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2012年6月 9日 (土)

死は感情を満たす道具?

<裁判員裁判>死刑判断は「苦役」、「心の負担これからも」

判決後の初出勤日、「同僚から『死刑判決はおかしいよ』と言われたらどうしようか」と思い、気分が沈んだ。裁判員制度の意義は感じたが、死刑の選択は「苦役」だと思った。

 被告側は控訴。東京高裁は1審判決を支持した。裁判官が同じ判断をしたという事実にも、苦悩は解消しなかった。心のどこかで「自分たちの判断を覆してほしい」と願ってすらいた。

 「上告審で死刑が確定したら自分はどうなってしまうのだろう」。そんな不安がふとした瞬間に頭をよぎる。「時間が流れても、心の負担はこれからもずっと消えない……」

このニュース記事のテーマ、ネットではどちらかというと感情的な議論が多かった。「犯人はとても悪いことをした不愉快な悪人なのに、そんな犯人の死刑を心の重荷にする人間も悪だ。自分なら喜んで死刑の判断をして犯人を地獄に送ってやるのに。あんなヘタレじゃなくて自分が裁判員になりたい!」
要約すると、そういう感じの論調も予想外に目立った。多分若年層だろう。
どうも最近の大衆心理が「死刑」という処置を、社会の秩序維持ではなく「被害者や遺族の恨み苦しみを晴らすための道具」と感情的にとらえている傾向を感じた。

その前提では、事件に無関係な裁判員には死刑を欲する筋合いが無いので、部外者の自分が死刑の判断をすることに「何の恨みも無い相手を死に追いやるなんて。そんな資格が自分にあるのか?」と悩む原因になってしまう。
その悩みが「苦役」の一因だろう。

大衆心理はともすれば「罪の重さ・刑の重さ」と言う概念を、「犯人がどの程度恨まれるか(犯人をどこまで恨むべきか)」という基準で主観的に推し量ってしまうのかもしれない。決して社会的な視点での判断ではない。
いわば、外野の大衆が事件に勝手に感情移入して生まれた自分の不快な感情を晴らすために(=個人の感情を満たすために)ふさわしい量刑を判断する感じ。
正義のもとに死刑を求めているように見せかけて、実は個人的な感情を満たしたいだけだったりする。
(裁判員は、感情移入型判断基準の風潮に染まりつつある大衆から無作為に選ばれることを忘れてはならない)
このような大衆心理の風潮、実は現代的なものではなく、むしろ大衆のガス抜きイベントとして公開処刑が存在していた時代に近い。

そんな社会的風潮の上に裁判員制度が成り立っている現在、裁判員にとっての死刑判断は「実際は自分に対しては何の罪も無い(例え感情移入しても実際には何の恨みも無い)犯人に対して、感情を満たすためだけに死を求める行為」という感覚を無意識の中に抱いてしまいかねない。

何というか、そもそも「死刑」の判断をするときの視点と基準が客観性を失う方向へ傾きだしてるのじゃないかと思った。
現代法治国家の刑罰は、人間の感情を満たすためのものじゃない。被害者も大衆側(裁判員側)も、そのことをつい忘れがちで、感情を満たしたり恨み苦しみから己を救う手段を広く探さず、刑罰だけに手段を依存し縛られてしまったまま、刑罰が「感情を満たす・晴らす唯一のもの」だと思い込んで暗示にかけられてしまっているとしたら・・・

そんな「思い込み(暗示)」に支配されることこそ残酷だ。救いの道を探す発想を遠ざけ、その代わり復讐ありきの発想に囚われ依存し、己を救いから遠ざけ苦しめているのだから。
思い込みから刑罰に依存した遺族や被害者は量刑一つに心の救いを左右され、司法が犯人に下す刑が感情的に納得できる量刑(=納得できる復讐)でない限り半永久的に救いを得られず、例の思い込みと感情移入に判断力を支配された裁判員は「自分の感情を満たすために人を死に追いやった」というトラウマを抱える羽目になりかねない。
いや、遺族や被害者さえもが、己の考え方次第では後々裁判員と同じトラウマを抱える可能性すらある。最も強い感情が渦巻いて客観的な視点でものを考えにくくなっているから尚更だ。
逆に、トラウマを回避しようとして死刑判断を避けた裁判員を遺族や被害者側が密かに恨み続けるという図式さえありうる。

自分の感情を満たす行為を社会的な大義や司法システムと混同してしまった(時には無意識にすり替えて自己正当化や自己欺瞞をしてしまった)結果として生まれるものは、傷だ。
自らを暗示に陥れ苦しめること・・・それこそ「残酷な憎むべき罪」と考えてもいいレベルかもしれない。

憂さ晴らしや自己満足を動機に人を殺すタイプの犯罪者と、先述した最近の大衆心理はそっくりな共通点がある。そこに身勝手な感情に突き動かされたタイプの犯罪が増えている時代の背景が、なんとなく透けて見える。
「自分の感情を満たすために人を死に追いやった」・・・案外、裁判員と犯人は立場は違えど同じトラウマを抱えてたりして。
裁判員も犯人も、同じ風潮に染まりつつある大衆の一部だ。だからあのトラウマは、時代と大衆が集合無意識のどこかに抱えている傷なのだろうか。

「死刑(あるいは刑罰)」という処置を、感情ではなく「コミュニティの秩序維持」という視点から見てその是非やシステムのあり方を論じ判断していく方がいい気がする。
「心の救い方」はそれとは全く別件・別次元で探ってもいいはずだ。無理やり一つにして縛り付けるなんて残酷だ。多くの人が 事件に感情移入して被害者や遺族の救いを強く思うなら、なおのことだ。
「裁判に市民感覚を」という理由で導入された裁判員制度。変な思い込みによる風潮に支配された市民感覚を裁判に反映した結果が「感情を満たすための量刑発想とそこから生まれるトラウマ」だったなんてオチは勘弁して欲しい。

日本人は同じく裁判員制度を持つアメリカと比べても、近代自我があまり発達していない。多分、気質的に不得意分野だ。(それで凶悪犯罪に関しては江戸時代の仇討ち発想が無意識下で微妙に残ってる?) 。
GHQのメンバーが日本人を見ていて「・・・何か10代前半の子供みたいだなあ」という感想をこぼしたことは、ある業界ではかなり有名な話。

60数年前、ある国の大衆心理が社会正義に偽装した感情的欲求を強く高めて社会的なうねりを作り始めた。やがてそんな大衆のニーズに合わせたマスコミが悪乗りしてうねりに参加し、うねりは津波となって理性を押し流し、民意はその国の中枢を支配した。
社会的正義に見せかけた感情欲求を満たすこと。それを目的にして、その国は戦争を始めた。そしていくつもの町が焼け野原になって負けた。感情欲求は、決して満たされなかった。
その代わり生まれたのは、「感情を満たすために数え切れない人間を殺した/死なせた」というトラウマ。
その国は、今もそれに苦しんでいる。

あの頃から満たされぬ感情を抱えた社会の無意識は、裁判員制度を通して感情を満たす手段を「戦争」から「死刑」におき換え、大衆心理に同じうねり(同じトラウマ)を引き起こそうとしている?


↓正義や善意が「感情を満たすこと」にすりかわった事例?
被災地を思う時の注意
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コメント

「犯人はとても悪いことをした不愉快な悪人なのに、そんな犯人の死刑を心の重荷にする人間も悪だ。自分なら喜んで死刑の判断をして犯人を地獄に送ってやるのに。あんなヘタレじゃなくて自分が裁判員になりたい!」
要約すると、そういう感じの論調も予想外に目立った。多分若年層だろう。

…たぶん若年層だけじゃないですね。うちの親(戦前生まれ)はだいたいいつもそんな感じ。ほとんどの犯罪(特に殺人、傷害、性犯罪)は死刑にすればいいと思っていますよ…。
むしろ「善良な」高齢者に多いんじゃないかなと思います。

>はせがわさん
コメントありがとうございます。
そうですか…年齢とは無関係な大衆心理的傾向ですかね。

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