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2008年9月24日 (水)

経済ど素人の占い師があえて書いてみる

私は「経済」という科目をほぼ勉強していない。義務教育期間中に「政経」とかいう授業はあったが内容を聞いていた記憶がない。ゆえに自分でもあまりよくわかって書いてない。分かっている人が読めば無知すぎてあきれ返るか、長いだけで何を書いているのか支離滅裂もしれない。自分の抱く感覚をキレイに表現し切れているとも思わない。だが、恥を覚悟であえて書いてみる。「何故ひとつしかないのか?」

◆一元支配のシステム
現代社会は、いわゆる抽象的な「富・豊かさ・価値」と言うものの媒体を「金銭(マネー)」に一元化して生活している。「金銭(マネー)」というたった一つの方法(システム)を使って豊かさを追求しない限り、豊かでいられない。
ほとんど「金銭」というシステムのみが豊かさを生むため、「金銭=豊かさ」に近い。例え自然由来の豊かさを持っている人でも、その豊かさを何らかの形でシステムに合致させられなければ豊かさからは遠ざかり、切り捨てられて負け組になる。システムに合致するということは、「ビジネスになる」ということでもある。

そのため、そのシステムが十分適性を発揮する世界(システムの生まれ故郷である都市)ではまあ便利に暮らせるが、適性が不十分な世界(例えば、システムの事情が通用しない自然界と深く関わる世界)ではかえって豊かさの獲得には不便になるみたい。それで時には自給自足能力(食べる力)という豊かさを持ったはずの農村部や遊牧民が何故か貧しくなってしまい、やむ終えず農業をやめ農地を手放したり遊牧業をやめ家畜を手放したり。そして貧しい出稼ぎ人になったり、中国の場合だと例え農業を続けていたとしても安く買い叩かれるために大量生産のプレッシャーから思い余って大量の農薬を使い、農薬汚染作物を作ってしまう。汚染された野菜などの作物は各地に出回る・・・ (それを材料にした汚染食品も出回る)。食べられない作物をいくら生み出しても、豊かとはいえない。

◆お金に変換できない豊かさ
一元化されたシステムを強いられた農家が本来の豊かさを発揮できなくなる悲劇は、上に書いたケース以外にも実際に起きている。
例え豊作になっても、値段が下がって損をするから収穫した野菜をブルドーザーで潰してしまう。金銭変換(システム合致)がうまくいかないから自然が恵んでくれた豊かさを存分に生かせない。ビジネスに依存する金銭のシステムだけでは物質的豊かさすら十分カバーできない。むしろシステムに不都合な自然の豊かさを切り捨てる。
「豊かさ」の全てを金銭に変換出来ないにもかかわらず、変換できない豊かさを切り捨ててまで金銭一元化を貫き通す。しかも口では「豊かさを追求しよう」とか言ってる。そんな神経症みたいな状態が現代のシステムにはあるような気がする。

システム一元化のために、畑や家畜はあれどその豊かさを十分に金銭変換しきれず苦しい生活を強いられている一家が世界にはまだ結構いる。チベットではそういう理由もあって無料で教育を受けられるインドの亡命政府目指して子供達が危険な山越えをする。
システムが不向きな世界の環境をシステムの適性に合う様に開発したらあちこちで自然破壊になってしまったり、いつの間にか自給自足できない国になっていたケースもある。
近代化と一元化の波の中で、母なる大地がくれた豊かさは貧しさに代わりうる。富や豊かさの方法があの一元的経済システムに支配されてしまったために、生き方や価値観や目的意識も一元化につい引っ張られ、「お金至上主義」になって健康や生きる幸せまで犠牲にしてしまうことも。

◆お金に変換できない豊かさその2
一元化の波は家族や家庭すら侵食し、サラリーマンの世界ではともすれば本能的な家族間の交流を「家庭サービス」という「何の利益も出ずに負担するただの無償ノルマ」に矮小化してしまうことも。そこに豊かな家庭生活はない。「家族・家庭」という原始から営まれていた自然界の世界・精神の世界は、現代の人工的に無理やり作った一元化世界と相性が悪い。世界を支える今のシステムは、家族・家庭を支えていない。家族間のコミュニケーションには情緒や絆が介在しているがお金は介在しない。家族や家庭はお金で買えない。一元的経済媒体システムに支配された世界では、油断すると精神的な面でもお金で賄えない(換金できない)物事がどんどん忘れ去られていく危険さえある。

しかしそんな事には意識を向ける余裕を与えない世界。「(お金で買えないモノは)欲しがりません。(市場競争に)勝つまでは」が高じて「どんなに欲しがったところでとうとう最後はお金で買えるものしか世界には残りませんでした」なんてことになったら恐ろしすぎる。
物質的・精神的を問わず様々な「換金不能な豊かさ(金銭システムが扱えない豊かさの可能性)」を切り捨てていけば結局貧しくなってしまうのだろう。

世界を支配する一元化された媒体システムを悪用すれば、人々を支配し動かしやすい。また、一元化ゆえに換金不能な豊かさを切り捨てた結果の(環境的・物理的・精神的)貧しさが、犯罪や戦争の引き金になることも。一元化されたシステムを全体の基礎に出来れば単純で便利ではある。そのたった一つを押さえられれば手っ取り早く有利になれる。でもそのたった一つに依存し縛られ、たった一つがダメになったらその基礎の上に成り立っていたもの全てがダメになる危険と背中合わせ。タロットなら「塔」。金融危機はまるで「恐怖の大王」だ。

◆金運を血の流れに例えて
金銭システムの一元支配は、体で言うなら動脈(栄養や酸素など、体にとっての抽象的な富を行き渡らせるツール)をたった一つの太い大きい血管に一本化させてしまっている状態に近いかも(金銭システム=動脈、血=お金)。
もしも体が数々の細い血管を忘れ、大きい動脈一本にしてまったら。もしも無数の毛細血管を使わず、動脈しか使わなくなったら。恐らく、動脈に近い細胞だけが勝ち組で、遠い細胞ほど負け組みだ。そして、負け組みは切り捨てられていく。血液(金銭)はほぼ勝ち組のもの。勝ち組は莫大な血を得て肥え太る。

逆に、動脈の適性が発揮されづらい手足の指や耳や目鼻、口などの末端部分は夏でもひどく冷たくなっていて、満足に動かすことが出来なくなるだろう。手足や口の免疫はひどく弱いだろう。動脈周辺との格差は大きくなる。 しかも(脳・心臓などを除き)栄養確保のために一番動かす必要のある場所(血液の流れが重要な場所)で最も欠乏状態がひどくなる。酸素も栄養も行き渡らない。それでは末端部は生命力を発揮できない。 それは、手足や口や目鼻を用いて食べ物を探し、時に料理し、摂取する力が弱くなることにつながる。 すると全身が弱る。勝ち組を謳歌していた細胞も、動脈そのものも衰退する。血圧は下がり、血の絶対量も減る(現在囁かれている食糧危機や不況はまさにそんな状態に近い?)。
全身が弱れば生命の危機。そうならないために、実際の人体は大小さまざまな血管を網の目のように張り巡らせている。無数の血管は「存在するだけで」富を得る回路として連携的に機能している。無数の血管が存在してるので体(無数の細胞)にとって富を得る方法・ツール・可能性が無数にある。 だからちょっとした出血なら弱らずに済む。逆に、一本化された太く大きい血管しかなかったら、ちょっと血管が傷ついただけで命取りだ。

◆生命力の一元化
生き方が一つのシステムに一元化されてしまった世界。豊かに生きる術(可能性)がたった一つの手段に制限された世界。人々はそのシステムに役立つ能力ばかりを酷使し、それ以外の能力はあまり使わなくなった。そのために退化してしまった能力と、偏って極端に発達した能力があるのかもしれない。能力を生命力の一種とすれば、現代人は本来持つ色々な生命力の一部だけが突出し他の部分を封じていることに。それは、生命を助ける力のホンの一部分しか使えない状態に自らを追いやっているようなもので、ある意味生命への愛情不足。

数世代がいびつな能力の使い方をした影響があるのかないのか、今は家族間でさえコミュニケーションの能力や愛情の能力が退化して来てるかもしれない。それらが退化した家庭で育つ子供は情緒的コミュニケーション能力を十分に学習できない。将来的にも社会的にも大事な生命力なのに(そして社会の全身が弱る)・・・
金銭システムは使い方次第では便利だ。けれども一元的支配という形での金銭システムは、豊かさを本当に発展させただろうか? (物理的・精神的両面で)換金不能な豊かさを得たり、換金不能な生命力を活用して様々な豊かさを得る余地を奪ってはいないだろうか? 一部分の可能性しか許さずにいるのではないだろうか?

人間の生命力(生きる力)の全てが、経済活動に向いているわけじゃない。多分それで、世界を支配するあの一元化システムがうまく適性を発揮しにくい(システムとの相性が悪い)分野の生命力に長けた者や、一元化システムが適性を発揮し切れない生命力の使い方(生き方)が主流だった地域は貧乏して可能性が制限されやすい。生命力が換金し切れず貧しくなりやすい。アレは万能じゃない。にもかかわらず、全てをアレ一つで賄おうとする流れが強くて、生命力の可能性や発想・視点が「一元化された経済システム」とその周辺の狭い範囲に閉じ込められてしまいがち。まるで塔に囚われたお姫様。お姫様は、いつも窓から塔の外の広い世界へ思いを馳せる。それは、一元化による支配と制限が届かない世界。

どんな富の仕組み・経済の仕組みを作ろうが、貧乏だろうが金持ちだろうが、どんな環境にいようが、金銭が発明される前から私達の生命はいつも己の生命活動をしたがる。突き詰めればシステムうんぬんよりもそっちが重要だと思う。生命は豊かなお金(手段の一種)ではなく、豊かな生命活動(目的)を求めている。そこに価値を置いたからこそ、生命活動に役立ちうるものに値段がついた。
けれど今は手段を一元化したしわ寄せで、肝心の目的の方が制限されたり支障を来たしているような感じだ。手段だけで手一杯になり目的まで到達できずに力尽きてる人も多い。手段の目的化も多い。
私達は、私達の生命のことや私達の生命が本当は利用可能な豊かさについてどこまで知ってるだろうか? お金にかえられない大事な「自分の生命」が本当は何を望んでいるのか、どこまで理解できているだろうか?
市場に流通する全ての価値は、モトを正せば人の心が生み出す抽象的で流動的で奥深い漠然とした価値観や幸福感から生まれている。自分の命にとっての幸せを、どれだけ知っているだろうか?

◆まとめ
この先、経済と人の営みをたった一つの道に依存して一元化せず、たった一つに発想と可能性を縛られ支配されず、もっと多彩な豊かさのあり方を許し自由自在に使いこなして生きていける日は来るだろうか? 今まで一元的なシステムの都合に合わないとして切り捨ててきた豊かさや恵みや可能性を生かせる日は来るだろうか?
(Fランク大出身の文系オカルトマニアな私には具体的アイデアに限界があるのだが、いつかどこかで良い方法が生まれる気がする) 

農民や遊牧民が金銭変換し切れない豊かさを十分確保・発揮することが出来る日は来るだろうか。
そういう日が来た場合、農民や遊牧民に限らず、金銭システムと相性の悪い生命力に長けた人が切り捨てられたり負け組みとして馬鹿にされることなく、素晴らしい可能性があることに気付いたり、素晴らしい貢献をしてくれる事もあるだろうか? (ある種のオタク気質やアーティスト気質な人なども金銭システムと相性悪そう)
そういう日が来た場合、金銭至上主義(一元化システム至上主義)にとり憑かれて(可能性を追い詰められて)道を踏み外す人は減るだろうか? 

人間が今まで一元化システムの守備範囲外にあって切り捨て気味だった換金不可能な生命の豊かさ(可能性)をも有効に生かして幸せに生きられる日は来るだろうか? 
たった一本の動脈ではなく、大小さまざまな多くの血管によってバランスよく血液が体全体を循環し、体中の細胞(=世界中の人々)が効率よく生命力を発揮し元気になれる日は来るだろうか? 
・・・一元化されたシステムが世界を支配し制限していた時代は、いつか昔話になるだろうか?

 「昔々 まだ豊かに暮らす方法が一つしかないと思われていた頃のお話・・・」

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