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2012年4月

2012年4月25日 (水)

太陽磁場の異変と金環食で妄想

今回はこのニュース記事から妄想を展開した。

約10年後に異常気象?太陽の“異変”観測

通常、太陽の磁場は南極と北極が同時に反転するが、北極がマイナスからプラスになっているのに南極がプラスのまま変わらない状況が確認されたという。この現象は、約170年前と約370年前に起きたとみられており、それぞれの約10年後には太陽の黒点の数が減って地球が寒冷化していたという。
磁場変動した太陽の模式図を見ると、赤道をはさんで1つずつのS極とN極が発生していることに。二つの南と北。近いうちに起きるとされる太陽磁場の4極化はまるで「双子」だ。 太陽磁場が前回「双子化」したとされるのは約170年前。前回金環食が江戸で見られたのは173年前。・・・時期が偶然の一致。 前回金環食が江戸で見えた173年前の日本を見てみよう。173年前の5月には蘭学者の大量逮捕事件「蛮社の獄」が発生している。幕府お抱えの伝統的な朱子学者一派と新分野として隆盛しつつあった蘭学者たちの対立(利権争い?)が背景だ。 蘭学と朱子学。西洋の学問と東洋の学問。どちらも得意な面と不得意な面を持つ。片方だけを選び片方を切り捨てたり痛めつけたりするのではなく、両者が適材適所で連携し、適性を発揮したり不得意面をカバーしあうことで対立するよりもはるかに多くの意義を生み出すことが出来ただろう。日本にとってもプラスになったはずだ。だが残念ながら、それは実現しなかった。「スタンドプレーから生まれるチームワーク(=和)」にはならなかった。 (それぞれの面を巧みに組み合わせて多面的に発展・成長していけたら・・・)

「蛮社の獄」は当時の日本で時代の潮流が変わり始めていたことを物語り、既に徳川幕府消滅と開国へ傾きつつあったことを示す初期の予兆とそれへの反発だ、と言う人もいる。この事件の3年後、即ち太陽が4極化した170年前、日本は無意識のうちに開国へ近づく方向へ方針転換をしている。
新要素を取り入れ変化を求める側と、新要素に反発し従来要素のみを良しとしてあくまで変化を拒む側。
一面性を維持するための対立か、多面的な統合と連携か。
「太陽磁場変化と金環食」という共通点のあるあの頃と今は、なんだか世相が持ってるテーマもどこかが似ている気がする。

日本の首都で5月22日に見られる金環食は双子座の始めで発生する。 これは占星術的・オカルト的に見て牡牛座的な性質のある「戦後日本」という歴史に双子座的な性質のある「震後日本」という歴史が加わっていくことを予兆しているように見えてしまった(妄想)。
日本の個性にさまざまな面が加わっていき、多面的な個性になっていく。今、日本に新たな面が加わり新たな歴史と運気をつむぎだす?

◆牡牛座と双子座
ここで牡牛座と双子座の特質(個性)をご紹介。
牡牛座は地の星座。保守的で堅実。忍耐強く安定性と持久力がある。信頼しやすい。物質的な分野に強く(ゆえに物質的に繁栄しやすく)、粘り強く着実に進むが、融通が利きかず即応力は低い。動きが鈍くどうしても腰が重い。守りに入りすぎたせいで己を縛り、必要な身動きさえとれず結果が裏目に出ることもある(原発対応における腰の重さなんてまさにそれ)。
牡牛座の特質が裏目に出た場合、双子座の視点から見ると、「融通が利かず頑固なだけで何もしない。問題解決能力のない鈍感のろまバカ」に見えちゃうかもしれない。 (あ、そういえば野田首相は牡牛座だ)
牡牛座と対応する体の部位は顎、首全体(耳鼻咽喉)、甲状腺。
甲状腺・・・首の上部に位置するここは牡牛座的な「戦後日本」にとって今やとても皮肉な「ネック」となった象徴的な部位。「甲状腺被爆」をご存知だろうか? 下手をすればこれから多くの人々に出うる症状だ。

双子座は風の星座。進歩的で気まま。好奇心旺盛でフットワークも軽く即応力は高い。情報分野に強く機敏で社交的なので誰とも・どことも広く友好な関係を築ける反面、裏目に出ると安定性が悪く衝動的で、ムダに動きすぎたり、手を広げすぎたり、余計なこと・無駄なことまでやっちゃったり、移り気で中途半端だったり。
双子座の特質が裏目に出た場合、牡牛座の視点で見ると「軽はずみで胡散臭くて信用できない。ろくなことをしないクセにムダに行動力がある分タチの悪いバカ」になっちゃう。
(双子座の裏目部分が世間の鳩山氏に対する評価と似てるw 民主党のロゴ双子化した太陽磁場の模式図となぜか似てるのは偶然?w)

双子座と対応する体の部位は肩、腕、手、自律神経。
どの部位もパソコンやネット・携帯のやりすぎでイカれやすい場所。良くも悪くも色んな意味でネットはまさに双子座的。 ネットに煽動されて衝動的に動いちゃう人々は双子座性質の暗黒面を体現してる?

牡牛座面と双子座面・・・新旧異なる要素が対立することなく連携し、どちらも犠牲にせず活かせれば、それは日本にとって「個性化」のひとつを担うものになるだろう。もちろんプラスになるし、お互いに欠点をカバーし合える。A→Bへの移り変わりではなく、AとBの統合。多面的な特性の獲得と活用。

大事なのはどんな時にどの面を使うか。適材適所で対立せず痛めつけずバランスのとれた統合と連携を司り実現できるのは、AやBよりも上位の広い視点。利権(目先のプラス)に惑わされず、「本当のプラス」を見抜く視点。「自分だけの利益」ではなく、「自分を含めた全体の利益」を見抜ける視点。 目先のプラスにしがみつかなくても楽に生きる方法が見抜ける視点。

その視点、ユング心理学の「個性化」で例えるならセルフの視点だ。古代日本人の発想で例えるなら「和(スタンドプレーから生まれるチームワーク)」というものを実現するために不可欠な神の視点。
そんな視点を持つ機能が、恐らく私たち一人ひとりの無意識の中に隠されている。無意識のそれらが集合無意識の中で連携を合わせると、古代人が憧れ想像した「神の力」が発動する。

双子座的な好奇心と社交性は、東征以来抑圧されたままだった日本の個性とも友好的に交信して抑圧から解放し連携していける可能性を秘めている気がする。
太陽磁場が多面的になりそうな今、太陽をトーテムとするこの国もまた、色んな意味で多面的になるテーマを迎えているのかもしれない?

とある東の国の物語2←例えばこれとか

2012年4月20日 (金)

ヨガとタロットの「戦車」

参照元より抜粋。

■ヨーガの意味と起源

ヨーガの起源をたどりますと、紀元前二千五百年程のインダス河流域のハラッパやモヘンジョダロなどの遺跡から、ヨーガの坐像の印形が出土していることから、その頃を起源としているようですが、実際に「ヨーガ」という言葉が宗教的用語として確認されているのは紀元前五百年前後のベーダンタの時代で「ヨーガ」とは「馬を車体につなぎ、その馬車をコントロールして、道をはずさず、人生の目的地へ行くこと」を意味していたのです。

カタ・ウパニシャッドでは 「真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちはもろもろの感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる」と述べています。こ のことから「ヨーガ」とは、馬を車に「つなぐ」(yuj) が語源であり、意味するところは「結ぶ」「コントロールをする」「バランスをとる」との 意味をもってきました。


この部分に目が釘付けになった。
真我(アートマン)を車主、肉体を車体、理性を御者、意志を手綱と心得よ。賢者たちはもろもろの感覚器官を馬と呼び、感覚の対象を道と呼ん でいる。

・・・これ、まるっきりタロットの「戦車」だ。インドのヨガとこんなにも照応してるとは!
真我(アートマン)はユング心理学でいえばセルフ。オカルト風にいえば魂。攻殻機動隊なら「ゴースト」。これが車のオーナー(車主)に相当。これが馬車(体)の中に宿って(乗って)いるから我々は生きている。体から魂が抜けると体は死ぬ。 ヨガの理論だと、我々の本体は体じゃなくて魂(アートマン)だ。

御者は理性、又はユング心理学でいう自我。御者(自我)はオーナーの意にあわせて手綱を操ることで、オーナーと連携して馬車を進ませる。
(御者は自我でもいいが、自我を含めた脳ミソと考えてもよさそうだ。御者が脳ミソなら手綱はさしずめ神経というところか)
御者の操る手綱の動き(意志)は、御者から生まれたものではない。自我が作った意志ではなく、魂から生まれたものだ。
自我のレベルを超えた、無意識のはるか奥深くからやってきた意志なのだ。
馬車の旅路(人生)は、決して自我の力だけで進められているものではない。魂(オーナー)があってこそ成立する。
馬が感じとる手綱の動きは即ち、魂の意志なのだ。自我の意志じゃない。
馬が感じ取って動き、車輪が回り、車体が動き、「道(現実)」が出来る。精神的か物理的かを問わず、現実の中で人生が進む。
魂の意志が手綱を伝い、馬がそれを感じて動いた結果、車輪が回り道が刻まれる。馬車の車輪(wheel)はタロットの「運命の輪」だ。Wheel of fortun。これが魂の意志にあわせて回る。魂の意志が車輪の動き(運勢)で作った現実。魂の意志で内容をデザインし作られた現実。これを(どちらかと言えばポジティブな意味で)運命と呼ぶ人もいる。シンクロニシティーを運命の一種と考える人もいる。

道。古代インドでは私たちが現実として認識しているモノは脳を含めた各種感覚器官が感じ取る情報(=感覚の対象・認識の対象)にすぎないという考え方がある。「道(現実)とは、馬が手綱に合わせて動いた(感覚器官が魂の意志に合わせて作動した)結果」という解釈だ。その場合、本来なら現実自体が魂の意志無しには作られないことになる。

だが、もしも「魂でないもの」が手綱をのっとり、馬に魂の意志とは異なる指令を伝えたら、馬は偽りの動きをして、偽りの現実が作られてしまう。私たちは偽りの世界に閉じ込められてしまう(これがマトリックスの元ネタ) 。

御者がオーナーの存在を認識できなくなったり、オーナーを無視したり、自分がオーナーに成り代わるなどして己の意志で好き勝手に手綱を操れば、馬と馬車は暴走・迷走し、本来の道を外れ(道に迷い)、人生は目的を見失う。自分(=魂)が本来何を望んでいたかを見失う。暴走する馬車の車輪は本来の魂的動きを失い、運気や運勢は不安定になる。
これはタロットなら「戦車」の逆位置になる。意味は無茶、暴走、挫折、不注意、独断、自分勝手、傍若無人、行き詰まり等。
即ち、「エゴイズム」だ(自我は英語でエゴ)。

実はタロットカード、御者だけで馬車のオーナーが描かれていないカードがとても多いのだ。手綱を操る者がオーナーを兼ねているとも言える。
最古のタロット、ヴィスコンティ・スフォルツァ版の戦車(画像)にはオーナーが描かれている作品もあるのに対し、19世紀に描かれて現在もっともポピュラーなタロットになってるウェイト版の戦車(画像)をはじめ、多くのタロットではオーナーが描かれてない。
・・・魂はどこへ行った? 御者がオーナーに成りすましてるんだとしたら、ギリシャ神話の「パエトーン」みたいなことになりかねない。
私たちは、御者という機能を持つ魂だ。車のオーナー(魂)が御者のあるじ(owner)なのだ。御者(自我)の機能は魂が馬車に乗った時点ではじめて作られるもの。自我と魂を混同・同一視すると、たちまち死の恐怖に囚われる。
脳(体)に宿る魂(ゴースト)があるからこそ、脳は動き感覚や自我が生まれ、それを使って人生を旅する。人生をつむぐ。

生きる目的や意味について悩む人々(道に悩む人々)は、御者の視点・視野で強引に考えたり解決しようとはせずに、己のオーナー(魂)と再会し、その視点・視野を乞い、それと連携しようとする発想が吉かも。道を知ってるのはオーナーだから。
(以前の記事で、『己の内面や心の動きを客観的によく観察したり己の心を探り自覚する作業』について書いたが、この作業はオーナーの視点・視野に少し近づき、より連携しやすい精神環境を作る効果があるのかも)

ヨガのポーズを色々やって馬を車につなぐだけで満足せず、御者とオーナーとのつながりと連携を意識し目指すことも大切なのだろう。
話によると、ヨガが生まれた少し後のインドでとあるセレブがそれにチャレンジしたらしいというが、もはや結果の真相は本人にしか分らない。


【余談】
手綱を持つ御者の様子からなんとなく運勢の様子(車輪の様子)を推測するのも占いと言えるだろう。魂の意志(本来の望み)に沿った運勢が作れるようにするための工夫や努力を「開運法」と呼んでもいい気がする。
このご時勢、「パエトーン」というと山岸涼子の作品を思い出す。 オーナー(魂)を無視して暴走した自我が作り上げた歴史と文明、その先端技術に開いた仇花(あだばな)・・・それが原子力技術とそれが生み出す結末の火花なわけか。去年福島でも咲いたな(遠い目)。

【注意】
なお、いろんな宗教で「エゴ(エゴの執着)を捨てなさい」と言って帰依を迫ったり洗脳したりお布施をせびるケースが多いが、その言動や発想自体がオーナーを無視してエゴイズムで生きている証だ。

人の器に宿りし金運←今の経済システムは御者がオーナーを無視して強引に金運(豊かさ)を作ってるようなものか。どおりで不安定なわけだ。

【追記】
かつてイエス・キリストが説いたという噂の「グノーシス(悟りの西洋版的なもの)を前提にした救い」。これがもしも今回書いたタロットの戦車(もといヨガ理論の馬車)で例えたような話と関わっていたら。即ち、「オーナーとのつながり(セルフとのつながり・セルフという存在)を忘れた御者 の操る迷走馬車が、オーナーを思い出して迷走から抜け出し、その人本来の命の旅路に復帰する」 ということを「救済」の前提としていたとしたら・・・
チリとNZで異端妄想

5月28日追記
もしかすると、戦車のカードから姿を消したオーナーは、「力」のカードでライオンを手なづけに行ったあの人かもしれない。
オーナーとのつながりと連携。それは、仏教で言う「弥勒」を引き起こす?
関連記事

2012年4月13日 (金)

もののけ姫を心理学的に妄想

『もののけ姫』のカヤはアシタカの妹!?

さて、その真相はというと……ズバリ……妹ではない! 公開当時、販売されていた『もののけ姫』のパンフレットには「アシタカの許嫁」と書かれており(中略)
ちなみに、カヤが渡した玉の小刀は『乙女が変わらぬ心の証に贈るもの』という設定。(中略)
アシタカは玉の小刀をもらったときに「私もだ。いつもカヤを想う」と甘い(?)返事をしておきながら、旅の途中に出会ったサン(=もののけ姫)に、サックリと小刀をあげてしまうのだ! 女性陣から大ブーイングが起こりそうなこの行動から「許嫁にもらったものを、ほかの女に簡単に渡せるわけがないからカヤは妹」と考えるファンもいる模様。しかし、あくまでも設定は「許嫁」。

以下、上の記事を読んで作った妄想。ここに登場する要素は全てアシタカという一人の主人公の中にある各側面。いわば、同一人物。「もののけ姫」は、アシタカの心の中で起きた物語。

カヤ・・・アシタカが呪いを受ける前、平穏な人生を生きていた頃に求めていたアニマ(心の中にいる理想の女性像。時に無自覚な個性の一部)
タタリ神・・・抑圧された(虐げられた)ことでアシタカ自身の無意識が発する本能的な怒りと悲鳴。呪いの源。抑圧の真相が分らないうちは八つ当たり的な暴走をしうる。
呪い・・・心が抑圧された(心理的抑圧を負った)ために発生する症状。
サン・・・呪いを受け、さまざまな体験をして人生を激変させた後のアシタカが求めるアニマ。彼の抑圧された個性。縄文的。
シシ神の森・・・サンというアニマが住んでいるアシタカの無意識世界。
森の住人達・・・アシタカの無意識世界にある個性や可能性。
シシ神・・・アシタカのセルフ(顕在意識と無意識を含めた精神世界全体の姿。精神世界全体を統括する中心的な存在)。森とそこに住む生き物と人間、という作品世界に登場する全要素を併せ持つ姿をしている。その本質は魂(=命そのもの)なので変幻自在にして不死。
エボシ御前・・・アシタカの心を抑圧する無自覚な因子を象徴するアニマ。近代的思考の持ち主。

カヤからもらったアニマと愛情のシンボルである小刀をサンに贈るということは、カヤというアニマがサンというアニマに「キャラデザ変更」されたような感じがする。
だが、アシタカはかつて求め惹かれていた「カヤ」というデザインのアニマを忘れない。それは、既に彼自身の一部なのだ。
サンもまた、彼の一部として「対立せず共に生きる」ことを誓った己の一部である。
アシタカは、既に「カヤ」という個性を統合し終え、次に「サン」という個性を統合することにしたわけだ。

愛情のシンボルである小刀は、統合のシンボルでもあるのだろう。そして「もとからアシタカのために作られていたもの」だった。
そういえば、作中でサンはアシタカの胸にあの小刀を思いっきりぶっ刺しているw そして刺されたアシタカがそのままサンを抱きしめるシーンにつながる。

とはいえ、彼女はまだ無意識界の住人である。ラストでも本格的な統合には至っていない。己が抑圧してきたものの存在をありのまま認め、しかしそれをおおっぴらには表に出せない。異なる場所で対立せずにできるだけ尊重しようとしている段階。異なる場所で「共に生きよう」だ。

もののけ姫から11年後の「ポニョ」では、主人公の宗介が海(やはり無意識のシンボル)の住人であるポニョのありのままを受け入れ、そして「同じ場所で共に生きる」ことを誓い、白昼堂々と口付けを交わす。
ここが「もののけ姫」の二人よりも進歩している。
宗介とポニョは、アシタカとサンが生まれ変わった来世の姿かもしれないw

作品の中で「虐げられていく森」は、近代思考(近代的意識)によって切り捨てられ、顧みられることなく抑圧され(虐げられ)ていく無意識の世界と、そこに潜んでいる個性や可能性のシンボルのようにも見える。
無意識を虐げそこに潜んでいる個性や可能性を抑圧する近代的思考はエボシ御前が象徴する。これが健康だった心の世界(森)を脅かし征服していく。彼女が頼り信じる「近代的思考に基づく価値観」を追求するための犠牲になって抑圧され(虐げられ)ていく森と住人たちは怒りと悲鳴を上げる。
森の住人と対立したエボシ御前が左腕(左は無意識の方角)を食いちぎられたのは、「無意識とのつながりを断ち切られた」という象徴か。近代思考を選んだ彼女は自ら無意識を切り捨てたのだ。そしてそれは、自らの半身を切り捨てたのと同じ。

アシタカが呪いを受けたのは右腕。左の無意識に対して右は顕在意識や自我の方角。不自然な生き方を突き進む近代思考に抑圧され虐げられていく無意識の怒りと悲鳴が顕在意識に神経症状として現れた様子が「呪い」という形で表現されている様子とも想像できる。
「呪い」を持った者が試みるべき救いの道は、「曇りなき眼で見定め、決める」ということ。即ち、抑圧を抱えた己の心と正直に向き合い、探り、心の中で起きている真実を見つけ、その上で今後の生き方を決めること。
その結果、サンに向けたラストの科白がその時出せたアシタカの精一杯の結論だろう。
この『救いの道』は、以前の記事で取り上げた依存症という症状を抜け出す時にも同じく使える道だ。即ちその願望やその不安がどこから来たのか、その抑圧された真実を曇りなき眼で見定め、解決策を決めるのだ。即ち、「ニセの不安や偽の願望(呪い)」に惑わされぬ曇りなき眼で己の心と正直に向き合い、願望や不安の原因となっている抑圧の正体を探り、真実を見つけ、適切な解決手段を決めること。


【ここは心理学というよりオカルト】
無意識を切り捨てたエボシ御前は無意識の奥深くにある「神秘」とのつながりを持っていない。彼女は「神殺し」と称して森の奥深くに住むシシ神を撃った。近代思考は己の本質が魂という「死なない生命」だとする認識と、それに基づく視野や発想を抑圧し否定してしまったのだ。それが「死の恐怖」という現象を引き起こす。タタリ神になってアシタカの村を襲った「ナゴの守」が死を恐れたという設定は意味深。ナゴの守もまた、もとはシシ神の森(=アシタカの無意識世界)の住人だ。彼は、「死に対する恐れ(銃弾がその象徴)」を植えつけられたことで自分自身の本来の姿(不死なる命の姿)を抑圧されてしまったためにその怒りと苦痛で祟り神になってしまったのだ。
(ナゴの守が植えつけられた不死性を抑圧=忘却した結果の『死の恐怖』は肉体の損傷に対して必要以上の余計な苦痛を増幅させてしまうのかもしれない。余計な恐怖が余計な苦痛を増幅させ、余計な苦痛は恐怖を増幅させる)

【蛇足の妄想】
アシタカの村は蝦夷がモデル。多分タタラ場のモデルは出雲だろう。
鎮西(九州)から来た人語を解するイノシシたちは熊襲や隼人達なのかもしれない。ボディペインティングが彼らの刺青っぽい。
(蝦夷は縄文系民族だといわれている。サンというアシタカのアニマが彼以上に縄文的なのは意味深?)

個人的なイメージだが、タタラ場を開きやがては「国崩し」という銃器を量産して己の国を築こうとしたエボシ御前はなんとなく卑弥呼っぽい。神秘の変わりに科学とモノづくりの力を駆使した卑弥呼。
(まあ彼女は『クシャナ』なんだけどね。共産革命起こしそうなクシャナw そしてジコ坊はクロトワw)

「もののけ姫はこうして生まれた」に収録されている宮崎駿の言葉が今となっては鳥肌モノなのでご紹介。

百億の人口がねぇ、二億になったって別に滅亡じゃないですからね。そういう意味だったら、世界中の野獣は、もう滅亡、絶滅していますよね(笑)。そうですよ。元は百匹いたのに、今は二匹しかいないなんて生きもの一杯いますからね。そういう目に、今度人類が遭うんでしょ、きっと。でもそれは滅亡と違いますね。僕等の運命ってのは、多分、チェルノブイリで、帰ってきた爺さんや婆さん達が、あそこでキノコ拾って食ったりね、その『汚染してるんだよ』って言いながら、やっぱり平気でジャガイモ食ってるようにして生きていくだんろうなっていうね…まぁ、その位のことしか言えないですよね。それでも結構楽しく生きようとするんじゃないかぁっていうね、どうも人間ってのは、その位のもんだぞって感じがね…

(´-`;)・・・チェルノブイリ、ね。 
今となっては、「強い火気」を発するタタラ場が原子力産業にみえてしょうがない。「国崩し」なんてまさに原子力兵器。それから、森(無意識)の主、シシ神に潰されたタタラ場と、海(やはり無意識のシンボル)に潰された福島のアレは、なんか似てる・・・
また、現代の「タタラ場」もやはり出雲の地に存在している。国産第一号の原発、島根原発だ。今年に入って全て停止中。

このヒトはポニョでも予言めいた描写をしてる。おそらく、アシタカとサンそして宗介とポニョの物語は、日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語。近代思考の象徴エボシ御前に傷つけられてタタリ神になったナゴがアシタカの右腕にかけた呪いを「近代思考に無意識世界が虐げられ抑圧された結果の神経症状」と解釈した場合、「ポニョ」がリリースされた当時に 宮崎氏が近代思考によって文明が成り立つ現代のことを「不安と神経症の時代」と表現していたのが意味深になってくる。

もしアシタカがサンというアニマと晴れて結ばれたなら、彼女を「わが妻」と呼ぶだろう。即ち吾妻(あづま)だ。東日本を示す古語の語源である。ここまで連想した時、 以前書いた記事を思い出した。「あづま」の語源は、ヤマトタケルの神話だっけ。神話の公式設定ではタケルの「吾妻」は自然の怒りを鎮めるための生贄になった。で、ジブリの公式設定だと生贄として森に投げ込まれた赤子がサンだ。

~日本の無意識に紡がれる今までとこれからの物語~
「様々な日本の神々や日本列島を生み出した夫婦神イザナギ(男)とイザナミ(女)は深く愛し合っていました。しかし出雲で製鉄産業(=軍需産業・東征の武力源)が興った頃、鍛冶と火を司る神を生んだ時にイザナミは火傷で死んでしまいました。死の恐怖を司る産業を生んだことで不死なる命(命本来の姿)を封じられたイザナミは死に、そして出雲にお墓が出来ました。
夫イザナギは亡くなった妻のイザナミが恋しくて妻に一目合おうと黄泉の国に出かけましたが、そこで全身にヘビがまとわりついたゾンビのような(タタリ神のような)本来の姿とはかけ離れた変わり果てたイザナミの姿を受け入れられず、怒り狂うイザナミから逃げ切り自ら縁を切ってしまいました。イザナギは「死の恐怖」が生まれたことと命本来の姿が失われたという事実から目を背けたのです。その事実はイザナミと共に地下へ封印されました。

そして数百年後、二人はヤマトタケル(東征のヒーロー)と弟橘姫(東日本の豪族の娘)として転生し結婚しましたが、二人で東征の旅に出かける途中、船が嵐に遭遇し弟橘姫は嵐を鎮めるために自ら生贄となり、二人は引き裂かれてしまいました。心に傷を負ったタケルはしばらく後に戦死しました。
引き裂かれた悲劇のヤマトタケルと弟橘姫(=イザナギとイザナミ)は、やがてアシタカとサンに生まれ変わりました。そこで二人は再会し、不滅なるシシ神の姿を見て命本来の姿を思い出し、お互いの愛を確認しつつも
人々の戦いが止むことはなく、晴れておおっぴらな関係にはなれませんでした。
さらに二人は現代に宗介とポニョとして転生し、そこで「命の水」が海に解き放たれたことによる大津波をきっかけに宗助はポニョの真実(イザナギがかつて目を背けイザナミと共に封印した事実)から目を背けず受け入れることを選びました。
そのことで二人は封じられた命本来の姿を取り戻し、ついに晴れておおっぴらな関係になれましたとさ」

・・・そんなシンボリックな妄想をした。


『崖の上のポニョ』とカタストロフィ

2012年4月 7日 (土)

富士山と滝を見に行った

誕生日旅行にて。富士山の麓であの暴風雨に遭遇。その日は屋内で過ごし、次の日はお散歩。とってもいい天気になりました。

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椿の古木と富士山 Tubaki_2   


Nanohana

 菜の花畑と富士山


Taki
音止めの滝


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