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2012年5月

2012年5月31日 (木)

イタリアの地震と龍脈

イタリアでまた地震―少なくとも16人が死亡

【ミラノ】イタリア北部で29日、マグニチュード(M)5.8の地震が発生し、建物や歴史的建造物が崩壊して少なくとも16人が死亡、200人が負傷した。この地域は今月20日にも地震に見舞われ、復旧の途上だった。

風水の視点では、地震や噴火などの地殻変動は「龍脈の変動」が目に見える形で現象化したものとされる。龍脈が変動するとその地域(又はその国)の運勢にも影響を与えるという。
今回は最近相次ぐイタリアの地震をきっかけに、龍脈の視点からイタリアについてとりとめもなく妄想してみた。

Tunitalia_4
右のコレはものすごく大雑把にマウスで描いたイタリア半島を縦断する龍脈のイメージ図である。
(一目見てどの記事から使い回したか分かる人はいるかなw)。この龍脈は北アフリカ~シチリア~南イタリア~北イタリア~と通って最後はアルプスの龍脈に合流。リンク先のニュース記事にある震源地の図と見比べると分るが、イタリア北部で相次ぐ地震の震源地域はこの龍脈上に位置する。
個人的に、この龍脈の変動は2009年ごろ(ラクイラの地震やシチリア・マフィアの大物が逮捕された頃)には始まっていて、2010年の末~2011年初めごろに本格化したんじゃないかと今は妄想している。本格化した時期は丁度チュニジアでジャスミン革命が起きた時期だ。この龍脈変動には「権威の崩壊」という運気テーマが備わっているようで、変動の行く先々でその土地やその国の運気に大きく作用している。チュニジアでジャスミン革命に作用した後はシチリア(マフィアの故郷)にあるエトナ山を噴火させたあとローマに入り、シチリア・マフィアと縁があったというベルルスコーニ氏は変動がローマ入りした頃に未成年者売春罪や職権乱用罪などで起訴され、やがて退陣した(同時期、既に変動が通過していたナポリのマフィアも逮捕された)。
ベルルスコーニ氏の起訴~退陣という流れの最中、同じくローマに位置するバチカンも変動の影響を受ずにはいられなかった。ローマ法王がカトリック聖職者による性的虐待問題の件で監督責任を問われ国際法廷に告訴されるという史上初の事態になったのだ。しかも現在のバチカン所在地、キリスト教以前の古代から一種の「聖なる場所(多分パワースポット)」だったから余計に変動の影響を受けやすいのかもしれない。

変動は繰り返す形で波状的に北上し、とうとうその波が北イタリアに入ったようにも見える。北イタリアの同じ地域で地震が再び繰り返されたのは、波状的に龍脈変動が北上する様子とも関係あるかもしれない。
相次ぐ北イタリアの地震と同時期。即ち現在。再び変動の波を受けたと思われるバチカンでも激震が走っていた。

秘密文書暴露、資金洗浄疑惑 バチカン激震

ローマ法王庁(バチカン)の金銭疑惑に関する秘密書類や法王ベネディクト十六世への手紙などが多数暴露され、バチカンが衝撃に見舞われている。二十八日までに、秘密書類を持ち出していた疑いで、法王の執事が逮捕されたほか、書類流出との関連が指摘される「宗教事業協会」(通称バチカン銀行)の総裁が突然解任されるなど、スキャンダルは拡大している。

変動の波が北イタリアに入ってきたことでふと思った。変動の北上がアルプスの龍脈にぶつかった時、アルプスの龍脈エリア(即ちEUの主要国が集中するエリア)にも何か影響があるのだろうか? 最近の地震が起きる前、2012年1月28日にはやはりイタリア北部を震源とする地震が発生しており、イタリアからはアルプス龍脈の向こう側であるチューリヒでも揺れを感じたと言う。その後2月11日にはチューリヒ郊外でM4.2の地震が発生した。
アルプス龍脈の国、スイス。ただいま激震中のバチカンを守る衛兵は伝統的にスイス兵だ。また、バチカンの金融顧問の中にクレディ・スイスがあり、 資金洗浄が疑われているバチカン銀行の業務も請け負っていると言うが・・・

・・・とまれ、北イタリアの復旧に良き運があらんことを。


2012年7月5日追記
バチカンのコンピューターシステムに侵入してバチカンのあらゆる歴史と真実の情報(上層部しか知り得ない極秘データ含む)を歴史上唯一入手した男がいる。彼はハッキングの腕をバチカンに買われてバチカンのコンピューターセキュリティのチーフエンジニアになった。しかし最近になって、「世界でたった一人バチカン内部のネットワークアクセスコードを持っている」彼が、失踪している。コレは何を意味するのか・・・(まさか失踪してスイスに行ったとか??)
ついでに今年5月、「イエスは磔にされてない」ということを示す福音書(イエスの弟子バルナバによる福音書)が見つかったとか言う報道もある。バチカンの変動、不気味に大きく揺れている・・・
2013年2月追記
ローマ法王ベネディクト16世辞任

2016.10.30追記
イタリア中部、やはり図で示した龍脈上のエリアで激しい地震が相次いでいる。
2017年3月追記
去年末~今年にかけて、アルプス龍脈エリアにあるEU主要国(墺・独・仏)が立て続けに大統領選挙。墺では極右が勝つと思われたが開票手続きの不備で選挙をやり直し結局中道左派が辛勝。
EUの運気はアルプス龍脈の影響を受けていると言っていい。イギリスは2年後のEU離脱を正式通告したが、2年後のEUや龍脈はどうなっているだろう?

チュニジアの政変と龍脈
チリとNZの偶然に見る異端妄想←バチカン関連。イタリアでの龍脈変動が活発になって以降、かなり運気が変動している。
米領事館襲撃事件と奇妙な偶然?←キリスト教関連?

2012年5月21日 (月)

占い師、おずおずと金環食を撮る

少し曇っていたけど素人でも意外に撮れた。日食グラス(198円)をデジカメに当てて撮ったのと、雲ごしに撮ったもの。
(※例え雲のベールがかかっていても日食は肉眼で見ないでデジカメの液晶画面越しに見ましょう)
今日はきっと数え切れないほどのブログが今回の金環食画像を載せていることだろう。

Kinkan1

Kinkan2

Kinkan3

Kinkan4

Kinkan5

【以下、陰謀論(?)を捏造してみたw】
今回の金環食は偶然にも「レイライン」という日本の聖地を結んだ線の上で発生する。それも、鹿島~富士山~皇居~霧島(高千穂)を結ぶ冬至の日没と夏至の日の出を象徴したレイラインの上で起きる。
詳しい解説) (金環食帯図)←レイライン図と見比べてみよう
このレイラインは現代でも重要視されているらしく、スカイツリーもこのレイライン上に建てられた。
(完成とほぼ同時に震災が起きたり、開業が金環食翌日なのは意味深)
金環食もスカイツリーもレイラインの上なので、スカイツリーではいい写真が取れた模様。

件の線は古来より「太陽の死と新生」を意味するレイラインで、金環食を含む日食もやはり古代には同じ意味を持っていた現象なのだ。
そして、日本は「日出ずる国」という名の通り、古来より太陽をシンボル天体にしている国である(明治になって天皇を江戸城に移住させたのも、明治政府が太平洋側のレイラインを意識した結果という噂あり)。

実はこのレイライン、去年の震災で既に「死んでいる」と思われる。昨年1~2月には霧島が噴火し、3月には鹿島神宮の鳥居が倒壊した。9月には近畿地方の山間部で台風12号が甚大な被害をもたらし、今年1月になって皇居は鬼門の方角(=スカイツリーの方角)からお堀と警備をすり抜けたパンツ一丁の素人に軽々と侵入された。富士山はちょっとだけ湯気を出した。
・・・どれも全てレイライン上の地域で起きた出来事だ。

しかも、このレイラインを海まで伸ばしていくと震災の震源域につながる。
「レイライン」とやらが設営された時代から今まで機能していた呪術やそれが作ってきたこの国の運勢。どうもそれらが死んだような気がする。時代のサイクルが終わったと言うか・・・そして新たな時代が生まれる?

「太陽」というものに独特の呪術的な思い入れがあるこの国を舞台に、呪術的なライン上にぴったり沿う形で日食(しかも金環食)が発生する確率を考えると、その数奇な偶然性にめまいがする。しかもその発生日が震災後(即ちレイライン呪術が死んだ後)だからなおさらだ。
今回の金環食、まるでこの国の死と新生を象徴しているような出来事だ。

古来の呪術的視点で見ると非常に不思議な偶然が重なる意味深な金環食。これをレイラインという呪術線地域にいる多くの国民が同時に生で見るという行為自体が、非常に呪術的な行為でもある。
去年からマスコミも妙に持ち上げてるし、当日は休校する学校が出るほどの扱いだし・・・なんか積極的に国民を金環食へ注目させようとしている印象がある。
まさか、多くの国民の目に「太陽の死と新生(この国の死と新生)」と言う象徴を焼き付けて集合無意識規模の暗示を促すことで世相や時代を新しく変化させる呼び水にでもしたいんだろうか??
(で、翌日開業するスカイツリーを新時代の開運シンボルにしたいとか?)

キバヤシ<これは歴史を超えた国家規模の壮大な呪術的陰謀だったんだよ!
ΩΩΩ<ナ、ナンダッテー!!

・・・などという妄想をすると、私がとても楽しかった。

日本の神話に例えれば、今回の金環食を「2回目の天岩戸開き」とでも言えばいいか(1回目は力づくだったしな)。
日本の第2の夜明け・・・金環食のピークは夜明けの3時間後。太陽と重なった月が離れていく様子は、さしずめ「第2の夜明け」か。
で、月が太陽と重なっていく時は「夜明けの晩」かもしれないw

夜明け・・・この国の首都には夜明けを意味する「有明」という場所がある。今回起きる金環食の中心食線は、丁度その真上を通る。よって有明は絶好の観測スポットになる。これも意味深な符号?
(ちなみに、中心食線は市川付近で首都直下地震の想定対象になってる東京湾北岸断層ときれいに交差する)

金環食はマヤ暦が終わるほぼ7ヶ月前に起きることになる。
(ちなみにマヤ遺跡でマヤ暦が終わる日の現地時間は日本だと天皇誕生日)
今年が2012年だけに、この金環食はオカルトマニアにとってゴハンが何杯でもお代わり出来る大変貴重な現象になりそうだ。
MMRも金環食に合わせて再開するらしいし。

太陽磁場の異変と金環食で妄想
霧島とレイラインとスカイツリーの奇妙な話

2012年5月20日 (日)

結界で多発する車の事故と祇園祭り?

※以下の文章は、科学的根拠の無い個人の妄想です。

京都は古代に都(朝廷)の守護と開運のために作られた呪術結界が作られていたが、震災による列島の龍脈変動でこの結界が稼動停止した。
今まで結界で悪い運気が現象化しないようにしていたはずの場所で小学生(古代なら元服前の童)が被害を受ける出来事が続発している。
この共通点には何か象徴的なものを感じる。小学生の年齢と言えば、祇園祭の花形、「お稚児さん」の年齢でもある。

このサイトより抜粋

お稚児さんとは?
お稚児さんは、祇園祭の生神(いきがみ)様。古式に則り、八坂神社から長刀鉾町へと養子に出され、やがて神様の使いとなり、数々の儀式をこなしながら、祭りの無事を祈願します。 山鉾巡行の日は、稚児が振る太刀によって注連縄が切り落とされ、これで結界を解き放ち、山鉾を先に進ませるという大役を任されています。

・・・「結界を解き放ち」か・・・


【結界内で起きてる出来事一覧】
祇園の暴走事故
亀岡の暴走事故
大阪 集団下校の列に車 小1女児死亡
交通事故:修学旅行の児童6人搬送 バスと車衝突 京都
↑そして本日の修学旅行生が乗ったバス事故。修学旅行生たちが通う小学校も近畿の結界のすぐ近くに位置している。
しかしやたらと車の事故が多い。

・・・まさか「車」って、祇園祭の「山鉾」の象徴じゃあるまいな?
(結界の稼動停止に伴って祇園祭の起源になった呪術も崩壊?)
一説によれば祇園祭は、「秦氏」とかかわりがあるらしい。 秦氏は古代日本に土木や養蚕など、様々なテクノロジーを持ち込んだ人々だ。

結界が破綻しつつある今年の祇園祭は、いつもとどこか違う?

【追記】
とうとう京都の太秦(秦氏の拠点だった場所)でも火事があった→ニュース記事
太秦は京都。ということは、結界の中心部で「すごい火柱」が上がったということか・・・

2012年5月15日 (火)

就活自殺の増加に思うこと

就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に

就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。
2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。
警察庁は、06年の自殺対策基本法施行を受け、翌07年から自殺者の原因を遺書や生前のメモなどから詳しく分析。10~20歳代の自殺者で就活が原因と見なされたケースは、07年は60人だったが、08年には91人に急増。毎年、男性が8~9割を占め、昨年は、特に学生が52人と07年の3・2倍に増えた。

なんとも由々しき現象である。
就活のことで落ち込みがちな人は、就職先に自己実現を委ね依存したり、内定の合否や面接の印象を己の人格や生命尊厳や自尊心(自己評価・自己肯定)の目安にしてしまってないか要注意である。
外部の評価は所詮、他人から見た利用価値でしかない。自己評価の代わりになんかならない。
企業からの評価は、企業の立場と事情と都合にとってその時利用価値があるかどうかを判断しただけのもので、その人の生命存在など評価できない。その人の生命活動(人生)を支配などできない。そんな神みたいな視点は持ち合わせてないし、神みたいな能力も無い。 というか、神じゃない。

◆会社や社会は人の命など評価できない
人間は所詮、自分にとっての利用価値でしか生きられない。他人にとっての利用価値で生きることは出来ない。 人間が自分にとっての利用価値でしか生きられないからこそ、自分が生きる喜びや意義(=自分にとっての命の利用価値)を見つけられなくなった・探せなくなったと感じたとき、人は自ら死ぬことがある。

「外部評価を得なければ(世間や他人の評価に依存しなければ)自己実現も自尊心も作れない。まともな人生など歩めない(まともな人生を生きることは許さない)」
「他人や世間からの評価が得られれば、私は私を肯定し尊んでも良い。この命には存在価値や尊厳があると認識しても良い。(=もし評価が得られないなら私は私を肯定してはいけないし、この命に存在価値と尊厳があると認識してはいけない。それはルール違反だ)」
・・・そんな何の根拠も無い考え方や自分で勝手にでっち上げたルールに縛られて生きていこうとすれば、確かに辛いかもしれない。そんな発想じゃ自分にとっての命の使い道を見つけられないし探せない。しかも他人にとっての利用価値にしか目が向けられなくなってしまい、自分のためではなく他人の利用価値を満たすためにしかエネルギーを使っていない。それじゃすぐにエネルギーが枯渇して頑張れなくなる。
それは、自分にとっての命の使い道を枯渇させる(自ら搾取させる)も同然。

・・・生きてるのが辛いんじゃない。そんな生き方が辛いだけだ。そんな生き方じゃ就活に成功したっていつか行き詰る。そもそも「成功」と言えるのかどうか。
(『これ以上頑張れない』ということを他者から認めてもらいたい・許されたい願望の背後にも、他人からの評価に依存する心理があったりする)

本当の望みは、外部評価で高得点をはじき出す(それを自己実現とする)ことじゃなくて、外部評価に依存し縛られず振り回されずに安定した自尊心を構築すること、外部評価に依存しない「自分にとって価値のある生き方」をすることかも。外部評価ではなく、独自の自尊本能(独自の価値観で自分の命に利用価値を見出す心)に基づいて生きることかも。

これは就活だけに限らず多くのケースで言えることだが、最近「頑張れない・意欲が落ちた」と感じるようになったら、自分のためではなく、他人の利用価値を満たすためだけにエネルギーを消費してこなかったかどうかふり返ってみた方がいい(場合によっては他人の利用価値すら満たしていなかったり、ズレていたりする)。
自分にとって命を意義深く使うために用意してあったはずのエネルギーを、違うことに無駄遣いしてこなかったかどうか。「頑張れない」と言う現象は、「エネルギーの使い方が違う(又はどこかズレてる)」という無意識からのサインになっていたりもする。
予算を適切に使わないと、ストップがかかってしまう感じだ。

◆同じ価値観が優越感にも劣等感にもなる
辛い生き方に己を縛り付け支配する外部評価依存至上主義の考え方(一種の脳内プログラム)を、自ら解除し、そのプログラムによって設定されていた思考パターンや行動パターン、判断基準などを変更する必要がある。そのプログラムは視野の広がりを妨げ、エネルギーを浪費させ、人生の可能性を制限・抑圧してしまっている。運勢さえも制限する。
恐ろしいことに、外部評価依存至上主義の考え方(プログラム)やそれに基づく価値観に縛られ支配されるということは、自分より外部評価が低い(と、思われる)人を無意識に条件反射で見下し蔑んでしまうという誤作動を誘発することもある。
そんな外部評価依存型プログラムに縛られ支配されてしまった挙句見事に誤作動し、面接試験で必要以上に横柄な態度や幼稚な態度をとってしまう残念な面接官(すでにいい大人)も稀にいらっしゃるとのこと。彼らはある意味では同じ外部評価依存型プログラムに縛られ支配されている面接者と同根であり、両者はいわば合わせ鏡でもある(面接官の態度でプライドを傷つけられたと感じる人は要注意。それは、自分が面接官と同様外部評価依存型の自尊心に縛られ思考を支配されている証。面接官からの評価に尊厳を依存している証)。

残念な面接官の言動は面接者に外部評価依存至上主義の弊害(誤作動)をまざまざと見せ付け、危険を警告する。面接者がその考え方に支配されたまま人事部に採用され、やがて誤作動を抱えた残念な面接官に変身することさえ場合によってはありうる話だ。
幼い頃から「良い子」として誉められたり良い点を取ることばかりで自尊心が構築される傾向の環境で育ってきたり、大人たちが子供や若者に対してそのような「他者にとって利用価値のある者」にすることばかりを考えた育て方をしている傾向も外部評価依存を作り上げる一因だろうか?
時には、『社会からの評価』に強くこだわる人の場合、社会に母性(ないし親)を投影してる可能性もある。社会の価値観(評価基準)を親から刷り込まれるケースが多いからだ。そういう人にとって、社会からの評価(外部評価)は「親からの愛情(親に褒められること)」とイコールだ。その場合、その人が本当に求めているのは、母性的ないし親的な愛なのかもしれない。
お気づきだろうか? 子供にとって「親(大人)から愛される事」は、幸せ(自己肯定)を感じるための一手段にすぎず、最終目的は「自分自身の幸せ(それを根拠にした自己肯定)」であることを。手段に囚われ過ぎて手段を目的化してしまい、肝心の目的を忘れてしまうのは本末転倒だ。

◆就活自殺を考える前に
「企業に新卒で就職して一定の収入を得る」という生き方がさも至高であるかのように評価される風潮は、人々がそういう方法の生き方をしてくれた方がその社会にとっては利用価値が高くなるからだ。評価基準はあくまで社会側の都合であって個人の都合など考えていない。
人間に可能な千差万別の生き方(幸せな生き方)の中から、都合の良いわずかな範囲のみを抽出しそれだけをもてはやすことで、それしか生きる方法が無い(or他の方法が正しくない・劣っている・恥ずかしい・不幸である)かのように錯覚させている。
そんな「都合のいい錯覚」にまんまと引っかかってはいけない。

就活自殺を考える前にまず以下のことを考えてみよう。
自分の存在価値を認識するのに(自己肯定の根拠として)企業のブランド力を借りようとしていないかどうか。就活に失敗したり力尽きることと、自己実現の喪失や自己評価の全否定、人間性と生命尊厳の剥奪といったものを混同して無いかどうか。あるいは、今まで生きてきた自分個人の人生やそこで得た体験や経験(未来を創る素材として運勢の源から授かった自分にしか無いもの)を全否定することと就活失敗を同一視していないかどうか。
社会や就職活動や企業は、それほど人のプライベートな部分を左右し支配する能力など持っているのかどうか。
あなたの人生を作り支配してるのは企業や社会でも外部評価でもなく、企業や社会や外部評価にしがみ付き過ぎて命の全てを依存し過ぎているあなた自身こそがその人生を作り支配していないかどうか。
就職に失敗しただけで(企業への働き口が得られないだけで)自分が餓死や凍死をしたり人間らしい生活を失う環境にあるかどうか。
自分が社会の都合にぴったり合う生き物ではないことと、「社会から評価されなければこの世ではまともに生きられない。その資格が無い」ということを同一視していないかどうか(※)。
「他人にとって利用価値の高い命」と「自分にとって利用価値の高い命」、どちらの命になりたいか。
(※同一視してしまうと、最悪の場合障害者や浮浪者を収容所やガス室に送りまくったナチスみたいな考え方に陥ってしまう)

ほんの幼い頃から、両親や親しい人達から優しくされて嬉しかったり、両親や優しい人に愛されたい(愛されたらうれしいだろうな)と思ったりする経験が誰にもあると思う。その気持ちは、自分という命が無条件に肯定的に扱われ慈しまれ、「生きることを支援されるシチュエーション」に本能的な喜びを発する心から来ている。
即ち、そういう気持ちがある限り、あなたは自分の命を生きることが大好きなわけだ。(社会から見た利用価値が高かろうが低かろうが)無条件に生きたがっている。生きることが無条件に大好きなので、それを無条件にサポートしてもらえるシチュエーションも好きなのだ。生きることが嫌いなら、生きることをサポートされても嬉しくない。
人間の生存本能は生きることが無条件に大好きなので、「生きることへのサポートに条件が付く世界(=社会にとっての利用価値が高いほど生きやすく、生への肯定感が高い)」が好きだとは限らない。
なので、人間の運勢の中でも「生存本能に由来する運勢」はその人の命を無条件にサポートするように動く。その人の外部評価がどれほど低くてもお構いなしだ。「条件が付く世界」に依存し支配されないためにもそうなってる。
あなたの生存本能は、無条件に自分の存在・自分の命を肯定する。ある意味で、無条件に世界一あなたを愛している。いついかなる時でも。例えあなたが凶悪犯になっても、評価されない人間になっても。

自分という存在が尊いものであることを認識・確認するために、外部から必要とされたり高く評価されるといった「客観的な証拠」を求める動機は、自分に対して客観的証拠を提示することで自分自身が「確かに私は尊いのだ。証拠もある」と納得し安心したいからかもしれない。いわば自己肯定のための理論武装。
それは結局、客観的証拠をもとに「私は尊いのだ」という主観的根拠(実感)を抱きたいからだ。
そう。自己肯定および自尊心(=私は尊い)というやつは、どんなに客観的な根拠や証拠を求めようと、最後は自分が「私は尊い」と感じることが出来るか出来ないかで決まるのだ。要するに、ソレは主観的な感覚なのだ。科学的にも物理的にも理論的にも証明しようの無いものなのだ。ある意味スピリチュアル。
「私という存在は尊い」・・・それは真実かウソか、それは正しいのか正しくないのか。誰にも判断や証明はできない。個人の主観(感覚)だから。ただ、多くの人が本能的に「自分は尊い(尊ばれたい)」と感じる主観を持つことから、「人権」という概念が生まれたようだ。以来、社会の秩序維持において人権の尊重は要になっている(いついかなる時も完璧に尊重できているとは言えないが)。

◆自己実現の力と本能
以前も何度か書いたが、無意識の底から本当に好きなことややりたいことがあると、それが実現するための様々な運勢(金運・仕事運・人脈・環境運含む)がインフラのように奥底から発動する。私はそれを何度も見てきた。
それは、自分の命を無条件に支援する本能由来のインフラだ。
人の運勢はどうもその人の無意識の奥底からやってくるものらしい。それは自己実現(又は個性化)をするとき発動する力の一種、本能の一種とでもいえばいいか。
私達の命にそのような力が備わっている意味を妄想してみた。私達の命の奥底に、もしも個性化や自己実現をしようとする本能があるとするならば、無意識のポケットにその本能と力を携えてこの世にやってきたとするならば、この世は、それを実現・実行することが可能な場なのかもしれない(でないと種族がその力と本能を身に着けたことにつじつまが合わない)。
そして、世間の価値観や固定観念に洗脳され縛られるうちにそれらのことを忘れ、その力と本能を封印しただけかもしれない。私たちは人生最初の自己実現と思しき『誕生』に際してその力と本能を発動させている。その時の事は忘れてるけれど。

本当は、「その力と本能」を使って生きることができるのかもしれない。私達は本来そういう生き物では?
企業や社会が自分を養うのではなく、自分の奥底にある「その力と本能」が発動して自分を養うのかもしれない。
その力の発動には、命の奥底にある自己実現本能の意を理解しそれに沿う必要がある。
その力、コンプレックスや世間体や植えつけられた観念などが原因で望んだ方向へは発動しない。自己実現本能とズレているからだ。それは本当の自己実現(本当の望み)ではない。

・・・とまれ妄想は別として、外部評価を得ること(ニセの望み)じゃなくて、本当の望みを探ってみる発想はあっていいと思う。そして好きなことやしてみたいことを探していくこと。それでお金を稼ぐかどうかに関係なく、例え些細なことでも己の本当の望みは知っといた方がいい。 それは命の望みだから。
外部評価に執着し囚われることなく自尊心(自己評価)や生きがいを見つけることと「本当の望み」を得ることとは、きっと対立しないと思う。

◆余談(妄想)
何の参考にもならないごく稀なケースだが、自分にとって利用価値の高い命になっていくことを選んだ結果、4年制大学を卒業したら占い師になってしまった者がいる。そいつは学生時代に人々を占うことで得た体験にかけがえの無い価値を見出し、「それを無駄にしたくない」と思えるほど愛してしまった。そして占い師になり、さらに体験を重ね、そんなろくでもない道を選んだ己の人生を愛してしまった。そんな奴は多分、常識的な一般社会の都合から見てほぼ利用価値が無い(=外部評価0)だろう。にもかかわらず、恥じらいも無くのうのうと今も元気に生きている。

そもそも「命」というものは社会が製造しているものではない以上、命は社会に属しているわけでも社会のために存在しているわけでもない。命は命自身の理由で存在し、命の世界(自然界)に属している。命がどうやって創造されるのか、何故体に宿るのかは、未だ誰も知らない。少なくとも、生命は生命の都合でその姿形やスペック(個性・仕様)を作るのであって、社会の都合ではないことは確かだ。その姿・形・仕様に社会が「利用価値が低い」と注文やクレームをつける筋合いは無い。自然界にクレームを入れるのと同じだ。
大事なのは、己のスペックを理解していって、それを己の人生に(己のために)生かせるか否か。己の命がそういうスペックで作られたのは、そのスペックを生かしたい理由が命自身の奥底にあってのことだ。
例えそのスペックが社会で役つモノではなかったとしても、自分のために用いることは出来る。どう用いるかは命自身の奥底が良く知っている。運勢の源が知っている。命は自分を幸せにする方法を知っている。
その方法は、おおよそ「外部評価に自己肯定や生命尊厳の根拠を依存したルールで生きること」とはかけ離れているだろう。

自我境界が未発達な国民性1←「就活うつ」からの切り口
「必要とされる」必要が無い
上手なニートの過ごし方?
人を社会に合わせる? 社会を人に合わせる?

2012年5月 8日 (火)

年齢と自信

若さを失ってもモテる秘訣

歳を重ねることは、経験を積むこと。それはとても素敵なことなのに、その人の魅力がそれと反比例して失っていくという考えは、上っ面しか見えていない証拠なので、なんとも残念です。そういった風潮があるため、30代以上になると自信を失う女性が少なくありません。

以下、占い師の視点から書いた個人の意見。 決して「子供おばさん」を貶すつもりはありません。むしろエールを送りたいです。

◆年齢で自信を失うのは子供おばさん?
記事は女性側の年齢による自信喪失を上っ面しか見ない男性達のせいにしてる印象だけど、そんな風潮に同調し支配され自信を失う女性達自体が上っ面しか見えていない証拠でもある。自分自身の上っ面しか見えていないってことでもある。だから、上っ面主義をふりかざして年増な己の自信を傷つける男達への恨みの半分は、上っ面主義に迎合して自らを傷つけた己に対する恨みでもあると思う。
上っ面な男達は、己を傷つけるための道具であり、傷つけた罪を着せるための道具か?

男女問わず、己の上っ面しか見えてないってことは自分のことがまだあまり分ってないということでもあるので、経験不足という点では子供に近いといえる。年齢を重ねることと経験を重ねることはイコールではない。
ある程度歳を経た大人になると、目に見える経験、目に見えない経験を含め、「どんな経験を積んできたか」がその人の個性になる。 今までの生き方(経験)が個性を作り、個性が生き方を作るのかもしれない。

ただ、それが他人から見て魅力的に映るかどうかは、「その人にとって利用価値があるかどうか」という基準での判断でしかないので、絶対的なものじゃない。他者からの評価てのは所詮そんなもので、評価者の主観によってコロコロ変わる。昨日と今日で変わっちゃうこともある。 とても自己評価の代用に出来るシロモノじゃない。
そんなものに脅迫的にすがってしまう風潮が日本人にはあるかもしれない。
モテたい心理の裏側は、特定の異性と恋し交流するチャンスを求める発想ではなく、「周囲から評価されたい」という発想とつながってる「子供おばさん(子供おじさん)」も多いのだろうか?

◆評価されることへの強迫観念?
日本の集合無意識下には「他者から評価されない=周囲に受け入れられない=村八分(まともに生きることが許されない)」というトラウマか何かが影響して作られた被害妄想でもあるんだろうか?
(仮に利用価値がないだけで村八分が起きるとしたら、村人を煽動し悪用できる立場の存在がいたということだ。それは村の有力者か、それを恐れる村人達の集合無意識下にある恐怖と不安と疑心暗鬼が作り出した実体のない精神プログラムかも)。
「自分の個性が他人から見て魅力があるかどうか(利用価値があるかどうか)」を自信の根拠にして一喜一憂すること自体が、ある意味では他者に依存しているとも言える。
精神的な他者依存は子供の心理の特徴でもある。「自分は無力で他者の庇護を必要とする=他者(周囲)に生殺与奪を握られている」という強迫観念が強いと、己の生命の尊厳(自尊心)と他者の評価を混同し同一視してしまうことがありうる。子供の本能にとって、 「愛されたい」は「生きたい」でもありそうだ。

これが大人になると、一方的な依存ではなく、助け合うとか、連携とかいった関係になっていく。恋愛も然り。若い頃は「かわいいと思われたい」という心理だったのが、徐々に「信頼しあいたい・尊重しあいたい・信頼と尊重の関係に感謝したい」に変化する人もいる。
大概大人になると外部に生殺与奪を握られているという強迫観念は徐々に薄れていくのだが、稀に子供の頃強い不安感を味わい、そのインパクトが無意識に響いてて自分がまだ子供の頃と同じぐらい無力でおびやかされていると勘違いの自己暗示がかかっているケースもある。
(子供から大人へと成長し徐々に生きる力を身につけていくことは、自分自身への愛情でもあるのだろう。強迫観念から己を救うことも出来る)

◆他者から見た利用価値 自分にとっての意義
個性は生命活動の証。他人にとって意義があるかじゃなくて、自分にとって意義があるか、が重要なわけで。(積んできた経験にも同じことが言える)
他人にとって利用価値がないこと(利用価値を失うこと)は恐れる必要がない。対人関係なら、利用価値の有無よりも、自分が迷惑を出してないか(害の有無)を脅迫的にならずスマートに考慮できるようなカッコイイ大人になりたい。 出来るだけ高潔で上品な感性を身につけ、そのように振舞えれば・・・

他者に個性的だと思われたいばかりに奇抜な格好をしたり、又は自分らしさを出すことにこだわりとらわれるのは、自分自身が自分を認めていない証かもしれない。その振る舞い方自体が自己否定を前提にしていて、本人が自己否定を抱えた証なのかもしれない。

「個性的と評価されるためには、自分を殺せ。自分の感性とは違うもっと派手で奇抜な格好をしなければ。私の無価値な感性(個性)なんかどうでもいい。私の個性なんてどうせ誰も評価しないんだから。私すら私の個性なんて評価しないんだから・・・」

評価を得るための自己否定。無理して奇抜に走る若い子達を見ると、そんな痛々しい心の声がたまに聞こえてくる。私の通ってた大学(別名変人大学)にもそういう子達がいた。
(変人大学、という世間のイメージを意識しすぎたためにその役割を背負おうとして押しつぶされたのか?)
キャンパスで占いの店を開いていた時、奇抜なファッションで闊歩し自信ありげで悩みなどなさそうな同年代の彼らの悩みを聞いて、そんな心の声を知った。
タロットカードを使って、目に見えない心の葛藤を、彼らと一緒に対話しながら探った。

そんな経験の積み重ね達が、今の私の個性を作っている。私の個性を構築している素材は、他人には利用価値も意義もない怪しく胡散臭いだけの経験かもしれないが、私にとっては充分に尊い宝物である。そんな宝物達を愛する気持ちが、己の個性や人生を愛おしくしく思わせるのかもしれない。

「宝の経験を得た」という現象には、人知を超える神がかった運の力を感じる。人間が意図して手に入る体験じゃない。そんな体験を積み重ねたせいで、私の個性はほぼ非科学的なモノで構成されている。
それはどう見てもモテやすい個性ではないが、別に後悔はしていない。
(中身は電波でも外見がよければモテる? 察してください)


「必要とされる」必要がない

2012年5月 6日 (日)

原発全停止とスーパームーンの魔力?

原発、42年ぶり稼働ゼロ

全国の原発で唯一稼働していた北海道電力の泊原発3号機(北海道泊村、91.2万キロワット)が5日深夜、定期検査のため発電を停止した。これにより、国内の原発50基は全て運転を停止し、原発の発電量は1970年以来42年ぶりにゼロとなった。

スーパームーンの夜、月に見守られながら日本の全ての原発が稼働停止完了。

原発(原子力技術)の原動力は冥王星の語源にもなったプルトニウムという金属。
プルトニウムの語源は冥界の王プルートー。 死の支配者だ。
原子力技術と言うのは、ある意味では死のシンボルになりえる分野かもしれない。奇しくも日本の全原発が止まったのは42年ぶり。42は伝統的な語呂合わせをすると「死に」だ

原子力技術を生みだすほど巨大に発達した文明の原動力は死の恐怖(経済なら餓死の恐怖)。私達はプルートーに依存し支配されて文明史をつむぎ生きてきたのかもしれない。死に依存する文明が発達すればするほど、それが生み出す「死」の規模も巨大に発達していった。

とある風水的オカルト視点だと、次世代文明の運気ポイントは東経135度付近だと言う。その経度を子午線に持つ日本の原発(旧文明のシンボル)が金環蝕(死と新生のシンボル)の日も稼働停止している。これは非常に意味深な暗示かもしれない。

また、古来より月は母性のシンボルといわれている。母性は「誕生(創造)と育成」を司り、死と対極のもの。
昨日、全原発の稼働停止完了を見守っていたスーパームーンはそんな性質を帯びた母性の光をいつもより多く地上に注いでくれていたのだ。母なるお月様からわが子を慈しむかのように一層沢山の光をもらった地球。とりわけ日本では、「こどもの日」が祝われていた。何とも縁起のいい偶然?

子供は、お母さんに沢山愛を注がれると不安や恐怖を手放すことが出来る。不安や恐怖が動機(原動力)になっていた行動は、とらなくなる。

【未来の皆さんへ】
今、日本の原発どうなってます?

男性的世界と地母神の再会1

2012年5月 4日 (金)

タヌキ

本日夕方、雨上がりの道を歩いてたら偶然見つけたタヌキ。ここらは昔山里だったせいか、ごくたまにタヌキが目撃される。
周囲に人がいなかったせいもあり、思わず「タヌキさん・・・? 君はタヌキさんだよね!?」などと口走ってしまった。すぐに逃げて行ってしまうかと思ったら茂みの下で一定の距離を保ちつつこちらをじっと見ているもんだから、是非とも撮影させていただいた(クリックで拡大)。めったに出来ないことなので、ラッキーな方だと思う。
夢辞典を見ると、タヌキは「(損得勘定ばかりせず)一見駄目な事に思えることも人の為にやってみると幸運が舞い込む」という意味があるらしい。
夢の中の話ではないが、どうせ逃げられて無理だと思った「タヌキの撮影」は見事実現した。人の為にやったわけじゃないけど。

Tanu

【追記】どうもこのタヌキ、疥癬症という名の病気になっているようだ。

2012年5月 2日 (水)

共同幻想から自己を取り戻せ?

今回の妄想は自民党の改憲草案から連想したものがきっかけ(個人的には支持率UPを狙った野党ならではのパフォーマンスだと思ってる。草案が全部実現したら本人達が一番驚きそうなw)。
以下、あくまで一個人の電波な妄想です。

「国というものが何だかよくわからない」 ・・・・・・・・・鳩山元首相

まず心理的な視点で見ると、「近代国家」と言う概念は人類史の中でも割と最近になって西洋で人工的に作り上げられた共同幻想の一種である。そして、近代国家維持のためだけに作り上げられた人工的な愛国心や「国家のために自ら命を捧げよう」という価値観もまた、武力(戦争)でのし上がり繁栄していく手法を選んだ帝国主義の西洋諸国が便宜上の都合で作り上げ国民に刷り込んだものだといわれている。
だからそれ以前には存在していなかった概念と価値観だ。国というものの形態が違うから。
(初めは封建時代育ちのメンバーしかいなかった明治政府は当初、愛国心教育に不可欠な国歌という概念を持っていなくて、フランスの外交部から指摘を受けて初めて慌てながら君が代を作った経緯がある。政府メンバー自体が一番最初は西洋で生まれた近代国家的な愛国心とはちょっと異なる独特の感性を持ってた可能性すらある)

◆国家の概念と投影の歴史
近代以前の封建的世界では、多くの人々が「おらが村・おらが町」という狭い世界観の中で生きていた。土地に対する愛着もその範囲(生命活動に直結する範囲)だ。郷土愛自体が己の生命活動(人生)に対する愛情の延長と考えていいか。 いわば、生存本能の投影である。
これが国王や領主に仕える武人や兵士なら「雇い主(主君)とその領土に栄光あれ」ていどの発想はあった。これは生存本能のほかに、信仰と関係がある。
封建時代の西洋は、いざと言う時部下に命を投げ捨てて貰うために、「神の事業」を主君へ投影させ、神の事業に仕えることを名誉(=自己実現)だと思わせることで生存本能をごまかし押し殺させていた。
だから国王の地位は教会(=神の代理人)が任命していた。そうすることで自動的に「国王に仕える者は神の事業に仕える者である」という認定手続き(=暗示)がなされる。

なお、「神」はユング心理学だと「一人ひとりに宿るセルフ(自我や顕在意識と無意識を合わせた精神世界全体とその中心的存在。時に自我や人知を超えた理想像になったり自己実現の象徴になったりする)を投影させて作り上げられたイメージ」が元ネタだとされている。「神」のイメージはセルフがモデルになったと言っていい。要はあれ、内面の投影ってことになる。西洋では「セルフ→神→雇い主(主君)とその国」という2重の投影図式が出来ているわけだ。
(この手法の日本版が『現人神』の概念、その概念は近代になると靖国神社や明治政府が戦没者をヤマトタケルになぞらえて供養する習慣を生んだ。ある意味近代日本は同時代の西洋よりも封建的) (スピリチュアル系ならセルフをハイアーセルフと呼ぶ人もいる。魂と呼ぶ人もいるかも)

で、近代に入ると科学や近代的自我が発達したせいで信仰や教会の力は以前より薄れてしまい、神を投影させることで暗示をしっかり刷り込むことが出来なくなってしまった。これからばんばん戦争してのし上がっていこうって時に、人々がこれからも都合よく動いてくれないんじゃ非常に不都合だ。じゃあどうやって人々を思い通りに動かすか。
そこで出てきたのが近代国家用の価値観を作って人々に刷り込むアイデア。
生存本能をごまかし押し殺させるための次なる方法は、「国家にセルフを投影させ同一視させること」だ。セルフと国家を一心同体にさせる、国旗や国歌は国家のご神体(=セルフのご神体)として神聖視させる。
生存本能を封じるために己の内面を投影・同化させると言う点では封建時代の手法を引き継いでるこの手法もまた、信仰の一種だ。

「国家=セルフ」。こう仕向ければ、人々は己のセルフ(自己実現の人生や自尊心を含む)を国家が代替してくれると無意識に思い込んで、代替してくれるもの(国家)を必死で守ろうとしてくれる。自尊心と自己実現への想いを愛国心にすり替えるのだ。 そうやってしかるべき価値観を刷り込む。
人々は「国家(セルフ)が死んでしまったらどうせ生きてたって仕方がないのだから、国家(セルフ)を守るために命を捧げよう」と思ってその通りに動いてくれるから、戦争するのにとても便利だ。
(でもこれ、ある意味矛盾してる。『自己実現の人生を守るために死ね』って言ってるようなもんだから。そのことに気付かせないためにも、国家のために命を捧げることと自己実現と混同・同一視させることがミソ)

◆国家にセルフを投影すると・・・?
人々は国家や指導者の成功や快挙を自分のことのように喜んでくれる(しばしば近代オリンピックの場でも自己実現を投影させる心理が見え隠れする)。国家にセルフという名の「素晴らしいもの・至上のもの」を投影・同一視 してるだけあって、国家が完全無欠の至高のもの、素晴らしいものに見える。欠点など見えない。見ようとしない。
その代わり、国家が失敗したり批判に晒されれば己の人格や人生が損なわれたかのように落ち込んだり、魂そのものを攻撃されているかのような強いストレスを感じたりする。政治的に意見の異なる人間を見ると己の人格を否定したり自己実現を邪魔する敵のように見えてしまったり、そのせいで自分から相手に攻撃を仕掛けてしまうことも。

人々はいわば、自分個人の独自性(個性)や人生、それが秘めた自己実現の可能性、それに対する愛情(自己愛・自尊心)といったもろもろを、全て人質にとられて封印・抑圧されたまま気付かずに手の上で転がされている状態だ。
(ほとんど自分の魂ともいえるそんな大事なものを人質にとられて気付かないまま縛られ支配されている様を、口の悪い人は『衆愚』とか『愚民』とか表現することもある)
・・・ここまで来るともはや立派な「自己否定」だと思う。
(奇しくも、ユング心理学のセルフは日本語で『自己』と訳されている)

セルフを無意識に投影・同一視したために悲劇が発生した例を挙げておこう。例えば敗戦時の日本。己のセルフを投影した昭和天皇によるまさかの玉音放送&人間宣言を聞いて落ち込んでしまった人が出たケース。
有名人なら三島由紀夫。彼は幼少期から抑圧されがちだった己の自己実現を日本国へ無意識に投影・同一視してきたために、戦後日本の急速な変化を見て「自分の自己実現を注ぐべきもの(日本)が勝手に本来の姿から変形させられていく、自分の自己実現が侵されていく」と勘違いしてしまった。彼が「盾の会」を結成して守りたかったのは、日本国ではなく投影・同一視によって人質になってしまった己の自己実現の方だろう。狂おしい日本への想いは、己の自己実現に対する想いだったのかもしれない)。
最近なら抑圧下のチベット。ダライ・ラマ法王に己のセルフを投影している信仰厚いチベット人達の一部が、進展しないチベット問題と亡命地で高齢化していく法王を見て、法王が祖国に帰還する希望(=己のセルフが正常に復帰する希望)が消えていくことに耐えられず焼身自殺してしまったケース。
(実はチベット、20世紀中ごろに中国が占領するまで封建社会だった)

また、セルフが人質にされて抑圧されていると、セルフの一部である自我の発達も抑圧されやすくなってしまうため、ちょっとした刺激で煽動されやすい。格段に洗脳もしやすい。最悪の場合、セルフを投影・同一視した別物(ニセモノ)を盲信し言いなりになる。その結果、国民性に合わせていろんなところにしわ寄せが出る。洗脳されて「意義ある忍耐」と「泣き寝入り」の区別がつかずに混同してしまっている国や、煽動されて「正義」と「弱いものいじめ」の区別がつかずに混同してしまっている国、テロと聖戦の区別がつかず混同してしまってる人・・・
そしてこんなところにも煽動されやすい人たちが・・・

戦時中だけではなく21世紀の今でも、自我が発達途中でまだ自尊心の不安定な若年層が、愛国心と自己実現・自尊心等を混同させられて簡単に感化されてしまう(そうやって過激派に勧誘され引っかかる)現象だってありうるかもしれない。

実を言うと、国民が国家や政党に自己実現を投影し代替させてる(人質化してる)時点で、その人達は「国のため・党のため」と言いながら実際は「自分の感情や欲求を満たすため(自己実現欲求を満たすため)」にしか動いていない。国家に尽くすと見せかけてるけど、本当は自分に尽くしたいだけだ。何故なら、人々が国家を通して見ているものは、自分自身の抑圧された自己実現だからだ。
「自己実現ために己を尽くしたい」。それ自体は誰もが本能的に持ちうるごく普通の心理であって何の問題もない。つまるところ国に自己実現を投影して生まれた愛国心は己の生命活動(人生)に対する愛情であり、国を愛する気持ちの正体は即ち「愛すべき生命活動(人生)を大切にしたい気持ち」の裏返しだ。人は皆、本能的に自己実現が大好きなのだろう。
だが、悪くするとその自己実現が抑圧されてて満たされないために、目先のエゴを自己中心的に満たすことで自己実現の代用(代替)にしようとしてしまうこともある(一種のカタルシス願望てやつだ)。

そういった背景と動機(あくまで自分の感情を満たすこと)に基づいて政治家や政党を応援したり何かに立候補する例は古今東西あるし、日本ならそのためにフリーチベット遊び・嫌韓遊び、放射脳的反原発活動をすることもあるし、一時の気まぐれな感情移入から被災地支援をすることもある。この手の活動は、目先の感情が満たされるか、本来の欲求が満たせないことに無意識が気付いてすぐ飽きちゃったりして割と早く頓挫するからすぐに下火になる。そこが普通の支援活動や社会運動とは違う点。
場合によっては、自己実現の代替手段(自己実現を国に投影し丸投げした大衆がエゴを満たすため)に世論が戦争を求めることさえあったわけだ。
(ローマ時代のコロッセオなんかもそういう目的で使われたことがあった気がする。パンとサーカスのサーカスの方ね)

◆人質の奪還と確保
「投影」という形で人々の内面を人質にとってしまえば、その分人々をコントロールしやすくなる。とても好都合だ。人々は、無意識に多くの個性や成長の可能性・人生の可能性を封印されたまま、「ロボット人間(ヒトラーの造語)」になっていくだろう。
とまれ、投影していたものが頓挫したからといって新たな投影先を外部に求めないこともカギだ(意識的にか無意識的にか、自民党の草案は投影先を外部に求めさせてる(セルフを人質にとる)発想なんだよな・・・セルフの外部投影先を求める人が多い国は、それだけセルフが抑圧されてて自己実現が抑圧されてる人が多い国だってことだ)。
外部に投影しちゃった(人質に取られちゃった)セルフは自分の内部にしっかり引き戻す(取り戻す)方がいい。
しっかり自分の心の中に取り戻した上で、心の中にいるかけがえの無いセルフというものを日々意識しておくといい。それは、精神世界において自我を上回る巨大な存在だ。そもそも、己の内面に存在しないものは外部に投影することさえ出来ない。

一人ひとりが己のセルフをしっかり心の中に保ってその居場所を見失うことなく(人質にさせることなく)共にあるとき、セルフは最大の力を発揮する。その時初めて代替ではない本当の自己実現が出来る(そういう運気も流れる)。そう出来る人が多ければ多いほど、その国は本当に開運し、幸福度(自己実現度)もUPする。
物理世界にあるたった一つの何かにセルフ(or神)を投影している状態を解除して、一人ひとりの中にあるセルフが皆力を発動させると言うことは、「封印を解除されたとんでもない数の神の力が発動する」ということでもある。たった一つの何かに投影してた(人質にとられて独占されていた)せいで力が抑圧(封印)されうまく発動できなかった状態から、「人数分のセルフの力」が発動できるようになる。とんでもない数のセルフ・・・とんでもない数の神・・・日本風に言うと八百万の神。
(例:人口600万のチベットなら単純計算で600万人分のセルフが力を発動させることに。そうなると、中枢メンバーがせいぜい数百人程度の独裁政権が敵う相手じゃなくなる)

発動したセルフ達の力は互いに自我(人知)を超えた視点で一体化した動きをして、集合無意識規模で「スタンドプレーから生まれるチームワーク(和)」を生み出す。結果的に、一人ひとりの自己実現が意図することなく集合無意識規模でいつの間にか社会規模の開運(社会自体が自己実現した状態)を形成する。
(多分これがカミカゼと呼ばれる幻想の元ネタ)

人類史見ると、国民のセルフをたった一つの何かに投影させ力ずくで支配・統制させて和に見せかけるやり方ばかりが目立つ。本当の和には、統制するリーダーすら要らない。
個人的には、セルフを外部に投影させようとする考え方や、セルフを外部に投影させなければ成立しえない物事(手法)は、基本的に信用してない。
そういう手法を利用する団体・組織も、信用してない。


【雑感】
人々の内面を投影させて人工的に作られた便宜上の共同幻想、近代国家。日本は半世紀以上前、その共同幻想を一度頓挫させている。鳩山元首相の「国というものが何だかよく分らない」というオモシロ発言は、今ふり返ると妙に深い何かを暗示しているように見えなくもないw

一度頓挫した「近代日本」が近代西洋よりも封建的だったということは、日本人は自分達の近代的自我を欧米ほど発達させてないってことでもある。「近代的自我」というツール自体が西洋人気質の得意分野であって日本人気質の得意分野じゃないというのもある(日本の政治が根回しをメインにしてて国会では批判合戦に終始し中身のある議論にならなかったり、日本人がディスカッション苦手なのはそのせい?)。
GHQのメンバーが日本で仕事した時「日本人は我々の10代前半レベルだなあ」と感じた話は印象的。今もあまり変わってないと思う。
10代前半の貴重な純粋さと柔軟性。日本人がそれを悪用したりされたりすることなく有効活用して成長できれば、相当スゴイ可能性が広がるんじゃなかろうか?


運勢の神業←極小な「カミカゼ」の一例
日本人の暴走と傷?

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