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2011年7月12日 (火)

日本の「個性化」

三省堂 大辞林より、「個性化」について:

こせい-か ―くわ 0 【個性化】
精神分析学者ユングの用語。個人に内在する可能性を実現し、人格を完成していくこと。個体化。

◆個性の抑圧と自己否定
東征時代から現代まで続いた運気と運勢によって作り上げられた日本の姿。それは、日本の持つ個性のホンの一部に過ぎない。けれども私達は恐らく、その一部しかまだ知らない。その一部をもって「日本とはこういうもの」と思い込んでいるような気がする。
私達の知っている「日本」という世界は、古代当時に日本列島にいたホンの一部の有力な勢力(大和朝廷と『ひのもとの国』を作った人々)が彼らの視点と都合と価値観に基づいて形作りまとめ上げた、一面的な狭い世界でしかないのだろう。 「大和」という一地方の地名が国名として使われたことにその片鱗をうかがい知れる。
個性のホンの一部と、その部分だけで作られた一面的な狭い世界・・・残りの個性は、世界を広くさせる素材は、大昔に抑圧し、押し殺されてしまったまま。それらを「不都合なもの・劣った無価値なもの・国造りには必要のない邪魔者」と一面的な視点から大部分を否定してしまった。鬼とか化物とか、しょうもない蔑称をつけて征伐され、抑圧(封印)されてしまったりもした。

それはまるで、一人の人間が自分の個性の大部分を自覚することも活用することもなく無意識領域に押し込めたまま今まで生きてきて、己の個性の大部分を抑圧した状態にいるのとそっくりだ。

人間の場合、思春期に一度自分の個性に目覚め、それを自我に統合し、「自我(自分)の個性の一つ」として人生のなかで使い始めることが多い。
自分の個性を自覚し、それを自分の一部として受け入れ統合し、その個性と共に(時にはその個性を活用して)生きていくことを、ユング心理学では「個性化」という。これは思春期だけではなく、あらゆる年齢域で発生しうるといわれている。

自分(自我)が知っている「自分」は、「自分全体」のなかのホンの一部、小さな範囲のみで、「小さな自分」は少しずつ個性に目覚め、全体性に近づいていく。それが個性化のイメージだ。
(ちなみにユング心理学では自分全体のことをセルフと言う。自我や本能や無意識を含めた全ての領域を総合しており、とんでもないメモリー容量を持っているといわれている※)

人間は時々、「無意識的で無自覚だった(隠れていた)自分の個性」を目の当たりにしたとき、それを自分の短所や恥部として認識したり、そんな個性にコンプレックスや嫌悪感を持ったり、その個性を出しにくい環境にいたりした場合、「こんな無価値なものは人生や人格形成に必要がない。邪魔なだけだ」と自分によって自分の個性が否定・抑圧され、自分の一部として受け入れ統合できないまま(人生に活用できずに)生きるケースがある(ステレオタイプな価値観や風潮に流されすぎてもそうなりやすい)。
あるいは、自分の個性に無自覚なゆえにそれを人生のなかで活用できずにいることが背景となって「己の生きる価値(生きる喜び)を見出せない」と考える人もいる。

とまれ何らかの理由で自分の個性が無意識下に抑圧されたまま統合されず活用できずにいると、自分(自我)に新しい個性を加えることが出来ないので、「変われない(成長できない)」「個性化が進まない」という状態になる。
場合によっては、個性化によって発生する変化(成長)に対して、
「これが私なんだから、それが変わってしまえば私ではなくなる。変化を肯定したら私を否定することになる。私は今のままの私を貫かなければ」
と頑なに思いこんでしまうことだってあるかもしれない。
でもこれ、実はこれ自体が立派な自己否定の証拠だ。自分の大部分を否定した前提の上で作られた発想だからだ。

◆自己否定の裏返し
そんな無意識の自己否定は、時に過剰に高いプライドや優越感、又は何かの(誰かの)せいで自分が損なわれている感覚、尊重されていない感覚、他者を見下すことで自尊心を保とうとする傾向(不安定な自尊心)、といった形で表面に現れることもある。ひどいとそれらが変な妄想を生むこともある。
自分が損なわれているのは、誰かのせいでも何かのせいでもなく、自分のせいなのだが、それを無意識に他人のせいにしてしまうことで、被害妄想やトラブルに発展することもありうる。
そういった様々な「歪んだ表面化」は、みんな自己否定の裏返しってやつだ。

この状態、ある意味で近代の日本史に発生したナショナリズムや現代でも見かける一部の大衆心理とそっくりに見える。(多分、日本と同盟してた頃のドイツもそんな状態にあり、日本と波長が合った?)

今の日本は、「まつろわぬ民・まつろわぬ地」という長年抑圧していた個性を受け入れ統合する個性化の時期にあるような気がする。そんな個性化の時期に合わせて、今までの一面的な「日本」に大きな変化が起きているような運勢を感じる。
ある意味では、日本は長い間「自己否定」していたのだろう。それに基づいて歴史と運勢を紡いできたのかもしれない。時には自己否定の裏返し(表面化)によって発生した出来事もあったかもしれない。特に、東征時代から続く開運の系譜を受け継いでいた物事の中に。
(系譜を受け継いだのは各幕府、明治~戦時中の政府、原発含む戦後の政財界など)

偽りもしそうなら、だいぶ歪んでいたと思う。自己否定をしたままでは、どんなに「日本」を持ち上げたところでまともなアイデンティティーにはなりえない。それを本当に誇りに思うことも出来ない。それは自己否定を誤魔化すための、のものでしかない。そして偽りの自己像を評価することに固執すればするほど、惨めになっていくかもしれない。
「本当の自分は評価してない」と己に言い聞かせてるようなものだから。
(そんな惨めさを覆い隠すために尚更尊大になっていき、自我肥大を繰り返す悪循環が発生することさえありうる)

以前から一部の大衆心理に発生していた、妙に他国を見下し、常にそれらから日本が損なわれ脅かされ続けているように感じて憎んだり、極端なナショナリズムにのめりこんでいく傾向。個性化の時期に来ている日本でそんな傾向の激化がもしも起きているとすれば、それは「日本の自己否定」による裏返し、だったりして。
(日本のとある番組で、韓国が嫌いらしい日本人のコメンテーターが『日本でキムチ鍋に一定の人気があった』というだけの理由で同じ日本人に対し『キムチ鍋を食べているのは低所得層だけで、欲求不満の強い人たちだ』と嫌悪感を示す展開があったらしい。まさかあれも例の裏返しだろうか? そこまで極端になると、嫌悪する相手に自己の内面を投影していないか要注意)

自己否定の裏返し。それは更に裏を返せば(すなわち裏返しでなく本音に戻れば)、
「抑圧してきた個性を統合して個性化を進めたい・自己否定から脱出したい・本当の自分を肯定・評価したい」ということでもある。
けれど今は、日本の集合無意識に潜む歴史規模の自己否定が抑圧されたまま歪んだ形(裏返しの形)で表面化し、一部の人々がそれに衝き動かされて暴走しているような感じ。

特に個人でも強い自己否定を抱えている場合、そんな歪んだ表面化に共鳴して「衝き動かされやすい」かもしれない。
(ヒトラー台頭期の貧しいドイツでも似たタイプの問題が発生して大衆が衝き動かされ暴走し、深刻な結末を残した可能性があるような・・・)

◆日本の個性化
一部では、今日本に起こりつつあるすさまじい変化を「日本が壊れていくみたいだ」と受け入れがたく感じる向きもあるだろう。けれども、 「以前の様子こそがあるべき日本の姿なのだから、それが変わってしまえば日本ではなくなってしまう。今起きている変化を肯定したら日本を否定することになる。こんな変化が起きてしまえば、日本はもう終わりだ。過去の日本を取り戻さなくては・・・」
・・・という思いつめ方はしなくていい気がする(多分、過去の栄光にすがり続ける必要もない気がする)。
ある意味では、自己否定を抜け出すために大昔までさかのぼって「取り戻す」ような感じ。
なので、変化をむやみに心配しなくていい気がする。

一部を除いた多くの個性を抑圧したために陥った「自己否定状態」と、そこで作られた(その抑圧を前提基盤に使って作られた)一面的な世界。その世界で作られた日本の歪んだアイデンティティー(自我認識)と、その世界が作ってきた歴史の歪み。運気の歪み・・・それらが解消された時、日本は個性化によって変化(成長)したってことじゃないかな。某アニメ風に言えば「世界を革命した」と言ってもいいか(今回の個性化が完了するのに何年かかるか分からないけど)。

「鬼」呼ばわりしていた個性を統合し個性化した日本は、そのバージョンアップした新しい自分を生かし、より豊かで魅力的に変化するだろう(どんな個性も何らかの形で活かせれば魅力になる。自分自身にとって何よりも魅力的なことになる)。そしてまたいつか、新たな個性化を遂げていくのだろう。
抑圧された個性と、そうでない個性。そのどれもがみな日本の個性であり、魅力なのだろう。

今起きている一見ピンチにみえるものは、ある意味チャンスの予兆なのかもしれない。 それがピンチなのは、個性化の過程で生じる「終わりゆくもの(例えば個性化前の古いアイデンティティー、それが作っていた物事)」にだけ意識を合わせてしまっていて、これから生まれゆく新たなもの、新たな可能性に意識が向いていないからかもしれない。「今まで作ってきたもの」ばかりに焦点が合っていて「これから作るもの」には焦点が合ってない感じ。「今までの一面的に作られた日本のみが正しい日本なのだ」と思い込んでいれば確かにピンチに見えてしまうかも。
個性化を遂げてバージョンアップすれば、作る必要のあるものが昔と違う。今まで作れなかったものも作れる。
今まで作ってきたものもまた、未来の個性化につながる長い歴史のワンステップなのだろう(例えば自分の人生を振り返ったとき、幼稚園でのお遊戯がとても楽しかったことがその後の人格形成において全くムダだったとは思わないように。かといって今さらお遊戯する必要はない)。
とまれ、「日本」に関しては後ろ向きにはならなくていい気がする。「ピンチはチャンス」って今年の節分の暗示にも出てたし。


そのため、オカルトな世界では「個性化って死後も続くんじゃないか?」という人も。


以上の記事は、この曲を聴いて妄想したものです。コメント下段に歌詞あり。

レディーガガの「BORN THIS WAY」

「全ての人間は、偽りの自己像ではなくありのままの(本当の)自分の中にこそ素晴らしいものが秘められているわ。偽りの自己像で真実の自分を押し殺さないで。私はこうあるため(真実の自分を生かすため)に生まれたのよ」この歌はそんな風に聞こえた。
この歌がヒットしていた頃、ガガは震災を受けた(ピンチの裏側で個性化に向けて龍脈と歴史の歪みが戻り始めた)日本をとても気にかけてくれていた。

全ての人が(全ての国が)真実の自分を見つけていき、真実の自分を生きていけますように。

True Colors
とある東の国の物語
共同幻想から自己をとりもどせ?

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