしている者であるかもしれない。誰よりも自分を愛し必要としてくれて、誰よりも共に生きるべきパートナーになってくれる存在かもしれない。自分の人生を楽しい方向へ誘ってくれる(共に生きていれば人生が楽しくなれる)存在かもしれない。 生きる喜び(=自分という生命存在を好きになること)を教えてくれる存在かもしれない。
いずれにせよ、それは結局、秘められたもう一人の自分なのだ。
(もう一人の自分は、そんなにもアナタを愛している)

【余談】
漫画・アニメ・ラノベ等である日突然女の子がやってきて男の主人公と共同生活する展開の作品が増えてるが、あの女の子はまんまアニマだと思うw 主人公と男女が入れ替わってるケースもある。
最近噂される「日本人草食化説」は、自分のアニマ・アニムスを他者に投影せずに(他人を代用品や投影スクリーンにせずに)、彼・彼女とより内面的な方法で直接向き合い、直接感じ、直接理解したい欲求の現われなのか? と思うことがある(妄想)。
目先のことにばかり囚われがちだった人類は、今まで以上に己の内なる精神世界との距離を縮めたがっているのかもしれない。だとすれば、それはまさにスピリチュアルだ。


一人の女で満足出来ない男 男の愛で自分を認める女←母性に飢える心について 
就活自殺の増加に思うこと←外部評価至上主義について。
探し求める存在は、もしかすると・・・←アニムスについて
童貞のまま30代で死んだ男の誕生日←アニマについて
中二病の有効活用

2012年8月17日 (金)

日本人の暴走と傷?

※以下に書いたことは全て個人の妄想です。

◆犯人の供述に潜む矛盾
大津市教育長、襲われけが 容疑の19歳「許せず」

逮捕されたのはさいたま市の私立大学1年の男(19)。
(中略)男は「大津市の中学生のいじめ自殺問題に関して、教育長が真実を隠していると思い、許せなかった。殺そうと思った」と供述。容疑を認めているという。

大津市教育長、頭の骨折も 「襲撃支持」の電話相次ぐ
沢村教育長は中学2年の男子生徒(当時13)が自殺した問題の対応に当たっており、大学生は「真実を隠していると思い、殺そうと思った」と供述。殴打後、針金で首を絞めようとした疑いもあり、強い殺意があったとみている。大津署は16日、大学生を送検した。

・・・『真実を知っている』前提で殺しに行ったら真実を隠滅する口封じになってしまう。真相解明を求める遺族の望みを絶つことになる。犯人の矛盾した供述は、義憤を装ってはいても実際は事件の真相解明や遺族の救いより自分個人の感情を満たすことが無意識のうちに優先されている証拠だ。 そういう犯人を、大衆の一部は「自分の願望を代行してくれた」と喜び祭り上げ、忠臣蔵よろしく英雄視している。これは、日本の伝統的な「とあるメンタリティ」が関わっているのかもしれない。

◆時に優しく時に悲しいメンタリティ
「問題解決よりも感情を満たす手段が優先」・・・日本に長い間存在しているこの歴史的メンタリティが色んな物事に見え隠れ。大津いじめ事件での大衆心理、裁判員制度、震災時の大衆心理、フリーチベットブーム、学生運動の過激派、先の大戦、2.26事件、忠臣蔵etc・・・
これが日本人を暴走させ、そして傷つけているものの一つかもしれない。
このメンタリティは、「問題が解決できなくても気持ちを紛らわせることが出来るように」という理由で作られたものかもしれない。いわば、「問題解決は望めない」という前提での発想だ。そんな発想が生まれるほど「解決できない問題」が昔は沢山発生していたのかもしれない。泣き寝入りしなければならないようなことも沢山あったんだろうか。
「問題解決は望めないから、せめて少しでも労わり心だけでも慰めてあげよう」「問題解決は望めない。でも、周囲が同情し優しく慰め気遣ってくれる」といった現象も多かったかもしれない。
同情は一種の愛情表現。ただ、これがアンバランスに発達して過度の感情移入と内面投影によって生じたストレスの発散欲求から来るヒステリックな大衆心理の暴走に結びつくこともあり、多分諸刃の剣だ。
(一部の環境保護団体や動物愛護団体もそういうところある?)

問題解決の発想が薄く、ゆえに問題解決能力の発達を封じやすいこの伝統的メンタリティ、昔の為政者(お上)にとっては好都合だったろう。問題解決能力を封じれば、問題を追及されることもないからだ。ただし、問題解決能力を封じることで本当は解決できるものまで解決できない(させない)現象も頻発し、水面下のストレスは確実に蓄積していく。そしてそんな民衆のストレスが外部の物事へ投影され、その投影をきっかけに爆発して民衆を八つ当たり的な動きへと暴走させることもある。
いじめっ子を憎む心の落とし穴参照。大衆が本当に憎んでいるのはいじめ加害者や教育長ではなく、そこに投影された己の解決能力を封じる癖とそこから生まれたストレスだ)

◆アンバランスな同情心が生み出す悪循環
「問題解決よりも感情を満たす手段が優先」・・・大津いじめ自殺事件でこのメンタリティが暴走した大衆心理は嫌がらせだけではなく、とうとう暴力事件まで起こしてしまった。まんま忠臣蔵だ。そこに「問題解決」という要素はない。封じられている。
これら一連の暴走の原動力は「悲劇的なニュースに強く感情移入して発生した自分個人のストレスを晴らすため(=憂さ晴らしのため)」であった場合、「自分個人の憂さ晴らしのために他者を追い詰め満足したい」ということになる。 皮肉にも、同情心が新たないじめにつながっていくのだ。それだと、亡くなった少年は死後も憂さ晴らしの道具として利用されていることになってしまう。
同じメンタリティをもったいじめっ子達によって「八つ当たり道具(=感情を満たす代替手段)」にされ死に追いやられた挙句、死後はその痛ましい死がアンバランスに同情した大衆心理の憂さばらし(と正当化)のネタにされる・・・もしそんなんだったら悲しすぎる。
時代に合わないメンタリティは、それが善意を由来としたものであっても、かえって人々を傷つけることがあるのかもしれない。バランスの悪さは、危うさに通じうる。

◆日本人っていわゆる「女性的」?
件の伝統的メンタリティを表現した古い有名な戯曲といえば「忠臣蔵」。そこに登場するキャラのブチギレ方は、主君とその忠臣を含めていわゆる「女性的」と表現されやすい類かも(フェミニストの方スイマセン;)。目の前の物事とは異なる過去の鬱積したストレス(解決できなかった問題に起因する)まで全て目の前の物事に投影してぶつけてる感じ。本人も理由の分からない無意識的な怒りに近い。実際、浅野内匠頭が吉良へ暴行した直後のうわ言は、そんな印象。
で、この手の歪んだ怒りを爆発させた女性に理不尽な怒りをぶつけられた男性は多いかもしれない。そういう時、男性側はとりあえずおとなしく聞き流すか黙って泣き寝入りするのが無難と考えられてきた。
(いや、八つ当たりする側とされる側の男女が入れ替わるケースも同じぐらいありますよ?)

◆加害者救えば周囲も救われる?
でもこれからの時代は、本人の心が歪みを引き起こしている原因にアプローチして無意識下に隠蔽された鬱憤と向き合い、理解し、解決を促す発想を持つべきなのかもしれない。
これを個人単位から社会に当てはめると、イジメなどの「八つ当たり行為」を見かけたら、本人がその原因と向き合い理解し解決し、自らを救う(=八つ当たり欲求から抜け出せる)ことができるように周囲が協力する発想がカギになるだろうか。社会にそういうシステムがあってもいい気はする。被害者と加害者の双方をそれぞれの適切な方法で救う発想は決して無意味ではないはず。
また、八つ当たり(イジメ)という行為を実行してしまう前に、行為への衝動を覚えた時点で本人が密かに相談できる場があると、加害者や犠牲者の発生を予防しやすいかも。
見落とされがちだが、被害者を救うのと同じぐらい加害者の救いも重要だ。加害者を救えば周囲も救われる。誰も加害者のケアをしないからイジメ(八つ当たり)に発展し、そして同じ犠牲が繰り返される
イジメ被害者だけではなく、加害者も暴走する大衆も、等しく「ケアされ救われるべき存在」なのかも知れない。

◆感情を満たすための暴走と傷
60数年前、貧しさに耐えていたある国の大衆心理が社会正義に偽装した感情的欲求を強く高めて社会的なうねりを作り始めた。やがてそんな大衆のニーズに合わせたマスコミが悪乗りしてうねりに参加し、うねりは津波となって国民(=主権者)達の理性を押し流し、その国の中枢を支配した。
社会的正義に見せかけた感情欲求を満たすこと。それを目的にして、その国は戦争を始めた。帝国主義を選んだ社会では、そういう大衆心理をキープすることは好都合でもあった。
結局、いくつも町が燃え、さらに貧乏になって負けた。結局、感情欲求は満たされなかった。その代わり生まれたのが「感情を満たすための戦争をして生まれたトラウマ」 。その国は、今もそれに苦しんでいる。 大衆は戦火に苦しんだ当時の人々に同情することは出来ても、未だトラウマを脱出するまでには至っていない。

個人単位だろうが社会単位だろうが、「自分個人の感情を満たすために人を死に追いやった」という状況は、かなりの確立でトラウマを生む。 ましてや主権者達が戦争という手段を採用するとなれば、自ら数え切れないほど人々死に追いやるわけだし、その中には家族も身内も自分も入ってたりするわけだから、そのトラウマは察するに余りある。
(大衆心理の暴走例としては、暴動よりもはるかに危険)
19歳の犯人は、幸運にも「自分個人の感情を満たすために人を死に追いやった」というトラウマは免れた。前科と黒歴史は免れないが。

◆目覚めよわれらが解決能力
昔と違って、日本最大の権力者は私達だ。調査と処分の権限を持つ「お上」は私たち(有権者)が任命している。だから私達はお上に「お前ら仕事しろ」と言えるのだ。昔なら打ち首モノだが。
私達が権力を作るので、私達がバカだと権力もバカな仕事しかしなくなる。権力は私たちの鏡だ。バカな仕事しかしない権力を是正できれば、私達は己のバカを是正する見込みはあるということだ。
(良い子のみんな、これ社会か公民で教わるから忘れないで)

私達があのメンタリティーを抜け出して変わることが出来れば、権力の姿も今より変わるだろう。既に変化の波は集合無意識のうねりに後押しされ、寄せ始めている。
今は「抜け出すべきもの」を自覚させるためにそれをありありと見せ付けられるような現象が起きているのだと思うことにした(妄想)。
「目覚めよわれらが解決能力」・・・古いメンタリティやアンバランスな同情心の変わりに、そんな発想を使ってみるのはいかが?
その発想を用いて、「憂さの原因と向き合い理解し解決し、自らを救う」というテーマに取り組むこと。それは、大津の騒動やイジメ問題だけのことではない。人生を生きる誰もが必要としうる取り組みでもある。


余談:
「忠臣蔵的メンタリティからの脱却」を予兆させる出来事が既に今年の1月に起きてたかも。
パンツ一丁の訪問者←彼が侵入した江戸城鬼門に位置する平川門は「松の廊下」の犯人浅野内匠頭が切腹するとき通った門でもある。

この国は、自ら暴走しトラウマを背負うという自傷行為をした直後、GHQの面々から「10代前半の精神年齢」と評されたことがある。解決能力を封じ感情を満たすことに誤魔化され本質を見ずに暴走する衆愚から脱却すること。精神年齢を上げること。思春期を乗り切って個性化すること。それがこの国を守る最大の秘訣かもしれない。

8月21日追記
教育長襲撃、生徒の遺族「暴力に訴えても解決しない」

私どもの起こしている裁判に共感して応援して下さるのはとても嬉(うれ)しい事です。しかしながら暴力に訴えることだけは決して行わないでください。息子の本望ではありません。今回の問題に対する意見として、皆様方のお住まいの地域の学校や教育委員会、市や県に対して再度見直しを図っていただくという訴えや行動を起こしていただければ、真の解決に結びついていくものと考えております。

ケガ人を出す行為だけではなく、デマ拡散や嫌がらせによる被害もれっきとした「暴力」だ。暴走してきた大衆は、被害者のお父さんが出したメッセージ全文をよく読んで肝に命じるべし。悲しみを背負い一番静かな環境を必要とするべき遺族に「便乗憂さ晴らし暴走」の沈静化役なんかさせるな。


【多分同じメンタリティがからんでそうなもの】
いじめっ子を憎む心の落とし穴?
民衆の過失割合
死は感情を満たす道具?
被災地を思う時の注意

2012年8月16日 (木)

サバイバー症候群

※以下に書くことは根拠のない個人の妄想です

終戦記念日:無念、伝え続ける…元兵士の証言ネットに 
零戦パイロット「生き残った負い目と死んだ仲間の声」を語る

この手の証言で「自分だけ生き残ってしまった罪悪感」を抱えている人が結構いる。これ、サバイバー症候群というPTSD系の症状らしい。戦争だけじゃなく、事故や災害、犯罪でも起きる心理とのこと。
よくぞ助かって下さったのだから、生きているうちにカウンセリングを受けてみて欲しい。不要な罪悪感やそれに基づく償い(自罰)に尊い残りの人生を費やさないで欲しい。

「生き残ってしまったことが悪い」のではなく、「死者を出すような状況が悪かった」のは言うまでもない。

そして、「生き残った罪悪感」というのは、無意識下で「生き残ったこと・生きられたことを幸せに思っている」のでなければ成立し得ない。たとえば、助かったことや生き残ったことを不幸に思い死者をうらやむ気持ちであれば、絶対にありえない心理だ。
そして、その罪悪感は「皆さんも自分のように生き延びて喜びを感じて欲しかった。喜びを皆さんと共有したかった」という心優しい思いの裏返しかもしれない。
案外、その罪悪感は今を幸せに思う気持ちの裏返しであり、時には「犠牲者に対する愛情の裏返しってことはないだろうか? 本当は心から生きられた幸せをかみ締めたい。でもあからさまに喜んでしまったら何だか犠牲者(ぜひ自分と同じように生きられる幸せを持って欲しかった。できればその幸せを共に分かち合いたかった人)に申し訳ない気持ち。その葛藤。

「犠牲者を思う優しさゆえに、生きる喜びを大ぴらに受け入れられず、罪悪感に変換してしまう」というこの心理は311の被災者の間でも発生したという。また、311の時に被災地以外の場所で発生した「不謹慎叩き」の心理とも似てるかもしれない。どちらも、被災者(犠牲者)を思って感情移入しすぎた結果、相手と自己同一化してしまい、そんな「過度の感情移入で被災者(犠牲者)が味わったかもしれない恐怖と苦しみを仮想体験してしまっている自分の苦しい感情を救いたい」という点では同じだろう。 いわば他人と自分の区別がつかなくなって自分自身を見失ってしまった感じ。

生還の罪悪感が沸き起こるとき、心の底では生きる喜びが沸き起こっているのかもしれない。それを罪悪感で押し殺す必要はない。世界に一人しかいない自分自身の生を喜び自分自身の人生を生きる勇気を持って欲しい。それは世界でたった一人、自分にしかできないことだから。他の誰にも出来ない(=自分がそれを諦めて誰かに譲ることも、誰かが自分の代役として『譲られた他人の生』を生きることも出来ない)のだから。
その勇気は、やがて誰にも訪れる「死」を迎える勇気を持つのと同様に大事なことだ(多分どこかでつながってる)。己の生きる喜びや(同じく生きる喜びを持ってほしかった)犠牲者への愛情を「罪悪感」に変換して押し殺すよりも、「喜びと愛情」という正確な姿のまま大事に保存したほうがいい。 その喜びとその愛情の感覚は、自分にしか作れないものだから。
その犠牲者たちは、「生存者が生還の喜びを罪悪感に変換するほど強く幸せを願った(=それほど強く幸せを願われた=愛された)方々」だったわけだ。
さらに、彼らもまた、世界でたった一人、自分にしかできない「自分自身の人生」を生きたのだ。逝く前に自分にしかできないことを成し遂げていたのだ。それぞれが自分にしかなしえない自分の人生を送ったように、自分にしかなしえない自分の死を迎えた。それだけで彼らの人生は「全くの不幸」ではないだろう。
亡くなった方々も、この世に生まれ世界で唯一己にしかなしえない自分の人生と生の喜びを経験し身に着けた後に旅立った。そういう意味では、生き残った人々、いや全ての人々が同じ運命をたどるのだ。生きた期間の長短は個人差だ。
私達もやがてその日が来るまで、自分にしかなしえない生を精いっぱい生きたいものだ。
(長かろうが短かろうが、自分の人生経験は死後もその魂にとり何らかの糧となり、それこそが地上に生まれる理由なのだろうか?)

壮絶な戦地で片腕を失いながらも生還し、心の底に沸き起こる生の喜びとまっすぐに向き合い、罪悪感で押し殺すことなく受け入れた有名人がいる。水木しげる氏だ。
彼は戦死した戦友の遺族が水木氏に最後の様子などを訊ねに来た際、自分は生き残ったことがうれしくて我慢できずに笑ってしまい、奥さんに怒られたという逸話の持ち主である。
彼は、己の心にある「生きる喜び」から目を背けなかったように見える。
「つわもの」っていうのはああいう人のことを言うのかもしれない。

古今東西、死者の救いは生前の苦しみや執着から解放されて新たな道を歩むことだとされている。死者は死者なりに現世とは違う視点でどんどん幸せの道を歩んでいってよいはずだ。
犠牲者が生還者への妬みに囚われ、生還者が罪悪感を感じることに喜びや救いを求めさせたりしてはいけない。自分が犠牲者になったら、決してそうはなりたくないと思う人が大半だろう。
(もしも死後の世界など存在しないのなら、犠牲者達にはもはや苦しみも悲しみもないので死者を慮る必要などない。もし死後の世界があるなら上述の通り)

一見すると「生きる喜び」の反対語は「死の恐怖」のようにも思えるが、本当の反対語は「生きている時間を無駄にすること」であると個人的には思う。
自分よりも早く死んでしまった人は沢山いる。でも彼らが生きていた時間は、決して無駄ではない。その人生は死後の糧になるだろう。

2012年8月15日 (水)

民衆の過失割合

※以下に書いたことはあくまで個人の妄想です。特定の国を誹謗中傷する意図はありません。

天皇、訪韓なら謝罪を=韓国大統領

謝罪を求めるということは、相手を「責任者」とみなしていることになる。
当時は名目上軍のトップではあっても担ぎ上げられたお飾りでしかなかった「彼」の子供に責任を押し付けていいもんだろうか。あの歴史をたった一人の人間が作り出せると思ったら大間違いだ。しかも、プロの軍人や政治家から見れば「彼」は素人に近い。
(そんなお飾りだった彼が終戦時にとうとうお飾りの仮面を脱いで自ら動いたのは興味深い。まるで人形が自我に目覚めたみたい。実際、日本は近代自我への目覚めを戦後から本格的に進めたような気がする。象徴である彼が、その先駆けになった?)

「彼」を担ぎ上げ、虎の意を借りて暴走し独裁を敷いた軍とズブズブな政権を許し、迎合し悪ノリした当時の大衆心理の主、すなわち有権者達に大きい責任がある気がする。それによって、他国に迷惑をかけただけではなく、何より自分達自身を深く傷つけたのだ。この国は未だにそのトラウマから立ち直ってない。己を傷つけた原因を解決していないから。
学者はともかく大衆心理は、傷を労るために「あの時どんなに辛かったか」という点にばかり意識を向け感情を満たそうとすることに終始しがちな印象。
「どんなに辛いだろう。どんなに悲しいだろう」・・・この発想は、被災地を労わろうとして過度の感情移入をして調子を崩してしまった震災時の大衆心理とも性格が似ている。
(ならば、注意点も似る? )
あとは、大津のいじめ被害者に感情移入しすぎて暴走して無関係な人に嫌がらせした大衆心理も同じか。

◆感情を満たすことさえ出来れば問題解決後回し?
「車のエンジンが故障した時」を例にとって男脳と女脳の違いを表現した面白いコピペがある。
そのコピペだと、女側は「こんな時に故障なんて不愉快だ」という感情を主に訴える。「故障の修理」という実際問題の解決よりも、自分が陥ったそのような感情からの慰めを求めている。なので、女側は「故障」についてではなく、あくまでも「感情」についての話をしているのだが、男側は「故障(不快感情が発生したきっかけ)」についての話だと思っているので、会話がかみ合わない。女側は、今陥っている感情さえ慰められれば故障の修理(実際問題の解決)は後回しでかまわないのだ。

日本人の大衆心理はどちらかといえばこのコピペでいう女側の視点と発想であの時代を見つめることが多かったような気がする。
大衆心理の中に、もう少し男側の視点と発想が増えればと思う。
何がそのような現象を起こさせたのか。「傷」という結果を導いた現象の背後の背後、そのまた背後・・・内部に向かってそれを突き詰めていければ。 傷の原因をさかのぼり解決することで傷も痛みも癒える。
「トラウマ(傷の原因が解決していない)」という実際問題を抜け出すために、何ができるか。そういう発想を今までより意識できれば。

で、私なりに「男的な視点と発想(?)」で妄想してみた(非オカルト)。とりあえず、あの時代に深い傷を発生させた原因は多分ひとつではない。そしてその原因は今も残っていて、一部は別の形で何らかの現象を引き起こすケースもありそうだ。
例えば大津いじめ事件でデマや悪質な嫌がらせを煽り囃し立て悪ノリしたネットの大衆心理(ほぼいじめっ子と同じ)には、あの時代の大衆心理(=傷を作った一因)の名残が残っているような気がする。未だにあの当時の大衆の愚かさ(憲法も選挙も機能してたのに、有権者達が扇動され悪ノリして暴走する軍寄りの政権を野放しにした)を作った何かは解決し切れてないのかもしれない。
(ちなみに大津いじめ事件で暴走した大衆は、暴走による無関係な人々への被害について『警察やマスコミがいじめ加害者の個人情報を正確に公開しないのが悪いんだ。自分達は悪くない!』と責任転嫁したケースもある。これ、戦後の何かに似てない?)

愚かさに気づき、愚かさを続けないこと。そこから抜け出すこと。堂々巡りから進歩すること。それが内外に作った「傷」に対する償いであり反省の成果になりうる気がする。

近代的なシステムを備えた国家の場合、大衆の愚かさが悲劇を生む。民衆が愚かであれば権力は愚かな動きをする。それを是正できるか、できないか。このテーマは韓国にも他の国にも言える。

韓国の大統領が謝罪を天皇に求めるのは、日本の大衆に責任転嫁を促すようなものだ。過失割合で言えば、天皇よりも民衆の方がはるかに責任が重い。
こう例えて良いならば、大統領の発想は「福島県民への中傷被害に対して東電だけに責任を求める」ようなものかもしれない。
もしも問題の本質を見誤る癖が韓国の大衆心理に潜んでいて、大衆から選ばれた大統領の言動にそれが反映されているとすれば、韓国は韓国でちょっと危うい気がする。

(・・・あれか? 今別件で抱えてる問題の本質を大衆に追求されると大統領が困る事態を抱えてて、あえて本質から目をそらさせたくて大衆が悪ノリしてくれそうな派手なパフォーマンスしちゃってるとか? 国内の不満を国外に向けさせるのはよくある手法。増税決定直後に発生したこの発言は、ある意味日本政府側にとっても好都合だったりして??)
(そういえば日中韓露・・・どこも国内に不満が鬱積していて、最近ナショナリズムに頼るパフォーマンスをしている)

◆まとめ&追記
死は感情を満たす道具?でも少し書いたのだが、「問題解決よりも感情を満たす手段が優先」・・・このメンタリティが時に大衆心理を暴走させるのかもしれない。震災時の大衆心理、大津いじめ事件での大衆心理、浅間山荘事件、60数年前の大衆心理、忠臣蔵・・・etc

「自分個人の感情を満たすために人を死に追いやる」なんてことは、かなりの確立でトラウマを生む。大衆心理が扇動の高揚感に流され「感情を満たすための戦争」をやったせいで国内外を問わず多くの人間を死に追いやったら、しかも家族や身内さえ亡くしたら、トラウマになるのも無理はない。


今回とはまた別の、オカルト視点からの妄想
日本の個性化
とある東の国の物語1
とある東の国の物語2

2012年8月 8日 (水)

東電占ってみた

「大変です。爆発です」-東電、原発事故発生当時のビデオ公開

今更ながら東京電力を占ってみた。以下、趣味で使ってる占星術ソフト「アストロロギア」より。鑑定結果が捏造ではないことを示すため、ソフトの原文ママ。

【動画版】

【文章版】
海王星と冥王星が非常に強いセクスタイル
信じられないような夢をもたらす世代。終戦直後の1940年代後半、および1960年代にもこの角度ができている。
(高度経済成長時代や団塊世代の夢を引っ張ってきた東電)

金星と海王星が非常に強いトライン
幻想的な詩や音楽など、夢幻の美の世界に適性。美しいビジョンを持った平和主義者。精神的に調和がとれており、温情的。謎めいたところがあり、それが不思議な魅力となっている。リリカルな恋愛を好み、夢のような甘い話が大好き。恋愛運は良いが、ひそかな片想いで幸せを感じるとか物語の中の人物に恋をするといった場合も含まれる。
(隠蔽体質なので、色々謎めいてます)(『夢見がち』は、時として都合の悪い部分から目を背ける傾向になることも)

金星と冥王星が強いセクスタイル
いつくしみ深い性格。献身的な愛を限りなくそそぐ。美に関する分野で極端な才能ないし素質を持つ。
(金星は金運、冥王星はプルトニウムの語源で原子力を象徴。原子力事業で大きな金運を掴んだものの・・・)

火星と冥王星がスクェア
極限的なエネルギーの持ち主だが、陰性であまりにも鋭角的。健康を犠牲にしてまで不眠不休・徹夜で研究にうちこんだりする。表だって他人と争うことは必ずしも多くないが、かっとなると前後の見境がなくなり、殺人さえ犯しかねない。
(火星は火の力を、冥王星はプルトニウムをそれぞれ表す。火とプルトニウム・・・この二つを表す星が凶と出ているのは、今となっては強烈に不吉なイメージ。いろんな意味で健康及び安全が犠牲になりました・・・)

太陽と月がセクスタイル
活力と感受性の調和であるが、単純に、「人生において普通の人よりややツキに恵まれている」と解する。10人にひとりくらいの「なんとなく運のいいやつ」。小さな努力によって、容易に道が拓ける。
(4号機が震災直前の工事ミスでメルトダウンしなかったお陰で首都圏は助かったようなもの)(幸運の星回りが裏目に出て状況や世の中を甘く見るようになった?)

月と火星がセクスタイル
感受性と情熱の調和。精神的な強さを持ち、大胆で強気。情熱は適度の柔軟さによって程よくコントロールされ、決して暴走はしない。性的な事柄に関しては発展家。感受性が鋭利に研ぎ澄まされ、物事のすみずみにまで気を配る。
(残念なことに、核分裂だけは程よくコントロールできなかった・・・)

太陽と天王星が弱いセクスタイル
活力と独創性の調和。新分野で精力的に活躍できる才能ないしは素質を持っている。新商品の開発や広告業など、豊かな発想力を必要とする分野に適性。行動にはユニークな面があり、しかも偏屈ではない。おもしろいやつとして好感を持たれる。
(天王星は変革や電気・科学技術を象徴。これからは太陽光発電にツキあり?)

木星と天王星がごく弱いスクェア
発展と変革のあいだの緊張。この世代においては、急激な社会の変化によって矛盾や問題が生じやすい。個人的意味は、自分のやり方にどこまでも固執してしまうこと。その頑固さに、内省能力が加われば吉。
(東電が繁栄した時代はまさに急激な発展と副作用が裏表。天王星はウランの語源)

太陽と火星がごく弱い合
強烈なエネルギーの持ち主で、ごり押しをしてでも驀進しようとする。アクが強い。わがままでワンマンだが、勇猛果敢で精力的。企業家などとして成功する場合もある。
(関東の事業地域はほぼ独占・・・原子力と言う巨大なエネルギーを手に入れ、電気料金はごり押し?)
(民主党にも同じ座相アリ)

木星と土星がごく弱い衝
発展と抑制の衝突。社会の動きが混乱する世代。世代的な座相であるが、個人的な意味もかなり強い。この凶角を持つ人は非常に緊張感のある人生となる。
(今まさに緊張感ピーク)

水星と天王星がごく弱いセクスタイル
知性・表現力と独創性の調和。他人のまねではない独自の表現を駆使する才能ないしは素質があり、芸術に適性。独特の感受性を目に見える形で表現することができる。知性面でも進歩的で、ちょっと風変わり。ユニークで生き生きとしたおもしろい人。天才肌で、専門的な学問分野にも適性。新分野・新理論を開拓することができる。
(日本の原子力分野を開拓した)(実は民主党も同じ座相あり)

月と金星がごく弱いスクェア
わがままでぜいたく。虚栄心あり。尖鋭的な美意識を持つが、精神的な葛藤あり。しばしば母親や恋人と不和。

◆所感
>夢のような甘い話が大好き。
>健康を犠牲にしてまで不眠不休で打ち込む
>急激な社会の変化による矛盾や問題
>ごり押しをしてでも驀進
>非常に緊張感がある

・・・こう書くと、東電だけではなく、ちょっと前までどこにでもあった「時代の空気」みたいなものを感じる。
「資源の乏しいこの国が国際競争で敗北せず繁栄するためには、手段をえり好みできない。多少危険でも、それに頼るしか道は無い」
「うちに限ってめったなことは起きないはず」
「大丈夫。きっとうまくいく」
「余計なことは気にするな。競争は待ってくれないんだ。進め進め」

・・・そんな感じ。今回の占いを見て、東電は確かに戦後史を担ってきたんだな、と思った。時代の空気が作り上げたしわ寄せ。その一つが福島の事故という形で表面化したのかもしれない。

東電をヒンドゥー数霊術で算出すると運命数4、霊数1。
抱えているテーマ(課題)は「満足」と「あきらめること」。・・・損得に執着しすぎて大事なことを犠牲にしないためにも、「足るを知るべし」ってところか。事故ではあきらめの悪さで被害を拡大させてしまったのが痛恨の極み。課題は未だに終わっていない。むしろ、これから?

◆原発事故当日の占星術的に怖い話
2011年3月12日は、天王星が84年ぶりに牡羊座(火の星座)に帰って来た日。牡羊座は「始まり・芽吹き・誕生・出現」といった意味がある。天王星の意味は「変革・革命」「突発的激変」「想定外」「電気・科学技術」 。そして天王星は英語で「ウラノス」。ウラニウムの語源だ。
火、ウラン、電気、科学技術、激変、始まり、出現(=露出)・・・よりによってそんなキーワードが組み合わさる日にぴったりあわせて未曾有の原発事故が起きた。

【オマケ】
東電の変換装置で火災 東西の電力融通能力6割減
昨日起きた事故。復旧の見通しは不明。現場は断層に囲まれた龍脈エリア。牛伏寺断層ともまあまあ近い。火災が火気流失だとすれば、この現象による東電やこの国への運気的影響はどの程度だろう。
ちなみに去年牛伏寺断層を震源にした地震で松本が最大震度を観測したときは、3日後に松本龍復興相が辞任した。(偶然だけど『松本』つながりw) 
今回の火災から3日後は7日。7日は内閣不信任&問責決議案が同時提出される予定。

この火災の翌日、即ち今日。野田総理が東京駅から岡山へ出発した。その5時間後、東京駅の人身事故で山手線と京浜東北線が止まった。
東京駅はレイライン・龍脈真上だ。山手線は首都中心部の気の流れを円形に流す機能があるが、それが止まったとなると、首都中心が変動したと考えていい。
変動時、彼は東京にいなかった。

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