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2012年3月31日 (土)

依存の増える時代?

(オセロ中島事件からの連想その③)
※以下に書いたことは全て一個人の意見にすぎません。依存症については専門のカウンセラーさんなどにご相談してください。

◆依存が増える時代の特徴?
心理的な依存症。現代社会はそういうものが増えているという。じゃあそんな社会の特徴は何だろうと考えて思い浮かぶのは、ともすれば生き馬の目を抜くような激しい競争のある環境であったり、外部から入ってくる多くの情報に意識が干渉されすぎてしまったり、同調圧力や流行に縛られて常に周囲の様子を伺うような強迫観念に縛られていたりという特徴が目に付く。
その結果生じることは、自分の内面(内界)を顧みることなく置きざりにして(状況がそんな時間や余裕を許さず)、外の世界にばかり意識を向けすぎているというアンバランス。
何というか、社会が個人に対して「自分の内面をみる」という作業を後回しにさせてしまう感じだ。意識の焦点が外の世界に固定され縛り付けられている、とでも言えばいいのか?
(同調圧力に縛られ外の目を気にしすぎる国民性もアンバランスに影響?)

そういうアンバランスなライフスタイルを作る社会環境・文化環境が「自分の本当の心に気付かない」「本当の悩みに気付かない」という現象を作りやすくし、また「意識の焦点が外の世界にだけ偏りすぎたアンバランス」は己が内面を見ないせいで自覚することなく抑圧してきたさまざまな欲求や感情や「本当の悩み」を、無関係な外部の物事に投影・同一視させやすい。時にはそこを悪どいビジネスや悪質な勧誘に利用されている印象さえある。そして、そういうビジネスをしている本人達もまた、自分の内面を振り返ったり見つめたりすることはないのだろう(多分)。
時には彼ら自身もまた、抑圧された無自覚な何かによってそういう商売に駆り立てられ、依存し縛られてしまっているのかもしれない。

せわしなく、考え事やボーっとするヒマと余裕がない(それを与えない)情況は、自分の心を観察したり自分の心と対話する(自分の内面を顧みて己の心を自覚する)ための時間を与えない。心にアプローチすることが困難な環境だとも言える。そんな風潮や環境が現代社会や急激な情報過多の環境には潜んでいるのかもしれない。最近の人は考えことやボーっとするような「内省の暇」があるなら迷わずネットで「つぶやき」のチェックを優先する(自分の時間をそれに縛られ、奪われている)人も増えている。

◆心にアプローチする習慣?
では、現代とそれ以前を比べた時、日常で己の内面を見つめる頻度に違いがあるのかというと、多分あると思う。
昔の人は己の内面や心の動きを客観的によく観察してそれらを覚えおくこと、己の心を探り自覚するといった作業の良いきっかけになる文化に親しんでいたように見えるのだ。
例えば、「禅(座禅)」や禅の精神を取り入れた文化や、ブログのような公開型ではない自分のためだけの「秘密の日記」をつけることや、短歌や俳句を書くなど、自分が感じた心の動き、「もののあはれ」を折に触れて書き記す習慣。これらをやる時、己の内面を言葉で表現できるレベルになるまで冷静に分析し観察し把握する過程が必ず入る。こういう文化、他にも探せば数多く出てくるかも。
個人的に、徒然草や日記文学として知られているような作品、または優れた心理描写が人気の源氏物語のなどは、作者が普段から己の心の動きを非常によく観察した結果の産物であるように見える。紫式部の人生には、己の中でさまざまな恋愛感情や女心が浮かんでは消えくという体験があったはず。その内なるリアルな体験を華やかに表現した結果があの物語になったのだろう。そして徒然草や各種日記文学の作者たちは、あれを人目に触れる前提で書いたのだろうか? もとは個人の覚え書きや秘密の日記な気がする。徒然草なんか執筆後百年間は誰からも注目されてなかったらしい。

とまれ、そういった文化、現代ではあまり親しまれていないものも多い。むしろ欧米でリスペクトされることが多い印象。
ただ、最近は何故か座禅(プチ座禅?)に密かな人気が出ているらしいので、人々の無意識がそのような「心の文化・習慣」の復活を求め始めているかもしれない(そしてそこに付け込む依存ビジネスには要注意)。

娯楽の少ない環境の中、内面を見ることによって生まれる豊かな文化や作品の喜びに親しんでいた昔の人は、もしかすると「喜びというものは外部からではなく、己の内面によって内側からもたらされる」ことを知っていたかもしれない。それは、ともすれば「喜び」をつい己の外に探し求めてしまう現代人と大きく違うところのように見える。
それに対し、娯楽が沢山あって外から与えられる喜びに慣れた現代人は「内側からもたらされる喜び」さえも抑圧し、それをどこか無関係な場所に投影する現象さえ引き起こしていることさえあるかもしれない。
(外から与えられる喜びに慣れてしまうということは、ともすれば創造性が発揮される機会を減らしてしまうということにつながりうるのだろうか?)

喜びというものが外部からではなく己の内側からやってくるもの、内側に存在するものだとすれば、不安や依存心もまた、外部ではなく己の内側に存在するものだろう。何でもそうだが、それが己の内側に存在しなければ、それを何かに投影したり何かと同一視することさえ不可能だ。投影や同一視が起きたということは、それは確かに己の中に、誰よりも近い場所に存在している証だ。それゆえに「悩みを作るこの不安やこの感情は己の中のどんな背景から来たものか」という発想が役に立つ。

◆まとめ
外部に投影された内なる不安は、自分の正体が暴かれることを待っている。
喜びも、幸せも、様々な素敵なものも、安心感も、依存せずに生きる前向きな力も、本当は誰よりも近い場所にあって、それに気付いて抑圧を解かれる(封印が解かれる)のを待っているのかもしれない。
そのことに気付いて欲しくて、サインを送ろうとして、我々の無意識は「投影」や「同一視」という奇妙な現象を引き起こすのかもしれない。
だとすれば、私たちはそんな無意識のサインに気付いているか? そのサインを活用できているか?

・・・てなことを、昨夜福神漬けを食べたはずみで妄想してしまった。

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