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2012年5月15日 (火)

就活自殺の増加に思うこと

就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に

就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。
2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。
警察庁は、06年の自殺対策基本法施行を受け、翌07年から自殺者の原因を遺書や生前のメモなどから詳しく分析。10~20歳代の自殺者で就活が原因と見なされたケースは、07年は60人だったが、08年には91人に急増。毎年、男性が8~9割を占め、昨年は、特に学生が52人と07年の3・2倍に増えた。

なんとも由々しき現象である。
就活のことで落ち込みがちな人は、就職先に自己実現を委ね依存したり、内定の合否や面接の印象を己の人格や生命尊厳や自尊心(自己評価・自己肯定)の目安にしてしまってないか要注意である。
外部の評価は所詮、他人から見た利用価値でしかない。自己評価の代わりになんかならない。
企業からの評価は、企業の立場と事情と都合にとってその時利用価値があるかどうかを判断しただけのもので、その人の生命存在など評価できない。その人の生命活動(人生)を支配などできない。そんな神みたいな視点は持ち合わせてないし、神みたいな能力も無い。 というか、神じゃない。

◆会社や社会は人の命など評価できない
人間は所詮、自分にとっての利用価値でしか生きられない。他人にとっての利用価値で生きることは出来ない。 人間が自分にとっての利用価値でしか生きられないからこそ、自分が生きる喜びや意義(=自分にとっての命の利用価値)を見つけられなくなった・探せなくなったと感じたとき、人は自ら死ぬことがある。

「外部評価を得なければ(世間や他人の評価に依存しなければ)自己実現も自尊心も作れない。まともな人生など歩めない(まともな人生を生きることは許さない)」
「他人や世間からの評価が得られれば、私は私を肯定し尊んでも良い。この命には存在価値や尊厳があると認識しても良い。(=もし評価が得られないなら私は私を肯定してはいけないし、この命に存在価値と尊厳があると認識してはいけない。それはルール違反だ)」
・・・そんな何の根拠も無い考え方や自分で勝手にでっち上げたルールに縛られて生きていこうとすれば、確かに辛いかもしれない。そんな発想じゃ自分にとっての命の使い道を見つけられないし探せない。しかも他人にとっての利用価値にしか目が向けられなくなってしまい、自分のためではなく他人の利用価値を満たすためにしかエネルギーを使っていない。それじゃすぐにエネルギーが枯渇して頑張れなくなる。
それは、自分にとっての命の使い道を枯渇させる(自ら搾取させる)も同然。

・・・生きてるのが辛いんじゃない。そんな生き方が辛いだけだ。そんな生き方じゃ就活に成功したっていつか行き詰る。そもそも「成功」と言えるのかどうか。
(『これ以上頑張れない』ということを他者から認めてもらいたい・許されたい願望の背後にも、他人からの評価に依存する心理があったりする)

本当の望みは、外部評価で高得点をはじき出す(それを自己実現とする)ことじゃなくて、外部評価に依存し縛られず振り回されずに安定した自尊心を構築すること、外部評価に依存しない「自分にとって価値のある生き方」をすることかも。外部評価ではなく、独自の自尊本能(独自の価値観で自分の命に利用価値を見出す心)に基づいて生きることかも。

これは就活だけに限らず多くのケースで言えることだが、最近「頑張れない・意欲が落ちた」と感じるようになったら、自分のためではなく、他人の利用価値を満たすためだけにエネルギーを消費してこなかったかどうかふり返ってみた方がいい(場合によっては他人の利用価値すら満たしていなかったり、ズレていたりする)。
自分にとって命を意義深く使うために用意してあったはずのエネルギーを、違うことに無駄遣いしてこなかったかどうか。「頑張れない」と言う現象は、「エネルギーの使い方が違う(又はどこかズレてる)」という無意識からのサインになっていたりもする。
予算を適切に使わないと、ストップがかかってしまう感じだ。

◆同じ価値観が優越感にも劣等感にもなる
辛い生き方に己を縛り付け支配する外部評価依存至上主義の考え方(一種の脳内プログラム)を、自ら解除し、そのプログラムによって設定されていた思考パターンや行動パターン、判断基準などを変更する必要がある。そのプログラムは視野の広がりを妨げ、エネルギーを浪費させ、人生の可能性を制限・抑圧してしまっている。運勢さえも制限する。
恐ろしいことに、外部評価依存至上主義の考え方(プログラム)やそれに基づく価値観に縛られ支配されるということは、自分より外部評価が低い(と、思われる)人を無意識に条件反射で見下し蔑んでしまうという誤作動を誘発することもある。
そんな外部評価依存型プログラムに縛られ支配されてしまった挙句見事に誤作動し、面接試験で必要以上に横柄な態度や幼稚な態度をとってしまう残念な面接官(すでにいい大人)も稀にいらっしゃるとのこと。彼らはある意味では同じ外部評価依存型プログラムに縛られ支配されている面接者と同根であり、両者はいわば合わせ鏡でもある(面接官の態度でプライドを傷つけられたと感じる人は要注意。それは、自分が面接官と同様外部評価依存型の自尊心に縛られ思考を支配されている証。面接官からの評価に尊厳を依存している証)。

残念な面接官の言動は面接者に外部評価依存至上主義の弊害(誤作動)をまざまざと見せ付け、危険を警告する。面接者がその考え方に支配されたまま人事部に採用され、やがて誤作動を抱えた残念な面接官に変身することさえ場合によってはありうる話だ。
幼い頃から「良い子」として誉められたり良い点を取ることばかりで自尊心が構築される傾向の環境で育ってきたり、大人たちが子供や若者に対してそのような「他者にとって利用価値のある者」にすることばかりを考えた育て方をしている傾向も外部評価依存を作り上げる一因だろうか?
時には、『社会からの評価』に強くこだわる人の場合、社会に母性(ないし親)を投影してる可能性もある。社会の価値観(評価基準)を親から刷り込まれるケースが多いからだ。そういう人にとって、社会からの評価(外部評価)は「親からの愛情(親に褒められること)」とイコールだ。その場合、その人が本当に求めているのは、母性的ないし親的な愛なのかもしれない。
お気づきだろうか? 子供にとって「親(大人)から愛される事」は、幸せ(自己肯定)を感じるための一手段にすぎず、最終目的は「自分自身の幸せ(それを根拠にした自己肯定)」であることを。手段に囚われ過ぎて手段を目的化してしまい、肝心の目的を忘れてしまうのは本末転倒だ。

◆就活自殺を考える前に
「企業に新卒で就職して一定の収入を得る」という生き方がさも至高であるかのように評価される風潮は、人々がそういう方法の生き方をしてくれた方がその社会にとっては利用価値が高くなるからだ。評価基準はあくまで社会側の都合であって個人の都合など考えていない。
人間に可能な千差万別の生き方(幸せな生き方)の中から、都合の良いわずかな範囲のみを抽出しそれだけをもてはやすことで、それしか生きる方法が無い(or他の方法が正しくない・劣っている・恥ずかしい・不幸である)かのように錯覚させている。
そんな「都合のいい錯覚」にまんまと引っかかってはいけない。

就活自殺を考える前にまず以下のことを考えてみよう。
自分の存在価値を認識するのに(自己肯定の根拠として)企業のブランド力を借りようとしていないかどうか。就活に失敗したり力尽きることと、自己実現の喪失や自己評価の全否定、人間性と生命尊厳の剥奪といったものを混同して無いかどうか。あるいは、今まで生きてきた自分個人の人生やそこで得た体験や経験(未来を創る素材として運勢の源から授かった自分にしか無いもの)を全否定することと就活失敗を同一視していないかどうか。
社会や就職活動や企業は、それほど人のプライベートな部分を左右し支配する能力など持っているのかどうか。
あなたの人生を作り支配してるのは企業や社会でも外部評価でもなく、企業や社会や外部評価にしがみ付き過ぎて命の全てを依存し過ぎているあなた自身こそがその人生を作り支配していないかどうか。
就職に失敗しただけで(企業への働き口が得られないだけで)自分が餓死や凍死をしたり人間らしい生活を失う環境にあるかどうか。
自分が社会の都合にぴったり合う生き物ではないことと、「社会から評価されなければこの世ではまともに生きられない。その資格が無い」ということを同一視していないかどうか(※)。
「他人にとって利用価値の高い命」と「自分にとって利用価値の高い命」、どちらの命になりたいか。
(※同一視してしまうと、最悪の場合障害者や浮浪者を収容所やガス室に送りまくったナチスみたいな考え方に陥ってしまう)

ほんの幼い頃から、両親や親しい人達から優しくされて嬉しかったり、両親や優しい人に愛されたい(愛されたらうれしいだろうな)と思ったりする経験が誰にもあると思う。その気持ちは、自分という命が無条件に肯定的に扱われ慈しまれ、「生きることを支援されるシチュエーション」に本能的な喜びを発する心から来ている。
即ち、そういう気持ちがある限り、あなたは自分の命を生きることが大好きなわけだ。(社会から見た利用価値が高かろうが低かろうが)無条件に生きたがっている。生きることが無条件に大好きなので、それを無条件にサポートしてもらえるシチュエーションも好きなのだ。生きることが嫌いなら、生きることをサポートされても嬉しくない。
人間の生存本能は生きることが無条件に大好きなので、「生きることへのサポートに条件が付く世界(=社会にとっての利用価値が高いほど生きやすく、生への肯定感が高い)」が好きだとは限らない。
なので、人間の運勢の中でも「生存本能に由来する運勢」はその人の命を無条件にサポートするように動く。その人の外部評価がどれほど低くてもお構いなしだ。「条件が付く世界」に依存し支配されないためにもそうなってる。
あなたの生存本能は、無条件に自分の存在・自分の命を肯定する。ある意味で、無条件に世界一あなたを愛している。いついかなる時でも。例えあなたが凶悪犯になっても、評価されない人間になっても。

自分という存在が尊いものであることを認識・確認するために、外部から必要とされたり高く評価されるといった「客観的な証拠」を求める動機は、自分に対して客観的証拠を提示することで自分自身が「確かに私は尊いのだ。証拠もある」と納得し安心したいからかもしれない。いわば自己肯定のための理論武装。
それは結局、客観的証拠をもとに「私は尊いのだ」という主観的根拠(実感)を抱きたいからだ。
そう。自己肯定および自尊心(=私は尊い)というやつは、どんなに客観的な根拠や証拠を求めようと、最後は自分が「私は尊い」と感じることが出来るか出来ないかで決まるのだ。要するに、ソレは主観的な感覚なのだ。科学的にも物理的にも理論的にも証明しようの無いものなのだ。ある意味スピリチュアル。
「私という存在は尊い」・・・それは真実かウソか、それは正しいのか正しくないのか。誰にも判断や証明はできない。個人の主観(感覚)だから。ただ、多くの人が本能的に「自分は尊い(尊ばれたい)」と感じる主観を持つことから、「人権」という概念が生まれたようだ。以来、社会の秩序維持において人権の尊重は要になっている(いついかなる時も完璧に尊重できているとは言えないが)。

◆自己実現の力と本能
以前も何度か書いたが、無意識の底から本当に好きなことややりたいことがあると、それが実現するための様々な運勢(金運・仕事運・人脈・環境運含む)がインフラのように奥底から発動する。私はそれを何度も見てきた。
それは、自分の命を無条件に支援する本能由来のインフラだ。
人の運勢はどうもその人の無意識の奥底からやってくるものらしい。それは自己実現(又は個性化)をするとき発動する力の一種、本能の一種とでもいえばいいか。
私達の命にそのような力が備わっている意味を妄想してみた。私達の命の奥底に、もしも個性化や自己実現をしようとする本能があるとするならば、無意識のポケットにその本能と力を携えてこの世にやってきたとするならば、この世は、それを実現・実行することが可能な場なのかもしれない(でないと種族がその力と本能を身に着けたことにつじつまが合わない)。
そして、世間の価値観や固定観念に洗脳され縛られるうちにそれらのことを忘れ、その力と本能を封印しただけかもしれない。私たちは人生最初の自己実現と思しき『誕生』に際してその力と本能を発動させている。その時の事は忘れてるけれど。

本当は、「その力と本能」を使って生きることができるのかもしれない。私達は本来そういう生き物では?
企業や社会が自分を養うのではなく、自分の奥底にある「その力と本能」が発動して自分を養うのかもしれない。
その力の発動には、命の奥底にある自己実現本能の意を理解しそれに沿う必要がある。
その力、コンプレックスや世間体や植えつけられた観念などが原因で望んだ方向へは発動しない。自己実現本能とズレているからだ。それは本当の自己実現(本当の望み)ではない。

・・・とまれ妄想は別として、外部評価を得ること(ニセの望み)じゃなくて、本当の望みを探ってみる発想はあっていいと思う。そして好きなことやしてみたいことを探していくこと。それでお金を稼ぐかどうかに関係なく、例え些細なことでも己の本当の望みは知っといた方がいい。 それは命の望みだから。
外部評価に執着し囚われることなく自尊心(自己評価)や生きがいを見つけることと「本当の望み」を得ることとは、きっと対立しないと思う。

◆余談(妄想)
何の参考にもならないごく稀なケースだが、自分にとって利用価値の高い命になっていくことを選んだ結果、4年制大学を卒業したら占い師になってしまった者がいる。そいつは学生時代に人々を占うことで得た体験にかけがえの無い価値を見出し、「それを無駄にしたくない」と思えるほど愛してしまった。そして占い師になり、さらに体験を重ね、そんなろくでもない道を選んだ己の人生を愛してしまった。そんな奴は多分、常識的な一般社会の都合から見てほぼ利用価値が無い(=外部評価0)だろう。にもかかわらず、恥じらいも無くのうのうと今も元気に生きている。

そもそも「命」というものは社会が製造しているものではない以上、命は社会に属しているわけでも社会のために存在しているわけでもない。命は命自身の理由で存在し、命の世界(自然界)に属している。命がどうやって創造されるのか、何故体に宿るのかは、未だ誰も知らない。少なくとも、生命は生命の都合でその姿形やスペック(個性・仕様)を作るのであって、社会の都合ではないことは確かだ。その姿・形・仕様に社会が「利用価値が低い」と注文やクレームをつける筋合いは無い。自然界にクレームを入れるのと同じだ。
大事なのは、己のスペックを理解していって、それを己の人生に(己のために)生かせるか否か。己の命がそういうスペックで作られたのは、そのスペックを生かしたい理由が命自身の奥底にあってのことだ。
例えそのスペックが社会で役つモノではなかったとしても、自分のために用いることは出来る。どう用いるかは命自身の奥底が良く知っている。運勢の源が知っている。命は自分を幸せにする方法を知っている。
その方法は、おおよそ「外部評価に自己肯定や生命尊厳の根拠を依存したルールで生きること」とはかけ離れているだろう。

自我境界が未発達な国民性1←「就活うつ」からの切り口
「必要とされる」必要が無い
上手なニートの過ごし方?
人を社会に合わせる? 社会を人に合わせる?

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コメント

いつも興味深い記事をありがとうございます。
評価軸が自己内部にあるか外部にあるかということと、精神の安定については、私自身が長年抱えてきた問題であり、今回の記事は非常に興味深く読ませていただきました。

就職活動を行ったのは一昔以上前になってしまいましたが、「適職」と「天職」は違うなぁと今更ながらに思います。そして、天職で飯が食えるかというとそれも別問題であるとも思います。

氷河期と言われ始めたころ、他人から見たらとてもうらやましいと思われる会社から内定をいただき就職しましたが、心身ともに病んですぐにやめました。転職して10年以上たちますが、今の職業は天職ではないけれど、適職ではあるかと思っています。辞めた会社は就職当時は名前が通った会社でしたが、今では合併等により名前も消失しています。どんな有名大企業であっても、企業組織の存在は永続的なものではなく、そこに自己実現や評価をゆだねることはできないと思います。

「人の運勢はどうもその人の無意識の奥底からやってくるものらしい。それは自己実現をするとき発動する力の一種、とでもいえばいいか。」とありましたが、私自身の体験ではまさにその通りで、進路や就職、結婚といった人生の節目の時に、自分の内側から発せられる「声」に従わなかったときは、だいたい「しまった」という結果になってます。まあ、なかなか内なる声は聞こえてきませんが。何か大きな選択をするときは、なるべくよく寝て、夢の中にでてくることとか、覚えているようにしています。

>ばんちゃんさん
「天職」と「適職」の違いと言うのは、天命(心の中の内なる声?)が職業や収入手段の形で降りてくるか否かという問題でもあるような気がします。
人間、必ずしも経済活動と関わった形で自己実現がなされるとは限りません。
目に見える具体的な物事は自己実現の手段(ツール)でしかなく、人の無意識は自分にとってその時自己実現がしやすい環境や手段を選んでそこへ自分を導いていくような気がします(その導きが夢や内なる声という形で発動するのでしょうか・・・)。

なので、天職がいつまでも天職であるとは限らないことも。その職業を通しての自己実現をやり終えたら、ツールとしての役割を終えたその職業にいつまでもとどまらず、次の自己実現に向けて別の方向に導かれていくことだってありえるかもしれません。

夢などを通して内なる声を聞くことができるというと言うのは、とても大事なことだと思います。うらやましい限りです。
私は修行が足りてないもんですから、ただでさえ貴重なそういった「導き」を、よく聞きそびれたり、無意識の内なる声がなぜそのツールや環境に導くのか意図を理解しきれずに自我の浅はかな理解で意図を取り違えたままズレた方向へ動いてしまうこともしばしばです(゚ー゚;
でも、「占い」という活動に導かれたことで以前よりは内なる声」に耳を傾けやすい環境で生きることが出来ているような気がします。

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