« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月

2007年10月31日 (水)

占いが神聖になったワケ

~全ての人に備わった、「幸せを作る生命力」に敬意を表して~

古代、占い師の仕事は「神聖なもの」とされていた。
なぜなら、人々に宿る「生命」というものを神聖視したから。
その人に宿る「生命」の可能性を扱う分野の仕事だったから。
チベットやネパールや各地の少数民族など、一部の世界では今もそう思われている。
日本では、ちょっと前までは「医者」がそうだった。
「生命は神聖」。多分生存本能と密接に関わっている発想だろう。
その聖なる「生命」が潜在的に持っているはかり知れない可能性を尊いと思ったのかもしれない。能力を発揮したり、人生を作ったり、子孫を残したり(次世代に人生を作るための生命をもたらしたり)、種族が進化したり、歴史が大きく変わったり、本人にとって(時には他人にとっても)この上ない幸せや成功を作る力もあれば、その力を悪用して大規模な悲劇を作る力さえある。運を作れるのも生命があるお陰だし、運を良くする力も聖なる生命の不思議な生命力の一種。
私たち自身ですらあまりよくわかっていないこの生命が潜在的に秘めた力は、強く大きい。
全ての人に潜在的に備わった「幸せを作る生命力」
多分、本能はそれを知っているのかもしれない。

占い師が神聖なのではなく、ヒトが神聖なのだ。
医者が神聖なのではなく、命が神聖なのだ。

あたりまえだ。生きてないと出来ない仕事ならどれも同じだ。書くのもバカバカしい;
しかし当事者が忘れると、とんでもないことになる。歴史上、何度も繰り返されて来た過ち。
あー怖 い怖 い 。

人々とそこに秘められた生命が神聖なので、私は今日も神聖な分野に携わることが出来る。ありがたい。
忘れないようにメモしておく。

2007年10月22日 (月)

理想と現実

※以下は個人の仮説です。

夢や憧れが示すもの

実際に自分が目指す具体的な理想や目標を作る時。
最初から空想や憧れに基づいた理想を根拠に目標を作ってしまうと、いつまでたっても目標を実現できず、或いは努力が進まず、現実や自分に幻滅しやすくなるようだ。この手の理想は、いわゆる「現実離れした理想」というやつ。私ならタロットで女司祭の逆位置や杯の7をすぐ連想する。実際そういうカードが良く出たから。
現実世界に幻滅した結果、自分を取り巻く現実に張り合いや意欲や価値を見出せなくなってしまい、無気力や現実逃避に走る人もいる。ニートになる人もいるかもしれない。幻滅させないカリスマを求めて宗教的なものにハマる人もいるかもしれない。
「現実離れした理想」。またの名をつけるなら、「現実の自分とは無関係な理想」とでも言うべきか? 
そんな理想を作る傾向を持った人は、しばしば「思い描いた通りの成果や結果が出ないなら、最初から何もしたくない」という心理になるらしい。その結果、今までの努力を全否定し落ち込んでしまう人や、最初からそう思うことで意欲を見失い何も出来なくなってしまう人、あるいは必要以上に完璧主義になってしまう人などが出てくるらしい。そして、現実離れした理想のために自分に幻滅するということを繰り返した場合、以前書いたテーマである「根拠のない劣等感」を作ってしまう人もいるようだ。「私は何一つ満足に出来ない」という気持ちになりやすいらしい。

何かを空想したり、何かに憧れている時、夢見ている時はとても楽しい。けれども、それが本当に夢や憧れの実現に向けた実行意欲や努力の意欲や充実感を与えてくれるかといえば、必ずしもそうではない。「空想」の中身が実行意欲と直接接点の無いもので、自分が本当に具体的に「やりたい」ものではなかった場合は特に。実行して楽しむものと空想で楽しむものは、違う。空想世界の自分が望むことと、現実世界の自分が望むこと。実行と空想とでは、充実感の手段がだいぶ違うようだ。例えば、自分が一流のピアニストになる様子を空想する(夢見る)ことが楽しいからといって、それが現実にピアニスト目指す意欲を示すとは必ずしも限らない。時には現実世界で意欲の持てる具体的物事は空想とは別に存在することもある。しかし、時に両者は混同されやすい。すると努力は進みにくく成果が出にくい(直接意欲がないから)。すると思い通りに行かない現実や自分自身に幻滅したり、「思い描いたとおりの結果(ピアニスト)になれないなら最初から何もしたくない」という気持ちなるなどして、最初の段に書いたような心理に陥りやすいかもしれない(習い事が続かない人のいくばくかはこういうケースもあるだろうか?)。「直接意欲がない」ということは、「実行意欲がない」ということ。それは実現可能な憧れとはいえない。

外の世界での楽しみと、内なる世界での楽しみ。2種類の要素を上手に見分けることは日々を充実させるコツの一つかもしれない。内面で空想することと、現実世界で実行することとの間には、場合によっては夢の中で人を殺すのと現実で人を殺すぐらいの違いが存在していることもある。
仮に空想だけでしか自分の現実の理想や目標が作れないとしたら、その人はまだ「空想する喜び」しか知らない。「実行する喜び」を知らない。自分のなしうるものを知らない。自分を知らない。自分の意欲や可能性を理解していない。
昔誰かが言った。「汝自身を知れ」

空想や憧れや漠然とした「夢」の内容には、自分の中に潜む実現可能な本当の意欲や可能性が象徴的に反映されていることがある。自分の抱く空想や憧れや夢が何を象徴しているのかを解き明かすことは、自分に潜む本当の「意欲」を見つける手がかりになり、その結果象徴的な憧れに基づく現実離れした理想ではなく、現実の意欲につながった実現根拠のある理想や目標作りに役立つことがある。これは後述する。

心に浮かんだ象徴的な空想や憧れを、「象徴ではなく本当の意欲だ」として混同して追い求めるだけでは、今の自分の中に本当はどんな意欲や可能性があるかが見えてこない。そういう状態になった時、人は時に自分に幻滅しやすいのかもしれない。内なる世界を象徴的に表現したものを現実と混同し現実と思い込むこと。それが「幻」だ。何かに幻滅したら、自分の理想や目標は何の象徴だったのか(幻のモトは何だったのか)をチェックしておいた方がいいのかもしれない。幻が消えたぶん、きっと分かりやすい。夢を見ている時は、それが夢という象徴的な世界だとは気付きにくいが、目が覚めれば大概は気付く。象徴的な憧れを投影した物事に幻滅する(=幻が滅ぶ)のは、一概に悪いことではないかも。

さて、心に浮かんだ空想やイメージをそのまま理想や目標にしてただ追い求め幻滅するよりも、ちょっと視点を変えて「自分がなぜそのような空想や憧れを思い浮かべたのか」「何故そういう夢を見たのか」を考えてみるのはどうだろう? その内容は自分の内なる願望や内なる可能性を間接的に象徴していることがある。まるで夜の夢のように。けれどもそれはあくまで「象徴」という間接的な表現なので、その空想やイメージが実際には何を意味しているのかを注意深く解き明かす必要がある。額面どおりには受け取れない。仮に自分の空想が内なる願望や目標を象徴している場合、空想内容をそのまま額面どおりに現実世界で追い求めるのではなく、空想内容が象徴的に表しているものを理解したうえでそれを目指す必要がある。自分の空想やイメージを外部の何かに投影して期待した場合も同じ。
例えば、「有名になることで周囲から認めてもらう」といったタイプの空想(理想・目標)の場合。実は「私は自分の持ち味を自分で認めたり理解したりすることが出来ない。自分自身に十分注目できていない。仕方がないから私の代わりに周囲にそれをやってもらいたい」という心の象徴で、それは即ち「本当は自分で自分の持ち味をしっかり認識したい。自分自身から認めてもらいたい。ちゃんと自分を見てあげたい」という内なる願いの間接的な表現(裏返し)だったりすることがある。そして自分を理解し認めることは、有名人を目指すよりっずっと現実的(な方法)で実現しうる内なる可能性ともいえる。その実現を目指すために今の自分に出来ることは、例え些細なことであってもその時の自分にとって「自分のなしうる最良のもの」かもしれない。
もし自分が象徴的な理想に秘められた己の本当の願いを実現した場合、自分はどんな人間になり、どんな生き方をするだろうか?

自分が追い求めている理想や目標。それが現実に即した意欲や欲求から来るものではなく、単なる空想から来るものだった場合、その空想は自分にとって何を意味しているだろうか? もしもその空想が自分の内なる願望や内なる可能性を象徴しているものだとすれば、その空想が本当の願いの裏返しだとすれば、その空想が象徴する本当の願いは、いつか実現するかもしれない。より現実世界に即した手段や形で・・・

もしも願いがかなわぬときは
連想と投影の魔力
占いのご相談

2007年10月18日 (木)

まろん子

Maronko_2   ・・・天津甘栗が止まりません。

2007年10月14日 (日)

容姿・劣等感・個性3

※以下は占いを通した個人の仮説です。

異性から見た人の魅力

自分の容姿が造形的に評価されるか否かに関わらず、自分に女性的な感性や男性的な感性と思える部分があると感じることは多かれ少なかれ誰にもあるだろう。その感性を使って自分の喜びや幸せを作ったり感じたりすることは、自分の個性の一つ。
人は性別を問わず自分の中に女性的な部分と男性的な部分があるといわれている(当然、性別とは無関係な部分もある)。その2つ(ないし3つ)の割合や性質や使い方次第で、色んな個性が出たり、色んな恋愛のバリエーションが生まれるようだ(もし身体の性別と精神的に大部分の割合を占める性別とが異なると、複雑なことになりそうだ)。

自分の個性に宿る女性的な感性や男性的な感性。普段の言動、ライフスタイル、ファッション、趣味などでその感性を(例え無意識にでも)使っていると、それを見た異性は本能的に、そんな相手の中にある「女性的(男性的)要素」そのものに心惹かれることがある。例え、自分がそれを異性から魅力的に見えるものだとは思っていなかったとしても。ものすごく極端に言うと、周囲に異性がいる限り、自分の感性を有効に使って生きている様子を見せることが異性への最も消極的な自己紹介になりうるようだ(ただし、最も消極的な自己紹介だけで恋が成就することは稀だ)。

人間の恋愛に関わる心理の中に、「自分には無い(女性的・男性的)要素を求める」という無意識の本能があるらしい。その本能がとある異性と遭遇し、相手の中に自分には無い(女性的・男性的)要素を嗅ぎ取った場合、無意識が「心地良さ」や「興味」や「美」や「魅力」という形で意識に向かってサインを発する。そして、そんな「無意識の本能」が嗅ぎ取る 「自分には無い(女性的・男性的)要素」の魅力や美しさは意識が想像可能な範囲を超えていることが多く、決して造形的・表面的なものとは限らない。当然メディアでもてはやされる類のステレオタイプなものだけに限ったりもしない。美や芸術が流行や目に見えるものだけに限らないように。どこをどんな風に嗅ぎ取るかは、謎多き無意識の本能が持つ独自の感覚に基づいている。そのセンサーが感じ取るものは、一般的な「男らしさ・女らしさ」を超え、美や魅力という概念にすら収まらず、「自分から見て何故だか心惹かれるもの・気分よくなるもの」と表現した方がいいのかもしれない。陳腐だが、「言葉に出来ないinteresting」とでも言うべきか?

もし当人の意識がステレオタイプなイメージ(ある意味これも多数決)やそれに基づく劣等感にこだわっていた場合、その人はステレオタイプの範囲外にある魅力をなかなか感じ取れない。無意識の本能サインを見落としがちなのだろう。それどころか、サインを頑なに拒んでることさえあるかも。「こんなもの魅力とは認めたくない!」と。
恋の占いだと、ステレオタイプに拘りすぎて恋愛運を自ら狭めている暗示が出ることもある。
・・・だが古今東西、無意識の本能のサインを柔軟にキャッチしたお陰で、「彼女(彼)はいわゆる『女らしい(男らしい)人』でもなく、『容姿が美しい』わけでもなく、特別なところも無く地味で平凡なんだけど、なぜかこの人を愛したくなった(愛したら幸せだった)。」という恋はいくらでもある。
「個性」を履き違えた勘違いや自分の個性が分からない(=自分が持てない・見失っている)ゆえに劣等感のある人、他人の価値観やステレオタイプや多数決に弱くなっている人、劣等感とまで言わないが何となく自信の無い人、自分の容姿やモテないことをコンプレックスにしている人は、そんな上に書いたような恋愛を、本当は望んでいるんじゃあるまいか。そしてそのためには、自分の中で幸せな恋が出来る環境を整える必要がある。自分含め「生きてる人間の愛し方」を知っておく方がいいのかも。

時に劣等感を抱えた上での「恋人がほしい」という切ないまでの願いが、「しっかりとした(安心できるだけの)自分の自尊心がほしい」という願いの裏返しならば、裏の本当の願いが叶った時、すなわち、このテーマの1で書いたことを通して愛すべき本当の「自分の個性」を知った時・・・それを元に、劣等感に歪められていない本当の自分に合う恋の姿を知ることだって出来るだろう。当然、恋人を単なる自尊心の保証書にせず自分と同じく一人の人間として愛せるような恋愛ができるようになっているだろう。自分の中で、幸せな恋の出来る環境が整ったのだ。

カードは言う。「運は自分が作っている。自分が変われば、運は変わる。恋愛運も変わる。」

おわり

人間を楽器に例えた恋の話
「必要とされる」必要が無い

2007年10月12日 (金)

容姿・劣等感・個性2

※以下は占いを通した個人の仮説です。

自分を幸せにする素質・能力≠他より優れた素質・能力

日本でもいわゆる「個性を持たなくては」「個性を大事にする」「これからは個性を伸ばさなくては」 という風潮が出てきている。これ、時々「自分にしか持てない特別な素養を持っていなければ」とか「他人より何処か一つでも優れている所がなければ」という勘違いから、「自分の中に人と違う特別な素養や他より優れた部分がないと幸せじゃない」という勘違いを生んでしまうことが時々ある。これもある意味「個性のはき違え」だと思う。ヘタをすると自分の個性がいつまでもわからなくなりそうなこの勘違い、やっぱり多数決に弱いからなんだろうか?
そんな根拠のない履き違え・勘違いが、「私は他より優れた能力は一つもないし容姿も悪い。特別なところも無い。私には何のとりえも無い。だから私は人より劣っている。だから人並みの幸せは得られないのでは・・・」という根拠のない不安や劣等感を作りやすくするのかも。

仮に、「自分にしか無いもの・自分にしか出来ないこと・他人にはマネできないこと」を「個性」とするならば、それは極論すると「自分の人生を作ってゆくこと」や「自分の喜びや幸せを作ること・感じること」になるのかもしれない。これは他人が肩代わりできないから。自分の感じる喜びは自分にしか味わえないから。そこがうまく行けば、ゆくゆくは「自分の価値観を作る」ことにも繋がるのだろう。自分という存在が持つ可能性を愛し、望んだ時、容姿や周囲の評価や多数決や他者(時には恋人)に依存しない「自分の自尊心(劣等感に変化しない自尊心)」を作ることに繋がるかもしれない。これもある意味「個性(の可能性を)伸ばす」と言えるのでは?
その1の最初の話に出た2:「私が出会いを得る日はいつですか?」は「私が自分の自尊心を作れる日はいつですか?」かも。3:「異性から愛されれば劣等感が癒されて自信が持てるのですが」は「異性」を「自分」に置き換えてみればいい。
例え誰かがあなたに価値を見出し愛したとしても、あなたがそれを喜んで受け入れ同意しない限り、愛される喜びは生まれない。例え周囲が自分をこき下ろす価値観を持っていても、自分がそれに同意しない限り、劣等感は生まれない。

容姿に悩んでいなくても、「愛したい」より「愛されたい」が非常に強い人の場合は3と共通する心理がカードに出る。「恋人に愛されることで自分の価値を証明し、自尊心を維持したい」心理が人並み以上に「愛されたい」という気持ちに関わっていることをカードが示した例が結構ある。そしてその場合、振られたり恋人がいない時期になったりすると、否定された気分になったり自信をなくし得体の知れない不安を感じやすいようだ。「自分を見失ってしまったような気分」とも表現できるだろうか?  
多分、「自分(の個性が)わからない」状態だとコンプレックスの「モト」となる劣等感を持ちやすくなるのかもしれない。自分の存在が持つ可能性を知ることや、それを愛し必要とすることが出来ないでいるわけだから。
同じく、かつてある程度自分の個性を知っていたのに何らかの理由で「個性を見失った(自分を見失った)」状態になった場合でも、自分の価値を認識・識別するのが困難な状態に陥れば劣等感が生まれやすいかもしれない。

結局、自分がわからないことで自覚できない自分の価値を、誰かに保証してもらいたい気持ちが、「恋人(自分の代わりに自分を愛してくれる人)」や「他人より優れた部分」を探し求める気持ちに繋がっているのかも。「自分が分かってくる」ということは、自我の発達とも深く関わっているようだ。そういえば昔のエライ人が言った。「汝自身を知れ」

恋愛の場でも、「個性」は大きな意味を持っている。次回は容姿に限らず異性から見て魅力的に感じる人の個性。特に、人の個性が持つ女性的・男性的な要素に出来るだけ迫って書いてみる。

2007年10月 8日 (月)

容姿・劣等感・個性1

※以下は占いを通した個人の仮説です。

そのコンプレックス、本当に「容姿」のせい?

占い師なので、老若男女から様々な恋愛相談をよく受ける。
たまに、若い女性を中心にこんなことを言う人々がいる。それらの話を要約すると・・・
その1:「私は自分の容姿がコンプレックスで自信が持てず、この歳になっても異性と交際したことが無い。その事実が更に自分へのコンプレックスを重ねてしまうのですが」
その2:「容姿への劣等感で積極的に出会い探しをすることが出来ない。私が出会いを得る日はいつですか?」
その3:「異性から愛されれば劣等感が癒されて自信が持てるのですが、ブスには一生無理でしょうか?」
・・・悩みがこれら3つの複合型になってる場合もあるようだ。
人間、見た目が「美しい」とされるのは一生のうちでホンの僅かな時間で、そんな不安定なものをコンプレックスが作れるほど自分の価値や幸せや自尊心のよりどころにするのはとても怖いことなんじゃないかと思う。年月と共にどんどん自尊心が下がっていきかねない。恋愛に置き換えるなら、「人」ではなく「視覚情報」に恋し、それに基づいて人生設計をしてしまいかねないわけだ。自分の幸せと(生きる)価値や可能性が分からないから(=自信がない)こそ、信頼できない不安定なものをよりどころにするのかも(何をよりどころにしているかでその人の自信の度合いがわかったりするのだろうか?)。
1~3までの話を詳しく聞きつつ占うと、大概は本人のコンプレックスは容姿のせいではないと出る。むしろ、自分にとっての自分の価値が何かを見つけられないために自分で自分を貶めてしまい、根拠のない劣等感を作っているのだが、それに気づかずに劣等感の原因や理由の説明を目に付く判りやすい所(例えば容姿、学歴など)に求めてしまっている暗示がでる(その場合、例え容姿や学歴が変わっても劣等感は残るかも)。そもそもモトとなる劣等感がないと、自分の何かを口実にして自分を貶めるという発想が湧かないかも。1~3までの場合、「容姿」を自分を貶める口実にしている感じ。それが高じて行き過ぎたダイエット、または美容整形(例:マイケルジャクソン)に走らせることもあるらしい。行き過ぎたダイエットとは逆に、劣等感によるストレスが過食を誘発して太ってしまうケースもある。そんな時は体重や脂肪をとる前に根拠のない劣等感をとった方が良さそうだ。それが肥満や過食やダイエット失敗の原因だから。
なもんで、「太い体型は恥ずかしい・みっともない」という風潮は、ダイエットブームと同時にダイエットが失敗する現象を流行らせている気がする(実際にその方が儲かる。色んなダイエット法で商売できるから。自尊心や人格の形成が未発達な子供や若者達に劣等感を植え付けると、特に儲かる)。
もしも自尊心や人格が育ちきっていない子供や若者達が、「容姿を恥じること」と、「自己の存在そのものを恥じること」の区別がつかなくなっていたとしたら? 

本来、一人一人異なる可能性を秘めた別々の人間同士を比べて絶対的な根拠のある優劣をつけること自体が不可能な作業なのだが、いわゆる「多数決」に弱い日本人は目に付く所にコンプレックスを投影しやすいのかもしれない。「自分にとっての自分の価値」はそっちのけで世間の多数が好む条件や世間の好む価値観(世間から見た利用価値)だけに忠実な余り、そこから外れていると疎外感や劣等感を持ったり、逆にそんな人間を馬鹿にする性質は、いじめ問題にも関わっているのだろうか。昔ながらの全体性を重んじる気質は、使い方次第で平和に助け合うことも出来れば、他人や自分を死に追いやるまで貶め虐げるような使い方も、出来てしまう。
時には、劣等感を外見や世間体や風潮などの「外部」に投影せず、劣等感のおおもとの材料になっているネガティブな感情と直接向き合うことが必要になるかもしれない(これは優越感や不安感にも言えること)。

コンプレックスを持っている人で「いい恋愛をしたことがない」という場合は、恋の理想が自分の本当の好みではなく(実際は根拠のない)コンプレックスに基づいて作られているので、異性を見る目や判断が曇ってしまい、自分を本当に幸せにする恋を選ぼうとはしていないこともある。 劣等感に根拠が無いので、それを材料に作り上げた理想や幸せの形にも根拠が無い。以前そんな小話を書いたことがある。「コンプレックスを持っていなければ興味が無かった」ものを追い求めていないかどうか・・・

理屈や頭では分かっていてもなかなか取れないコンプレックス。それを癒すには、「私は劣ってない」「私は優れている」と無理やり表面的に思い込むよりも、そこから頭を離して自分の好きなこと、得意なこと、興味あることを探して実行する事を繰り返しながら、自分にとっての本当の喜びや幸せを知る方が良さそうだ。例え他人と同じ事をしていても、そこから感じる喜びは自分にしか味わえない唯一無二のもの。自分にしか味わえぬ喜びを作り自分に充実感を与えることができると、自己評価は上がる。それは、自分を知ること、自分の個性が秘めた幸せの可能性(=自分自身にとっての自分の価値や使い道)を見つけることでもあるんじゃないだろうか。昔の人曰く「汝自身を知れ」
じゃあ、最近注目されている「個性」って何だろう? 
自分の個性は、どこにあるのだろう?

つづく

「必要とされる」必要が無い
人間を楽器に例えた恋の話
True Colors
短所含めてありのままの自分を愛して
不安の正体を探ると・・・
コンプレックスをバネに・・・?

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
フォト
無料ブログはココログ