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2009年12月

2009年12月28日 (月)

マット・ハーディング

※リンクは右クリックで別窓

マット・ハーディング(マシュー・ハーディング)という有名な人がいる。本職はゲームクリエイターの彼は、世界各地の旅行先で自分の踊る様子をビデオ撮影し、「Where the Hell WAS Matt?」という題でyoutubeなどの動画サイトにアップした。ただのオッサンが旅先でヘンな踊りをするだけの動画。時々現地の人も参加している。ただそれだけの動画が人々に何故か不思議な感動や喜びを与え、国境や言語の壁を越えて非常な人気を呼び、動画のアクセス数はうなぎのぼりに。その後旅行先が増えると共に動画は最新版がアップされ、チューインガムの会社が旅行費用のスポンサーになり、とうとうVIZAのCMにまで使われた。
人々は、この動画から確かに「何か」を感じているようだ。

最新版の動画を見る←右クリックで別窓

最新版の動画の挿入歌:Garry Schymanの「Praan」 。英訳すると「Stream of Life」。

挿入歌の歌詞はタゴールの詩「Praan」より:

ひるとなく 夜となく わたしの血管を流れる 同じいのちの流れが
世界をつらぬいて流れ 旋律にあわせて踊っている。
そのいのちが 喜びがなってほとばしり
大地の塵から 無数の草の葉を 萌え出させ
木の葉や 花々の騒がしい波を 立たせる。
そのいのちが 生と死の海の 揺りかごのなかに
満ちたり引いたりしながら揺られている。
このいのちの世界にふれて 私の四肢は 栄光に充たされる
そして私の誇(ほこ)りは いまこの瞬間に私の血のなかに踊っている
幾世代のいのちの 鼓動からくるのだ。


世界中の様々な生命がそれぞれ独自の音色を響かせ、それらは生命の壮大なシンフォニーを形成しだす。全ての生命が妙なるシンフォニーを奏でる楽器たち。シンフォニーはこの瞬間にもさらに美しく進化し続ける生命体。命の楽器たちで出来たとどまることのないひとつの生命体。

私達はこんな素晴らしい音楽にもなれるんだ。


皆様がより美しい音色を奏でられることを願って。良いお年を。

ある楽器の話

2009年12月21日 (月)

ある楽器の話

昔々あるところに、自分の音を生かせる曲がなかなか見つからずに困っていた楽器がいました。どんな曲を演奏してみてもイマイチで、無理して弾いても辛いだけで全然楽しくないし、そもそも音色が曲の雰囲気をぶちこわしていました。
「はぁ・・・私に合う曲どっかないかな・・・まともに聴ける音楽を弾かなきゃいけないのに・・・今まで弾いてきた曲がダメだったのは、上手に弾く努力が足りないのかな」

楽器は自分に対しても聴衆に対しても心地よい音楽を演奏できない自分を責めてばかりいましたが、どんなに自分を責めても問題は解決しませんでした。 責めても解決できない自分を責めました。
自分の音を十分生かせる日なんて来ないのかもしれない。もしかしたら自分は楽器として可能性の無い欠陥品なのかも。私みたいな楽器がなんでこの世に生まれたんだろう。などと心配していました。
そんな風に悩んでいると、見知らぬ怪しい人がやって来ました。
「お前の居場所この世界にねえから!」なんか突然物凄い勢いで突き飛ばして来ました。
気持ちが悪いのであわてて逃げました。
ふと、新しい楽器の登場につれて音楽の世界も広がり発展してきたことを思い出しました。
「そうだ。それなら自分で作曲すればいいんだ」
そう考えると、やがてふつふつとアイデアが浮かんできました。アイデアを試行錯誤した結果、その楽器は1つの曲を作ることが出来ました。曲のジャンルは以前から存在した音楽ジャンルに分類できるものでしたが、その楽器の音色を巧みに使う曲は今まで存在していませんでした。 音楽の世界が1曲分広がりました。
その曲を演奏するととても楽しくて、聴衆も喜んでくれました。今までになく自分の音を生かすことが出来たので、大満足でした。自分の使い道が1つ分かって自分という楽器に前よりも自信がつきました。
その楽器がこの世に生まれたのは、その音を生かす方法がこの世で実現できる証拠かもしれない。そう思ってみると幸せでした。

「自分を生かせるのは、この曲なんだ。こんなに自分を生かせる曲は、他に無いよ!」
自分がこの世で幸せになれるのは、この世でこの曲一つだけ!
この曲だけが私そのもの!
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・幸せ♪」
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・幸せ♪」
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・幸せ♪」
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・幸せ」
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・幸せ」
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・幸せ」
そう思って四六時中その曲だけ演奏して過ごしました。
「あ~・・・・・・飽きた。」

未曾有の事態が発生しました。あんなに幸せだったあの曲が、今は・・・
「でも自分の音を生かせるのはあの曲しか・・・弾いて幸せだったのはあの曲だけだった・・・」
あの曲を幸せに思えなくなったら、他に幸せになれる曲がなんにもありません。自分の音を生かせる曲が見つからなくて困っていたころに逆戻りするんじゃないかと心配でした。
「また可能性の無い欠陥品の気分になんかに戻りたくないよ~」
「あの曲が楽しかったのは気のせいだったの?」
「あの曲しか自分を幸せにしてくれないのに飽きるなんて、前世で何か悪い事でもしたのかなー」
そんな風に悩んでいると、また怪しい人がやって来ました。
「あなたは先祖の霊に祟られている。この墓石を買えば(略」
あわてて逃げました。
「はぁ・・・またあの曲が幸せに思える方法は無いかな・・・昔の自分に戻らなくちゃいけないのに・・・」
あの曲を弾くのをやめてから、楽しいことがちっともありません。
違う曲を作ってみようと試してみましたが、音階が限定されたメロディは既に聞き飽きていて、面白いアイデアが浮かびません。

ある日の夜、眠っていた楽器は夢を見ました。
楽器は階段を登っていました。ステップを1段上がるごとに低音から高音に向かって自分の音が出ていきました。8段目までが自分の持っている音でした。階段はそこで途切れていました。
でも、楽器は何故かもっと上に行きたくて仕方ありませんでした。お空はあんなに高いのに・・・
そこへ、音符の形をした精霊がやって来て言いました。
「何かご入用ですか?」
楽器は言いました。
「階段をもっと上に登りたいんです。」
「ふむ。階段を上へ。・・・となると、あなたの新しい音が必要ですね。どんな音が出せるようになりたいですか?」
「もっと高い音がいいです。」
「どの程度の?」
「うーん・・・そうだな・・・今の私の倍ぐらい高い音!」
「鼻歌でいいんでその音のイメージ歌ってみて下さい」
「えぇ? ・・・・こうかな・・・♪♯♭~」
「はいわかりました。音声を階段に変換します」
見る見るうちに、階段がもう8段増えていきました。
「登ってみてください?」
・・・♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
「おおおおお! こういう音欲しかった!」
「歌えるってことは、気付かなかっただけで本当はその音前からあなたの中にあったんですよ。これであなたの使用音域は1オクターブ分バージョンアップしました」
「ありがたき幸せ~」
楽器は音符の精霊に土下座しつつもみ手をしてすり寄りました。
「もっと沢山増やせませんかね?」
「今歌えますか」
楽器は歌おうとしましたが、うまく声が出ませんでした。
「新しく増やした音使って曲が弾けるようになったら、経験値が上がってまた歌えるようになりますよ」
「新しく手に入った音だけで曲作ればいいんですか?」
「いや、そうじゃなくてw あなたが持ってる音全部好きに使っていくらでも自由に弾いてください。昔みたいに自由にね」
音符の精霊は似合わないウインクをしてどこかへ飛び去っていきました。

次の日。目が覚めると楽器は自分の体が少し大きくなっていることに気がつきました。
自分が前に作った曲を進化させるべきか、それとも違う曲を作って曲のレパートリーを増やすべきか・・・他の楽器と合奏曲やるのは? 以前ダメだった曲を高音部で自分らしく弾いてみようか・・・そういうのを全部やろうか・・・今はまだ何も思いつかないけど、いつか必ずいいアイデアが浮かんでくる。私は楽器で、世界の一部で、世界を広げる者のひとりだから。
楽器はそのことを知っていました。

2009年12月12日 (土)

平和への願い≠平和じゃないことへの憎しみ

※あくまで一個人の見解です。

「正当な戦争」失望と憤り=オバマ氏受賞演説、被爆地に波紋

オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した。その時の演説で、「平和維持のために時に武力も必要」といった内容があったために被爆者の皆さんに波紋を投じた。オバマ氏の戦争を肯定的にとらえる姿勢が問題視された。
リンク先の記事(時事通信)が被爆者達のインタビューを取り上げている。

アメリカが「世界の警察」と揶揄されるように、建前上のアメリカ視点だと、アメリカのやる戦争は「治安を脅かしている者を警察が銃を使って取り締まる」位の感覚なのかもしれない。この視点だと、戦争を非難することは警察が武力を使うことを非難されているようにうつるかもしれない。建前上は。(警察は犯罪を泥沼化させたりテロを誘発したりしないけど)

「戦争をやめさせるために戦争している当事者を攻撃する」
「平和を訴えるために戦争している者達を攻撃する」
これは武力で攻撃するのか武力以外の方法で攻撃するかでイメージがだいぶ変わるように見える。
だが、「攻撃的な者を攻撃する」という点で、どちらも同じ穴のムジナかもしれない。
「平和のための戦争」「平和のための攻撃」・・・
「誰かを攻撃する」という手法を使う時点で、多分争いは解決しない。
憂さが晴れ、溜飲が下がるように見えるだけかもしれない。 何かを憎み攻撃するのは、それだけ深い傷があるということか。もしそうなら、その傷が癒えて痛みがなくなれば、憎み攻撃する必要はなくなる・・・?

酷いトラウマを背負いつつも感情的にならずにいられる広島の山田さん(リンク先参照)は立派だと思う。

太平洋戦争当時空軍にいた人が広島に訪問し、(多分プロデューサーによって)呼び集められた老いた被爆者達の何人かが彼に辛い感情をぶつける様子が数年前の某民放で報道された。空気が平和じゃない感じだった。悪趣味な企画(やらせ?)かもしれないけど。
被爆者たちも心の傷があまりに辛いから傷を連想・投影させるものにはつい感情的になって攻撃するのだろう。そして攻撃すると平和じゃなくなる。
(ちなみこの元軍人は、被爆者の苦しみを知った上で『謝れ』という彼らの訴えに『気の毒とは思うが謝れない』と回答)

被爆者達ははたしてちゃんとしたメンタルケアを受けているのだろうかと思う時がある。「平和を語り伝えるためには当時の苦しみを忘れてはいけない。忘れないためには何のケアも受けずにずっと苦しみの時間を刻み続けなければならない」なんてことは決して無いはずだ。心の傷をケアすることと実体験に基づいて平和を訴えることは、両立すると思う。
長い間抱えてきた心の傷がそう簡単に「治る」とは思えないが、必要以上に感情的にならずに(むやみに感情的になって苦しまずに)済むくらいにはなるんじゃないかと思う。
実体験に基づいて平和を願い、願いを訴えることにエネルギーを注ぐのは建設的で立派なことだと思うが、実体験に基づいて平和じゃない状態を憎み、その憎しみを訴えることにエネルギーを注ぐのは多分健康に悪い(中東じゃそのせいでテロリストが生まれることもある)。

傷から立ち直れないから、傷とその原因を憎み、傷を連想する相手を攻撃する。平和を願ってつい攻撃的になる。世界中が平和じゃなかった時代の傷を持っている。そんな傷を背負ったある国が、大きい武力を獲得したら・・・
「平和を願うこと」と「平和じゃない状態を憎むこと」。傷を抱えている心は憎しみを選びやすいかもしれない。そして憎しみは必要以上に感情的・攻撃的な気分を作り、争いを生みやすい。新しい傷を生みやすい。では、もしも傷がケアされていたら?

戦争の原因は千差万別だろうが、おそらく「平和じゃなかった時の傷」なんてのも戦争を発生させる要因(例えば世論など)に関わってるのかもしれない(平和じゃなかった時が戦争時だけとは限らない)。
先のイスラエルでの戦いはそんな印象が濃い。


2009年12月 8日 (火)

アダムとイブの物語が象徴するもの?

danger マニアック注意

ついでなので、アダムとイブの物語そのものでオカルトなトンデモ説を捏造してみた。あくまで無名の占い師が捏造したフィクション(二次創作?)であることを忘れてはいけない。
 アダムとイブの物語は前記事参照←右クリックで別窓

オカルトマニアの個人的な願望妄想だが、聖書を含め、その土地の大昔からの神話や伝説というのは、その土地の人々のDNAに刻み込まれた強烈な体験の記憶が象徴的に表現されたものではないかと空想している。DNAを通して人々の無意識に刻まれ受け継がれてきた歴史・・・良い記憶も、嫌な記憶も含めた歴史・・・それが象徴的な物語として信仰される。大昔に一体何があったんだろう? とか色々妄想するとちょっとロマンを感じる。思わず顔がにやけてしまう。
神話や伝説とDNAの記憶----以前もそのような感じの妄想記事(下のリンク参照)を載せたことがあるが、今回もそんな感じで寄り道しまくりの気ままな妄想の旅に出ようと思う(多分ほとんどの人は脱落するほどマニアックになると思う)。この旅は、あくまで無名の占い師が捏造したフィクション(二次創作?)であることを忘れてはいけない(大事なことなんで2回言いました)。

アダムとイブの話はイスラムの聖典コーランにも載っている。そこでは、先に禁断の知恵の実に手を出したのは、イブではなくアダムという事になっている。そして、聖書でもコーランでも、アダムは知恵の実を食べたことを最初は誤魔化そうとしたらしい(コーラン版のアダムはそのことを後に反省している)。聖書の方では、神に「知恵の実を食べたのか?」と尋ねられたアダムが「イブだけが食べた」と神に答えている。これがアダムの行った最初の罪とされている。アダムは、人類最初のウソをついたのだ。

知恵の実を食べたことを誤魔化そうとするアダム・・・何かを誤魔化せる程度の知恵がついたということか。聖書とコーラン、どちらの言い伝えでも、知恵の実を食べて自我と知性を得たアダムは「悪知恵」が働いている。知恵の実の効果はてきめんだ。「誤魔化す」という行為も鍵。人間は、自我にとって都合の悪い事や受け入れがたいことを無意識の領域に追いやり「なかったこと」にして自分自身をを誤魔化す能力がある。つらい記憶やつらい事実を自我の意識領域からすっかり欠落させたり、犯罪者が自分の犯行の記憶を失っていたり。もっと身近な例では「自分は何も悪くない」と思い込むために事実を都合よく捻じ曲げたり、自分を被害者にする(または他人のせいにする)といった能力だ。この真実を封印するかのような機能は心理学的には抑圧とか抑制という。それは自我をもった者(すなわち人間)にしか出来ない。ゆえに、自我は人間のシンボルとも言える。知恵の実を食べて知恵と自我に目覚めたということは、同時に自我(顕在意識)に対する「無意識」という領域が生まれたということでもある。自我と知恵をつけたアダムは知恵の実を食べたことを早速無意識領域に追いやり、「なかったこと」にしちゃったらしい。

向き合わず受け入れずに無意識領域に葬り去られたままの真実は時に心のわだかまりとなり、やがて神経症の原因になることもあるそうだ。言い伝えの世界では、向き合い受け入れその原因を改善(治療)することが必要な真実(宗教的に言うなら悔い改めるべき真実?)を「嫌なものだから都合が悪い。受け入れたくない。なかったことにしよう」と無意識領域に隠蔽し葬り去ったまま放置することに対して、「それは心の健康を妨げること」という本能の視点から『罪』と表現しているのかもしれない。精神衛生上「悪い」ってことで。それなら『罰』はさしずめ神経症の症状だろうか? 人類で最初に自我と知性に目覚めた二人は、人類最初の罪(原罪)を背負うことになる。そして罰も受ける。彼らが食べた「知恵の実」のもう一つの呼び名は、「善悪の知識の木の実」。「罪」の概念もこの実を食べたとき生まれたのだろう。
アダムとイブの物語は、動物のような意識だった人類が始めて自我と知性に目覚め、同時に無意識への心理的抑圧(抑制)のやり方を覚えた時に人類のDNAに刻まれた記憶(知性の使い方と悪用法?を覚えた時の記憶)を象徴的に表現する物語だったのかもしれない。知恵の獲得と同時にその悪用法を得てしまえば、「知恵→悪」と連想する感覚も分からないではない。ギリシャ神話の「人類に火の使い方を教えてゼウスから罰を受けたプロメテウス」の物語も同じ事を語っているのかもしれない。現代風に例えれば、どちらの話も「原子力の使い方覚えると同時にその悪用法(核戦争)を覚えちゃった」ようなものか? 

知恵の実を「食べると死ぬから食べるな」と神から言われたのに食べちゃったアダムは930歳で死んだと記録されている。しかしイブがどうなったのかは記録がない。これがまたなんともロマンを感じる。
そのロマンが電波に引火してオカルトマニアの妄想が再び炸裂。もしかすると、イブは「食べると死ぬ」はずの知恵の実を食べていなかったから死の記録が無いのかもしれない、と。知恵の実を食べたアダムが自分と神を「誤魔化した」ためにイブも食べたかのような話になっているが、本当は食べていなかったためにアダムのように死ぬことはないとしたら。アダムはかつて自分が行ったウソという罪(心理的抑圧)と向き合い受け入れ反省した証に、楽園を追放された後で彼女に「イブ(生命・生きる者)」という名前をつけた? 

或いは、アダムは「都合の悪いこと(神に背いて知恵の実を食べたこと)」を無意識領域に放り込んで「なかったこと」にする能力のある自我(顕在意識)の象徴キャラクターで、イブはそんな自我から「都合の悪いこと」を押し付けられた無意識領域の象徴キャラクターかもしれない。無意識は善悪の判断をしない。だからイブが善悪の知識の木の実(知恵の実)を食べていないとする話を作った場合でも、つじつまだけは合う。
もしそういう見方をすると、イブはアダムという自我にとってのアニマ(男性にとって自分の中の女性的要素や抑圧された個性、知られざるもう一つの自分の姿を意味する。しばしば本人が理想とする女性像の形をとる)ということにもなる。
(※ウエイト版タロットの「恋人」のカードには、アダムとイブが描かれている。男性の恋愛感情は自分のアニマを異性に投影することで発生するという説がある)

もっとオカルトなことを書くとアダムの名は「土・人間」という意味があり、イブの名は「生きる者・生命」という意味がある。これをオカルト的に解釈して、アダムは自我や知性といった肉体(脳)の領域を。イブは肉体に宿ることでその体を生命たらしめるもの、自我が認識できない生命の働きや無意識とその領域を司る、いわば魂(心・精神性)という不滅の生命体だとすると、二人合わせて「土(地上)に生まれた体とそこに吹き込まれた魂」。やっぱりイブは死なない。いつまでも「生きる者」だ。楽園を追放された後、アダムは己の心に生まれた罪と向き合った時に己の無意識部分であるイブの特性(自分の魂や生命の特性)を知り、それを表現する「イブ」という名をつけたのかもしれない。イブはアダムという寿命ある生命の、知られざるもう一つの姿(=アニマ)か。(オカルト的に見ると、現代人の自我は己の心への理解は乏しく、ましてや魂なんて非科学的なものは『なかったこと』にされている)

アダムは死に、イブの死は記録されず。多分それが原因でジッダにイブのお墓伝説が生まれ、21世紀初頭に至ってそのジッダで未曾有の洪水が発生。宗教上の事情でコンクリートにがっちり封印されたイブのお墓(これもある意味都合が悪いから抑圧されたもの)とされる墳墓も水の中に沈んだのだろうか? 
「水」は無意識のシンボルだ。そして「洪水」は抑圧という心の堤防を上回る力を秘めた無意識の作用によって、かつて自我に「なかったこと」として水の中に沈められたものが堤防をこえて再び自我領域にどんぶらことやって来る現象のシンボルだったりする。その現象の一つが、神経症だ。
(※旧約聖書には、罪深い人間への罰として神が洪水を起こすという『ノアの洪水伝説』が存在する)
そして、「お墓」は故人の記憶を想い起こさせる場、すなわち「過去の記憶が甦る場所」でもある。
歴史の水底に葬られ、その記録は「なかったこと」にされているイブの秘密の手がかりが、やがて抑圧を越えて水面上に現れる日は来るだろうか? コンクリートで封印されたジッダの謎の墳墓が開封されて調査される日は来るだろうか? 最近封印を解かれて解読が進められているという「死海文書」にもちょっと期待したい。

イブ(生命)がアダム(人間)のアニマなら、彼女は全ての人類が持っている「隠されたもう一つの姿」だ。それは昔から生命を生み出す機能を持つ女性達に神秘と恐れの気持ちを込めて投影されて来たかもしれない。時には「恐れ」の気持ちが優勢になってしまい、投影された側の女性達までが恐れられた挙句、「恐れが自我によって抑圧される」かのように歴史のなかで女性が抑圧されたこともあったろうか(魔女狩りとか、ある種の男尊女卑とか?)。
自分の都合の悪いもの(時には『罪』)を長い間無意識領域に押し付け、「なかったこと」にしてきた人ほど無意識領域と向き合うことを恐れる(そしてその恐れさえ抑圧する)。だからそういう人の自我は必死に堤防を作って無意識の作用を抑圧(封印)することがある。コンクリがあったら使いたいかもしれない(この文章の『無意識領域』を『女性』に置き換えると・・・?)。

私達は、いつか謎というコンクリートに包まれたイブの秘密に出会えるだろうか? 謎のまま無意識の水底に沈められ、抑圧されてきた私達の生命のもう一つの姿(イブ)と私達が出会う日は来るのだろうか? 


ヘルメス伝説と進化の記憶

2009年12月 3日 (木)

砂漠の洪水とイブのお墓伝説

ちょっと前の話になってしまう。
11月の終わり、イスラム教徒のメッカ巡礼(ハジ)が始まった初日。巡礼の玄関口の都市、中東はサウジアラビアの乾燥した砂漠地帯にあるジッダという場所で、何故か豪雨による洪水が発生。被害は大きく、3桁に至る犠牲者が出てしまった。ご存知の方も多いと思う。
洪水のニュースをきっかけにこのジッダという場所についてちょっと調べてみると、オカルトマニアとしてはちょっと興味深い事実を発見した。
何と、ジッダには旧約聖書の物語に出てくる人類の祖先、アダムとイブのうち、イブのお墓と言われている墳墓が存在しているとのこと。その墳墓に巡礼者がこっそりお参りしてしまった(イスラム的にはNG)ことがきっかけで、30年以上前に現地の宗教当局が墳墓をコンクリートで覆ってしまったそうだ。
イブのお墓があるという言い伝えのためか、「ジッダ」という地名の語源は「おばあさん(jaddah)」から来ているという。まさしくイブは「人類全てのお祖母さん」という設定だ。
そしてイブは、謎めいたお祖母さんでもある。

◆アダムとイブの物語
ユダヤ・キリスト・イスラム各宗教の共通認識として、アダムとイブは人類の祖先だ。旧約聖書によると、二人は最初、「エデンの園(楽園)」に住んでいた。そこには様々な果物や食べられる実のなる木が沢山あり、二人は神からそれらを好きにもいで食べていいと言われており、働かなくてもお腹一杯食べられて何不自由なく暮らしていた。そんなエデンの中央には「生命の木」と「知恵の木」というものがあった。神は「知恵の木の実(禁断の知恵の実)だけは食べると死ぬから食べてはいけない」と言った。しかしある日、蛇にそそのかされたイブが知恵の実を食べ、美味しかったのでアダムにも勧めた。アダムも食べた。二人は知恵の実を食べちゃったために、「知恵の実を食べた上に生命の実まで食べて自分と同じになられたら困る」という神の思し召しでエデンを追放された(ちなみに、生命の実も食べて神との合一を目指すのが生命の木を重要視するカバラ神秘学だ)。
エデンという楽園を追放された二人。イブはそのときはじめて、「イブ」という名前をアダムにつけてもらった。名前の意味は「生きる者」とか「生命」。二人はエルダという場所に住み着き農業をして暮らした。子供も生まれた。こうして人類は汗水たらして働かなきゃ食べていけないほど実り少ない世界で生きることになった(その結果、金融危機が起こせるほど経済が発展したのかもしれないw)。
「知恵の実を食べると死ぬ」・・・神がそう言ったとおり、やがてアダムは930歳で死んだ。しかし、イブの死に関してはなぜか記録が存在しない。彼女の行方は、今のところ誰も知らない。

おそらく、イブの死が記録されていないからこそ、ジッダにお墓があるという伝説が生まれたのだろうと思う。「食べると死ぬ」という知恵の実を食べたのならイブだっていつかは死ぬだろうし、恐らく死んだ場所は旧約聖書の世界観に合わせて中東のどこかだろう。丁度誰のものかわからない古い墳墓がジッダにはある。じゃそれがイブのお墓かもしれない。・・・そんな感じでイブのお墓伝説は生まれたんじゃないかと空想した。 
そんな伝説のある砂漠の場所で未曾有の洪水が発生したのは何の因果か・・・

次回はアダムとイブの物語にオカルト的・心理的な焦点を当ててみる。

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