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2011年6月 8日 (水)

残った愛

東日本大震災:遺族同士がケア 分かち合う、痛み--仙台

以前、「悲しみだけが愛じゃなく」という記事を書いたことがある。去年の12月にある交通事故で赤ちゃんが犠牲になったというニュース記事を読み、残された遺族のことを想像して思ったことをまとめた文章だ。
3月に起きた未曾有の大震災で多くの「死を悲しむ人々」「死に傷つく人々」が生まれた現在、この記事に書いたことが妙に思い出されるようになった。

あの時書いた「亡くなった赤ちゃんへの深い愛を深い悲しみや後悔や自責・罪悪感といったネガティブな形に変換してばかりでは、せっかくの尊い愛がネガティブな使われ方ばかりになってしまう。むしろネガティブに変換せず、そのまま引き続き赤ちゃんを愛し続ければいいのではないだろうか」という部分が今妙に頭の底に引っかかっている。

この部分は、何も亡くなったのが「赤ちゃん」だけのケースではなく、どんな年齢域の故人に対してでも同じことなのかもしれない。「赤ちゃん」の部分を「故人」にしても同じなのかもしれない・・・
故人の死によって愛がネガティブに変換された感情のなかには、時に悲しみや自責だけではなく怒りや憎しみだってあるかもしれないけど、やっぱりそれでも同じことのような気がする。
悲しんだり怒ったりすることが悪いと言うつもりは無い(むしろそれは吐き出したほうがいいのだろう)。
ただ、その苦しい感情が生まれた背景であり根源である光の部分を忘れてしまったり、ネガティブな感情で暗く覆い隠してしまうのは、何だか勿体無い様な気がする。
故人を失ったことで生じる強いネガティブな心情は、それだけ故人とのふれあいが自分の心の中に愛と喜びを残していってくれたということでもある。死してなお残る光。

「愛は哀に通じる」というが、愛を哀しみに変換してばかりいるだけではなく、今までと同じように愛の形のまま心のなかで相手に意識を向けてその愛を注いだり、愛する喜びや出会えた喜び、共にいられた喜びに意識を向けることがあってもいいような気がする。その愛や喜びは、相手が故人となっても目に見えぬ人生の財産として心の世界で息づくような気がする。故人の生きた証しと共に。それらは、その先の人生をより豊かなものにするのだろう。
その愛が家族愛なのか兄弟愛なのか恋愛なのか友愛なのかは関係なく、そんな気がする。

今、この時期にこの記事を再度紹介することにどのような意味があるのか、あるいは何の意味も生み出さない個人の自己満足にすぎないのかは分からない。

悲しみだけが愛じゃなく

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