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2011年12月

2011年12月26日 (月)

靖国の放火事件をオカルト視点で見る

靖国神社の門焦げる 放火か

靖国は明治神宮と並び、明治政府が近代日本の開運を意図して東京に作った風水結界の中心でもある。しかも靖国の結界は、かの有名な大怨霊、平将門を封じる結界の上に作られている。これは、国家や首都の霊的サポートを将門の怨霊ではなく政府のために戦って死んだ忠実な人々の霊力でやろうとしたからだという説がある(ある意味人柱)。
今回燃えた靖国の神門は1934年に台湾の風水的パワースポット阿里山から切り出された大木を使用して作られたもの。これで結界の力を強化していたという(一時期日本では阿里山の材木を神社に用いるのが流行した。明治神宮や伊勢神宮の鳥居も同じ山の材木が使われている)。
靖国神社という存在は社会的にも非常に複雑な立場にあるので、今までだって放火される可能性はあったし、神門は誰でも行けるから放火しようと思えばいくらでも出来てしまう場所にある。
にもかかわらず長い間神門が無事だったのは、結界の作り出す運気が機能していた(結界が機能していた)からだと話すオカルトマニアもいる。

で、今回はその結界が機能停止したという見方も出来る。その予兆はすでに今年の夏から出始めており、新橋、築地、靖国通り沿いなど、結界の主要ポイント地点で順番に火災が発生していた。そして今日、とうとう結界の中心にある靖国神社での火災。結界が現役で稼働してた時は空襲にすらひるまなかった神門がいとも簡単に放火された。
赤い線が明治の結界。青い線が将門の結界
震災以降、風水的には日本各地の龍脈(大地の気の流れ。その地域やその国の運気を司どる)が大きく変わってしまった。変わる前の龍脈に基づいて作られた日本中の古今東西の呪術が機能停止しているようにも見える。靖国もそういう流れかもしれない。
(今年猛威を振るった台風12号によって近畿にに作られていた都を守る☆型の結界も熊野本宮の被災によって機能停止。茨城の鹿島神宮も3.11で機能停止)
呪術停止の傾向は時代の変わり目を意味し、日本が古い時代の呪術を必要としていない(=新しい方法で開運していく)という意味でもある。
なので、靖国も同じ流れにあるとすれば、靖国の呪術的な役割はもはや時代が必要としていないという気もする(それ以外の役割、例えば歴史遺産的な役割は別として)。

靖国でそんな出来事が起きているのとほぼ同時期に、東海道新幹線の米原~羽島で突然の倒木による停電が起きた。停電した米原駅はその昔、伝説の英雄ヤマトタケルが伊吹山の神と戦って敗れた地域にとても近い(ヤマトタケルはその時の傷がもとで死亡)。
個人的には、これにちょっとシンクロニシティーを感じてしまった。
なぜなら、靖国には「無名のヤマトタケル」が沢山祀られているからだ。
明治政府は異郷の地で斃れた人間を東征の悲劇的ヒーローヤマトタケルになぞらえて供養することをやってきた(そういう由来で地方にヤマトタケルの像が建っている場所がいくつかある)。
どうも日本近代史の戦争は「東征の延長」という扱いだったらしい。
無名のヤマトタケル達がいる靖国での火災。ヤマトタケルが斃れていく舞台となった地域での停電・・・同時期に起きたのは偶然か必然か?
(靖国の呪術が役目を終えるとして、もし『彼ら』がそこで死後も長い間働いてきたとするならば、そろそろ次の世界へ旅立っていただいた方がいいのかもしれない)
昔は靖国に使う材木も運んでいた阿里山鉄道で今年起きた転覆事故と、今回起きた新幹線の停電が偶然にも同じ理由であることも意味深。どちらも、「突然の倒木」だ。特に阿里山鉄道は数奇な確率。
転覆事故に関してはこの記事の一番下にある『注』を参照

多分、龍脈の歪みを整体し続ける日本の(そして首都の)運気の流れはまた変化したのだろう。
一つの時代が終わりを迎える気配は多くの人が感じ取っていることだ。


太平洋戦争のベルセルク悲話
靖国放火と日本大使館火炎瓶事件に奇妙な偶然?←すごい意味深
ヤマトタケルの神話と2つの断層
日本の個性化

2011年12月25日 (日)

童貞のまま30代で死んだ男の誕生日

「Xmasデートは恥だと思え!」カップルだらけの渋谷で"非モテ"がデモ

「リア充は爆発しろ!」
「クリスマス商業主義に踊らされるな!」
「モテないからってバカにするな!」
「モテないことは悪いことではない!」
と、訴えるデモは渋谷を行き交う若い恋人たちの注目を集め、なかにはデモの主張に大笑いする人も。

 デモの様子を携帯電話で撮影している人たちに話を聞くと、「超格好いい!」、「面白いからいいんじゃないですか」、「ああいうクリスマスの楽しみ方もありかな」と好意的な意見が多かった。一方で、「なんかかわいそう」、「いたたまれない・・・」と、"非モテ"たちを不憫な目で見つめる人もいた。


↑時代が新しくなったと感じたw
実は、普段から恋人がいる人やガチでモテる人は、クリスマスにそれほどこだわってないことも多い(お水系は別として)。彼らは「キリストの誕生日」が恋人のために作られた日とは特に思ってない場合もあり、その日に限って特別なデートプランを必死に計画するとも限らない。
理由は簡単。そんなことするまでもなく普段から充分楽しんでいるからだ。普段から会いたいときに会ってよろしくやっている(恋人が二次元の人なんか尚更そうしやすいと思うのだが)。
「クリスマスは混むし割高だから街でのデートは避ける」「むしろ天皇誕生日の方が都合がいい」・・・そんな人も割といる。
二人の世界に日付なんて関係ないのだろう。

クリスマスというものに無闇に固執したり特別視したりプレッシャーを抱えやすいタイプはむしろ、恋人のいない人の方が多いんじゃないかな。あるいは、体面やプライドを保つためにくっついたにわかカップルか、「こうしないと恋人の気を引くことができない・愛を確かめ合うことができない」「クリスマスにどう過ごすかで今後の評価や展開が決まる」という狭い考え方にとらわれてしまった人か、流されやすく恋愛に不慣れな人か、バブル期の感覚がどこかに残ってる人、デートを「こなすべき儀式」のように考えてしまってる人が多いかも。
恋人とのクリスマスデートを鼻にかけ、心の内では密かに「お一人様」を嘲笑し優越感に浸っている人は、自分も恋愛に不慣れで本当はあまり自分に自信がなく、異性と交流する時余計な力が入ってしまっているタイプかもしれない。要するに、他人との比較による優越感を自尊心の代用にしてる時点でドングリの背比べだ。

・・・というわけで、「クリスマス非モテコンプレックス症候群」の患者さんたちは「クリスマスは恋人たちの特別な日」と狭量な思考で短絡的に決め付け、毎年の12月24日を「キリストの誕生日=性なる夜」というレッテルを貼ることで自ら己を惨めに貶めているといえる。 己を惨めにしているのはクリスマスでも周囲のリア充でもない。己自身なのだ。

例え自分がどんな人間であろうと、心の中でいつもそばにいてくれるアニマ(理想の女性像。本人の内部に隠された個性や意欲や可能性を象徴することが多い。昔は身近な生身の女性にアニマが投影されて恋が芽生えることも多かったが、近年では必ずしもそうとは限らない。例:アイドルやアニメキャラ)。
そんなアニマの存在を全否定し、己の視界から締め出し、彼女との対話を拒み、その上で「自分はなんて惨めで孤独なんだ」と自己憐憫に浸っている者達のなんと多いことか。

交流すべき相手、結ばれるべき相手は、アニマは、そこにいるじゃないか。
例えアイドルやアニメキャラの姿をしていても、ひとりひとりの心の中では独自の印象と個性を持つあの子が。己の心に潜む個性や可能性を象徴した姿を持って己を待ってるあの子が。自分にしか愛する事の出来ないあの子が。ふとした拍子にこっそり面白いイメージや空想を自分に思い浮かべさせることで心の奥から語り掛けてきてくれるあの子が。あの子を印象の似たアイドルやキャラクターに投影して恋焦がれているのは自分の魂の片割れ(=あの子)。
それが生身の恋よりも劣るというのなら、それは己のみならず、彼女を馬鹿にして貶めているのと同じだ。
彼女と語り合い触れ合い愛し合える唯一の人間が、そんな状態でいるべきなんだろうか?

粉砕すべきはクリスマスではなく、液晶画面でもなく、アニマと自分を隔てる殻かもしれない。
殻を破り彼女の手をとり、隠された彼女の秘密(=隠された己の秘密)を紐解けば・・・


↑夢の中で己のアニマと会った記憶がスガシカオにこの歌を作らせたのだろうか? などと空想してしまったw
この歌詞は意義深く生きられない己を卑下していた少年が、アニマと出会うことで隠された己の個性や可能性の存在を知り、それと共に生きる意義を知った物語のようにも聞こえる。日本のどこにでもいる地味で平凡な黒アゲハチョウを「誇らしい羽」と表現するのは、地味な有様の裏側で目には見えずとも自分にしか味わえず持ち得ない喜びを知って「僕らしい羽」を手に入れたからであるような・・・
その羽は地味だが、飛ぶ力が確かにある。大空で自分にしか見えず味わえない喜びに誘ってくれる。

とまれ、個人的には童貞のまま30代で死んだ男の誕生日が何故か「性なる夜」にされていたり、それに対して抗議するデモを届け出て受理される日本の自由さは嫌いじゃないw


本気で架空のキャラを愛する人々
「草食化」という本能?
見ているものはアニマか人間か
探し求める存在は、もしかすると・・・
人間を楽器に例えた恋の話

2011年12月19日 (月)

人の器に宿りし金運

※前書き(読み飛ばして結構)
これから書くことは、今までやってきた心の飢えが本当の飢えを招く NYデモが生んだ流れの行方? 飢えの恐怖に抑圧され犠牲になってたものといった一連の妄想に新たな展開が起きたので記録したもの。 今までの妄想では「(豊かさを)奪い合わずに手分けして生み出し行き渡らせる方法」の探求を物質的な目に見える世界の範囲内で考えてしまっていたところが私の(そして多分、ある種の理想主義者達の)限界だったと思う。「豊かさ」というものを、物質的に考えすぎていたのだ。それでは壁を越えられずに行き詰る。
しかし今回の妄想で壁を越えるメドが出てきたかもしれない。さらには「地母神(又は地母神に投影されていたもの)」の正体がなんとなくぼーっと見えてきたような気がしないでもない。

近年、惑星規模の大きな龍脈変動(=運気変動)が始まると共に、世界に流れていた金運(むしろ、豊かさを作る運といった方が正確)の様相も大きく変わっていくような印象を受ける。08年は四川大地震とリーマンショックという2大変動が起き、2010年はハイチとチリの大地震に欧州危機、今年は東日本大震災を始めとした各地の地震と記録的な円高(ドル安)・・・
そんな惑星規模な変動の影響によって(またはそれをチャンスにして)人間世界が集合無意識規模で豊かさの運の作り方を大きく変えていったとしてもおかしくは無いなとか考えてたら、相変わらず異常電波な妄想が浮かんだ。以前書いた妄想で言うところの「個性化の意欲を原動力にした文明」ともかかわってくるような妄想である。基本的に意味不明。

◆世界(の金運)を革命する力を
もし世界が運勢の作り方を大きく変えていくとしたら、これから向かおうとしている時代はいわばユング心理学で言うところの「個性化」の意欲がカギになる時代だったりするんだろうか。個性化の別名は自己実現。
実は、個性化の力というものは、本人の運勢を変えたり新たに作ったりできるほど強いパワーを持っている。(深い意識の視点から見た場合の)自分の幸せにぴったりなデザインをした自分だけの運勢を作る機能を備えているのだ。非常に自由で独自性の高い力である。
個々人レベルに備わった「魂の意欲」とも呼ばれる個性化の意欲が一人ひとりの運勢を作り出し、自分の(魂が)望む生き方に適した独自の豊かさや環境を作る運がインフラのように備わっていて、皆がそんな独自のインフラを活用できている世界 になっていったら。
一人ひとりが本来備わっている自分自身の運をフルに発揮して人生を営み、膨大な数のそれらが集まり反響・共鳴し、連携し合って世界の運勢に反映されていったら・・・などと考えると私が楽しい。
(『豊かさを奪い合わずに手分けして生み出し行き渡らせる方法』というのは、ここらへんにカギが隠れているのかもしれない。あくまで暫定的な仮説)

目先の欲や打算や不安やコンプレックスに基づく意欲(=本心ではなく、本心を抑圧した結果生まれるもの)ではなく、もっと深い所(魂?)から湧き起こる意欲や赴きに沿う生き方や行動を意識したり選んだりすると、それが実現出来るような運勢(金運など、豊かさを作る運含む)が個々人に合う形で供給される(無意識の深層にある魂によって創造される) 。
もしそんなふうになって行った場合、シンクロニシティが今までより格段にあちこちで増える可能性もある。

そんなふうに運勢のあり方自体が根本的に変わった場合、最近噂される経済システムの崩壊どころか、人類が歴史的に抱いてきた「豊かさを作る運勢」のあり方(作られ方)全般が地球規模でガラッと変わっていくことすらありうるだろう。
もしやその流れはすでに08年のリーマンショックで浮上し始め、ユーロ危機もそれを象徴しているような出来事なのだろうか。 ・・・なんて考えることもある。
人類が豊かさを作る運の作り方(作られ方)自体を変えてしまえば、今まで稼動してきた「古い豊かさの作り方」に基づくシステムが稼動停止していくことも不自然ではないのかも。

◆カゴと鳥は運命共同体
しかし今までの時代に生きる人々は、自分の魂が作る独自の運を存分に活かさず、むしろその存在を忘れて抑圧したまま(ある意味己の運勢活用を放棄したまま)、 国家や銀行や企業の金運(=他人の金運)に頼って生きている傾向にあった気もする。自分の運勢を封印する代わりに大企業や国家の運勢に養ってもらってたのだ。
要するに依存対象にした存在の運勢と運命共同体だったわけだ。 「自分の金運を金や株の発行者(他人)に支配される状態」でもある。運を自分のために自由に動かせない。「依存する」とは、それに縛られ支配され振り回されるということと表裏一体、イコールだ。
それは「籠のなかの鳥」に見えることさえある。自分よりも強い金運を持つように見える国家や巨大組織に運を依存する(代替してもらう)ことで得られると思っていた安全性(=加護)は、時と場合により、「己(の運勢)を閉じ込める籠」になってしまうことだってあるのかもしれない。「加護は籠」・・・ちょっと言ってみたかったダジャレ。

弱肉強食(の発想)が支配する世界では一人一人の「命の金運」が無意識下に抑圧されてうまく発揮できなくて仕方なく代わりに変な方法をとるケースが目立つ。例えば戦いに勝って誰かの金運を支配・所有することで支配した金運に自分の金運を上乗せさせる(=自分の金運だけでは強さを保てない)か、自分より強いものの傘下に入ることで強いもの(巨大なもの)の運に依存する。どちらも依存したがゆえに縛られ支配されやすい。弱肉強食世界の「強さ(力・パワー)」は、運を作り出す魂の力(能力)とは全く次元が違う。全く別物だ。即ち、本来頼るべき力とは全く別物の力に依存し支配されている印象。
本当の意味で自分を養えるのは、自分の命が生み出した独自の運勢だけなのかもしれない。それは、世界でたった一人、自分にしか扱えない唯一無二のもの。
自分の運を使えば、自分にしかできないことが沢山あるはずだ。

とりま、己を閉じ込める鳥籠を作ったのは、籠に依存していた鳥自身なのだろう。「自分達の創ったものにいつの間にか支配され縛られてしまう」というのはよくあるパターンだ。己の運を封印し、外部のもの(籠)で代替させしまえば支配され振り回され、籠の運気が変われば共倒れすることはリーマンショックの時に嫌と言うほど見せ付けられたような気がしないでもない。 「依存する」ということは時に「己の力を封じること」でもある。
まるで鳥達が自らその翼を封印し、自前の翼で飛べることを忘れて旅客機に翼の代わりを依存してるみたいだ。チケット代に頭を悩ませ、大空に上がっても風を感じ取れない無粋な鉄のカゴに閉じ込められ、時々皆で墜落してる。自分専用の翼があるにも関わらず、落ちてゆく機体から飛び出すのを怖がっている。

カゴの中の鳥が外へ出る時は、己の翼に気づいた時。後ろの正面に翼あり。


【余談】
以前何度も取り上げた「飢えの恐怖(従来文明の原動力?)」の背景の中には、人々が「己の豊かさの運」から目を背け忘れ去ってしまったことや、それゆえに己の運勢活用を放棄し、その可能性を抑圧し、己の豊かさの運を満足に使えなくしてしまったことが関わっているかもしれない。自らの運を自ら抑圧したために飢えやすくなり、その飢えに対して運の抑圧を解かないまま力づく(奪い合い)で解決するように追い詰められていったことが関わっているかもしれない。 (運勢発動の要になる個性化の力を歴史が進むにつれ人々が自ら無視し封じていった可能性もある)。己の豊かさの運・・・古代人はそれを地母神のモデルにしたかもしれない。

◆お札とおフダ
実を言うと、呪術的に見た場合、「通貨・貨幣」といったものは人々の魂が作った独自の豊かさ運の「依り代(よりしろ。オカルト分野では呪術や運勢の力を物理的に作用させたり現象化させる際に用いる器。力の媒体。東洋ではおフダの形をしているものも多い)」でしかない。しかも、貨幣発行者の運気が混入しているので、貨幣を持ってさえいればどんな時でも100%自分だけの運を反映してくれるとは限らない。
世界中で流通している偉い人と数字が印刷された紙幣。人々がとても大事に持っているアレは、つまるところただのお札(おフダ)であって己の豊かさや金運本体ではないということだ。あくまで金運の媒介物。
(これは紙幣・貨幣だけじゃなく債券や株券、投機商品、不動産などにも同じことが言える)
人間は自分の(魂が)望む独自の生き方に適した独自の豊かさの運がインフラのように備わっていて、それが発動したとき、その力を媒介する便宜上の器(媒体)としてたまたま貨幣(給料)やら株券やら債権といった「おフダ」を一時的に使うことがあるというだけ。そういうおフダ型の媒介器を使わないケースもある。いわば、自分に豊かさをもたらすものはカネ(おフダ)ではなく、「その豊かさをもたらす己の運勢」であるという発想。媒体なしで直接自分自身の持つ豊かさの運(インフラ)とつながっている感覚があるといい。

と、いうことは、万一何らかの理由でおフダ(便宜上の媒介)は死んでも本人の豊かさ自体は死なないから、自分の金運を封じずにしっかり使っている人は引き続きこっちの世界に運を降ろす(再生・新生する)ことが出来る(自分の金運を封じてしまうと再生力も封じてしまう)。その場合、豊かさの器(媒介)自体はその人の運が事情に合わせてその都度臨機応変に適したものを選ぶ。器は貨幣や株・債券といった「おフダ」だけではなく、モノや仕事であったり、情報や縁であったり、はたまたアクシデントということさえある。どういう形で(何を媒介して)豊かさが降りるか(豊かさの運が発動・現象化するか)は、その人の無意識がどんな生き方を望んでいるか、そしてそれに合わせてどんな金運(豊かさ運)を作っているかに合わせて決まる。大事なのは生き方。

もしかすると、私たちは貨幣(おフダ)よりも目に見えぬ自分の運の方をこそ意識した方がいいのかもしれない。豊かさを媒介するおフダは人の手で創れるが、豊かさの本質である己の魂が紡いだ運は人の手で創ることができないからだ。そしてそんな大事なものを封印し、代わりに他人の金運に依存し支配されるべきではない。自分だけの命の金運は、封じることなく自らの無意識の奥底から運用すべし。心の奥底から望む生き方を実行すべし。

人々の魂が作る金運(豊かさ運)を発動させる際の便宜的な媒介物の一種にすぎないものを唯一絶対の命綱であるように思い込ませ依存させれば、その媒介物を支配・掌握すれば、人々の魂が作った独自の豊かさ運の自由を奪い支配し思い通りにコントロールできる(人の生き方を支配・コントロールできる)と考えた発行者がいるかもしれないが、皆が自分の金運(豊かさ運)が持つ自由な独自性を封印したままおフダの発行者に金運を委ねて依存してしまうからこそ、そのおフダの発行者は力を増長させるのだ。自分よりも力の強い者に頼りたい心理を持つ人は多いが、裏を返せば皆が依存するからそれをかさに着て強くなっているだけで、、一度思い込みが解けてしまえば皆が己の金運を自立させ依存しなくなってあっという間に増長した力を失うのだ。

呪術的に見れば、貨幣・紙幣(債券・株券)は「特別なところだけが発行できる特別なおフダ」ってところか。だが、現在世界で流通している「特別なおフダ」だけが一人ひとりの豊かさを創り司る唯一のものだとか、ましてや自分の命が創る金運と同一視などすべきではない(それは依存と支配につながる)。
日本に住んでる場合、「日本銀行券」というおフダが時々、「俺達が作ったおフダ(器)だけしかお前の豊かさ運は降ろせないぞ」とささやくかもしれないが、それは幻聴だ。先述のとおり依り代というのはあくまで便宜上の媒介ツールでしかなく、ツール(器)だけならどんな形のものを使っても自由だ(金だけじゃなく情報や人脈や偶然の出来事等が豊かさを降ろす器になることだってある)。いつも同じ媒介ツールが必要とも限らない。もっと柔軟で自由な発想が吉。

おフダ発行者の金運の上に持ち主の運を便乗(投影・代替)させる形で機能する現代のおフダは、発行者の信用がコケるとその上に乗っていた持ち主の運は一時的に器を失うので、本人の運が物理的な世界に戻ってくるには別の依り代を使う必要が出てくるが、「普通」であれば運は勝手にそれなりの依り代(必ずしもおフダじゃない)を調達して持ち主のもとへ戻ってくれる。その人の魂がつむぐ独自の運は、その人の魂がつむぐ人生に合わせて独自に動ける。おフダの力で生きるのではなく、自分が持つ独自の運の力で生きる感じ。頼るべきはおフダや発行者の運ではなく、己の運。
(だが地球の人類史は『普通』じゃない。独自の運は忘れられ、生かされずに眠っていることが多い。これが魂の豊かさの封印だ)

しかし、先に書いたような背景からおフダに便乗していた己の運とおフダの発行者の運を同一視してしまっていたり、特定の依り代と己の運(豊かさ本体)を混同してしまっていると(己に宿る豊かさの運とその独自性を否定していると)、万一それらがコケた時は自分の運が死んでしまったと勘違いしてしまい、それがせっかく存在している自分独自の運に気づけなかったりする(それで運を活用できなかったりしたらもったいなさ過ぎる)。
個人的には、人間が独自に持つ「己の豊かさを作る運」というものを無視したり抑圧したりする傾向、しかも抑圧したものを外部の便宜上の器に代替させて依存した末、器に縛られ支配される傾向にあることが運の機能を動かす上で障害になってきたような気がする。とても長い間、世界中の多くの人々の豊かさの運が「普通」の働きを縛られてきたような・・・
(それは、ひとりひとりの中に住んで豊かさを生み出してくれる個人規模の地母神を自ら封印しているようなもの?)
「もともと自分に金運がないから大企業(の株券)に縋ってもうまくいかないのだ」ではなく、自分の金運を生かすことなく(自分の金運を生かすのにふさわしい生き方を選ばず)大企業に依存したからうまくいかないのだと考えた方がいい。

人に豊かさをもたらすものは器じゃない。「器に豊かさを注ぐ者(本人)」が創る。にもかかわらず、人は中身を見ずに器だけを追い求め、自分の魂が豊かさ(中身)を創り注いでいることを忘れ、器や器の支配者に己の豊かさを支配され左右される。肝心なのは、本人が創り注いだ器の中身だ。
故に、器と豊かさは運命共同体ではない。器は壊れても中身は死なない。

◆お札は死すとも運は死せず
「お札」は豊かさの寄り代でしかないとすれば、豊かさ自体(本体)から目を背けて「お札」だけを盲目的にありがたがるのはまさに拝金主義(=おフダの発行者に支配されてる証)。 「お札(貨幣)」のパワー(権威)は結局幻で、本当に力があるのは人々の命に備わった豊かさを生み出す力の方だ。
(大事なことなのでしつこく言いました)
魂が創るアレは人の手で創れないのと同様に、殺すことも出来ない。せいぜい独自の働きを押し殺し抑圧できるだけだ。本人が心の底から気付けばいつだって自由を取り戻す。封印は解ける。

ここでさらに妄想が暴走。
「豊かさを生み出す力」が降りければ、そのおフダは数がいくらあっても効力はない。力を媒介しないからだ。
ならば、もしも何らかの理由で依り代たるおフダにその力が降りなくなれば、いくらおフダを集め取引しても、「力」無き抜け殻のおフダで豊かさの運はUPしない。
そして、もしも不滅なその「力」が、今まで世界で使われてきた諸々の権威ある支配的な依り代(=おフダ)に降りることを拒み、もっと別の自由な形で活かされることを求め始めたとしたら? しかも、個人単位ではなく、集合無意識規模でそれが起きたら? それが力の持ち主である人々に宿った命の、深遠なる奥底から沸き起こる意志だとしたら・・・
世界中で権威あるおフダが抜け殻になりはじめ、その結果経済に世界規模の経済運低迷が起きるのだとしたら、そのことは即ちカネ(とその発行者の運)に囚われた己の豊かさを作る運の自由(=無意識が望む生き方をする自由)を取り戻そうとする私達の奥底が望・・・げふげふ

今年は災害や世界的経済不安などで数多くの財産が失われ、企業の経済的損失も大きい年になった。日本には震災で家財を失い苦しむ人々が大勢いる。
しかし、失われたのは、豊かさを降ろすための器(依り代)だけであって、自分に秘められた本質的な豊かさを生み出す力(いわば個人レベルの地母神の力)は失われていない。器が死んだからといって己の運まで死んだとまで悲観する必要はないような・・・
器は死んでも豊かさは死なない。器の力をアテにするのではなく、「自分独自の金運」という意識を強く持っていれば、運はどんな形になるにしろ、めぐりめぐって必ず降りてくる。あれは持ち主(と、その事情)に合わせた形の依り代(器)に入って降りてくる。そのときは多分、特定の器に縛られ支配されている心では無く、今までよりももっと自由な心で降りてきた独自の運(=魂の贈り物)を活用するのが吉。
「0の状態」は、ある意味では心の奥底から望む生き方をスタートさせる(そのための独自の運を魂が発動させる)チャンスにさえなりうる。

今の時代に必要なことは、過激な反格差デモよりむしろ、魂の作りし己の運が自由を取り戻すこと(縛られた魂の動きを自由に解放すること)なのかもしれない。無意識に封印されたアレが「個性化の力」として本気を出せば、豊かさのツールを限定されず、適宜絶妙に使って自分の幸せにぴったりの運勢を繰り広げるだろう。
例え財産や職場や地位を失ったとしても、自分の運(豊かさの機能)を「既に死んだもの」と思い込んで目を背け、意識の中から抹殺し封印してしまってはいけない。あれは死なない。
(そして、心の奥底が真に望む方法でしか機能しない)
これから人間界の経済がどういう展開になっていくとしても、そのことを心の隅っこに留めておきたい。

2011.12.30追記
ユーロ、100円割れ 10年半ぶり安値水準←おフダから豊かさの運が脱走? 例えこの先どこのおフダが抜け殻になろうとも、人類の持つ豊かさの運は死なない。私たちはそのおフダが生まれる前から生きていた。本当に欲しいのはおフダ(器)じゃなく、豊かさ(中身)だ。そんな一人一人の個性的な豊かさ(運勢)を生み出す力を、心の奥底に封じられた地母神は持っている。

ヨガとタロットの「戦車」←この話で例えるなら、今の経済システムは御者が車のオーナーを無視して強引に豊かさを作ろうとしてるようなもの。

2012年7月17日追記
「英中銀の指示だった」 金利不正操作 大手銀元幹部が証言
もしコレが本当なら、人々の金運(魂がつむぎし豊かさの運)を金(おフダ)の発行者が支配していた証か。いわば、日銀がインチキしてたようなもの・・・

2013年10月15日追記
そろそろアメリカの金運に依存することから卒業していく時期にあるのかもしれない。大国の金運は一見頼もしげで誰よりも優れて見えるけれど、自分の人生には自分独自の金運を使った方がなにかとうまくいきやすい気がする。


お金(おフダ)が人を支配するんじゃない。人が作った「お金」という暗示に人が支配されて魂の力が縛られてるんだ。
(最後に救い出された彼女は、やがて地母神になるかもしれない)

魂の環境インフラ

2011年12月 6日 (火)

鈴木宗男氏占ってみた

鈴木宗男前議員:今後の政治活動に意欲…仮釈放後会見

↓宗男氏収監時に作ってみた動画

国後、足寄、北海道東部~南部といった彼と縁のある地域の龍脈は、カムチャツカ~北海道~日本海溝を通る海溝龍脈(震災の震源もここにある)に起因して生まれたものだ。この龍脈エリアに震災後たまに揺れる浦河も入っている。
彼のホームグラウンドの龍脈も震災後には変動しているはず。それが彼の運気にはどのように影響するか・・・

2011年12月 3日 (土)

古い時代が作った恋の強迫観念?

※以下はある事例に対する個人的な印象を断片的に述べたものです。全ての人に当てはめて語られたものではありません。

あなたは大丈夫? 男性が幻滅した「女を捨てていると感じた瞬間」
↑占いのお客様の中にもいわゆる「女捨ててる」と見なされそうなタイプはおられるけど、この記事を見ても素で「(一般的な礼儀作法は別として)自分の性別を意識するかどうかは人の勝手だ」と思った自分がいる。
文体が妙に強迫観念めいた記事になってるのは、モテたい人を対象にしたメディアの記事だからか。まあモテたいならある程度気を使うだろうけど。

今は「干物女」などという単語も生まれるほど恋を意識しない生き方する女性が増えてきた。 背景の一つとしては、普段から常に「女」であろうと意識して生きることへのメリットが低下してる時代になったからかと妄想した。
自分の性別をとりたてて意識するかしないかは、かなり社会的な影響が強い気もする。
今はとっくに恋や結婚が物理的な生存戦略になりえた時代じゃない。 女を意識するメリットが低ければ意識する人数も減るのかも。

モテることがさほど生存戦略を有利にする時代じゃないってことは、モテない(モテようとしない)ことに生き残れない不安や惨めさを投影・同一視しなくていいってことでもある。「女捨ててる」とされるライフスタイルに対して「人生を放棄する自殺行為」なんて思わなくてもいいということでもある。
投影・同一視ゆえの強迫観念に突き動かされて、それだけのためにモテようとする(相手は強迫観念解消のためだけの道具)必要はないかも。
(何も既に終わった古い時代の発想に縛られなくていい)

誰か好きな人がいる場合とかは別にして、単に不安を解消するためだけのモテ努力(婚活含む)は目的意識が本質的にズレているからモチベーションを保ちにくい。
(これだと本来望んだ努力ではない。本当の望みは己を縛る思い込みの不安を抜け出すことなわけで)
方向性や目的意識がズレた努力は、力尽きると反動で逆方向に針が振れることがある。一種のリバウンドだ。

学生時代の頃から、今までバリバリに女を意識して努力してた人が急激にシンプル化(今で言えば干物化?)していったり極度に女を捨てた状態へと変化したケースを何度か見たが、そのうちの何割かは自分の本心を理解しないまま目的意識のズレによるリバウンドを起こしてる人だったりした(全員がそうだというコトではなく)。

人間の無意識奥深くには、自分の幸せにぴったりなデザインをした自分だけの運勢を作る機能がある。それはまるで、自分のために洗練されたデザインで作り上げられた最高品質のオートクチュールみたいなイメージ。 たった一人のその人のために、無意識の非常に深い所が愛情をこめて作り上げた、本人だけが心地よく着こなせる世界でたった一つのもの。
人間はその機能を眠らせたまま表層意識だけで時代や歴史や恋(あるいは人生)を紡いでいく傾向が大きかった。
今もその機能が眠ったままの人は多い。表層の目的意識と本心がズレていて気づかないままでもその機能は起動できないことがある。眠った状態を少しでも目覚めさせたくて、無意識の視点から見た自分の本当の幸せを理解したくて、ズレ(歪み)を少しでも減らしたくて、人間は色んな開運法や哲学を考案してきたのかも 。

今までは眠ったままのチカラ。自分だけが本当に着こなすことのできる封印された幻のオートクチュール。
これからはどうかな?

自分の望みを正確に理解するのも一つのカギになる。

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